人魚の血を引く花嫁は、月下のもと愛に溺れる


 目覚めたのは昼過ぎ。部屋に差し込む日差しが充分に明るいことに凍華は慌てて身を起こした。

「しまった、寝坊をしたわ。早くしないと叔父さんに殴られ……」

 そこまで言ってはたと言葉をとめ、周りを見回す。
 見慣れない部屋の広さは六畳ほど、隅には文机と箪笥が一竿あり、行灯の火は消えていた。

「そうだ、私、廓に売られ……そのあと」

 殺されかけたのだと思い出し、両腕で自分を抱きしめる。そこで初めて、肩から掛けられていた羽織の品が随分良いことに気がついた。
 廓で着せられた長襦袢を覆い隠すように着せられた羽織は、綿がしっかり入っていて充分に暖かい。衣文掛けには橙色地に赤い南天の小紋の着物が掛けられており、半幅帯も一緒に置かれていた。これに着替えろと言うことだろうか、と思うも、腕を通したこともない立派な着物に躊躇してしまう。

「布団も上質なものだわ」

 雨香達が使っているものより綿がぎゅっと詰まっている。その布団から出て、窓を二寸ほど開け外を覗き見た。
 
 よく手入れされた庭園の真ん中に砂利道が一本。そのわきには松や椿、今はもう花を落としてしまったけれど金木犀が植えられ、奥のほうには楠の木が枝を伸ばしている。

 冬のこの季節に咲く花はほとんどないけれど、それでも綺麗な庭だった。

 凍華は長襦袢に羽織り姿でいつまでもいるわけにはいかないと、躇いながらも小紋に袖を通し、帯を巻く。

「昨日私を助けてくれたのは、妖、よね」

 妖狩りの正臣、と言う男が珀弧と呼んでいた。
 忌々しい青い目とうねる髪を綺麗だと言われたことを思い出し、髪を摘まんで見るも、やはりそれは美しくは見えない。でも、ちょっとだけ好きになれたような気もする。
 
「私は人間ではない。母は人魚だったということ、よね」

 ひとつずつ、昨日知ったことを反芻し、頑張って飲み込んでいく。
 それは苦しいことだったけれど、どこかすとんと腑に落ちた。
 今まで、人とどこか違うと思っていたけれど、人魚の血を引いていたことが理由だと知り、それは衝撃的で、信じられないことだったが自然と納得もできた。
 それこそが、自分が妖の血を引くせいかもと、凍華が小さく笑うと、障子の向こうから幼い声が聞こえてきた。
 
「笑っ……よ」
「僕も……」

 障子に三尺足らずの影が映っており、それが小さな手足をひっきりなしに動かしている。どうやら覗き見をしていて、良く見える場所を取り合っているようだ。
 やがて、障子が少し開き丸い目玉が四つ現れるも、凍華と目が合うと慌てたようにぴしゃんと閉まってしまった。

「おいで」

 畳に膝をつき手招きすれば、おそるおそると障子が開き、同じ顔をした子供が二人跳ねるようにして駆け寄ってきた。

「お姉さん、花嫁さん?」
「珀狐様の花嫁さん?」

 パタパタと尻尾を左右に振り、頭の上の狐耳をピンと立て興味津々と凍華を見上げてくる。
(花嫁さん?)

「珀弧様、やさしい。妖狩りから妖を守って保護する」
「でも、この屋敷に招いたのは花嫁さんが初めて。だから花嫁さん」

 わいわいと手を挙げ凍華の周りを走り出す二人に、どう声をかければよいかと悩んでしまう。「あ、あの、花嫁さんじゃない……」と言いかけたところで、一人が凍華の腕を掴んで鼻を付けた。

「花嫁さん、人間の匂いがする」
「半分だけ人間の匂いがする」
「お姉さん悪い人?」
「僕たち殺されるの?」

 物騒な言葉が可愛い口から出たことに焦りながら、凍華は思いっきり頭を振る。

「悪い人じゃないし、殺さないわ」
「約束だよ。花嫁さん名前は?」
「凍華。それから、私は花嫁じゃないわ」
「僕、ロン」
「僕、コウ。よろしくね。花嫁さん」

 花嫁ではない、ともう一度言おうとして凍華は息を吐く。この二人、どうも聞く気はないようだ。

「えーと、こっちがロンで、こっちがコウね」

 凍華が二人を指差し確認すると、ロンとコウは目を見合わせいたずらっぽく笑ったかと思うと、くるくるとその場で追いかけっこを始めた。
 まるで子犬が自分の尻尾を追いかけるように、それぞれが相手の尻尾を掴みどんどん速さを上げていく。

(目が回りそう)

 凍華がくらりとしてきたのを見計らったように、二人はピタッと止まり両手をあげた。

「「どっちがどっちだ?」」
「ええっ!」

 二人とも、紺地に草模様の着物。子供がつけるヘコ帯の色も同じ緑で、背丈も一緒。銀色の髪から出ている耳はびくぴく、と尻尾はぱたぱたと嬉しそうに動いおり、琥珀色の瞳を細めて笑う顔も見分けがつかない。

「えーと、ちょっと待って」
「待たないよ」
「どーちだ」

 ぴょんぴょん跳ねる様子は可愛らしいのだけれど、これは困ってしまったと眉を下げていると、障子の前に大きな影が映った。
 すっと障子が開き現れた珀弧は、コツンコツンと二人の頭を叩くと、ロンとコウは同時に「痛っ」と叫び頭を撫でる。

「お前たち、起きたら教えに来いと言ったはずだ」
「珀弧様! 花嫁さんと遊んでいたの」
「珀弧様! どっちがどっちかあてっこしてたの」

 はぁ、と珀弧は袂に腕を入れ嘆息すると、言い含めるようにゆっくりと話した。

「その人は花嫁さんじゃない。俺は凍華に話があるから、お前達は凛子に食事の用意をするよう伝えてこい」
「「あい!」」

 ロンとコウは、分かったとばかりに右手、左手をそれぞれ上げると、我先にと部屋を出て行った。
 ふさふさの尻尾を見送る凍華の前に、珀弧が座り胡坐をかく。
 月明かりの下で見たときも整った顔だと思ったけれど、日の差し込む部屋で見れば、息をのむほど綺麗な顔をしている。凍華は居住まいを正し、畳に指をつき頭を深く下げた。

「助けて頂きありがとうございます。……あの、ここはどこでしょうか?」

 思えば部屋に火鉢がないのに暖かい。部屋の作りも庭も特段変わったところはないのに、どことなく浮世離れしたものを感じる。
 
「ここは妖の里。人間たちは自分達の住まいを『現し世(うつしよ)』ここを『隠り世(かく)』と呼んでいる。俺はこの屋敷の主で珀弧と言う名の妖狐だ。妖狐、は分かるか?」
「狐、でしょうか」

 自分に人魚の血が流れているのだ、いまさら目の前に狐や狸が現れても驚かないと、腹に力を入れるも、目の前の男はあまりにも美しい。
 だから珀弧が「そうだ」と答えるも、尻尾や耳もないので俄に信じられずまじまじと見てしまった。

「何を見ている?」
「尻尾も耳もございません」
「ははっ、俺は子供じゃないから、ロンやコウと違い普段は隠している。二人は自己紹介をしたか?」 
「はい。聞きましたが……見分けがつきませんが」

 正直に堪えれば、珀弧はくつくつと喉をならし笑った。
 整い過ぎた顔でとっつきにくい人だと思っていた凍華は、意外な様子に目を丸くしつつ、ほっと胸を撫でおろした。どうやら怖い人ではなさそうだ。

「それで、幾つか質問をしたいのだが良いか」
「私に分かることでしたら、なんでもお答えいたします」

 節目がちに答えるのは、もはや癖といっていいだろう。
 青い目を殊更嫌う雨香達に、話すときには目だけではく頭もさげるよう強く言われていた。
 珀弧はそんな様子に僅かに眉を顰めつつも、やせ細った身体から察するものがあるのか、そのまま言葉を続けた。

「答えたくないことは言わなくてよい。まず、どうしてあの場であの軍人に追われていたのだ」

 それを説明するには凍華の育った環境から全て話す必要がある。
 凍華は言葉に詰まりつつ、両親を亡くし叔母に引き取られたこと、従兄妹の学費のために遊郭に売られ、そこにいきなり妖狩りが現れたことをかいつまんで話をした。

 かなり端折ったけれど、人と長く話をしたことがない凍華にしては頑張ったし、うまく説明できた、気もする。
 しかし、話を聞いた珀弧は何も言わず「うーん」と唸るばかり。
 説明か悪かったのかと、恐る恐る髪の隙間からその表情を覗き見れば、ばちりと目が合い慌てて頭を下げた。

「まず、顔を上げてくれ。俺は詰問をしているつもりはなく、話がしたいだけだ」
「はい」

 言われ畳から額を上げるも、相変わらず背は丸まり、顔は下を向いている。
 珀弧は凍華の隣に座り直すと肩に手を当て、背をぐっと伸ばした。
 突然のことに凍華が驚き顔を上げれば、間近に迫った琥珀色の瞳がにかりと笑う。

