夜が敷き詰められた校舎内に月明かりが差し込む。リノリウムの廊下に並んだ光の四角を軽やかに飛び越えた友紀の靴音が、吸い込まれそうな暗闇の向こうまで響いていった。
「ねぇねぇ見て! すごい幻想的! これだけでもう来て良かったって気しない?」
 両手を広げて振り返った友紀に僕は小さく首を振る。
「僕にはホラー以外の何ものでもないよ」
 友紀は広げていた手を溜息と一緒に下ろした。
「慶太郎って昔から恐がりよね。幽霊見た事あるの?」
「ないよ」
「じゃあ何が恐いのよ」
「見た事無いから恐いんじゃないか。恐怖ってそういうもんだろう?」
「ふーん。ま、そうかもね」
 月明かりが斜めに照らしていた友紀の顔は穏やかに笑みを浮かべた。彼女はそのままクルッと回ってまた進みだしてしまったので、僕は深呼吸した後、重い足を無理矢理動かした。
 深々と静寂が落ちている世界で友紀の足音が怪しくも軽快に響き渡る。僕にはそれがすごくアンバランスで滑稽に思えてしまった。
 世界に僕たち二人だけ、まるでこの校舎以外に何も無いような静かな世界で僕らは何を見つけようとしているのだろう。こんな
 ————まるで死んだような夜に。
 今日は一日静かで穏やかで、夏にしては涼しく心地よいサービスみたいな日だった。
 だからきっとこの夜は安楽死のようなものなんだろう。
 日常と言う特別を与えてくれた神様が『穏やかに眠れ』と言っているのだ。
 世界中、全ての人に平等に『死』が訪れる。
 今ならそんな事実すらも神様のサービスのような気がしてならなかった。
 それくらい穏やかな夜に僕らは居た。
「はい! とうちゃくー!」
 声と同時に両足で着地した友紀の足音が一際大きく響いた。
「さてさて。まずは私達の教室ですよー」
 友紀は振り返り微笑むと、引き戸を静かに開けて中へ入っていく。
 大倉高校二年三組の教室。
 僕と友紀のクラス。
 友紀は机の上を指先で撫でながら自分の席へ向かった。友紀の指先が机の縁に当たる度にコンと渇いた音が鳴る。その間隔が少しゆっくりに感じたのは、僕も友紀も何かを噛み締めていたからかも知れない。
 友紀はそのまま教室の中央に位置する自分の席に座って、机に頬杖をついた。
 真っ直ぐ前を見つめる友紀に吊られるように、僕も目の前にある暗闇にうっすらと浮かび上がる黒板に視線を投げる。
 そこには色とりどりのチョークを使って沢山の落書きが書いてあった。沢山の別れの言葉。デカデカと書かれた『またな!』は誰が書いたものだろう。
 僕はその上に掛けられている時計を見た。丁度、深夜一時を回った頃だった。
 日付は変わって今日は七月二十日。海の日。
 今日から長い夏休みが始まる。
「はぁ……やっぱり夜の学校って神秘的。一度来てみたかったんだ」
「幻想的。なんじゃないの? まぁ念願が叶って何よりだけど」
 友紀の斜め後ろに座った僕も、同じように頬杖をついた。僕の言葉に振り返った彼女が悪戯っぽく微笑んでいるから、僕は何だかひどく懐かしくなってしまって迂闊にも微笑み返してしまった。
「これは誕生日プレゼントに含まれないからねー!」
「わかってるよ。まったく」
「ふふふ!」
 まるで真夏の太陽のように笑う友紀。久しぶりの視界に僕は胸が握りつぶされてしまいそうになる。
 日付が変わった今日、七月二十日は彼女の誕生日だった。
 何処でどうやって過ごしたいか聞いてみたら、友紀はこの夜の学校を朝まで探検したいと言い出した。もちろん僕は反対したけれど、友紀の「私の誕生日でしょ!」の一言で何も言えなくなってしまった。
 よって、了承する他無かった僕はこの日の為にあれやこれやと奔走し、必死で準備を進めた。やはり最大の難関であった親の説得には心底、骨が折れたけど、必死の、いや、決死の交渉で何とか納得してもらう事が出来た。
 今日と言う日はそうしてやって来たとても大切な日だった————。

 当たり前だけど、夜の学校は誰もいない。
 この不気味なほど静かで広い校舎の中、僕らは完全に二人きりだ。
 もちろん恐怖はある。けれど、こうして友紀と二人きりでいられる時間は僕にとっては何にも変えられないものだった。
 ほんの一ヶ月前、ただの幼なじみにすぎなかった僕の告白を友紀は笑ってオーケーしてくれた。まさか僕の方が泣いてしまうとは思わなかったけれど……笑いながら僕の頭を撫でる手はとても優しかった事を今でも覚えている。
「————ねぇ慶太郎。そう言えば私たちって十一年も同じ学校に通っているのにあんまり同じクラスにならなかったよね?」
「そうだね。小学校の一、二年生と後は中学二年生の時だけかな」
「ほんとに少ないね! ねぇねぇ、じゃあさ、いつから私の事好きだったの?」
「え? 何だよ急に」
 友紀は体を窓側に向けて机に頬杖をつきながらニヤニヤと笑っていた。足を組む動作に一瞬ドキッとしたけれど、窓から差し込んで来る月明かりだけじゃスカートの中は見えそうでやっぱり見えなかった。
「ばーか。どこ見てんのよ。はい、罰ゲーム! いつから好きだったか教えなさい!」
 友紀は僕を指差す。真っ直ぐ向けられた視線ではなく、僕はその指先から目が離せなかった。
 月明かりに照らされた白い肌、細く小さな手。
 小さい頃は日に焼けて浅黒かった友紀。
 いっつも泥だらけで僕とあんまり変わらなかった手。
 僕は溜め息をついて腕を組んだ。
「んー。そうだなー……」
 考える。振り。
 思い出す必要も無い。今でもハッキリ覚えている。
 忘れようとしても忘れられないあの気持ち。
 僕が友紀に抱いている気持ちに気付いた時の胸の痛み、そして高鳴り。
 日に焼けて僕と変わらなかったはずの友紀の手が、今みたいに透き通るほど白く小さく細くなっていくのと同じくして、僕の気持ちも変化していったあの頃。
 ただの幼なじみから、好きな人へ。
 友紀が僕の中でハッキリと女の子になった中学二年の夏、僕は彼女を好きになっていた。
「ねぇねぇ早く! いつからいつから!」
「わかった、わかったよ。んーとね……」
 僕はあの頃の気持ちを整理する。言葉を探しながら、思い出を零さないようにゆっくりと口を開く。
 中学二年。
 僕はまさかこんな未来が待っているとは知らず、勝手に悩み、悲しみ、焦りながら悶々とした日々を過ごし、かと思えばテレビゲームに熱中したり、友達とバカな事をしたり、誰がどう見たって無駄な事に全力で時間を費やしていた愚かな時代。
 そう。
 あの頃、僕は誰よりも愚かで、何よりも友紀が好きだった。


 ————中学二年生。
 僕が久しぶりに友紀と同じクラスになった時にはもう友紀は男子の間で一、二位を争うくらい注目されている存在になっていた。
 とは言え、中学に入学した時には既にその片鱗は見えていたし、僕も例に漏れず友紀から目が離せなくなっていたのだから別に驚く事でもない。
 男子も女子もこの時期、変わる人はどんどん変わっていく。
 活発でスポーツが大好きだった奴らが不良になっていったり、はたまたカードゲームやアニメに嵌ってどんどんインドアで目立たない奴になっていったり。どれが良いとか、どっちが上とか無いのかも知れないけれど、僕らは些細な事を他人と比べては優越感に浸り、劣等感に襲われていた。
 誰が決めたかも分からない暗黙の順位は何故か常に周知されていて、細かい順位変更は漠然と、しかし絶え間なく行われている。
 そして、そうなると付き合う相手も変わってくる。
 男子の中でもグループの壁がハッキリし出したのはやはりこの頃で、女子は女子で化粧を早くに覚えた人はスカートの丈を短くするのも、Yシャツのボタンを一つ多く外すのも早かった。化粧をしてない人はいつの間にか少数派になっていて、彼女達は皆こぞってスカートの丈は長く、Yシャツのボタンをキッチリ上まで止めていて、化粧をしているグループとの距離を一層、遠ざけていった。
 全然目立たなかった女子が急にグループが変わって化粧をしだしたり、ある日突然髪を染め出す男子が現れたりなんかもあったけれど、今となってはその変化もすっかり落ち着いて、例外を除いて女子も男子も自分の立ち位置を認めていた。
 もちろん、一番最初に出来た目に見えない格差は埋まる事無く、化粧の濃さや制服の着崩し方、髪型や話し声の大きさなんかでそのグループの勢力がちゃんとわかるままだった。
 僕らはずっと形こそ違えど、どこか同じだったはずなのに中学に入ったら急激に世界が開けてバラバラになってしまった。
 憧れるものも違えば、力を入れるものも違ってきた。
 趣味も細かく分断されて、少し排他的になった。
 開けた世界が実はとても狭い事にも気付かないまま、僕らにとってその小さな世界が全てで、そこには希望も絶望も全部詰まっていた。

