高校生活最後の夏休みはアルバイトに明け暮れた。
 近所のコンビニが俺のアルバイト先だ。人手が足りないとやらで、夕勤と呼ばれる18時から22時までが主に俺のシフト時間だった。
 今日も時計の針が22時を回ると同時に、バイトの時間が終了した。

「おつかれさまでしたー」
 
 暑さが残る更衣室で着替えをして、正面ドアから挨拶をしながら帰宅する。

 外に出ると深夜の静けさに包まれていた。黒に染まりきった夜空を見上げると、高い位置に月が出ていた。
 仕事を終えた解放感と、ほんのり照らす月に気分を良くした俺は、鼻歌を歌いながら歩いていた。
 ただ家に帰宅するだけ。そのはずだった。
 この日はいつもと違うことが待ち受けていた。
 
「あ、あの、あの!」
 突如降りかかる声が鼓膜をさした。
 こんな夜遅くに声をかけられるなんて思いもせず、肩が大きくビクッと震えた。辺りは真っ暗、月明かりの下、声をかけてきた人物が立っていた。
 小柄な体系に、つぶらな瞳を潤ませた女の子がこちらを凝視している。
 
「ずっと、待ってました……」
 目の前の彼女は俺を待っていたらしい。だけど、彼女が誰なのかわからない。
「えっと、悪いんだけど、誰だっけ?」
「あなたの残りの夏を買い取らせてください」
 思わず耳を疑った。大きな声で張り上げられた声は俺の耳に届いてるはずなのに、言葉の意味が理解できない。
「は……?」
「こ、これで足りますか?」
 手を取られたと思えば、何かを握らされた。視線を向けると、それが一万円札だとすぐに分かった。
「な、なんだよ。これ。もらえないよ。返すから……」
 急に怖くなり、握らされた一万円札を慌てて返した。
 いきなりお金を渡してくるなんて完全に怪しい。これが男女逆ならば、速攻で通報案件である。
 男でも通報しても構わないだろうか。待ち伏せされたことなんて初めてで、ましてや一万円札を握らされるなんて、お金好きの俺でも怪しさしか感じられない。
 状況を把握しようと頭をフル回転させるも、思考が追い付いてこない。「残りの夏を買い取らせてください」目の前の女の子の言葉が耳に残る。
 理解が追いつかない現状に、様々な憶測が頭の中をめぐる。
 新たな宗教の勧誘か? 詐欺集団への勧誘か?
 浮かんでくるのはどれもよくないものだった。
 冷たく突き放してしまったからだろうか。女の子は口を一文字に噤んでいる。
 どちらからも言葉を発しない俺たちは静寂が広がっていた。時間帯と夜の静けさがやけに恐怖を駆り立てる。

「……あの、そんなに怯えないでください。怪しいものではないです」
 いや、明らかに怪しい。急にお金を渡してくるなんて完全に怪しいのだ。
 恥ずかしいことに、女の子相手に俺は怯えていたらしい。胸の奥が恥ずかしさでざわついたが、必死に平然を取り繕った。
「べ、別に? 怯えてないけど?」
「それならよかったです。では、この一万円は……」
「だ、だから! 意味が分かんないんだよ。いきなりお金渡されても……」
 再びお金を渡そうとしてくるので、両手をクロスさせて全力で拒否する体制を示した。
「これは……推しに捧げる投げ銭だと思ってください!」
 理解ができなかった。頭をフル回転させて考えても、彼女の言ってる意味がわからない。
「……投げ銭? たぶん相手間違ってるぞ?」
「おかしいな。私の調べによると、お金を好きなはずなのに……」
 残念そうに眉を下げた女の子の情報はあながち間違いではない。
 なぜなら心当たりがある。自分でもお金に執着しているという自覚があったからだ。
 
 昔からお金に執着をしていたわけではない。ある出来事がきっかけだった。
 大人がいうかけがえのない青春というものを自ら捨てた。いや、捨てざるおえなかったというべきか。
 俺が青春を捨てたのと、お金へと執着するようになった時期は比例する。
 サッカー部に所属していた俺は、いつの日からかいじめの対象となった。
 逃げるようにサッカー部を辞めた。もう友達なんていらないと思った。
 友達と高校生活という青春を捨て、時間を持て余した俺はアルバイトに明け暮れた。

 アルバイトは身体がきついし大変だけど、いじめられていたころより心が穏やかだった。
 仕事をすればその分の対価がお金として手に入る。
 友達は裏切るけど、お金は裏切らない。
 ますますお金に執着した。学校に行くたびに荒れる心を通帳残高の数字を眺めると、ほっと落ち着いた。
 お金の数字が、今の俺の心を保っているようなものだ。
 一般的に見たらおかしい奴かもしれない。だけどおれにとっては正解だった。あの時唯一の逃げ道だったのだから。

 彼女の言うとおり、周りからお金好きと思われても仕方がない。
 どこからか、変な噂が回ってしまったのかもしれない。
「お金に執着してるのは認めるけど。理由もなくお金をもらったことなんてないし。身分も知らない奴からお金をもらうほど……俺は人間腐ってない」
「あ、身分を証明する学生証です」
「……」

 差し出された学生証を見て驚いた。それは見覚えのある学生証。同じ学校だったからだ。

「え、君って……」

 顔を上げてもう一度顔をよく見ると、瞳が大きくて、素直に可愛いと思った。光に照らされた髪の毛は茶髪でさらりと風に靡いた。
 同じ学校のようだが面識はない……と思う。月明かりの優しい光に照らされる中、もう一度学生証に視線を向けた。少ない光の中で確認できたのは、「緑ヶ丘高校一年」と書かれている文字が薄らと見えた。どうやら一年生のようだった。

