ボイトレが始まれば、昨日のカズの事も頭から一気に離れて行ってしまう。それくらい僕はこの計画に真剣で、また灰坂も僕以上に必死になって取り組んでくれるから、僕もまた更に集中していく。だから合間の昼休憩は逆に神経を休ませなければならない。でないと午後の集中力が持たなくなってしまう。
 そう。だからこうして窓を開け、縁側に並んで腰を下ろし呑気にソーメンを啜っているのも特訓の内なんだ。灰坂は必要以上に気を休めている気がするけど、初めに僕が言った事だし、何よりソーメンを作るって昨日約束したのだから、それは果たさなきゃならない。
 隣で嬉しそうに溜め息をつく灰坂を見て、僕は自分にそう言い聞かせていた。
「夏だねー」
 灰坂は水色のスカートから覗く白い足を外へ伸ばした。そして眼前に広がる山々を眺めてまた、ソーメンを取る。音を立てて啜る。気の抜けた溜め息をつく。
 灰坂はこれを何度も繰り返した。
「灰坂……何だか心地良さそうだね」
 まさかソーメンでここまで喜ばれるとは思わなかった。灰坂は箸を止めずに僕に振り向き「だって夏って感じだし」とまたソーメンを啜る。
「ホタルもったいないよ。せっかくこんな絶好の場所があるんだからもっと使わないと」
「そうかな。もう見慣れちゃったよ」
「なんか悲しい事言うね」
 そうかな。と僕も景色を眺めてソーメンを啜った。こうやって毎日ソーメンを食べていると、飽きなんか通り越して、もはや日課に感じる。夏の昼はソーメン。でも、たまには灰坂のお弁当でも良いかも知れない。
「どんな綺麗な景色でも、ずっと見てると飽きちゃうのかな」
 灰坂は箸を止める事無く、遠方に目を投げたまま呟いた。僕は改めて広がる景色を見渡す。
「うーん、そんなことないんじゃない?」
「そう?」
「うん。だって季節や天気も変われば、時間が過ぎて僕らも変わっていくし、そうすれば感じ方も変わるだろうし。その時々で状況とか思っている事も違うだろうしね。ほら、今日は今日しかないって良く言うじゃん」
「そう? でもホタルはここ見飽きてるんでしょ?」
「飽きるって言うより慣れた、かな。だけどね、おかげでふとした時に季節を感じて少し良い気分になれたりするんだ。夏っていうのも少しずつ変わっていく事に気付ける。色んな夏があるって言うのかな。普段感じないからこそ感じられるって言うか」
「例えばどんな時?」
「今、とか?」
「そう? 本当に?」
「うん。これだけ隣で『夏、夏』って言われればね」
「……そう」
「……うん」
 ズズッとソーメンを啜る音が重なる。蝉は合唱は大音量で真っ青な空に響いている。
 夏はまだまだ続く。僕らは相変わらず外を見ながらソーメンを啜り続けた————。



 実際の所、かなり良いペースで灰坂のボイトレは進んでいた。既にピアノでガイドを弾かなくても一度弾いて聞かせれば歌えるようになっていて、音程もそこまで狂う事も無いし、音符につまずく事もリズムが変に狂う事も無くなって来た。
 それでも僕はこの充分過ぎる成果にも決して満足せず、出来うる限りの先を目指す為に手を緩める事は無い。何だか本格的にピアノレッスンを受けていた時の気持ちを思い出した。
「————よし。いよいよ最終段階だね。ソプラノパートの練習に入るよ」
「う、うん。よろしくお願いします」
「そんな緊張しなくていいよ。そしたら、まずは伴奏を軽く弾きながらソプラノパートのメロディーを同時に弾くから、楽譜見て歌詞と音符を追って聞いてみて」
 灰坂が合唱の楽譜を開くと、僕はピアノに向き直り、久しぶりに合唱曲を弾いた。
 と言っても、コードだけに簡略化したものだ。加えてソプラノのメロディーも弾くのだけれど、こうして弾いてみて、やはり合唱曲はこれだけだと味気ないものだなと気づいた。
 アレンジされた伴奏と各パートのメロディー。どれか一つ欠けてもダメなんだ。だからこそ、その全てが揃った時にみんなの気持ちも揃うと素晴らしい魅力を生み出すんだ。
 一人じゃ決して出せない魅力を————。
「どう? 何となく掴めたかな? とりあえず一回歌ってみようか?」
「うん。とりあえずやってみる」
「よし、じゃあ前奏からいくよ。歌の入りはもうわかるよね?」
 灰坂は楽譜から顔を上げて頷いた。僕は改めて、本番でやる伴奏を弾き始めた。
 軽やかに指が動く。やっぱり忘れないもんだ。楽譜を見ないでも耳が覚えている。どうやら僕は音の記憶力が良いらしい。だからってプロになろうとも思わないけど。
 僕は歌の入りに合わせて灰坂に振り向いた。