「なぁー。お前、相沢と仲良いんだろ?」
「いや、友紀はただの幼なじみってだけだよ」
 耕平に僕は素っ気なく返す。僕らは開け放たれた体育館の扉からバドミントン部の練習をぼんやり眺めていた。
 絶え間なく館内に響き渡る掛け声はどこか他人事で、まるで夏の風物詩のように聞こえた。
 クーラーのない体育館の熱気は窓が開いていても逃げずにそれを見守っている。おかげで、もあっとした空気が何だか見えない壁のように感じた。
「幼なじみって……お前なぁ。それって二歩も三歩もリードしてるって事なんじゃねーの?」
「そういう問題でもないだろ。仮にもし僕がリードしていたとしても耕平が本気出せば三日もあれば追い越せるんじゃない?」
 少し冗談半分で言ったのに、耕平は「ちげーねー」と当たり前のように笑った。
 こいつは一年の時から同じクラスで今では一番仲のいい男子だ。小学校時代の事は良く知らないけれど、活発なのに不良にならなかった(悪知恵はよく働く)珍しいタイプの男子だった。陽気な性格で、目立ちたがりで、男女分け隔てなく顔が広いちょっとした人気者。でもその割にはちょっと一匹狼な所もあって、変に馴染もうとしないせいか周りより少し大人っぽかった。
 さして秀でた所の無い僕とはまるで大違いの人間だ。それなのに一年のクラスで出席番号が近かったってだけで何故かこうして二人きりのグループを作っているのだから、出会いっていうのは本当に不思議だと思う。
「しっかし、こうして見るとやっぱ相沢って群を抜いてるよなー。優良物件過ぎて隠せねーよあれじゃ」
「そうかな?」
「とぼけてんじゃねーよ! 惚れてるくせに!」
 耕平は嬉しそうに僕の頭を叩いた。パシンと小気味良い音が鳴ったけれど、あんまり痛くはなかった。それよりも耕平の言葉の方が胸に痛みを差した。
「ほ、惚れてるって誰が言ったんだよ?」
「お前は言わなくてもバレバレなの! 何よりこうして頻繁に相沢の部活姿を眺めに来てるのが何よりの証拠だろ」
「別に友紀を見てるわけじゃ……」
「はいはい。もう良いですよ、言い訳太郎君。そうですよね。足繁く通って眺めてるのは相沢じゃないですもんね。よーし、そうとわかれば俺、本気で相沢狙っちゃうかー!」
「お、おい!」
「うっそーん! 残念ながら相沢はタイプじゃありませーん! 俺はどちらかと言うとあっち」
 耕平はネットで分断されている向こう側、隣のバスケ部を指差した。視線を移すとちょうど同じクラスの有村さんがシュートを決めた所だった。
「な? 俺はああいうボーイッシュなタイプが良いんだよ。ショートカットの似合う有村千佳(ありむらちか)ちゃんはどストライク! しかもあれで中身が誰よりも女子って所がもうたまんないよなー! 最高!」
 耕平は指差した手を銃に見立ててバンと打つ真似をした。こうした気持ち悪い動作も耕平の持ち味の一つだ。
「確かに有村さんも人気あるよね」
「『も』って何だよ! 『も』って! 一体誰と比べてんのかなー?」
「もう……いいだろ別に! そうやって揚げ足を取るのは耕平の悪い癖だぞ!」
「はいはい。そうやって素直にならないのは慶太郎の悪い癖だぞー」
「あーもうめんどくさいな! 黙ってみてろって!」
「へいへーい」
 耕平がバスケ部に視線を移したのを確認して、僕はバドミントン部の方へ向く。僕らはお互いの都合が一致しているのもあって、バドミントン部とバスケ部が練習している日はこうして体育館の扉から中を覗くのが日課になっていた————。
 バドミントン部が休憩になると、友紀はタオルで汗を拭きながらこっちにやって来た。
 僕は近づいて来る友紀を見て体にグッと力が入る。
 僕らが部活を見学していると友紀は必ずと言っても良い程話しかけに来てくれるのだけれど、僕は教室であまり喋る機会も無くなっていたせいか、今となっては友紀との会話にヒドく緊張するようになっていて嬉しい反面、今日もやっぱりこっちに来る友紀を見て体が固まってしまった。
「慶太郎。そんな所で暑くないの?」
 開口一番に放たれた友紀の言葉はもっともだった。扉の外は正に『外』で、直射日光に容赦なく肌が焼かれる。おかげで僕の肌は帰宅部のくせに夏らしく焼けていた。
「別に大丈夫だよ。むしろここより体育館の方が暑いんじゃないかな?」
「そう? んー、でもそうかも。もう夏だねー」
 友紀は拭いても拭いても出て来る汗をやっぱり拭きながら眩しそうに空を見上げた。つられて見上げると、校舎と体育館の隙間から覗く濃淡がない青は綺麗に成形されつつ、どこまでも遠く感じた。
「相沢さー。スマッシュ打つ時、時々腹見えるけど中々良い腹筋してるよな」
 耕平のデリカシーが無い言葉に僕はびっくりして空から視線を下ろす。友紀も目を大きく開いて耕平を見ながら、お腹を押さえていた。
「うわー! 三池君変なとこ見てるー! こわー!」
「ばーか。男ならみんな見てるよ。な? 慶太郎!」
 耕平と友紀が揃って僕に視線を移してきた。そんな顔をされても、こんなの答えられる訳が無い。確かに耕平の言う通り見える事はあるけれど、確かに中々引き締まった良いお腹だけれど、やっぱり言えない。
 僕は耕平じゃないのだから、こんな事を言ったら冗談にならない。むしろリアルすぎて友紀ですら幻滅してしまうはずだ。
 耕平には立ち位置の違いというのを早く理解しもらいたい。その変態発言も時々見せるキザな動作も耕平だから許される行為なのだと気付いてくれないと、僕はいつかとんでもない事態に巻き込まれてしまいそうだ。
「僕は……気にした事無いな」
「ほらー! 慶太郎はそんなとこ見ないじゃーん! 三池君だけだよ!」
「おいおい! 相沢本気で信じてんの? 嘘ついてんだよこいつ!」
「慶太郎の嘘なんてすぐわかりますー! 何年一緒にいると思ってんの!」
「何だよそれ! 夫婦発言か?」
「夫婦じゃありませーん!」
 べー、と舌を出して友紀はバドミントン部の輪に戻っていってしまった。
 耕平は頭を掻きながら「やっぱり相沢は上手くハマんないんだよなぁ」と両手を遊ばせながら勝手に考察していた。僕はその隣で友紀の発言を反芻してちょっと嬉しくなって舞い上がり、その直ぐ後にしっかり落ち込んだ。
 耕平は最後の一言が余計だった事をこの先、一生知る事も無いのだろう————。

「そーいやさ、相沢また告られたってなー」
 帰り道、途中の商店で買ったソーダアイスを食べながら海沿いをダラダラと歩いていると、耕平はさもつまらなそうに、いつものつまらない話題を口にした。
「だから毎回仕入れる度に報告しなくてもいいって。で、誰?」
 本当につまらない話題だ。聞きたくもない。でも、ひとたび耳にしてしまえば凄く気になってしまうのも道理だ。
 耕平は僕の心なんて全て見透かしているかのような表情で話を続けた。
「また先輩だよ。野球部の、ほらピッチャーやってる奴。何だっけ? 名前ど忘れしちった」
「あぁ。草間って人か」
「そうそう! そいつ! まぁ相沢はいつも通り断ったらしいんだけどさ」
「……そっか」
 興味のない振りをして、静かに相槌を打つ。心臓はまだとんでもない速度で脈打っていたけれど、とりあえず一安心した。
「しっかしよく告白されるよなー。入学した時くらいはまだ全然だったのにな。二学期くらいからか? モテだしたのっって」
「さぁ……どうだったかな」
「今ではすっかりマドンナ扱いだもんなー。人間、一寸先は闇だねー」
 言葉の使い方を間違っている気がするけれど、何となく言いたい事は分かった。
 耕平の言う通り、友紀は一年の夏休み明けくらいからどんどん話題になっていって、その頃はよく先輩、特に三年生から告白されていた。もちろん二年や同級生からも告白されていたみたいだけれど、今の方が同級生も現三年も告白しているような気がする。
 タイムマシンに乗って過去の僕らにこの現状を話したとしても、絶対信じないだろう。
 それくらい友紀は変わった。外見は勿論、立ち位置や取り巻く環境も勝手にどんどん変わっていった。
「それにしても高嶺の花の考えてる事は良くわかんねーよな。これだけ人気な癖して彼氏の一つも作らないなんてよ」
 耕平は溶けかかった最後の一口を頬張り、アイスの棒を近くのゴミ箱に投げ捨てた。
 確かに友紀の考えている事は僕にも良く分からなかった。全部を把握している訳じゃないけれど、今まで告白してきた人の中には魅力的な先輩も居た筈だ。
 でも、友紀はその交際の申し出をもれなく全て断った。聞いた話では、どんなに押そうとも「ごめんなさい」の一点張りらしい。断った理由は様々な憶測が流れるばかりで、どれも真実味に欠けていた。もちろん本人から聞ける筈も無い僕に真実なんて分かる訳が無い。
「相沢ってもしかして年下好きなのか?」
「……それはないんじゃない?」
「まぁそうだよな。ってか後輩には高嶺の花過ぎてビビって告白も出来ないだろうしな。ちょっと前まで小学生だった奴にはやっぱりまだ早いよな相沢は」
「うーん……うん、そうだね」
 ちょっと前まで小学生。は、きっと僕らにも言える事なんだけれど。でも確かに小学校の一年間と中学校の一年間では時間の進み具合が全然違う気がする。
 中学に入ってからの時間は想像もつかないくらいに僕らを変えていく。
 友紀もそうやって変わっていった。
 小学校五年から六年になるのと中学の一年から二年になるのでは、やはり違う。
 きっと一年間と十年間くらい違う何かがあった。
「あ、そうだ。後さ。来週の日曜に俺らの学校でバドミントンの試合やるらしいぜ」
「知ってるよ。三年の引退試合でしょ?」
「見に行くか?」
「うーん、どうだろ」
「何だよ行こうぜ! 一緒に応援してやりゃ会話をする機会もあるだろ! はい決定!」
 耕平は僕の返事も待たずに勝手に予定を決めると「じゃ、また明日な」と、いつもの別れ道を走り去って行った。
 その背中に何となく手を振って、耕平の姿が見えなくなったらまた歩き始める。
 耕平が居なくなった海沿いの帰り道は一気に静かになって、他の音が良く聞こえた。
 潮騒の音が寄せては返し、遠くに鳥の鳴き声が聞こえた。それに耳を澄ませながら僕は歩く速度を更に落とす。
 夏が近づいて来るといつもの音が違って聞こえて来るのは何故なんだろう。答えは分からないけれど、気にしてなかった世界の音が今日は何だか心地良かった。

