人生全部をかけて、演じてきた私。
だけど、夜だけは。
夜だけは、私は私を演じなくたっていい。
あなたと共に過ごす夜だけは。
私が一番愛する私でいられる。それが夜だった。
********
昼と、夜の、間。
日が沈んで、空がオレンジから群青色に変わっていく。
…どうしてあんな反対色が、綺麗に混ざるんだろう。
自然は人間社会と違って、何をしても美しい。
それに比べて人間は、特定のこと以外はすべて醜くなる。うまく調和が取れなくなる。すごく、人間というのは下手くそだ。
私もそんな、バランス命の人間社会を生きる者のうちの1人。
なるべく波風立てないように。自分を押し殺して、生きていく。
これが、正解。
自我があるから、誰かが傷つく。自分が傷つく。
意志があるから、すれ違いが起きる。面倒が起きる。
だから私はひたすらに、演じていた。自分がどんな人かなんて、わからなくなるくらいに。
********
母親の病院に、お見舞いに行った。
真っ白な病室は窓からの光を反射して明るいけれど、どこまでも無機質だった。
スライドドアを開ける。
「あら、優里。よく来たわね。学校はどう?」
大人ってどうして学校はどうかなんて聞くんだろう。それしか話題がないんだろう。うん、楽しいよ。まあまあ。普通。返事なんてだいたいその3択でしか返ってこないのに。
私はその中でもとびきり優等生な回答を選ぶ。実際はって?何も感じない。無感情。学校に対して抱く感情なんて何もない。
「楽しいよ。今度文化祭もあるし。」
「あぁ、もうそんな時期なのね。」
「うん。今度クラスの催し物決めるんだ。」
「そういう準備が一番楽しいのよね。」
「そうそう!楽しみだな〜。あ、お母さんにこれ。」
「毎回ありがとう。そこの花瓶に生けてくれるかしら。」
「うん。」
にこにこと温かな笑みを浮かべて私は話す。自分で喋ってて気持ちが悪い。
私は窓際の花瓶に水を入れ、花屋で買った花を生ける。毎回花屋さんに全部お任せしているミニブーケなんて、なんの感情もこもってないだろう。それでも親というのは子供からもらっただけで嬉しがる。
「体調は大丈夫?」
「ええ。だいぶ安定してるみたいで。」
「よかった。」
「でもまあいつ悪くなるかわからないしね…。いつもひとりにさせちゃってごめんなさいね優里。」
あ、まずい。
途端に私のセンサーが危険を察知する。
こういうしんみりしたモードになった母は大変なのだ。
無限に自分がどれだけ不甲斐ないかを語り出す。
もうそんなの気にしてないというのに。
「ううん。だから毎回言ってるけど大丈夫だってば。お母さんはなんも悪くないんだから。あ、そんなことよりさ、おばさんに今度いつ来れるか聞いてみようと思ってて…」
「あぁ。いいのよ美智子は忙しいんだから。」
とりあえず話を逸らす。
しかし話題選びをミスってしまった。また母の顔に翳りが出る。
お母さんの妹の美智子さんはお医者さんの旦那さんを持つお金持ちで、病気にもかかわらずシングルマザーの我が家を援助してくれている。母の入院代、私の一人暮らしの家の家賃や光熱費、学費まで。その割に小さい頃からうちに私の面倒を見に来てくれたことなんてなかったし、母のお見舞いにだってちっともこない。いくら電話をしてみたってお手伝いさんに軽くあしらわれて取り合ってくれない。
つまり金は出すからこれ以上関わるな、ということなのだろう。母は昔からおっとりとした性格で、少しキツめの性格の美智子とは性格が合わず、いつも美智子はゆったりした母にイライラしていたらしい。そんな姉妹の仲の悪さも相まってだろう。ここ三年は会ってもいないし話してもいない。お金を十分に出してもらってるのだから文句なんて言えたものじゃないけれど、さすがに少し薄情なのではないかと思えてくる。
ただそんなに母親が好きで好きでたまらないわけでもないし、お母さんなんて可哀想なの、なんでなったりしない。
嫌いなのにイヤイヤ会われてもこっちも不快だし、わざわざ美智子と会う必要もないか、と思う。なので最近は特に連絡をしないようにしていた。
「…そっか。お母さんがそれでいいなら。じゃあごめん私、宿題終わってないから帰るね。」
「そう、もう帰るの?ここでやっていけばいいのに。」
「あー。ごめん勉強道具持ってきてなくて…。」
「そうなの。あぁ、ここまで自転車だから荷物軽いほうがいいものね坂道だし。じゃあね。今日もありがとう。」
「ううん。じゃあね。」
あくまで申し訳なさそうに。私自身は普通にここでやる気なんてなかった。なんなら宿題なんて出てない。帰るための口実。
病気のお母さんになんて薄情な、って、言われないように。
私はいい娘を演じる。
正直なところ、私を育ててくれたのはほぼおばあちゃんだから、お母さんに思い入れなんてない。どのくらいの距離感なのか掴めていない。どこか他人行儀になってしまう。
そのおばあちゃんも今はもういない。私が中学生の時に亡くなった。あの時から私は全く話さなくなった。大好きなおばあちゃんを亡くして心が死んでしまった女の子になった。そのまま人に説明するのがめんどくさいし、関わられたくないと言う思いから高校では友達を作らなくなった。
…なんて、そんなの全部演技。
私は小さい時からずーっとずーっと、演じてた。
小さい頃は、お母さんがお家にいなくて寂しがってる女の子。優しいおばあちゃんが大好きでしょうがない無邪気な女の子。
小学生になって少し経つと少し大人びた、お母さんを理解した女の子に。おばあちゃんに気を使う心優しい女の子に。
中学生になると人に家庭事情を知られて気を遣わせたくないな、とどことなく隠している少し距離のある女の子。お母さんを絶対に困らせない、すごくいい子。
おばあちゃんが亡くなってからは傷心した可哀想な女の子。
高校生では人と関わりたくない孤高の存在に。でもきっちり空気は読む、陰キャを選んだ。そしてやがてなにひとつ目立たないように生きた私は空気を読まなくても良くなった。私と言う存在が空気のようなものになったから。
どうして演じてるのかなんて、聞かないでほしい。
私には別に、深い理由なんてない。
よくわからない世間の波に押されないように、流されないように、自分を持たないようにした。ありきたりな人でいれば、周りはどうしたらいいのかよくわかる。周りを困らせない、なにも面倒なことは起きない、すごく楽な人生になる。
傷つくことはない。周りを傷つけることもない。それが私のモットー。
私は自分で敷いたレールの上を着実に歩いていた。
********
眠れなかった。