「一年生? 俺と同じ学校なの?」
「……そ、そうです。結論からいうと、琉生く……先輩の時間が欲しいんです」
「えっと、時間が欲しいとは?」
「琉生先輩と一緒に過ごしたいんです」

 まさか女の子に待ち伏せされる日が来るとは夢にも思っていなかった。わかりやすく動揺している。
 
「えっと、悪いけど。俺、彼女とか作る気なくて……」
「知ってます。琉生先輩が『彼女なんていらない。彼女を作ったらどうしたってお金を使わなきゃいけない。そんなのごめんだ』と話していたという情報を掴んでます」

 驚いた。それは実際に言ったことのある台詞だったからだ。
 同時に恐怖心が沸き上がってくる。彼女の発する一言一言が怖い。

 どうしてそのことを知ってるんだろう。なにげない会話のようだが、堂々とストーカー発言のように感じる。平然と言いのける彼女が少し怖い。

「琉生先輩がケチで、他人のためにお金を使いたくない人だということは知ってます。だから付き合ってほしいとかじゃないんです。ただ……1日でいいので一緒に過ごしたいんです。琉生先輩はお金が好きですよね? 琉生先輩の残りの夏を買い取らせてください」
「ちょっと待って? 君の言っていることが少しも理解できなくて困ってるんだが……」
「理解できなかったですか? わたしは琉生先輩のことを理解してるつもりです。父、母、弟の4人家族。趣味はアルバイト、通帳残高を眺めること……」

 淡々と話す内容に背筋にぞわっと寒気が走る。疑惑が確信に変わる。彼女は立派なストーカーだ。俺の家族構成を調べ上げた上に、俺の趣味は家族しか知り得ない情報だ。なぜ彼女が知っているのか分からない。怖いという感想以外出てこなかった。
 
 この子はやばい。俺の中で不審人物に格上げされた。
 かわいらしい容姿で油断していたが、俺の直感が逃げろと訴えてくる。
 幸運なことに足は速い方だ。逃げ切れる自信はある。深く息を吸い地面を蹴り上げた。
 
「……琉生先輩の1日を日給2万円で買い取らせてください」

 蹴り上げたはずの足が止まった。その言葉は俺にとってなによりも魅力的な言葉だったからだ。
 彼女が言った通り俺はお金の亡者だ。もらえるものなら喉から手が出るほど金は欲しい。
 日給2万円。にわかには信じられない金額だった。

「……買い取るって、怪しい仕事でもさせるつもり?」
「あ、怪しい仕事なんてさせないです。私と夏を一緒に過ごして欲しいだけです」
「は? それだけ?」
「そう、それだけです……」

 ただ夏を一緒に過ごすだけで日給2万。そんなうまい話があるものか。頭で冷静に判断している自分と、目の前にぶら下がる金に惹かれている自分がいた。

「私は琉生先輩と、この夏を過ごしてみたい。琉生先輩はお金が入る。……けっこういい話だと思いませんか?」

 無邪気な笑顔に心を奪われた。悪い奴ではない。そう思ってしまったんだ。気づけば頷き俺自身の買い取りを了承していた。

 
 高校生活最後の夏休みは明日で終わりだ。明後日から新学期が始まる。それは暦の上では夏が終わるということだ。そんな時に俺にとって忘れられない最後の夏は始まった。




 一度は了承してしまったが、冷静に考えると恐怖が襲ってきた。
 うまい話には裏がある。よく言われている言葉を思い出した。

 恐怖心に支配された俺は、顔面は蒼白していたのかもしれない。怯える俺に彼女は優しく微笑みながら口を開いた。

「改めまして……鈴木友里(・・)と言います。宜しくお願いします」
「……ああ、」
「さっそくなんですが、明日はどうですか?」
「明日? 明日は……」

 夜からバイトのシフトが入っている。そのことを口にしようとすると、彼女の方が早かった。

「夜からシフト入ってますよね? バイトの時間までで大丈夫です」

 背筋にぞわりと悪寒が走る。なぜバイトのシフトを知ってるんだろう。

「なんで知ってるの?」
「店長に友達だって言ったら、すぐに教えてくれました」

 よし。帰ったらすぐ本社にクレームを入れよう。
 守秘義務とやらはどこにいったんだ。

 ちらりと彼女を見ると、首をかしげて悪びれもなく笑っていた。
 店長の気持ちが少しだけ分かった。ほんわかとした彼女の雰囲気は、警戒心を溶かしていく。俺ですらも、彼女の雰囲気に吞まれそうだった。
 
「予定ありましたか?」
「バイトの時間までだったら……いいよ」
「決まりですね。よろしくお願いします」

 つい大丈夫と言ってしまったが、一度持ち帰ってゆっくり考えた方が良かったかもしれない。そう思ったのに、目の前で嬉しそうに目尻を下げて笑う友里を見たら不安なんてすぐに消えた。

 


 
 その日はそのまま家に帰った。自分の部屋のベッドにダイブして今日の出来事を振り返る。
 自分で言うのは虚しくなるが、俺は特別かっこいいわけではない。そんな俺を日給2万で買い取る理由が分からない。
 