 翌週の日曜日。夏の室内競技からしたら決して恵まれたとは言えない晴天の下、僕と耕平は約束(一方的な)通り学校近くの商店で落ち合って体育館へと向かった。
「こりゃ体育館は地獄だな」
 耕平は潮風を送るように襟をバタバタと動かした。確かにここら辺はまだ海から風が届くが、恐らく体育館内は風も通らず熱気はこもりっぱなしだろう。風は欲しい時に限って吹かない。
 願ったものは願った時にこそ、叶わない。季節が身を以て教えてくれているのだ。
 と、そうでも思わなければやっていられない程に今日はいつにも増して暑かった。潮風ですら生暖かく、爽快とは程遠い。
「やっぱり休みの日に学校なんて来るもんじゃねーな」
「……お前が誘ったんだろ。それは僕のセリフだよ」
 長い坂を上って学校が見えて来ると、風も途端に届かなくなる。耕平も僕も流れる汗を拭うのを諦めて、ひたすら勝手な文句を言い合いながら半分開かれた校門を通り抜けた。
 休みの日に学校へ行くのはいつぶりだろう。いつもだったら同じ制服を着た生徒達で溢れている時間なのに、人の姿が全然ない。僕は自分でも分からない妙な感覚に襲われながら、まるで休日に惰眠を貪っているような校舎の前を通って体育館へと向かった。
 耕平に言ったらバカにされそうだから言わなかったけど、僕は私服で学校にいる事が何だか非日常な感じがして、少しだけ胸が高鳴っていた。
 体育館内は予想通り熱気が充満していた。
 開放された扉は焼け石に水で、ほとんど意味をなしていないようにも思える。僕らは試合の熱気と活気で溢れている四つのコートに目を奪われる事無く、そそくさと脇を通り抜け、壇上袖の中にある階段を上がると体育館をコの字に囲う通路だけの二階に辿り着いた。
 まばらな観客の間を縫うように進みながら何となく友紀の姿を探していると、耕平が急に立ち止まって体育館の端を指差した。
「ん? あれ? 何で相沢ユニフォーム来てんの?」
「え……? 本当だ。友紀……試合出るのかな?」
 指された先に目を凝らすと、今日は三年生の引退試合の筈なのに何故か二年生で一人だけジャージではなく正式なユニフォームを着ている友紀が居た。それにどこか落ち着きが無く、足首を回したり、ラケットを何度も持ち替えながら先輩らと何かを話している。
「あー、わかった。あれだ。ほら」
 耕平の指をなぞるように視線を移すと、そこには手に包帯を巻いている選手の姿があった。
「ほら。多分あれ三年だろ? 代わりに相沢が出るって事だな」
「そう……か」
 きっと友紀は二年で一番上手いのだろう。だから団体戦の人数ギリギリしかいなかった三年の代役に抜擢されたのだと思う。
 とは言え、三年の引退がかかった試合でいきなり出場が決まるなんて大丈夫なのだろうか。
 元々そこまで強いチームじゃないから、勝ち進んで地区大会優勝して次は……なんて事にはならないと思う。以前に友紀の試合を見にきた時も入賞者は一人もいなかった。
 今日で三年の引退が決まるのは明白だ。
 ただ、僕はいつも見ていたから解る。友紀もみんなも真剣に練習してきた。弱小でも、勝ちたいって気持ちは常に持っているチームだ。自分達の限界を勝手に決めるような人達じゃない。だからこそ心配だ。彼女達は負ける事を考えていない。なんだったら優勝する気だろう。そういう意思は勝負事をする上で必要だ。でも、その気持ちが強ければ強いほど友紀にはその重圧がのしかかる。そしてそれは、急遽出場が決まった友紀を先輩達が労れば労るほどそれは増していくのだ。
「おいおい。しかも相沢シングルスみたいだぞ?」
「って事は二番目……かな? 嫌な順番だね」
 団体戦は前と同じならダブルス、シングルス、ダブルスの順で三試合。二勝した時点でチームの勝利が決まる。つまり、一回戦目のダブルスが負けてしまえば友紀が勝たないと負けが決まる一戦になってしまうのだ。
 こんな重要な位置をまかされるなんて、単純に考えたらシングルスの選手が怪我をしたと言う事になるが、友紀はもしかしたら三年より強いのかも知れないなんて考えが浮かんでしまう。急ごしらえのダブルスを作るよりは、と言う事なんだろうけれど、僕は勿論、周りのみんなも友紀に変な期待感を持ってしまっている気がした。
 きっと応えてくれる、そんな雰囲気を友紀はいつから持っていたんだろう。
「あーあーあー、もう始まっちまう」
「もう……こうなったら全力で勝利を願うよ」
 一組目のダブルスがコートに出る際、何故か友紀の方が背中を叩かれて友紀は慌てて頭を下げていた。おかげで少しは緊張が解けたのか、今は精一杯の声援をコートに送っている。
「おい慶太郎。俺らも声出してこーぜ!」
「え、え? いや、嫌だよ」
「何でだよ?」
「いや、だって周りを見ろよ」
 僕が人差し指を振り回すと、耕平は左右に顔を向けた。この二階の通路にはまばらに人がいるものの、みんな黙ってコートを見下ろしているだけだった。館内を飛び交う声援は全て下から響いてきているものだ。
「関係ねーだろ。ほら、相沢も頑張って声出してんだからお前も続けよ」
「待ってよ。何で友紀が声出したら僕も声出さなきゃいけないんだよ」
「お前まだそんな事言ってんの? 好きな子が不安になってる時に今のお前が出来る事ってそれくらいしかねーんだから。四の五の言わずに応援すんだよ! ほら、いけー! うおー!」
 拳を振り回す耕平の声援に二階通路の人は疎か、下にいる選手達も何人か顔を向けてきた。その中の一人に友紀も居た。
 一瞬、友紀の声が止まって僕と目が合った気がした。
「い……い、行けー! 頑張れー!」
 気付いたら声が出ていた。ほんの一瞬だったけど、友紀が笑った気がした。
「よっしゃ慶太郎! その調子だ! おらー! いけいけー! そこー!」
「いけー! いけー! 頑張れー!」
 もうヤケクソだった。
 それでも声を出しているうちに恥ずかしさは消えて、いつしか周りの視線も気にならなくなっていた。
 僕と耕平は同じような言葉を精一杯の大声で何度も何度も繰り返す。それでも、下から響く声援にかき消されてしまいそうな程、選手達の声には熱がこもっていた。
 今の所、相手が二点リード。それ以上差を広げずに何とか食らいついている状態だったけれど、点数はどんどん加算されていく。流れはあまり良くない。どこかで流れを変えないと、このまま負けてしまう気がする。端から見ている僕がそう思っているんだから、コートで戦っている二人は絶対に気付いているはずだった。
 でも、流れは一向に変わらなかった。変えようとしているのかも分からなかった。
 点差はそのまま、相手のスマッシュが決まった所で勝利にリーチをかけられる。
「踏ん張りどころだぞー! 一本しっかりー!」
 耕平の声援が更に熱を帯びながら、どんどんバリエーションを増やしていく。きっと下から響いて来る声で学習しているんだろう。
「しっかり! しっかりー!」
 ここまで来ると僕はもう何を言ったらいいのか分からなくなっていた。
 ただひたすらに「しっかり!」と声を張り上げる。気をしっかり、なのか、しっかりしてくれ、なのか、しっかり確実に一本決めていこう、なのか。わからないけれど多分、全部だ。
 僕は色んな意味を込めてこの一言をひたすら繰り返した。
 相手がサーブを打ってくる、危なげなくそれを拾う。そしてそれを相手がまた打ち返す。
 繰り返されるラリーに目を奪われながら、それでも声援を止めない。精一杯に声を振り絞る。
 でも、ラリーはあっけなく途切れてしまった。
 審判の笛が鳴る。
 ————負けた。
 スマッシュを拾ったと思ったけれど、シャトルはネットに遮られて自陣から飛び出す事無く落ちてしまった。
 負けを悲しむ暇も、悔しがる暇も無く、ネット越しに握手を交わして選手達はコートを去る。負けた先輩達は顔を伏せていた。相手チームも黙ったままだったけれどコートから出てようやく明暗が分かれる反応を互いに溢れさせた。
 勝利に沸く相手チームに、こちらは慰めなのか激励なのか良く分からない雰囲気。どちらも声は出しているものの、最後にネットにかけてしまった選手は手を合わせて頭を下げていて、その隣でまた相方の選手も同じように頭を下げていた。
 みんなが集まって、もう一組のダブルスが優しく二人の背中を叩いたりしている中、友紀が先輩達に一礼してコートに出る。それに気付いたのか、頭を下げていた二人が急に顔を上げた。
「相沢! ごめん! 頼んだ!」
「大丈夫! あんたなら絶対大丈夫だから! 落ち着いて!」
 ここまで聞こえるくらいの力強い声に友紀は足を止め、振り向き、頷いた。
 僕はそれを見て少し羨ましくなった。これはきっと部活をやってなきゃ味わえない「絆」というものなんだろうと思った。
 コートに立った友紀の背中から決意が感じられた。ネット越しに相対する二人を見ているだけでコートの熱が伝わってきて、僕の手まで汗ばんできた。
 いよいよ試合が始まる。また声援が飛び交い始めた。
 ドクン、ドクンと僕の心臓が一回一回しっかりと脈打つ。
 審判の笛が鳴って声援が一気に熱を増した。
 ————サーブは友紀から。
 シャトルは軽快に飛んでいった。まるで鳥のように。
 そして素早く帰って来る。
 それを何度も繰り返すうちに鳥はやがて地に落ちてしまう。
 最初は相手側のコートに落ちて行った。
「いいぞ! 相沢! その調子!」
 僕の隣で耕平も変わらず声援を送っている。様々な言葉が飛び交う中、友紀は誰に振り向く事無く、ただ相手と対峙していた。
 ラリーは何度も繰り返される。何度も、何度も。
 ラリーは続く。
 何度も何度も何度も何度も。
 そして突然、途絶える。
 僕は拳をきつく握りしめたまま、何も言えずにいた。
 本当なら一番大きな声援を送るべきところなのに、僕は歯を食いしばって、ただただ友紀を見ていた。
 見蕩れるでも無く、見守るでも無く、ただ友紀の背中を見ていた。
 試合はテンポ良くどんどん進んでいく。最初は友紀がリードしていた筈なのに、気付けばもう相手に三点のリードを許していた。

 ————中学での一年の差は大きい。

 一『学年』の差は僕らにとって一『年』の差じゃない。
 もっともっと長くて濃密な時間の差があるのだ。
 だから二年生の友紀が三年生に敵わないのは当たり前なのだ。
 よっぽどの選手じゃない限り、それは覆らない。仕方が無い事なんだ。
 でも、友紀も他の部員達も諦めなかった。勝利を願って、勝利を信じて抗う。
 振り絞るように声を出す。それに答えるようにシャトルを拾う。相手に打ち返す。
 当たり前の状況から逃げずに立ち向かう。抗う、覆す。諦めない。
 少しずつ、少しずつ、流れが変わっていく。
 勝利を焦っているのか、相手がミスを連発した。
 一点差。友紀のサーブ。
 相手は難なく打ち返して来る。負けじと友紀もそれを打ち返す。
 試合は相手に一点リードを許したまま、とうとうリーチがかかった。
 声援の熱はこれ以上無いってくらいに上がっている。
 相手のサーブ。友紀は落ち着いて返す。
 大丈夫、大丈夫。
 まずは一点。
 同点に追いつこう。
 大丈夫、大丈夫。
 ラリーは続く。続いている。
 今までで一番長く。続く。続いていた————。

 コートを飛び交う一羽の鳥は、いつか落ちてしまう。いつかは終わりが来るのだ。
 そして、その「時」はやっぱり突然訪れた。
 全てがスローモーションに見えた。
 相手が打ち返したシャトルがコートの内側ギリギリに落ちていく。
 それを何とか拾おうと咄嗟に反応して駆け出した友紀はそのまま転倒してしまった。
「————友紀!」
 シャトルとほぼ同時に地に伏せた友紀を見て思わず叫んでしまった。
 倒れ込んだ友紀が一瞬、顔を向けた。
 見た事も無い顔だった。
 縋るような、悲しむような、そして憎むような。いつも太陽のように笑う友紀はそこにいなかった。
 でも、その顔はほんの一瞬で、表情は直ぐに優しく和らいだ。
 まるで……ずっと待っていたものがようやく来たかのように。安心したような顔だった。
 やっぱり、僕は誰よりも声援を送るべきだったのかも知れない。そんな気がした。
 友紀は直ぐに立ち上がり、ネットまで駆けていく。相手と握手を交わして先輩の所まで戻ると、さっきのダブルスの人達よりも深く頭を下げた。
 会話は聞こえない。でも、周りも友紀を責めているようには見えなかった。きっと良い先輩達なんだろう。その行動は間違ってない。健闘した後輩を労うのは絶対に間違ってない。
 でも、友紀にとってその全てが追い打ちになっているに違いない。
 間違いじゃないんだ。でも、正解も無い。
 やっぱり僕は何よりもまず声援を送るべきだった。その気持ちが心の中でどんどん膨れ上がっていく。
 きっとこれが「後悔」ってやつなんだろう。
「なぁ。俺もう帰るから。お前は待っててやれよ」
 まだ他の試合がやっている中、耕平はそう言うと階段に向かって行った。
「ちょっと待ってよ! 僕も帰るよ」
 耕平の背中を追いかける。友紀の試合が終わった以上、と言うより友紀のチームの試合が終わった以上僕だってここに居る理由はない。
「お前は残れ。別にここに居なくてもいいから、どっか近くで相沢待っててやれよ」
「何で僕が友紀を待つんだよ」
「家近いんだから方向一緒だろ? 一緒に帰ってやれよ」
「いや、友紀だって友達と帰るだろうし。僕が待ってたってしょうがないよ」
「お前、わかってねーなー」
 耕平を追いかけながら問答は続く。いっそこのまま流れに乗って帰れるんじゃないかと思った時、耕平は体育館を出た所で急に立ち止まった。
「ここが男の見せ場だろ。と言うよりお前の見せ場だな。お前『ただの幼なじみ』なんだろ? だったらきっとお前じゃなきゃダメなんだと思うぜ」
「言っている意味が全然分かんないんだけど……」
「だから、わかってねーって言ってんの! とにかく! お前は試合終わるまで待て! そして終わったら相沢に挨拶くらいはしろ! 後は自由! 以上! じゃあな!」
「ちょっと! 待てよ耕平!」
 耕平は僕の声に振り返る事無く行ってしまった。別に走るでもなく、いつも通りのダラダラとした歩き方で。いくらでも追いつけそうなのに何故か僕の足は動かなかった。差し出しかけた手もそのままに、僕は耕平が校門から出て行くのをただ眺めていた。

