もう、何度この夢を見ただろう。

『エントリーナンバー二十一番、天野衣音(あまのいと)さん』

 何人もの観客に見つめられながら、中学二年生のわたしが、目の前のグランドピアノだけを目指して歩いていく。
 舞台の真ん中から客席に向かって一礼すると、突き刺さってくる視線と照明の熱さとで、身体中に緊張が満ちる。
 お母さん。わたし、頑張るから、ちゃんと見ていてね。
 ピアノ椅子へと座り、鍵盤へと手を横たえると、思考よりも先に身体が動いた。
 何千回と重ねてきた練習が、理想通りの演奏を紡ぎだす。
 モーツァルトの、きらきら星変奏曲。
 最初は誰もが知っているシンプルなメロディーから始まって、徐々に音数が多くなっていき、おもちゃ箱のようにいろんな顔を見せるこの曲がわたしは大好きだった。
 夢の中のわたしが自由自在にピアノを操る。
 虹色の音のカーテンで会場中を魅了すればするほど、海の底に溺れていくような息苦しさを覚える。
 これは、過去の栄光だから。
 もう二度とこの光景には戻れないと、心が悲鳴をあげている。
 現実のわたしは、翼をもがれて空へ飛べなくなった天使のように見苦しい。



 瞳の淵を伝う涙の冷たさで、夢から目覚めた。
 手探りでスマートフォンの画面を表示すると、まだ深夜一時だ。
 もう一度、寝ようとして目を閉じてみたけど、なんだか目が冴えてしまった。
 眠れない夜は怖い。不安がむくむくと膨らんで、押しつぶされそうになる。
 このまま目をつむっていても、すぐには寝つけなさそうだ。
 寝るのは諦めて、横たえていた身体を起こした。もぞもぞと布団から這い出る。
 外の空気を吸いたくなって、雨戸をあけようとしたとき、左手の指の骨がつきんと痛んでまた現実を突きつけられた。

『後遺症は、一生、続くかもしれません』

 中学二年生の夏に、突然、交通事故に遭ってから約三年。
 こちらにはなんの非もない。
 お母さんと一緒に楽器屋へ向かう途中に起きた、あまりにも理不尽な事故だった。
 なんとか一命は取りとめた。たまに強く打ちつけた左手や首が痛むけど、今では日常生活への支障もほとんどないぐらい回復している。
 半身不随、下手したら命を失っていてもおかしくないような事故だったから、多少の後遺症ですんだのは奇跡だとお医者さんは言っていた。
 でも……、わたしは、命があって良かったと素直に喜べなかった。
 それどころか、いっそ命を落としていた方が楽だったかもしれないと、今でも考えてしまうんだ。
 なんとかベランダに出ると、夏の夜の生温い空気が肺に滑りこんできた。
 眠りについた静かな夜の街に、ものさびしさと親近感を抱く。
 時間が経てば、物理的には朝がくる。
 でも、このままわたしの夜は、永遠に明けないのかもしれない。
 今のわたしは、死ねないからというだけの至極消極的な理由で生きている。法に触れずに安楽死できるのなら、迷わず選ぶかもしれない。
 やりたいことも、生き甲斐も、なんにもない。高校の同級生も、お母さんも、暗い顔をしてばかりいるわたしを鬱陶しいと思っているだろう。

「……このまま、消えちゃえたらいいのにな」
「だめっ! だめだめだめ! ストーーップ!! 早まっちゃダメだああぁーーーー!」

 その声は。
 闇を切り裂くような明るさで、響き渡った。

「え……」
「消えちゃいたいなんて、そんな悲しいことを言わないでよ! 生きてさえいたら、なんだってできるよ! 今楽しいことがないのなら、探せばいいんだ!」
「い、いきなり、なんなの? あなたは誰? っていうか……」

 唇が震えて二の句が継げずに、細い息だけが漏れた。
 これは夢? もしかしてわたし、まだ夢から醒めていなかった?
 慌てた様子でいきなり目の前に現れた彼は、一見すると爽やかな好青年。
 明るいグレーのティーシャツに、夏らしいグリーンのパンツ。黒のサンダルからのぞく足は、ほっそりとしていて白くて――半透明に透けている。
 透けて、いる……?
 よく見ると、足だけじゃなくて、服も。
 そもそもここはベランダで、マンションの五階で、わたしの目の前に立っている彼には足場なんてなくて。ダメだ、考えれば考えるほど目まいがしてくる。

「あーっ! 怖がらせちゃってごめんね! そうだよねっ、いきなり半透明の人間が現れたらビックリして危うく失神しかねないよね⁉ あっ、ほんとに気絶しちゃダメだよ!」
「そ、そりゃビックリしますよ……! しないわけがないでしょ!」
「ご、ごめんって! でも、必死だったんだよ! もしきみが早まって飛び降りちゃったりしたらどうしようって! だから、後先考えずに飛びだしちゃったっていうかっ」
「それは……」

 実際に飛び降り自殺を考えていたわけじゃないけど、彼が勘違いしたのも無理はないかもしれない。悲壮感を漂わせまくりながらベランダの下を見つめていたのはたしかだし、『消えちゃいたい』等と物騒な独り言も放ってしまった。

「どうしてきみは、消えちゃいたいなんて思ったの……?」
「……価値が、ないから」
「えっ?」

 吹き飛びそうになった暗い気持ちが、再び蘇る。
 今まで誰にも吐き出せなかった気持ちが、つるりと口からこぼれ出た。

「ピアノを弾けないわたしには、なんの価値もない。生きていても無駄なの」
「……ピアノは、きみにとってそんなに大事なものだったの?」

 返ってきたのは、意外な反応だった。
 てっきり、もっともらしく『命を軽んじるようなことを言っちゃダメだよ』って否定されるかと思ったのに。

「そうだよ。わたしの全てだったといっても過言じゃない。小さいときから、当たり前のように毎日練習していたの。でも、ね……三年前に、弾けなくなっちゃったんだ。交通事故に、遭って」
「……そっか。それは、とても辛い思いをしたね」

 得体のしれない存在相手に、なにを語っているんだろう。
 戸惑いながらも、吐き出した分だけ、胸の重石が軽くなった気がした。
 言えなかっただけで、ほんとはずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
 でも……、そろそろ保留にしている大問題を尋ねておかないと。

「あなたは誰? どうしてわたしの前に現れたの?」

 きれいな顔をした、すこし童顔気味の男の子。透けてさえいなければモテそうだ。
 わたしの記憶違いでなければ、見覚えはない。
 じっと見つめていたら、彼はうろたえたように目をさまよわせたあと、緊張した面持ちで告げた。

