暗い個室のレストラン。お店に設置されたテーブルライトが不必要なまでに相手の顔をよく照らしていた。
「初めまして。天死の草薙風香(くさなぎふうか)です」
相対して座っている女性が簡単に自己紹介をする。僕は風香さんのことを一瞥した。病的なまでに白い肌。肋骨までは伸びている黒髪ストレートのロングヘアー。落ち着いた雰囲気に淡々とした口調。黒を基調としたワンピース。どこか謎めいている人だった。
「初めまして。望月歩(もちづきあゆむ)です」
僕も簡単に自己紹介を返した。極度な緊張のせいだろうか。少し口を開いただけで僕の息は乱れ、苦しい。
「早速ですが私、天死、に聞きたいことはありますか」
風香さんは「天死」という単語を強調していたが、基本的には一定の口調で喋っていた。表情にも一切変化が見られない。
「ではまず天死ってなんですか」
「特殊な力を持つ人のことです」
「特殊な力って」
「誰かの命を奪うこと。そして奪った命を使って他の人の怪我や病気を治すことです」
——命を使う。風香さんはまるで人の命を道具を扱うみたいに話す。
「僕の命を今、ここで奪うこともできますか」
「できます」
即答だった。
「そしたら僕はどうなりますか」
「死にます」
死ぬ、そのことを意識して唾を飲む。唇が震えて上手く喋れない。やたら喉も乾く。一度ブラックコーヒーを口につけて落ち着く。
「風香さんや他の天死に命を奪われて僕が死んだとしても」
一度言葉を切り風香さんを見つめる。風香さんも無表情のまま僕を見つめ返してきた。
「風香さんたち天死は僕の命を使って誰かの病気や怪我を治せるんですよね」
これは風香さんが先程話していた内容だ。それでも1番大切なことだから再度確認する。
「はい」
風香さんは静かに僕の言葉を肯定した。僕は安心してため息を吐く。つまり僕みたいな無価値な人間も天死の手助けがあれば誰かの役に立てるということだ。命をかければの話だが。
「それはどんな病気や怪我でも治せるんですか」
「はい」
「例えば余命が後1年しかないような重病や医学では100%治せない病気でも」
「治せます」
「他にも命に関わるような大怪我でも」
「治せます」
救われたような気分になった。天死はもうすぐ死んでしまう人も助けることが出来る。僕は自分の命を天死に捧げることで手助けをする。そうして本当に誰かを救えたなら僕が生まれてきて意味もあったのではないだろうか。死ぬことでしか誰かの役に立てない。でも死ねば確実に役に立つ。
「何でそんなことができるんですか」
僕には到底真似できない芸当だ。だからこそ興味が湧いた。風香さんは何度か瞬きを繰り返した後固まった。質問の意味がわからないとでも言いたげな顔をしている。
「えっと、そんなに変なこと訊きましたか」
「いえ。ただ何でとか考えたことなかったので」
「……」
「多少の感情の訓練は必要でしたが私達には簡単にできることでした。それこそ手を動かす。喋ると同じような感覚でできます」
風香さんはテーブルの上に掌を出して、握ったり開いたりした。僕も風香さんの動きを真似てみる。何の問題なくできる動作だった。拳を作ったり開いたりするのと同じような感覚で誰かの命を奪える。いかに天死という存在が特異な存在なのか思い知らされた。だからだろうか。風香さんは命や死について話している時も日常会話と同じようなトーンで話す。僕だけが死に対して怯えたり期待したりしている。
「質問の答えになるかは分かりませんが」
風香さんはそう前置きした後に話を続けた。
「私たち天死は皆死神に憑かれています」
「……死神」
漫画やアニメの中でしか存在しないと思っていた死神が実在していたらしい。
「今も私の後ろには死神がいますよ」
風香さんの後ろを凝視してみるが何も見えない。
「その死神は風香さんにしか見えないんですか」
「いえ。天死にしか見えないんです」
「なら天死同士はお互いの存在を認識できるんですね」
僕ら普通の人間は誰が天死かなんて分からない。風香さんも一見何の力もないただの女の子に見える。
「それと誰かの命にを奪おうと思う時実際に行動するのは死神です。病気や怪我を治す時も」
「死神はどうやって命を奪うんですか」
天死に命を奪ってもらう予定の僕はどういう風に死ぬのだろう。知りたいような知るのが怖いような複雑な気持ちだった。
「鎌で斬りつけます」
「痛そうですね。鎌で斬られる、死因は出血多量ですか」
ワガママかもしれないが出来ることなら楽に死にたい。眠るように安らかに。最後の最後に痛い思いなどしたくない。
「いいえ。老衰死です。死神の鎌で斬られても外傷は一切負いません。ただ瞬く間に老けて死ぬのです」
つくづく超外の力だ。でも。
「死神に命を奪われた人は皆苦しそうでしたか」
「いいえ。一瞬の出来事ですし、辛そうな顔をした人はいなかったです」
「眠るように穏やかに死んでますか」
希望的観測を口にする。
「はい」
——やっぱりな。そう思った。自殺を考える人間にとって天死は救いだ。だって彼らがいなかったらどうやって死ねばいい。
飛び降り自殺?
絶対に痛いし怖いだろう。しかも死体の発見者が可哀想だ。その死体は手足があらぬ方向に折れ曲がっていたり、顔が潰れているかもしれないのだから。一生のトラウマになるだろう。
電車に飛び込む?
これだって痛いに決まっている。それに人身事故なんて起きれば路線は大幅に遅れる。大勢の人に迷惑をかけるのは免れない。
誰にも迷惑をかけずに死ねる方法がある。これだけで救われる人もいる。
風香さんを見ると笑みが溢れた。風香さんは自然な動作で僕から目を逸らしオレンジジュースを口にする。
「それにしても風香さんたちは天死と呼ばれているのに憑いているのは死神なんですね」
「天死という呼び方も世間が勝手に決めたものですからね」
風香さんの言葉を聞いて僕の頭の中にあるテレビ番組の映像がフラッシュバッグする。僕が天死を知るきっかけとなったニュース番組。その番組では天死への独占インタビューが行われていた。インタビューが流れる前に番組は天死のことをこのように紹介してた。
突如として現れた不思議な力を持つ人たち。多くの人は彼らのことを天使のようだと言う。また同じくらい多くの人は彼らのことをまるで死神だと言う。よって彼らはこう呼ばれていた。天死と。
「僕からしたら風香さんは間違いなく『天使』ですけどね」
宙に指で漢字を書き示す。特に「使」の文字を強調する様にゆっくり大きく書いた。
「望月さんの命を奪うかもしれない私がですか」
「ええ。それに貴女たちは同意がない人を命は奪わないでしょ」
「はい。命を奪う前には必ず同意書にサインしてもらいます」
批判が多くあるとはいえ天死の存在が公に認められている理由はここにある。
よく分からないまま命を奪われていた、なんてことは起こらない。天死の能力について説明するネットの掲示板もある。フリーダイヤルの窓口まで存在する。さらに実際に命を奪ってもらう前に一度天死と面談しなくてはならない。そこで疑問があればなんでも質問していいことになっている。面談を経て天死に対して何か不満があれば2度と彼らと関わらなければいいだけだ。
「望月さんの家族からしたら私は死神だと思いますよ」
風香さんはテーブルに置かれていた飲み物のグラスを強く握りしめていた。俯いていて表情は見えない。
「そうでもないですよ」
僕はあっけらかんと言い放った。
「だって母親(あの人)にとって僕は恥晒しですから」
普段ならこんなことを誰かに言ったりしない。言われても困るだけだろう。でも風香さんなら僕の言葉に過剰に反応したりしない気がした。
「……同じですね」
「え」
小さく呟く声を聞き取ることはできなかった。
「いえ、それより他に聞きたいことはありますか」
僕は目を閉じてゆっくり考える。命に関わること。何よりも大事な決断をするための準備。疑問や不安は残したくない。
「最後に1つだけいいですか」
「なんでしょうか」
「今まで誰かの命を奪おうとして失敗したことはありますか」
「相手が天死ならあります。天死同士では命のやりとりが出来ないのです」
「相手が僕だったら。失敗する可能性は……」
「ありません。確実に命を奪い取ります」
「望月さんは必ず死にます」
風香さんの言葉を最後に僕らは店を出た。