 
「考えてもしょうがないか……」

 天井に向かって投げかけた。明日は高校最後の夏休み。俺の高校生活はアルバイトに明け暮れて、友達と過ごした記憶などなかった。そんな俺が女の子と一日過ごす。胸の奥がざわついた。
 ざわつく心を落ち着かせるために、通帳を開いた。順調に増えている数字をみて、深いため息を吐く。
 これは俺の心を落ち着かせるおまじないのようなものだ。心がざわついたとき、通帳残高を見るとすっと心が落ちつくんだ。
 だけど、今日はいつもより心が落ち着かない。
 その気配に見覚えがあったけど、勘違いだと言い聞かせた。
 心弾ませる自分に気づかないふりをして眠りについた。


 ♢

 俺の住む町は都会とはえないが、中心部は栄えて暮らすには申し分ない。そんな町で今日は夏祭りが開催されるらしい。
 夏祭りに行きたいと提案したのは、友里だった。日給をもらう俺は彼女が雇い主だ。拒否する権利はなかった。

 商店街のはずれから、屋台が立ち並ぶ。りんご飴や焼きそば、祭りの定番商品が連なっている。屋台が立ち並ぶ道は人ひとり通るのがやっとなほど人で溢れかえっていた。

 柄にもなく胸がわくわくと高鳴っていた。こうしてお祭りに来るのは何年ぶりだろう。
 お金に縛られた俺は無駄遣いをしないと決めて、ここ数年お祭りに参加をしていなかった。
 忘れていたんだ。太鼓ばやしや、縁日にこんなに胸が躍ることを。

 あまりの人の多さに怯んだ俺たちは、人の群れに飛び込むことなく、屋台が立ち並ぶ道から少し外れたところに腰を下ろした。
 横にいる彼女に視線を移した。傍から見ればカップルに見えるのだろうか。
 昨日会ったばかりの女の子とお祭りに来ている現状に、なんだか不思議な気分になる。

 「人混みって苦手だけど、お祭りの賑わいはなんかいいですよね」

 俺は人込みの熱気と夏の熱さにうんざりしているのに、友里は隣で上機嫌な声で話す。口角は上がり口元が緩んでいる。嬉しさが隠し切れないという表情だ。

 ずるいだろ。その表情は。
 心が揺さぶられる。暑さにうんざりして無表情だった俺も、思わず隠しきれない笑みが零れだす。
 
「夏祭りってあんまり行ったことなくて、行ってみたかったんです」
「へー。行ったことないなんて珍しいな。まあ、俺も高校生になってからは行ってなかったな」
「仲間じゃないですか」

 口をあけて笑っていた。俺が夏祭りに行かなかったのは分かるが、友里も行ったことがないということにちょっと驚いた。
 可愛いくて柔らかな雰囲気をまとっている彼女は、友達がたくさんいそうな印象だった。友達と毎年行っててもおかしくない。
 
「友里も友達いないのか?」
「『も、』ってなんですか。琉生先輩が友達いないってことですか?」
「あー。まあ、いなくはないけどな」

 墓穴をほってしまった。その通りで友達はいないのだが見栄をはった。
 なぜか返答はなく、じりじりと照り付ける太陽に気力を奪われそうだ。
 
「その……さ、なんで金を払ってまで俺の時間が欲しかったの?」
「この夏しかなかったから」

 その弱弱しい声は生ぬるい風と共に去っていった。

「この夏しかないって……どこか悪いのか?」

 心臓が嫌な音を立てて鳴りだした。心がざわついて落ち着かない。すぐに返答が返ってこなくて、余計に嫌な考えが頭に浮かんでくる。
 もしかして、病気で余命が少ないのか?
 だとすると、俺の時間をお金で買いたいという無茶苦茶な話がわかる。

「元気ですよ? こんなに。ほら!」

 力こぶを作るように腕をあげてみせたが、か細い腕には筋肉のかけらも見当たらない。
 白く透き通った肌に太陽が反射する。

「……なんだ。『この夏しかない』とか言うから病気なのかと」
「心配してくれたんですか?」
「まあ。少しな……」
「ありがたいことに、この年まで大きな病気はしないほど健康体です」
「それは良かった」
「こんなことしなくても。同じ学校なら普通に話しかけてくれたらよかったのに」
「……そう、できればよかったですね」

 歯切れの悪い答えが気がかりだった。だけどこの時の俺は汗がしたたるほどの暑さで、頭が回っていなかったのかもしれない。
 それ以上、踏み込まなかった。
 
「買い取って……夏祭りにくるだけでよかったの?」
「はい。……かなり満足しています」
「……金持ちの遊び?」
「そんなわけないです! アルバイトで貯めた真っ当なお金ですよ?」

 汗水流して働いた2万円を俺に注ぎ込むのか?
 2万円を稼ぐことの大変さは身に沁みて知っている。知っているからこそ、正気の沙汰とは思えない。

「こうして、琉生先輩と一緒に歩けるだけで幸せなんですよ」
「幸せだなんて大袈裟だろ。俺みたいなやつに使う言葉じゃない」

 友達もいないし、アルバイトしているばかりで煌びやかな高校生活を送れていない。そんな俺にはもったいない言葉だと思った。そんな俺にまっすぐな瞳を向ける。
 
「大袈裟じゃないよ?」

 満面の笑みを浮かべて告げた言葉は飛び跳ねているようだった。そんなに嬉しそうに言われたら、気持ち悪いなんて思うはずがない。
 正直最初は気味が悪かった。夜中に待ち伏せしたり、公表していない個人情報を調べ上げたり。やってることはストーカーだったのだから。しかし、目の前で目尻を下げて笑う友里を見ると、そんな嫌悪感はすでに消えていた。