「僕は、通りすがりの幽霊です。きみの願いを叶えにきました」
「…………」
「えっ? なんかは反応してよ! なに言ってんだこいつって顔しないで~~~」
「じゃあ、反応に困るようなこと言わないでよ」

 大体、つっこみどころしかない。
 なんで通りすがりの幽霊が、わたしの願いを叶えてくれるのよ。どういう理屈? 一ミリも意味わかんないんですけど。
 白けた視線に気がついたのか、彼は慌てたように弁解しはじめた。

「ええとぉ……最初は、今にも早まりそうなきみを止めたかっただけなんだ。でも、きみの話を聞いていたら、応援したくなったっていうか」
「それだけの理由で? ほんとに願いを叶えてくれるの?」
「……う、うん」
「じゃあ、もう一度、思い通りにピアノを弾けるようになりたい」
「あー……。えっとね、願いを叶えると言っても、条件があるんだ」
「条件?」
「うん」
「どんな?」

 願いを叶えるだなんてバカバカしいと、一蹴してしまえば良いのに。
 なんでこんな真剣に話を聞こうとしているんだろう。矛盾してる。
 幽霊くんは、まじめな顔で言った。

「もう一度、ピアノを弾くことに向き合って」

 …………は?

「毎日ワンフレーズだけでも良いんだ。お願いだから、もう一度、ピアノを弾いてみて」
「…………」
「五秒でも、十秒間でも良い。なんなら最初のうちは、ピアノ椅子に座るだけでもいいと思う! やってみようよ」

 彼が喋れば喋るほど、わたしの心には、今が夏だということを忘れそうなほどの冷たい風が吹きすさんだ。
 一瞬でも信じようとしたわたしがバカだったということか。
 だってさ、ピアノを弾けるようになるための条件が、ピアノを弾くことって。
 馬鹿げているにもほどがある。
 それができていたら、こんなに悩んでいない。

「……それが無理だから、叶えてほしいんでしょ! 願いを叶えるとか言って、とんた詐欺じゃない。もう、どっかいってよ!」

 イライラしてしまって、ハッキリと拒絶した。
 それなのに……。

「嫌だ。僕、諦めが悪いんだよね」

 思わぬ方向に、話が進んでいって。

「ちょっと待ってよ! やるなんて一言も言ってないでしょ!」
「大丈夫。きみなら絶対にできるよ」
「わけわかんない。ほんとになんなの……?」
「すぐには信じられなくても良い。でもね、僕は、きみの名前だって当てられるんだよ」
「まだウソをつくつもり? どうせ当てられないんでしょ」
「天野さんでしょ? 天野衣音さん」

 どくんと、心の真ん中から大きな音がした。
 なんでよ。どうしてこの流れで、正解しちゃうわけ……?
 事故に遭った日から止まり続けていた秒針が、動き出した瞬間だった。



 朝が苦手だ。
 学校に行きたくないというネガティヴな気持ちが、身体を鉛のように重たくする。
 でも、お母さんにこれ以上心配をかけるわけにはいかない。その一心で、なんとか布団の外に出る。
 洗面所で顔を洗い、冷凍庫から取りだした冷凍食パンをトースターで解凍しながらドリップ珈琲用に水を沸かすのが、朝のルーティンだ。
 昔は、朝食を食べ終わったあとに防音部屋でピアノを練習していたんだけど、あの部屋には三年間近づいていない。ピアノ、すっかり埃かぶっているだろうな。
 高校に入学してから、平日の朝はいつも一人。
 お母さんはわたしが起きる前に出勤している。お父さんは、そもそもいない。物心ついたときには離婚していた。
 お父さんのことは、正直どうでもいい。わたしにとっては知らないひとも同然で、いないのが当たり前だから。
 でも……、お母さんは、わたしがピアノを弾けなくなってから変わってしまった。
 昔は、一緒に、朝食をとっていたのに。
 今は仕事が忙しいからって、わたしが起きる時間にはもう家を出ている。
 きっと、わたしと顔を合わせたくないからだ。
 バターを塗った食パンを憂うつな気持ちで頬張っていたら、この静かなリビングダイニングに似つかわしくない呑気な声が響いてきた。

「ふーん。衣音さんは、食パンにバター派なんだねぇ」
「……衣音さん?」
「あっ、いきなり馴れ馴れしかったー? でもさー、苗字呼びより、親近感わくかなぁとおもったんだよね。ほら、ただでさえ生者と死者っていう違いがあるわけだし」

 ……彼なりにジョークのつもりなんだろうけど、反応に困る。

「でもさー、ちゃん付けだとなんかちゃらい感じがするじゃん? だから名前でさん呼びに落ちつきました! どうかな?」
「どうって言われても……」

 ここまでつっこむ隙すらなかったよ?
 今の話だけじゃなくて、ここに至るまでの流れ全てにおいて!
 昨夜、うさんくさい理由で押しかけてきてから、今朝も我が物顔でうちに居座っているところまで全部がおかしい。結局、わたしの名前を知っていた理由も教えてくれないし。

「衣音さんって呼んで良い?」
「……好きに呼べば」
「いいんだね? やったぁ!」

 徹底的に拒否して追い出すべきだと、頭ではわかってる。
 わかっているのに、拒絶しきれない。
 またピアノを弾けるようになるなんてムシの良い話、信じたわけじゃない。
 でも、心のどこかに、ほんの少しだけ期待する気持ちが芽生えていた。
 この色褪せた灰色の世界を、その非常識さで、ぶち壊してくれるんじゃないかって。

「今日は暑そうだねぇ。僕、生前は暑いのが苦手だったんだけどさ、いざ感じとれなくなるとほんのちょっとくらいはさびしく思うもんなんだね」

 わたしがこめかみから汗を流して登校する傍ら、幽霊くんは涼しげな顔でついてくる。暑さを感じないなんて、うらやましいとしか思わないけどな。死者の考えることはよくわからない。

「……どこまでついてくる気なの? わたし、これから学校なんだけど」
「知ってるよ? だから、ついていくんじゃん」
「なんで?」
「え? 昨日言ったじゃん、衣音さんの願いを叶えるんだって。そのためには、きみの今の生活のことも知っておかないと」

 願いを叶える云々にはもうつっこまないとして、突然、透けた人間が学校に現れたりなんかしたら大騒ぎになるんじゃ……。

「あっ。心配しなくても、僕の姿はきみにしか見えていないから大丈夫だよ」
「なんで?」
「なんでも」

 肝心なことは、はぐらかされる。

「今のところはいいけど、ひとの目がある場所では、あんまり僕に話しかけないほうがいいよ」

 まぁ、深く考える必要もないか。
 どうせ、成仏できない間の単なる暇つぶしなんだろうし。
 無理に追いはらわなくても、価値のないわたしに愛想を尽かして、勝手にどこかへいってくれるだろう。



