私たちはまず、最初にホームに来た、家とは反対方面の電車に乗り込んだ。
終点駅までは、30分ほど。特急ではなく各駅停車に乗り込んだからか、電車の中はひどく空いている。
車両を包む空気は静まり返り、窓を震わせる電車の走行音しか聞こえない。
シートに並んで座ると、電車の振動で肩が触れそうになる。けれど、その瞬間、映がはっとしたように体を離し距離を作った。私たちに数センチの隙間ができる。
……そんなに近づくのが嫌だろうか。
仄暗い気持ちに引っ張られそうになって、でもそんな自分の弱い心を叱責する。こんなことでめげていてはだめだ。
いつも会話が途切れないのに、なぜかうまく会話の糸口を見つけることができない。
どんな話題だったら自然に話を始められるだろう。
ぐるぐる頭を動かしていると、先に静寂を打ち破ったのは映の方だった。
「……この前は悪かった」
「え?」
「感情的になって、ひよのこと傷つけた」
「映……」
「ずっと後悔してた。ごめん」
映の瞳が、所在なさげに揺れている。
映と思いが重なる感覚に、強張っていた心が解けていくのがわかった。安堵から思わずがくっと肩の力が抜ける。
「よかった……映に嫌われたかと思った……」
「俺が日依を嫌うわけないだろ。ただ大事にしたいって、それだけなんだ」
胸に湧く感情を抱きしめるように、映が儚く微笑する。
私はつんと瞳を刺激する熱い感覚に、下唇を噛みしめた。
映に大切にされるたび、きゅうっと絞めつけられるこの胸の淡い痛みを、映はきっと知らないでしょう?
「じゃあ仲直り?」
「喧嘩はしてないけどな。ん、仲直り」
「えへへ」
思わず頬が緩んで笑みがこぼれた、その時。
「……ぐー」
突然、私たちの間に流れていた穏やかな空気に、場違いな音が割入ってきた。それはなにかの間違いであってほしいけれど、紛れもなく私の空腹の知らせ。
安堵と共に、空腹だったことを思いだしてしまったのだ。そういえばまだお昼ご飯を食べていなかった。昼食の時間前に学校を抜け出してきてしまったから。
やばい……と血の気が引くのを感じながら自己主張の激しいお腹に手を当てると、空気の緩んだ笑い声が聞こえてきた。
「次の駅で降りて、なにか食べようか」
くすりと可笑しそうに笑う映は、もうすっかりいつもの映だった。
偶然にも、次の駅は終点だった。
どちらにしても乗り換えなければならなかったからタイミングもよく、その駅から出て食料を捜しに街へ繰り出した。
その街は、来たことなんてないはずなのにどことなく懐かしさを感じる下町だった。
小さなお店が軒を連ねて建ち並ぶ商店街を、映と並んで歩く。
時間が、いつもの平日よりもゆったり流れているように感じる。
露店から香る香ばしい匂いにつられ、私たちは焼きたてのたい焼きを買うことにした。
優柔不断な私が餡子とカスタードのどちらにするか選べなくて迷っていると、映が両方買って半分こしようと提案してくれた。
焼きたてのたい焼きが入った紙袋を持って、私たちは近くにあった河原に立ち寄った。
河原に沿って植えられたたくさんの木々は、みんな丸裸になっていて寒そうだ。
芝生の上にようやく腰を落ち着けると、紙袋から買ったばかりのたい焼きを取り出し、お腹の中心あたりで割る。茶色いお腹から姿を現したのは、粒餡とカスタードだ。粒餡とカスタードで合体させて原型を取り戻したたい焼きを渡す。
「いただきます」
そう言ってたい焼きにかじりつくと、香ばしい生地とカスタードの柔らかい甘さが、口の中でほどよい調和を奏でた。
「おいしい!」
思わず頬を押さえて声をあげてしまう。
そんな私を見て、映がくすりと苦笑する。
「カスタード、ついてる」
「え?」
そしてこちらに手を伸ばしかけ、ふとその手を下ろした。代わりにぺろりと舌を出し唇の右上を舐め、どこにカスタードが付いているか教えてくれる。見よう見まねで舌を出し、同じ場所を舐めてみれば、カスタードはとれたらしい。
顔を見合せたまま、思わず同時に吹き出してしまう。
なんだか食べることに夢中になりすぎていたみたいで恥ずかしい。
でも、美味しいから仕方ないのだ。映と一緒に食べるだけで、どんなささやかな食べ物だって極上のごちそうに様変わりする。私の世界を豊かに彩るのは、いつだって映の存在なのだ。
「あれは桜の木だな」
たい焼きを食べ終え一息ついた頃、反対側の丸裸の大きな木を見つめ、ふと映がそんなことを言った。
私も実はずっとなんの木だろうと気になっていた。そのくらいその木は大きく存在感があった。まるでこの街を見守っているかのように、どっしりとその地に根を張っている。あの木が春になってピンク色を纏ったら、それはそれは綺麗なのだろう。