「あっ、少し人が引いてきた。なにか食べません?」
「あー、行くか」

 屋台は先が見えないほど立ち並んでいる。一番奥まで歩いて検討するか、近場の屋台で済ませるか。身体をしたたる汗が思考を停止させる。

「とりあえず暑いな。かき氷とかアイス食いたい」
「かき氷、ありましたよ?」

 かき氷と大々的に書かれた屋台の前で足が止まった。
 様々なシロップの種類が張り出されている。
 そして、目に飛び込んできた金額に尻込みしてしまう。
 
 600円。友里の分も払うとなると1200円か。
 自然と頭の中でお金の計算をしてしまう。
 ためらってしまう自分に気づくと、改めて実感した。俺は正真正銘ケチなのだと。
 そんな俺の様子をを汲み取ったように、隣で笑っていた。

「ふふっ、1つのかき氷を半分こにしませんか? もちろん割り勘で」
「……ああ」

 返事は情けないほどに弱弱しくなる。
 頭の中でお金のことを考えてしまっている自分が情けなくて、この時ばかりは自分の行動に後悔した。
 心の中で反省会を繰り広げていると、出来上がったかき氷を手渡された。
 座って食べられる場所を探す。少しでも太陽の日差しを避けたいので日陰の地べたに座り込んだ。

 太陽の日差しを遮る日陰は、やはり涼しい。
 どこからか太鼓ばやしが聞こえてくる。祭りを盛り上げるBGMにはぴったりだ。
「喉乾いてたから、さらに美味しい」
 2人で一つのかき氷を食べることに、なんの躊躇もなく食べ進めていた。俺は思わず手が止まってしまう。
 慣れていないので、本当にシェアして食べていいのかわからなくて戸惑っていた。
 

「学校は? 楽しい?」
 
 場を繋げるために聞いた何気ない会話のはずだった。それが友里の顔を曇らせるなんて思ってもいなかったんだ。曇らせた後、視線を下げて俯いたので、表情が見えない。

「え、なんかまずいこと聞いた?」
「そんなことないですよ? 楽しいです……」

 不安が湧いてきて顔を覗き込むと、笑顔を浮かべていたのでホッとした。
 
 それから、俺たちは夏祭りを楽しんだ。
 表通りを盆踊りの列がつらなると、最後尾に付いて、見よう見まねで踊ったり。
 太鼓の音に居心地の良さを覚えるくらい、夏祭りを堪能した。

 日が沈む頃には汗ばむことなく、夏の終わりを知らせるようにそよりと風が吹いた。肌を撫でる風に居心地の良さを感じた。

「……琉生先輩と一緒に、夏祭りに来られてよかった」

 あっという間に時間が過ぎた。
 この時間がもっと続けばいいのに。
 自分の心の声を聞いてハッとした。何を考えているんだ俺は。邪な気持ちを払拭するように、両手でパチッと頬を叩いた。俺の心は簡単に乱されていく。

「琉生先輩? どうしたの?」
「あー、蚊がいた」

 もちろん蚊などいない。一瞬血迷いそうだった。頬を叩いて痛みで現実に戻ってきた。
 目の前にいるのは昨日会ったばかりの子だぞ。女の子に慣れていないせいで、簡単に心が揺らいでしまう。


「琉生先輩、今日コンビニのバイトですよね……」
「あー、うん」
「今日は本当にありがとうございました」
「え? もう、いいのか?」

 気づけば空がオレンジ色を迎えていた。風も涼しさを連れてくる。さらりと別れが来た。あまりにも呆気なさ過ぎて、買われた俺が引き留めてしまった。
 だって日給2万だぞ。今日なんて一緒に夏祭りに来て屋台で買って、食っただけだ。
 さすがの俺でも、躊躇してしまう。これでは完全に給料泥棒だ。

「うん、バイトに行ってきてください」
「……お、おう」
「私の変なわがままに付き合ってくれて、ありがとうございました」

 拍子抜けだった。これで2万もらうのは心苦しいくらいだ。
 お礼と共に差し出された2万円。受け取ろうと伸ばした手が止まる。これを受け取ってしまったら、今日の楽しい記憶が偽物のように感じてしまう。

「……」
「受け取ってください。そういう約束なんだから」

 俺が躊躇している様子を伺いながら、淡々と述べた。
 言葉に迷っていると、半場無理やり手に握らされた感触。2万円は律儀に茶封筒に入っているようだ。つかまされた茶封筒を仕方なく握る。

 俺が迷っている間に友里は背中を向けて歩き出した。モヤモヤとした気持ちは消えない。
 いいじゃん。くれるっていうのだからお金をもらっておけば。そう何度も自分に言い聞かせるけど、モヤモヤは広がっていくばかりだった。

「……あのさ!」

 遠くなる友里の背中に投げかけた。ここ最近で一番出た声は届いたようで、不思議そうな顔で振り向いた。

「俺、友達と花火したことないんだ」
「え?」

 きょとんと不思議そうな顔で見つめられた。彼女を引き留めたかった。だけど上手な理由が出てこない。
 必死だった。繋ぎ止めたくて、必死に考えて出てきた言葉が花火とは。我ながら安易すぎだと思った。

「だから……俺と花火してくれないか?」
「琉生先輩、アルバイトですよね?」
「今月5回くらいシフト変わってるんだよ。代打で。だから今日くらいどうとでもなる」
 
 それは本当だった。いつも予定のない俺はシフトをお願いされるのに適任らしく、よくお願いをされていた。
 だから今日一日くらいシフトを代わってくれる人なんて、すぐに見つかるんだ。

「……私も、花火してみたいな」

 かっこ悪いくらい必死な俺を見て、彼女はにこりと微笑んでくれた。

 神社から1番近いコンビニはアルバイト先だった。
 ズル休みとバレることに罪悪感はあったが、バケツを借りるにはちょうど良かった。
 恐る恐る立ち寄ったが、友里と一緒にいるのをみると「頑張れよ!」なんて、逆に応援されるくらいだった。