 耕平も居なくなり、僕は仕方なく体育館に戻ろうかと踵を返したけれど、立ち止まった。
 大きな館内からは今も尚、靴が床を擦る音と声援が聞こえてきた。
 僕はまた体育館に背を向けた。中に戻る気が起きなかった。また戻ってしまったらより一層、後悔が溢れてしまいそうだったから。
 何処か良い所はないかと適当に歩きながら辺りを見回すと、ちょうど昇降口の扉が一つ開いているのを発見した。更衣室として空き教室を使っているのか、それともどこか別の部活が使用しているのか、理由は分からない。でもどこかしら時間を潰せる所があるだろうと踏んで、僕は校舎の中に入った。
 人気の無い校舎の中は少し非現実的だった。廊下に自分の足音がやけに響いて、自分がここに居るのがハッキリしている反面、自分しかここに居ないと言う事を気付かせる。あまり良い気分ではなかったけれど、とりあえず自分の教室を目指した。
 教室には幸い誰も居なくて、誰かの荷物が置いてある訳でも無かったので、僕はここで時間を潰す事にした。
 当たり前のように自分の席に座る。
 机の中には起きっぱなしにしていた地図帳があった。適当に開いてみると、ヨーロッパのページが現れる。別に何も面白くないのに、授業中何となく開いてしまったりするこの本は、いつも五分くらいで飽きて閉じるのだけれど、しばらくしたらまた何となく開いてしまう不思議な本だった。
 地図帳を開いたまま窓の外に目を投げる。いつもの景色だ。何も変わらない。でも、今はどれだけこうして余所見をしていようとも怒られる事は無い。
 授業のないこの教室は眠っているのだ。この場所で起きた過去の出来事も全て眠っている。
 授業が始まらなければそれらは目を覚まさない。ここは今「教室」だった場所だ。
 机に伏せて目を瞑る。これも授業中だったら怒られる行為。でも、怒られない。
 当たり前だ。だってここには僕しか居ないし、何より今、ここは教室じゃないのだから。

 ————夢とも現実とも言えない境目で遊んでいるうちに、体育館からは何も聞こえなくなっていた。
「やばっ!」
 急に意識を取り戻した僕はバッと体を起こして時計を確認すると、急いで体育館へと向かった。思った以上に時間が過ぎていた。試合が終わってからどれくらい経っているのだろう。いつの間にか寝てしまったのか、全然気付かなかった。
 廊下を全力で走る。それでも頭の中はやけに冷静で、もし友紀が帰っていたら耕平に何て言い訳をしようかと考えていた。
 体育館の出入り口に着くと、既に中から色んな学校の人達が出てきていた。僕は何となく目につくような距離まで離れて、友紀を待ってみる事にした。
距離を取っているからか、幸いこちらに視線を向ける人は全然居らず、僕の視線にも気付かずにみんな様々な表情で体育館から出て来た。泣いている人も居た。
「慶太郎?」
 絶え間なく出て来る人波の中、友紀は体育館から出て直ぐに僕の姿に気付いた。僕も友紀が出てきた瞬間に気付いていて、どう声をかけようかと迷っている隙に友紀が先に口を開いた。僕が手を挙げると友紀は周りの部員達と何やら言葉を交わし、互いに手を振り合うとまた僕に顔を向けた。
「慶太郎!」
 小走りで駆け寄ってきた友紀に何て言おうか迷っている内に、友紀はもう僕の目の前に立っていた。いつもの笑顔で僕の前に立っていた。
「帰ろ!」
「う、うん……」
 友紀の表情はいつも通りなのに耕平が変な事を言うもんだから僕はいつもより少し、いやかなり緊張していた。
 だからつい変な所に気が回ってしまい、僕は校門から出ると道中で色んな人に見られると思って、わざわざ校庭を突っ切って裏門から帰る事にした。我ながら消極的なアイデアだったけれど、友紀の足音が直ぐ後ろに聞こえて少し安心した。
 誰もいない広い校庭を二人きりで歩いている方が逆に目立つんじゃないか、と僕が気付いた時にはもう校庭を半分以上歩いた所だった。
 それに気付いて一瞬、足を止める。そして直ぐさま早足で裏門へと向かった。
「慶太郎。こっちだと遠回りだよ?」
「うん、ま、まぁそうなんだけどさ。気分って言うか何と言うか……」
「ふーん、ま。いっか」
 友紀の言葉を下手くそにはぐらかしながら、並んで裏門の階段を下りていく。
 そしてそのまま細い路地を少し進むと、いつも通る海岸線の帰り道に出られた。
「……慶太郎来てたの知ってたよ」
「うん」
「でも待っててくれてるとは思わなかった」
「いや、それは……」
「ありがとね」
 出しかけた僕の言い訳は感謝の言葉に遮られてしまう。ありがとう、なんて言われたら僕があそこで待っていたのを耕平のせいにする事も出来なかった。
 友紀はそれ以上何も言わなかった。
 僕も言葉が見付からず、ただ黙って歩いていた。
 二人の沈黙の間には波の音と遠い鳥の声が届いて来る。潮風が時々前髪を揺らした。本当はあまり気にならなかったけれど、わざと気にしている素振りを見せて居心地の悪さをごまかした。
「……ありがとね」
 友紀はもう一度僕にお礼を言ってきた。今度のお礼は一体何に対してなのかわからない。
 わからないけれど、友紀は泣いていた。
 赤みが差した太陽に照らされながら、涙がいくつも友紀の頬を流れていった。
「友紀……その……」
「ごめん……ずっと我慢してたんだけど……私、わたし……」
 ちょっと、背中借りる。と言って友紀は僕の後ろに回って背中に顔を押し付けてきた。
 立ち止まった僕は気をつけの姿勢で動けないまま、真横に広がる赤く輝きだした海原を眺める事しか出来ないでいた。
 沈む準備を始めた太陽はどんどん赤みを増していく。眩しいのに、何故かずっと見ていられるその光はしっかりと熱を帯びていて、だけど背中に伝わる体温のほうが暖かくて……。
 僕は自分の愚かさを恥じた。
 友紀が声を押し殺して泣いているこの時に、僕は「今なら告白出来るかも知れない」なんて事を考えていた。大好きな人が悲しみに暮れている瞬間を僕は「チャンス」だと思ってしまったのだ。
 告白なんて出来ないくせに。
 考えるだけで行動には移せないくせに。
 だから余計に愚かだった。
 そうした自分の愚かな部分を心の奥底で握りつぶすと、心の中にはやっぱりあの後悔だけが残った。

 ————どうして、僕はあの時、精一杯友紀に声援を送らなかったんだろう。

 ————。
「あー! あったねぇ! 恥ずかしー!」
「……恥ずかしいのはこっちだよ」
 友紀は顔を覆って足をバタバタと動かした。僕も何だか照れくさくて友紀から目を逸らした。
 月明かりが入り込むこの教室は目も慣れたせいで細かい所まで目につくようになっていた。見回さなくても分かるくらいに散らかったままの教室には忘れ物が多く正に『そのまま』だった。別に持ち帰る必要も無いのだけれど、何だかちょっと残念だ。
「って事はその時に私の事好きだって思ったの?」
「いや、うーん……厳密に言えばもう少し前かなぁ。ほら友紀ってどんどんモテていったじゃない? 中二になるにつれて。だから僕もそれくらいに好きになったんじゃないかな」
「何か、ミーハーだね」
「ミーハーって……」
「でも確かにあの頃はすごいモテたなー! 完全にモテ期ってやつだったね! はー、でもそれが今じゃ……」
 友紀は泣きまねをしながら僕の顔をちらりと伺ってきた。勿論、言いたい事は分かっている。
 正直、友紀は高校に入ってもモテた。いや、中学以上にモテていた。でもやっぱりその告白は全部断っていた。僕が告白するまで、はずっと断り続けていた。
 しかし僕と付き合う事になってからのこの一ヶ月間、友紀はそれ以前がまるで嘘だったかのように告白されなかった。色々と重なったせいもあるけれど、やはり「フリー」ではなく、しっかり「彼氏持ち」になったばかりの友紀に対して告白してくるような人格破綻者は流石にこの高校にもいなかったみたいだ。いや、ただ単に強大なショックから立ち直れなかっただけかも知れないけれど、僕はそう信じたい気分だった。
「それで? 友紀はこんなしょうもない僕をいつから好きだったの?」
「へ?」
「へ? じゃないよ! 次は友紀の番だろ! 僕が言ったんだから」
「えー? 順番制だっけ? じゃあ次から順番制ね!」
「ちょっとそれはヒドいんじゃない?」
「ヒドくなーい!」
 友紀は両手をあげて立ち上がり、そのまま勢い良く教室を出て行ってしまった。ヒドくないの言い方が昔やっていたひげ剃りのコマーシャルみたいで少し笑ってしまったけれど、僕も直ぐにその後を追いかけた。
 薄暗い廊下を軽やかに走り抜ける音が二つ響く。上履きがリノリウムの床を踏みつける音を久しぶりに聞いた気がした。何て事ない音なのに、改めて聞くと、どこか懐かしかった。

