皓矢は永達三人を連れて、急ぎ足で詮充郎の執務室に向かった。
もうすぐ日が暮れようとしている。空は曇天で、いつ雨が降ってもおかしくないほどに辺りの空気は湿っていた。
あっという間に結界を越えて、白い扉を通る。玄関は誰もおらず、静まり返っていた。皓矢はどんどん奥へと進み、先日と同じ部屋にたどり着いた。
「お祖父様、皓矢です」
ノックをするとすぐに掠れた声で返事が聞こえた。
「入りなさい」
「あの……他にも連れが……」
「わかっている、みな入りなさい」
ゆったりと朗々と言うその言葉は、急いでいたため上がっている息を整えて礼儀正しく入らなければならないと、一同を脅迫しているような圧があった。
「よお、クソジジイ」
だが永はそんなことは構わず、一人先にずんずんと部屋へ入っていった。詮充郎の机目掛けて歩く。
「──三日ぶりだな」
読んでいる新聞から視線を離さずに、次のページをめくりながら詮充郎は言った。
負けじと永も軽口で答える。
「なあに、指折り数えて。そんなに僕らに会いたかった?」
「もちろん。私は何十年と待っていたのでね」
「ぬかせ」
唾でも吐きそうな勢いの永を蕾生が嗜める。
「永、口喧嘩してる場合じゃないだろ」
言われた永は口を尖らせて蕾生がいる位置まで戻った。代わりに皓矢が一歩進んで申し出る。
「お祖父様、お願いがあって来ました」
「ああ、わかっている。星弥のことだろう?」
言いながら詮充郎は読みかけの新聞をたたみ、積まれた書類の一番上の用紙を手に取って言った。
「ご存知だったんですか?」
皓矢が驚いて聞けば、詮充郎はかけていた老眼鏡を外し、皓矢の方を向いて冷たい表情で言う。
「報告はきておるよ。お前がどう対処するか見定めていた。その様子ではできなかったのだな?」
「申し訳……ありません」
皓矢が項垂れると、詮充郎は落胆を隠さずに大きく息を吐いた。
「当主になる者が情けないぞ。外部から助けを呼んだ挙句、失敗するとは」
「……」
「星弥を連れてきなさい」
「ですが、お祖父様──」
皓矢が言いかけた言葉を遮って、詮充郎は苛立たしげに威圧をかけて命令した。
「星弥を、ここに、連れてきなさい」
「はい……」
従うしかない皓矢が力無く返事をして振り返った時、部屋のドアを開けて入ってくる者がいた。
「お嬢様をお連れしました」
「!!」
秘書の佐藤が軽く会釈をした後、移動式ベッドを押しながら部屋に入ってくる。そこには星弥が寝かされていた。
永も蕾生も突然のことに驚いて一瞬動けなかった。鈴心は佐藤の澄ました顔に嫌悪感を表している。
「佐藤さん! あなた、家に行ったんですか!? いくらあなたでもこれは過干渉だ!」
皓矢は我を忘れて怒鳴った。だが、佐藤は無表情を崩さずに一礼して、感情のない声で謝った。
「申し訳ありません。博士のお時間の無駄を省くために出過ぎた真似をいたしました」
「ああ、いい。手間が省けた。皓矢も落ち着きなさい」
詮充郎と佐藤の間では普通のことなのか、逆に皓矢を嗜めながら詮充郎は立ち上がる。
「……」
皓矢は何も言えなかったが、顔をしかめ続けていた。
ふとすると佐藤はその場から離れて部屋のドア付近で待機している。足音も聞こえず、一瞬の出来事だった。
「なるほど。とうに諦めていたこの子に発現するとはな……やはり奥が深い」
昏睡を続ける星弥の側まで来て、その顔をしげしげと見つめながら詮充郎は笑った。
「お祖父様、星弥は──」
「周防よ、そちらの相棒が鵺化する条件はなんだったかな?」