今日は日曜日。学校も休みだ。
僕は駅から少し離れたカフェで本を読んでいた。店内は空いていたため2人用のテーブル席に座る。今読んでいるのはミステリー小説。何気ない些細な一文にどんなトリックが隠されているか分からない。1文字1文字真剣に読み込んでいく。
「こんにちは」
「え」
急に見知らぬ女の子から挨拶された。可愛らしい子だった。茶髪で毛先が緩やかにパーマがかかっている。年齢は僕と同じくらいだろう。
「よいしょ」
あろうことか彼女は勝手に相席する。他にも空席はたくさんあるのにだ。
「えっと、僕に何か要ですか」
「うん。聞きたいことがあってさ」
彼女は僕を手招きする。仕方なくテーブルに身を乗り出すと小さな声で囁くように問われる。
「昨日、天死と会ってたでしょ。君は死にたいの」
予想外のことを訊かれて僕は急いで体をのけぞらせた。
「なんで」
天死に面談を申し込んだとしてそれが誰かにバレることはまずない。彼らの情報管理が徹底してるからだ。面談場所を個室のレストランに指定するのも周りの人に会話を聞かれないように配慮されているからだ。そして天死はたとえ誰かに面談した人を教えろと言われても決して口を開かない。尋ねて来た人が僕の家族や知人だったとしても「何も答えられません」としか言わない。
「君が風香と一緒に歩いているの見ちゃった」
イタズラ現場を目撃しちゃったような言い方だ。口角は楽しそうに笑っている。
「君も天死なのか」
風香さんを見てもただの女の子にしか見えないはずだ。ただし相手が天死なら別。風香さんに憑いている死神を視認できるらしい。
「違う。違う。私はただの人間。訳あって風香が天死なこと元から知ってたの」
「そう」
彼女はメニューを開きジンジャーエールを注文する。まだこの席に居座る気みたいだ。うんざりする。
「私、横内桜。よろしくね」
なんの前触れもなく突然自己紹介が始まった。
「望月歩です」
渋々僕も名乗る。本当は自己紹介なんてどうでもいいからとっとこ別の席に移って欲しかった。
「それで望月君はなんで死にたいの」
とても無遠慮な質問だった。口調も趣味でも聞くように軽い。
「なんで初対面の君にそんなこと教えなきゃいけないんだよ」
「別にいいじゃん。どうせ対した理由じゃないんでしょ」
決めつけるような態度にいらっとした。
「家がエリート主義なんだよ」
「ん」
「勉強が出来ないと同じ人間としてすら扱われない。お前は外れだ。子ガチャ失敗だって言われ続ける。最近ではまるでいないように扱われる」
最後に親と口を聞いたのはいつだっただろう。少なくともここ数ヶ月は口を聞いてない。
会話があった時も楽しかったわけではない。成績のこと、大学のこと、いつも何かと責められていた。家の中はまるで地獄だった。
「ふーん。ほらね。大したことじゃない」
「なっ」
思わずテーブルを叩きそうになってなんとか堪えた。静かなカフェで騒ぎなんて起こしたくない。
「君に僕の何が分かる。どれほど嫌な思いをしたと思ってる」
「何も分からないよ」
桜はなんの迷いもなく答えた。あっけらからんとした口調だ。
「でもね、一つだけ言えることがある」
「なんだよ」
苛々とした口調で尋ねる。
「それは親なんて別に大したことないってこと。だって彼らは血が繋がってるだけの赤の他人でしょ」
「そうかもしれない……」
それでも僕は親の期待に応えたかった。産まれてきてもいいんだよって思ってもらいたかった。
「君さ、今何歳よ。高校生だよね」
「そうだよ。高校2年」
「なら高校卒業と同時に家を出たらいいじゃん。働くにしろ、進学するにしろ」
「簡単に言わないでくれ」
「簡単でしょ。高校卒業して一人暮らしする人なんて沢山いるよ」
「それでも家を出るまで後1年以上あるじゃないか」
「なら今すぐ家を出たら」
「はぁ」
何を言い出すんだ。こいつは。無理に決まっている。
「それで私の家にでも来る」
自分のことを指さしながら首を傾げる。
「君の下らない冗談に付き合う気はないんだけど」
なんでせっかくの休日にこんな不快な気分にならなきゃいけないんだ。
「冗談でもなんでもないよ」
「なんで初対面の人と急に一緒に住むんだよ」
しかも相手は女の子。異性だ。
「そうだね。でも私が君の立場だったら迷わず頷くよ」
「へー」
おざなりに返事をする。話を聞くのも面倒だ。
「だって死ぬことを考えるほど嫌なんでしょう」
「……」
席を立とうとしていた僕は桜の言葉で動きを止める。
「私達は頼んでもいないのに産み落とされた。そんな人に感謝しなくていいんだよ。そんな人のために苦しんだりしなくていいだよ」
無表情で淡々と語る。今までの能天気な顔が嘘みたいだ。
「でも産んでくれたこと、育ててくれたことに感謝しなくちゃ」
「なんで」
強い視線で僕を射抜く。重ねて問われる。
「なんで感謝しなくちゃいけないの。繰り返すけど頼んでない。頼んでもないのに産んだのなら育てるのは当たり前でしょ」
僕は桜の問いに対して何も答えられなかった。だから話を逸らしてしまう。
「君も親とうまくいってないの」
「うん。でも今私一人暮らししてるしあの人たちのことなんて関係ないけどね」
「なんでそんなに当たり前のように親の存在を切り離せるんだよ。僕とそんなに年齢も変わらないだろ」
僕らはまだ若い。親を1人の人間として切り離して考えられるほど成熟していない。
「うん。私も高校2年だよ。でもね、離れて暮らすと分かるよ。親って別に大した存在じゃないって」
自分の毛先をいじりながらなんでもなさそうに話す。
「……」
「それか一緒に住むのが嫌ならお金あげようか。望月君が1人で生活できるように」
「いやいや。ちょっと待って」
慌てて止めると桜はキョトンとした顔をした。
「なんで君が僕にお金をくれるのさ。なんでそこまで僕に構う」
「望月君はもし目の前に自殺しようとしている人がいたら止める」
急な質問。けれど迷うまでもなく答える。
「止めないよ」
止めるべきだと怒る人もいるだろう。命を粗末にするなと言う人もいるだろう。でも自殺する人は皆自分の命と向き合っている。生きたいと考えている。その上でどうしようもなくて選ぶ行為が自殺なんじゃないのか。
「私は止める。死なないでって叫ぶ。でもね」
桜は一旦言葉を切る。
「自殺を止めるってことが酷いことだってことも理解してる」
「酷いか」
「酷いでしょ。その人は死のうとするほど悩みがあった。苦しんだ。自殺を止めた所でその人の悩みは何も解決しない」
「そこまで分かった上で止めるの」
「うん。代わりに私に出来ることならなんでもするよ」
やっと桜の話が繋がった。彼女にとって天死と面談するのは自殺の準備をしているような物なんだろう。だから必死に止める。けれど止めるなら責任も負う。
「なんでそこまでして他人が死ぬのを止めたいんだよ」
「私は死ぬ以外に選択肢があることを知って欲しいだけ」
死ぬ以外の選択肢。桜に言われても考えてみても何も思いつかなかった。


家に帰ると静かに鍵を開けた。カチャリと解錠される音が大きい気がしてびくびくする。
そっとドアを開けると隙間から中を伺う。誰もいないことを確認してから物音を立てないように家の中に忍び込んだ。
いつからか僕は家の中でなるべく存在感を消すようになった。自分を親を煩わらしい気持ちにさせるだけな存在だと気づいたからだ。足音を立てないように階段を登り2階の自室へと向かう。
「え」
思わず驚きの声を上げた。部屋のドアが取り外されている。廊下から部屋の中が丸見えになっていた。
「なにこれ」
困惑しながらも部屋に入る。僕が出かけている間に何が起こったのか母に聞こうと思ったが辞めた。あの人に話しかけるのはどうしても怖い。けれど部屋に入ると更に驚かされる。
見渡す限りの私物がなくなっていた。
本棚に並べてあった小説。中には往復2時間以上かけて入手した限定のサイン本もなくなっている。それだけではなく漫画、雑誌、小、中学校の卒業アルバム。中学の部活を引退する時に後輩が書いてくれた色紙。全てが消えていた。
流石に看過できない。恐ろしくと思う足を叱咤して僕は母がいるだろうリビングへと向かう。
「あのさ」
リビングでテレビを見ていた母に話しかける。母は一切視線をこちらに向けないまま応じる。
「何」
たった一言で不機嫌なことが伝わった。僕に話しかけられると母の機嫌は一気に悪くなる。
「部屋のドアが消えているんだけど」
「ああ」
気怠げに相槌を打たれた後、言葉を続けられる。
「お前は見張っていないと勉強しないでしょ。だからドアなんて不要かと思って」
「もう、僕には期待しないんじゃなかったの」
僕は高校受験に失敗した。母が望む高校に入学することが出来なかった。その時をきっかけに母が僕に干渉するのはやめた筈だった。
「私もお前の面倒なんて見たくないよ。でももうすぐ大学だろう」
「だから」
「あまりにランクの低い学校へ行かれても困る。だからねぇ」
「そっか。後さ僕の私物が全然見当たらないんだけどどこにいったのかな」
「捨てといたよ」
自然な口調で言われた。母にとって僕の物を捨てるのはゴミを捨てるのと変わらないのだろう。
「なんで」
「勉強するのに邪魔だろう」
「だから捨てるの。なら一時的に預かるとか他に方法あるだろう」
「なんで私がそんな手間を払わなきゃいけないの」
「……」
「ただでさえお前が出来損ないだから苦労してんだよ」
「だから卒業アルバムや写真、色紙も捨てたの」
「ああ、邪魔くさかったから」
「大事なものなんだよ」
鼻で笑われた。ようやく僕を見る母の目線には軽蔑の色が浮かんでいる。
「アンタさぁ、何様のつもりなの」
何を聞かれてるのか分からず僕は黙る。僕の態度はそんなに偉そうなのか。ただ大事な物をとっておいてほしかっただけだ。
「アンタが学校に行けるのも全部私のお陰なんだよ」
出た。何度も聞かされた。事あるごとに聞かされた言葉だ。
「学校だけじゃない。今着ている服も靴下も外に出る時に履く靴も全部私が買ってやっているんじゃないか」
声を荒げ怒鳴る。いつもそうだ。僕は親に口答えしてはいけない。逆らってはならない。従わなければいけない。自分の意思など持ってはならない。だって産んでくれたんだから。育ててくれているんだから。
「アンタにいくらお金をかけていると思ってるのよ」
知らないよ。不意に脳内に桜の言葉が再生される。
「なら、産まなきゃよかったじゃない」
桜の言葉は僕もずっと思っていたことだった。けれど言えなかった言葉をだった。
「誰が産んでくれなんて頼んだのさ」
——勝手に産み落とされたんだからさ。
桜はそう笑ってた。そうだねって心の中で同意する。
「ア、アンタね……」
母は見る見る顔色を失っていく。
「へぇ、そう。そういうこと言うのね」
分かりやすく傷ついているって顔している。子供にこんな酷いことを言われて私かわいそうですって顔をしている。
「うん。貴女だって落ちこぼれだの失敗作だの好き勝手言うでしょ」
親が僕に何を言っても教育で済まされる。僕の気持ちなんて無視されてきた。
「まぁ、一応お世話になりました」
形だけの礼を述べて僕は家を出た。
「もしもし」
「ああ、望月君。どうしたの」
電話の相手は桜だ。さっきカフェであった時に連絡先を交換していた。
「実は家出しようと思って」
こんなこと言ったら普通どんな反応が返ってくるのだろう。親が心配してる。家出なんてよくない。とかいわれるのかな。桜の場合は。
「わっはっは」
爆笑された。しばらく笑いが続いて会話が出来なかった。やっと落ち着いたから会話を続ける。
「やるじゃん。望月君」
「はぁ、ありがと」
「で、どうする。家に来る」
「そうしてもらえたらありがたいけど、本当にいいの」
「んー?」
「僕、一応男なんだけど」
「わっはっは」
また笑われた。
「大丈夫。君はきっと何もしないから」
「いやする気はないけど」
「ならおいで。住所送っておくね」
その言葉を最後に一方的に電話を切られた。対して間をおかずにショートメールが送られてくる。宣言通り住所が記載されていた。