「ねーねー。昨日の『マジ恋』最新話みたぁ?」
「あぁ、ポプピの切り抜きだけ見たよ! 星夜とサラちゃん良い感じだったよねぇ。胸キュンしたわぁ~~」
「二人、このままリアルでも付き合っちゃったりしてねー」
「でもぉ、あーいう恋愛リアリティショーって、どこまでガチなんだろう」
「まー、実際は台本とかあって、ほとんどやらせなんじゃん?」
「えーー冷めてるーーー」

 教室に入ると、四方八方から、シャットダウンしてしまいたくなるような会話が聞こえてくる。

「なあ。お前、昨日配信された新ステージやった?」
「やったけど、歯たたなかったわ。久々に腕のなるむずいステージって感じ、燃える」
「わかるー。なあ、今日の夜さ、協力プレイしねえ?」

 誰もかれもが大なり小なり輪を作って、どうでもいいような会話に興じている。
 この高校に入学して一年と約三か月。
 大抵のクラスメイトは、気の合う仲間を見つけて、教室という狭い水槽の中でもそれなりに楽しく泳いでいる。
 学校は嫌いだ。わたし以外の他人、全員楽しそうだから。
 誰にも挨拶せずに自分の席について、チャイムが鳴るまで机に寝そべっているのはわたしくらいだ。

「天野さん、また机につっぷしてるよ」
「ほっときなってば。クラス替えしてから三か月間、ずっとあの調子じゃん。……あーいう子って、見ててイライラするよね」
「マジで暗いし陰気だよねぇ~。うちらのこと見下してるような、冷めたテンションだし」
「友達できるわけないよね。自業自得だっつーの」

 雑音の中に、わたしを非難するような声が聞こえてくるのも、日常茶飯事。
 だけど、彼女たちに言いかえす気はない。
 だって、その通りだから。
 クラスメイトを拒絶して、楽しそうに生きている他人を妬み、なんの行動も起こさずつまらなそうな顔ばかりしているわたしは控えめに言って批判されて当然のゴミ屑だ。
 でもさ……、真面目に頑張っていたら必ず報われるほど、世界は綺麗じゃないんだよ。
 努力をしたところで、また、全てが水の泡になるかもしれない。
 こんな理不尽な世界で、もう、頑張りたくないんだよ。
 やっと始まった授業も、体裁として聞いているだけで、右から左へ流れていく。
 勉強は、未来に明るい希望を持てるひとのためのものだ。
 良い大学に入って、立派な会社に勤めて、ちゃんとした大人として生きていく。そのための通過儀礼だと思えば、お経を唱えているようにしか聞こえない授業にも少しくらいは興味を持てるのかな。
 わたしには関係ないって、思っちゃうんだよね。
 明るい未来の中に笑っている自分なんて、すこしも思い描けないんだから。



 授業が終わると、クラスの中で一番最初に教室から出て、学校を離れる。
 部活動が始まって、わちゃわちゃと賑わいだす放課後も大嫌いだ。
 部活熱心な生徒を見ていると、昔の自分を見ているようで、心をかきみだされそうになるから。
 
「衣音さんは、高校で毎日あんな感じなの?」

 学校にいる間、空気を読んでいたのかずっと大人しかった幽霊くんが、うちについて一人になったとたんに話しかけてきた。

「そうだけど……。悪い?」
「ううん。ただ、もったいないなぁと思ったんだ」

 そんなの、いわれなくてもわかってるよ。
 今のわたしがみっともなくて、格好悪いことなんて、誰よりも一番わかってる。
 わたしは、わたしのことが大嫌いだ。醜い、真っ黒な気持ちがあふれ出す。

「……やっぱり、消えちゃいたい。ねえ。願いを叶えるなんていうなら、わたしのことをこの世界から消してよ!」
「衣音さん。この部屋、ちょっと入るね」

 ギョッとした。
 幽霊くんが、ひとの話も聞かずに、禁断の防音部屋へ入ろうとするから。

「ちょっと! ひとの家を好き勝手にうろつかないでよ!」

 その部屋にだけは、入りたくないのに……!

「あった、ピアノ!!」

 追いかけて仕方なく入ったら、幽霊くんは部屋を見回して、小さな子供のようにはしゃいでいた。
 呆れた……。
 ひとの話を聞いていなさすぎる。これじゃ、暗い気持ちに浸る暇もない。
 楽譜がぎっしりつまっている本棚。
 数年前までは、毎日弾いていた懐かしのアップライトピアノ。
 この部屋に入るのは、何年ぶりだろう。
 ずっと、目に触れるのを避けていた。怖くて、入ることもできなかった。
 楽しくピアノを弾いていた記憶を思い起こす全てから、逃げていたんだ。
 なんだか、左手の指の骨が痛む気がする。足が小刻みに震えてきた。

「ねえ、衣音さん。このピアノ、ぜんぜん埃かぶっていないよ?」
「えっ」

 ウソだ。
 だって、うちでこのピアノを弾く可能性があるのは、わたしだけなのに。

「衣音さんのお母さんが、定期的に手入れしていたんじゃないかな?」
「……そんな、はずは」

 信じられなかったけど、近づいてみたら、彼の言っていることが事実だとわかった。
 目の前のピアノは、三年前と同じ光沢を放っている。
 てっきり、埃被って見る影もなくなっていると思っていたのに。
 張り詰めていた心がゆるんで、瞳からぽろりと涙がこぼれ出た。
 お母さん、この三年間どんな気持ちで、このピアノを手入れしてくれていたんだろう。

「立派なピアノだなぁ。こんなピアノが弾ける部屋に住んでるなんて、うらやましい」
「もしかして、ピアノをやっていたの?」
「あー、えっと……実は、そうなんだ。やっていたって言うのもおこがましいようなレベルだったし、まともに楽譜も読めないありさまだったけど、楽しかったよ」
「えっ? 楽譜を読めないで、どうピアノを弾いていたの?」
「衣音さん。スマフォは持っている?」
「えっ? うん」
「PopPikってアプリを知らない?」
「……名前ぐらいは知ってるけど。ダウンロードはしてない」

 今流行っているらしい、十五秒程度のショート動画を共有して楽しむSNSのことだろう。クラスの子たちも、よくポプピの話題をしている。ダンスが得意な子たちが、中庭や渡り廊下で携帯を前にして踊っているのも、ポプピの踊ってみた投稿動画用らしい。
 十五秒の動画なんて、短すぎて、ひとに感動を伝えられるとは思えない。
 そう決めつけて、ダウンロードもせずにくだらないと切り捨てたけど。

