それから15分弱、自転車を走らせた。
 今日来たお客さんがどうだったとか、日替わりメニューが美味しそうだったとか、そんな話をしながら、1列に並んで走った。

 最後に待ち受けていた斜面を立ち漕ぎで登り終える。
 街のはずれにある、ここだけ自然がすっぽりと残っているような、小さな丘。

 自転車から降り、その場に停める。
 ロックをかけたところで、合田さんが登ってきた。

 「……先輩っ、着き……ました?」

 「着いたよ。……大丈夫?」

 坂がキツかったのか、途切れ途切れに言う肩が揺れている。
 2人で自転車を押しながら、ゆっくり歩いた方がよかっただろうか。

 「大丈夫……れす!」

 ふるふると首を横に振った合田さんは、気合を入れるように大きな声を出した。
 気合の入った言葉なのに、噛んでいて恰好がつかない。
 思わずははっと吹き出してしまった。

 「笑わないでくださいよー!」

 ムッとしたように頬を膨らませた合田さんは、自分もふふふと笑い出した。
 俺の自転車の隣に、同じように自分の自転車を停め、鍵を抜いている。

 「こっちおいで。木から離れた方が、空がよく見えるから。」

 「はい!」

 俺がいつもの場所に腰掛けると、合田さんは嬉しそうに笑って、隣に座った。
 反対の隣においたリュックサックから、さっき買った緑茶を取り出す。

 「喉乾いちゃいました。最近、乾燥してますよねー。」

 そう言って蓋を開け、緑茶を一口、口に含んだ。

 「風邪ひかないようにしないとね。」

 真似をしたわけじゃないが、俺もココアを飲む。
 触れたら温かさが伝わってきたが、中身はもう殆ど冷めているようだった。

 合田さんは蓋を閉めたペットボトルを両手で覆うように持ち、空を見上げる。
 途端に黒目がちな目が、大きく見開かれた。
 丸っこい目がキラキラッと輝く。

 「綺麗……。」

 何気ない動作だったのだろう。
 けれどもう、彼女は星空に、心を奪われているようだ。

 多分、俺に言ったわけじゃない。感想を述べようとしたわけでもない。
 ただ、本心が勝手に漏れていた、そういう声だった。

 「でしょ。気に入ってるんだ。」

 だから答える必要はない、きっと答えは求められていないのだが、答えた。
 自分だけが価値を見出していた宝物が認められた気がして、嬉しかったから。

 草の上に腰かけて、星のように光る家々の明かりを見て。
 その後に、寝転んで本物の星を見る。

 そして――やっぱり星が1番綺麗だ、と思う。

 これが俺の、数少ない小さな趣味だ。

 「はい、すごく綺麗です……! 気にいる理由が、よくわかります。」

 合田さんは空を見上げたまま、はっきりと答えた。
 「嬉しいよ。」と答えて、俺も上を見た。

 濃紺の空には、色も大きさも様々な、沢山の星達。
 地面に空いた隙間のような、細い月から漏れる淡い光が、俺達を照らしている。

 やっぱり、星は綺麗だ。
 闇のような、無のような空を明るく彩る星が。
 眺めていると、心の中にぽつぽつと光が灯る気がするのだ。

 一度目を閉じて、また合田さんに目を向ける。
 よっぽど星に魅入っているのか、俺の視線には気づいていない。
 ただただ微笑を浮かべて、真っ直ぐに星を見ている。

 「綺麗ですねー。」

 冷たい夜風が、彼女のスカーフと前髪を揺らした。
 横髪が顔にかかったことすら、全く気にならないようだった。

 ――やっぱり星が1番綺麗だ。

 そう思うのが、俺の趣味だと言った。
 けれど今夜ばかりは、星を1番にはしてやれない。

 隣で星を見ている少女が、1番綺麗。
 星空のようにキラキラと輝く瞳が、月明かりのように白い肌が。
 本物の星空よりも、何倍も綺麗だ。

 折角星を見に来たというのに、俺の視線は、どうしても空を向こうとはしない。 
 合田さんのぱっちりとした瞳をに吸い寄せられる。

 「凪沙先輩、星好きそうな名前してますよね。」

 「星好きそうな名前って、何?」

 苦笑しながら聞くと、合田さんはふふっと声を出して笑った。

 「星宮(ほしみや)凪沙(なぎさ)、星好きそうです!」

 確かにその通りだが、そんなことを言われると、何だか恥ずかしくなってくる。
 仕返しとばかりに、俺も合田さんの名を呼んでみた。

 「合田さんだって、合田(あいだ)月渚(るな)じゃん。夜空、似合うよ。」

 合田さんはきゅっと目を細めて「ありがとうございます。」と言った。
 その動きに合わせて、瞳の中で星が揺れる。

 「私、自分の名前あんまり好きじゃないんです。月渚って、可愛すぎません?」

 「……確かに、可愛い名前だよね。」

 俺が答えると、「ですよねー。」と笑った。
 その笑顔はやっぱり可愛くて、名前のイメージにぴったりだと思った。

 「だから、合田さんに似合ういい名前だと思うよ。」

 「えぇ、照れちゃいます。」

 ふふふっと目を閉じて笑った合田さんは、「ありがとうございます!」と一際明るい声で礼を言ってきた。

 「先輩の名前も、綺麗で優しい感じがして似合ってますよ。」

 「そうかな? ありがとう。」

 こちらを向いて言った柔らかい声色に、素直に礼を言う。
 綺麗で優しい感じってどんな感じだろう、とか、それは俺に似合うのだろうかとか、疑問はあるが。
 その言葉は、素直に嬉しかった。

 にこっと笑った合田さんは、再び空に顔を向けた。
 夜空のような深い瞳に差している、星のような輝き。
 反射して写っている、本物の星々。

 未だに俺は夜空になど目もくれず、彼女の瞳の中に生み出された、小さな偽物の星空を眺めている。

 ――やっぱり、君が1番綺麗だ。