 手持ち花火を購入して、バケツを借りた。
 コンビニから少し歩いて、河川敷に移動した。

 一本手持ち花火を彼女に差し出すと、ライターで火をつけた。
 独特の音がし火が点くと、眩い光に変わっていく。
 赤色、青色、オレンジ色と色が段階的に変わっていく。

「綺麗だねー」
 花火を見て満面な笑みを浮かべる彼女を、バレないようにこっそり見つめた。

 水を張ったバケツに火が消えた花火が増えていく。
 最後の一本を入れると、残された線香花火に火をつけた。

 散々はしゃいでいたのに、線香花火になった途端。
 遠くの虫の音が聞こえるほど、シンと静かになった。

 
 手元の線香花火をじっと見つめた。
 パチパチと音を立てて、線香花火に光が灯る。
 赤く淡い光に照らされ、とても綺麗だった。

「琉生先輩は、学校楽しいですか?」
「俺は……全然楽しくないな」

 俺の中で学校に通うことは義務みたいなものだった。
 正直朝から夕方までアルバイトをしていたほうが、やりがいを感じる。
 今の俺には、よく聞く青春という言葉の意味を見出せなかった。

「ある人から言われたんですけど……逃げ道は一つじゃないって。だから、琉生先輩が学校のほかに居場所があるなら、それはいいことだと思います」
「……そうだな」

 彼女の言葉が、妙に心に刺さる。同時に記憶の片隅でなにかが疼いた。

「その言葉ってさ……あ、」
 短い言葉と同時に、線香花火の赤い光がぽつりと地面に落ちた。
 
「あー。琉生先輩の負けだ」

 口をあけて笑る彼女に目を奪われた。
 花火が終わればこの時間が終わってしまう。久しぶりに時間が愛おしかった。
 
 
「……明日からはお金の発生しない、と、友達になれるか?」

 この年になり、友達になって欲しいなんて、言葉にするのは恥ずかしかった。恥じらいから顔に熱が集まるのが分かった。

「……」
「俺の中では……もう、金の関係じゃないっていうか、あれだ。友達って気づいたらなってるものなんじゃねーの?」

 少年漫画でありきたりな下手な台詞を吐いた。
 恥ずかしくて顔に熱が籠る。ただどうしても伝えたかったんだ。お金の関係ではないと――。

「……ありがとう。琉生先輩」
「明日から……その、たまに弁当一緒に食べたりするか?」
「……」
「その、と、友達だったら弁当を一緒に食べるなんて普通だろ?」
「嬉しい。ありがとう。琉生くん」

 ぶわりと吹いた風が、彼女の髪を泳がせた。そして言葉を続ける。

「私ね、琉生くんに感謝してるんだ。心がどうしようもなく辛い時、君の言葉に救われたの」
「それってどういうこと?」 

 友里と話したのは、昨日がはじめてのはずだ。
 学校で一年生と話した記憶はない。それに友里みたいな可愛い女子と話したら忘れるはずがない。

「琉生くんの言葉に救われたから。お礼を言いたかったの」
「えっと、覚えてなくて……」
「あの日、声を掛けてくれて本当にありがとう」

 彼女の声が震えていたような気がして、顔を上げた。
 泣いていた。友里の頬を透明な涙が伝う。
 笑顔を絶やさなかった彼女が見せた涙に、思わず息を詰まらせる。
 
「え、」
「ご、ごめんなさいっ。今日は帰るね……本当にありがとう」

 それは一瞬の出来事だった。立ち上がった彼女は背中を向けて駆け出していく。
 慌ててポケットに入れていた、茶封筒を取り出した。
 手にくしゃりと硬い感触が残る。

「待って! これは受け取れない! 受け取りたくない!」
「もらって! そして……許して」

 何とか聞き取れたくらいの声量だった。
 あまりにも弱弱しくて、すぐに風に乗って消えていった。

 
 シンと静まり返る暗闇に取り残された。
 茶封筒に入ったお金は。返せぬままだ。
 なんだか心がやるせなくて苦しい。
 明日、必ずお金を返そう。
 そうしたら、心が塞がれるような重い気持ちは軽くなってくれるだろうか。
 

 



 その日、ベッドに入り目をつぶると、今日の光景が脳裏に浮かんだ。
 記憶はどれも輝いているようにあたたかなものだった。

「楽しかったな……」

 自然と漏れた言葉に自分で驚いた。
 そうか。俺は今日、楽しかったんだ。
 誰かと遊んだのなんていつぶりだろう。
 もう戻ってこない貴重な時間。

 久しぶりだった。
 こんなに胸がわくわくして弾んだのは。

 青春という時間を自ら捨てた俺には無縁だと思っていた。誰かと過ごす時間の尊さを思い出した。


 また、話したいな。
 そして、お金の関係ではないと伝えよう。

 学校が同じなんだから、ばったり会うだろうと軽く考えていた。
 また会えた時に話せばいいと――。
 



 2学期が始まり、1日、2日、3日、経っても一向に会う気配がない。
 一年の教室を覗きに行ったり、無意味に一年が使う校舎を歩いたりした。しかし、友里に会うことはなかった。

 痺れを切らした俺は、一年の教室へと向かう。

「あ、あのさ、鈴木友里っている?」
「鈴木友里……ですか?」
「ああ、」
「鈴木友里……はいないですね」
「え、あー。じゃあ、違うクラスかな?」
「えっと、一年生に鈴木友里はいないですよ?」

