三月に入ると、学さんの就職活動や卒業準備で、私たちが夜中に会う日は減った。
それでもメッセージでやり取りを交わすのが当たり前のようになっていて、私は学さんがいなかった頃のことを思い出せないくらいになっていた。
夜はそれなりにぐっすり寝られるし、相変わらず学校では透明人間扱いされて時々美弥たちに心無い言葉を浴びせられたりもしたけど、学さんとの会話を思い出したり、保護猫カフェにいるブチのことを思い出しながら平常心を保つことができた。
それからしばらく経って、夜の寒さもほんの少し和らいで来た頃。
塾から家に帰ってきたタイミングで、学さんからメッセージが来た。
『透子ちゃんこんばんは。最近会えてないけど、調子どう?』
よく言えば他愛のない、悪く言えば中身がない、そんなやりとりをすることもずいぶん増えたけど、学さんが曖昧なニュアンスでメッセージを送ってくるのは珍しいことだった。
『こんばんは。今ってちょうど学校にいる時間ですか? 調子はフツウです』
よくわからないまま、今思った本心を告げると、ほぼリアルタイムでポコンと返事がきた。
『死にたいとか、そういう衝動は、最近はなさそう?』
ドキリとした。
あまりに向こうが自然に振る舞ってくるから、忘れかけていた。
私たちが、ウソの恋人だってこと。
元はと言えば、私が橋から飛び降りようとしたのを止めるため──誰でもいいから助けてほしい、愛してほしいってとっさに叫んだから、学さんに『好きだ』と言ってもらえただけだ。
私を本当に彼女として好きなんじゃなくて、学さんの過去からくる使命感がそうさせるんだ。
私が死にたいって衝動が収まった時、この関係は終わりを告げる。
「ウソでも死にたいって言い続けたら、学さんはずっと私を気にかけてくれるのかな……」
……だめだ。
それだけは、やっちゃだめ。
だって、学さんのご両親は生きたくて生きられなかった。学さんは決して私には見せないし、話そうとしないけど、それで苦労したことは間違いない。
まだ死にたいなんてずっと言い続けていたら、学さんを傷つけてしまう。
部屋に上がって、着替えて、机の前に座って深呼吸して、またメッセージに返事を打ち込む。
『もう、ずいぶん大丈夫です。ブチも見つかったし、学校も母親も何も変わっていないけど、あの時みたいな衝動はもう無いです』
送信してからしばらく、私はトーク画面を凝視していた。
だけど学さんから返信が来ると思ったら、いきなりスマホが震え出したので飛び上がった。
電話だ。学さんからだ。
慌てて端末を取って、通話開始ボタンを押す。
「…………も、もしもし?」
『あ、もしもし透子ちゃん? ごめん、急に』
「いえぜんぜん。大丈夫です」
実を言うと大丈夫じゃない。リビングにいるお母さんに聞かれたら、とんでもないことになるからだ。
電話を切りたくない。だけど、外に出る素振りを見せたら誰と通話しているのかと勘ぐられてしまう。できるだけ声を落とした。
「どうしたんですか?」
『ん。声が聞きたくなって。実は、今とは別の就職先が決まったんだ』
「え! おめでとうございます」
思わず声が大きくなってしまって、慌てて手で口を押さえた。
「な、何か、何かお祝いさせてください。大したもの用意できないと思うんですけど」
『ありがとう。でね透子ちゃん……』
学さんにしては珍しく、言葉の歯切れが悪い。私は息をひそめて相手の次の言葉を待った。
『次の春には別の場所に引っ越すんだ、僕』
「……え」
引っ越す? ……学さんが?
『高校を卒業するから、夜中にあの通学路を通ることも、もうない。いつも真夜中に会っていたけど、それもできなくなる』
「で、でも──」
でも、こうしてメッセージや通話は、できるんだよね……?