皓矢を無視して永に向き直った詮充郎は、半ば試すように話しかける。
「それは、ライが精神的に、あるいは肉体的に大きな衝撃を受けた時に……」
「そうだな、まあ、間違ってはいない。星弥にも同じことが起こったのだろうよ」
永の答えに満足げに頷いた後、込み上げる喜びに肩を震わせながら詮充郎は続けた。
「星弥はお前達を友達と言った。『お友達』を欺いて私に会わせた精神的ストレス、ここで鵺の遺骸を目の当たりにし、唯の運命を知った衝撃……」
「まさか……」
蕾生から信じられない気持ちが口をついて出る。そんな蕾生に詮充郎はニヤリと笑いかけた。
「条件が揃っているだろう?」
「銀騎さんは、やっぱり……」
その結論に先に辿り着いていた永は絶望感のままに呟く。
「お祖父様! それ以上は──」
皓矢が大声で阻止しようとするも叶わず、詮充郎は高らかに謳うように恍惚な笑みとともに言い上げた。
「そう、星弥は鵺化しようとしている! 素晴らしい! ついに私は鵺を作り出すことに王手をかけたのだ!」
「こ、の──」
蕾生は言い知れない怒りを感じていた。孫として育ててきた者に対する仕打ちにしても、その孫が人でなくなろうとしていることを喜ぶのも。目の前の老人の全てが不快だった。
「なんてこと……お兄様はご存知だったんですか!?」
鈴心が責めるように問いただすと、皓矢は苦々しげに歯を食いしばった。
「ああ……だからなんとしても星弥は目覚めさせなければならない」
その言葉を聞いた詮充郎は烈火の如く怒り叫ぶ。
「馬鹿を言うな、皓矢! この子はその為に生まれた子だ! 実験は成功しようとしているのに!」
「お祖父様! 星弥の実験は凍結したはずです! この子には普通の人生を送る権利がある!」
食い下がる皓矢にますます怒りを増して、詮充郎は興奮しながら言い放つ。
「では、その凍結を今ここで解除する。ウラノス計画は再び動き出すのだ!」
「お願いします! 星弥だけは見逃してください! 萱獅子刀を使わせてください、因子の沈静化を図るんです!」
皓矢の態度は詮充郎にとっては醜態以外の何者でもない。そんな皓矢に向けて大きく息を吐いた後、詮充郎はまた机に戻りながら冷たく言った。
「……あまり失望させるな、皓矢よ。そもそもあのレプリカは鵺化を促すためのものだ。逆の用途に使うなど言語道断!」
そうして机のボタンを押しながら、怒りに任せて叫ぶ様は鬼のようで、それまで必ず余裕を垣間見せていた詮充郎はもうどこにもいなかった。
「ついにこれを使う時が来たのだ……」
後ろに現れた棚から萱獅子刀を取り出し、その刀身を引き抜く。鈍く光る刃には非情な鬼の姿が映っていた。
「力を持たないお前が使えるのか? それは呪具なんだろ?」
時間を稼ぐつもりで永が尋ねると、詮充郎は常軌を逸した笑みで、机の引き出しから白く光る何かを取り出して見せた。
「案ずるな。私にはこれがある」
その手にあったのは小ぶりの乳白色の石のついたアクセサリーのようだった。青白い線が光るその石の周りは異国風の蝶のようなモチーフで飾られている。
それを見た瞬間、鈴心は肩を震わせて激しく動揺した。だが、詮充郎の狂ったように怒り喜ぶ様に気をとられていたのでそれに気づく者は誰もいなかった。
「それは?」
冷静に永が問えば、自尊心の塊である詮充郎は得意げに説明する。
「銀騎家に代々伝わる家宝、幽爪珠──その成れの果てだ。これには我が息子がこめた術式が施されている。私でも扱える、な」