 いないと言われたが、どこかで信じきれていなかった。
 友里はそんなに存在感が薄いのか。その時はそんな風に思っていた。




「いない?! そんなはずない。だって……」

 どうしても気になった俺は、一年の全クラスに聞きに行った。
 なんでそこまでするんだ。と思ったけど、嫌な胸騒ぎがしたんだ。

 そして、分かったこと。
 一年生(・・・)に友里なんて存在しなかった。

 頭が混乱している。最初に見せてもらった学生証は確かにこの学校の物だった。
 俺は幽霊にでも出会っていたのか。
 いや、そんなはずはない。幽霊にしては現実的過ぎる。

「友里……お前は誰なんだよ」

 ぽつりと呟いた言葉は、騒がしい生徒たちの声に飲み込まれていった。
 頭の片隅に眠る記憶の欠片が疼いた気がした。

「ゆ、り? いや、そんなはず……」
 
 記憶の欠片を探して訪れたのは職員室だった。友里が持っていた学生証は、確かにこの学校の学生証だった。
 この学校となにかしらの関りがあるはずだ。そう推測して、一年の頃からお世話になっている学年主任の山下先生を訪ねた。

 コーヒーの匂いが漂う職員室。不思議そうな顔をしながら山下先生は、質問に答えた。
 
「友里? そんな名前だけでは、わからないなあ」
「先生の記憶に残る友里はいないですか?」
「友里って名前の卒業生は何人も見送ってきたけどな。記憶に残ると言えば……記憶に残るというか、無念だったと思うのは、お前と同じ学年の鈴木ってやつが一年のときに転校したことだな」
「え、どういうことですか?」
「お前、覚えてないか? もう二年も前のことだし覚えてなくてもしょうがないか。お前たちが一年の時いただろ。鈴木友里奈(・・・)
「一年の時。鈴木友里奈(すずきゆりな)……?」

 頭の中の記憶をたどると、薄っすらと人影が浮かんできた。

「転校した後に知ったんだけど。どうやらいじめられていたらしくて。気づいてやれなかったことに、無念が残るんだよ」
「先生! その鈴木友里奈って、どんな奴でしたっけ? 茶髪?」
「鈴木は茶髪なわけないだろ。黒髪で目が隠れるくらい長くて……」

 思い出した。確かに一年の頃、鈴木友里奈は存在した。
 そして、俺を買い取った鈴木友里ときっと同一人物だ。なぜ気づかなかったんだ。
 
 記憶の中に残る鈴木友里奈は、黒髪で目が隠れるほど前髪が長くて、顔が薄らとしか思い出せなかったからだ。
 女性は化粧で変わるというけれど本当だった。加えてにこやかに笑う友里とは結び付かなかった。

 思い返せば、学生証を見た時、月明かりの光しかなくて、学生証の生年月日まではよく見えていなかった。見せられた学生証は一年の時のものということか……。
 


 
「一年の時にいた、鈴木友里奈の連絡先? 知るわけないじゃん」
「鈴木友里奈? 誰だっけ。それ」
「鈴木友里奈の引っ越した先? 知らないな」

 一年の時に同じクラスだった奴らにひたすら聞いて回った。友里奈の所在は、誰に聞いても分からなかった。当然と言えば当然かもしれない。つい少し前までは俺も忘れていたのだから。

 なんで、あの夜嘘をついたんだ。
 そして、なぜ俺の時間を買ってまで一緒に過ごしたのか。
 いくら考えてもわからなかった。

 友里奈とは一年の時に同じクラスだった。接点もなく、あまり喋った記憶がない。転校したのも、友里奈がいなくなって少し経ってから人伝に聞いた程度だ。

 彼女の正体が知れたのなら、それでいいじゃないか。
 そう自分を納得させようとした。なのに、心がむしゃくしゃする。
 なんでこんなにも胸が苦しくて、イラついてるのだろう。
 ただ一日、嘘をつかれただけなのに。

 彼女のことを、なに1つ知らない。
 たった1日一緒にいただけで、君のことを分かっていなかった。

 なぜ俺の前に現れたのか、分からない。
 一番ムカついているのは、自分に対してだった。
 彼女のことを分かった気でいた自分に腹が立って仕方がないんだ。
 なんだよ。いなくなる前提で俺を買い取ったのかよ。

 悔しくて、やるせなくて。悲しい。感情が大忙しだ。

 
 

 家に帰ってぶつけようのない感情ぶつけるように、2万円が入った茶封筒を投げつけた。
 1万円札が2枚ひらりと舞った。

 俺たちの関係がお金で結ばれたと言わんばかりに、ひらりと静かに落ちていった。


 
 それからの俺は今まで以上に、アルバイトに明け暮れた。

 やっぱり、人を信じるなんて出来ない。
 あいつだって嘘をついていた。
 人は裏切る生き物だから。その点お金は絶対に裏切らない。

 俺はお金を稼ぐことで正常を保った。
 自分の日常に戻っただけだ。なのに、最近の俺はおかしい。

 通帳の残高が増えても心が弾まない。
 それどころか、嘘をついた彼女に少しも怒りがわいてこない。友里と過ごしたあの日の記憶がずっと残ったままだ。
 頭の中に友里のことばかりが浮かんでくるんだ。
 
 




♦︎
 
 いつからだろう。私の見る景色に君はいた。

 窓側の一番後ろの席。そこが私の定位置だ。ガヤガヤと賑わる教室の中、笑い声の渦の中には入らず、自分とは別の物語を見ているようだった。私はその輪の中には入ることはできない。

