葵綺月は、有名だった。
 最大の要因は、まるでつくりものかと思うほど整った顔の持ち主だということ。

 入学当初「ありえないほどの美人がいる」という噂が駆け巡り、葵のいる一組に人だかりができていた。女子生徒よりも男子生徒人気が非常に高く、行きすぎた造形美は性別をも超越するのだなぁとぼんやり思った記憶がある。
 とはいえ大半のものは興味本意で、いわゆる【ガチ恋】のような男は一部だけにとどめられた。


 葵のいた一組は浅羽のいた四組とは階が違ったため、入学して一ヶ月は直接その姿を見ることはなかった。噂だけが一人歩きをし、浅羽の脳内の【葵綺月】はいつのまにか二次元キャラのような、ある意味人間離れした容姿へと変化していった。

 そしてその時は、突然現れた。


 高校一年生五月の終わり、廊下で友人と駄弁っていたところを、ふいに一人の美人が通り過ぎた。さらさら動くそれが髪だと認識するのが遅くなったのは、その顔にしか目がいかなかったから。
「うお……」と言葉を洩らした浅羽は、視線を身体に落として絶句する。

 美人が着ていたのは浅羽と同じ、男性用の学ランだったからだ。

 となりで息を呑んでいた友人のユキヤが「葵綺月だよ」と耳打ちをしてはじめて、何度も聞いた名と造形美が結びついた。
 葵綺月は、浅羽が上げに上げたハードルをなんなく超えてゆく、それほどに整った顔をしている男だった。

 そんなわけで容姿については初めから好印象だったが、一年の時はとくに関わりがなかったので、言葉を交わすことも無意識のうちに目で追ってしまうこともなかった。
 問題は、二年にあがった今だ。
 古典の授業で一瞬にして葵に射抜かれてしまった浅羽の心は、毎日、毎秒、葵を想いながら鼓動を続けている。
 けれどそれは、伝えるべきではない想いで、しまっておくはずの恋心で。
 たとえば葵を想って授業を受け、その横顔をたまに盗み見て愛しさを感じたり、時折(ときおり)憂えた表情をしている葵を案じたり、そういう、ちっぽけで、ささやかで、おだやかな日々でよかった。
 浅羽の恋は、ひかえめでつつましく、一生気持ちが伝わらないまま、過ぎ去っていくものだと思っていた。