「なぁ、きいた?」
年末を控えた冬のこと。顧問の事情による急な部活のオフに心を踊らせていた放課後、主語のない言葉をかけてきたユキヤが前席の机に腰掛けた。
「……なにが」
嫌な予感がする。ニタニタと、勿体ぶるような含み笑いをする友人に浅羽は苛立ちを覚えつつ視線を預ける。
一刻も早く帰ってしまいたくて、友人を見る目つきが鋭くなったのが自分でもわかった。
「長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ」
──ナガラセンコートアオイキヅキがネタ?
──長良と葵綺月?
────寝た?
一瞬で頭が真っ白になり、文字が脳内を駆け抜ける。何度も反芻してようやく、一つずつ漢字に変換されていく。
バラバラに変換された文字が、ゆっくり繋がって、そこではじめて意味を理解した。
「……どっから」
「バド部の奴らが見たんだってよ。放課後の第二倉庫に小窓あんじゃん。ほら、あそこ内側から鍵かかるし」
「……デマだろ」
まずはじめに思ったのは、信じられない、ということだった。浅羽の脳裏に葵の顔がよみがえる。
葵は神聖で、硝子細工のように美しくて、だから、そんな。
ーーひとりに、しないで。
葵の声が反芻する。何かにすがるような、声だった。
まさか、本当に、何かに耐えられなくなって、寂しさを埋めるために、いや、葵に限って、そんなこと──。
それとも、二人は、デキているのだろうか。教師と、生徒だというのに。
そんな、ありえない。
ありえるものか。ありえてほしくない。
「おーい雨月。おまえ、真っ青じゃん。どしたん」
ユキヤにのぞき込まれ、大きくのけぞる。
「なんでもねえよ。……てか、それどんくらいが知ってんの」
「あの葵綺月だからな、広まるの早いだろ。少なくとも同学年はみんな知ってんじゃね」
「……」
「しかも相手は女子人気抜群の長良。いやぁ、お互いリスク高いのによくやんねえ。女子大泣き案件だろこれ」
「デマ、だろ。そんなん」
乾いた笑いを漏らす浅羽を見つめたユキヤは、「ま、どーでもいいけど」とつぶやいて鞄を持った。
「じゃーね」
あっさり帰っていく友人の挨拶に言葉を返そうとして、結局口が動かせないまま、浅羽は茫然と教室に立ちつくしていた。
*
「なんか、よそよそしくない?」
その夜、いつも通りに、と何度も脳内で繰り返しながら顔を合わせた葵に、一目で気が付かれてしまった。鋭い指摘への動揺も隠し切れなかったのだろう、葵が眉を寄せたまま隣り合う距離を縮めてくる。ちらりと見えた窓の外には、依然として輝く月が浮かんでいる。
「なんでもねえよ」
「嘘。雨月くん、おかしいよ」
ぐい、と近づいてきた造形美には未だに委縮してしまう。
――長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ。
ぐるぐると、浅羽の脳内が埋め尽くされていく。
どうして、何も知らないみたいな、当事者ではないような目をするのだろう。穢れなんて一点もないような、純粋な瞳をしているのだろう、こいつは。
その顔のしたには、いったいどんな素顔がある?
今のお前は、本当の葵綺月は、どこにいるんだ?
葵の繊細な指先が伸びてくる。それは、その指は、いったい誰に触れたんだ。
浅羽は無意識に、その指を強く払っていた。
「――近えよ」
「うわ……っ」
思っていたより強い力が出てしまったらしい。
葵の細い体が押し返されて、ソファから体勢を崩すように滑り落ちていく。
その身体を受け止めようと腕を伸ばしたのも、また、無意識だった。
葵の背中が床につくギリギリで、浅羽の手が葵の頭をとらえる。
鼻先が、触れ合うほどに、近かった。
さいあくだ。また、そう思う。
幾度となく、この造形美を眺めるたびに思ってきた。
――どうしてこんな奴を、好きになってしまったのだろう。
――どうしてこんなにも、つながってしまったのだろう。
――後戻りのできないところまで、きてしまったのだろう。
「長良とのこと……ほんと?」
先ほどまで窓から見えていた月は、いつの間にか、黒い雲に覆い隠されていた。
年末を控えた冬のこと。顧問の事情による急な部活のオフに心を踊らせていた放課後、主語のない言葉をかけてきたユキヤが前席の机に腰掛けた。
「……なにが」
嫌な予感がする。ニタニタと、勿体ぶるような含み笑いをする友人に浅羽は苛立ちを覚えつつ視線を預ける。
一刻も早く帰ってしまいたくて、友人を見る目つきが鋭くなったのが自分でもわかった。
「長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ」
──ナガラセンコートアオイキヅキがネタ?