「そんなことが? 考えられない。呪力なしに発現する術なんて」
「皓矢よ、お前の父は偉大な陰陽師だったのだ。その血を引いているお前が、小娘一人の命乞いなど恥を知れっ!」
もはや詮充郎は妄執的な感情に囚われており、皓矢の言葉など耳に入っていなかった。
「お祖父様──」
「皓矢、結界を張りなさい。これから偉大なる鵺が顕現する」
「お願いします、お祖父様……星弥を、星弥を……」
諦められない皓矢はそれでも祖父に懇願を続ける。悲痛な声が部屋中に響く。
「この腑抜け者めが」
それを煩わしそうに顔を歪め、舌打ちとともに詮充郎は部下へと目配せをした。
「──承知致しました」
入口付近で控えていた佐藤は短い返事とともになんの前振りもなく、素人の永や蕾生にもわかるような堅牢な結界を部屋中に張った。
「佐藤さん、あなたは──何者なんですか!?」
皓矢すらも初めて見たのだろう、驚いて言えば佐藤は無表情のまま静かに答える。
「わたくしは博士の忠実なる僕でございます」
やはり只者ではなかった、と永は心の中で舌打ちする。先日ここで会った時はもちろん、説明会で初めて見た時もどこか異質な雰囲気を感じていたのに。だが、今はそれを悔やんでいる時間はない。
「さあ、始めよう! 鵺との逢瀬を!」
歓喜に震える詮充郎の声が、室内に響き渡った。
舞台俳優のような仰々しさで詮充郎は高らかに宣言し、萱獅子刀に白い石飾りを掲げ合わせる。すると石が白く光り、続いて刀身が輝き始めた。
「うっ──」
「星弥!?」
その声をいち早く察知して鈴心が寝ている星弥に駆け寄った。
「あ、あ、あああああ──!」
意識もないまま、苦痛に顔を歪ませて叫ぶ星弥を見て、鈴心は金切り声を上げる。
「星弥ァ──!」
このまま何も出来ずに星弥を失うしかないのか。皓矢も永も打開策を必死に考える。その間も星弥は悲鳴とともに苦しみ続けた。
その苦痛を与えているのは、祖父であるという残酷な事実。そこに星弥も詮充郎も気づかない。悲劇を通り越して地獄のようだった。
「ふふ……いいぞ、もうすぐだ」
期待を込めて星弥を見守る詮充郎の腕を、突然力強く掴む者がいた。
「どうした? ケモノの王よ」
蕾生は詮充郎の手首を、骨が軋むほど握る。
「ふざけるな……あいつの生命はお前のものじゃない……」
その顔は怒りに燃えており、髪の毛が逆立つほどのオーラを放っていた。黒く、とても禍々しい。
「いけない、ライくん! 落ち着け!」
しまった、と永は思った。
星弥を助けることに集中し過ぎて蕾生に気を配ることができていなかった。優しい蕾生がこんな状況下で何をするかは、容易く予想できたのに。
「ぐああっ!」
詮充郎が痛みのあまり刀を握る力を緩めると、蕾生はそれを奪い取って力任せに床に投げ捨てた。
「なっ──」
「あいつの生命も、俺達の運命も! お前が好きにしていいものじゃない!」
蕾生は怒りに任せて怒鳴り散らす。眼前の詮充郎に対してどんどんとそのボルテージを上げていった。
「ライ!!」
「お前は、許さないッ!!」
もう、永の声も届いていなかった。蕾生を取り巻く黒いオーラは次第に靄のようにはっきりと目に見えるようになり、雲のような形を成していく。
「ライ! よせ!」
「ダメ、ライ!」
永と鈴心は同時に蕾生の元へ走る。
「うわあっ!」
「ああっ!」
だが、既に蕾生の全身は黒雲に覆われてしまい、その黒雲に二人とも弾かれた。
「お祖父様!」