学さんは緊張しているのか、鼻をすする短い音が聞こえてくる。
『あの日ね、透子ちゃんがつらいと思っていたからとっさにウソでも好きだと言った。だけど、もう大丈夫なら、ウソの恋人を続けるのはよくないと思ってる。これから透子ちゃんがほんとに好きな人に出会った時、僕の存在が邪魔になるのはよくないと思う』
邪魔、だなんて。そんなこと思ってない。
『ウソの恋人、解消しようか』
「……」
スマホを握りしめた。
全部ウソだって言って。
すっかり今まで通りとはいかないけど、一ヶ月や半年に一度でもいいから、ちゃんと会えるよって言って。
「つまりそれって、もう会えないってこと? 学さんに?」
会えないと口に出してから、遅れて胸がぎゅっと苦しくなる。
死にたい、とは思わない。だけど、生きていけないかもしれない、と思った。
これって、人に寄り掛かる行為なんだろうか。
──透子、あんたは絶対にひとりで生きていかなきゃだめ。
お母さんが言っていた言葉に反する気持ちなのか。
「学さん、私の他に好きな人ができたん、ですか……?」
言ってしまってから、カッと頬が火照った。
まるで本物の恋人みたいなこと、言っちゃった。ぜったい引かれる。
学さんは優しいウソを貫き通していただけ。私のことを後輩とは思っていても、ほんとは恋人だなんて思ってなかったかもしれないのに。
今の私は、正直重い。
それこそ、新しい職場に行ったらもっと学さんにふさわしい好きな人ができるかもしれないのに、それを邪魔しちゃったら……。
学さんは、私のことがホントは負担になってたのに、ずっと黙ってたってこと?
──男なんてみんなバカでウソつきでロクでもないの。
「ち、ちがくて……そう、じゃなくて……」
『……透子ちゃん?』
頭が混乱して、金魚みたいに口だけがはくはくとして、続きの声が出てこない。
同時に、部屋の外でノックの音がした。
「っ……!」
肩が震える。とっさに通話終了ボタンを押すと、お母さんが断りなく部屋のドアを開け、顔を出した。
「ま、まだ『どうぞ』って言ってない……!」
「だって、夜ご飯できたのにいつまでも降りてこないんですもの」
お母さんは自分が悪いなんて微塵も思ってない顔でしれっと言う。
「誰かと電話してたの?」
「え? あ、うん。塾の先生から」
「そう。早く降りてらっしゃい。話したいこともあるから」
お母さんは言うだけ言って、さっさと扉を閉めた。足音が遠ざかっていくのを聞きながらスマホ端末に視線を下ろす。
こっちが通話を一方的に終わらせてしまったうえ、学さんから追加のメッセージもない。お詫びを入れようと思ったけど、お母さんをまたせているので、ご飯を食べてからにしようと思い直す。
リビングに向かうと、お母さんはいつもよりやけに機嫌が良さそうな顔で、料理が並べられているテーブル席に付いたところだった。恐る恐る向かいに腰掛ける。
「えっと、話ってなに?」
「あのね透子」
お母さんは、かしこまった表情で居住まいを正した。
「透子に新しいお父さんをお迎えすることにしたの」
「……え?」
お父、さん。
つまりそれって──。
「お母さん、再婚するってこと?」
──新しい男の人を迎えるってこと?
頭が真っ白になった。なのに目の前は真っ暗になって。俯いて視界に何も見えなくなった私に、お母さんの声だけが耳から脳に響いてくる。
「職場で会った人なんだけど、あ、前の男とはぜんぜん違うから、そこは安心しなさいね」
「……」
「だから透子も、年度が変わったときにでも会ってほしいのよ。……やだ、そんなに真っ白な顔しなくていいじゃない。まずは会うだけだから」
「だ、だって……」
かろうじて声を出せても、後が続かない。
お母さんが、再婚。それ自体はどうでもいい。別にもう子供じゃないし。誰が誰とどうなろうと私には知ったことじゃない。
だけど、お母さんは今まで私に『ひとりで生きていかなきゃだめって』あんなに言ってたじゃない。
──男なんてみんな、バカでウソつきで、ロクでもないの。
だから、私はその言葉に必死に従って、今日まで必死に生きてきた。
なのに、どうして今さら私に押し付けていたことを、覆そうとするの?
私が今まで、お母さんのせいで小学生の頃から苦労していたのは何だったの? 高校に上がっていじめられてまで守っていたお母さんの言いつけって、そんな簡単に覆るものなの?
なんとか言葉をつっかえさせて、自分の気持を吐き出した。
「それ、いつの話? お母さんがそんなこと言ったの、あなたが小学生の頃じゃない。最近はそんなこと言った覚えはないよ」
「え……」
信じられない気持ちで顔を上げると、お母さんは私に申し訳ない気持ちとか、こっちを傷つけて悪いなんて表情は何一つしないで、私を小馬鹿にするみたいに、鼻笑いする。
「なに? あなた、高校生にもなって親の言うことを一から十まで真に受けてたの? まったく、もう大人になるんだから、人の言うことは家族だろうとなんだろうと、自分が必要だと思った部分だけ受け止めて、後は聞き流すくらいのことはできるでしょ?」
ガッ、と音がして、背後で椅子が倒れる音がした。
私はいつの間にか立ち上がっていた。いきなりのことに、視線を上げたお母さんが驚いた顔をしているのを、どこか冷めた気持ちで私は眺めていた。
「なに、それ……」
私は、小学校の頃に言われたあんたの言葉を信じてきたんじゃない。
そうじゃなきゃ怒られるから。男子とちょっと話しただけで、それをいちいち論って、私を叱りつけてたじゃない。
たとえお母さんにとっては昔の話でも、その時に植え付けられた私の恐怖は消えない。
私にとっては、お母さんの呪いの言葉は『昔の話』じゃなくて、『今の話』なんだ。
「っ……お母さんなんか……」
これまで生きてきた中で感じたことのない熱が、頬にのぼってきた。
憎い。
私をここまで追い詰めて、最後には「真に受けるな」なんて達観したような口をきく母親が、憎い。
ありたけの力を喉に込める。
「あんたなんか──っ!」
──しんじゃえ!