チクタクと電子時計の音が部屋に響く。
真夜中、日付が変わる少し前。
私の目はぱっちりと冴えていた。いつものこと。
私はベランダに出た。生暖かくて、湿っぽい。もう6月だ。
マンションに面している小さな公園を見下ろす。紫陽花が咲いている。
公園のベンチに、1人の女の子が座っている。
私がベランダに出るようになってから毎日。つまり5月下旬から。けどもっと前からいたかもしれない。
私はいつもいるなと思いつつ、そんなに彼女自身は見ていなかった。いつも木の影に隠れたベンチにいるから。でも今日はこちら側を向いているベンチに座っていて、彼女がよく見えた。私は少し気になって、彼女を見てみた。
年は、同じくらいだろうか。長い栗色の髪の毛、黒いキャップをかぶっていて、耳元からはイヤリングがのぞいている。半袖のパーカーにジーンズと、シンプルな服装だけれどスタイルの良さからおしゃれさが漂っている。
彼女がふと顔を上げた。長いまつ毛、スッとした鼻筋。バランスが取れていて、綺麗だなと思った。
私は演じたいと思った。
真夜中に物思いに耽る子に、突然話しかける明るい子に。
小説から出てくるような、活発で、エネルギーにキラキラしていて、素敵な女の子に。
それには準備が必要だ。多分、明日も来るだろう。
明日。私は彼女に話しかける。
とびきり明るい、太陽みたいな女の子として。
********
次の日の夜。
学校も買い物も終わって家に帰る。
夕飯を食べて一度軽くシャワーを浴びる。
もう夜になる時間。
そろそろ、始めよう。
私は今から、優里じゃなくなる。
今時風のおしゃれなメイク。
ラメが入ったオレンジ色の目元。ツヤのあるリップ。
丁寧に下地を作ったおかげでできた透明感のある肌。
うん、我ながら、いい感じ。
放課後ショッピングモールで買ってきたコーディネートは黒の肩出しフリルトップスにショートパンツ、足元にはサンダル。
腕にはシンプルなブレスレット。髪の毛はゆるく巻いてハーフアップにする。
出来上がった私を鏡で見る。
そこに映るのはクラスの冴えない陰キャなんかじゃなくて、どこからどう見てもキラキラとしたおしゃれ女子だった。
まるでシンデレラだ。
あまりの変わりように少し笑ってしまう。
人はやりようで全く変わるのだ。どんなに可愛くなくても、ものすごい美人にだってなれる。
時間を見ると昨日と同じくらい。私はベランダに出て下を見下ろす。
いた。彼女だ。
私はもう一度鏡を見て、にこりと笑みを浮かべる。大丈夫。自分に自信がある、活発で可愛い女の子の笑顔だ。完璧に演じれてる。それを確認すると、私は外に出た。
********
彼女はすぐに歩いてくる私に気づいた。
静かな公園では些細な音も安易に聞こえる。
不審げに私を見る彼女に私は笑顔で話しかける。大丈夫、さっき鏡で見た笑顔と全く同じ顔の感覚。つまり同じ顔。私は演じれてる。
「こんばんは。はじめまして!」
「…どーも。誰?なんか用?」
警戒心丸出しの態度だ。まあ、そりゃ急に知らない人に話しかけられたらそうはなるだろう。綺麗なまつ毛に彩られた目がこちらを睨む。私は彼女の瞳を見て、人に傷つけられてきた人の目だ、と思った。
「別に用という用があるわけじゃないけどー、ちょっと気になったから。なにもないなら付き合ってよ。」
「…なんでそんなことしなきゃいけないの。」
あー。思ったより苦戦しそうだ。でも私は今演じてるんだ。このまま押し通すしかない。こういうキャラは少し強引に相手に入っていく。でもあくまで傷つけない。ちゃんとラインはわかっている。そんなキャラが今の私。
私は彼女の問いを無視して質問をする。
「こんな時間にこんな場所で1人で何してるの?いつもいるよね。なんか辛いことあるの?失恋でもした?」
「失恋なんてしてない。ここに1人でいるのは私の勝手。夜だけは自由でいられるから。」
「へぇ、そうなんだ。」
「あなたは。」
同じことを聞き返されてるのだろう。ついでになんで私がいつもここにいるって知ってんの、という目だ。
「私はいつも家のベランダからあなたが見えてて気になったから来てみただけ。」
「…そう。私なんてなんも面白いことないよ。」
「えー、そう?そんなこと私は思わないけど。」
「へぇ。私のことなんて何ひとつ知らないくせによく言うね。」
「そんなつんけんしないでよ。じゃあせっかくだからおしゃべりしよう。あなたのこと教えて?夜は長いもの。」
「……。」
黙る彼女を見つめてみる。
すごく端正で綺麗な顔だ。美しい、と言う表現がすごく似合う。
…ふと、どこかで見たことあるなと思った。
「…もしかしてモデルだったりする?」
「は?」
「Ellenに似てる。言われたことない?本人?」
「…っ、白々しい。結局それ目当て?何あなたストーカー?警察通報するよ?」
「違うよっ!私そこのマンションに住んでんの!」
「それが本当かなんてわからないじゃない。それにだからって夜中に知らない人に話しかける?おかしいわよ。」
「じゃあ証明するからちょっと待って!あそこの家のベランダから顔出せばいいでしょう!そんな言いがかりって酷い!」
「…わかった。ごめんなさい。ちょっと神経質になってて。この間ストーカー被害に遭ったばっかりで。」
「…うん。大丈夫だった?」
「え…う、うん。」
「何心配されたのが意外だとでも言うような顔〜。私そんな酷いやつに見える〜?」
「いや…なんか、周りの大人にはバレるようなことするからいけないんだとしか言われてこなかったから、そう言うものかって。」
「えっ、酷い。何それ信じらんない。ストーカーした人が悪いに決まってんじゃん!」
「…そうよね。ありがと。」
そのお礼はさっきの動揺とは少し違って、また壁ができているように感じた。
冷めていて、ぼんやりとしたありがとう。やっぱり彼女をほだすのはなかなか厳しそうだ。
「それじゃあストーカーじゃないってことで、おしゃべりしよ?」
「…はぁ、いいけど、その前にその気持ち悪いキャラやめてよ。」
……は?
私は一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
どう言うこと?キャラ?作ってるって言われてる?
私が演じてるってバレた?私は不自然だった?
それともただただ悪口なだけ?どう言うこと?
私はまだ冷静さがあった。長年の演技力だ。私は動揺をおくびにも出さずに困った笑顔で返す。
「酷いな〜そんなこと言わないでよ。」
「それ、素じゃないでしょ。気持ち悪い。似合ってない。」
「…っ!?」
どうして?どうして?