地図アプリを頼りになんとかたどり着いたのは外観だけ見ても立派なマンションだった。エントランスにはオートロックが設置されていて部外者は簡単に入れない。桜の部屋番号を鳴らしてロックを解除してもらう。
「お邪魔します」
「よそよそしいなー。これから一緒に住むんだからただいまって言えばいいのに」
「ただいま……」
家に帰る時ただいまなんて言ったのはいつだっただろうか。自宅でいる時でさえ居候しているような場違い感を拭えなかった。自分の帰る場所ではないと思ってたからただいまなんて言わなかった。
「まぁ別に強要はしないけどさ」
桜はそこまで頓着していないようで飽きたように話題を変える。
部屋を覗くと3LDKだった。明らかに高校生が1人で住むには広すぎる。
「本当にここで一人暮らししているの」
「そう。私、お金あるからさ」
桜は自慢げに胸を張る。
「家庭がお金持ちなんじゃなくて桜が金持ちなの」
「そうだよ。自由に使えるお金が何千万とあるからね」
満面の笑みで答えられた。
「なんでそんなにお金があるのさ」
「内緒ー」
これ以上話すつもりはないとでも言うように桜はスタスタと歩き出す。
「ねぇ、望月君の部屋ここでいい」
「え」
桜に聞かれ急いで1つの部屋を覗く。自宅の部屋と同じくらいの広さがあった。
「うん。というか自分用の部屋をもらっていいの」
「いいよ。余ってた部屋だしね」
確かに学習机が置かれている以外家具が何もない。使われている形跡は見当たらなかった。
「それとさ今日望月君の家出パーティーでもしない?祝、親から脱出みたいな」
「なんだよ、そのパーティ」
僕は思わず呆れてしまう。そんな名前のパーティ聞いたこともない。
「うーん、じゃあ望月くんの歓迎会でもする」
歓迎会。ここにいていいよと言われているみたいでこそばゆい気持ちになる。
「お願いしてもいい」
「オーケイ。ご飯は外食とデリバリーどっちがいい」
「デリバリーで」
「オーケイ」
勢いよく返事をしながら、スマホで調べ始める。
「ピザでいいかな」
「いいよ」
「これメニュー。食べたいのある」
「うーん、マルゲリータかな」
「おっけい。私はクワトロ。飲み物は」
「コーラで」
「オーケイ」
「まぁ、後はご飯までくつろいでいてよ」
「分かった」
桜はそれから部屋を出て行った。

「では望月くん、ようこそ。カンパーイ」
雑な挨拶から始まりコーラとジンジャーエールで乾杯した。グラスをぶつけるとカンって音が小さく響いた。
「ピザとか食べたの久しぶりだわ」
「私もだよ。後ポテトもあるよ」
「炭水化物オンパレードだ」
「体に悪そうだよね。その分美味しい」
彼女はニシシと笑う。
「あのさ」
「んー、何」
「生活費払うよ。そんなに高いと無理だけどさ」
「要らないよ」
一蹴された。
「でも……」
「望月君の周りの友達や同級生は生活費を毎日払ってる」
「いや」
「なのになんで望月君は払わなきゃいけないの」
「でも僕らは家族でもないし」
「私、お金に困ってないもの。だから素直に甘えればいいだよ」
「……」
流石に図々しすぎるだろう。
「もー、分かったよ。じゃあさ、こうしよう」
「何」
「出世払い。君が大人になってある程度お金を自由に出来たらいくらか払ってよ」
「そんな曖昧でいいのかな」
「いいんだよ」
桜がどれだけ強く言おうが納得できない部分もある。けれど良い面も思い浮かんだ。
「……でも、あれだね」
「ん」
「それなら僕らは高校卒業して、その後就職しても連絡取り続けることになるね」
金銭面で繋がりを残すことが好ましいこととは思わない。けれど気づいたら疎遠になったなんてことは桜とは起こらなそうだ。
「……」
何も言ってくれない桜を見つめると何故か泣きそうな顔をしていた。
「え」
「ふふふ、今月金欠だからお金払えないとかそんな連絡が沢山くるのかな」
一瞬で笑顔を作った桜が恐ろしいことを話す。
「いやいや、僕はお金に関してはちゃんとしてる方だよ」
「本当かな」
「本当だよ」
「まぁ、いいや。ねぇテレビつけていい」
「どうぞ」
桜が無造作につけたテレビから流れてきたのは天死の特集番組だった。
「天死関連の特集ってしょっちゅうやるよね」
「そうだね」
番組では天死と関わりがある人にインタビューをしていた。
『僕は天死に命を奪ってもらうまで後10日です』
「え、10日後に命を奪うとかあるの」
桜が呆れた顔で僕を見る。
「面談まで申し込んでおいて知らないの」
「うん。命を奪ってもらうって決めたらすぐ実行だと思ってた」
桜は呆然と僕を見る。
「ちなみに天死に命を捧げる代わりにお金をもらえるってことは知ってる」
「聞いたことはある」
ただ特に欲しいものがある訳でもない僕はあまり興味を示さなかった。
「望月君だったら6〜7千マンもらえるよ」
「え、そんなにもらえるの」
「うん。年齢によって金額が変わるみたい」
「へぇ〜」
大金すぎでいまいち実感が湧かない。けれど1つの疑問が浮かぶ。
「でもお金もらって逃げる人とかいないのかな」
「そんなことできないよ」
「ん」
首を傾げると桜が詳しく解説してくれる。
「死神は特定の相手にマーキングできるの。マーキングされた人は腕に数字が刻まれる」
タイミングよくテレビでインタビュー者の腕が映し出される。黒い文字で10と書かれていた。
「これが残りの日数」
「そう。数字が0になった瞬間、パッタリと死ぬらしいよ」
「逃げることはできないのかな」
「外国とかまで逃げても無駄だって聞いたことあるけどね。実際はどうなんだろう」
桜がどこか投げやりな口調で答える。何故かきまづい空気が流れて無言になる。僕らの沈黙を埋めるようにテレビの音だけが流れ続ける。
『本当に天死には感謝ですよ。最後に豪遊出来ました』
『残りの10日は何をしますか』
『そうですねー、好きなもの沢山食べてゲームもして漫画も読んで、後は何をしよっかな』
——ブチ。急にテレビ画面が真っ暗になった。
「え」
桜が黙ってテレビを消した。
「ごめん、思ったよりつまらなかったから」
「まぁ、そっかもね」
「ちなみに望月君は死ぬ前にやり残したこととかないの」
「うーん」
特に考えてなかった。天死に面談を申し込んだ時はこのまま死んでもいいって思ってた。
「まぁ、死ぬ前にやりたいことって意外と思いつかないよね」
「そうだね。数千万のお金がもらえるって言われてもなんだか実感がわかないし」
「学生のうちらからしたら大金だよね」
「死ぬまでの期間が設けられるみたいだけど何年でもいいのかな」
「最大1年だよ」
「詳しいね」
——ピロン。
僕らの会話は一旦途切れた。マナーモードにし忘れていた僕のスマホからラインの通知を知らせる音が流れたからだ。何も考えずに開くと母からだった。
『今日中に帰ってくれば許してやる』
時刻はもう22時を超えていた。僕がこのまま帰ってくる気がないことを察したのだろう。
「どうしたの」
「いや、母からラインが来て」
「なんて」
僕は黙ってスマホの画面を見せる」
「ふふふ。許してくれるんだ。やっさしー」
桜はけらけらと笑う。
「本当だね」
僕は桜みたいになんでも笑い飛ばせる強さは持っていない。
「ねぇ、私望月君のお母さんと会ってみたい」
「なんで」
驚きのあまり桜のことを凝視してしまう。
「いやー、お母さんのこと説得できないかなって思って」
「いやいや無理だよ」
「やってみないと分からないでしょ」
「無理だって」
「うーん、でもさ」
母の意固地なんて知るはずもない桜は簡単に引き下がらない。
「なんだよ」
「説得するしかなくない。警察に行かれたら?それか学校に連絡されたら」
「……」
「未成年ってとことん立場が弱いんだよ」
「なら結局親から逃げ出すなんてむりだったんじゃないか」
そこまで分かっていて簡単に自分の家に来いなんて発言した桜に苛立ちを覚える。
「決めつけないでよ。説得できるかもしれないんだから」
桜も桜で諦めた態度を取る僕に苛立っているようだった。