蕾生のすぐ側にいた詮充郎をタックルするように皓矢が覆い被さり、そのまま数メートル離れる。
「あ、ああ……」
「これは──」
詮充郎は苦しげに喘ぎながらも目の前で晴れていく黒雲に歓喜の眼差しを投げた。
皓矢は初めて感じるソレの禍々しい気配に顔を強張らせる。
「ああ、これだ。私が待ち望んだ……遂にもう一度まみえることができる。ケモノの王!」
頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎。
そこにいる獣は紛れもなく、鵺だった。
「──」
鵺は怒りをたたえた瞳で詮充郎をじっと睨んでいる。
「ラ、ライ、くん……」
「そんな、今回も──」
永と鈴心が絶望して足から崩れ落ちる。
「あ、う……」
「──ッ!」
鵺の顕現と同時に星弥から苦しみが消え、もう一度ベッドに倒れ込んだのを見た皓矢は、式神の青い鳥を飛ばして星弥のベッドを包む結界を張った。
「星弥の鵺化が……!? オリジナルが顕現したせいか?」
動揺しながらも詮充郎は分析することを止めない。そんな詮充郎の態度にますます怒りを表し、鵺は低く唸る。
「ああ、これだ、この姿だ! 黒い毛、燃えるような紅い目、白く煌めく爪──私が、いや私達が焦がれていた鵺の姿がもう一度ここに!」
歓喜とともに興奮して叫ぶ詮充郎の前に、皓矢が立ちはだかった。
「お祖父様、お下がりください。後は僕が」
その冷静な物言いを聞いて、詮充郎は満足気にしていた。
「ふ。鵺が現れてようやく肝が据わったか」
「握虚……」
皓矢が鵺を見据えて言葉を唱え始める。すると鵺の身体が石のように固まった。
「──ガッ」
動きを止めた鵺はその場で踏ん張るように立ち、小刻みに身体を震わせながら皓矢を睨む。
「お兄様、何を!?」
鵺となった蕾生が息苦しそうにするのを見て、鈴心が皓矢に向かって叫ぶ。
「あまり話しかけないでくれ、鵺に集中したい。僕はこの時のために一族が研磨してきた対鵺の術を仕込まれたんだ。こいつを生け取りにするためにね」
鵺から視線を外さずに言う皓矢の言葉を詮充郎が続ける。
「そう。我らには鵺の遺骸しか手に入らなかった。サンプルとしては不十分。生きたままの情報こそが! ──新たな世界への扉を開けるのだよ」
比喩表現にも聞こえた最後の言葉が永は妙に気になった。だがそんな揚げ足を取っている暇はなかった。
「ライを生きたまま、研究材料に!?」
「ふざけるな! そんなことはさせない!」
鈴心も永も憤然と抗議したが、皓矢は二人には目もくれず鵺を注視しつつ会話を続ける。
「では死ぬか? また来世に望みを繋げて?」
「そうだ! ライは僕らが連れて逝く!」
「……っ」
はっきりと言ってのける永に対して、鈴心が言葉に詰まる。その様子に皓矢は少し笑った。
「転生できる確証は?」
「それは──」
皓矢の言葉に永も一瞬戸惑いを見せる。そんな二人に向けて皓矢は力強く言い放った。
「君達のやっていることはただの先延ばしだ。もう終わりにしよう。いや、呪いはここで終わらせる! 芯絶胆!」
叫ばれた言葉が鵺にかけた術を強めたのがわかった。鵺は雷に打たれたように大きく身体を震わせ苦悶の表情を見せる。
「ガアァッ!」
「ライ!!」
永は考えた。これまでの九百年間を振り返って考える。
何か、何かないか。鵺をライに戻す方法? いやせめて、鵺となったままでもいい、ライの自我を呼び覚ます方法を。
──九百年だぞ!? おれは何をしていた! どうして何も思いつかない!!