今まで人にバレたことなんてなかった。
演じてるなんて、キャラ作ってるなんて、言われたことなかった。
「……なんで。」
「人を見る目だけはあるから。」
「私不自然だった?気持ち悪かった?」
私は人生を賭けて演じてきたのに。
何がおかしかったんだろう。私は今までずっと気持ち悪い演技をしてきたんだろうか。
「…言い方が悪かったとは思うけど。別にそう言うわけじゃない。別にあなたが変なんじゃなくて、あのキャラクターを演じてるあなたが苦しそうだから。」
「……。」
「なんかあるなら言ってよ。黙ってられたって私は何もわからないよ。私に悪口言いたいなら言いなよ。なんか苦しいことがあるならいいなよ。」
彼女の言葉には同情なんてなくて、ただあっけからんとしていた。
言いたいことがあるなら言いなさいよ、溜めてたってなんにもならないんだから。そんなふうに彼女は言う。その割り切った感じに惹かれた。私は思わずこぼしてしまった。
初対面なのに。知らない人なのに。なんでだろう。今まで一度も人に言ったことのない私の本性を、明かしてしまった。
「…私、人生全部、演じてるの。今までバレたことなんてなかった。ほんとの私なんてどこにいるかわからない。自分を押し殺して生きれば、何も不都合はなかったから。」
「そう。」
「私は全部ハリボテで、中身がないスッカスカの薄っぺらい人間。だから、初めて演じてるのがバレて、今すごく、ショック。」
「…そう。」
「でも私はこの生き方でいいと思ってる。自分があるから、傷つく。なければ傷つかない。そうでしょう?でも私は傷ついてる。どうして?私があるってことなの?じゃあその私はどこにいるの?」
「……。」
私は思わず感情が昂った。今までこんなふうに感情をむき出しにしたことなんてなかった。
なんで、こんな突然。
「…ごめん、なんか、取り乱して。」
「別に。あなたの人生一生分の愚痴なんだとしたら軽すぎるくらいだと思うけど。」
「…そう、かな。」
もわりとした重たい風が吹く。雨の匂いがかすかにする。もう梅雨だ。いつ降ってもおかしくない。
「……ねぇ、私思うんだけど。」
「…うん。」
「今そうやって悩んでるのがあなた本人でしょう?」
「……そうかな。」
「あなたは何をそんなに怖がってるのか私にはわからないけど。」
「怖がってる?」
「そうでしょう?自分が傷つくのが怖くてたまらないから逃げに逃げた結果でしょ。傷つきたくないその一心で全部押し込めて閉じ込めたんだよ。だから何に対しても免疫がついてなくて弱い状態。それが今のあなた。」
「……だって、」
自分を守って何がダメなの。
何がいけないの。
そんな私を遮って彼女はそのまま話を続ける。
「周りに都合のいいように流されてるだけ。なんならその川に自分から飛び込みに行ってる。それって楽だろうね。流されてれば終わりだもの。でも人間性としてはゼロに等しいよね。深みも厚みも、なんにもない。」
「……そんなの私が一番わかってるよ。」
「別に、私はあなたの人間性が薄っぺらいことにとやかく言うつもりはないわ。でもそれって生きてて楽しいのかなって。あなたは人生を賭けて何をしてるの?もしあなたに、守りたい自分がいるならいいと思う。けどあなたにこれだけは守りたいと思える自分はある?ないんでしょう。それならその苦労は何にもならない。」
「……っ」
自分を守るばかりで、守る自分がいるかなんて考えたことなかった。
人生を賭けて守りたいものが、私にはあるの?
「私はあるよ。守りたいものが。だから私も嘘をついてる。あなたと同じ。」
…こんなに強くて自分を生きてる人が、私と同じなわけない。
心底そう思った。
「そんなわけないって顔してるね。じゃあいいよ、しょうがないから教えてあげる。でも今日は無理。準備が必要。明日、北校舎の屋上への階段で、放課後ね。」
「…え?学校同じなの?」
「うん。私が一方的に知ってるだけだけど。」
「…本当に同じ?」
こんな綺麗な人、見たことあったら忘れないだろう。
それに同じ学校にEllenがいるなんて、人が騒ぐに決まってる。
「…今日の朝礼で校長先生が思いっきりくしゃみした。ってことを知ってるって言えば信用してくれるかしら。それでマイクがハウリング起こしてそのあとしばらくハウリングが直らなかったって。」
「……う、うん。」
「よかったわ。じゃあ。」
「ま、待って」
「なに?」
「…なんでそんなに、初対面の私に。」
「…別に。なんの理由もないよ。たまたま。」
本当にたまたまだと言うようにも、優しさがあるようにも感じる。
彼女は何を考えているのかいまいちわからないタイプだ。
「…そろそろ帰らないとだから、帰るね。」
「あ、うん。」
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
彼女はさらりとした髪を翻して、綺麗な姿勢で歩いて行った。
私は夜に消えていく彼女をどこか夢見心地で見ていた。明日、だって。なんで?何を言われるのか。私はちっともわからないけど、彼女はハッとするほど綺麗だった。
********
私はいつも通りの格好で登校した。
真っ直ぐに下ろしただけの髪の毛、校則規定通りのスカート丈。長めの前髪。何一つ飾っていない私。陰キャとして生きる私。
私は彼女が何年生なのかも、クラスがどこなのかも知らない。
思わず教室移動の時に周りを見るけれど、彼女は見当たらない。やっぱり、夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。
ぼーっとしているうちに放課後が来た。
あ、でも今週掃除当番だ。これじゃあ遅くなりそうだ。
どうしようかな。待っててくれるかな。帰っちゃうかな。
ソワソワしながら箒でゴミをかき集める。ちりとりで掬い取って、ゴミ箱に入れる。あ、ゴミ箱捨てに行かないと。パタパタと廊下を小走りで進み、昇降口の大きなゴミ箱に入れる。チラリと階段の方を見るけれど、見えるわけがなかった。代わりに時計を見る。もう放課後になってから20分が経っていた。やばい。どうしよう。私は慌てて教室に戻り、カバンを掴んで階段に向かった。
階段の上に人影が見える。よかった、まだいた。
「ごめん遅くなって。掃除で…っ!?」
そこにはジトっとこちらを睨む男子がいた。え、待って誰。
「あ、ご、ごめんなさい人違いでした…」
え、気まずい。こんなに気まずいことある?ってかこの人は何してるの?告白の呼び出しされたとか?線が細くて中性的なイケメン君だもの。モテそうだ。でもちょっと怖すぎない?
「遅い。来ないかと思った。あと人違いじゃない。」
…Ellenの声だった。どう言うこと?この男子から出た声?本当に?
私は降りかけていた階段を上がって踊り場まで行く。そこにはやっぱりその男子しかいない。
「Ellen…?」
「それは本名じゃない。本名は橋下千秋。」
もともと低めの声だなと思っていたけれど、さらにもう一段階低くなる。
明らかに男子の声。
「…Ellenは、男子ってこと?」
「まぁ、そう言うこと。」
「え…。」
でもだって、あんなに綺麗なのに。
あんなに美人なのに。女装であんなになるの?本当に?