 ————灰坂が歌いだす。

 伴奏が一瞬、狂う。思わず鳥肌が立った。
 すぐにリズムを取り戻したけれど、僕は灰坂の歌から耳が離れない。離さないんじゃなくて、離れなかった。
 以前にも増して響きが良くなっている。何て澄んだ声を出すんだろう。
 音程もリズムもまだまだ拙いけど、格段と良くなっているのもある。
 でも何より違うのは伸び伸びと歌えている事だ。
 一生懸命に気持ち良く声を出している感じ。どうやら少しは自信がついたみたいだ。
 この成長はボイトレ冥利に尽きる。僕の時も母さんがこんな気持ちになっていてくれたら嬉しいと思った。
 歌い終わりに僕は立ち上がって灰坂に拍手を送った。灰坂は楽譜から目だけ覗かせて僕を伺っている。僕は灰坂に親指を立てた。
「すごい良くなってるよ! これならきっと作戦は上手くいく!」
「あ、ありがとう。聞いてみても良い?」
 僕は「もちろん」と言ってボイスレコーダーを灰坂に向けて再生した。灰坂は楽譜から目を離す事無く、真剣に聞いていた。
「————よし、ここからは細かく修正していくよ。ギリギリまで磨き上げるからね」
「はい!」
 今の歌を聴いて、どうやら灰坂よりも僕の士気の方が上がってしまったみたいだ。誰かに音楽を教えるのが、こんなに気持ち良い事だとは思わなかった。面倒事を買って出たつもりだったけれど、今では僕の我が儘に灰坂を付き合わせているような感じになっている。
 当の灰坂はそんな事、微塵も思っていないだろうけれど。



「うーん……」
 いつもの夕空に全く響きそうもない低さで、灰坂の悩んだ声は砂利道に落ちていった。今日のボイトレを終えて僕は灰坂を送っているんだけれど、灰坂は何故だかずっと浮かない顔をして唸っていた。
「どうしたの?」
「うーん。うーん」
 さっきからずっとこの調子だ。僕が聞いても唸るだけだった。
「何か悩みがあるなら何でも言ってよ。歌の事で悩んでるの?」
 灰坂は首をブンブンと振る。
「じゃあ一体どうしたんだよ」
 流石に僕も痺れを切らす。すると、灰坂は深い溜め息をついてようやく口を開いた。
「明日の合唱練習……憂鬱だなって」
「……そう言う事か」
「やっぱり今まで通り、なんだよね?」
「そう。申し訳ないけど我慢して。多分ユキも変に話しかけて来る事は無いから期待しちゃダメだよ。もう少しの辛抱だから」
「……了解」
 灰坂は溜息と共にがくんと肩を落とす。申し訳ないけれど、こればっかりは僕にもどうする事もできない。少しの間の辛抱だ、と言っても本人にはかなりの苦痛なんだろう。
 僕にその痛みは分かってあげられない。だからこそ被害を最小限に出来る様に僕も頑張らないといけない。きっとユキも同じ事を考えている筈だ。
 足取りは重く、それでも前に進む灰坂はまるで『今』を象徴しているようだった。

 僕らはいつも通り、いつもの場所で別れた。灰坂の振る手は昨日のカズの様に力が無かった————。