永がそんな後悔に取り憑かれかけた時、星弥を守っていた青い鳥が甲高く鳴いた。
「ルリカ!? どうした!」
「う……ん」
昏睡状態だった星弥が少し身じろいだ後、目を覚ました。
「星弥! 気がついたんですね? 気分は?」
鈴心がベッドに駆け寄ったが、皓矢が張った結界のために近づけなかった。だが、声は届いている。
「うん……なんか、まだちょっとボーッとする──。えっ!? 何あれ?」
起き上がった星弥は目の前で兄が黒い獣と対峙しているのを見て驚いて声を上げた。
「ライが鵺化したんです。貴女への仕打ちにとても怒った後……」
「ええ? なんで? ……あれ? なんか周りが変」
事態が飲み込めていない星弥にとっては、整理がつかないような光景だった。更に自分の周りに厚いガラスのような壁を感じて首を傾げる。
「お兄様が貴女の周りに結界を張りました。危険ですから動かないように」
鈴心が説明すると、星弥は納得がいかずにもう一度確認した。
「どうしてわたしだけ!? ねえ、あれは本当に唯くんなの?」
「そう、です……」
鈴心は俯きながら答える。絶望に塗れた顔で。
そんな痛々しい鈴心の姿を見た星弥は、結界の壁をまるでガラス窓を叩くようにドンドンと打って皓矢に訴えた。
「兄さん! 出して! わたしをここから出してよ!」
「星弥! じっとしていなさい!」
皓矢は鵺に術をかけながら、余裕のない声で星弥に向けて怒鳴る。少しでも気をとられたらこちらが殺されると直感していた。
「兄さん! 唯くんが、唯くんが泣いてる! 苦しいって泣いてるんだよ!」
「……ガッ、アァ……」
鵺の苦しむ姿と星弥を見比べて、鈴心は目を丸くした。
「星弥、わかるんですか?」
星弥は更に苛立って結界を拳で叩き続ける。
「すずちゃんにはわかんないの!? 周防くんはわかるんでしょ? ねえ、泣いてるよ、側にいてあげなくちゃ……」
そんな星弥の姿に永は鳥肌がたった。
「何なんだよ、お前──」
どうしても破れない結界に頭を押しつけて、星弥がその名を呼ぶ。
「蕾生くん……」
「ガアアァ──」
その声の方向に耳を傾けて、鵺は大きく息を吐いた。
「ライ──?」
永が注視していると、鵺の目が真っ赤に光り、皓矢にかけられた術を破った。
「アアアアッ!!」
「──しまった!」
星弥に気を取られ過ぎた。皓矢は次の術を発動しようとするが、鵺の怒りの咆哮はそれをたやすく跳ね返す。
「オアアアアッ!!」
鵺は咆哮し続け、身体中の毛を逆立てている。
鵺は叫び声だけで後方の壁を破っていた。上辺が剥かれるとガラス張りの水槽が顔を出す。
皓矢の危険を察知した青い鳥は星弥の結界を解き、すぐさま皓矢の下へ飛んだ。その青い大きな羽が主人を壊されていく壁の破片から守った。
「アアアアアア──!」
それは詮充郎が万全を期した防弾ガラスだったのだが、いとも容易く割れた。その中から鵺の遺骸が二体、鵺を取り巻くように宙を彷徨い始める。
「なんと──!」
目の前の光景に詮充郎は目を見張った。
二体の遺骸は、鵺を囲みグルグルと回った後突然弾けて跡形もなく消えた。床に石のようなものと何かの破片が乾いた音を立てて落ちる。
「ガハアッ──!」
残された鵺は咳き込むように息を吐いた。
その口元から同じような鋭い形の石が飛び出して床に落ちた。その何かはわからない三つの物体がチカッと光った次の瞬間、鵺の身体が金色に光り始めた。
「あれは──」
その物体三つに、永は見覚えがあった。しばしそれに目を奪われていたが、鈴心が叫ぶ声で我に返り鵺の方を見やる。
「ハル様! ライが!」
「え──」
それまで禍々しいほどに漆黒だった毛並は全て金色に、瞳も黄金に煌めき、まるで気高い狒々のように穏やかな表情で立つ鵺の姿があった。
「ライくん、なのか?」
おずおずと永が手を伸ばすと、金色の鵺は怒る素振りを全く見せず、永をじっと見つめている。
「お、黄金の鵺だと? そんな、そんなものは文献にも載っていなかった。そんなものがあるとは……」
詮充郎も狼狽えながら鵺に手を伸ばした。
「ガアアッ!!」