「じゃさ、今日はピアノを弾かなくても良いよ。代わりに、ポプピをダウンロードしてみてよ」
「ええっ? なんで、そうなるの」
「衣音さん。僕がどうやって楽譜を読めずにピアノを弾いていたのか、気にならないの~?」
「……そう言われると、たしかに気になるけど」
「でしょ? 無料だし、容量の無駄だと思ったら消せば良いだけなんだから、ここは騙されたと思ってぜひ!」

 そこまで言われたら、断る理由はない。

「おっ、アカウント登録できたみたいだね。そしたら、ピアノ、簡単に弾ける、とかで検索してみて」

 言われたままに検索ワードに打ちこんで、一番最初に表示された動画をクリックする。最近流行っているボーカロイド曲のサビ部分をピアノで弾いてみようという主旨の動画らしい。
 画面に、ピアノの鍵盤と数字、曲名が現れる。
 曲が流れてきて、鍵盤に対応する数字が表れたとき、ハッとした。

「……なるほど。音を、音符じゃなくて数字で表現してるのか」
「そーゆーこと。この方法だと、リズムは表現できないからそこは耳コピになるし、あくまでも初心者が片手でワンフレーズ弾く用なんだろうけどね。僕は楽譜を読めなかったけど、こういう動画を見ながら、見よう見まねでピアノを弾くのが好きだったんだ」

 次々と、動画をクリックしてしまう。
 だって、目から鱗だったんだ。
 ピアノは、両手で弾くことができなければ意味がない楽器だと思っていたのに。
 この動画の投稿主は、片手で楽しく演奏する方法を、楽譜が読めないひとにも伝えている。コメント欄にあふれている『この曲も動画を作って!』というリクエストの数々に、あたたかい気持ちになった。
 気がつけば動画に釘付けで、三十分近くは経っていた。
 十五秒でひとの心を動かせるわけがないって、目も向けずに馬鹿にしてた自分が恥ずかしい。
 このアプリには、短い時間だからこそ動画を見るひとを楽しまようとする創意工夫であふれている。それに、型にはまらない自由さにもワクワクした。

「……片手だけでも、良いんだ」

 ぽつりとこぼれた呟きを、幽霊くんが拾わないわけがなかった。

「そうだ! そうだよ、衣音さん! 片手だけで良いんだよ。早速やってみてよ」
「でも……三年ぶりだけど、ちゃんとできるかな」
「弾けなくても良いんだよ。ここには、ピアノド素人の僕しかいないんだし」

 その言葉に、恐怖よりも、一歩前へ進みたいという気持ちに天秤が傾いた。
 恐る恐る、ピアノ椅子に腰かける。
 目の前のピアノは、座って間近でみても丁寧に手入れされているとわかって、胸がぎゅっと締めつけられる。
 どうしよう。こんなにドキドキするのは久しぶりだ。
 ものすごく緊張する。自分にがっかりしそうで怖い。手から、嫌な汗まで出てきた。
 こんな風に心が激しく動くのは、いつぶりのことだろう。

「一音だけで良いから、鳴らしてみて。頑張れ、衣音さん」

 三年ぶりに、鍵盤へ手を横たえた。左手は痛むので、右手だけ。
 最初に弾きたい音は、ド。
 わたしが一番好きだった曲。モーツァルトのきらきら星変奏曲の、最初の音だ。
 目をつむりながら、鍵盤にゆっくりと指を沈みこませる。
 澄んだきれいな音が、防音部屋に響き渡った。
 あぁ。この感覚、すごく懐かしいな。
 そのままドの音をもう一回。続けて、ソの音を二回と、ラの音を二回。
 楽譜を見なくても、身体が覚えている。
 とても拙くて、初めて弾いたひとのようなたどたどしさだったけど。自分の下手さに絶望することなく、音を出せていることの方に夢中になった。
 なんとか片手でワンフレーズを弾き終えると、幽霊くんは、きらきらと瞳を輝かせていた。

「すごい! すごいよ、衣音さん! 一音で良いって言ったのに、ワンフレーズも弾けてるじゃん! 弾けないなんて、ウソじゃん!」

 拍手の仕草をして、全力で褒めてくれる幽霊くんに、目から熱い涙がこぼれてくる。

「……このピアノね、ちゃんと調律されてたんだ」

 お母さん、なにも言っていなかったのに。

「もう、一生弾かれなさそうな楽器に、わざわざお金なんてかける? ……わたし、全然知らなかった」
「お母さんは、あえて、知らせなかったんじゃないかな。ヘンに衣音さんの負担にならないように」
「……そう、なのかな」
「まあ、正直な話をすると、衣音さんのお母さんの気持ちは僕にはわかんない」
「急に冷静にならないでよ」
「というか、ひとの気持ちなんてわからなくて、当たり前なんだ。いくら想像しても、わかるはずがない。だから、会話をするんだよ」
「そうかもしれないけど……お母さんに気持ちを聞くなんて、怖いよ」

 わたしが事故に遭ってから、この家には、極端に会話が減った。
 ピアノが好きなわたしが自由に弾けるように、一生懸命働いて、こんな理想の環境まで整えてくれたお母さん。
 わたしがピアノコンクールで優勝すると泣いて喜んでくれたお母さんに、今のわたしのことをどう思っているのかなんて、聞けそうにない。

「じゃあ、それも条件にしよう」
「……え?」
「願いを叶える条件。衣音さんが、ちゃんとお母さんと向き合うこと。大丈夫。衣音さんなら、それも達成できるよ」

 力強く宣言する幽霊くんから、なぜだか、目が離せなかった。
 今この部屋で小さな奇跡が起きたみたいに、彼の言うことなら本当に叶うんじゃないかって思ったんだ。



 人間、最初の一歩目を踏みだすのが、一番大変なものらしい。
 思いきって片手でピアノを弾いたあの日から、防音部屋にやってくるのが怖くなくなった。部屋に近づくだけで呼吸までしづらいような気がしていたのが、ウソだったかのように。
 あの奇跡の日から、一週間。
 高校から帰ると、片手でピアノを弾くのが日課になった。
 まだ、幽霊くん以外のひとに演奏を聴かせる自信はないから、お母さんには内緒にしているんだけど。
 相変わらず、たどたどしくて隙間だらけの演奏。
 でも、音を鳴らすたびに、心の空白だった部分が満たされていく。
 なんだか、初心に帰った気がするな。
 昔のわたしは、たしかに上手く弾けていた。
 でも、今みたいに、純粋に楽しむためだけに弾けていたかというとちょっと違う気がする。
 当時は、正しく完璧に弾くことに固執しすぎていたんだ。
 上手だと思われたいという承認欲求、ミスしちゃいけないというプレッシャー。
 ピアノコンクールで優勝できたときは、涙するほど感動した。だから、そういう感情の全てが間違っていたとは思わない。
 でも、上手に弾くのだけが、全てじゃないってことにも気がついた。
 音を楽しむと書いて、「音楽」なんだ。

