───いい一年になりますように。
ぎゅ、と目を閉じて手を合わせる。頬に吹き抜けた冷たい風は、マフラーに顔を埋めることで防いだ。
本日、一月一日。新年を迎えた。
「雨月くん、寒い」
浅羽の隣には、なぜか葵がいる。
これが初夢なら──今年はきっといい一年になるのだろう。
「おーい、夢じゃないから戻ってきて」
新年早々の造形美にドキりとする。葵から初詣に行かないか、と誘われたのはつい昨日のこと。
自分にこんな行動力があったなんて、と浅羽は自分自身に驚いていた。
「おみくじ引こ、雨月くん」
いつのまにか、呼び名が変わっている。葵は浅羽のことを「雨月くん」と呼ぶようになった。
長良との関係をきいた時から、二人の仲は急激に縮まった。
以前の関係を、夜に顔を合わせて抱擁を交わす関係、と表すならば、今は、朝ともに初詣に行く関係、と表すのが適切だろうか。
つまるところ、友人になったのである。
ちらちらと葵に視線が集まっているような気がするのは、浅羽の勘違いではないだろう。一般人であるため、マスクも何もせず、強すぎる顔面を周囲にさらしている。
本人はそんな自覚などないようだが。
「見て、大吉だ」
大吉を引き当てたらしい。葵が笑顔を浮かべておみくじを見せてくる。
「雨月くんは?」
ぴと、と腕同士が引っ付く。浅羽のおみくじを覗き込んだ葵は「げ」とその美しい顔を見事に引き攣らせた。
「凶……ってほんとにあるんだ」
「あるらしいな。俺も初めてだけど」
凶。元旦に見るには明らかにふさわしくない字である。
「よくないこと、起こんのか」
「……結ぼうか」
フリーズする浅羽の隣で、葵がパンと手を叩く。葵に無理やり気持ちを切り替えられてしまった。
たくさんのおみくじが結ばれている木へと、足を運ぶ。
「雨月くん、寒い」
その瞬間、何かが手に触れる。え、と思って視線を落とすと、思いの外近くにいた葵に驚く。
あれ、今これ、繋がれてる?どういうことだろうか。公衆の面前で?
完全に密着した手。想像していたよりも細くて、頼りない。体の細さに合ってはいるけれど、これで男を名乗るのは少々、危険だと感じてしまう。もしこの手に抵抗されたとしても、なんなく押さえ込める自信が、ある。
「……葵」
「ほら、行こ」
調子が狂う。浅羽が力を込めると、返事をするようにぎゅ、と握り返される。
俺、期待してもいい?それ。
本気出すけど、いい?
浅羽の脳内が、一気に葵への言葉で埋め尽くされていく。
自分より少しだけ低い位置にある美顔に目を向けると、まっすぐに目が合った。いちいち綺麗な顔をしている。
まるで吸い込まれるように、気がつけば顔を近づけていた。葵のまつ毛が、ぴく、と揺れる。
「……いや、違う…よな」
鼻先が触れ合うまで、あと数秒。
違う。こんな関係じゃない。理性を蘇らせたのは、浅羽のほうだった。
「悪い、間違えた」
「間違えた、って……誰と?」
「誰とでもない。ほっとけ」
ぶっきらぼうに言葉を落として前を見据える。
そうだ。このおみくじを早く結んでしまわなければ、浅羽の運勢は凶のまま。一刻も早く凶などという最悪な運勢からは解放されたい。
繋がれていた手をそっと離して、歩き出す。ぱたぱたと後ろをついてきた葵が、また隣に並ぶ。もう、手は繋がらない。
まっすぐ前を見据えながら、歩いていたその時だった。
「────ちかげ?」
ふいに、葵がいるほうとは逆のほうの腕を強く掴まれて、思わず浅羽の足が止まる。え、と声が洩れたきり、口の動かし方が分からなくなる。
ゆっくり振り向いた浅羽の目がとらえたのは、見覚えのない男だった。年齢は浅羽や葵と同じくらいに見えるが、長い髪を後ろに流していて、年上のようにも思えた。
どこかであっただろうか。浅羽は記憶を巡らせたが、やはり、見覚えがない。自分はどちらかというと人の顔を覚えるのが苦手なタイプだが、それでもこれほどインパクトが強い顔は一度会ったら忘れない。厳ついけれどもなかなかに整った顔をしている。葵のような美人とは違うが、美形であることは間違いない。
「……んな、わけない、か」
男の手が離れる。その次に、男はゆっくりと視線を隣に移動させて、葵を見た。その男の目がたしかに見開かれたのを、浅羽は見逃さなかった。
「お前やっぱ葵だよな。……ふぅん、そゆこと」
浅羽と葵の顔を交互にみてから、真顔のまま男が含みを持つ発言をする。
浅羽の心臓が、一度、脈打つ。昔から、こういうよくない予感ばかり、当たるのだ。
「いつまで執着してんの、あいつに」
放たれた鋭い言葉は、まっすぐに葵を狙っていた。
「……っ、ごめん」
そう言葉を落とした葵が、喧騒の間を通り過ぎるように一気に駆け出していく。
「葵!」
小さくなっていく背を追いかけようとして、一歩踏み出そうと体重を動かした途端、「あの」と男が声を出したことで体勢が崩れる。
男はだるそうな表情で、「似てる」と呟いた。
この男は、何者なのだろうか。似てる、とは、なんのことなのか。
──いつまで執着してんの、あいつに。
去っていった葵の顔を思い出す。何かに怯えるような、悲しげな、弱々しい顔をしていた。瞳がぐらりと揺れたのを、浅羽は見逃さなかった。
じっと男を見つめると、男もまた、浅羽を見つめ返した。
強風が吹き、思わず目を閉じる。
結べずにいるおみくじが、風にさらわれていった。
男の乾いた声だけが、届く。
「あんた、すげえ似てるよ。あいつが好きだった男に」