望月と書かれた表札を確かめた後、インターフォンを鳴らす。
「はい」
「初めまして。横内桜と申します。今、歩君と今一緒に住んでいます」
「はぁ」
心底驚いたような声を出される。やがて家から1人の女性が出てきた。彼女は周りをキョロキョロと見渡した後に私を家の中に招き入れる。
倒されたのはリビングだった。私達は相対して座る。
「一緒に住むことをお母様に認めてもらいたい。それにもう歩君に干渉しないで下さい」
なんの前触れもなく要件だけを伝えた。
「貴女ねぇ」
あまりに呆れて言葉も出ないようだ。私は相手の反応なんて無視して続ける。
「歩くんが天死と面談していたのはご存知でしょうか」
「な……」
「それほど苦しんでいたのよ」
「はぁ」
わざとらしくため息をつかれた。
「どうせ本当に死ぬ気なんてないでしょう」
「そうでしょうか」
「そうよ。単に構って欲しいだけ」
「たとえほんの気の迷いから面談しただけだとしても十分危険です。天死は同意書さえ書いてしまえば後戻りできません」
「それであの子が同意すると言いたいの」
「分かりませんが可能性がないとは言い切れません」
「いくら同意するだっけって言っても躊躇うものでしょ」
私は黙って来ているジャンパーを脱ぐ。露になった左の腕を見せる。そこには150と数字が刻まれていた。
「……」
「良かった。数字を見ただけで話が通じて」
望月君の母親は相変わらず何も言わない。
「信じてもらえなかった時のことを考慮して色々持って来たんですよ」
私はカバンの中に入っている物を次々とテーブルに広げていく。同意書を書いた時に渡された控え。金銭的なやり取りも発生するため契約書も渡される。それに通帳。高校生には大金、6千万円が入金された記録がある。
「通帳……」
うわごとのように呟く
「ご覧になりますか」
望月君の母は黙って通帳を手に取った。
「6千万……」
「大金ですよね。死ぬまでの遊び放題ですよ」
私は敢えて笑う。同情されたいわけではない。だから悲壮感なんて出したりしない。
「これが貴女の命の価値なの。たった6千万が」
彼女の言葉が私の心の痛い所を抉る。私の命の価値は6千万が妥当なのだろうか。何度も考えたことだ。
「大金ですよ」
自分に言い聞かせるように断言した。
「そう」
「話戻しますけど、少しでも貴女が歩君のこと思うなら放って置いてもらえますか」
「分かったわ。私だって別にあの子に死んで欲しいなんて思ってないの」
そう呟く女性は少なからず望月くんを心配しているように見えた。


「おっかえりー」
「ただいま、テンション高いな」
学校から帰ると満面の笑顔の桜に出迎えられた。
「まぁね、あのさ望月君のお母さん説得できたよ」
「え」
心底驚く。
「凄いでしょー」
えっへんと胸を張る桜を素直に称賛する。
「うん。凄い。僕じゃ到底無理だ」
「流石、私だね」
「これで僕は勉強の出来具合だけで軽蔑されたりしなくて済むんだ」
「勉強だけが全てじゃないし成績で人の価値なんて決まらないけど、もうすぐ受験でしょ」
腕を組んだ桜が子供を叱るみたいに僕を諭す。
「そうだけど、せっかく親から解放されたのに」
「だからこそ学べば。今までは親の期待に応えるために勉強した。今度は自分の為に学ぶ」
「僕の為に」
「大学、どこに進学したいか決まってないの」
「うん……」
「まぁ、ゆっくり決まればいいよね。行きたい大学が決まった時に偏差値で諦めることのないように普段から勉強するのは大切だよ」
「じゃあ今日は勉強しよう」
「私が見てあげようか。こう見えてかなり頭いいんだよ」
「数学、化学は得意」
「任せて」
僕の質問に桜はピースサインを作って応じた。リビングの机に座り2人で顔を合わせて問題集を解いていく。
「ここの数式が解けなくて」
「ああ、これね」
桜の教え方は分かりやすい。何問か教えてもらえれば後は自力でも解けそうだ。
僕は引き続き数学を、桜は英語の勉強を始めた。
キリが良い所まで問題を解き進めて顔を上げる。必然的に正面に座っている桜が視界に入った。彼女は僕が見ていることなんて気づかないほど集中していた。
テキストを解く為に下を向き続けている。僕は上から彼女を眺めると睫毛の長さが確認できた。
長い髪がサラリと落ちる。微かに香るシャンプーの甘い匂い。
「ふー。休憩」
大きな声を出して急に上を向かれる。何故かすごくドキッとした。
「あ、お疲れ」
「お疲れ」
胸の内に残る動揺を誤魔化すように僕はひたすら話かけ続けた。
「そういえば桜はどこの大学に行くか決めてるの」
「いーや。全く」
「へぇ」
意外だった。意思の強そうな彼女は自分がやりたいことを明確に持っているように思っていたから。
「ならお互い進学先を見つけていかなきゃね」
「いーんだよ、私は」
「へ」
「私はダラダラと適当に生きるから望月君だけ頑張って」
「なんだよ、それ」
僕に勉強しろとか言っておいて。呆れたように桜を見ると「あはは」と笑われた。でもその顔はどこか切なさを含んでいるように見えた。

料理が全く出来ない僕の代わりに桜が夕飯を作ってくれた。せめてものお礼に皿洗いをする。
全ての食器を洗い終え最後にテーブルをフキンでふいていく。
「あれ」
桜のスマホがテーブルに置きっぱなしだった。本人は今お風呂に入っている。ロックがかかったままのホーム画面にラインの通知が表示された。
「風香:明日13時に桜さんのご自宅に伺います」
「風香さん?」
桜は前から風香さんが天死であることを知っていた。どこで知り合ったのか尋ねてみたこともあったがはぐらかされた。
なんだろう。胸のうちに正体不明のモヤモヤした物が広がっていく。
何故、死ぬという選択肢を良しとしない桜が風香さんに会うのか。会った所で何を話すのか。頭の中で様々な疑問が浮かんだ。