「…ま、そんなこと言われたって信じれないだろうから、ちょっと来て。」
「え、わ、わかった。」
Ellen…もとい千秋君は私の横をすり抜けて階段を降りていく。その姿勢は昨日の夜見たEllenと同じだった。
「何ぼけっとしてんの。置いてくよ」
「あ、う、うんごめん。」
慌てて彼についていく。学校を出て駅に向かう。私の家の方向の電車に乗る。
どこに行くのかちっともわからないけど、とりあえず私はついていく。でも前を歩くこの男子が女装してるなんて微塵も信じられない。それにEllenと同一人物と言うことも。声は作ってるの?声域広いのかな?喋り方だって変えてる。あんなに自然なのってどう言うこと?
私はぐちゃぐちゃに混乱した頭をどうにかすることができないまま、目的地に着いたらしい。気づけば部屋に入っていた。
「ここ、俺ん家。適当に座って。」
小綺麗な一軒家。ご家族はいないようだ。
通されたのはリビング。綺麗に整頓されている。お母さんが綺麗好きなのだろうか。とりあえずリビングのソファを勧められたのでちょこんと座っておく。
「はい、とりあえず昨日の服ね。」
いつのまにか着替えていたらしい。昨日着ていた服と同じ格好をしている。確かにスタイルはすごくいい。Ellenだ。
「で、メイク。ちょっと時間かかるけどこの方がわかりやすい。」
やっているところを見るとそこまで厚化粧なようにも感じない。もともと肌が綺麗だ。…いや、スキンケアに気を配っていると言うことなのだろうけど。
15分ほどで、千秋君のメイクは完成した。
透き通るような肌にスッとした鼻筋、パチリとした綺麗な目。どこからどう見ても完璧に美人だった。
「そしてウィッグを被ったら…はい。ね?Ellenの完成。」
思わず絶句した。
百聞は一見にしかずとはよく言ったもの。男子だとわかった時なんかよりずっと信憑性がある。
「…なんで女装してるの?」
思わず聞いてしまうけど、こう言う質問はよくなかったりするのか。
私にはよくわからないけど、ただ純粋に気になった。
「だって、綺麗でしょ。私。」
あまりにシンプルで、私は言葉を失った。
それは、そうだ。綺麗でしょ、だって。そう、すごく綺麗。
「ただ、自分が綺麗でありたいなと思ったから。でもこの格好で生きていくにはあまりに面倒が多すぎる。だから私は隠してる。『ちょっと静か目な普通の男子高校生』の皮をかぶってる。ね、言ったでしょ。私も嘘をついてるって。私に守りたいものがあるって。」
「…うん。」
「でも、親には言ってない。小さい頃から綺麗なものが好きだったんだけど、その時の母親の反応が、ね。とてもじゃないけどいいものじゃなかった。必死で『正常な子』にしようとした。だからその通りに従った。」
「…うん。」
「夜は親が寝てるから。その隙を抜けて街に出るの。ただ美しい自分のまま、世界に出たいって言う理由で。そしたらスカウトされた。素直に嬉しかった。私、綺麗なんだなって。だからその人にこれこれこうですけど、ほんとに大丈夫ですかって確認して。驚かれたけど大丈夫って言ってくれた。」
「…そうなんだ。」
「ね、飾らなくても美しいものはあるけれど、飾れば美しくなるなら美しくいたい。それは醜いこと?」
そう澄んだ目で語る彼女は恐ろしいくらいに綺麗だった。
「でも根底まで変える必要なんてない。私は私のままで。周りに合わせるのが悪いとは言わないわ。だけどどこかで自分が生きれる場所がなくちゃ。」
「……うん。」
私は、何がしたいんだろう。
私の本心は、なんなんだろう。
「…私は、演じることも、好きなんだよ。」
「そうなの。それならそれでいいと思うけど、楽しい演技をするべき。自分が楽しい演技を。」
「私…本当は多分、色んな人と話してみたい。自分の演技の幅が広がると思う。いろいろな考えに触れるってすごく面白い。千秋君みたいに、話してて色んなことに気づく。だからそのために…フレンドリーに、なりたい。」
「そう。いいんじゃない。」
「…ありがとう。千秋君。なんか、楽になった。」
「よかった。じゃ、これから私撮影だから。」
「お仕事の前だったの。時間とってくれてありがとう。」
「…別に。」
今度はちゃんと千秋君の考えてることがわかった。
これはちょっとツンデレの、別に、だ。
********
「ねーねー今日カラオケ行こっ!!」
「いいよいいよーでもせっかくだし人数多い方が良くない?」
「ね!カラオケ行く人ー!」
「はいはい!行きたい!」
「えー行きたいんだけど!委員会の後で合流でいい?」
「あーいいよいいよー!」
絶好のチャンス。
私は声をかけている女の子・柚月ちゃんのところに行き、笑顔で声をかける。
「えっと、私も行ってもいい?」
「…っ!!優里ちゃん…!?もっちろん!!!ずっと私、優里ちゃんと話してみたかったのー!!」
「えっ…」
「行こ行こ!!みんなーっ!優里ちゃん来るって!!」
「え、マジ!?よかったじゃんずっと柚月話したいって言ってたよね〜」
「今日は記念日だー!よしいこー!!」
「えっ、えっ…」
予想外の展開。
でも…嬉しい。結構嬉しい。
カラオケに行った後も休み時間に一緒におしゃべりしてくれるようになって、放課後遊びに誘ってくれることも増えた。すごく充実していて、楽しいと感じた。
夜は相変わらず千秋が公園に来る。
私は毎晩千秋とおしゃべりをした。
毒舌だけどちょっとズレてて、優しいところもあってツンデレなところもある。どんどん新しい千秋が見えてきて、面白い。
********
コンコンコン。母の病室を訪ねた。
「お母さん。」
「優里。よく来たわね。」
「体調はどう?」
「結構いいのよ。」
いつも通りの会話。
でも私はそこまでいい子を演じていなかった。
「学校はどう?」
「楽しいよ。すごく。」
明るく答える私に少し驚いたような顔をした母は優しく笑った。
「そう。…優里、なんだか少し変わったわね。いいことがあったのかしら。好きな人でもできた?」
「えっ!?」
好きな人…好きな人?