「衣音さんは流石だね。もう昔の僕なんかより、全然うまくなっちゃったよ。うらやましい」
「それは、言いすぎ。片手でしか弾けてないし……、きらきら星の見せどころは、ここからなんだよ」
「ねえ、衣音さん。衣音さんの演奏をさ、僕以外のほかの人にも聴いてもらいたいと思わない?」
「えっ。それは……お母さんに聴いてもらうって意味?」

 その勇気は、まだ出ない。
 お母さんは、わたしがピアノをどれだけ上手に弾けていたか、一番よく知っているひとだ。
 わたしがどれだけ楽しく弾いても、お母さんから見たら、まだ幼稚園児のお遊戯会にしか見えないかもしれない。

「それは、まだ気が進まないんでしょ?」
「知ってたんだ」
「わかるよ。お母さんが家にいるときは、頑なにピアノを弾こうとしないじゃない」
「……うん」
「じゃあさ、PopPikに投稿してみたらどう?」
「えっ」
「片手演奏ってハッシュタグをつけて投稿してみるんだ。スマフォが一台あればできるよ」
「……こんな演奏、投稿したところで、聴いてくれるひとなんていないよ。全然すごくないもん」
「自信がないだけだよね? じゃあ、試してみよう!」
「……えっと?」
「ほんとに視聴回数が一もつかないのか、試してみれば良いんだよ。やってみたら、結果はすぐに出る」

 呆気にとられる。
 この前も思ったことだけど、幽霊くんといるとネガティブになる暇もないなぁ。

「幽霊くんは、すごいね。どうやったら、そういう風に考えられるようになる?」
「そんなことないよ。僕も、生きていたころは、ウジウジばっかりしていたし」
「……わたしがウジウジしてるって意味?」
「冗談だよ、そんな怖い顔をしないで」

 幽霊くんは、ピアノ椅子に腰かけるわたしの隣までやってくると、ピアノの鍵盤を切なそうに見つめた。

「自分の話になるんだけど、僕は、心臓の病で死んだんだ。生まれつきの持病だったから、みんなと同じように長生きできないことは物心ついたときからわかってた。僕自身、そのことを受け入れているつもりだったんだよ。でもさ……、いざ苦しくて苦しくて死にそうになったとき、めちゃくちゃ怖くなった。死を受けいれているなんて、ウソだったことを思い知らされたんだ」

 今まで、どうして忘れられていたんだろう。
 幽霊の彼は、当然のことながら、一度本物の死を経験している。

「痛みにうなされながら、後悔ばかりが浮かんできた。心臓に負担がかかるかもしれないからって、挑戦しなかったことばかりだ。実際、行動しなかったおかげで寿命は延びたのかもしれない。でもさ……、結果的に、それほど長くは生きられなかった。極端に言うと、全員いつかは死ぬ。だったら、死ぬことを恐れ過ぎずに、もっとなんでもやっておけば良かったなって思ったんだよ」
「……そう、だったんだね」
「ごめんね。こんな話をされても、困るよね」
「ううん。……聞けて、良かったよ」

 今の話は、一度死を経験した幽霊くんにだからこそ、語れたことだ。言葉の重みに、背筋がぴんと伸びる。
 聞くことができて良かったなって、素直に受け止められた。

「衣音さん。まだ、消えちゃいたいと思ってる?」
「ううん」

 以前よりも、呼吸するのが楽になった。
 ピアノは、片手で弾いても、楽しいことに気がついた。
 なによりも、わたしは、目の前の彼が生きたくても生きられなかった時間を生きている。
 わたしをここまで引っ張りあげてくれた彼の前で、自ら命を投げ出したいと言うような情けない自分ではいたくない。

「幽霊くん。わたし、動画を投稿してみるね」



「みてみて、幽霊くん! 視聴回数、十回もついてるよ!」
「えーっ、すごいじゃん!」

 昨日、わたしは初めてPopPikデビューを果たした。
 ショート動画作成作業は、想像以上に大変だった。
 まずは、素材の撮影準備。
 物理的に幽霊くんに手伝ってもらうことはできないので、お小遣いでスマフォスタンドを購入した。今までろくに使ってこなかった貯金がこんなところで役に立つとはね。スマフォを立てかけて、右手と鍵盤が良い感じで映るように何度も角度を調整した。
 それから、肝心の演奏撮影。
 テンポの調整をしながら、ちょうど十五秒以内にキリよく演奏をおさめるために、何度もリテイクした。
 素材が撮れたら、最後に編集作業。
 文字入れができるアプリを探して、「片手演奏 モーツァルト きらきら星変奏曲」と動画に字幕を付けたした。文字入れといっても、文字の大きさ、カラー、表示させるタイミングまで考える必要があって、かなり悩んでしまった。
 わたしが作ったのは、とてもシンプルな演奏動画だ。
 実際に自分で動画作りをやってみて、他の投稿動画の編集技術がいかに優れていたのかを痛感した。眺めていただけのときは自分にも簡単に作れそうだと思っていたのになぁ。

 でも、そうやって昨日投稿した動画が、もう十回も再生されている。
 予想していた何倍も手間がかかったけど、見ず知らずのひとたちがこの動画を再生してくれたんだと思ったら、胸が熱くなった。
 うれしいなぁ。すっごくうれしい……!
 片手だけの演奏動画なんて、投稿したところで見向きもされないかもって心のどこかで思っていたから驚いた。予想以上の反響だ。

「ふふっ。衣音さん、ちょっと目がうるんでるよ」
「うっ……。だ、だって……信じられないんだもん。片手だけの演奏に、早速、こんな視聴回数がつくなんて……」
「感動して、泣いちゃった? かわいいね」
「か、かわっ! えっ? からかわないでよ!」
「本音なんだけどなぁ。……こんなに一生懸命に頑張ってる女の子が、かわいくないわけがないじゃない」

 心臓が、痛いほど収縮する。
 出会ったときから、彼はすでに死んでいた。わたしと、幽霊くんは、紛れもなく違う世界のひとだ。
 そんなの、最初からわかりきっていた。
 なのに、なんで今更、彼が半透明に透けていることに、こんなにも胸を締めつけられているの?