学校を早退した僕は静かに玄関の扉を開けた。物音を立てないように行動するのは得意だ。玄関に見慣れない靴が置いてあったため既に風香さんが来ていることは推測できた。忍び足でリビングに近づく。
「ごめんなさい。家まで来てもらって」
桜の声が聞こえてきた。僕はここで足を止めて息を潜める。
「構いませんよ。むしろ土日に伺えなくてごめんなさい。学校を休ませてしまいましたね」
「全然。気にしないで下さい」
リビングまで距離があるため2人の姿は見えない。けれど心なしか桜がいつもより元気がないように見えた。
「それで風香さんに訊きたいことがあって」
「……なんでしょう」
桜だけではなく風香さんも緊張しているように感じた。いつも淡々としている風香さんが感情を表に出すのは珍しい。
「ご存知の通り私の腕には数字が刻まれています」
「はい。私が半年前に刻みました」
「……!」
驚きのあまり声を上げそうになるのをなんとか抑えた。天死である風香さんが桜に数字を刻む。
その意味は。
「私の命はあと100日ちょっとです」
残酷なまでに予想通りの言葉を桜が口にする。風香さんは何も言わない。
「凄く今更だけど、自分で同意したことだけど、それでも私の命を奪わないでもらうことはできませんか」
桜の声色には痛いくらいの切実さが含まれていた。
「できません。桜さんは後113日後に死にます」
淡々とした口調で無情にも断る。知りたくもない具体的な日数まで言葉にしてくれた。
「頂いたお金は全てお返ししますよ」
どこか懇願するような口調だった。
「金銭の問題ではありません」
風香さんの言葉を最後に2人の間で沈黙が流れる。
「ですよねー。ごめんなさい。変なこと訊いて」
馬鹿みたいにテンションの高い声が静寂を破る。風香さんは相変わらず黙ったままだ。
「あ、そうだ。そういえば今日の為にケーキを買ってあったんです」
「……お構いなく」
「美味しそうなケーキですよ」
「本当にお構いなく。私はそろそろ帰りますから」
「そうですか」
風香さんたちがこちらに向かって歩いて来る気配がした。呆然とした頭の隅で隠れなきゃとは思う。
けれど体が動いてくれない。桜が後113日で死ぬという事実が、その衝撃が僕の身体を動かなくする。
「え」
何もせずにデクノボウみたいに立ち尽くす僕を風香さんが見つける。
「どうしたんですか。あ」
後からやってきた桜とも目があった。
「あれ、望月くん。学校は」
驚いた様子で桜が尋ねる。
「早退した」
「どこか具合悪いの」
「いや」
「駄目じゃん。学校サボったら」
自分のことを棚に上げて桜がケラケラ笑う。風香さんは軽く会釈した後玄関の方へ向かって行った。桜も続く。
「ねぇ、とりあえずリビングいかない」
立ち尽くす僕に声をかける。
「そうだね」
桜が2人分のケーキとお茶を用意してくれる。
「期間限定、桜味のケーキだよ」
「はぁ」
「食べよ」
促されて口をつけるが、正直ケーキの味なんてどうでもよかった。
「美味しい」
「そうだね」
「流石、私と同じ名前が付けられているだけあるよね」
「そうだね」
僕は適当な空返事を繰り返す。自然と会話は続かなくなる。
「……あのさ」
「何」
桜が首を傾げながら僕を見つめる。
「君は、死ぬの」
本当に一瞬だけ悲しそうに俯かれた。けれど次の瞬間には満面の笑みを浮かべていた。
「うん、死ぬよ」
「なんで」
「私ね、高校1年の時にいじめられてたの」
「え」
意外だった。桜は外見もよく常に笑顔で明るい。クラスの中心にいるタイプだと思っていた。
「いじめられていた子を庇ったの。そしたらあっさりターゲットは私に変わっちゃった」
「そっか」
桜の性格ならいじめを見てみぬふりなどできないだろう。
「それにね、元々私のこと気に食わない人何人かいたみたいで」
「そうなの」
「ほら、私可愛いでしょ。しかもモテるんだよ」
桜の口調はふざけたものに変わる。両手で自分の頬を挟み僕のことを上目使いで見る。その顔は本当に可愛かったけど認めるのは癪だった。
「……」
「それで女子の何人かが私のこと元々嫌っていたみたい」
「でもそれってただの嫉妬だろう」
「そうかもね。でも理由なんてどうでも良かった」
桜に対するいじめはかなり過激だったらしい。靴や私物を隠される。教科書やノートに落書きされる。そんなことは日常茶飯事だった。
「親に学校行きたくないって言ったの。そしたらいじめられているのはお前のせいだろうって怒られて」
「ひどいね」
「でも毎日のように言われ続けると本当に私が悪いのかなって思えてきてさ」
分かる。ずっと言い聞かされると言葉は呪いになり僕らの体を蝕むようになる。
「それで天死に命を奪ってもらう選択したのか」
「そう。後1年の命になったら色々覚悟ができた。親にも一方的に宣言して家を出たりね」
「学校の問題は解決したの」
「解決っていうか2年に上がる段階でクラス替えがあるから」
「そっか」
「今では学校も楽しいよ。いじめをするような人もいないしね」
けれど一度天死と契約してしまえば取り消しはできない。今がどれほど楽しくても桜は113日後に死ぬ。
「でもね、望月君」
一旦言葉を切り僕を見つめる。強い眼差しに射抜かれそうな錯覚を覚える。
「私は望月君に今まで通り接して欲しい」
「そんなの無理に決まっているだろう」
「そうかな」
「そうだよ。逆の立場だったらできるの」
「うーん、無理かもね」
困ったようにクスクスと笑われた。
「だろ」
「でもさー、残りの僅かしか生きられないか弱い女の子のお願いなんだよ」
「……」
「望月君はきいてくれないの」
卑怯な頼み方だった。とても断りづらい。
「分かったよ」
「やったー」
僕はその日の夜、部屋に籠り一人で泣いた。声を殺し決して悟られないように。
寝る前には目を冷やす。顔が腫れたりしないように。
大丈夫。今後僕は桜の前で悲しい顔なんて見せない。動揺もしない。君がもうすぐ死んでしまうことを知らなかったように振る舞う。僕らは今まで通りだ。けれど僕の決意なんて一瞬で崩壊する。

「おっはよー」
「おはよ」
「ねぇねぇ見てこれ」
「何」
「死ぬまでにやりたいことリスト」
君が死なないように振る舞うなんて無理だよな。
僕は黙って桜が差し出すノートを見つめる。
「ん」
「どうしたの」
「僕の名前が書いてある」
「うん。私がもうすぐ死ぬこと家族を除けば望月くんしか知らないからさ」
ノートには「死ぬまでに望月くんとやりたいこと」と書いてあった。桜が死ぬことを知らなくてもできることなんて沢山ある気がする。けれど他の誰でもなく僕とやりたいことを考えてくれたことを嬉しいとも考えてしまう。やりたい項目は。
・焼肉食べ放題を死ぬほど食べる。
・回らないお寿司屋さんに行く。
・バズる動画を撮って100いいねを目指す。
・スカイダイビングをする。
「回らないお寿司……スカイダイビング」
この時の僕の心情を表せる言葉なんてきっとない。
「付き合ってくれるよね」
「はは、もちろんだよ」
虚になりながら答えた。早速というべきか僕らは焼肉店に来ていた。1人5千円はするプレミアムコースを2人分。お金は桜が出してくれる。
「毎度、ごちそうさまです。でも焼肉くらいなら出すよ」
回らないお寿司などは申し訳ないけど奢って欲しい。かといって毎回当たり前のように桜に出させるのも忍びない。
「いいって。死ぬまでにお金を使い切ることを目標にしてるんだから」
「変な目標だね」
「でも人生目標あった方が楽しいじゃん」
「まぁね」
「最初飲み物頼もう。何がいい」
僕はコーラ。桜はジンジャエールを注文した。その後に肉をいくらか注文していく。
「それにしても天死に命を奪っていく人は皆、最後にお金の使い方に迷うのかな」
「うーん、でも要らなければ返せるよ」
「そうなの」
桜は呆れたようにため息を吐いた。面談まで申し込んだ癖に無知だと既に何回か言われている。
桜が説明する前に料理を運ぶロボットが僕らのテーブルの前に到着する。先に肉を焼き始めた。
「まず天死は命を奪うことができる。そして奪った命を使って他の人の病気や怪我を治せる」
「そうだね」
「けれど怪我や病気を治すのは無償じゃないんだよ」
「そうだね」
ここまでは僕も知っていた。お金のせいで助からない人がいるなんてと心苦しくなった。しかも悲しいことに天死の治療は保険適用外なのだ。
「それで例えば私がもらったお金を返したとするでしょ。すると誰かの治療費に当ててくれるんだよ」
「そっか」
ならもし僕が天死に命を奪ってもらうことになったらお金は返そう。けれど説明を聞いてもいくつか疑問が湧く。
「でもさ、天死に治療して貰いたい人が大多数いたらお金を足りなくない。数千万あっても無理だよ」
「うん。だからお金が足りなかった場合は抽選になるね。天死の誰かがくじを引いて決めるみたい」
「はぁ」
腕を組んで桜の言葉を吟味する。命に対することをクジで決める。随分と雑に決めているようにも思う。
「希望も出せるみたいだけどね。私がお金を渡して小さな子供を優先してとかがん患者を治してとか」
桜の説明を聞いているうちに肉は焼けた。桜が次々と僕のお皿に載せる。
「さぁ、食べよ食べよ」
「うん。頂きます」
「やっばー。めっちゃ美味しい」
桜は体を悶えさせて全身で嬉しさを表現する。
「だね、美味しい」
流石はプレミアムコースと言うべきか肉が柔らかくて美味しい。しばらくは黙々と食事を続けた。
お腹いっぱいになったタイミングで少し気になったことを聞いてみる。
「もし桜が死ぬまでにお金を使いきれなかったら天死に返すの」
「うーん。それなんだけど望月くんにあげようかなって思ってる」
「え」
なんで?理解が出来ない。
「もちろん私のお金で困っている人を救えたら嬉しいよ。でも見ず知らずの誰かより今、目の前にいてくれる人の為にお金をあげたい」
「でも僕に渡されても無駄遣いするだけだよ。治療費が払えなくて困っている人にあげる方が立派だよ」
「かもね。でも死ぬ間際に立派とかそんなこと考えたくない。私がどうしたいか。それが大事」
「まぁ、そうだよね」
そう返事をしながらも何故かお金を受け取るのに前向きになれなかった。