パッと千秋の顔が頭に浮かんだ。
慌てて頭から追い払う。
「そんなことないよ!」
「ふふふ、そう?」
「もう!」
揶揄うように笑う母に拗ねて見せる。
こんなふうに砕けた会話はいつもしてこなかった。
母の笑顔は慈愛に満ちていて、やっぱり母だな、と思って少し心が暖かくなった。
********
「千秋。」
8月の夜、私はやっぱり千秋と話していた
「ん?」
「夏祭り、一緒に行かない?」
「それは彼女としてって捉えていいの?」
「…うん。」
「じゃあいいよ。」
「それは千秋も私のこと好きってこと?」
「…そりゃそうでしょ。察しろばーか。」
「千秋、口悪い。」
お互い赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
だけど、夜だけは。
夜だけは、私は私を演じなくたっていい。
あなたと共に過ごす夜だけは。
私が一番愛する私でいられる。それが夜だった。
********
昼と、夜の、間。
日が沈んで、空がオレンジから群青色に変わっていく。
…どうしてあんな反対色が、綺麗に混ざるんだろう。
自然は人間社会と違って、何をしても美しい。
それに比べて人間は、特定のこと以外はすべて醜くなる。うまく調和が取れなくなる。すごく、人間というのは下手くそだ。
私もそんな、バランス命の人間社会を生きる者のうちの1人。
なるべく波風立てないように。自分を押し殺して、生きていく。
これが、正解。
自我があるから、誰かが傷つく。自分が傷つく。
意志があるから、すれ違いが起きる。面倒が起きる。
だから私はひたすらに、演じていた。自分がどんな人かなんて、わからなくなるくらいに。
********
母親の病院に、お見舞いに行った。
真っ白な病室は窓からの光を反射して明るいけれど、どこまでも無機質だった。
スライドドアを開ける。
「あら、優里。よく来たわね。学校はどう?」
大人ってどうして学校はどうかなんて聞くんだろう。それしか話題がないんだろう。うん、楽しいよ。まあまあ。普通。返事なんてだいたいその3択でしか返ってこないのに。
私はその中でもとびきり優等生な回答を選ぶ。実際はって?何も感じない。無感情。学校に対して抱く感情なんて何もない。
「楽しいよ。今度文化祭もあるし。」
「あぁ、もうそんな時期なのね。」
「うん。今度クラスの催し物決めるんだ。」
「そういう準備が一番楽しいのよね。」
「そうそう!楽しみだな〜。あ、お母さんにこれ。」
「毎回ありがとう。そこの花瓶に生けてくれるかしら。」
「うん。」
にこにこと温かな笑みを浮かべて私は話す。自分で喋ってて気持ちが悪い。
私は窓際の花瓶に水を入れ、花屋で買った花を生ける。毎回花屋さんに全部お任せしているミニブーケなんて、なんの感情もこもってないだろう。それでも親というのは子供からもらっただけで嬉しがる。
「体調は大丈夫?」
「ええ。だいぶ安定してるみたいで。」
「よかった。」
「でもまあいつ悪くなるかわからないしね…。いつもひとりにさせちゃってごめんなさいね優里。」
あ、まずい。
途端に私のセンサーが危険を察知する。
こういうしんみりしたモードになった母は大変なのだ。
無限に自分がどれだけ不甲斐ないかを語り出す。
もうそんなの気にしてないというのに。
「ううん。だから毎回言ってるけど大丈夫だってば。お母さんはなんも悪くないんだから。あ、そんなことよりさ、おばさんに今度いつ来れるか聞いてみようと思ってて…」
「あぁ。いいのよ美智子は忙しいんだから。」
とりあえず話を逸らす。
しかし話題選びをミスってしまった。また母の顔に翳りが出る。
お母さんの妹の美智子さんはお医者さんの旦那さんを持つお金持ちで、病気にもかかわらずシングルマザーの我が家を援助してくれている。母の入院代、私の一人暮らしの家の家賃や光熱費、学費まで。その割に小さい頃からうちに私の面倒を見に来てくれたことなんてなかったし、母のお見舞いにだってちっともこない。いくら電話をしてみたってお手伝いさんに軽くあしらわれて取り合ってくれない。
つまり金は出すからこれ以上関わるな、ということなのだろう。母は昔からおっとりとした性格で、少しキツめの性格の美智子とは性格が合わず、いつも美智子はゆったりした母にイライラしていたらしい。そんな姉妹の仲の悪さも相まってだろう。ここ三年は会ってもいないし話してもいない。お金を十分に出してもらってるのだから文句なんて言えたものじゃないけれど、さすがに少し薄情なのではないかと思えてくる。
ただそんなに母親が好きで好きでたまらないわけでもないし、お母さんなんて可哀想なの、なんでなったりしない。
嫌いなのにイヤイヤ会われてもこっちも不快だし、わざわざ美智子と会う必要もないか、と思う。なので最近は特に連絡をしないようにしていた。
「…そっか。お母さんがそれでいいなら。じゃあごめん私、宿題終わってないから帰るね。」
「そう、もう帰るの?ここでやっていけばいいのに。」
「あー。ごめん勉強道具持ってきてなくて…。」
「そうなの。あぁ、ここまで自転車だから荷物軽いほうがいいものね坂道だし。じゃあね。今日もありがとう。」
「ううん。じゃあね。」
あくまで申し訳なさそうに。私自身は普通にここでやる気なんてなかった。なんなら宿題なんて出てない。帰るための口実。
病気のお母さんになんて薄情な、って、言われないように。
私はいい娘を演じる。
正直なところ、私を育ててくれたのはほぼおばあちゃんだから、お母さんに思い入れなんてない。どのくらいの距離感なのか掴めていない。どこか他人行儀になってしまう。
そのおばあちゃんも今はもういない。私が中学生の時に亡くなった。あの時から私は全く話さなくなった。大好きなおばあちゃんを亡くして心が死んでしまった女の子になった。そのまま人に説明するのがめんどくさいし、関わられたくないと言う思いから高校では友達を作らなくなった。
…なんて、そんなの全部演技。
私は小さい時からずーっとずーっと、演じてた。
小さい頃は、お母さんがお家にいなくて寂しがってる女の子。優しいおばあちゃんが大好きでしょうがない無邪気な女の子。
小学生になって少し経つと少し大人びた、お母さんを理解した女の子に。おばあちゃんに気を使う心優しい女の子に。
中学生になると人に家庭事情を知られて気を遣わせたくないな、とどことなく隠している少し距離のある女の子。お母さんを絶対に困らせない、すごくいい子。
おばあちゃんが亡くなってからは傷心した可哀想な女の子。
高校生では人と関わりたくない孤高の存在に。でもきっちり空気は読む、陰キャを選んだ。そしてやがてなにひとつ目立たないように生きた私は空気を読まなくても良くなった。私と言う存在が空気のようなものになったから。
どうして演じてるのかなんて、聞かないでほしい。
私には別に、深い理由なんてない。
よくわからない世間の波に押されないように、流されないように、自分を持たないようにした。ありきたりな人でいれば、周りはどうしたらいいのかよくわかる。周りを困らせない、なにも面倒なことは起きない、すごく楽な人生になる。