「ぼっちちゃーん!」

 クラスメイトは私を「ぼっちちゃん」と呼ぶ。その名の通り、私は独りぼっちだからだ。

 人の悪い笑顔を向けてなんども呼びかけられた。これがいじめられているということを自覚していた。
 悪口を言われたり、わざとぶつかってきたり。その時は大きな傷ではなくても、蓄積されていくと、やがて心には大きな傷が刻まれていた。

 いじめられていることが恥ずかしくて、両親には言えなかった。それどころか、架空の友達を作って充実した高校生活の話をしていた。

 今日はいつもの仲良しグループでお弁当を食べていたら、盛り上がりすぎてうるさいと先生に叱られた。

 現実に起きていないことを、さも楽しそうに話し続けた。

 いじめられていることがばれるのが恥ずかしかった。友達が一人もいないということを知られたくなかった。
 私は幸せないい子を演じ続けていた。

 きっとその時の私の思考回路では、この辛い日々から逃げる道は1つしかないと思っていた。この生活が後三年続くと考えたら、もう耐えられないと思った。

 気づけば私はその場にいた。学校から少し歩いたところにある踏切。
 降りた遮断器。鳴り響く踏切の警報音。
 なぜか吸い込まれるように、その場に立ち尽くしていた。足が一歩踏み出そうとした時だった。
 
「お前……なにしてんの!?」

 腕を強い力で引っ張られると同時に私の体は停止した。
 ぶわっと吹き荒れる風と共に、電車が音を立てて通り過ぎて行った。
 声を掛けられなければ、あの電車と衝突していたかもしれない。全身に悪寒がめぐる。

 電車が通り去ったのを見送ると、はじめての自殺が失敗したことを悟った。
 同時に、両足が小刻みに震え出した。震える足は収まる気配がない。力を亡くした足はガクンと崩れ、その場にしゃがみ込んだ。


「お、おい。大丈夫かよ」

 崩れ落ちた肩を支えてくれた手は、ほねぼねしていて男らしかった。
 やっと顔を上げた目に飛び込んできたのは、同じクラスの琉生くんだった。

「よかった……」

 弱弱しく吐き出された声は、確かに耳に届いた。
 この時ようやく理解した。踏切に飛び込もうとして止めてくれたのだと。

「やめたほうがいい」
「……」
「電車での自殺はやめたほうがいい」
「へ?」

 それから彼は踏切自殺のデメリットを永遠と教えてくれた。
 主にお金のことだったが、損害賠償義務が発生して遺族に多大なる迷惑がかかると、力説してくれた。正直頭に入ってこなかった。
 今思えば彼なりの不器用な優しさだったのだと思う。うまく慰められない彼は理論的に自殺を止めようとしてくれたのだと。

「あの……飛び込み自殺が人様に迷惑をかけること、よくわかりました」

 一向に止まる気配がなかったので、彼の言葉を遮った。

「人に迷惑をかけない「死」なんて、俺はないと思ってる。お前に死なれたら……俺だって迷惑だ」
「それは、私が生きてたら……の間違いじゃ?」

 そうだ。私はみんなから「邪魔だ」「いるだけで迷惑だ」そんな言葉を投げかけられ続けていた。
 私が生きていたら迷惑なんだ。いつからかそう思わずにはいられなかった。

「少なくとも俺にとっては死なれた方が迷惑だから」

 ぶっきらぼうに放たれた言葉は、私の心にまっすぐに響いた。


 
「同じクラスの琉生……くんだよね? 君には分からないよ。辛いの状況が卒業まで続くなんて、考えたことある? 私の気持ちなんてわからないよ」
「別に続けなきゃいいだろ」
「え、」
「苦しいなら、その道から逸れればいい」
「……」
「逃げ道は、1つじゃない。無限にあるから」

 その時の私は学校で起こることが、自分の世界のすべてのような感覚だった。
 逃げることなんてできないのだと決めつけていた。

「お前、いじめられてんの?」
「……」

 言葉に詰まると、琉生くんはそのまま言葉を続けた。

「俺もいじめられてたんだ。だから学校から逃げてやった!」
「学校から逃げる?」
「そう。学校に居場所がないなら、他の場所で居場所をつくればいいんだよ。俺はアルバイトという居場所を作った」

 彼の言葉が私の中で妙にしっくりきた。心のモヤが、すう―っと晴れていくような感覚だった。
 心にのしかかっていた錘が少し軽くなった。

 君がどんな気持ちで言ったのか分からない。
 だけど、彼の言葉はスッと浸透した。
 
 
 
 
 それからというもの、いじめられる日常は変わらなかった。
 唯一変わったのは、私の見る景色に琉生くんが映るようになった。


 いじめられているといっていたけど、確かに学校では一人でいることが多かった。
 だけど、その表情はどこか清々しくて、気にもしていない様子だった。
 それが面白くないのか、琉生くんがお金の亡者だと陰で言われていることを知った。
「あいつは金のためならなんでもやる」「金を渡せばゆうことを聞く」そんな嫌な噂を耳にした。
 
 嫌な噂を聞いても、不思議と嫌悪感を感じないのは、本当の琉生くんを知ってるからだと思う。

 
「私も、バイトしてみようかな」

 外の世界に視野を広げてみるのもいいのかもしれない。
 そう思うと、同時に心が軽くなった。
 
 前向きになりかけていた時だった。
 父の転勤が決まった。我が家はいわゆる転勤族だ。時期的に珍しいとは思ったが、特別驚く事態ではなかった。
 転勤先は、今住んでいるところの隣の市だった。通学時間は長くなるが、引っ越し先からも通えないわけではなかった。
 だけど、逃げ道としてこの学校から離れるのもいいのかもしれない。そう思った。そして必然といじめの日々からの逃げ道が決まった。