「衣音さん? どうかした?」
「な、なんでもないっ!」

 顔を間近でのぞきこまれそうになって、慌てて、防音部屋を逃げ出した。
 顔が熱い。心臓、ドキドキしてる。
 ……ヘンに、思われたかな?
 でも、いきなりまじめな顔つきであんなことを言われたら、動揺しても仕方がないと思う。
 やだな。次に顔をあわせたときには、普通にしていなきゃ。

✳︎

 最近、寝覚めが良い。布団を這い出る動作が、そこまで苦じゃなくなった。
 朝起きてすぐに、どんよりとした負の気持ちに憑りつかれることがなくなったからだろう。
 家に帰ったら、次のフレーズに挑戦してみようかな、とか。
 また動画投稿してみたいな、とか。今日は幽霊くんとなにを話そう、とか。
 暗い気持ちの代わりに脳内を占めているのは、未来へのささやかな希望だ。

 教室に入って、すぐに机につっぷすのもやめた。
 代わりに携帯を取り出してポプピの自作動画を眺めていたら、突然後ろから肩をたたかれて驚いた。

「おはよー、天野さん。最近は寝不足じゃないんだね?」
「お、おはよう、井上(いのうえ)さん。寝不足って……?」
「えっ? 天野さん、教室にくるといつもソッコーで机につっぷしてたじゃん。てっきり忙しくて睡眠不足なのかと思ってたけど違うの?」

 あー……。そういう風に思われていたんだ。
 話しかけてきた井上さんは、大きな瞳をぱちくりとさせながら首をかしげている。
 彼女の悪意のなさそうなまるい瞳を見つめていたら、正直な気持ちが口をついて出た。

「寝不足ってわけじゃなくて……、恥ずかしいんだけど、ふてくされてたんだ」
「ふてくされてた?」
「……うん。なんかね、みんな楽しそうなのに、自分だけがしんどいような感じがしちゃって。頑張ってるひとを見ても、どうせ無駄になっちゃうかもしれないのにってむしゃくしゃしてたんだ。……ただの、八つ当たり」

 一歩前に踏み出してみて、気がついた。
 わたしは、楽しそうだったり、一生懸命なひとに幼稚な嫉妬をしていただけなんだって。
 井上さんは、ぽかんと口をあけたあと、くすくすと笑った。

「天野さんって、正直なひとなんだね」
「え?」
「あたしが天野さんだったら、『そーそー。最近バイトが忙しくて、全然寝れてないんだよねー』とか適当なウソついてたと思う。だから、すごいなって」
「……そのすごいは、嫌み?」
「違う違う! シンプルに尊敬したってことだよ。自分の非を素直に認めるのって、中々できないことじゃん? 大人になってすら、それができないやつもいるからねぇ~」
「井上さんは、人生何周目なの?」
「あははっ、一周目で華の十六歳ですけどー? 今のはただのバイトの話。ってゆーかさ、聞こうと思ってたんだけど、天野さんさっきポプピ見てなかった?」

 ドキッとした。まさか、そこに触れられるとは思ってもみなくて。

「う、うん。見てたよ」
「ピアノの動画だったよね? 天野さんって、音楽に興味があるの?」
「うん。ていうか……さっきの動画、実は、わたしが投稿したもので」
「ええっ⁉ マジでっ!」
「ちょ、ちょっと井上さん! 声大きいってば」
「だって、めちゃくちゃすごいことじゃん! その動画、あたしも見ていい? あ! ついでに連絡先も教えてよ」

 言われるままに、井上さんと連絡先を交換することに。

「恥ずかしいし、全然大した演奏じゃないから。学校では見ないで」
「わかったわかった、約束する! そっかぁ……天野さんってピアノを弾けるひとだったんだぁ。かっこいいなぁ~」
「……今は、事情があって、片手でしか弾けないんだけどね」
「ふーん。えっ……? それなのに、動画投稿をしたの?」
「う、うん。そうだけど」
「それって、ものすごいことじゃんっ! 詳しくは聞かないけどさ、なにかがあったけど、それでも諦めずに弾くことに挑戦してるってことでしょ? かっこいいなぁ……」
「ほ、褒めすぎだよ」

 こんなにべた褒めされるなんて、いつぶりだろう。ピアノコンクールで優勝したときと同じくらいか、それ以上かも。顔が熱い。
 帰宅中、井上さんから早速『動画見たよ、素敵だった! この動画のこと、妹にも教えて良い? 妹も音楽が好きなんだぁ~』というメッセージと、はしゃいでいるうさぎのスタンプが送られてきて、頬がゆるんだ。
 動画を投稿して教室で眺めていたら、高校のクラスメイトが連絡先に増えた。
 なんだか不思議な感じだ。 



 井上さんと学校で他愛もない話をするようになってから、三日後。
 うちの防音部屋で、幽霊くんに見守られながら新しいフレーズを練習していたら、携帯の通知音がぴこんと鳴った。
 
『天野さん、この動画みてみて!』

 送られてきた動画をタップして開いてみたら、衝撃的だった。

『妹が、天野さんの動画をすごく気に入ってさ。自分もやってみたい! ってうるさいから、折角だし、二人のセッションにしてみましたぁー!』

【きらきら星変奏曲、ピアノとフルートでセッションしてみた】

 わたしのピアノのメロディーを支えるように、フルートの透き通った音色が重なっている。
 フルートといえば主旋律を弾くことが多いイメージの楽器だけど、このセッションではちょうどピアノの左手分の演奏を補うように伴奏してくれていて、ハーモニーが美しい。うっとりと目を細めたくなるような、素敵な仕上がりだ。

「うわぁ、すごいねっ! 衣音さんの演奏に、フルートを重ねてくれたんだ」
「うん……っ」
「また、泣いてるの?」
「だってっ……。こんなにうれしいことが起きるなんて、思わないじゃない」
「そうだよね。僕も、すっごくうれしいよ」

『おーい、見てくれた~? もしかして、勝手に動画を使って怒ってる? サプライズにしたかったんだけど、失敗だったかなぁ……?』

 井上さんからの不安そうなうさぎのスタンプに、慌てて返信。

『そんなことない!! すっっっごく感動した! 妹さん、フルートが上手なんだね。素敵なプレゼントをありがとう!』
『よかったぁ。妹は、いま中学二年生なんだ。もともと吹奏楽部に入ってたんだけど、人間関係のいざこざでやめちゃったみたいで……。だけどね、天野さんの演奏を聴いたとき、すごく感動したって! またフルートを弾きたいって思えたんだってよ』
『そうだったんだね』
『うん。良かったら、今度、本人に会ってあげてよ。きっと、喜ぶと思う』
『ぜひ! わたしも会ってみたいな』
  
「衣音さんの演奏が、クラスメイトの妹さんに届いて、また弾いてみようという活力になったんだね」
「うん。なんか、信じられないや……」
「でも、間違いなく衣音さんの行動の結果だよ。やっぱり、衣音さんはすごいひとだ」