傷つくことはない。周りを傷つけることもない。それが私のモットー。
私は自分で敷いたレールの上を着実に歩いていた。
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眠れなかった。
チクタクと電子時計の音が部屋に響く。
真夜中、日付が変わる少し前。
私の目はぱっちりと冴えていた。いつものこと。
私はベランダに出た。生暖かくて、湿っぽい。もう6月だ。
マンションに面している小さな公園を見下ろす。紫陽花が咲いている。
公園のベンチに、1人の女の子が座っている。
私がベランダに出るようになってから毎日。つまり5月下旬から。けどもっと前からいたかもしれない。
私はいつもいるなと思いつつ、そんなに彼女自身は見ていなかった。いつも木の影に隠れたベンチにいるから。でも今日はこちら側を向いているベンチに座っていて、彼女がよく見えた。私は少し気になって、彼女を見てみた。
年は、同じくらいだろうか。長い栗色の髪の毛、黒いキャップをかぶっていて、耳元からはイヤリングがのぞいている。半袖のパーカーにジーンズと、シンプルな服装だけれどスタイルの良さからおしゃれさが漂っている。
彼女がふと顔を上げた。長いまつ毛、スッとした鼻筋。バランスが取れていて、綺麗だなと思った。
私は演じたいと思った。
真夜中に物思いに耽る子に、突然話しかける明るい子に。
小説から出てくるような、活発で、エネルギーにキラキラしていて、素敵な女の子に。
それには準備が必要だ。多分、明日も来るだろう。
明日。私は彼女に話しかける。
とびきり明るい、太陽みたいな女の子として。
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次の日の夜。
学校も買い物も終わって家に帰る。
夕飯を食べて一度軽くシャワーを浴びる。
もう夜になる時間。
そろそろ、始めよう。
私は今から、優里じゃなくなる。
今時風のおしゃれなメイク。
ラメが入ったオレンジ色の目元。ツヤのあるリップ。
丁寧に下地を作ったおかげでできた透明感のある肌。
うん、我ながら、いい感じ。
放課後ショッピングモールで買ってきたコーディネートは黒の肩出しフリルトップスにショートパンツ、足元にはサンダル。
腕にはシンプルなブレスレット。髪の毛はゆるく巻いてハーフアップにする。
出来上がった私を鏡で見る。
そこに映るのはクラスの冴えない陰キャなんかじゃなくて、どこからどう見てもキラキラとしたおしゃれ女子だった。
まるでシンデレラだ。
あまりの変わりように少し笑ってしまう。
人はやりようで全く変わるのだ。どんなに可愛くなくても、ものすごい美人にだってなれる。
時間を見ると昨日と同じくらい。私はベランダに出て下を見下ろす。
いた。彼女だ。
私はもう一度鏡を見て、にこりと笑みを浮かべる。大丈夫。自分に自信がある、活発で可愛い女の子の笑顔だ。完璧に演じれてる。それを確認すると、私は外に出た。
********
彼女はすぐに歩いてくる私に気づいた。
静かな公園では些細な音も安易に聞こえる。
不審げに私を見る彼女に私は笑顔で話しかける。大丈夫、さっき鏡で見た笑顔と全く同じ顔の感覚。つまり同じ顔。私は演じれてる。
「こんばんは。はじめまして!」
「…どーも。誰?なんか用?」
警戒心丸出しの態度だ。まあ、そりゃ急に知らない人に話しかけられたらそうはなるだろう。綺麗なまつ毛に彩られた目がこちらを睨む。私は彼女の瞳を見て、人に傷つけられてきた人の目だ、と思った。
「別に用という用があるわけじゃないけどー、ちょっと気になったから。なにもないなら付き合ってよ。」
「…なんでそんなことしなきゃいけないの。」
あー。思ったより苦戦しそうだ。でも私は今演じてるんだ。このまま押し通すしかない。こういうキャラは少し強引に相手に入っていく。でもあくまで傷つけない。ちゃんとラインはわかっている。そんなキャラが今の私。
私は彼女の問いを無視して質問をする。
「こんな時間にこんな場所で1人で何してるの?いつもいるよね。なんか辛いことあるの?失恋でもした?」
「失恋なんてしてない。ここに1人でいるのは私の勝手。夜だけは自由でいられるから。」
「へぇ、そうなんだ。」
「あなたは。」
同じことを聞き返されてるのだろう。ついでになんで私がいつもここにいるって知ってんの、という目だ。
「私はいつも家のベランダからあなたが見えてて気になったから来てみただけ。」
「…そう。私なんてなんも面白いことないよ。」
「えー、そう?そんなこと私は思わないけど。」
「へぇ。私のことなんて何ひとつ知らないくせによく言うね。」
「そんなつんけんしないでよ。じゃあせっかくだからおしゃべりしよう。あなたのこと教えて?夜は長いもの。」
「……。」
黙る彼女を見つめてみる。
すごく端正で綺麗な顔だ。美しい、と言う表現がすごく似合う。
…ふと、どこかで見たことあるなと思った。
「…もしかしてモデルだったりする?」
「は?」
「Ellenに似てる。言われたことない?本人?」
「…っ、白々しい。結局それ目当て?何あなたストーカー?警察通報するよ?」
「違うよっ!私そこのマンションに住んでんの!」
「それが本当かなんてわからないじゃない。それにだからって夜中に知らない人に話しかける?おかしいわよ。」
「じゃあ証明するからちょっと待って!あそこの家のベランダから顔出せばいいでしょう!そんな言いがかりって酷い!」
「…わかった。ごめんなさい。ちょっと神経質になってて。この間ストーカー被害に遭ったばっかりで。」
「…うん。大丈夫だった?」
「え…う、うん。」
「何心配されたのが意外だとでも言うような顔〜。私そんな酷いやつに見える〜?」
「いや…なんか、周りの大人にはバレるようなことするからいけないんだとしか言われてこなかったから、そう言うものかって。」
「えっ、酷い。何それ信じらんない。ストーカーした人が悪いに決まってんじゃん!」
「…そうよね。ありがと。」
そのお礼はさっきの動揺とは少し違って、また壁ができているように感じた。
冷めていて、ぼんやりとしたありがとう。やっぱり彼女をほだすのはなかなか厳しそうだ。
「それじゃあストーカーじゃないってことで、おしゃべりしよ?」
「…はぁ、いいけど、その前にその気持ち悪いキャラやめてよ。」
……は?
私は一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
どう言うこと?キャラ?作ってるって言われてる?
私が演じてるってバレた?私は不自然だった?
それともただただ悪口なだけ?どう言うこと?
私はまだ冷静さがあった。長年の演技力だ。私は動揺をおくびにも出さずに困った笑顔で返す。
「酷いな〜そんなこと言わないでよ。」
「それ、素じゃないでしょ。気持ち悪い。似合ってない。」
「…っ!?」
どうして?どうして?
