「長良とのこと……ほんと?」


 葵の耳に、弱々しい声が飛び込んでくる。
 浅羽の目が真剣な光をたたえている。

 なにを、見たのだろう。
 なにを、聞いたのだろう。

 何も言えなくなる。じっと浅羽を見つめると、浅羽の目がふっと細くなり、それから抱き起こすように力を込められた。
 素直に抱き起こされてしまう体は、脱力しきって使い物にならないまま。


──長良とのこと。


 長良は、葵と浅羽の学校の物理教師だ。二十代後半の、落ち着いた大人と無邪気な子供が若干入り混じった特殊な性格をしており、女子生徒からの人気が高い。休み時間には何度も物理研究室に足を運ぶ女子を見ていたから、もしかすると自分も──と思ったのは事実だ。

「なんのこと?」

 首を傾げた葵に、浅羽がゆるくたじろいだ。

 確かに、葵は長良と会ったことがある。"長良とのこと"に思い当たる節があるとすれば、それくらいしかない。
 黙ったままぐっと見上げた浅羽の頬がほんのりピンク色に染まっていた。


「……寝たって」
「え?」
「長良と寝たって、ほんと?」

 ほんと?の部分はほとんど聞こえないほどに掠れていた。葵の口から「え」と拍子抜けした声が洩れる。
 これまでも、周囲で噂が広まり、有る事無い事言われることはあった。自分が人よりも優れた容姿をしているのはある程度自覚はあったし、仕方がないとも思っていた。
 けれど、これはあまりにも、だ。

「デマだろって思ったけど、その……俺、葵のこと、まだよく知らないから」
「それで僕が先生と寝たって信じちゃうの?」
「いや、信じるってか……」
「酷いね、浅羽くん」

 一瞬、浅羽の顔が歪む。ほとんど泣きそうな顔だった。

「僕、学校ではしない主義だから」
「……え」

 浅羽の目が見開かれる。反応がおもしろくて、つい、意地悪したくなる。
 男らしくて男子高校生を極めているような浅羽は、案外純粋な心を持っているらしい。

「ははっ、嘘だよ浅羽くん。経験ないから、安心して」


 分かりやすく安堵の表情を浮かべた浅羽は「ふざけんな……」と呟いて顔を伏せた。

「そのデマ情報、結構広まってる」
「浅羽くんだけがデマって知っててくれれば別にいいよ」
「なんだそれ」

 伸びてきた腕が、ぎゅっと葵の体を抱きしめる。それはいつもより強くて、けれど優しい力だった。