「おっはよー」
「おはよう」
「今日の望月くんの予定を発表します」
「はぁ」
朝からテンションの高い桜は上機嫌に自分のスマホをいじる。
「ジャジャン。ここに行こう」
「回らないお寿司か」
「そう」
「予約しないといけないのかな」
「うん。でも既に予約終わってるから大丈夫」
「あっそう」
手際がいい。そして確実に断れない。僕は高級店でのマナーを調べ始めた。

「緊張するね」
そう言いながらもどこか楽しそうだ。
「そうだね」
店内を見渡すとカウンター席が6席。テーブル席が1つとこじんまりした空間だった。僕らは隅のカウンター席に腰をかける。
「お飲み物は」
「ウーロン茶で。桜は」
「私もウーロン茶」
すぐにお茶は運ばれてきた。その後大将が目の前で魚を捌いていく。予約する際にコースを選ばなくてはならず「大将のお任せコース」にしたと言っていた。こういう場所に不慣れな僕からしたら自分でメニューを選ばなくては良いのはありがたい。
「マグロです」
握られた寿司が目の前に置かれる。口をつけて2人で顔を見合わせる。冗談抜きに今まで食べてきた物の中で1番美味しい。
「やっば」
そう囁く彼女の声はいつもより控えめだった。明らかに未成年者は僕らしかいない。いつもみたいに無邪気にはしゃぐのは躊躇われたのだろう。
人見知りの僕はすぐ隣に見知らぬ男性が座っていることが落ち着かない。不自然にならない程度に距離をとっている為桜との距離はいつもより断然近い。
「なんかさ、大将が目の前で捌いてくれるのいいよね」
僕の耳元に口を持ってきて手を当ててヒソヒソ声で話す。声が大きい桜が他の客に気を遣っているのはわかるがどうにも落ち着かない。
「タイです」
「ありがとうございます」
さっきまで感じていた桜の吐息にドキドキしながらも寿司を味わう。なんとも言えない幸せな時間だった。


「さて動画を撮りましょうか」
「はあ」
相も変わらず桜のやりたいことをリストに付き合わされる日々が続いている。しかし最初は全く乗り気じゃないのにやってみたら意外と楽しいことが多い。
「私ね、カップル系の動画撮りたいの」
「へぇー」
「だから望月くん、動画の中で私の彼氏になって」
「え」
何故?そんな疑問が頭に浮かぶ。そもそも僕は今まで恋人なんて1人もいなかった。そんな僕が彼氏役。できる気がしない。
「いやいや、無理だって」
「でもね、望月くん」
桜が僕のことをじっと見つめて話し出す。嫌な予感しかしない。こう言う時、結局僕は桜に逆らえない。
「私、最後に擬似恋愛経験したいんだよ。でも今更彼氏なんて作れないでしょ」
「うーん」
「ね、お願い」
上手く断れずに渋々了承した。最初に僕らの自己紹介をした動画を撮ることになった。
「既に人気がある動画を調べてみよう」
桜と2人で何個か動画をピックアップしていく。
「私、こういうのやりたいな。自分の歌を作る」
「歌か。なんかの替え歌とかにした方がやりやすいかもね」
「お、前向きだね」
違う。ただ意見を出しただけだ。
「どうせならお互いの歌を作らない。望月くんが私をどう思ってるのか知りたいし」
「……いいよ」
わりかし簡単に承諾した理由は自分の歌なんて作れないと思ったからだ。仮に作れてもとっても暗くてたまらない曲になるだろう。それだけの理由なのに桜は僕の返事を聞いて心底嬉しそうに笑う。
「やったー、楽しみ」
「あんま期待しないでよ」
「はーい」
桜はふざけて子供みたいに手をまっすぐあげて了承した。

お互い自室に籠りしばらく歌詞作りに励んだ。僅か2〜30秒程の短いフレーズだけ考えればいい。それでも今まで作詞なんて経験のない僕は大いに頭を悩ませることになる。いきなり曲を作ろうとしても上手くいかない。取り敢えず桜の特徴を箇条書きしていく。
・誰とでも仲良くなれる。
・お節介。
・一緒にいると楽しい。
・振り回させる。(結果色々なことを体験できる)
・僕を助けてくれた。
最後の1行を書き出して僕は机に突っ伏した。桜と会う前はあんなにつまらない人生を送っていた。死んでもいいとすら考えていた。それなのに今は生きていて良かったと思える。
桜が喜んでくれるような歌を作りたい。素直にそう思った。


「それじゃあ発表しようか」
「オーケイ」
自分が書いた作詞に自信なんてない。黙ってメモ用紙を桜に見せる。
タイトル:君の名は桜
『名前の通り桜のような人です。華やかに咲き誇るような笑顔はいつも場を明るくしてます。眺めるだけで楽しい。君がいれば毎日が美しい』
桜はメモ用紙をまじまじと見つめた後、僕を見る。その顔が少しずつ笑顔の形に変わっていく。花が綻ぶ瞬間を見ているようだった。
「嬉しい」
たった一言の感想。余計なことを言わないことで尚更ストレートに感情が伝わってきた。本当に喜んでくれてる。
「気に入ってもらったのなら僕も嬉しいよ」
「ふふ」
幸せそうにまた笑う。
「でも私の作詞見せるの不安だな。こんな素敵に書けてないよー」
両手で顔を覆って俯く。
「まぁ、これから修正もできるしね」
どこか吹っ切れたように僕にメモ用紙を見せてくれた。最初にデカデカと書かれたタイトルが目に入る。
タイトル:君は空気
なんとも僕にぴったりだ。僕はクラス内で空気のような存在だから。担任の教師ですら僕の出席を取り忘れることさえあるから。
けれど桜が僕を想って書いてくれた歌詞はとても温かいものだった。
『そばにいてくれて当たり前。けれどもしいなくなったら。息も出来ないほど苦しいの。そんな大切な存在です。いつも一緒にいてくれてありがとう』
歌詞を読み終え胸が苦しくなる。それでいてどこか嬉しい気持ちになる。
「そっか」
「え、何が」
僕の反応を伺うように下から顔を覗き込まれる。その顔は不安が滲んでいた。
「いや、空気ってないと困るものなんだね」
キョトンとした顔をされた。
「当たり前じゃない。ないと生きていけないよ」
「君にとって僕は空気なのか」
涙目になりそうなのを堪えながら尋ねた。
「うん」
「嬉しいよ、桜」
「良かった」
桜は安堵したように胸を撫で下ろした。

せっかく作った歌を歌おうって桜が言い出して僕は頭を抱えた。
「僕、歌上手くないよ」
「私もそんなに上手くないよ」
ノリノリな桜に押されて結局2人とも歌うことが決定する。また簡単なダンスも考える。
「よし、撮ろうか」
緊張しながらも僕らの動画撮影は始まった。動画の編集は僕が担当した。やったことがない為最初は時間がかかったがなんとか形にしていく。そして初めて投稿した時には言い表せない高揚感があった。
「ドキドキするね」
「そうだね」
「誰かに見てもらえるといいね」
桜の言葉に僕は少しだけ考える。ネット上の見知らぬ誰かに見られることに恥ずかしさも覚える。けれど2人で協力して撮影したものが誰かに認められてたいとも思える。
「そうだね」
結局僕は桜の言葉に同意した。

当然の結果とでも言うべきか初投稿でいいねを100ゲットするなんて奇跡は起こらなかった。それでも見てくれる人はいたみたいで数人だけどフォロワーが増えていた。たった3つではあるけどコメントも頂いている。
『2人とも可愛い』
『お似合いのカップル』
『この歌いいね。お互いのこと思いやっていることが伝わってくる』
これらのコメントを桜と2人で見ていた。
「やったね、望月くん」
桜は大袈裟なくらい喜んでいた。
「そうだね」
「これからもどんどん投稿していこうよ」
「うん」
それからも僕らは沢山の動画を撮影していった。
お互いの曲を作ってみた第二段。桜が僕の好物料理を作ってくれた。予算を決めてお互いにプレゼントを買おう企画。2人で好きな曲を選んでカップルダンスを作ってみる。本当に様々なことに挑戦した。その中でも特に印象深いのはスカイダイビングだった。
「望月くん、スカイダイビングに行こう」
散歩に行こうと同じくらいのテンションで誘われた。
「え……」
スカイダイビングは死ぬまでにやりたいことリストに入っていた。それでも桜が最近動画撮影に熱中していて忘れててくれてる。そう思って油断した。
「でも今日も動画撮った方が良くない。100まで後少しだしさ」
そう。僕らのいいね数は順調に伸びていた。投稿するたびにコメントをしてくれるフォロワーさんも何人かいる。
「だからさ、スカイダビングに行ってきたって動画あげればいいじゃん」
「なるほど」
そう返事をしてからすぐに後悔した。僕の返事を肯定と受け取ったのか桜はノリノリで僕に自分のスマホを見せる。
「おお……」
なんというか怖そうだ。
「このコースにしたから」
1番高いコースだった。だけどオプションとして飛んでいる様子を動画で撮ってくれるらしい。最後に無編集のままSDカードを渡される。
「動画を載せるならこのコースが1番いいかもね」
「なんだ、望月くんもやる気じゃん」
「そういうわけじゃないんだけど」
けれどスカイダイビングに行くべきだと思っている部分も微かにある。理由は動画だ。僕たちがあげた動画の最高いいね獲得数は82だ。後もう少しで目標を達成できる。けれど次にどのような動画をあげるべきか迷っていた。毎度毎度同じような動画をあげていたら飽きてしまうかもしれない。そして僕は焦ってもいた。
桜に振り回される日々は刺激的で新鮮だ。今まで過ごしてきた平凡な日常とは大違いだ。だからこそ凄い速さで時間が経過していく。そして桜の寿命も後30日を切っていた。
なんとか目標を達成したい。それに残りの日々は桜にとっても有意義な時間であって欲しい。だから桜が望むことならなんでも付き合うべきなのだろう。
「でも断るって選択肢はないんだろう」
素直になれない僕は捻くれた言い方をしてしまう。桜は歪んだ笑顔を僕に向けた。
「よく分かってるじゃん。行こう」
2人で都内にあるスカイダイビング場へと向かった。