 転校する前に、もう一度話したくて。琉生くんと近づきたいのに、近づけなくて。どうすれば友達になれるのか分からなかった。
 勇気を出せずに、一言も話せないまま転校することとなった。
 

 幸運なことに、転校した先の学校ではいじめられることなく、平和に楽しく過ごせていた。
 あのころと比べたら、格段に幸せだ。そのはずなのに、頭の片隅にはいつも琉生くんがいた。
 


「友里奈ー。昨日、配信者のMASATOくんに投げ銭したら、凄いファンサしてくれたんだよ?」
「え、投げ銭? なにそれ」
「知らないの? お金でアイテムを買って配信者に投げるんだよー」
「お、お金? 騙されてない?」
「騙されてなんてないよ! 私がMASATOくんにあげたくてやってるし、彼から名前呼ばれたりするんだよ? その時間だけはわたしのものなんだもん。彼の時間をお金で買えるなら、喜んで払うよ」

 彼の時間をお金で買う。
 この言葉が妙に私の中でしっくりきた。

「私もお金で買えるならほしいな。彼の時間が……」
「友里奈も好きな配信者いるの? いいじゃん!」

 彼の時間をお金で買う。
 冷静に考えると、どうかしている。ただ、この時の私には時間がなかった。
 夏が終わると、地方への引っ越しが確定していた。
 行くはずだった父の会社の社員がやむを得ない事情でいけなくなり、急遽父の転勤が決まったのだ。
 今度は今住んでる場所から離れた地方だ。引っ越したら、もう琉生くんに2度と会えない。
 時間もチャンスもこの夏しかなかったんだ。
 私たちを繋ぐものは何もないから。

 昔の自分なら、こんな大胆な行動は出来なかったと思う。
 どうしても、ありがとうを伝えたいんだ。
 
 先が真っ暗で見えない私に、逃げ道を教えてくれた。
 君がわたしを変えてくれたから。
 

 



 



 
 あれからしばらくが経った頃。
 友里奈から手紙が届いた。

 嘘をついたことを後悔していたらしい。
 そんなこと俺は気にもしていないのに、丁寧に謝罪が書いてあった。
 手紙に書かれた文字は繊細なほどに綺麗で、すぐに学校で出会ったころの友里奈の姿が頭に浮かんだ。

 便せんに律儀に書かれた住所。
 それは今いる場所からはだいぶ離れた都市だった。
 
 



 
 片道切符を手に持ち、新幹線に揺られている。
 窓から見える景色が次々と変わっていく。新幹線に乗るなんて、修学旅行ぶりだった。

 
 俺を買い取られた代償の2万円。
 茶封筒に入ったままだ。

 友里のことを友里奈だと気づけなかった自分に心底落ち込んだ。
 だけど、化粧や髪型が違うだけで印象ががらりと変わるんだ。
 
 記憶の中に残る友里奈は、消極的でコンビニの前で待ち伏せをするなんて大それたことをするような子ではなかった。
 もし、嘘の鎧のおかげで勇気がもてたのなら、心の底から感謝をする。


 街の人に助けてもらいながら、手紙に書かれていた住所に辿り着いた。


 アパートの部屋の前で、インターホンを押した。
 ゆっくりドアが開くと、会いたいと思い続けた彼女が立っていた。


「……ひっ! な、なんで?」

 幽霊でも見たように、悲鳴に近い声をあげた。
 目が見開いたまま、立ち尽くしている。

「会いに来た」
「会いに来たって……え。ここまでどうやって?」
「新幹線できた」
「えっ、新幹線代ってすごく高いよね? かき氷の値段の何十倍? いや、何百倍だろう……」

 知らせもなくきたので、だいぶ驚かせてしまったようだ。彼女は眉をひそめて考えている。
 
「ちゃんと……お金払った?」

 よほど俺はケチだと認定されてるようだ。
 さすがに少し傷ついた。


「あの時は……確かにケチだった。今もケチだけど。好きな人のためなら惜しみなく使えるタイプらしい」


 通帳の残高が増えていく胸の高鳴りよりも。
 君と過ごす時間の方が胸が高鳴るんだ。

「俺の方こそお礼を言いたかった。友里奈のおかげで青春の時間を捨てずに済んだ。君と過ごして……大事なもの思い出した」

 だから、お金がいくらかかろうがかまわない。
 君と過ごす時間はそれほど価値のあるものだから。
 
「このお金は返す」
「え、これっは……」
「お金より大切なもの教えてくれたから」
 
 シワがついた茶封筒に入れた2万円を返した。
 あの日の時間はお金で買われたと思いたくない。


「もう一度会えて嬉しい……ありがとう」
「またくるよ」
「でも……そんなすぐにこれる距離じゃないよ? 新幹線代だってとっても高い……」
「俺にまた報酬をくれる?」
「え、2万円?」
「お金では買えないもの。君が笑ってくれるなら、また必ず会いにくるよ」

 君の笑顔を見れるなら、お金なんて喜んで使う。
 大金が交通費に消えた今でもそう思える。

 
 
 友里奈と会えなくなってから、俺の心はずっと落ち着かなかった。
 モヤモヤして息苦しくて。
 お守りがわりの通帳の残高を見ても、何一つ変わることはなかった。

 君の笑顔を見れたから。
 今、ようやく心が晴れやかになった。


 今の自分は、けっこう好きだ。
 君がおれを変えてくれたから。


 【完】