 ————辿り着いた先は音楽室だった。
 友紀は当たり前のように引き戸を開ける。鍵は開いていた。中は教室とほとんど変わらない。同じように机と椅子が並んでいて、ただ教卓があるべき場所にピアノが置いてあった。
 友紀はピアノの椅子に腰掛けて鍵盤蓋をゆっくりと開ける。
「友紀。弾けないでしょ?」
 横に立つ僕の顔を見上げて、友紀は屈託なく笑った。
「うん! 弾けない! けどこれなら弾けるよ!」
 鍵盤に向き直った友紀はおもむろに演奏を始めた。ピアノの旋律が音楽室に、校舎に、夜空へと響き渡っていく。今なら世界の裏まで届いてしまう気がした。
 小気味良い音符がまるでダンスしているように流れていく、快活でコミカルな旋律。
 こんな静かな夜に響き渡る「猫ふんじゃった」は何とも間抜けだった。
 手を交差して得意げに弾いてみせる友紀がまた面白くて、僕は途中で我慢出来ず吹き出してしまった。
「ちょっとー! 何で笑うのー!」
 友紀は演奏を止めて僕の裾を思いっきり引っ張った。
「だって、だってさ。こんな時に猫ふんじゃったって雰囲気ぶち壊しで……ははは!」
 僕は込み上げて来る笑いを抑えきれずとうとう声を出して笑ってしまった。言葉にしたら更に面白くなってしまった。その内、何故か友紀まで笑い出してしまい、僕たち二人の声が音楽室を飛び出して廊下にまで反響した。
「何か私もおかしくなってきた! 何で猫ふんじゃった弾いたんだろーね!」
「ほんと! ほんとだよ!」
「だってこれしか弾けないんだもん! ははっ!」
「あーダメだ! おっかしい!」
 しばらく僕らは笑いが止まらなかった。町まで聞こえてしまうんじゃないかってくらいに大声で笑い合った。
「あー笑った。友紀、今のは反則だろ」
「反則って! 千佳ちゃんが教えてくれたんだよ? 何か簡単なやつ教えてって言ったらこれだったの」
「あー、有村さんかぁ……ん?」
 笑いも落ち着くと、携帯電話がポケットで震えた。
 取り出すと耕平からのメールだった。開いて内容を確認する。そして相変わらずの文面にまた少し吹きだして、友紀に画面を向けた。
「ほら。噂をすれば、だね」
「あ、三池君? あー相変わらずメールがキザだねー」
「変わらないよな。あいつ」
「千佳ちゃんとはまだ付き合ってるの?」
「うん。付き合ってる」
「そっかー。久しぶりに会いたかったなぁ」
「耕平と?」
「千佳ちゃんと。全然連絡も取ってなかったからさ」
「仲、良かったんだね」
「君たちほどじゃないけどねー!」
 携帯を閉じる前にもう一度文面を読み直した。いつもと変わらない文面がやっぱり面白く、そしてちょっと安心した。
 耕平は中学三年の時に有村さんと付き合う事になった。
(慶太郎! お先!)
 そう言い放った耕平の意地悪そうな笑顔が憎たらしかったけど、素直に嬉しかった。耕平には言わなかったけれど、僕はずっとお似合いだと思ってたから。
「三池君と高校違ってもさ。そうやってちゃんと繋がってるからすごいよね。正に親友」
「親友? なのかな?」
「親友でしょ! じゃなきゃ何なのよ! 愛? 恋?」
「だったら何で僕は友紀と付き合ってるんだよ」
「三池君が千佳ちゃんと付き合っちゃったから?」
「それだったらタイミングおかしーだろ!」
「ま、そうね」
 友紀はいきなり話題に飽きたらしく、声のトーンと一緒に視線を鍵盤に落とした。
 こういう気分屋な所は相変わらずで、僕は時折、友紀に置いて行かれてしまう。
 ————ピーン。
 一番高い音の鍵盤を押した友紀はゆっくりと指を離した。
「三池君はさ。千佳ちゃんがいるからあの高校を選んだのかな」
「んー、ぶっちゃけ……そうだね」
「あ、内緒話バラした」
「もういいだろ別に。それに聞いてきたのは友紀の方だよ」
「ま、そうだけどさ」
 友紀はもう一度鍵盤を押す。ピーン……と張りつめるような音が波紋のように広がった。
「慶太郎は何で志望校変えたの?」
 友紀は僕に視線を移す。
「……友紀が行くって……聞いたから」
「……うん。そんな気した。慶太郎……ありがとね」
 友紀は少しだけ笑った。お礼なんて言われる筋合い無いのに。僕はまた言葉を返せなかった。
 友紀にお礼を言われると何故だか何も言えなくなる。何を言ったら良いか分からなくなるのだ。別に何か言わなきゃいけないって訳でもないのだけれど、つい何か言わなきゃという衝動に駆られてしまう。僕は結局、昔と何も変わらない。
 フル回転する頭を休ませるように、交わる視線を外して窓の外に投げた。町灯りがポツポツと灯っていて、ちっぽけな夜景が広がっていた。
 高台にあるこの学校からは町が半分くらい見渡せる。
 友紀の質問のせいで、あの頃の記憶が浮上して来る。
 ————中学三年生。
 少しずつ変わっていくみんなの空気。小学校六年の時のような最上級生としての余裕なんかまるで無く、みんなが受験に向かって突き進んでいた。
 ずっと勉強ばっかりしていた奴が評価を上げて尊敬され始め、遊びほうけていた奴らでさえ勉強し始める。
 心の内はわからないけれど、きっと後悔してたんじゃないかと思う。ほんのちょっとだけかもしれないけれど「もう少し勉強してれば良かったな」って思っていたと思う。
 僕も思っていた。周りより勉強していたほうだったけれど、友紀の受ける高校が僕の学力じゃちょっと厳しい所だったから。
 思い返せば、僕も少しずつ変わっていたんだと思う。でも、その時は自分だけが取り残されている気がして仕方が無かった。頑張らなきゃと思っても、頑張ってみても、いまいち自分だけ気持ちが乗り切れていない気がして、ずっと焦っていた。
 今なら、みんな同じ気持ちなんだって思えるのに。
 やっぱり、あの頃は余裕が無かったんだと思う。誰より自分自身が見えなくなっていた。
 それでもこうして友紀と同じ高校に合格出来たのは、紛れもなく友紀のおかげだった。

「————慶太郎!」
 夏休みも終わっていよいよ受験勉強も後半戦に差し掛かった頃、友紀は毎日放課後になると隣のクラスから僕を呼びに来ていた。
「待って。今行く」
 机の中の教科書を乱暴に鞄へ詰め込んで、僕は友紀の手招きする扉まで駆け寄った。
「よし行こ!」
「うん」
 軽快に走り出す友紀の後を追う。昇降口を飛び出して向かった先は市内にある図書館だった。
 僕と友紀はほとんど毎日と言っていいほど放課後はそこで一緒に勉強していた。
 今となっては当たり前のようにこうしているけれど、こんな光景が当たり前の風景と化したのは本当につい最近の事だ。
 どこから情報を仕入れたのか、僕が志望校を変えて同じ高校を受験すると知った友紀は突然この勉強会を提案してきて、僕の可否も聞かないままこうしてほとんど勝手に開催し続けた。
 正直な話、この勉強会は僕が勉強を教えてもらっているだけのようなもので、友紀には感謝する他ないのだけれど、それでも最初は嬉しさや有り難さよりも恥ずかしさの方が勝っていた。今が受験シーズンじゃなければ周りはもっと騒いで口々に「あいつら付き合ってんの?」なんて言っていたに違いない。こんな他人に構っていられる状況じゃないから、そこまで騒ぎにならずにやがて落ち着く事が出来たのだ。それでも、少し騒ぎになるだけ凄い事なのだけれど。
「慶太郎は理解が早いからサクサク進むね。私こことか全然理解出来なかったんだけどなぁ」
 友紀は数学の問題をペンで指す。
「でも、友紀の言う通りにやれば良いだけだからさ」
「ここの解き方まで教えてないんですけどー。ほんと応用が得意よね。要領が良いんだ」
「自分では良くわかんないけど」
「そんなもんよ。はい、どんどん行こー」
「はいはい」
 大した会話はなかったけれど、それでも毎日こうして二人でいられる時間が心地よかった。余計な事は気にせず、ただ黙ってシャープペンシルを走らせて、時々顔を上げて少し会話をする。たったそれだけなんだけれど、それだけで良かった。
 秋も深まる頃には友紀の制服は紺のカーディガンに赤いマフラーの組み合わせになっていた。
 僕はブレザーのまま灰色のマフラーを足しただけ。ただ、このマフラーは友紀からの誕生日プレゼントだった。
 友紀は毎年絶対に誕生日プレゼントをくれる。だから僕も毎年かかさず誕生日プレゼントを渡す事が出来た。
 友紀のしている赤いマフラーも僕が今年渡した誕生日プレゼントだった。周りから『それ友紀っぽくないね』とか『なんか違う』とか散々な事を言われているのを何度も目にしたけれど、その度に友紀は笑って、そんなことないよー。と言うだけで、ずっとそのマフラーをして学校に来ていた。
 だからしばらくは友紀のマフラー姿を見る度に申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちが混ざり合って僕はどうしようもなく変な気分になっていた。そして自分のセンスの無さを呪った。
 端から見たら何だか付き合っているようにも見えるだろうけれど、それでも僕らは決して『恋人同士』ではなく、僕はいまだ告白出来ないでいた。
 高校の合格が決まった後でもそれは変わらず、僕は黙って『幼なじみ』として友紀の近くに居続けるだけだった。
 ————。
 鍵盤蓋を閉める音に振り返ると、友紀は立ち上がって僕を手招きした。
「次はさ。一年の教室行こ」
「いいけど。どっちの?」
「決まってるでしょ。ほら、行こ」
 友紀は僕の手を引く。引かれるままに音楽室を出て直ぐ横の階段を下りると、踊り場の掲示板に目が止まった。
「今年は、あんまり盛り上がらなかったね」
「でも、事件がなかっただけマシだよ」
「そっか。そうだね」
 文化祭のポスターに止められた足がまたゆっくりと進みだす。僕の腕を引く力は弱く、僕は既に自らの足だけで進んでいる状態だったけれど、友紀はそれでも僕の腕から手を離さなかった。
 友紀の言う通り、確かに今年の文化祭は盛り上がりに欠けた。去年はこれでもかってくらいに晴れていたけれど、今年は二日間とも大雨で屋外のイベントは軒並み中止。見るものが無くなり、行き場を失った生徒や、それでもやって来る一般客達がごった返す校舎内はその人ごみの割には活気も無く、何だか白けた祭りになってしまった。
 やはり、六月の上旬に行うような催し物ではないのだと思う。こんな事は別に考えなくても分かりそうなものだけれど、それでも、雨の可能性が一際高くなる梅雨の時期にやらなければならない事情がこの学校にあったのかどうかは今となっては知る由もなかった。
 ————教室の扉を開ける。友紀が一年生の時に使っていたこの教室。中の間取りは他の教室と何も変わらない。それでもこの一年の教室はもう、僕らが使っていた頃とは全く別物のような気がして、大した用もないのに何度も足を運んでいた半年前が随分と昔に感じた。
「私、最初この席だったんだよなー。慶太郎は?」
 友紀は廊下側一番端の一番前の席に座って僕に振り返った。僕は特に返事もせず黙って窓側一番端の後ろから三番目に座った。
「さすが水戸慶太郎! 良い位置に座るねー!」
「相沢友紀はどの学年でも最初はそこなんだろうね」
 少し離れた席のせいで、僕も友紀もさっきより声を張っていた。
「なんか、なんにも無いようでさ。なんだかんだ色々あったよね」
「そう、だね。うん」
「何? その返事」
「いや、気になってさ」
「何が?」
「友紀がいつから僕を好きなのか」
「まーだ言ってんの! 死ぬまで教えないからね!」
「おかしな事言うなよ全く……」
「気にしない気にしない! ねぇ覚えてる? 去年の文化祭!」
 一年前の事なんて忘れる訳無いだろう。とは口にせず、僕は友紀から目を逸らした。友紀の嬉しそうな笑顔がなんとも意地悪だった。
「照れてる照れてる!」
「て! 照れてないよ!」
「はいはい! 照れてなーい!」
 友紀はまたひげ剃りのコマーシャルの真似をした。きっと、つい先ほどからマイブームになったのだろう。
「でもあの時の慶太郎けっこう良かったなー」
「まだその話終わってないんだ……」
「いいじゃない。大事な思い出なんだから」
「まぁ……そうだね。その通りだ」
「でしょ。その節はどうもありがとうございました」
 友紀は座ったまま深々と頭を下げてきた。
 途端に一年前の光景が頭の奥の奥からとめどなく溢れ出して来る。
 ……あの時の友紀は、確か涙目で笑っていたっけ。
 強がりな所は相変わらずだけれど、あんな事があっても泣かなかったって事はきっと中学二年生の頃より強くなっていたんだろう。
 友紀のせいで僕の記憶が細かい所まで浮かび上がってしまい、どんどん鮮明になっていく。
 無力な僕がほとんど巻き込まれる形で飛び込んだあの事件。
 一年前の文化祭。
 この友紀のいた一年二組の出し物は、とある事件を引き起こした————。