「えー、今はヘリコプターに乗っています。ヘリなんて乗るの初めてで楽しいです」
ハンディカメラを向けられウキウキで今の心境を語ってくれる。スカイダイビングは2人で同じヘリコプターに乗り、一気に上空4000mまで上がるのだ。窓から景色を覗くと凄い速さで小さくなっていく街並みが見える。同じように僕の心臓もすごい速さで脈打っている。
ドアの横に信号みたいな三色のランプがついている。そのランプが赤から黄色、そして緑色へと変わった。
ドアが開かれる。開いたドアから横を見ると一面の青空。風が顔に当たる。自然と足がすくむ。
「え、いやいや」
パニックになって意味のない言葉をとにかく発する。
「頑張って」
桜が無邪気に応援してくれる。僕の次に君も飛び降りるのになんでそんなに能天気なの。
「行きましょう」
爽やかな口調で言うのは僕についてくれるインストラクターだ。彼に抱きしめられたまま押され、僕は空へ飛び立つ。
「うわあぁぁぁぁ——」
気づけば叫んでいた。怖いとかもしパラシュートが開かなかったらとか考える余裕は一切ない。頭の中が真っ白になる。容赦ない風が顔面に当たる。唇にも強風が当たりぶるぶると震える。一瞬の出来事にもとても長い時間にも感じる不思議な体験だった。やがて地面が見えてきても僕のパニックは収まらない。それでもインストラクターの人がしっかりと僕を抱きしめ続けてくれてなんとか着陸できた。
「はぁ……、はぁ……」
体力を使うことは何もしていない。それでも極度の興奮から息切れが収まらない。僕は地面に座り込んでいた。すぐ後から桜も降りてくる。
「すごかったね」
満面の笑みだ。
「うん、すごかった」
「衝撃的なだったね」
「うん、僕もそう思う」
僕らの会話はきっと噛み合ってるようで全く噛み合っていない。

帰ってから2人でスカイダイビングの映像を見た。
「なんで……」
僕は呆然と呟く。まず僕が飛び降りた時の映像。風に当たり唇が膨れ上がり、酷い顔になっていた。終始叫んでいるのが情けなさを倍増する。
次の桜が飛び降りた映像を見るが何故か顔が整っている。しかも余裕があるらしくこの前あげたカップリングダンスの振りをしている。
「望月くん、本当に怖かったんだね」
「うん、本当に怖かった」
しみじみと僕は呟く。そんな僕を見て桜はクスクスと笑った。
「そっか、ごめんね。でもおかげでやりたいことリストほとんど消化できたよ」
「後は100いいねだけだね」
「そうだね」
その後僕は一生懸命動画編集を行なった。どんな音楽が合うか、どんな文字を入れるか真剣に考えていく。その間に桜はご飯を作ってくれている。
「できたよー」
今日のご飯はロースカツ丼だ。大量に載せられた千切りされたキャベツが歯応えがあって美味しい。
「にしてもいつも動画編集ありがとね」
「何、急に」
「いやー、随分真剣に悩んでいたから」
「少しでもいい動画にしたいからね。それに桜はいつもご飯を作ってくれるじゃないか」
家事の負担は桜の方が大きい。僕も水回りの掃除などはする。けれど料理に関しては桜に任せてしまっている。単純に桜の料理が美味しいからだ。
「お礼を言うのは僕の方だよ。いつも美味しいご飯をありがとう」
「いいよ。美味しそうに食べて毎日完食してくれるの嬉しいから」
お互いに褒め合う時間は気恥ずかしくもあり、でも温かい気持ちになれるものだ。今日はお皿洗いも桜がやってくれた。代わりに僕は編集を終わらせる。
皿洗いを終わった桜がリビングに座ったので動画を見せる。
「こんな感じでどうかな」
「いいと思う」
桜は堪えきれないといった様子で笑っていた。
「なんだよ」
「いや、この辺の文字がさ」
桜が降りる時に横に「余裕」「ダンス付き」などの文字を入れている。その言葉に合うように顔文字もつけている。
「私のこと羨ましいんだなーって伝わってきて」
「僕にはそんな余裕なかったからね」
桜はワッハッハと爆笑した。
「明日、望月くんの好きなもの作るから許して」
「なら前作ってくれたグラタンパイ食べたい。あれすごく美味しいから」
「あれ、作るの簡単で手間かからないんだよ」
「そうなの。でもすごく好きだから」
「分かったよ。楽しみにしてて」

次の日も休日だった為、僕は昼近くまで寝ていた。午前11時過ぎにようやく起き上がり昨日投稿した動画をチェックした。
「え」
いいねの獲得数は112。見間違いかと思い再度確認する。数字は変わらない。僕は早足でリビングに向かう。
「あ、おはよー」
「おはよう。ねぇ気づいた」
桜は僕に笑顔を向ける。そしてピースサイン。
「もちろん」
「やったね」
「スカイダイビングの望月くんの怖がり方が面白かったみたいだね」
「はは」
乾いた笑いを溢す。それでも僕が少しでもいいね獲得に貢献できたのなら嬉しい。
「でも嬉しいな」
「沢山の人に反応してもらえることが」
「もちろん、そうなんだけど」
彼女はなんて言うべきか迷ってるみたいで一旦黙り込む。無意識なのか空いている手で髪をクルクルと弄っていた。
「私はさ、もうすぐ死んじゃうでしょ」
「そうだね」
「でもさ、私が生きていたことこれだけの人が確かに見てるんだよ」
「そうだね。動画は残り続けるしね」
このSNSの中にも。僕のフォルダの中にも。
「そう思うと僕のスマホで録画して良かった。これらの動画は君のメモリアルだ」
「私が死んだ後も残しておいてくれる」
儚げに微笑みながら問われる。
「当たり前だろ。君が生きていた証なんだから」
「ふふ、ありがとう」