今まで人にバレたことなんてなかった。
演じてるなんて、キャラ作ってるなんて、言われたことなかった。
「……なんで。」
「人を見る目だけはあるから。」
「私不自然だった?気持ち悪かった?」
私は人生を賭けて演じてきたのに。
何がおかしかったんだろう。私は今までずっと気持ち悪い演技をしてきたんだろうか。
「…言い方が悪かったとは思うけど。別にそう言うわけじゃない。別にあなたが変なんじゃなくて、あのキャラクターを演じてるあなたが苦しそうだから。」
「……。」
「なんかあるなら言ってよ。黙ってられたって私は何もわからないよ。私に悪口言いたいなら言いなよ。なんか苦しいことがあるならいいなよ。」
彼女の言葉には同情なんてなくて、ただあっけからんとしていた。
言いたいことがあるなら言いなさいよ、溜めてたってなんにもならないんだから。そんなふうに彼女は言う。その割り切った感じに惹かれた。私は思わずこぼしてしまった。
初対面なのに。知らない人なのに。なんでだろう。今まで一度も人に言ったことのない私の本性を、明かしてしまった。
「…私、人生全部、演じてるの。今までバレたことなんてなかった。ほんとの私なんてどこにいるかわからない。自分を押し殺して生きれば、何も不都合はなかったから。」
「そう。」
「私は全部ハリボテで、中身がないスッカスカの薄っぺらい人間。だから、初めて演じてるのがバレて、今すごく、ショック。」
「…そう。」
「でも私はこの生き方でいいと思ってる。自分があるから、傷つく。なければ傷つかない。そうでしょう?でも私は傷ついてる。どうして?私があるってことなの?じゃあその私はどこにいるの?」
「……。」
私は思わず感情が昂った。今までこんなふうに感情をむき出しにしたことなんてなかった。
なんで、こんな突然。
「…ごめん、なんか、取り乱して。」
「別に。あなたの人生一生分の愚痴なんだとしたら軽すぎるくらいだと思うけど。」
「…そう、かな。」
もわりとした重たい風が吹く。雨の匂いがかすかにする。もう梅雨だ。いつ降ってもおかしくない。
「……ねぇ、私思うんだけど。」
「…うん。」
「今そうやって悩んでるのがあなた本人でしょう?」
「……そうかな。」
「あなたは何をそんなに怖がってるのか私にはわからないけど。」
「怖がってる?」
「そうでしょう?自分が傷つくのが怖くてたまらないから逃げに逃げた結果でしょ。傷つきたくないその一心で全部押し込めて閉じ込めたんだよ。だから何に対しても免疫がついてなくて弱い状態。それが今のあなた。」
「……だって、」
自分を守って何がダメなの。
何がいけないの。
そんな私を遮って彼女はそのまま話を続ける。
「周りに都合のいいように流されてるだけ。なんならその川に自分から飛び込みに行ってる。それって楽だろうね。流されてれば終わりだもの。でも人間性としてはゼロに等しいよね。深みも厚みも、なんにもない。」
「……そんなの私が一番わかってるよ。」
「別に、私はあなたの人間性が薄っぺらいことにとやかく言うつもりはないわ。でもそれって生きてて楽しいのかなって。あなたは人生を賭けて何をしてるの?もしあなたに、守りたい自分がいるならいいと思う。けどあなたにこれだけは守りたいと思える自分はある?ないんでしょう。それならその苦労は何にもならない。」
「……っ」
自分を守るばかりで、守る自分がいるかなんて考えたことなかった。
人生を賭けて守りたいものが、私にはあるの?
「私はあるよ。守りたいものが。だから私も嘘をついてる。あなたと同じ。」
…こんなに強くて自分を生きてる人が、私と同じなわけない。
心底そう思った。
「そんなわけないって顔してるね。じゃあいいよ、しょうがないから教えてあげる。でも今日は無理。準備が必要。明日、北校舎の屋上への階段で、放課後ね。」
「…え?学校同じなの?」
「うん。私が一方的に知ってるだけだけど。」
「…本当に同じ?」
こんな綺麗な人、見たことあったら忘れないだろう。
それに同じ学校にEllenがいるなんて、人が騒ぐに決まってる。
「…今日の朝礼で校長先生が思いっきりくしゃみした。ってことを知ってるって言えば信用してくれるかしら。それでマイクがハウリング起こしてそのあとしばらくハウリングが直らなかったって。」
「……う、うん。」
「よかったわ。じゃあ。」
「ま、待って」
「なに?」
「…なんでそんなに、初対面の私に。」
「…別に。なんの理由もないよ。たまたま。」
本当にたまたまだと言うようにも、優しさがあるようにも感じる。
彼女は何を考えているのかいまいちわからないタイプだ。
「…そろそろ帰らないとだから、帰るね。」
「あ、うん。」
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
彼女はさらりとした髪を翻して、綺麗な姿勢で歩いて行った。
私は夜に消えていく彼女をどこか夢見心地で見ていた。明日、だって。なんで?何を言われるのか。私はちっともわからないけど、彼女はハッとするほど綺麗だった。
********
私はいつも通りの格好で登校した。
真っ直ぐに下ろしただけの髪の毛、校則規定通りのスカート丈。長めの前髪。何一つ飾っていない私。陰キャとして生きる私。
私は彼女が何年生なのかも、クラスがどこなのかも知らない。
思わず教室移動の時に周りを見るけれど、彼女は見当たらない。やっぱり、夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。
ぼーっとしているうちに放課後が来た。
あ、でも今週掃除当番だ。これじゃあ遅くなりそうだ。
どうしようかな。待っててくれるかな。帰っちゃうかな。
ソワソワしながら箒でゴミをかき集める。ちりとりで掬い取って、ゴミ箱に入れる。あ、ゴミ箱捨てに行かないと。パタパタと廊下を小走りで進み、昇降口の大きなゴミ箱に入れる。チラリと階段の方を見るけれど、見えるわけがなかった。代わりに時計を見る。もう放課後になってから20分が経っていた。やばい。どうしよう。私は慌てて教室に戻り、カバンを掴んで階段に向かった。
階段の上に人影が見える。よかった、まだいた。
「ごめん遅くなって。掃除で…っ!?」
そこにはジトっとこちらを睨む男子がいた。え、待って誰。
「あ、ご、ごめんなさい人違いでした…」
え、気まずい。こんなに気まずいことある?ってかこの人は何してるの?告白の呼び出しされたとか?線が細くて中性的なイケメン君だもの。モテそうだ。でもちょっと怖すぎない?
「遅い。来ないかと思った。あと人違いじゃない。」
…Ellenの声だった。どう言うこと?この男子から出た声?本当に?
私は降りかけていた階段を上がって踊り場まで行く。そこにはやっぱりその男子しかいない。
「Ellen…?」
「それは本名じゃない。本名は橋下千秋。」
もともと低めの声だなと思っていたけれど、さらにもう一段階低くなる。
明らかに男子の声。
「…Ellenは、男子ってこと?」
「まぁ、そう言うこと。」
「え…。」
でもだって、あんなに綺麗なのに。
あんなに美人なのに。女装であんなになるの?本当に?
