葵に落ちてから、半年が過ぎた。こんなにも長く想っているのになんの進展もないのは、世間一般だと“小心者“だとか、‘チキン’と呼ばれてしまうかもしれない。けれど浅羽にとってはそれでよかった。それが、よかった。

 肌寒い夜道を歩いていた浅羽は、電柱の横でふと足を止めた。空を見上げると、月がよく見える。いつだったか、冬の空気は澄んでいるので天体が観測しやすいと物理教師が言っていた。
 見上げているとふいに、ぽとり、と天から水が落ちてくる。
 それが雨だと気づいたときには、すでに激しく降り始めていた。

「まじかよ……」

 申し訳程度に手で頭を覆った浅羽は、薄暗い道を駆ける。雨足は一気に強まり、気まぐれに散歩なんてしようとした自分自身に苛立ちを覚えた。
 普段通ることのない、民家の隙間にある抜け道。
 今日だけは許してくださいと誰に対してかも分からない謝罪を念じながら、道を通り抜けようと思った時だった。

「まって」

 ふいに声が耳朶を打ち、足が止まる。視線を上げた浅羽は、次の瞬間、また息の仕方を忘れていた。
 この感覚は、いつぶりだろうか。
 心臓が強く脈打ち、全身の血液が沸騰するように騒いでいる。

「雨宿り、していかない?」

 ベランダから顔を出していたのは、紛れもなく、あの葵綺月だった。葵の後ろで月が光っている。

ーー今まで見た中で、いちばん綺麗な月だった。

「ちょっと待って、迎えに行くよ」
「っは、」

 一方的に呟いて、あっというまにベランダから姿を消した葵。浅羽が呆然とベランダを見つめていると、急に目の前のドアが開き、眩しいほどの造形美が現れた。

「雨ひどいでしょ。ほら、はやく」

 ぐい、と腕を掴まれて、半ば強引に玄関に入れられる。引く時の力が思っていたよりも強かったことに、浅羽は素直に驚いた。

「……あの」

 知らない男を家にあげるなど、しない方がいい。この美青年は自分の顔立ちの麗しさを理解しているのだろうかと、浅羽は葵を見つめながら不安になる。

「こういうの、あんましない方が、いいっす」
「どうして? 僕はただ、人助けをしようと…」
「そういう厚意を都合よく勘違いするやつだって、いるんです」

 握られたままの手を振り解いて、浅羽は葵に背を向けた。
 葵の親切心は十分に伝わったが、見ず知らずの男を家に引き入れるなど、警戒心が足りなさすぎる。

 浅羽は知っている。周りの男たちが、「葵綺月なら抱けるわ」とまるでコンテンツのように彼を扱っていることを。いくらノリだったとしても、その言葉を聞くたびに腹の底からドス黒い感情が込み上げてくるのを何度も堪えた。

 葵綺月、という麗しい名が、一種のブランドの如くフルネームで呼ばれているのも知っている。そして浅羽自身もたまにフルネームで呼んでしまうことがある。それほどに葵の美しさは、人間を超えた、代え難いものなのだ。

「……知らないやつを家に入れんの、やめた方がいい、す」

 注意口調になれず語尾が小声になった浅羽の背中に「僕ときみは友達だよ」と声がかかる。

 こんなときにまで、存在を認識されていたんだ、と意味不明な思考回路に陥る自分が憎い。

「浅羽くん。浅羽雨月(うげつ)くん」

 うづき、と間違えられがちな名前を、正しく"うげつ"と覚えていてくれた。ドアノブに伸ばそうとしていた手が止まる。

「綺麗な名前だと思って覚えていたんだ。雨の月、今日の景色みたいだね」


 葵の声は、時に毒のように浅羽の心を蝕む。じわり、胸のなかで毒が広がる感覚がした。

「あの……さ、」

ーーそういうの、やめろよ。
 そう続けようとして、どくどくと鼓動が速まる。振り返った浅羽の目に飛び込んできたのは、目を伏せ、涙を流す葵の姿だった。思わず瞠目した浅羽の腕を、泣き濡れた葵の手が掴む。
 薄い唇が、震えながら、わずかに動いた。

「……ひとりに、しないで」

 ……それは、弱々しく、繊細で。
 あおい夜に溶けた月のように、孤独を放っていた。