「この方がよい。この家では背を丸めるな。顔を上げろ。話をするときは相手の目を見る。ちなみにこれは命令ではなく、俺の頼みだ」

 とっつきにくい顔が、急に親しみのあるものに変わり凍華は狼狽えた。しかも距離が近い。

「か、畏まりました」

 真っ赤な顔で答え、恥ずかしさから下を向けば、顔を上げれと言われてしまう。
 
「あ、あの。珀弧様、少々離れていただくわけにはいきませんか?」
「あっ、これは失礼した。怖い思いをした女性に失礼だったな。不快だったであろう」
「そのようなことは……ございません」

 少々心臓が煩くなるだけ、とは言えず口籠る様子を、珀弧は勘違いしたようですぐに元の場所に座り直した。

「珀弧様はあの軍人とお知り合いなのでしょうか」
「仲良く見えたか?」
「いいえ、ちっとも」

 首を振れば、珀弧はまたくつくつと笑う。何がおかしいのかと首を傾げれば、

「凍華はおどおどして自信なさげなのに、時折はっきり物を言うところが良い。それがおそらくお前の持って生まれた本来の性分なのだろう」
「申し訳ありません。私、失礼なことを……」
「言っていない。大丈夫だ。それで質問の答えだが、あいつの捕まえようとしていた妖を逃がしたことが何度かある」
「私のように助けた、ということでしょうか」
「そうだ。妖狩りは、妖なら何でも捕らえ殺す。人間に害をなす物であれば、仕方ないと思えるところもあるが、害をなさない妖を殺す理由はないだろう。あいつらは人でありながら言葉が通じぬゆえ、実力行使をしているまでだ」

 幾度ともなく、珀弧は害をなさぬ妖を殺めるなと言ったが、妖狩りは聞き留めなかった。
 ゆえに、目に留まった妖を助けるようになった。
 妖は本来仲間意識など持たない性質で、他の妖からすれば珀弧のしていることは奇異に映るらしいが、それでも、手の届く範囲はと、現し世に行くたびに誰かを助けて帰ってくる。

「お優しいのですね」
「そんなことはない、ただ自分の目の前で不条理なことが行われるのが腹立たしいだけだ」

 慈善事業のつもりはさらさらなく、助けた妖は傷を負っておれば薬こそ渡すが、大半はその場で別れている。

(では、私を助けてくださったことも、珀弧様にとって特別なことではないのね)

 どこかほっとしたような、寂しいような気持ちが胸にこみ上げ、凍華は戸惑ってしまう。
 虐げられ、罵られるうちに感情を殺すことを覚えてしまった。
 心を閉ざし痛みや苦しさに愚鈍になれば、生きることも少しは簡単に思えたからだ。
 それなのに、珀弧の前ではやけに感情が動いてしまう。これはいけないと、凍華は小さく深呼吸をした。

「では次に、凍華の話をしよう。昨日の会話で察しているだろうが、お前には人間と人魚の血が流れている」
「半妖、人魚と聞いたときからそう考えております」
「父親から何か聞いていないか?」
「……人魚は男女の双子で生まれ番となり、その番との間にのみ子を授け命を繋いでいくのだとか聞きました」
「……それだけか?」

 随分間を開け問いただされ、凍華は的外れな返答をしたのかと焦ってしまう。

「はい、それしか……あの、それ以外に何かあるのでしょうか?」
「…………いや、何もない」

 先ほどほどよりさらに間を開けられては、何かあると言っているようなものだが、珀弧は強引に話しを逸らした。

「父親は何をしていたんだ?」
「軍で書記官の仕事をしていたそうです」
「軍の書記官が殉職……」

 珀弧は袂に腕を入れ暫く思案顔をしていたが、やがて「そうか」とか「いや、しかし」と小さく呟いた。
 そうこうしているうちに、ロンとコウが食事ができたと大きな声を出しながらやって来た。どたどた、ばたんと賑やかだ。

「お膳をもってきました」
「味見もしました」
「お前達、ちょっとは静かにしろ」

 珀弧に叱られ、ぴしりと背筋を伸ばすも、その足は止まることなく足踏みをしている。
 それがあまりに変わりらしく凍華は「ふふ」と笑った。その笑い声に二人の尻尾がピンと立つ。

「花嫁さんが笑った」
「笑った花嫁さん可愛い」
「だから花嫁じゃない。誰がそんなことを言ったんだ」
「凛子が言った」
「珀弧様がお屋敷に他人を招くのは初めて」

 わいわいとお盆を頭に掲げて走るロンとコウの襟首を珀弧がむんずと掴み持ち上げる。
 凍華はお盆が落ちないかとおろおろするも、二人は遊んでもらっているかのようにきゃっきゃと笑う。少なくとも反省はしていない。

「もういいから少し落ち着け。今度騒いだら毛玉に元すぞ」
「「はい!!」」
(毛玉に戻す?)

 はてと首を傾げる凍華の前に、珀弧はロンとコウをひょいと置けば、二人はいそいそと食事の用意を始めた。

「すまない。助けた妖を連れ帰ることがなかったので、勘違いしたようだ。俺は行くのでゆっくり食事をしてくれ」
「はい。ありがとうございます。食べたらすぐに出ていきますので、お手数をおかけいたしました」
「出ていく?」

 また何か変なことをいっただろうか、珀弧が盛大に眉間に皺をよせ、どかんと凍華の前にしゃがみ込んだ。

「廓に戻りたいのか?」
「そ、それは……」
「お前が戻らなければ、楠の家は困るだろう。だが、凍華がそこまで義理立てする必要があるのか?」

 そう言われても、どうしたらよいか分からない。
 命じられるがままに生きてきた凍華は、「生きたい」と思うも、どのように生きるかなんて考えられないのだ。

(でも、考えなくては)

 ずっと逆らうことなく生きてきた。心を、思考を捨てるのは生きるために必要なことだと思っていたけれど、その捨てたものこそ生きるために必要なのではないだろうか。
 自分がどうしたいか、何をしたいか。
 凍華は、目の前に用意された湯気が立ちのぼるお粥に視線を落とす。
 こんなふうに温かい食事にありつけるのは何年ぶりだろう。いつの間にか鍋に焦げ付いたおこげを擦り取り食べるのが当たり前になっていた。

「……帰りたくありません。でも、私には行く場所がないのです」
「それならここにいたらいい」
「そんな! 助けてもらった上に、そこまでしていただく理由がございません」

 ふるふると首を振る凍華の手を、珀弧は優しく握った。

「凍華は疲れている。せめて何がしたいか考えが纏まるまでいればよい。その間、こいつらの遊び相手をしてくれれば助かる。お前達、それでいいな」
「「はい!!!」」

 今までで一番元気な声が返ってきた。
 凍華の胸の中に温かなものが広がっていく。固く閉ざし冷え切った心がふわりと真綿に包まれたようで、いつも張り詰めていた神経が緩んでいく。

「お世話になります」

 改めて三つ指をついて頭を下げれば、珀弧は「分かった」とだけ言って立ち上がり、今度こそ出て行こうとした。しかし、障子襖を開けたところで思い出したかのように振り返る。

「凍華、歳は?」
「昨日で十六になりました」
「昨日。しかも満月の夜か。何か身体に変わったことはなかったか?」
「変わったこと、ですか?」

 変わったことといえば昨夜起きた出来事全てがそうだ。
 その中で、凍華の身体に起きたこととなれば……。

「喉が渇きました」
「喉がか?」
「はい。今まで感じたことのない渇きで、飢えに近く、苦しいまでの渇望でした」

 話すだけでもあのときの感覚が蘇り、凍華は喉に手を当てた。
 その様子に、珀弧が一瞬厳しい顔をするも、すぐに柔和な笑顔を浮かべる。

「今度喉が渇いたら教えてくれ」
「? はい」

 どうしてそんなことを言うのだろう。凍華が首を捻る中、珀弧は立ち去っていった。

 珀弧はいなくなったが、ロンとコウがお盆をはさんでちょこんと座り、凍華が食べ始めるのを今か今かと待っている。その様子にちょっと居心地の悪さを感じつつ、凍華は箸を手にして粥を食した。

「おいしい」
「凛子が作った」

 右手がしゅっと上がって一人が答える。

「凛子さんって誰?」
「掃除してくれる」

 今度は左手が上がる。

「遊んでくれる」
「お風呂に入れてくれる」
「「でも、怒ったら怖いんだよ!!」」

 最後に二人は顔を見合わせ、頬に手を当てた。
 ぷにぷにとした頬がへこみ、唇がくちばしのように尖がるそのさまが愛らしく、凍華がまた微笑めば、二人はさらに喜んだ。
 そんな二人を見つつ、食事を進める。

(凛子さんという方は女中さんかしら? 食事を済ませたらお礼を言って、食器を洗って、他に何か手伝うことがあるか聞いてみよう)