すると鵺は詮充郎を見た途端に怒り猛って飛びかかり、その老体を組み敷いた。
「うわあああっ!」
「お祖父様!」
皓矢が青い鳥とともに詮充郎を助けようと身を挺するも間に合わず、鵺の鋭い牙が詮充郎に迫る。
「お祖父様!」
星弥もまたよろめく足をおして駆け寄って詮充郎を庇おうとその体に縋りついた。
「ライくん! もういい! ……こっちへおいで?」
永がそう叫ぶと、鵺はピタリと動きを止め、詮充郎の上からどき、ゆっくりとした足取りで永の側に座った。
「ライくん、本当にライくんなのか?」
永が呼びかけると、鵺は黄金色の瞳をくるりと動かして主人だと認めるように永を見つめていた。
「ライ、あなた──」
鈴心も側に寄ろうとした時、詮充郎が掠れた声で息を荒らげながら言う。
「皓矢、何をしている。とても珍しい鵺が顕現したのだ、あれを何としても我々の手に! 落ち着いている今が好機、術をかけろ!」
懲りない詮充郎の言葉に、永も鈴心も鵺を庇うように立ちはだかる。
しかし皓矢は静かに首を振った。
「いいえ、お祖父様。もうやめましょう」
「馬鹿を言うな! 絶好の機会ではないか!」
「先程までの黒い鵺ならそれもできたでしょう。ですが、あれはダメです。勝てる気がしません」
予想に反した皓矢の言葉に詮充郎は我が耳を疑った。
「な──んだと?」
「お祖父様、少しお怪我をされています。手当を……」
星弥がその腕を気遣うと、詮充郎はその手を振り払って当たり散らした。
「黙れ! 元はと言えばお前が鵺化出来なかったのが悪い! この出来損ないめが!」
「……ッ」
星弥が傷ついたような表情を見せると、鈴心は瞳に暗い光りを宿し、低い声を出す。
「詮充郎、星弥を愚弄するなら、今ここで貴方を殺します」
「グルルル……」
それに呼応して鵺もまた低く唸る。
「生意気な口を聞きおって……」
詮充郎がわなわなと震えながらも次の言葉が出てこない隙に、皓矢は打ち捨てられた萱獅子刀を拾って鵺に近づいた。
「何を──」
永が鵺を庇おうとしたが一歩遅く、皓矢は萱獅子刀の切先を鵺の額に当て何かを述べた。
「鎮虚温子……還」
するとその刃がまた鈍く光って、鵺の身体を黒雲が包んだ。
「てめえ! 何しやがった! 油断を誘ったんだな!?」
永が怒ってくってかかると、皓矢は抵抗せずに静かに言った。
「よく見ていなさい」
「え?」
「ああっ!」
鈴心の歓喜の声が響く。黒雲が徐々に晴れていく。そこには人間の姿に戻った蕾生がいた。
「ライ……くん」
「ライ……!」
蕾生は立ち膝のままで、その目をゆっくりと開ける。自らの手元を見ながら懐かしい声を出した。
「俺は、戻ったの……か?」
「ライくん!!」
頭がまだはっきりとしていない蕾生に、永が勢いよく飛びかかった。
「わあ!」
その下敷きになった蕾生は永ごともんどり打って倒れる。
「ライ!」
さらにその上から鈴心がダイブした。
「ぐえっ!」
「ライくん、ライくん! 良かった! 良かった! 元に戻れるなんて! こんなことがあるなんて!」
「ライ……良かったです、ほんとに良かった」
永も鈴心も涙でべしょべしょになった頬を蕾生にぐりぐり擦り付けて喜ぶ。
「わ、わかった、から、降りてくれ……苦しい──」
そんな三人の様子を眺めながら皓矢はほっと息を吐いた。
「ああ、上手くいったようだ」
「良かった……」
星弥ももらい泣きをしながらそれを見守った。
「な、何ということを──何ということをしてくれたのだ! 皓矢ァ!!」
その状況を唯一良く思わない詮充郎は怒髪天をつく勢いで叫んだ。
だが、皓矢はそんな祖父に憐れみの視線を落として静かに言う。
「お祖父様、潮時です。鵺の件は僕が当主として引き継ぎ……ッ」
言い終わらないうちに膝を折った皓矢を星弥が慌てて支えた。
「兄さん!?」
「大丈夫、大丈夫だ。少し、力を使い過ぎただけだ」
息も荒く、とても疲れた顔だったが、皓矢はまた立ち上がる。
「お兄様、ライを元に戻してくれて、ありがとうございます」
鈴心も側まで駆け寄って嬉しそうに皓矢に礼を述べた。
「良かったな」
「──はい!」