「…ま、そんなこと言われたって信じれないだろうから、ちょっと来て。」
「え、わ、わかった。」
Ellen…もとい千秋君は私の横をすり抜けて階段を降りていく。その姿勢は昨日の夜見たEllenと同じだった。
「何ぼけっとしてんの。置いてくよ」
「あ、う、うんごめん。」
慌てて彼についていく。学校を出て駅に向かう。私の家の方向の電車に乗る。
どこに行くのかちっともわからないけど、とりあえず私はついていく。でも前を歩くこの男子が女装してるなんて微塵も信じられない。それにEllenと同一人物と言うことも。声は作ってるの?声域広いのかな?喋り方だって変えてる。あんなに自然なのってどう言うこと?
私はぐちゃぐちゃに混乱した頭をどうにかすることができないまま、目的地に着いたらしい。気づけば部屋に入っていた。
「ここ、俺ん家。適当に座って。」
小綺麗な一軒家。ご家族はいないようだ。
通されたのはリビング。綺麗に整頓されている。お母さんが綺麗好きなのだろうか。とりあえずリビングのソファを勧められたのでちょこんと座っておく。
「はい、とりあえず昨日の服ね。」
いつのまにか着替えていたらしい。昨日着ていた服と同じ格好をしている。確かにスタイルはすごくいい。Ellenだ。
「で、メイク。ちょっと時間かかるけどこの方がわかりやすい。」
やっているところを見るとそこまで厚化粧なようにも感じない。もともと肌が綺麗だ。…いや、スキンケアに気を配っていると言うことなのだろうけど。
15分ほどで、千秋君のメイクは完成した。
透き通るような肌にスッとした鼻筋、パチリとした綺麗な目。どこからどう見ても完璧に美人だった。
「そしてウィッグを被ったら…はい。ね?Ellenの完成。」
思わず絶句した。
百聞は一見にしかずとはよく言ったもの。男子だとわかった時なんかよりずっと信憑性がある。
「…なんで女装してるの?」
思わず聞いてしまうけど、こう言う質問はよくなかったりするのか。
私にはよくわからないけど、ただ純粋に気になった。
「だって、綺麗でしょ。私。」
あまりにシンプルで、私は言葉を失った。
それは、そうだ。綺麗でしょ、だって。そう、すごく綺麗。
「ただ、自分が綺麗でありたいなと思ったから。でもこの格好で生きていくにはあまりに面倒が多すぎる。だから私は隠してる。『ちょっと静か目な普通の男子高校生』の皮をかぶってる。ね、言ったでしょ。私も嘘をついてるって。私に守りたいものがあるって。」
「…うん。」
「でも、親には言ってない。小さい頃から綺麗なものが好きだったんだけど、その時の母親の反応が、ね。とてもじゃないけどいいものじゃなかった。必死で『正常な子』にしようとした。だからその通りに従った。」
「…うん。」
「夜は親が寝てるから。その隙を抜けて街に出るの。ただ美しい自分のまま、世界に出たいって言う理由で。そしたらスカウトされた。素直に嬉しかった。私、綺麗なんだなって。だからその人にこれこれこうですけど、ほんとに大丈夫ですかって確認して。驚かれたけど大丈夫って言ってくれた。」
「…そうなんだ。」
「ね、飾らなくても美しいものはあるけれど、飾れば美しくなるなら美しくいたい。それは醜いこと?」
そう澄んだ目で語る彼女は恐ろしいくらいに綺麗だった。
「でも根底まで変える必要なんてない。私は私のままで。周りに合わせるのが悪いとは言わないわ。だけどどこかで自分が生きれる場所がなくちゃ。」
「……うん。」
私は、何がしたいんだろう。
私の本心は、なんなんだろう。
「…私は、演じることも、好きなんだよ。」
「そうなの。それならそれでいいと思うけど、楽しい演技をするべき。自分が楽しい演技を。」
「私…本当は多分、色んな人と話してみたい。自分の演技の幅が広がると思う。いろいろな考えに触れるってすごく面白い。千秋君みたいに、話してて色んなことに気づく。だからそのために…フレンドリーに、なりたい。」
「そう。いいんじゃない。」
「…ありがとう。千秋君。なんか、楽になった。」
「よかった。じゃ、これから私撮影だから。」
「お仕事の前だったの。時間とってくれてありがとう。」
「…別に。」
今度はちゃんと千秋君の考えてることがわかった。
これはちょっとツンデレの、別に、だ。
********
「ねーねー今日カラオケ行こっ!!」
「いいよいいよーでもせっかくだし人数多い方が良くない?」
「ね!カラオケ行く人ー!」
「はいはい!行きたい!」
「えー行きたいんだけど!委員会の後で合流でいい?」
「あーいいよいいよー!」
絶好のチャンス。
私は声をかけている女の子・柚月ちゃんのところに行き、笑顔で声をかける。
「えっと、私も行ってもいい?」
「…っ!!優里ちゃん…!?もっちろん!!!ずっと私、優里ちゃんと話してみたかったのー!!」
「えっ…」
「行こ行こ!!みんなーっ!優里ちゃん来るって!!」
「え、マジ!?よかったじゃんずっと柚月話したいって言ってたよね〜」
「今日は記念日だー!よしいこー!!」
「えっ、えっ…」
予想外の展開。
でも…嬉しい。結構嬉しい。
カラオケに行った後も休み時間に一緒におしゃべりしてくれるようになって、放課後遊びに誘ってくれることも増えた。すごく充実していて、楽しいと感じた。
夜は相変わらず千秋が公園に来る。
私は毎晩千秋とおしゃべりをした。
毒舌だけどちょっとズレてて、優しいところもあってツンデレなところもある。どんどん新しい千秋が見えてきて、面白い。
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コンコンコン。母の病室を訪ねた。
「お母さん。」
「優里。よく来たわね。」
「体調はどう?」
「結構いいのよ。」
いつも通りの会話。
でも私はそこまでいい子を演じていなかった。
「学校はどう?」
「楽しいよ。すごく。」
明るく答える私に少し驚いたような顔をした母は優しく笑った。
「そう。…優里、なんだか少し変わったわね。いいことがあったのかしら。好きな人でもできた?」
「えっ!?」
好きな人…好きな人?
パッと千秋の顔が頭に浮かんだ。
慌てて頭から追い払う。
「そんなことないよ!」
「ふふふ、そう?」
「もう!」
揶揄うように笑う母に拗ねて見せる。
こんなふうに砕けた会話はいつもしてこなかった。
母の笑顔は慈愛に満ちていて、やっぱり母だな、と思って少し心が暖かくなった。
********
「千秋。」
8月の夜、私はやっぱり千秋と話していた
「ん?」
「夏祭り、一緒に行かない?」
「それは彼女としてって捉えていいの?」
「…うん。」
「じゃあいいよ。」
「それは千秋も私のこと好きってこと?」
「…そりゃそうでしょ。察しろばーか。」
「千秋、口悪い。」
お互い赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。