 お世話になるのだから少しでも役に立ちたい。大したことはできないけれど、命を助けてもらったお礼と、寝る場所と食事に見合う働きはしようと思う。
 自分に何ができるかと考えていると、箸を止めた凍華をロンとコウが心配そうに覗き込んできた。
「おいしくない? 嫌いなものはいっていた?」
「いいえ、嫌いなものなんてないわ。ロン」

 名前を呼ばれたことにロンは目をパチパチさせると、次いで阿吽の呼吸のようにコウとくるくる回り始めた。ピタリと止まると期待を込めた瞳で凍華を見上げてくる。

「ロン、コウ、お返事をして」
「「あい」」

 同時にあがる右手と左手に凍華は笑いを堪えながら、「こっちがロンであなたがコウね」と言えば、二人とも零れそうなほど目を見開いた。

「「花嫁さん凄い!!」」

 わーい、と喜んで飛び跳ねる二人。

(私は花嫁さんじゃないのだけれど)

 そう思いながら食べた粥は腹だけでなく胸までもあたたかくした。
 縁側に出て走り始めた二人を眺めながら、今度は里芋の煮つけを頬張れば、ふわりと柔らかく甘い風味が口に広がる。

(こんなふうに食事をするのはいつぶりかしら)
 
 半年? 一年? いや、もっと昔のような気がする。
 ゆっくりと穏やかな食事に身体からゆるゆると力が抜け、食べ物の味がはっきりと分かる。

(私、ずっとこうして食事をしたかったんだ)

 現し世で叶わなかった願いがまさか妖の屋敷で叶うなんて、不思議な気持ちだ。
 少し目の前の景色が滲むのを袖で拭き、凍華は食事を続けた。

「花嫁様の様子はどうでしたか?」

 珀弧が自室に戻り一息ついたころ、襖が開き白い割烹着姿の凛子がお茶を持って現れた。その問いに珀弧の眉がピクリと上がる。

「違うと言っただろう」
「ですが、珀弧様が女性をこの屋敷に連れて来るなんて初めてのことではありませんか。先代が亡くなって早数百年、ばあやはどれほどこのときを待っていたか」

 おいおいと泣き真似をする凛子を、珀弧は冷めた目で見る。早く嫁を、後継を、それを見届けるまで死ねませんと言われ数百年経つが、まったく死ぬ気配はない。
 しかも、凛子は二十代の女性の姿をしており、ばあやという言葉がなんともちぐはぐだ。

「化け猫といえど化けるにもほどがあるだろう」
「何か仰いました?」
「いや、なにも」

 凛子が、ロンとコウとはまた違う猫耳と二股に別れた尻尾をピンと立たさると、反射的に珀弧は居住まいを正す。それを見て、よろしい、とばかりに頷くと、凛子は顎に手を当てた。

「それにしても随分痩せていらっしゃいましたね。人間を見るのは久しいですが、もっとふっくら美味しそうでしたのに」

 ペロリ、と舌舐めずりするのを見て見ぬふりをして、珀弧はパンパンと手を打った。すると、トタトタ、ドタドタと元気な足音がし、駒を手に持ったロンとコウが現れた。

「花嫁さん、僕が分かったよ!」
「左手が僕だって。左ってどっち?」

 ワイのワイと賑やかに話し続ける二人に対し、珀弧が手を上下に振り宥める。しかし、見分けて貰ったのが嬉しいのか二人はなかなか口を閉じない。

「おい! 黙れ。ただの毛玉に戻せるぞ」
「「ひゃ!」」

 二人がぴしゃんと正座をすると、珀弧は脇息に肘をつき鋭く細めた琥珀色の瞳を向ける。

「ロン、凍華の実家に行き育ての親がどんな人物か、どのように育ち廓にきたのか調べろ」 
「とうか?」
「花嫁様のことよ」

 首を傾げるロンに、凛子がわざと珀弧に聞こえるよう耳打ちする。
 珀弧のこまかみがピクピクと動くのを見て、袖で口元を隠し笑うのだから、もう呆れるしかない。

「コウは凍華の父親について調べろ。軍に忍び込まねばならないゆえ、気をつけるように」
「はい!」

 コウのほうが難しそうだと知ると、ロンは不満そうに口を尖らせた。

「それならロン、従妹の雨香についても探ってきてくれ。何か変わった様子があればすぐに知らせろ」
「はい!」

 二人は左右の手を挙げくるりと一回転するとそのまま姿を消した。
 やっと静かになったと一息つくも、凛子がにこにこ微笑んだまま立ち去ろうとしない。
 それどころが居心地悪く茶を飲む珀弧を横目に、自分の分の茶とお茶請けの煎餅までどこからともなく取り出してきた。どうやら長居をするつもりらしい。  

「ロンとコウを使役するなんて、花嫁様を随分気に入っておられるようでなによりです」
「くどい。そういう意味で連れてきたわけではない」
「ふふふ、ではそういうことにしておきましょう」
「……」

 凛子は、ほほほ、と楽しそうに笑う。完全に揶揄われているが、耳も尻尾も隠せないときから世話になっているせいか、言い返すことができない。
 そんなことよりも、と体裁を取り繕うように珀弧は空咳をひとつし、いつもより低い声を出した。

「お前、凍華がどの妖の血を継いでいるか理解しているか?」
「いいえ、猫又の私にそこまでの力はありません。きちんと食事の礼をしてくださり、他に用はないかと聞いてくれる気立てのよいお嬢さんだと思っております」

 凛子は現し世に長くいたせいか、はたまた猫又の直感からか、人を見る目だけはある。
 凍華なら屋敷に置いても問題ない、なんなんらずっといてもらっても構わないと思っていただけに、次に珀弧の口から出た言葉に飛び上がらんばかりに驚いた。

「人魚だ」
「に、にに、人魚!?」

 今までふふっと笑っていた凛子の顔がサッと強張り青ざめ、凍華がいる部屋の方を見る。
 実際に何かが見えるわけではないが、気配を探るかのように耳が細かく動いていた。

「は、珀弧様! 人魚を留め置くなんて問題ですよ! 早く人間の里に返してしまいましょう」
「待て。聞いた話では昨晩十六になったばかりで、まだ自分の能力が何かも分かっていない」
「しかし、人魚ですよ。もし、珀弧様の身に何かあれば……」
「相手は半妖。人魚の力をどこまで有しているか分からぬゆえ、次の満月まで手元に置いて様子を見ようと思っている」
「ですが、もし妖の力が目覚めればどうなります。あやつらは、人間、妖を問わず、男を惑わし食らうのですよ。それともすでに惑わされておりますか?」

 人魚は妖の中でも極めて異質な存在とされている。その理由は食するものにあった。
 番以外の男は人魚にとって食材でしかなく、美しい声で惑わし水辺に引き込み、唇を通してその魂を飲み込む。
 男を食ったあと、ぺろりと舌なめずりする様子がなんとも妖艶で美しいと、恐怖もこめて囁かれているのだ。

「お前なら分かるだろう。俺の妖力を持ってすれば、目覚めたばかりの人魚を滅することは容易い。危険があるなら斬るし、なければ……」
「このままここで面倒を見ると?」

 返事をせず、目線を逸らす珀弧を凛子はジト目で睨む。すでにほだされているようにしか見えないが、凍華が悪い人間でないのは本能的に分かっていた。
 それに、惑わすのは妖狐の十八番。珀弧なら大丈夫だろうという確信もある。

「分かりました。そういうことなら、引き続き花嫁様として暮らしていただきましょう」
「だから、花嫁でないと言っているだろう、しつこいぞ」
「妖狩りのせいで、妖の数は減る一方です。妖狐も残るは珀弧様のみで同種との婚姻はもはや不可能。その血を絶やさないように、というのが先代と私の約束ですから」

 ぴしゃりと言うと、人魚の話はお終いとばかりに凛子は残りの茶をすすった。
 これではどっちが主人か分からぬと、珀弧は苦笑いをす。

「それにしても、養女として引き取っておきながら人ならざる扱いをし、挙句の果てには女衒に売るなど、酷い話ですね」
「そのことだが、お前の力も借りるつもりだ」
「食いましょうか?」
「やめておけ。腹を壊すぞ」
「ヒヒヒ、そうですね」

 にっと口角を上げ、今までと違う笑いを見せる凛子を、珀弧は呆れた顔で見つつ立ち上がった。

「もう行かれるのですか?」
「善は急げというだろう。明け方までには戻る。それから、花嫁ではなく凍華と呼ぶようロンとコウにも言っておけ」
「はいはい」

 ぼりぼりと煎餅を頬張る凛子に、珀弧は額に手を当て大きく息を吐き、そして姿を消した。


 残るは凛子のみ。
「ロンとコウは珀弧様の心そのもの。その二人があんなに楽しそうなのに、本体は素直じゃないわね。ふふ、なんだか面白くなりそう、長生きはするものだわ」
 ぼりぼり、ばりん。
 楽しそうに煎餅を食べる音が部屋に響くも、それもやがて部屋からすっと消えた。

 隠り世にきて二週間が経ち、凍華は暇を持て余していた。

 凛子からはその細い身体をいたく心配され、毎食、雑炊や柔らかく炊いたご飯、ほくほくとした野菜の煮物に魚と、消化の良い食事が品数多く用意された。
 もともと食の細い凍華であったが、残しては失礼だといつも完食し、食事のあとは仕事をして身体を動かそうと思うのだけれど、なぜかロンとコウが寝かしつけにくる。

 二人一緒のときもあるが、用があるからと一人だけのときもある。
 子供がしなければいけない用事とは何だろうと、気になり聞いたこともあるが、それに関しては二人とも口が堅かった。

 食べて寝ては牛になると言っても、凍華はもっと肉を付けなきゃとごろごろすることを強いられる。

(太らせて、食べようというわけではないわよね?)