その頭を撫でながら笑いかけてやると、鈴心は一筋涙を零して頷いた。
次に皓矢は永に向かって軽く頭を下げる。
「周防くん、虫が良過ぎるかもしれないが……お祖父様を許してくれないか。今後は銀騎家が全霊をかけて君達をバックアップするから」
「皓矢! そんなことは許さん! 鵺は、鵺は私の物だ!」
その後ろで喚く詮充郎の言葉は既に負け犬の遠吠えと化している。そんな哀れな老人に、永は真剣な面持ちで話しかけた。
「詮充郎、こうなったら腹割って話そうぜ。何故そんなに鵺にこだわる? 前回、おれ達が死んだ後、お前に何があったんだ?」
すると詮充郎は怒りで顔を真っ赤にして吠えた。
「何が、あった──だと? そうか、お前達は何も知らないのだな。私の、私の紘太郎をあんな目に合わせておいて、よくもそんな態度でいられるものだ!!」
「紘太郎──お前の息子か」
「そうだ、鵺を手に入れることは、紘太郎の死に報いることなのだ!」
蕾生もまたようやく立ち上がって詮充郎に言う。
「なら、聞かせてくれ。あんたが何を思って、何を背負ってここまできたのか」
詮充郎は口惜しそうに歯を食いしばりながらも語り始める。
「いいだろう。聞かせてやる、あの日のことを……」
詮充郎は一つ息を吐いた後、怒りを湛えたまま静かに口を開く。他の者はただそのしわがれた細い声に意識を向けていた。
「私は偉大なる陰陽師、銀騎朝詮の血を引く一族の嫡男として生まれたが、呪力をほとんど持っていなかった。私の父はそれに失望し、私には見向きもせずに鵺ばかりを追っていた」
それはまるで自らを省みる独白のように淡々と続けられた。
「銀騎家では呪力を持たない人間がどうなるか──例外なく放逐される。故に私の母も、呪力を持たない子を産んだ罪で追放された。だが、私はただ一人の嫡子であったため、辛うじて追放は免れた。それでも銀騎の家に居場所などない。自室に籠って鵺に関する文献を読み漁り、呪力がないなら化学的なアプローチはできないかと勉強を続ける日々だった」
だから化学にこだわってここまでの施設を持つまでになったのか。永は詮充郎の病的なまでの鵺への化学的執着の根拠がわかった気がした。
「年頃になって、一族の中から優秀な娘が選ばれ婚姻させられた。そこからが真の地獄の始まりだった」
一瞬だけ声音が柔らかくなったが、詮充郎はさらに憎しみをこめて語る。
「妻は、心の優しい女だった。こんな私にも甲斐甲斐しく尽くしてくれた。だが一族の長老達は人を人とも思わない命令を私達夫婦に下した」
そう語ってからようやく周りの人間に気づいたように、視線を永達に向けて詮充郎は言う。
「まだ子どものお前達にはわからないだろう。妻に一族から優秀な男を与えるから、その子どもを次期当主として養育しろと言われた私の屈辱が!!」
「──!」
地獄、と言われたその意味を噛み締めて星弥は思わず口元を覆う。皓矢も顔をいっそう曇らせて聞いていた。
「私はそれを断固拒否し続けた。そんなことになれば、その子どもが当主になる頃には、私は銀騎から追い出される。偉大なる陰陽師・銀騎朝詮の血を最も濃く受け継いでいるのは私なのだ! たとえ呪力が表に出なくとも、血は、血は嘘をつかない! 私は遂に妻と実子をもうけることに成功した。その子がなんの力も持っていなかったら、親子三人死ぬ覚悟でな」
椅子に座ることもせずに、一人芝居を演じるように語る詮充郎は、次第に目を血走らせ息を荒げて叫ぶ。
「──私は賭けに勝った! 息子の紘太郎は生まれてすぐに類稀なる能力を一族に示し、開祖以来の天才と謳われた! 紘太郎を次期当主として育てることで、私は中継ぎながらも銀騎の当主になった! だが、妻は長く生きられなかった……」
語尾を弱めた後、詮充郎はまた穏やかな顔を取り戻す。
「あの子は──紘太郎は妻によく似た優しい子でな。私のことも慕ってくれ、化学者としての私の仕事も覚えると言ってくれた。そこから私達親子は二人三脚、私は化学方面から、息子は陰陽術方面から鵺の研究を進めていった。ツチノコというキクレー因子を持つ新しい生命体を発見し、私達親子はまた鵺に一歩近づいた」