「希山さん、いる?」

 今日はなんとも名前を呼ばれる日だ。
 放課後、スクールバックに教科書を詰め込みながら帰る準備をしていると、教室の前方のドアの方から私の名前を呼ぶ声があった。
 放課後になり、教室にはもうほとんど生徒が残っていない。夏葉もすでにカレー研究部に行ってしまっている。だからか雑音に紛れることなくその声は耳に届いた。
 顔を上げると、そこにいたのはうっすら見覚えのある男子だった。映のクラスメイトだった気がする。名前はたしか……神宮寺(じんぐうじ)くん。爽やかなルックスで女子から人気があり、クラスの女子が話題にしていたから知っている。
 けれど話したことも接点があったわけでもない。廊下ですれ違う程度だ。
 そんな神宮寺くんがなんで私に……?と思いながら、私は手を挙げて躊躇いがちに存在を主張する。

「はい。います、けど……」

 私を見るなり神宮寺くんは笑みをたたえる。

「ちょっと話があるんだけどいいかな」
「は、はい」

 きっと話はすぐに済むものだろうと考え、私はそのまま帰るためにスクールバックを肩にかけると、神宮寺くんの元に駆け寄った。



 神宮寺くんが私を引き連れやってきたのは、校舎裏だった。
 校舎裏に呼び出され男女ふたりきりなんてまるで少女漫画で見る告白みたいなシチュエーションだな、ああいうの憧れなんだよなぁと、そんなことを頭の隅で考えていると、足を止めた神宮寺くんがこちらを振り返り、開口一番。

「オレさ、希山さんのこと好きなんだけど」

 突然の告白を口にした。
 まさか少女漫画の憧れシチュエーションの当事者になるなんて思ってもみず、一瞬反応するのに時間がかかってしまった。

「……え?」

 予想もしない展開だった。信じられない。今、自分の身に起こっているはずの目の前の光景が、まったく現実味を帯びない。
 けれど神宮寺くんの耳は赤くなっていて、それがリアルであることを実感させる。

「えっと……」

 戸惑う私に、神宮寺くんはほんのり赤い頬をかく。

「突然でびっくりするよな。でも廊下とかですれ違うたび、希山さんのこと可愛いなって思ってた」

 そうして神宮寺くんは、強い光を秘めた眼差しで私の瞳をまっすぐに見据えた。

「だからオレと付き合ってくれないかな」
「……あ……」

 男子から告白されたことなんて、これまでの人生の中で一度たりともなかった。少女漫画でそういうシーンを読んではきゅんきゅんと胸をときめかせていた。女友達が聞かせる恋バナにきゃーきゃーはしゃいでいた。
 けれどいざ自分が告白されて、こんなにも複雑な感情を抱くなんて思わなかった。
 だって私の胸を占めるのは――映のことだけ。

 少女漫画を読んできゅんきゅんしていたのは映を重ねていたからではなかったっけ。いつか映に告白されたら、そんな夢をみるようになったのはいつからだっけ。
 ずっと恋に憧れてはいたけれど、私は映との恋だけがほしかったのだ。

「えっと、その……ごめんなさい」

 私は静かに頭を下げた。
 こんな自分に思いを寄せてもらったことは、この身に余るほどの幸せだ。けれど違う人を想いながら、その想いに答えることはできない。

 耳が痛いほどの静寂が、あたりを支配する。さっきまでグラウンドの方から野球部の声が聞こえていたはずなのに、なぜか今は聞こえない。
 数秒、いや数十秒にも思えるほどの沈黙ののち、神宮寺くんの固い声が降ってきた。

「……それは、弓月がいるから?」
「え?」

 思いがけず耳を打ったその人の名に顔を上げれば、さっきまでとは打って変わりひどく険しい表情を浮かべた神宮寺くんがそこに立っていた。まるで別人のようだ。
 瞬間的に、怖いと足が竦んだ。

「弓月と付き合ってんの?」

 恐怖にもつれる舌で、私は必死に弁解する。

「つ、付き合ってないよ。ただの幼なじみだから……」

 そんな私を神宮寺くんは嘲笑う。
 多分告白を断られるような経験などなかったのだろう。それが私のせいで彼の自尊心が傷つき、怒りのスイッチが入ったことは明らかだった。彼の声や態度に、刺々しい攻撃の色が滲む。

「いやいや、この前手繋いでたとこ見たし」
「それは……」
「普通の幼なじみは手繋いだりしねぇから。気持ち悪い」

 吐き捨てるように言う神宮寺くん。
 恐怖と共に、神宮寺くんの言葉は見えない刃となって心にずしんと深く突き刺さった。

「違う、映は私に優しくしてくれてるだけなの」
「なにそれ。あいつ、告白されても希山さんがいるからって断ってるらしいよ。もしかして希山さんが弓月のこと縛りつけてるんじゃないの」
「え……」
「依存って言うんだよ、そーいうの」

 ――依存。思いがけない言葉は、私の後頭部を思い切り殴ってきた。
 喉を絞めつけられ、なにも言えなくなる。そんな私に神宮寺くんは畳みかけるように唇を吊り上げ意地悪な笑みを浮かべる。

「それを優しいからとか言っちゃうあたり、希山さんってもしかして脳内お花畑?」

 すると、その時だった。

「脳内お花畑って、まさか俺の幼なじみのことじゃないよな」

 神宮寺くんの背後から聞こえてきたその声には聞き覚えがあった。

「映……?」

 神宮寺くんの肩越しに、やはり映がいた。