 凛子のことを疑っているわけではないけれど、この二週間で随分肉付きがよくなったのも事実だ。
 食後には薬草臭いお茶もでてくるが、あれはいったい何だろうと少し怖い。

 今だって、ロンとコウに布団をかけられ、小さな手でポンポンと寝るよう叩かれている。
 立場が逆だとしか思えないし、いつも先に眠るのはロンとコウだ。
 今日も「一緒に寝る?」と聞くと、待っていましたとばかりに二人は布団に入ってきた。凍華の身体は冷たくて良い匂いがすると、頬を擦り寄せ匂いを嗅ぐ。

(尻尾がほわほわ、ふわふわして気持ち良いし、二人からはひだまのようなにおいがする)

 やがて規則的な寝息が左右から聞こえてきて、それにつられるように凍華も微睡むのであった。



「凛子さん、ここに機織りはありますか?」

 食べ終えた昼食の膳を台所にいる凛子に渡しながら、凍華は尋ねた。
 このままぐうたら生活をするわけにはいかないし、お世話になっているお礼もしたい。
 しかし、台所仕事はおろか掃除洗濯もさせてもらえない。叔父の家では作った生糸で機織りもさせられていたので、せめて何か織ろうと思ったのだが。

「ごめんなさい。私達は人間ほど器用ではないから、そういうの物は妖の里にはないの。あるとしたら……」

 そうだ、と手をポンと打つと、凛子は廊下の向こうに消え、間もなく組紐の織機を手にして戻ってきた。
 
「昔、私のご主人だった人が使っていたものだから、かなり古いけれど使えるかしら」
 
 はい、と渡されたのは年季の入った組紐織機。埃をかぶってはいるものの壊れてはいないようだ。
 
「お借りします。以前、凛子さんが働いていた家のご主人様の物でしょうか?」
「いいえ、私の飼い主だった『ご主人』よ」
(……飼い主)
 
 凍華が凛子の頭の上でぴくぴく動く猫耳を見る。白に少し茶が入ったそれとふたつに分かれた尻尾が、言葉の意味を雄弁に語っている。

 糸ももらえたので、さっそく作ろうと準備をしていると、ロンとコウがやってきて、額を突き合わせ見てきた。
 赤と緑の糸を編んでいきながら、「ここをこうしてね、こう」と凍華が教えれば、どんどん前のめりになっていく。

「やる」
「俺もやる」

 案の定、伸びてきた小さな手に糸を持たせ、背後から手を取るように編ませれば、わぁ、きゃぁ、と楽しそうに糸を交差させ始めた。
 何かを作るのが初めてのようで、二人は競い合うように手を動かしていく。慣れたところで手を添えるのをやめ、凍華は二人の間に腰を降ろした。
 すると、ロンとコウがじっと凍華を見てくる。
 珀弧に言われ、顔を上げて過ごすようにしてはいるが、じっと見られるのはやはり苦手だ。

「私の目、やっぱりおかしい?」

 妖の里では目の色は様々だ。珀弧は琥珀色だし凛子は紫だから、青色だって珍しくないだろうと思うも、顔を見られると目を伏せてしまう。

「違う違う、凍華、元気になってきた」
「元気?」

 もともと病気ではなかったけれど、と首を傾げれば、今度はコウが凍華の頬をぷにっと摘んだ。
 小さな手でムニュムニュと揉まれると、なんだか心がほっこりする。

「顔色良くなった。ほっぺもちょっと詰まめる」
「ずるい、俺もする、俺も」

 負けじとロンが膝によじ登れば、コウが凍華にしがみつく。
 ふわふわの耳が頬に触れ、くすぐったい。
 と、突然心地よい低音が聞こえた。

「おい、お前達何をやっているんだ」

 えっ、と三人揃って振り返ると、袂に腕を入れ組んだ珀弧が立っていた。
 慌てて座り直す凍華をよそに、ロンとコウは左右からまだ頬をぷにぷにと突いている。

「珀弧様、凍華ふっくらした」
「ほっぺ、柔らかい」
(それは、太ったということよね)

 珀弧の前で肉付きのことを言われ、頬が赤くなり俯いてしまう。
 食べて寝てのだらしない生活を知られるようで恥ずかしく、頬を隠したいのに二人は手を離す様子がない。

「珀弧様も触る?」
「そうだな」
「えっ!?」

 聞き間違いかと顔を上げれば、大きな手が伸び凍華の頬に当てられた。
 ロンやコウのように引っ張ることはないその手は、優しく頬を包む。

「少しは元気になったようだな。顔色も良い。だが、まだ健康的とは言えない身体だ。今夜からは食事の品数をあと数品増やすか」
「そ、そんな、これ以上は不要でございます。命を助けていただいた上に、寝るところや着物まで用意していただき、ありがとうございます」
 
 指をついて頭を下げれば、珀弧はいつぞやのように凍華の前に座り胡坐をかいた。

「助けたからには放っておけない。それより、ずっとこの部屋にいるのも息苦しいだろう。今から裏山に出かけるが一緒に来ないか」
「私……外に出ても良いのですか?」

 叔父たちの許可なく外出したことがない凍華は、戸惑うように瞳を揺らす。
 寝て食べてを強いられていたこともあるが、外に出るという考えそのものがなかった。
 凍華の反応に、珀弧は僅かに眉間に皺を入れる。

「今まで、外を歩くのにいちいち許可をとっていたのか?」
「そ、それは……、私はこの目の色ですから仕方ありません。近所の人に顔を見られないよう外に出るときはいつも頰被りをしておりました。出かけるのは用を言われたときだけです」

 許可を取るのではない、用を命じられたときだけ外に出られるのだ。
 その答えを聞いた珀弧の眉間の皺が、さらに深くなる。明らかに怒りを孕んだ目に、凍華は反射的に身を竦めた。

「分かった。それなら尚更でかけよう。山は俺の持ち物だから好きに歩けば良い」

 珀弧は立ち上がると、衣紋掛けに掛かっていた羽織を凍華に手渡す。
 濃い赤色の羽織は、初めてここに来たとき長襦袢の上に羽織らされていたもので、屋敷の中が温かいこともあり、今までそこに掛けたままになっていた。

 着物は数着用意されていて、今着ているのは淡い水色の地に黄色い水仙の柄が裾に入っている。小紋とはいえ立派な品で、山を歩けば汚れるかもしれない。

「あの、私が着ていた着物はありますでしょうか。あれなら山歩きで汚れても大丈夫です」
「汚れなど気にする必要はないし、あれは凛子が捨てたと言っていた。それより、羽織だけでは寒いな。肩掛けも持っていくか」

 珀弧がロンとコウに肩掛けと履物を玄関に用意するよう伝えると、二人は先を競うように走っていった。
 続くように玄関に向かえば、可愛らしい草履がすでに用意されており、コウの手には、藤色の肩掛けがある。どちらも山歩きに相応しいとは思えない高価なもので、凍華は本当に自分が使ってもいいのかと戸惑ってしまう。

「あ、あの。これ……」
「凍華のものだ。気に入らないか?」
「そんな事ございません。寧ろ私なんかが使ってよいのかと思うほどです」
「それなら気にせず使え。できれば日が暮れるまでに山の上まで行きたいから急ごう」

 珀弧は草履を履くと玄関扉を開けた。屋敷の中とは違う冷たい冷気が頬を撫で、凍華はコウから受け取った肩掛けをしっかりと羽織る。寒いからではなく、風で飛ばないようにだ。

 窓から見る限り現し世と変わらないように見えた庭は、出てみても特段変わったところはない。
 ただ、これほど豪華で立派な庭を見たことがない凍華は、圧倒されつつ周りを見渡した。

 珀弧は表門へと続く道ではなく、裏庭へと向かう少し細い道を進む。その後ろをついていくと、まもなく裏木戸と、さらに向こうにある小さな山が見えた。
 裏木戸を開ければうねうねとした道が山の方へと伸びており、暫く歩くうちにそれが傾斜へと変わっていった。
 斜面が急な箇所は土を踏み固めた階段になっていて、ところどころに木の手摺りもついている。