 ————高校一年生。どこかぎこちなかったクラスの雰囲気もゴールデンウィークが明ける頃にはだいぶ打ち解けてきて、それぞれ互いに存在やそのキャラクターを認識し始めていた。
 僕も空気のような存在なりに安定した位置を確保し、それなりに友達も出来ていた。と言っても、その頃には既に学年のマドンナとなっていた友紀とは雲泥の差だったけれど。
 そしてこの学校はこれくらいの時期から文化祭の準備が始まる。学力が高い割にはイベント事にも力を入れている学校なので文化祭の準備期間は他校よりも長く設けられ、また準備期間中は先生さえ同伴していればかなり遅くまで残って作業する事も出来た。
 僕のクラスは体育館で合唱をする事になった。模擬店は食料系が二年生からなので一年生はどうしてもイベント系になってしまう。それでも工夫を凝らせばそれなりに面白い店が出来ると思うのだけれど、たまたまこの時期にやっていた合唱ものの映画がヒットしたせいで僕らのクラスはまんまとその流行に乗り、合唱をする事になった。
 曲目はもちろんその映画の劇中歌。僕もゴールデンウィークを利用してその映画を見に行ったけれど、生憎とそこまで感動は出来なかった。ただ、一緒に行った耕平は割と楽しんでいたみたいだったから僕の感覚がズレているだけかも知れない。おかげで歌には少しも愛着が湧かなかった。これを歌う度に感じるのは映画に付き合ってくれた耕平への感謝のみだった。
 他の一年生クラスも同様に劇だったり、ダンスだったりと発表ものばかりだった。しかし、その中で唯一友紀のクラスだけは『店』をやるみたいだった。何でもメイドが案内人役をやる新感覚ホラーハウスというキャッチフレーズの『メイドお化け屋敷』という斬新なのかなんなのか良く分からないものをやるらしい。
 下らないと笑っていたけれど、正直、僕は友紀のメイド姿にはかなり興味があった。他の誰かに見られたくないと思う勝手な気持ちも、こんな機会でもなければ一生見られないだろうという気持ちに負けてしまうくらい気になっていた。
「————はぁ……ゆううつぅ……」
「そうだ。耕平が楽しみにしてるって言ってたよ」
「更に憂鬱……」
 同じ高校に入ると帰り道がほとんど同じだからか、自然とこうして友紀と帰る事が多くなった。そしたらまたあの『付き合ってるんじゃないか?』って噂が学校中に流れるんだろうと思っていたけれど、特にそのような噂が流れる事は無かった。どうやらここまで立ち位置の差が開いていると、流石にそれはないだろうと勝手に思われてしまうらしい。確かに正解なんだけれど、少しだけ寂しくもあった。
 最寄り駅からの帰り道は中学の頃とさほど変わらなかったけれど、夕方の海岸線が、真横に吹く潮風が、一定のリズムに届く波の音が何も変わらないから、高校の制服を着ているのだと言う事を再認識させられた。
 嬉しくもあり、寂しくもある。そんな気持ちでここを歩くのもいつか慣れてしまうのだろうか、なんて考えていたら友紀がまた溜め息をついた。
「やだなーメイドなんか」
「いいじゃん。みんなやるんでしょ?」
「女子はね。後は男子も数人着るってさ」
「まぁ……ギャグ要員も大事だよね」
「って言うかもうギャグだけでいいじゃんね」
「いやいやダメだよ」
「あーやだなーやだなー!」
 友紀はどうにもメイドの格好が受け入れられないようだった。この間、試しに女子だけで着てみたらしいのだけれど、恥ずかし過ぎて死にたくなったらしい。
「まぁたったの二日間だし。我慢しようよ」
「慶太郎は来ちゃダメだからね!」
「え? 何で?」
「何でも! 来んな来んな! もう誰も来んなー!」
「あ、荒れてるね……」
 友紀の文句のような願いのような叫びは響き渡りもせず、淋しく夕空に吸い込まれていった。それで虚しくなったのか、友紀はそれから言葉を発する事無く時折、深い溜め息を吐くだけだった。
 ————例え、誰かがどれだけ嫌がっても覆らないし、願っても呪っても何事も無かったかのように平然とその日は来てしまう。
 誰かが待ち望み、誰かが逃れられなかった文化祭初日。
 僕は落ち着かない気持ちで昇降口の前に立ち、駆け寄って来た耕平に手を振った。
「慶太郎! 久しぶりだな!」
「おー! 髪切ってる!」
 僕の前に現れた耕平はサッパリとした短髪になっていた。ワックスで分け目を作った清潔感のある髪型はなんだか高校生というより社会人っぽかったけれど、それでも似合っていた。
「時間は結構空いてんの?」
「うん。合唱の舞台までまだ二時間くらいあるかな」
「それもかなり見物だけどな!」
「そう言われるとなんか嫌だな……」
「へへ! んじゃまずは早速、相沢のメイド姿でも拝みにいきますかね!」
 他校の文化祭でここまで楽しめる耕平が何だかズルく感じた。でも、これが耕平の良い所だし、何よりスキップしそうなくらい軽快に人ごみを歩いていく耕平はやっぱりいつも通りで、僕は何よりもまず安心してしまった。
「————ちょっと! 何すんのよ!」
 お互いの高校生活を茶化し合いながら曲がり角を曲がった所で僕らは立ち止まった。廊下に響いてきたのは友紀の声だった。
「おい。なんか相沢が揉めてるみたいだぞ」
 眉をひそめた耕平が廊下の先を指差す。真っ直ぐ伸びる廊下を行き交う人々の隙間から見えたのは、僕の知らない男と口論している友紀の姿だった。
「何かマズくねーか?」
 突然の出来事で何が起こっているのかさっぱり分からないけれど、耕平の言う通りこの離れた場所からでも分かるくらい騒ぎはどんどん大きくなっていった。友紀が口論している二組の前にはクラスメイトも野次馬も集まってきて、何だか妙な雰囲気になっている。
「と、とにかく行ってみよう」
 僕は耕平を促して人ごみの間を強引に通った。どうにも変な気分だった。居心地の悪い心臓が妙に脈打って、息苦しかった。
 人とぶつかりながら、早足で友紀の元へと向かう。僕が行った所でどうなる事でもないかもしれないけれど、黙って見ているなんてとても出来なかった。
「あー、はいはい。成る程ね」
 集まる野次馬をかき分けて現場にたどり着くと耕平は誰に話を聞くでもなく、その場の状況を把握したみたいだった。
「お触りしちゃダメでしょー」
 耕平の一言で僕もようやく理解した。成る程、友紀と向かい合って口論しているあの男は、このお化け屋敷を一緒に回っている最中に友紀に触れたって事か。注意事項の看板にも大きく『案内人には手を触れぬように』って書いてあるのに。それにしてもどこを触ったんだろうかあの男は。
 騒ぎを聞き駆けつけたのか、僕たちとほぼ同時に到着した先生が事態を収拾しようと友紀と男の間に割って入った。
 先生は双方の話を聞くと、早々と騒ぎを収束させる。その手際の良さたるや、正に大人にしか出来ない芸当だったけれど、その解決の仕方も『大人』過ぎて、僕には全く納得いかないものだった。
 僕は目を疑った。先生は証拠もないからという理由でその男を咎める事もせず、それどころか何故か友紀の勘違いと言う事で強引に終わらせてしまい、メイドお化け屋敷はまた何事も無く再開する事になってしまった。
「おい。あれ」
 その一部始終に憤りが収まらない中、耕平が僕を顎で促した。移した視線の先には人ごみに隠れて笑いながら親指を立て合う二人の男が居た。その内の一人はつい今しがた友紀と口論していた男だった。
「おい慶太郎。分かってるよな?」
「……え? 分かってるって?」
「ったく、お前はなんにも成長してねーな。多分、次はあいつが相沢に触るぞ」
 耕平が目で指す男は何食わぬ顔で列を眺めていた。耕平の推測通りだとすれば、恐らく順番を確かめてタイミングを計っているのだろう。
「俺はさっきの奴追うから。そっちはまかせたぞ」
「おっ! おい! 耕平!」
「いい加減ごまかすな! 大丈夫だ! お前なら出来る!」
 耕平は走りながら振り返って僕を指差した。
 耕平に投げる言葉を必死で探している内に、耕平は人ごみに消えてしまった。
 ……図星だった。
 何となく「そうかも知れない」と僕の頭には浮かんでいたけれど、僕はそれを見て見ぬ振りしてごまかしていた。気付かなければそのままやり過ごせるから。僕はそうやって何度も自分をごまかし続けていた。きっと耕平は最初からそれを見抜いていて、だから僕に成長してないと言ったんだろう。
 変わるなら、今かも知れない。
 いや、やらなきゃダメだ。
 これをチャンスと思ってしまう自分の愚かさを恥じている場合じゃない。
 何より、あのバカ面した男に友紀が触られるなんて耐えられない。
 僕はとうとう意を決して、列に並んだ男の後ろにピッタリと張り付いた。突発的すぎて作戦と言う作戦も無かったけれど、とにかく阻止しなくてはならない。時間も道具も無い中で僕は列に並びながら今までで一番と言っても良いくらいに脳を働かせた。
「はい。次の方ー」
 しばらくすると僕の前の男が呼ばれて、友紀と共にお化け屋敷へ入って行った。相手の男と挨拶を交わした友紀の顔は、僕の知っている笑顔じゃなかった。
 僕は静かに深く息を吸い込む。そして短時間で思い描いた作戦とも言えない作戦を実行した。
「す、すいません! ちょっと中に落とし物しちゃったんで取りに行っていいですか?」
 列から飛び出した僕は受付に身を乗り出してもの凄い早口で捲し立てる。
「え? あ、いや、ちょっと待って下さい。えっと確認を」
「すいません! 大金入ってるんで盗まれたら終わりなんです! すいません! 入ります!」
 勝手に扉を開けて中に入る。背中に「あ! ちょっと!」と聞こえたけれど僕は振り返らず、足も止めなかった。
 室内は薄暗く、急いでいるせいもあって色んな所に足をぶつけたけれど、飛び出してくる脅かし役にも目もくれず続く道をどんどん進んでいった。
 ————いた。あいつだ。
 急いだおかげで直ぐに友紀と男の後ろ姿を見つける事が出来た。僕は逸る気持ちを押さえて、気付かれないようにゆっくりと距離を縮めていく。息を潜めて気付かれないように進んでいると脅かし役の気持ちが少しだけ理解出来た。
 前方に並んでいる二人の距離はかなり近いけれど、どうやらまだ何も起こっていないみたいだった。それでも、その男はいつでも触れる距離を常にキープしている。そしてその先には死角になりそうな九十度の曲がり角。僕は何となくそこで動くような気がした。
 二人から目を離さず一気に距離を詰めて、真後ろに立ち、同じタイミングで角を曲がる。
 ーーーー来た!
「うぉー!」
 僕は渾身の体当たりを男にぶちかます。不意をついたからか体重が軽かったのか思った以上にあっさりと僕と男は前のめりに倒れた。それでも冷静に僕は男のズボンのポケットに手をかけてしがみつき、床に倒れながら暴れる男を全力で押さえつけた。
「友紀! は、早く! 誰か! 誰か呼んで!」
「け、慶太郎?」
「そうだよ! 僕だ! 早く早く! 誰か呼んで!」
「あ、うん、わかった! 誰かー! 誰かー!」
 友紀の大声に反応するように室内の明かりが点いて、お化け役の人達と共に外に居た生徒達もぞろぞろと集まって来た。一般客も生徒も駆けつけたは良いものの一体何が起こっているのか分からないのか、ジタバタと床で暴れている僕と男を見て呆気にとられているだけだったけれど、直ぐに先生がやって来て僕と男は乱暴に引きはがされた。
「まったく! 今度は何なんだ!」
 僕を羽交い締めにした先生は耳元で怒鳴ってくる。
「そいつがいきなり飛びかかってきやがったんだよ!」
 男は息を切らしながら僕を指差して詰め寄って来たので、周りに居た男子生徒達が慌てて止めに入った。
「先生。すいません離して下さい。もう大丈夫ですから」
「言ったな? 信じるぞ?」
 先生はゆっくりと僕から腕を放した。僕は、さっきは友紀を信じなかったくせに。と心の中で吐き捨てながら自由になった肩を小さく回して、目の前で男子生徒数人に押さえられている男を指差した。
「先生。さっきの男とこいつは結託して相沢さんにイタズラしようとしていたんです」
「はぁ? 何言ってんのこいつ! まじ殺すぞ!」
 男は男子生徒に抱きつかれながら、尚もこちらに詰め寄ろうとしてくる。僕は男と真っ直ぐ視線をぶつけながら全然動じていない振りをしていたけれど、本当は心臓の鼓動がどんどん強くなってきていて、少し意識もフワフワしていた。
「お前。名前と学年は」
「一年の水戸です」
 先生の質問に簡潔に答える。あくまで冷静な振りをする僕とは反対に、間髪入れず二度も起きたトラブルのせいで友紀のクラスのみんなはどうしたらいいのかわからなくなっているようで、互いに顔を見合わせたり何かを話していたりと、どうにも落ち着かない様子だった。
 とりあえず今にも襲いかかってきそうな男を抑えてはいるけれど、証拠も無いんじゃどうする事も出来ない。友紀の味方をしたいけれど、何も見ていないのに下手な事は言えないといった感じだった。
 それなりに頭の良い生徒達のそういう考えは決して間違ってない。
 でも、それは正解じゃない。
 本当は正解なんてないけれど、僕は悪友のおかげで悪知恵を身につけている。だから自分勝手に正解を作る事にした。
「でも、僕が彼を捕まえたのはそれだけじゃないんです」
 僕は男のズボンを指差す。
「彼が僕の財布をとったんです」
「はぁ? てめーマジで殺すぞ!」
「嘘だと思うならポケット調べて下さい! そ、その右後ろのポケットです!」
 男の凄みに負けてしまい少し怯んでしまったけれど、キッパリと断言した僕の言葉に先生が動き出してくれた。
 先生は男子生徒達に押さえられている男のポケットをまさぐり、そして青い財布を取り出した。
「水戸。これか?」
「あ……慶太郎の財布」
 先生が掲げた財布を見て、友紀が呟いた。先生が手に持っている『それ』は随分昔から僕が使い続けている友紀からの誕生日プレゼントだった。
「はー? 知らねーよそんなの!」
「あ、あの! さっき受付で水戸君? が、落とし物取りに行くって言ってて……その、大金が入ってるから盗まれたらマズいって入っていって……」
 大声で否定する男を遮るように受付にいた男子が恐る恐る手を挙げながら進言してくれた。先生はそれを聞いて頷くと、尚も凄み続けている男を一瞥して財布の中を開く。そしてそれを男の顔の前に掲げた。
「これは君かな?」
「は、はー? ちげーよ! ちげーけどよ! 知らねーよ俺は!」
 先生はかぶりを振りながら溜め息をついて、僕に開いたままの財布を掲げた。
「水戸の言う通り……これは流石に言い逃れできないな」
 財布の中に付いているパスケースには僕の学生証が入っていた。先生は僕に財布を渡すと、再び向き直って男に詰め寄る。僕はその背中に声を振り絞った。
「あ、あと先生! そいつ相沢さんにイタズラしようともして!」
「ふ、ふざけんな! してねーよ! 殺すぞ!」
 本当に往生際が悪い。確かに素直に認めるなんて思っていなかったけれど。それに実際未遂だし、証拠も無いんじゃ……きっとこの先生は動かないだろう。
「はーい! ちょっとすいませーん!」
 僕が作戦の半分を諦めかけた時に、まるで伺っていたかのようにタイミング良く野次馬の壁から声が届いた。
 僕は声で分かっていたけれど、ざわついた人ごみの中をかき分けて出てきたのは耕平だった。ただ、耕平は何故かさっきの男を連れていて僕と目が合うとウィンクをしてきた。
「すいませんねー。なんかこちらから相沢さんに謝りたい事があるみたいですよ?」
 耕平が薄く笑いながら隣の男に顔を向けると、顔面蒼白と言った表情で俯き加減だった男はいきなりそのまま床に正座して、勢い良く頭を下げた。
「すいませんでした! さっき確かにその子に触りました!」
 男の急な謝罪で一気に空気が変わる。みんなの視線が友紀に集まる中、僕は周りを見回してまた耕平に視線を戻した。耕平は僕に微笑むと、また男に声をかけた
「はいはいそれで?」
「そ、そこの男も僕の友人で……ふたりでその子にイタズラしようと思いついて……すいません! つい出来心で!」
 耕平はそれを聞いて満足そうに頷くと、先生に近寄った。
「先生。このままじゃどんどん騒ぎが大きくなるだけです。こう言っている事ですし、一回彼らを職員室に連れて行って話を聞いた方がいいんじゃないですか?」
 多分、今ならちゃんと話してくれるだろうし。と耕平が付け加えると、先生は頭を掻きながら小さく頷いた。
 一方が罪を認めると、さっきまで凄んでいた男も急に意気消沈してしまい二人並んでおとなしく先生に連れて行かれた。友紀も被害者として呼ばれて、先生の後ろについて行った。
 こうしてようやく騒ぎが収まると、僕と耕平は周りの野次馬と共に他の先生から教室を追い出された。
 二度の騒動のおかげでしばらくメイドお化け屋敷は休止する事になったけれど、二人組の全面降伏と友紀が謝罪してくれればそれで良いと許したおかげで問題は早急に解決し、その後のメイドお化け屋敷は対策として男子も一緒に回るメイド二人体制に変わって、何とかまた再開する事が出来た。
 一応、トラブル自体は解決はしたけれど、あんな事があった後で友紀は大丈夫なんだろうかと僕はしばらく気が気で無かった。しかし、僕の合唱している姿を前の方で耕平と笑いながら見ているのを見つけてその心配は見事に何処かへ飛んで行った。残ったのはただの羞恥心だった。きっと僕は顔を真っ赤にして歌っていた事だろう。体中の熱が顔に集まっているような感覚だった。でも、最後までしっかりと歌えたのは友紀が笑っていたからだった。
「————でもさー。慶太郎にしては考えたよなー」
「あいつダボダボのズボンを腰パンしてたからね。そんなに難しくなかったよ」
「ははは! そうそう! あれダセーよなー!」
 帰り道、文化祭が終わるのを待っていてくれた耕平と共に海沿いを歩く。真横に広がる海はゆっくりと沈んでいく夕日に赤く染められていた。少し生温い風がほんのりと夏を感じさせた。
「それにしても耕平は一体どんな手を使ったの? まさかあんな簡単に罪を認めるなんて」
「それはなぁ……企業秘密だよ!」
「なんだよそれ! ズルいぞ!」
「まぁまぁいいじゃねーか! こうして解決したんだし! なぁモテモテの相沢!」
 耕平と僕は後ろへ振り返る。一歩後ろを歩いていた友紀は肩を落として溜め息をついた。
「モテなくていいよぉ……あー本当に今日は疲れた。もう二度とメイド服なんか着ない」
「まぁそう言うなって! 贅沢な悩みだぜそれ。メイド服も一番似合ってたしさ」
「嬉しくない。全っ然、嬉しくない」
「そうか? なぁ慶太郎もそう思ったよな?」
「え? う、うん。似合ってた……よ?」
 相変わらず僕は耕平みたいに軽々しく言えない。これを言うだけで、心臓はもうお祭り騒ぎだった。
「あー! 相沢顔赤くなってるー!」
「ばっ! なってないなってない!」
「なってるよ! 耳まで真っ赤だぞ!」
「うるさいうるさいうるさーい!」
 友紀は顔を両手で覆って前に走り出した。耕平はその姿を指差して笑っていたけれど、僕は全然笑う気になれなかった。多分、耕平の顔だけが夕日に染められた赤だった。
 海岸線の先、耕平との別れ道が何だか懐かしかった。
 いつも通り、何も変わらない別れの挨拶を交わして耕平は一人、別の道を歩いて行く。
 僕と友紀は見えなくなるまで手を振って、また海岸沿いを歩き出した。
 友紀と並んで歩く道はいつもより少しだけぎこちなかった。沈黙が落ちて来て、潮騒の音に耳を傾けながら、何か話さなきゃと考えるんだけれど、こういう時に限って何も浮かんで来ない。
「慶太郎」
「は、はい!」
 突然呼ばれた名前に上ずった声で返事をしてしまった僕に友紀は吹き出した。
「ははっ! ほんと、何なんだろ! さっきまでと大違い! でも、これでこそ慶太郎だよね。あのね、慶太郎」
 友紀は真剣な面持ちで立ち止まる。僕は振り向きながら二歩進んだ所で止まって体ごと友紀に向き直った。
「今日は、助けてくれてありがとうございました」
 深々と頭を下げる友紀に僕は慌てて両手を振った。
「や、やめろよ友紀! 別にそんなつもりじゃ」
「でも私を助ける為にしてくれたんでしょ?」
 顔を上げた友紀は少し潤んだ瞳で真っ直ぐ僕を見つめた。何かを、待っているようだった。
 何かの、答えを。
「ま、まぁ幼なじみが困ってたら放っておけないしね。うん。当たり前でしょ」
 僕は性懲りも無くまた気付かない振りをした。もしかしたら違うかも、という一抹の不安がどうしても拭いきれなかった。
「そう。そっか。うん……うん! ありがとう! 良い幼なじみを持って私は幸せ者です!」
 友紀は納得したように二度頷くと、朗らかな笑顔を取り戻して再び歩き出した。僕は少し出遅れてしまい、今度は後ろをついて行く形になった。
 友紀のこの感じを見るに、多分、間違ってなかったと、思う。
 変に気を急いて告白していたらきっと断られていた気がする。
 ……のに、何だろうこの心の中のモヤモヤは。
 あぁ、そうか。あの時と同じだ。あの時と同じ気持ちなんだ。
 中学二年の夏、友紀の試合で声援を送らなかった日。この道で友紀が泣いた日。
 僕の心の奥から溢れてきた感情。
 ————後悔。
 僕の人生は、ずっと後悔の連続ばかりだった気がする。
 でも、気付いていた所でどうする事も出来ない。
 いつまでも変わらない、成長しない自分。
 そんな自分はやっぱり「愚か」なんだろうと思う————。