 やさしい言葉に、一度おさまりかけた涙が、ぽろぽろとこぼれてくる。

「衣音さん。僕に、もう一度、きみの演奏を聴かせてもらえる?」
「……わかった」

 もう一度、鍵盤に右手を横たえる。
 片手だけの、上手とはいえない演奏だ。
 それでも、恐怖はない。彼になら、ありのままの自分を見せても平気だから。
 やさしく見守ってくれている眼差しに、もっと応えたいという気持ちがぐんと強くなった。
 なにより、やりたいことは挑戦してみるべきだと教えてくれた彼に、わたしの勇気を見てほしい。
 試しに、恐る恐る、左手も鍵盤に載せてみる。

「衣音さん……?」

 ほんの少し指の骨が痛んだけど、大丈夫。この程度の痛みなら、ぜんぜん無視できる。 
 深呼吸をして、もう一度。
 今度は、両手を鍵盤に沈みこませる。
 わたしの演奏を、もっと聴いてほしい。
 無理かもしれないという不安を、自分への期待が上回る。
 一度弾きはじめたら、背中から翼が生えてきたように、両手が軽やかに動きはじめた。
 弾けた……!
 幽霊くん、わたし、弾けたよ。すごいね。本当に願いを叶えてくれたんだね。

「ウソ……。衣音さん……、両手で弾けてる」

 幽霊くんのかすれたような呟き声は、思わぬ人物の登場によって遮られた。

「衣音……?」
「お母さん⁉」

 ビックリしすぎて、演奏が止まる。
 慌てて振りかえったら、防音部屋の入り口でお母さんがわたしのことを凝視していた。
 気がつけば、もう夜の七時だ。
 うかつだった。お母さんにはバレないように気をつけていたのに、そんなに時間が経っていたなんて。

「……衣音。いま、ピアノを弾いていた?」

 震える声で確認してくるお母さんに、胸がぎゅっと締めつけられる。
 もう、流石に誤魔化せない。

「実は……、数週間前からちょっとずつ。まだ、昔みたいには上手には弾けないんだけど」

 お母さんの瞳から、涙がこぼれた。

「……知らない間に、衣音は、前へ進んでいたのね」
「え?」
「衣音。……ずっとずっと、ごめんね。お母さん、あなたが目の前で事故に遭った日から、どうしてあげれば良いのかわからなかった」
「お母さん……」
「大好きだったピアノを弾けなくなって塞ぎこむ衣音を見ているのが辛かった。でも……、なにを言っても慰めにならないような気がして、なにも言えなかった。私が代わりに事故に遭えば良かったのにって、何度も思ったわ」
「そんなこと、ウソでも言わないでよ!」
「……ごめんなさい」
「わたし……、ずっと、お母さんに嫌われてるんだと思ってた。……違ったんだね」
「そんな風に思わせていたなんて……私の態度のせいね。本当にごめんね、衣音」

 泣き崩れるお母さんと一緒に、わたしも小さな子どものように泣いた。
 お母さんと、こうして本音でぶつかりあうのはいつぶりだろう。
 
「……このピアノ、手入れしてくれていたよね? 調律師まで呼んだの?」
「うん。きっとね、願掛けみたいなものだったの」
「願掛け?」
「衣音は、ピアノが大好きだったでしょ? 私は、ピアノを楽しそうに弾く衣音が好きだった。仕事がきつくても、衣音のことを思い出すと頑張れたわ。だからね、また衣音が心から笑顔になれますようにって願ってたの」

 お母さんの弱々しい微笑みに、嗚咽がこぼれた。
 この世には、たしかに理不尽なことも起こる。
 わたしが交通事故に遭ったこと、井上さんの妹さんが人間関係のゴタゴタで部活をやめざるをえなかったこと、幽霊くんが心臓の病で亡くなったこと。テレビをつければ、悲しいニュースが流れてくる毎日だ。
 変えられない、どうにもならないことも、多いのかもしれない。
 それでも。
 今、生きていて良かったなって、心の底から思った。
 交通事故に遭った日に、命まで落としてしまわなくて本当に良かった。 
 だって、そうじゃなかったら、お母さんにこんなにも愛されていたことを知らないままこの世を去っていたんだもの。

「お母さん。ずっと心配をかけて、ごめんなさい。それから、願っていてくれてありがとう」

 ねえ、幽霊くん。お母さんと向き合うことも、本当に達成できちゃったね。
 お母さんの前で彼に話しかけるわけにはいかないから、視線をやって、心からの感謝をこめて微笑んだ。
 
「おめでとう、衣音さん……! きみは、ほんとにすごいよ。もう、僕がいなくても大丈夫そうだ」



「幽霊くん! ねえっ。なんで、そんなに透けているの⁉」

 お母さんと一緒に夜ご飯を食べている間中、気が気じゃなかった。
 急いで食べ終わって、自分の部屋にこもり、慌てて彼を問いつめる。
 お母さんと和解できたのは、心の底からうれしい。
 でも……、なぜか幽霊くんの姿が、とても見えづらくなっていた。
 透けているのはいつものことなんだけど、急に透明度が上がったような感じだ。 
 まるで、世界が彼を、どこかに隠してしまおうとしているような……。
 よぎった不吉な考えを肯定するように、幽霊くんはうなずいた。

「さっき伝えたとおりだよ。衣音さんは、もう、僕がいなくても大丈夫だから」
「ダメ! 絶対にダメ! わたしは、幽霊くんがいないとダメダメだよ。大丈夫になったとしたら、幽霊くんのおかげなんだよ! いなくなったら、またダメになっちゃうよ! お願い……っ。お願いだから、そばにいて」
「衣音さん……」

 幽霊くんが、わたしの頭に手を伸ばしかけて、ためらうようにひっこめた。

「……ごめんね。もう時間がないって、自分でわかるんだ。きみのお願い、叶えてあげられそうにない」

 嫌だ。
 そんな突然の別れ、受け入れられるわけがない。
 聞き分けのない子供をあやすように、幽霊くんが、涙で濡れたわたしの顔をのぞきこむ。

「衣音さん。消えてしまう前に、本当のことを話すね」
「……聞きたくないっ」

 だって、聞いてしまったら。
 幽霊くんが消えてしまうことを、受け入れたみたいだ。
 でも、彼は、待ってくれなかった。

「最初から気がついてたと思うけど、僕には、願いを叶えるなんて大層な力はない。ウソをついて、ごめんね」
「えっ? でも、さっき両手で弾けたよ……?」
「僕も驚いたけど、あれは僕の力じゃない。大体、条件を達成する前に、ピアノを両手で弾けていたじゃない」

 言われてみれば、たしかにそうだ。
 お母さんと向き合うという条件を達成する前に、ピアノを両手で弾けていた。
 じゃあ、わたしがずっと弾けなかったのは……、身体的な問題じゃなくて心理的な抵抗のせい?