 見上げれば常葉樹が枝を張り、その絡まる枝の間から青い空が見えた。
 珀弧の歩く速度はゆっくりで、凍華が時折咲く野の花に足を止めれば、花の名を教えてくれた。そうやって歩いていると、道に石が交じり足場が悪くなってくる。

 裾を汚さないようにと気を使って歩いていた凍華の前に手が差し出された。どういう意味かと、その手をじっと見返していると。

「掴まれ、ということだ。ここからさらに歩きにくくなる」

 呆れ口調で言われ、とんでもないと首を振れば、さらにため息を吐かれ強引に手を握られた。

「この辺りでは山菜が良くとれる。春になれば凛子が来ているはずだ」
「秋には木の実やきのこも採れそうですね」
「ああ、だが一番とれるのは薬草だ」

 花もそうだが、生い茂る草も木も凍華の知っているものと少し違う。
 茎の太さだとか、葉の色とか微妙な差なのだが、その違いがやはりここが幽り世なのだと凍華に思わせた。

(私はどこで暮らせばよいのだろう)

 自分の手を引いてくれる大きな手を見ながら考える。
 人間でも妖でもない中途半端な存在の自分は、どこにいてもしっくりこないのではないかと不安が胸にこみ上げてくる。

 それと同時に感じるのは繋がれる手の暖かさ。

(こうして手を引いてもらい歩くのは、子供の時以来ね)

 朧げな記憶の端に父親の大きな手が浮かぶけれど、暖かさも強さも思い出せない。

 長年、凍華を助ける者は誰もいなかった。
 夏の暑さに倒れても、過労でふらふらになっても、お腹を空かせても、手をあかぎれだらけにしても、凍華を気にかける人はいなかった。それどころか罵倒され、休むことを許されなかった。
 人として扱われてこなかった十年は、凍華の心を閉ざし痛みと悲しみに愚鈍にさせた。
 だけれど、幽り世に来てからは、気遣われ心配され、こうやって手も引いてもらえる。

(皮肉なものね。真っ当な人間でなく、妖の血が交じると知って初めて人として扱われるなんて)

 珀弧が何も話さず黙々と歩くものだから、そんな余計なことばかりが頭に浮かんでくる。これではいけないと凍華は頭を振り、前を歩く背中に着いていくことだけに意識を集中させた。そうしないと、視界が涙で歪みそうだったから。

 頂上に近付くにつれ傾斜は益々急になり、木の根が地面に張り出しさらに歩きにくくなった。珀弧が時折振り返り大丈夫かと聞いてくれるたびに、心が温かくなる。
 頭上に繁る木々の葉が空をすっかり隠してしまい、道は少し薄暗い。
 湿った土に着物が汚れないよう気をつけながら歩いていくと、突然、木々が開け明るくなった。

「……うわっ。綺麗」
 山の頂はなだらかな原っぱになっていて、眼下には妖の里が広がっていた。
 思わず珀弧の手を離し、小走りで際まで走り眺める。
 大小様々な屋敷が並び、その間に小さな畑や畦道が見えた。流れる川を目で辿れば、ずっと向こうには建物が密集した場所があり、二階、三階建ての屋敷もある。

「もっと自然が多いところかと思っていました。なんと言いますか、こう……」
「人の里と変わらないか?」

 その感想が失礼なことなのか分からず曖昧に頷けば、珀弧は袂に手を入れ組んだまま口の端だけ上げふっ、と小さな声を出した。

「見た目はそうかも知れないな。この妖の里は、ざっくりといえば妖の類いによって住む場所がある程度決まっている。この山の麓には地を駆ける妖、あの建物が密集しているところには空を飛ぶ妖、川上には水にまつわる妖が住んでいる」
「珀弧様は地の妖を纏めていらっしゃるのですか」
「そうだ。昔は狼が治めていたが、彼らは血が途絶えた。空は烏、水は竜が治めている」
「では人魚はあの川上にいるのですね」

 凍華が右手で川上を指差すと、珀弧は少し戸惑うそぶりをみせたあと首を振った。

「狼と一緒で、人魚もその血を途絶えたと聞いていた。水の妖を纏めるものはもうおらず、妖同士が細々と肩を寄せ合い過ごしているらしい」
「血が途絶えた……」

 その言葉の重みが凍華の肩にずしりとのしかかる。
 半妖というだけでも稀有な存在なのに、片方の血である人魚はもういないのだ。

「寂しいか?」
「……はい。根なし草のようになった気分です」
「俺も最後の妖狐だ。俺が死ねば地の妖を纏めるものもいなくなるだろう」

 凍華は、目を見開き珀弧を見上げる。
 じっと見つめるその先にあるのは、珀弧が守る妖が住む土地だ。

(凛子さんが私を花嫁と勘違いしたのは、珀弧様に妖狐の血を繋いで欲しいと思っていたからなのね)

 腑に落ちるとともに、少し寂しくなった。
 それなら、自分でなくても誰でも良かったのではないだろうかと、ひねくれた考えが浮かび、凍華は頭を振る。

(助けていただきお世話になっているのに、私はいつのまに図々しいことを考えるようになったのだろう)

 凍華の頬に直接風が当たる。
 真上を向けば、冬の弱い日差しが顔を照らした。
 肌寒いけれど、微かに暖かさを感じる。

「太陽の下に素顔をさらすのは、気持ち良いよいものですね」

 目を細め珀弧を見上げれば、微かに琥珀色の瞳が揺れた。
 どうしたのだろうかとじっと見つめれば、眉が寄せられ、そして視線を逸らされた。

「顔を隠すように言われていたのだったな」
「はい。私の目はみっともないですから」
「俺は、美しいと思う」

 その言葉に、凍華ははっと息を飲んだ。汚らわしい、忌み子だと苛まれ続けた目を美しいと言われ、ただただ混乱してしまう。

「……家族からは気味悪がられていましたから」
「あやつらは家族ではない」

 ピシャっと言い切るその口調の強さに、反射的に身を竦めれば、珀弧は困ったように首を振った。

「凍華に怒っているわけではない。俺はお前と一緒に住んでいたあの人間に腹を立てているのだ。凍華は、俺が少し口調を強めただけで、身を竦める。それは、なにかにつけ殴られてきたからなのだろう。だが、俺は凍華を決して殴らない。信じて欲しい」
「信じています! 珀弧様はお優しいです。ロンとコウも、凛子さんも。私に人間の血が流れていても、みんな親切にしてくれます」

 身を竦めてしまうのは、それはもう身体に染み付いた癖で、珀弧が殴るなんて考えたこともない。凍華は誤解させてしまったのかと、ふるふる頭を振れば、宥めるように珀弧が優しく背中を撫でた。

「人間は自分達と違う存在を排除したがる。分からないのが恐ろしいのだろう。妖は「妖」と一括りに言われるが、実態は様々だ。姿、声、能力何もかも違う。だからそのものの本質を見る。見て、己に害をなすかを考えるんだ。凛子達に受け入れられたなら、それは凍華が人間や妖だからという理由ではない」
「……そ、それじゃ」
「皆が優しいというなら、凍華が皆に優しいからだ。主人の俺よりよっぽど好かれている」
「そんなこと……」

 ない、と言いたかったのに言葉が詰まり、変わりに視界が揺らいだ。
 次の瞬間には涙がポロポロと頬を伝う。
 急いで手の甲で拭うも、止まってくれない。
 涙を流したのは何年ぶりだろうか。
 叔母の家に貰われたときはいつも泣いていた。
 悲しくて、辛くて、寂しくて。
 でも、その度に五月蝿いと殴られ、次第に泣くことを忘れた。

「……そんなこと、誰も……」
「誰も言ってくれなかったか?」

 こくこくと頷けば、地面に次々小さなシミができる。
 たまらず顔を覆い肩を震わせれば、背中に大きな手が回された。そのまま、まるで壊れ物でも扱うようにそっと抱きしめられる。

「好きなだけ泣けばいい」

 甘い低音が耳元で響き、背中に当てられた手が幼子をあやすようにポンポンと優しく叩かれる。
 珀弧からは若草の匂いがした。

 こんな風に優しく触れられ、温もりに安堵したのは遠い記憶の中でだけだ。
 凍華の涙は益々止まらず、いつのまにか珀弧にしがみつくように泣き始めた。
 子供のように声を出し泣けば、腕の力が強まりぎゅっと抱きしめられる。
 出会って間もない男性の腕の中ではしたない、みっともないと思われないだろうかと頭の片隅で考えるも、腕から伝わる暖かさが、そんなことはないと否定しているようで、凍華は珀弧の着物をさらにぎゅっと握りしめた。

 どれぐらいそうしていたのだろうか。
 ぐずっと鼻を鳴らし離れたときには既に山裾に日は沈みかけていた。
 
「すみません。もう日が暮れてしまいます。珀弧様、裏山にご用があるのですよね」
「一つはもう済んだ。お前を外に連れ出し、この景色を見せたかったのだ」
「そう、だったのですか」