「知ってる? 桜の下には死体が埋まってるって話」
「え、なに? それ」
「桜があんなに美しいのにはなにか理由があるに違いないからって」
初めて聞いた話だった。でもたしかに、そう思ってしまう気持ちもわかる。春、まわりの木々が緑を生い茂らせる中、桜だけはまわりには染まらず自分だけのピンクを爛漫と咲き誇らせるのだ。その姿はあまりに高潔で圧倒的だ。
すると映はまるで春風を吹かせるように、穏やかに言葉を紡いだ。
「死んだら人間は土に還るとも言うけど、それなら俺は日依が勇気を溜めるために踏みしめて、未来への一歩を踏み出す、その糧になりたい」
「え?」
映の声が私の心を揺らす。
それは思いがけない言葉だった。
隣を見れば、映が遠い眼差しで桜の木を見つめている。その横顔はあまりに儚く、まるで冬の風の中に溶けてしまいそうだと思った。
けれどなにか口を挟むのは映の真摯な思いを侵すようで憚れて、その思いを受け止めたという証に「うん」と一言だけ頷いて、私も桜の木を見つめた。
言葉にはしなかったけど、私も同じ気持ちだった。
私も君が前に進む糧になりたい。君はきっと、いつだって強くぶれずに前だけを見据えて進んでくれると信じているから。
「来年の春になったら、この桜が咲くのを見に来ようよ」
未来につける足跡は明日に進む勇気に変わる気がして。
まだ眠っている桜の木を見つめながらそう言った時だった。
ふわり、優しい温もりが肩に落ちてきたかと思うと、映が私の首にマフラーを巻いていた。
「だめだろ、防寒しないと。首寒そうだからこれ巻いておいて」
「えっ」
たしかに今日は少しでも身軽にと思いマフラーを持ってこなかったせいで、肌を撫でていく風がずっと寒く、マフラーを家に置いてきたことを後悔していた。映は私が風が吹くたび小さく震えていたことに気づいたのだろう。
だけどそう言う映の首元は、私にマフラーを貸したせいですーすーと寒そうだ。
「でもそしたら映が」
「俺は日依が寒くないなら、それでいいから」
大人びた表情でゆるりと笑う映は、その笑顔に似合わず頑固なのを知っている。自分のことに関してはこだわりがないくせに、私のこととなると梃子でも譲らない。
今はそんな過保護な優しさに甘えることにした。
「ありがと、映」
そっとマフラーに口元を埋めれば、香水のものとは違う映自身が纏う甘い香りが鼻孔をくすぐる。
今はまだ手がかじかむほど寒いけれど、春はもうすぐそこまで近づいているのかもしれない。
腹ごしらえをし終えた私たちは、逃避行を再開するため再び電車に乗り込んだ。
乗り込んだ車両は降車する人が多く、ふたりで並んでシートの端っこに座ることができた。お昼時だからか、さっきよりも電車の中が混んでいる。
長い車窓から見える久々の晴れ間をぼんやり見つめる。電車の速度ががくんと落ちて、目に映る景色がスローモーションのように見える。
電車の走行音やがやがやとした喧噪が立ち消え、まわりの世界から切り取られてこの世にふたりきりになったような感覚だ。
映と同じ景色を見つめている。そう思ったら、急に今この時が愛おしくなった。
「ずっとこうしていたいな」
思わず、ぽつりと心の声がこぼれた。
逃避行ゲームを企てた一番の目的は、映との仲直りだ。けれど、現実から逃避行したいという私の願いも大きく影響していた。いつまで映の隣にいられるのか、そんなことばかり考えて不安になってしまう現実から逃げたかった。
「時を止める力があればいいのに」
呟き、けれどすぐにやってしまったと後悔する。映の前では曇りない私でいたいのに。
苦笑を滲ませ、しんみりとした空気を振り払う。
「ごめん。なんかちょっと感傷的になっちゃった。年かな! 映はどんな力がほしい?」
慌てて舵をきるため、映にそう尋ねると、映は私の顔を覗き込むようにして大人びた表情を浮かべて笑んだ。
「俺はどんな時も日依を笑顔にできる力がほしい」
「……っ」
間近で映の隙のない笑顔を浴びてしまった上に、不意打ちであまりに甘い言葉を奏でられ、私は降参の白旗を上げることしかできない。
こういうことを無自覚で言うから反則だ。いつだって私の心をきゅんきゅん高鳴らせる天才なのだ。
そして私が隠したはずの寂しさを見逃さず掬い上げてくれるさりげない優しさを、私は知っている。
君はどこまでかっこよく完璧であろうとするのだろう。こんなのもう私の手には負えない。
「……映、ずるい」
文句を言うように唇を尖らせると、映はふはと空気を震わせて笑った。