「————はぁ……あの時の慶太郎はかっこ良かったなー! 王子様みたいだったよ!」
「……柄じゃないんだけどね」
 謙遜ではなく本当に柄じゃない。僕は空気系男子であって、決して王子様タイプではない。なのになんであんな事をしてしまったのか。無我夢中って恐い。
 深々と下げていた頭を上げた後も友紀はまだ余韻に浸っているのか、しばしフフッと笑ったりしながら足をブラブラと揺らしていた。
「ねぇ、何で私に告白しようって思ったの?」
 友紀は不意にこちらへ視線を直す。
「何でって……そりゃ。しないと後悔すると思ったから」
「でも中二の頃から好きだったんでしょ?」
「まぁその頃からの後悔があったから……もあるのかな? でも今しなきゃもう出来ないって思ったから。うーん……」
「まぁ良いキッカケだったって訳だ」
「……そう、だね」
「まったく、遅いんだよなー本当に」
「じゃあ中二の時に告白してたらオーケーしてたの?」
「んー、わかんない!」
「ほらみろ!」
 僕が指差すと友紀は手を叩いて笑った。本当に今日はいつにも増して自由過ぎる。
「友紀。こっち来て」
「そっちが来てよー」
「はいはい」
 僕は友紀の隣の席に座って、ズボンのポケットからラッピングされた小さな四角いケースを取り出す。何も言わずにそれを友紀に差し出すと友紀は受け取りつつ、首を傾げた。
「これは?」
「わかるだろ。プレゼントだよ。誕生日おめでとう」
「えー! わー! ありがとう! 開けて良い?」
 僕が頷くと、友紀は「何だろう何だろう」と呟きながらリボンを解いて丁寧に包み紙を剥がすと、むき出しになった箱の蓋をゆっくりと開けた。
「わー! すごい! 可愛い! でも高そー! いいの? 本当にいいの?」
「もちろん。有り金はたいて買いましたから。つけてあげるよ」
 僕は箱に手を伸ばしてそのまま立ち上がり、友紀の首の後ろに手を回した。高校生が付けるにしては高級すぎるネックレスが友紀の胸元に弧を描こうとしている。
 こんな時に格好つけるなんてまるで耕平みたいだったけれど、こんな時じゃなければ格好つけられない。
 心臓は激しく鼓動していた。この距離じゃもう気付かれてもおかしくはない程に脈打っていた。
 でも友紀は何も言わずに、軽く俯いているだけだった。綺麗に分けられた髪の隙間から覗く白い首筋がとても綺麗で、少し艶かしかった。
「はい。オッケー」
「わー……ねぇねぇ似合う?」
 友紀は立ち上がり、胸元に視線を落とした。Yシャツのボタンをいつもより一つ多く開けたので胸元が少し露になった。そこに落ちた小さな星の形に並ぶダイヤモンドが窓から入り込む光を反射して、きらりと輝いた。
「うん。綺麗だ。なんだか眩しいくらい」
「はーい。どこ見てんですかー」
「ち、違うよ! ダイヤが光ったから! それだけだよ!」
「はいはいわかったわかった。で? 似合ってる?」
「うん。似合ってる。とっても」
「ふふふ! ありがとう……ずっと大事にするね」
「そう。そうしてくれると嬉しいね」
「あ、空が白んできたね。それじゃ最後の場所に移動しよっか!」
 友紀はまた僕の手を引いて、教室を飛び出す。力強く僕の腕を引きながら階段を駆け上がる。
 三階も通り過ぎて階段を駆け上がって行く。最後の場所は、僕も分かっていた。
 屋上だ。
 屋上の扉もやっぱり鍵が開いていて、僕と友紀は初めて学校の屋上に降り立った。
「いやー! 良い眺めだねー!」
 走り出した友紀は屋上の柵に体を預けて勢いよく身を乗り出す。その隣に立って見下ろした街並は確かに絶景だった。ちっぽけだと思っていた街並もこうして見ると何だかドラマチックに思えて来る。結局はその時の気持ち次第なのだろう。
 友紀は足で反動をつけて柵から体を離すと、僕の手を握った。
「今、何時?」
 僕は繋いでいない左手の腕時計に視線を落とす。
「今は、ちょうど五時半だね」
「あと三十分かぁ……」
「……うん」
 僕と友紀は少しずつ明るくなっていく空をしばらく黙って見つめていた。