 この景色を、珀弧が守る景色を見せたいと思ってくれたことが嬉しかった。
 そこに特別な思いなどないだろうが、それでも、凍華の胸は暖かく、鼓動が早くなる。

「あともうひとつはこっちだ。足元がさらに悪くなる、手を貸そう」

 差し出されたのは、先ほどまで凍華を抱きしめてくれていた大きな手。
 そっと重ねれば、強く握り返された。

 珀弧は木々の茂みに分け入っていく。凍華が着いて来やすいように、草履で草を踏みつけながら進むその先にあったのは、湧き水だった。
 
 岩場からちょろちょろと細い清水が流れ落ち、足もとに小さな泉ができていた。それは細い流れとなって森へと続いている。
 凍華は泉の周りに咲いている花を見てはっと息を飲んだ。
 銀色に輝く五枚の花弁の小さな花は、雨香に頼まれ山に取りに行ったものとそっくりだった。
 この山に、現し世と似た花はあっても同じものはない。不思議に思い手を伸ばすと、凍華より先に珀弧が花を手折った。

「この花を知っているのか?」
「はい。楠が持つ山に咲いておりました」
「山? 楠の屋敷から山までだと随分距離があるだろう」

 どうして珀弧が楠の家の場所を知っているのだろうと、凍華は不思議に思いつつも、雨香に頼まれ花を取りに行っていたことを話した。
 
「取りに行く理由は分かったが、この花の意味は知っているか?」
「花の意味、ですか? 祖父が亡くなったのは、私が三歳の頃で、父は屋敷と土地を妹である叔母に譲り、工場経営もすべて任せたそうです。でも、その山の頂にある湖の周りに花を植えることだけは望んだと聞いています」

 花の意味については聞いていないが、父が生きている頃はその花が絶えず家にあったのを覚えている。
 一度、父親が鉢植えで育てようとしたことがあったが、すぐに枯れてしまった。
 どうやら、あの場所でしか花を咲かせられないようで、そのうち乾燥させたものを匂い袋に入れて持つよう言われた。

 叔母達と暮らすようになったある日、凍華にとっては父の形見のようなその匂い袋を雨香に見つかり、気に入って奪われてしまう。
 雨香は匂いが薄まれば新しく作るように命じるとともに、同じものを凍華が持つことを許さなかった。

 かいつまみつつ話をすれば、珀弧はしゃがみこみ花を見ながら暫く考えこんだ。
 やがて、さらに数本手折ると立ち上がり、それを凍華に手渡した。

「これは『惑わし避けの花』だ。人魚の……力を抑える作用があると言われている」

 珍しく言い淀む珀弧から、凍華は花を受け取る。
 現し世で摘んだときと同じように甘く濃厚な香りが鼻孔をくすぐった。

「これを匂い袋に入れて、お守りだと思い肌身離さず持っていて欲しい。布が必要なら凛子に言えばよい」
「はい」

 父親と同じことをいう珀弧に引っ掛かるものを感じつつも、凍華は頷く。
『惑わし避け』の意味は分からないが、この花が凍華にとって大事なものだということは理解できた。

 では帰るか、と言うときになって、水の辺りに生い茂る木々の中に、見知ったものとよく似た木があることに凍華は気がついた。

「あの木、桑の木に似ています」
「桑?」
「はい。蚕が食べ糸を作るのです。見に行ってもいいでしょうか」
「もちろん。凍華の気が済むまで見れば良い」

 珀弧に礼を言い、桑の木もどきに近寄れば、幹や枝に針のような棘があるところまで一緒だった。強いて言えば、その棘が現し世より長く鋭い。

「隠り世にも蚕はいるのですか?」
「似たようなものはいる。しかし、妖は人ほど器用ではないので糸は紡がぬ」
「では、着物はどこで手に入れるのですか?」
「人間の里だ。人が知らないだけで、俺達は人間の里と妖の里を頻繁に行き来している」
「そんなことをして妖狩りに捕まらないのですか?」

 突然襲ってきた軍人達を思い出し、背筋がゾッとする。彼らに見つかったら命が危ないのではないだろうか。

「むろん掴まるヤツはおり、俺の手が届く範囲で助けてはいる。しかし、妖とて無防備で人間の里にはいかぬ。その木の葉には妙な力があって、その葉を煎じて飲めば、短い時間の間だが妖力を隠すことができるのだ。ただ、不味いがな」

 普通の人間に、妖かどうかを見抜くことは不可能。
 気を付けなくてはいけないのは、妖狩りだけだ。
 妖を見抜く先天的な能力と、厳しい訓練に耐えた者だけが妖狩りとなれる。とはいえ、妖狩りの中にも能力の差はあり、煎じたものを飲んでも手練れを誤魔化すのは難しい。
 
「問題は、正臣ほどの手練れとなると、どんな妖でも見抜かれてしまうことだ」
「では、現し世にいる妖は、常に危険と隣り合わせということですか」
「そこまで深刻な話ではない。そもそも、妖狩りは三十人ほど。出会うほうが稀だ」
(それでも危険には変わりない。何か私にできることはないかしら)

 はっとした表情で凍華はもう一度桑の木もどきを見る。

(……ある! 私にできることを見つけた!)

「珀弧様! お願いがございます」
「……なんだ、言ってみろ」

 珀弧の唇が優しく弧を描く。
 凍華自身は必死で気がついていないが、それは十年ぶりに彼女自身が何かを望んだ瞬間だった。



 四日後。
 凍華は、ロンとコウが珀弧に命じられ持ってきた木箱の中身を見て、かたりと固まってしまった。

(これはいったい何?)

 凍華が思いついたのは糸を紡ぐこと。養蚕を営んでいた叔父のもとで育ち、生糸の作り方は知っていた。だから、蚕と箱を用意してもらったのだが、何かが違う。

 凍華の知っている蚕より数倍大きなそれは、両の手のひらからはみ出すほどだ。口からは鋭い牙が生えているようだが、見なかったことにしたい。
 それでいて目はまんまるでつぶらなのだから、可愛いのか恐ろしいのか分からない。

「……これ」
「珀弧様、用意した」
「珀弧様、凍華に甘い」

 二人がかりで持つその箱は、高さこそないけれど、正方形で一辺は三尺ほど。ちょうど、ロンとコウの背丈と同じぐらいだ。
 でも、その中にいる蚕もどきが六寸以上あるので、決して大きすぎることはない。
 蚕もどきの本来の名前は珀弧から教えてもらったが、長すぎて覚えるのは諦めた。
 そんな蚕もどきが十五匹も箱の中で蠢いている。

 凍華が寝ている部屋の隣に、襖続きとなる部屋がもうひとつあり、そこに木箱は置かれた。
 家具ひとつない部屋の真ん中にある木箱の周りをロン、コウ、凍華が囲む。

 間近で見るのは初めてだというロンが、庭から木の枝を持って来てつん、と突けば蚕が牙をむいた。凍華の喉から「ひっ」と声が出る。

「ロン、そんなことしたら可哀想よ」
「こいつ噛みつこうとした」
「こっちは火を吹いた」
「えっ」

 コウの持つ枝の先が少し焦げている。

(……珀弧様は一体何を用意してくださったのかしら)

 この隣の部屋で寝るのかと思えば、養蚕工場を営む叔父のもとで暮らしていた凍華でさえ少々気持ちが悪い。

 ワタワタ騒ぐロンとコウを宥めていると、凛子が桑の葉もどきを抱えてやってきた。どうやら裏山まで取りにいっていたようで、少し息をきらし額には汗を掻いている。

「ロン、コウ、退きなさい」
「「はい!」」

 ピシッと右手と左手を挙げてさっと道を開ける二人。
 凍華の前ではふざけることも多いが、凛子のことは怖いのか、お行儀よく正座までしている。
 そんな二人に構うことなく、凛子はばさりと葉を入れる。木箱の真ん中にもりっと葉が積み重なった。

「よし、これでいいわ」

 腰に手を当てる凛子に苦笑いをし、凍華はロンから枝を受け取る。

「これでは蚕もどきが埋もれてしまいます。平らにならしたほうがきっと食べやすいと思います」
「そうですか。あっ、気を付けてください。小さい割にコレ、獰猛ですよ」
「……はい」

 凍華の顔が強張る。襖はきちんと閉めて眠ろうと思った。
 怖くても、枝で蚕もどきを傷つけないよう、丁寧に葉を平らにしていく。その作業をしているはしから蚕もどきが頭を葉に突っ込みもしゃもしゃと食べ始めた。この様子なら葉に埋もれても自力でなんとかしそうだ。


「あの、これ、箱から逃げませんか?」
「羽がないから大丈夫ですよ。でも心配でしたら、もう少し箱を高くしましょうか?」

 そう言うとともに、箱の縁がどんどん上に伸びていく。それぐらいで充分、と思う所で伸びは止まり、初めの高さの倍ほどになった。

「これでいいかしら」
「はい、ありがとうございます。……あれ、もう繭を作ろうとしている?」

 驚く凍華の先で、蚕もどきがもう繭玉を作り始めた。
 この調子なら、今夜にでも糸を紡げそうだが、凍華の知っている蚕とはやはり似て非なるものだ。

(繭から糸を作る糸軸は午後に珀弧様が持ってきてくれるそうだから、明日には蚕の糸を使って組紐をつくれるわ)