桜は約束通りグラタンパイを作ってくれた。けれどいいね獲得100達成のお祝いとしてピザや揚げ物もデリバリーした。
「今日はパーティだね」
「そうだね」
目標を達成できたことは素直に嬉しい。コーラとジンジャーエールで僕らは乾杯した。
「美味しいね」
クワトロピザを幸せそうに頬張る。桜の好物だ。
「そうだね。でもグラタンパイが1番美味しい」
「嘘だー」
「本当だよ」
照れたように笑う。口元を手で覆い表情を隠す。
「私、望月くんがご飯食べてる姿見るのが好きかも。幸せが伝播してくる」
「僕は常に桜を見ると幸せになれるよ」
「何、急に」
そっけない返事をされた。けれどわずかに顔が赤くなっていた。頬も緩んでいる。
「僕さ、桜のこと好きだよ」
「え」
桜の顔から表情が抜け落ちた。ただ呆然と僕を見つめられる。
「好きだよ。桜」
見つめ返ししっかりと意思を伝える。
「私、後25日で死ぬけど」
桜は首を傾げて笑う。暗い雰囲気にならないよう気を遣ってくれる。
「知ってるよ。だから何」
僕は毎日カウントしていた。君の命があと何日持つのか。1日が過ぎるたびに泣きそうになり、焦燥に駆られながらも数えていた。
「たった25日だけ付き合うの」
「桜が嫌ならもちろん断ってくれていいんだよ。君の負担になることはしたくない」
「嫌なわけじゃないよ。でも」
涙目になっていく。声が震え感情的になっていく。
「25日間。君と恋人になれたら僕は世界一幸せだよ」
「たった25日だよ」
「たとえ1日でも君の恋人になれたらそれだけで奇跡だろ」
「そっか……、なら付き合う」
「やった、ありがとう」
僕たちは恋人になった。それから僕らは色んな場所へ出かけた。水族館、遊園地、登山、花見。桜が望む場所ならどこへでも行った。
ある日、僕は学校へ向かう途中に忘れ物に気づいて引き返した。時間には余裕を持って出かけるため、取りに帰っても間に合う。部屋に向かうと隣接している桜の部屋から啜り泣く声が聞こえてきた。
「桜……?」
ドアの外から声をかけてみるが返事はない。僕はそっとドアを開ける。桜は蹲って泣いていた。
「どうしたの」
「え、望月くん。学校は」
「スマホ忘れちゃって取りにきた」
「そっか……、早く行かなきゃ遅刻しちゃうよ」
「桜を放って学校なんて行けないよ」
「私、望月くんに迷惑をかけたくない」
「僕は桜の恋人だろ。桜が1人になりたいなら放っておくよ。でもそうじゃないなら頼ってよ」
僕の言葉を聞いて桜はさらに泣き出した。
「私、なんで……、天死に命を差し出すっていっちゃったんだろう」
いつも笑っているけど死ぬことに恐怖を覚えていないわけなかった。
「生きたいよ。望月くんと一緒に生きたい」
僕は黙って座っている桜を抱きしめる。2人で泣いた。ただひたすらに泣いた。
「ねぇ、望月くん。私死ぬまでにやりたいことがもう1つ出来たんだ」
泣き止んだ桜がゆっくりと口を開いた。
「何」
「動画を撮ること」
「今までも撮ってきたじゃないか」
「今回は私がもうすぐ死ぬことを告発するの」
「……」
「私は自分の意思で天死に命を奪ってもらうことを決めた。そして今、とても後悔してる」
「そうだね」
「私がその気持ちを吐き出すことで誰かが天死に同意することを躊躇うかもしれない」
「でも批判を買うかもよ」
天死に命を奪ってもらう行為を肯定している人は多数いる。その行為は誰かの病気や怪我を治すことに繋がるからだ。
「それでもいいよ。100人中99人に反対されてもいい。たった1人の人に届いたらそれで満足」
「分かったよ」
こうして2人であげる最後の動画撮影が始まった。
「動画を見ている皆さん、こんにちは。いつも私達の動画を応援してくださってありがとうございます」
桜はここで丁寧なお辞儀をした。
「突然ではありますが私は後10日で死にます」
数字が刻印された左腕をアップで撮影する。
「これが何かご存知でしょうか。天死と契約すると刻まれる数字です」
次にあらかじめ用意していた通帳や同意書、契約書を映していく。
「私は本当に辛いことがあって死んでもいいと思いました。でも今、とても後悔してます」
桜の頬に一筋の涙が落ちる。涙を拭いもせずにカメラだけを見つめ語り続ける。
「だって望月くんに会えたから……」
予想外の言葉に僕まで泣きそうになる。けれど桜が語る言葉に雑音を入れたくなくて必死に堪えた。
「もし今、天死に命を奪ってもらうことを検討している人がいたら少しだけ踏み止まって下さい。もし貴方の悩みが学校生活なら不登校になればいい。転校してもいい。家族ならなるべく早く家を出たらいい。どこにいても息苦しく感じるなら日本に留まる必要だってない。本当に貴方の居場所はこの世界のどこにもないですか?一度でいい。考えてみて下さい。自分が死ぬことで誰かの病気を治さなきゃなんて考える必要はない。だって病気は医療で治すべきなんだから」
医療で病気を治す。そんか発想しばらく忘れてた。けれど今なら思う。天死の力を頼らなくても誰もが命を全うできる時代が来て欲しい。
僕らの動画は想像以上に多くの人に見てもらえた。フォロワーさんが拡散してくれたからだ。中には批判的なコメントもあった。「自分の意思で同意書書いたんだから自業自得」とか「天死に命を捧げるのは尊い」「私の家族は天死に病気を治してもらった。医療では解決できない病気もある」など様々意見があった。
けれど桜の死を悲しむ人。「今まであげた動画に癒されてました」とコメントしてくれる人。そして「もし周りに天死に会うとしている人がいたらこの動画を見せます」とコメントしてくれる人までいた。桜はコメントを見て満足そうに笑った。

桜の寿命が残り1日となった。一緒に夕食を取れるのは今日で終わりだ。
食卓には様々なご飯が並んだ。
ピザ、ポテト、揚げ物、お寿司、サラダ、スナック菓子。なんでもありだ。桜が好きなものを全部揃えたのだ。
「望月くん、天死協会所って知っている」
「知ってるよ」
天死専用の職場だ。ここで電話取ったり、面談の予約を受け付けたりしている。
「明日、私そこに行くよ。そこで死ぬとね、死後の手続きを全部天死がやってくれるの」
「僕もついていくよ」
最後の最後の瞬間まで桜と一緒にいたかった。けれど桜はゆっくりと首を横に振る。
「1人で向かう。ゆっくりと歩いて向かいながら心の準備をする」
「そっか」
一緒にいられる時間が少なくなったことは悲しい。でも桜から強い決意が感じられた。
「後ね、葬式はしない。望月くんとは家を出たら会うのは最後」
「なんで、葬式すらしないの」
葬式は故人とお別れする儀式みたいなものだ。最後にお見送りをして別れを済ます。その機会すら与えてもらえないのは辛い。
「天死は相手のことを一瞬で老いさせて老衰死させる。私は一気に何十歳も歳を取る」
そういえば面談の時に風香さんもそんなことを言っていた。
「眠るように死ねる素敵な死に方。でもね、望月くんには今の私を覚えていてほしい」
17歳の桜を胸に留める。僕と同じ年で同じ感覚で過ごした桜を。
「ほら私って可愛いじゃん。望月くんは可愛い姿の私だけを覚えていればいいんだよ」
茶化すように桜は笑った。いつもと同じようにその場を和ませてくれる笑みだ。
「確かに君は可愛いね」
心からの同意を送る。見た目も性格も言動も全てが可愛くて愛しい。それが桜だ。
「何時に出かけるの」
「朝、10時かな」
「早いね」
思わず呟く。残された時間はほとんどない。
「私は明日の11時に死ぬからね」
「え」
「天死と契約した日から本当にピッタリ一年後に死ぬんだよ。1分たりとも伸びたりはしない」
「そっか」
「これが本当に最後だから我儘言っていい」
「何」
「今日、同じベッドで寝て欲しい」
桜の願いならどんなことでも叶えたい。けれどこれは流石に即答できなかった。
「勘違いしないでね。本当にただ添い寝して欲しい」
そう言われても抵抗があった。けれど。
「今日寝れない気がするから」
そう言われても僕は了承した。
夜1つのベッドで横になる。けれど緊張なんてしなかった。シングルベッドに2人で入る。微かに触れる手から体温が伝わってくる。ベッドは桜の甘い匂いで満ちていた。今、生きている君が明日には死んでしまう。どんな感情より悲しさが優った。驚いたことに桜はスヤスヤと寝ている。暗闇の中、顔色までは分からない。それでも安定した寝息が聞こえて安心した。君が夢の中でうなされるようなことがなくて本当に良かった。
けれど僕は寝れない時間を過ごした。気づけば涙が溢れた。それでも桜を起こすような真似はしたくなくて声は出さない。そうしてどれくらい時間を過ごしたのだろう。気づけば寝ていた。

桜の目覚ましで2人とも目を覚ました。目を覚ますと隣に桜が居るのが不思議でお互いに顔を見合わす。
「わっはっは、凄い顔」
昨日密かに泣いてたせいで悲惨になっただろう僕の顔を桜は大笑いした。
「しょうがないだろ」
「そうだね」
それから何も変わらない日常のように桜は準備していく。朝ごはんを食べて身支度を整える。
「最後に抱きしめていい」
出かける直前、本当に最後だから僕から我儘を言う。
「いいよ」
抱きしめ合えばお互いの心臓の鼓動すら感じる。相手が生きていてくれることを実感する。
ずっとずっといつまでもこうしていたかった。
「桜のおかげで今まで楽しかった」
「私もだよ」
「本当にありがとう」
「こちらこそ」
どれくらいそうしてたのだろう。桜がそっと僕を押す。抱きしめていた手を離せば桜は笑った。
「じゃあ、行くね」
「うん。さようなら」
「さようなら」
あまりにもあっけない挨拶の後桜は出て行った。もう2度と会えない君の背を僕は黙って見つめていた。

15年後。
僕は医学会の発表会に来ていた。長年の研究の上、癌に効く新薬を開発したのだ。
ここまでの道のりは決して楽ではなかった。
桜が亡くなってから僕は医学の道を進むことを決めた。とはいえ当時の僕の学力で医学部に合格するのは難しいことだった。桜が残してくれた莫大なお金に頼り塾に通い、毎日必死に勉強した。
心が折れそうになることは何度もあった。
けれど桜が僕を支えてくれた。君はこの世界から旅立ってしまったけど、僕のスマホには沢山の動画が収められている。
世界で1番素晴らしい動画の数々だ。だって笑顔の君が、真剣な顔が映っているんだから。
苦しい度に君に励まされ、努力を続けてようやく夢を実現した。
天死に頼らなくても医学によって病気を治せる。そんな世の中を実現したかった。
かといって天死に治療してもらう人が減ったわけでもない。
相変わらず天死に命を奪ってもらう人も後を経たない。
それでも思うんだ。
死に方を選べるようになった。だからこそ生き方選べるようになるといい。
病気になり天死に直してもらうのも選択肢の1つだ。けれど医学で治すことも選択肢に加わればいい。誰もが生きる上で沢山の選択肢を選べたら良い。