 ————あと三十分で世界は終わる。

 一ヶ月前、突如世界中で発表された国際連合による地球滅亡会見。
 日本時間で朝六時。小惑星が地球に衝突するらしい。それがぶつかれば確実に地球は終わる。そして今の人類にはそれを避ける術がない。人間どころか地球もろとも破壊されてしまうらしいのだから、人智の及ばぬ出来事だと言うのも納得だ。大きな小惑星という言葉の違和感は未だに拭えないけれど。
 ここまで突飛な話になると、どこからどこまでが本当かわからななくなる。全てが嘘なんじゃないかと思えるくらい想像がつかないこの事実は、色んな情報を錯綜させて、それこそ各国でパニックを引き起こした。しかし、何をどうしたって結局全員が死んでしまう事実が変わる事は無いのでそれに気付いた人々は早々に落ち着きを取り戻し、滅亡する日である今日までこうして平穏を取り戻していた。
 恐らく、今は世界中が平穏に包まれている事だろう。
 皮肉な話だ。
 今まで散々勝手に争って命を奪いあっていた誰かも、みんなが死んでしまうと分かった今は誰も殺さずにただ自らの死を待っている。こうした毎日がかけがえの無い日々なのだと気付いて、たった一秒でも大事に生きている。
 でも、僕だってそんな人々となんにも変わらないのだ。
 人間、死ぬ気になれば何でも出来るとか言うけれど、僕はこうして本当に死ぬ事が決まらなければ今も友紀に告白する事が出来ず、ダラダラと無駄に日々を食いつぶしていた事だろう。
 もう時間がないから、と勢いに任せたまま投げやりに僕が告白すると、友紀は笑って承諾してくれた。一言「遅いよ」と笑って。
 僕は友紀が受け入れてくれた嬉しさと、ようやく友紀と付き合えたというのにもうすぐそんな人生も終わってしまうという現実が恐くて、その場で泣いてしまった。
 でも友紀はずっと笑って、胸に顔を埋めて泣きじゃくる僕の頭を撫でてくれていた————。
「ねぇ……慶太郎」
「うん?」
 友紀の握る手に力が込められたのがわかった。僕は一度友紀に振り向いたけれど、友紀がずっと空を眺めていたから、また空に目を投げた。
「私ね。ずっと……ずっと慶太郎の事好きだったよ。多分……出会ってからずっと。ずーっと。好きだったよ」
「……え?」
 また友紀に振り向く。今度は友紀もこちらに顔を向けていた。
「おっそいんだよ全く! ……なんてね。慶太郎。ありがとう。私、嬉しいよ。最後に慶太郎と居られて。ずっと一緒だったからさ。やっぱり最後も慶太郎と居たかったんだ。お母さんもお父さんも大好きだけど。最後はやっぱり慶太郎と居たかった。あ、もちろん昨日は目一杯お別れし合ったよ。一日早いバースデープレゼントももらっちゃったし!」
 友紀は「ほら」と髪を耳の後ろにかけて、耳についているイヤリングを見せてくれた。
「ね! 慶太郎とセンス被ってるの! おっかしいよね!」
 そのイヤリングは短いチェーンから星がぶら下がっている形をしていた。
「うん。似合ってるよ。それ」
「ふふん! ありがと!」
 僕には分かる。きっと友紀の両親も、この太陽のような笑顔に何度も救われてきたのだろう。誰よりも温かくて朗らかで綺麗なこの笑顔に。僕だってそうなんだ。友紀にずっと笑っていて欲しくて……小さい頃は沢山バカな事をして怪我をしていた。そして、その度に友紀は僕の手を引いて家まで一緒に帰ってくれたんだ。太陽みたいに笑いながら「大丈夫だよそれくらい!」って僕を励ましてくれたんだ。
 だから僕は友紀に『星』を送った。
 いつまで僕を照らしてねって意味を込めて。ちょっとクサいけど。
 その胸に輝く小さな星は僕だ。
 そして両耳で輝く星は友紀のお父さんとお母さんだ。
 そして友紀は僕らにとって紛れもなく太陽だった。
 友紀はどんな事があっても側に居てくれた。
 僕も側に居続けた。
 友紀はずっとずっと太陽だ。
 ————少しずつ明るく、色づいていく世界。
 友紀の顔が仄かに色づいていく。笑っているけれどその目には少しだけ涙が浮かんでいた。
「慶太郎……今までありがとね……ずっと、ずっと側に居てくれてありがとね。中二のバドミントンの時、最後に慶太郎の声が聞こえて嬉しかったよ。ずっと聞こえなかったからもしかしたら居なくなっちゃったのかもって思ったけど、最後に名前呼ばれて安心した。それと、ずっと待っててくれて凄い嬉しかった。泣いちゃってごめんね。背中貸してくれてありがとう。私泣きながら、いつの間にか大きくなってた慶太郎の背中に安心してた。すっごくすっごく安心した。慶太郎で良かった。後、あと……」
 友紀の表情から笑顔が消えて、その瞳から止めどなく涙が溢れていた。
 僕は何も言えなかった。
 やっぱり何も成長していない。未だに友紀にお礼を言われると何を言ったら良いか分からないままだ。もうすぐそうやって悩む事も出来なくなるって言うのに。
「受験の時、慶太郎が同じ高校受けるって聞いて凄く嬉しかった! 絶対一緒に合格するんだって思った。あと受験勉強の時間がすごく大切な時間だった。嬉しくて楽しくてホッとする時間だった。あと、あと文化祭のとき助けてくれてありがとう! 嬉しかった! かっこ良かった! 惚れ直した! ホントは慶太郎に飛びつきたかったけど我慢した。不安で不安で泣きそうだったけど我慢した。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。慶太郎が居てくれると安心するんだ。だから泣いちゃうんだ。慶太郎はズルいよ……ホントはあの時、私の方が泣きたかったのに先に泣いちゃうんだもん。あれじゃ泣けないじゃん」
「……だから、今は僕が笑ってるだろ?」
「そう……だけど、でも。遅いよ……もっと早く言ってよ……おっそいんだよバカ慶太郎」
「それならいっそバカ太郎で良くない?」
「いいの! この名前好きなんだから! バカ慶太郎! ばかばかばかばか!」
 友紀は鼻をすすりながら少し笑って、涙を拭いた。
「……あと何分?」
「あと十五分」
「そ……っか」
 友紀はまた空に向き直る。僕も空へと向く。空はもうすっかり朝焼け模様になっていた。
 横目で見た友紀の顔はほんのり赤く照らされていて、いつかの夕日の帰り道を思い出した。
 顔を出した太陽の熱に溶かされてしまいそうだ。
 少しずつ、体が温められていく。
 まったく。ズルいのは友紀の方だ。結局僕は最後の最後まで後悔しっぱなしじゃないか。
 あんな事を言われたら増々僕は「愚か」じゃないか。
 どうしようもない僕のまま死ぬハメになるじゃないか。
 今直ぐに成長するなんて無理だし、今更変わる事なんて出来る訳が無い。
 遠くに見える太陽はもう半分以上顔を出している。
 あと、十分。
 僕は友紀に何が出来るだろう。
 友紀と何の話が出来るだろう。
 最後の最後はやっぱり笑わせたい。
 あの笑顔が見たい。
 僕は友紀と繋いでいる手に少し力を込めた。
「————友紀」
 振り向いた友紀の顔は穏やかに赤く染められていた。
 その顔が、僕には今までで一番綺麗に見えた。
 潤んだ瞳。
 そして薄く赤みがかった唇の口角が少しだけ上がる。
「何? ————慶太郎」
 あと五分。
 僕はゆっくりと口を開いた。