 桑の葉もどきに妖の力を隠す作用があるというのなら、それを食べた蚕もどきから出た糸にも同じ力があるのではと考え、それで組紐を作ることを思いついた。
 もし効果がなくても、組紐ならなにかと使いようもあるだろう。

 何もせずにお世話になるだけなのは、ずっと働いていた凍華にとって居心地の良いものではなかった。何度も料理や洗濯をしたいと申し出ても、やんわりと断られてしまう。
 それが、凍華を思う優しさから来るのを分かっているので、強くいうこともできず悶々としていたところだった。

(よし、頑張ろう)

 楠の家では感じることができなかった力が腹のそこから湧き上がってくる。
 いきいきとした目で蚕もどきをみる凍華を、凛子は嬉しそうに見守った。

 三日後には組紐は五本出来上がった。
 蚕の糸だけでなく屋敷にあった糸も使ったのだが、糸の色が限られていたので、緑と赤を織り交ぜた組紐が二本と、紫色、青色がそれぞれ一本ずつだ。それぞれに、染めていない蚕もどきの糸も一緒に編みこまれている。

 編むときから傍を離れなかったロンとコウが我先にと選んだのが緑色と赤色を織り交ぜた組紐だった。
 結んで結んでと万歳するので、兵児帯の上から巻いてやると、喜び勇んでどこかに走り去っていった。
 それを見届け凍華が台所へ向かえば、ちょうど、昼食の片づけが終わった凛子が木箱を竈の前に置き残り火で暖を取っているところだった。
 凍華と違い凛子は寒いのが苦手のようで、竈や火鉢の前で丸くなっている姿を幾度か見たことがある。

「凛子さん」
「はい、何か御用でございますか」
「いえ、そうではなく……」

 子供に渡すのと違い、大人に自分が作ったものを手渡すのは躊躇してしまう。

(こんなもの手渡されても迷惑かも知れない)

 やっぱりやめておこうかと思うも、にこにこ微笑みながら凍華が話すのを待っている凛子を見ればそうもいかず、思い切って懐に手を入れ二本の組紐を見せれば、凛子は「まぁ」と目を丸くした。

「いつもお世話になっているお礼につくりました。蚕もどきが出す糸を混ぜましたから、もしかして妖狩り避けになるかもしれません」
「嬉しいわ。私なんかが貰ってもいいのかしら」
「ご迷惑でないなら是非、受け取っていただけると……嬉しいです」

 語尾が小さくうつむきがちになる姿に、凛子は小さく微笑み「では」と紫色の組紐を手にした。それを手際よくに帯に巻きぎゅっと締めると、もともとしていた組紐を解く。

「今日の帯は深緑ですので、組紐が良く映えるますわ。いかがでしょうか」
「はい、とても似合っていらっしゃいます」

 ふふ、と嬉しそうにしながら凛子は残りの組紐を見る。

「それで、これはどうなさるおつもりでしょうか」
「どうしましょう。あまり考えずに作ってしまったので、凛子さん、もう一本もいかがですか」
「あらあら、だそうですよ。珀弧様」

 凛子の視線を追うように振り返れば、珀弧がむすっとした顔で立っていた。
 その足元にはロンとコウがいて、あわわ、と口に手を当て凍華を見上げる。

「ほう、この屋敷の主人は俺なんだが」

 初めて見る目の据わった珀弧に、凍華の顔が青ざめた。
 何を怒っているのか分からないが、その原因が自分であることは肌で感じる。

「あ、あの……」

 私、何かしましたか、と言いたいのに言葉が出ない。そんな凍華を庇うように凛子が間に入った。

「大丈夫よ、凍華さん。珀弧様は自分だけもらえないことに拗ねているだけだから」
「拗ねている?」

 たかが組紐。ましてや、凛子のように帯留に使うこともないのに必要だろうか。
 もし妖の力を隠す作用があったとしても、珀弧ほどの妖なら不要に思える。

「そういうわけではない」
「ではどういうわけでしょう」

 ふふふと笑いながら凛子はロンとコウを連れ庭掃除に行ってしまう。
 残された凍華は残った組紐をそろそろと珀弧に差し出した。

「……うまく作れておりませんし、そもそも珀弧様の役に立つ代物ではありませんが、よろしければ」
「……あぁ、ありがとう」
「……」

 沈黙が重く気まずい。どうしようかと思いつつ凍華は珀弧を見る。
 家で寛ぐときは着物、時折出かけるときは洋装か羽織袴。色は黒が多く、銀色の髪が良く映える。

「羽織紐でしたらお作りできると思います」

 唐突な申し出に珀弧は目を丸くするも、すぐにその意図を読み取ったかのように笑った。

「いや、それならこれと同じものをもう一つ頼む」
「同じもの、ですか。分かりました」

 そういうと、珀弧は結んでいた髪を解き、凍華の作った組紐で髪を纏めた。
 銀色の髪に青い組紐が映え、さらに美しさが増したように思う。
 凍華があまりにじっと見つめていたからだろうか、珀弧が決まり悪そうに目線をそらした。

「おかしいか?」
「いえ、そうではありません。その……髪が綺麗で羨ましいなと。ほら、私のかみはくせ毛で細くて、くしゃくしゃですから」

 へへへ、と空笑いをする凍華に、珀弧は一歩距離を詰めると、身を屈め凍華を覗き込んだ。間近に迫る琥珀色の瞳に心臓がドクンと跳ねる。
 珀弧の手が伸び、凍華の髪を一束掬うと、その手触りを確かめるように親指ですっと撫でた。

「以前にも言ったが、俺はこの髪は綺麗だと思う。ふわふわして鳥の羽のようでつい触りたくなって……」

 そこで言葉が途切れ、手がぱっと離れた。

(えっ……触りたい!?)

 突然の言葉に凍華は頬がかぁっと熱くなる。
 顔どころか首まで真っ赤で湯気が立ち上りそうだ。
 棒立ちになりつつも、目だけ動かし珀弧を見れば、こちらは手で顔を隠し横を向いていた。

「あ、あの……」
「すまない。忘れてくれ」

 動じることのない珀弧が珍しく目を彷徨わせ、こほんと咳ばらいをする。
 二人揃って赤くなっていると、何やら勝手口の方から気配がした。見れば、凛子が目だけ戸口から見せているではないか。

「珀弧さまぁ、新しく組紐を作るにも糸がございません。凍華さんと一緒に買いに行かれてはどうですか? ふふふ」

 いつもと違う含みのある言い方に珀弧が眉根をよせれば、倫子はわざとらしく箒を見せ立ち去って行った。

「糸がないというのは本当か?」
「はい。いただいたものは全部使ってしまいました」
「そうか、それなら近々、帝都に行く用事があるので一緒に行こう。妖狩りに会っても俺がいれば大丈夫だ」

 思いもよらぬ提案に凍華は驚き躊躇ったけれど、珀弧の髪に結ばれた組紐を見て、頷いた。

「それでしたら、もっと作って珀弧様が助けたという妖に配ることはできませんでしょうか」
「他の妖にか?」
「はい……お世話になっている身でやはり厚かましいでしょうか」

 糸を買うお金を出してくれるのは珀弧だ。そう思うと、大変図々しいことを言ってしまった。慌てて謝ろうとすると、珀弧の大きな手が凍華の頭をポンポンと撫でる。

「短期間で随分前向きになったな。やはり、お前の本来の魂は強いのだろう。糸ぐらい何本でも買えば良い。もし妖狩りをそれで避けられる可能性があるならなおさらだ」
「ありがとうございます!」

 硬かったつぼみがぱっと咲いたようなその笑顔に、珀弧が息を飲む。
 頭を下げ目を伏せていた十日前とは違う、内側から輝くような笑みは人を惹きつける妙な妖しさも含んでいた。
 人魚が男を惑わすと知っていても視線を離すことができないその魅力に、珀弧は一抹の不安を覚えた。

 三週間後
「いったい何をしているんだい!」

 夕食前の楠の家に幸枝の怒鳴り声が響き渡った。目の前には身を小さくした四十歳ほどの使用人が、深く頭を下げていた。

「どうしてまだ食事の準備ができていないんだ」
「申し訳ありません」

 場所は台所の竈の前。ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする中、その上に乗せた鍋の中には入れられたばかりの野菜が煮られていた。
 この様子なら、食事にありつけるまであと半刻はかかりそうだ。

「掃除だって手抜きばかりで、廊下に埃が積もっていた。さぼっているなら暇をだすからね」

 ふんと鼻息荒く言い捨てると、土間から上がり居間へと向かう。  
 凍華がいるときはこんなことはなかった。食事の品数はいつも五品あり、屋敷は隅々まで掃除されていたのに、三週間でこのあり様だと怒りは治まらない。 

