葵綺月side

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 好きな男がいた。
 自分のすべてを捧げたいと思えるほど、人生で、いちばん好きだった。

 運命だと思った。
 あの日、桜が咲いて、僕はそれを見つめていて、そうしたら同じように桜を見つめる男と出会った。

 真っ青な空から降り注ぐ光で曖昧に世界がぼやけていて、それなのに、彼にだけはひどくピントが合っていた。

 さぁっと風が吹いて、髪を揺らす。彼の薄茶色の髪がなびいて、それがすごく綺麗で。横顔がこちらを向いた時には、もう、好きだったのかもしれない。


「綺月」


 彼が呼ぶ名が、好きだった。声の温度が、すきだった。視線が、体温が、表情が、好きだった。


千景(ちかげ)


 彼の名前も、大好きだった。呼ぶたびに、心が満たされていくような気がした。名を呼び、彼が振り返るたびに、幸せだと思った。



「高校生になったら、おれが、君を抱くことを許してくれる?」


 付き合って半年が経ち、そんなたどたどしい言葉に、涙を浮かべながら頷いた。

 ハグと、キスだけの関係。僕たちは清くて、汚くて、きれいな恋愛をしていた。

 まだね、しないよ。いつかね。そうだね。変わらないといいな。気持ちが?変わるわけないよ。ずっと好きだよ。


 幸せだった。たしかに、幸せだったのだ。

 ──ずっと、こんな日々が続くと思っていた。





 僕と千景の物語が動いたのは、中学二年生の冬。

 その日の夜は雨が降りしきっていて、視界も悪く肌寒かった。
 それなのに、夜空に浮かぶ月が、ひどく綺麗だったのを覚えている。



 僕が心から愛した千景という男は、その日、僕の世界から消えた。



 交通事故だった。













 高校に入って浅羽と出会い、初めてその顔を見た時は、また、千景が戻ってきてくれたのかと思った。それほどに、二人は似ていたから。千景よりも浅羽の方が若干凛々しい顔立ちをしているけれど、その顔に同居する甘さと鋭さがとても似ていて、纏う雰囲気がそっくりだった。

 浅羽といる時は、まるで千景が隣にいるような、そんな安心感さえあった。


「綺月」


 名を呼ばれるたびに、千景ではないのに、身体中が痺れるような、心の奥底が疼くような感覚になった。ほとんど同じ顔をした男に出会えたことが、二度目の運命のように感じたのだ。



『あれ、キミ、噂の葵くん?』


 似ているなら、同じなら、千景のことを少しでも感じられる要素があるならば、なんだってよかった。

 物理教師だってそう。


 ネームプレートに視線を落とすと、間違いなく『長良千景』と書いてある。

 千景、ちかげ。チカゲ。


 この名前は、こんなたらし野郎には似合わない。反吐が出そうだった。
 けれど名前を呼ばれると、情けなく脱力してしまうのも事実だった。



──いつまで執着してんの、あいつに。





 執着、なのだろうこれは。死者との思い出には勝てない。生者との記憶でさえしばらく会わなくなれば薄れていって思い出補正がかかるのに、一生会えないとなれば重ねた日々が愛おしくなるのは止められなかった。
 当たり前のことだ。


 



 千景。会いたい、君に。




 歪んだ気持ちで、身勝手な執着で、僕は、僕のことを想う男を、傷つけている。




「葵」


 とても丁寧に、名前を紡ぐひとだと思った。名を呼ばれるたび、抱きしめられるたび、見つめられるたび、千景に抱いていた感情に似たものが生まれているのを感じた。はじめは打算的で、身勝手な己のエゴだった。彼の恋心を利用して、自分の欲を満たしていた。

 けれどいつからか、それは、変わった。

 浅羽は千景によく似ていた。けれど、千景ではなかった。長良も、当然だが千景とは別人だった。
 この世界のどこを探しても、千景はもう、いなかった。



──── 長良とのこと、ほんと?


 揺れる目が、きれいだと思った。すぐ赤くなる頬が、かわいらしいと思った。
 いつしか千景は死者になり、記憶が薄れ、浅羽との時間を大切にしたいと思った。
 手を、伸ばしたいと思った。


 この曖昧な感情が、たとえば愛になるとして。

 ずっと騙していた僕を、それでも君は、好きだと言ってくれるだろうか。




 雨の夜は、決まってこわくなる。大切なものが消えてしまうような気がして、寂しさに消えたくなる。


 ひとりに、しないで。君だけは、消えないでよ、雨月くん。



 もう何度思ったかわからないことを、繰り返す。見上げると、白く光を帯びた雪が、空から舞い降りてくる。

 僕の感情ごと、すべて包み隠してしまえばいいのに。乾いた手が冷たくて、寂しくて、求めてはいけないぬくもりを、つい求めてしまいそうになった。