夕食が終わると、お父さんが食器の片づけをしていた映を将棋の相手に誘った。
 小さい頃、映に将棋を教えたのは、だれでもないお父さんだ。集中力や忍耐力を養うのにぴったりだと、お父さんは最初私に教えようとしたけれど、私はてんでだめだった。代わりにお父さんのが目をつけたのが映だった。
 最初は手取り足取りといった様子だったけど、映は筋がいいらしくめきめきと頭角を現した。
 映がお父さんと将棋をしていると、映をとられたみたいでいつも拗ねていたっけ。だから私はいつもお父さんと映の取り合いっこをしていた。

 私はお母さんと並んで食器洗いだ。私がスポンジで洗い、お母さんが濡れた食器を拭いていく。

「今日は楽しかったわぁ。久々に大笑いしちゃった」
「楽しかったね」

 余韻がまだずっと胸の中にあって、ほこほこと温かい。
 するとお母さんがワントーン声のボリュームを下げてぽつりと呟いた。

「時々こうして映くんのこと夕食に呼んであげなさいね。ひとりで夕食なんて寂しいに決まってるもの……」
「うん……」

 一瞬にして心が冷え切る。広い家の中、独りでいることしかできない映のことを思い、自分のことのようにずきんと胸が痛んだ。

 映は今独り暮らしをしている。
 父親は映が小学5年生の時、突然失踪してしまった。私は何度かあったことがあるはずなのに、おじさんの面影をおぼろげにしか覚えていない。
 けれど絵になるようなとても仲のいい3人家族だったことは覚えている。失踪はなんの前触れもないことだったようで、ある日突然壊れてしまったのだ。
 おじさんが出て行ったことをきっかけに、映の母親は精神を病んだ。すごく綺麗でいつも控えめに笑っているような人だったけど、2年と経たずに別人のようにやつれて荒んでしまった。
 そして成長していく映を見ていると出ていった彼のことを思いだすから――そんな残酷な理由で、おばさんは映が中学にあがってすぐ映を置いて家を出て行った。
 映は肉親に2度捨てられたのだ。

「どんな理由にせよ、あんないい子を置き去りにするなんて信じられない」

 お母さんが行き場のない感情を歯の奥で噛み殺すように、苦い声を吐き出す。

 映は家族3人で住んでいた家に、今もまだ独りで暮らしている。いつかふたりが帰ってきた時、迎えられる場所があるように。そうして空っぽの家で、ふたりのことを待ち続けているのだ。

「でも私は映のことを尊敬するよ。あんな過去があってもグレたりしなかった。学校でだって映はみんなの人気者なんだよ」
「そうね。ご両親が今の映くんを見たらきっとびっくりしちゃうわね」
「泣き虫だったのが信じられないよね」

 私より小さくて、いつも物陰に隠れて声を押し殺して泣いていて、この子は私が守ってあげなきゃいけないと幼心にも使命感にかられいた。それなのにいつの間にか私が守ってあげなくてもひとりで立っていられるくらい映は強くなった。

「あんな息子ができたらいいわ、なんて」

 ほんの少し緩んだ空気に気を許したのか、お母さんがそう小さく笑った。〝できたら〟――その言葉を選んだのはきっと、意識下にそういう思いがあったからだと思う。
 〝できたら〟――その言葉を選んだのはきっと、意識下にそういう思いがあったからだと思う。
 娘に幼少期からずっと連れ立ってきた異性の幼なじみがいたら、多分ほとんどの親はそのふたりの間の仲を少なからず一度は勘ぐったり時には期待したりするものなのだろう。
 うちのお母さんだってそうだった。中学生になったあたりから、映くんとはなんにもないの?と恋バナに浮かれる友達みたいなトーンで聞いてきていた。

「……私は結婚なんてしないよ」

 水を止め、けれどお母さんの目を見る勇気はなく、手元に視線を落としたまま呟いた。

 医師の宣告通りであれば27歳で死ぬ私が、結婚なんていう輝かしい幸せを得る権利はない。私は大多数の人が歩むだろう普通のレールから外れてしまった。弾き出されてしまったのだ。一生を誓い合った人の隣でウエディングドレスを着るという、小さな頃からの憧れはとうに捨てていた。
 そもそも映はきっと、私に対して幼なじみ以上の感情はもっていないだろう。

 ……でも。大切で大好きなお父さんとお母さんには、一人娘のウエディングドレス姿を見せてあげたかったな。

 隣でお母さんが言葉を詰まらせた気配があった。
 私はそれを流水の音で無理やりかき消した。