「条件も、願いも、きみが自分の力で叶えたんだよ」
「でも、わたし一人じゃ絶対に乗りこえられなかったっ! 幽霊くんが強引に背中を押してくれたから、できたんだよっ」
「僕はただ、きみが楽しそうにピアノを弾いている姿を、もう一度見たかっただけだ。それが僕の未練だった。だから、僕の姿はきみにしか見えないんだと思う」
「どういう、こと……?」

 幽霊くんが、わたしの涙をぬぐおうとして指を近づける。
 その透明な指が、わたしの頬に触れることは決してない。

「生前に、一度だけきみの演奏を見たことがあるんだ」

 彼の従姉妹がピアノコンクールに出ることになって、そのときは身体の調子が良かったから、幽霊くんも一緒に演奏を聴きに行ったらしい。
 約三年前。ちょうど、わたしが中学二年生だったときの話だ。

「従姉妹の演奏を聴きに行ったはずだったんだけど、僕は、きみの演奏に心惹かれた。軽やかにピアノを弾くきみは、地上に舞い降りた天使みたいだった」
「……おおげさ、すぎだよ」

 そのコンクールで、わたしの名前を覚えてくれていたんだ。

「大げさなんかじゃない。きみの演奏は、うちに帰ってからもずっと心に残っていた。それで、僕もピアノを弾いてみたいって思ったんだ。楽譜もまともに読めないくせにさ」
「……そっか。そうだったんだね」
「うん。親に、電子ピアノまで買ってもらった。最期まで下手くそだったけど、ピアノを弾くことは僕の救いになってた。夢中で弾いていると、苦しい現実を忘れられたから」

 わたしの演奏が、生きていたころの彼の心の支えになっていた。
 たまらなくうれしい。胸がいっぱいすぎて、張り裂けてしまいそう。

「死ぬ間際にね、ふと浮かんできたのが、ピアノを弾いているきみのことだった。どうせ死んじゃうんだったら、あのコンクールの日に、勇気を出してきみに話しかけていれば良かったなって、そう思ったんだ。だから僕は、きみの前に化けて出てきたんだと思う」

『だめっ! だめだめだめ! ストーーップ!! 早まっちゃダメだああぁーーーー!』
 
 あの日、暗闇を彷徨っていたわたしの前に現れてくれたのが彼で本当に良かった。  

「衣音さん。僕の嘘に付きあって、もう一度、ピアノに向きあってくれてありがとう。僕に、また素敵な演奏を聴かせてくれてありがとう。もう、心残りはないよ。きみの演奏が……、ううん、きみのことが大好きだよ」
「嫌っ。そんな、もうこれで最期みたいな言い方しないでよ! わたし、まだ、あなたの名前も聞いてないのに」
「えっ。告白の返事、くれないの?」
「ふざけてる場合じゃないでしょ!」

 もう、ほとんど消えかかってる。輪郭がどんどん薄くなっていく。
 このままお別れなんて、そんなの嘘でしょ。これも嘘だって、そう言ってよ!

「光。椎名光(しいなひかり)が、僕の名前だよ」
「光、くん……」
「名前、憧れのきみに呼んでもらえてうれしいな」

 にっこりと微笑んで、彼が、そっとわたしの頬に口を寄せた。
 
「勝手にキスしないでよって怒らないでね。触れてないから、セーフってことで」
「……やだ。ちゃんと、触れてよ」
「ふふっ。やっぱり衣音さんはかわいいね」
「光くんは……、元気だったら、ちゃらそうだね」
「えーっ。そんなことないよ、衣音さん一筋だもん」
「じゃあ、ずっとそばにいてよ……っ」 
「それはできない。名残惜しいけど、もう、さようならの時間みたいだ」

 幽霊くん――光くんの姿が、ついに、目の前で消えてしまった。

「大丈夫。焦らなくても、生きている限りいつかは死ぬんだから、きっとまた会えるよ。衣音さんは、生きて、生きて、生き抜いてね。僕はその先で、待っているよ!」

 最後に、暗闇を照らす光のような、やさしい約束の言葉を残して。



「衣音って、ほーんと練習熱心だよねぇ。ちょっと前までは片手でしか弾いてなかったのがウソだったみたいに、きらきら星変奏曲をマスターしちゃうしさぁ。かっこいーよねぇ」
「ほんとはピアノを弾いてる場合じゃなくて、勉強するべきなんだろうけどね……。もう受験生なわけだし」
「あははっ。それは、あたしにもブーメランだから、受験の話はなしでお願いしまーす」
「はいはい。美奈(みな)の妹さんは、元気にしてる?」
「うん。最近、フルートの教室に通いはじめたみたいで、楽しそうにしてるよ。衣音のことめちゃくちゃ尊敬してて、今度は会ってセッションしたいなぁって言ってる」
「そっか。実現させたいな」

 通学路の葉桜を見上げながら、彼がいなくなってもう半年以上が経つんだって、少し切なくなった。
 時が過ぎるのは早いもので、わたしは高校三年生になった。
 クラス替えがあったけど、二年生のときから仲良くしている井上美奈と同じクラスになることができてホッとしている。

「それにしても、衣音はほんとに変わったよねぇ。最初は、寝不足のひとかと思ってたし」
「その話題はもう良いでしょ!」

 と言いながらも、自覚があるので強くは言いかえせない。
 美奈の言う通り、わたしは、本当に変わったと思う。
 朝、怠いと思うことなく、普通に起きられるようになった。
 お母さんと一緒に朝食を食べるようになった。
 学校で机につっぷすこともなくなって、クラスメイトと雑談に興じるようになった。美奈が、自分の友達の輪に、わたしも入れてくれたんだ。
 そしてなによりも……、事故に遭う前と同じか、それ以上に楽しくピアノを弾けている。
 今でもショート動画の投稿作業は続けていて、驚くことに、フォロワー数は最近千人に到達した。
 片手演奏から両手演奏動画にして、きらきら星以外の曲も投稿している。

「なにか、変わるきっかけでもあったの?」
「願いを叶えてくれる幽霊のおかげかな」
「はあ?」

 ねえ、光くん。
 あなたは嘘だって言ったけど、わたしは、光くんが願いを叶えてくれたんだって今でも思っているよ。

「わたしの恩人なの。そのひとに恥じないように生きたいって思ってるんだ」

 待っていてね。
 生きて、生きて、生き抜いて。
 その先で待っているあなたに、笑顔で会いにいくから。【完】