──長良と葵綺月?
────寝た?
一瞬で頭が真っ白になり、文字が脳内を駆け抜ける。何度も反芻してようやく、一つずつ漢字に変換されていく。
バラバラに変換された文字が、ゆっくり繋がって、そこではじめて意味を理解した。
「……どっから」
「バド部の奴らが見たんだってよ。放課後の第二倉庫に小窓あんじゃん。ほら、あそこ内側から鍵かかるし」
「……デマだろ」
まずはじめに思ったのは、信じられない、ということだった。浅羽の脳裏に葵の顔がよみがえる。
葵は神聖で、硝子細工のように美しくて、だから、そんな。
ーーひとりに、しないで。
葵の声が反芻する。何かにすがるような、声だった。
まさか、本当に、何かに耐えられなくなって、寂しさを埋めるために、いや、葵に限って、そんなこと──。
それとも、二人は、デキているのだろうか。教師と、生徒だというのに。
そんな、ありえない。
ありえるものか。ありえてほしくない。
「おーい雨月。おまえ、真っ青じゃん。どしたん」
ユキヤにのぞき込まれ、大きくのけぞる。
「なんでもねえよ。……てか、それどんくらいが知ってんの」
「あの葵綺月だからな、広まるの早いだろ。少なくとも同学年はみんな知ってんじゃね」
「……」
「しかも相手は女子人気抜群の長良。いやぁ、お互いリスク高いのによくやんねえ。女子大泣き案件だろこれ」
「デマ、だろ。そんなん」
乾いた笑いを漏らす浅羽を見つめたユキヤは、「ま、どーでもいいけど」とつぶやいて鞄を持った。
「じゃーね」
あっさり帰っていく友人の挨拶に言葉を返そうとして、結局口が動かせないまま、浅羽は茫然と教室に立ちつくしていた。
*
「なんか、よそよそしくない?」
その夜、いつも通りに、と何度も脳内で繰り返しながら顔を合わせた葵に、一目で気が付かれてしまった。鋭い指摘への動揺も隠し切れなかったのだろう、葵が眉を寄せたまま隣り合う距離を縮めてくる。ちらりと見えた窓の外には、依然として輝く月が浮かんでいる。
「なんでもねえよ」
「嘘。雨月くん、おかしいよ」
ぐい、と近づいてきた造形美には未だに委縮してしまう。
――長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ。
ぐるぐると、浅羽の脳内が埋め尽くされていく。
どうして、何も知らないみたいな、当事者ではないような目をするのだろう。穢れなんて一点もないような、純粋な瞳をしているのだろう、こいつは。
その顔のしたには、いったいどんな素顔がある?
今のお前は、本当の葵綺月は、どこにいるんだ?
葵の繊細な指先が伸びてくる。それは、その指は、いったい誰に触れたんだ。
浅羽は無意識に、その指を強く払っていた。
「――近えよ」
「うわ……っ」
思っていたより強い力が出てしまったらしい。
葵の細い体が押し返されて、ソファから体勢を崩すように滑り落ちていく。
その身体を受け止めようと腕を伸ばしたのも、また、無意識だった。
葵の背中が床につくギリギリで、浅羽の手が葵の頭をとらえる。
鼻先が、触れ合うほどに、近かった。
さいあくだ。また、そう思う。
幾度となく、この造形美を眺めるたびに思ってきた。
――どうしてこんな奴を、好きになってしまったのだろう。
――どうしてこんなにも、つながってしまったのだろう。
――後戻りのできないところまで、きてしまったのだろう。
「長良とのこと……ほんと?」
先ほどまで窓から見えていた月は、いつの間にか、黒い雲に覆い隠されていた。