 幸枝はこの屋敷で生まれ育っている。跡取りである兄とは随分差のある扱いだったが、それでも使用人達に囲まれれ、何ひとつ不自由をしたことがない。
 ただ、兄より食事の品数が少なかったり、風呂が後だったり、女は勉強より花嫁修行をしろと言われ、跡取りを贔屓する両親に対し複雑な想いを抱いてはいた。

 だから、そんな兄が軍に入り寮暮らしとなったときは喜んだ。五つ上の兄は優しく虐められた記憶はないが、劣等感と妬みはずっと胸の内に持っていた。
 
 しかし、兄が家を離れても、話題の中心が兄であることに変わりはなく、軍で重要な任務に着いたと聞いたときは大層派手に祝ったものだ。
 そんな兄が突然怪我をして第一線を離れた。それだけでなく、生まれたばかりの赤子を連れて帰ってきたのだ。

「母親は死んだ。俺が育てる。楠の家は幸枝が継げばよい」

 そんなことを一方的に告げ出て行こうとする兄を、父は追いかけ捕まえ、殴り飛ばした。馬乗りになって顔が腫れるまで殴り、最後に赤子に手をかけたとき、されるがままになっていた兄は飛び起き赤子を抱きしめた。
 
 霧雨の中、足早に立ち去る軍服の後姿が、幸枝が最後に見た兄の姿だった。

 幸枝が居間の手前まで来たとき、躊躇いがちに呼び止める声がした。
 振り返れば、洗濯ものを抱えた別の使用人が頭を下げている。

「今度はいったいどうしたというんだい」
「はい。それが……最近井戸水に泥が交じるようになりまして、洗濯ものがこの有様なのです」

 使用人が手にしていた白い長襦袢は、薄っすらと茶色の染みができていた。

「泥が交じるだって。それじゃ、飲み水や食事はどうしているんだい」
「甕に入れておけば泥は沈みますので、上澄みを使っております」
「最近、料理の味が落ちたと思ったけれど、原因はそれだったんだね」

 使用人は何も言わず、視線だけを彷徨わせた。
 幸枝は凍華と使用人で食事の準備をしていると思っているけれど、使用人はいつも凍華に仕事を押し付けていた。
 主人から虐げられているのだからばれないと、料理だけでなく、掃除、洗濯と家事のほとんどを凍華が担っていたのだ。ゆえに、料理の味が落ちるのも、掃除が行き届かなくなるのも至極当然だった。

「そういえば、父が生きていたころも同じことがあったわね」

 井戸の水が急に濁り始めたのだ。水脈が変わることは決して珍しいことではなく、今まで潤沢に水が湧いていた井戸が翌年に枯れることもある。
 新しく井戸を掘ろうかと考えていた矢先に先代が病でこの世を去り、兄が死んで凍華がやってきた。
 すると不思議なことに井戸水がまた澄んで潤いだしたのだ。
 だからそのままにしておいたのだけれど。

「やっぱり新しい井戸を掘らなきゃだめかしらね」

 面倒だわ、と思いながら襖を開けて入った居間では、夫である京吉(きょうきち)が難しい顔で帳面を睨んでいた。幸枝の顔を見ると「夕食はまだか」と聞いてくる。

「あと半刻はかかりそうです」
「このところ、使用人は怠けていないか。凍華ひとりいなくなったところでこの有様はおかしいだろう」
「ええ、今度、強く言い聞かせませんと。あなたからも言ってください」

 おかしいのは料理の味や井戸水だけでない。
 戸棚に置いていた客用の菓子がなくなったり、焼いていた魚が一尾消えていたり、小さな泥の足跡が廊下に点々と残されていたり。

「誰もいないはずなのに視線を感じたり、閉めたはずの扉が開いていたりするんです。この前なんて、私がちょっと躓いたら、子供の笑い声がしました。この家、何か取りついているんじゃないのでしょうか」
「全て気のせいだろう。問題があるとしたら、この前追い出した疫病神のほうだ」

 京吉はちゃぶ台の下においてあったキセルを取り出すと火をつけ紫煙を燻らせた。
 眉間には深い皺が刻まれている。

「お父様、凍華はまだ見つからないのですか?」

 襖を開け入ってきた雨香が父の隣に座す。
 手に持っているのは尋常学校の宿題だ。分からないところがあるので聞きにきたのだが、どうもそんな雰囲気ではないと背中にそれを隠した。 

 尋常学校は六歳から十六歳までの子供が通う。
 青巒女学校への入学は、尋常学校の成績と推薦ですでに決まっている。今までは宿題を凍華にさせ良い成績をおさめていたけれど、いなくなった今、全て自分でしなくてはいけない。

「お前は何も心配しなくてもいい」
「ですが……お金を来週末までに用意しなくてはいけないのですよね」
「何、遊郭街から出た形跡はないらしいからすぐに見つかる」

 そう言いつつも、京吉はせわしく紫煙を吐く。苛立っているのは目に見えて明らかだ。

 凍華がいなくなったと聞いたのは、凍華を売りに出した翌日。遊郭街は高い塀とふたつの門で仕切られており、門には見張りが常時二名立っている。
 見張りの目をかいくぐり外に出るのは不可能だし、塀をよじ登ることはできない。
 まれに、顔見知りに頼んで荷車に紛れ逃げようとする遊女もいるが、大半は門を出る前に見つかるし、そもそも売られたばかりの凍華にそんな伝手はない。
 軍人に追われたという話も聞いているが、それこそ意味が分からない。
 ただ、女衒からは遊郭街に隠れていることは間違いないと聞いていた。
 それならすぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、三週間経った今日もまだ見つけたという報告はない。

「少し出かけてくる」
「こんな時間にですか?」
「夕食は外で食べる。それから、さっきお前が言っていた開いた襖や魚の話は、野良猫が入り込んだのだろう。戸締りをしっかりしておけ」

 キセルの灰をトンと灰皿に落とすと、京吉は立ち上がり羽織の上からさらに外套を着て襟巻をした。

 家を出ると、帝都へ向かう道を歩いていく。
 冬の夕暮れは早く辺りはもうすっかり闇に沈んでいる。手に持った提灯が照らす灯だけが頼りだが、歩きなれた道ゆえ不自由はない。
 
 こんな時間から帝都へ向かおうというわけではない。屋敷と帝都の中間ほどにある料亭は京吉のいきつけでもあり、賭博場でもある。
 
「幸枝には凍華を売った金が入らなくても、新事業に回す金を入学金に廻せばよいと言ったが、そんな金はもうない。女衒も廓の人間も、女一人見つけられぬなど何をやっているんだ。いや、もっとも腹立たしいのは凍華だ。気味の悪いあいつをあそこまで育ててやったのに、なんという恩知らずだ」

 ぶつぶつと呟く声が風でかき消される。
 京吉が婿養子に入ったことで、確かに楠の家は豊かになった。
 しかしそれは、代々商家の次男坊だった京吉の実家が持っていた伝手を使って販路が増えただけで、京吉の手柄ではない。
 しかし、それを自分の才能だと勘違いした京吉は、やがて新規事業を始めるもそれはすぐに失敗に終わった。その損失を取り返そうと躍起になるあまり、今度は先物取引にも手を出しさらに損失を大きくするありさま。

 なんとか金を増やさねばと、最近では賭博まで始めた。楠の家は一見豊かに見えるが内情は火の車で、とてもではないが雨香の入学金まで用意できない。

「今夜はなんとしても勝たなければな」

 そう呟き入った料亭の賭博場で、京吉は初めてその女に出会った。
 猫のように目じりの上がった丸い目は、人とは思えない怪しい色香を含んでおり、京吉は女と視線が合った瞬間、ごくり、と生唾を飲み込んだ。

「初めまして。凛と申します」
「……京吉だ。珍しいな、こんなところに女が一人でくるなんて」
「ふふ、おかしいですか?」
「いや、そんなことはない」

 でっぷりとした腹をさすりながら京吉は凛の横に腰をおろした。
 見ればあと二人、やけに若い双子の男も増えていたが、京吉は彼らをちらりと見ただけで、すぐに興味を凛へと戻す。

 その夜、珍しく京吉は勝ちが続いた。もちろん雨香の入学に必要な金には足りないが、それでも久々に良い酒が飲めると、浮かれていた。

「京吉さん、賽子(さいころ)にお強いのですね」
「まあな。あんたはとんとん、といったところか」
「いいえ、負けですわ。ところで、もっと良い賭博場があるのですが今度ご一緒しません」
「良い賭博場?」
「ええ、掛け金が大きいので、戻ってくるお金も大きいんですよ。もちろん負けた時はそれだけ痛手も大きいですが、京吉さんなら大丈夫でしょう」

 甘えるように腕に手を賭けられ、京吉はでれりと鼻の下を伸ばした。

「どこにあるんだ、その賭博場ってのは」
「明後日、ここで待っているので一緒に行きましょう」
「ああ、約束する」

 にんまりと笑うその顔には、はっきりと下心が現れている。 
 その顔を見ながら、袖で口元を隠しながら口角を上げる凛の後ろで、小さな子供の笑い声が聞こえた。