そう、叫びかけて、頭に学さんの顔がちらついた。
「……っ」
言えない。
しんじゃえなんて、口が裂けても言えない。
その場から離れなきゃ、と本能が告げていた。お母さんに背を向けて床を蹴る。
「透子!」
リビングから廊下を通り抜けて、アパートから外へ飛び出す。
一瞬の怒りがピークを超えると、あとに残るのは、恐ろしい言葉を口に出そうとした自分への怖さと、悲しさだった。
なんてひどい言葉を吐き出そうとしたんだろうか。死んでしまえだなんて、あんな言葉は絶対に人に向けられない。
私自身、死のうとしたから。
それを学さんに命を救われたから。
相手に死ねって言うのは、彼の優しさに泥を塗る行為なんだ。
がむしゃらに道を走りながら、息を切らして立ち止まる。今になって急に汗がぶわりと溢れてきた。
「はぁ……っ、はぁ……」
膝を押さえて息を整える。鼻から川の臭いがして、いつの間にか橋の上まで来ていることに気づいた。
学さんと初めて会った場所。
「……会いたい」
無性に、彼に会いたい。
「会いたいよ……っ」
気づけばいつからか、学さんの事ばかり考えていた。会えないと淋しいな、って。
別れる時、ほんの少しちくりとした痛みを感じていた胸が、今は張り裂けるくらいに痛い。
今までは、その痛みがお母さんの言いつけに背いている罪悪感だと思い込んでいた。
でも、違う。
助けてくれた時に感じた、手の感触も。
買ってくれたヘアピンも。
好きだと言ってくれる眼差しや唇も。
全部が全部、学さんのことが、好きだからだ。
「うっ……うぁっ……」
私、好きなんだ、学さんのこと。
自分の気持ちの正体がわかって、涙が出た。
だって学さんは、ウソの恋人を解消したがっていた。今さら恋心に気づいても、私は学さんの本物の恋人にはなれない。
男が怖いとか、男なんてバカだとか、そんなものはただのレッテル貼りだ。
たしかに酷いことをする人間はたくさんいる。男も、女も。
でも、学さんを好きだという気持ちは、そんな陳腐なレッテル貼りじゃない。
たとえこの関係がウソだったとしても、私が彼を好きだという気持ちは、ホントなんだ。
息ができない。走った汗と嗚咽、額に垂れてくるのがどっちかもわからない。それを私は腕で無理やり拭った。前髪は学さんがくれたヘアピンで留められていて、水滴を拭うと視界がはっきりとした。
叶わなくても、気持ちを伝えたくなるほどに、胸が熱くて、締め付けられる。
「行かなきゃ」
学さんの学校に、行かなきゃ。
彼に会わなければ。
たと学さんにとってこの関係がウソで、もう終わらせたいものだとしても、私が好きなんだ。
私が伝えたい。断られても、かまわないから。
──ウソでもいいから好きだと言ってよ!
これは、私が彼にウソをつかせたことへの、精算だ。
彼に無理やり好きだと言わせてしまった。自分が今ウソをつかなかったら、私が目の前で橋から飛び降りたかもしれない、と思っただろうから。
でももし叶うなら『ウソでもいいから』じゃなくて、ウソをホントにしたいと強く思った。
スマホのIC定期券を使って改札をくぐる。やってきた電車に飛び乗って、マップアプリで夜間定時制の学校を探す。その間、お母さんから何度も電話が来たけど、今だけは私の好きにさせてほしかった。
ジリジリと時間が過ぎる。
電車が高校のある駅に停まり、開いたドアからスタートダッシュで飛び出して、もう一度走り出した。
「──透子ちゃん?」
吹き付けた冷たい風に混じって、声が聞こえた。
慌てて振り返ると、私服姿に鞄をかけた男の人が、ちょうど電車に乗ったところだった。
見間違えようのない童顔が視界に映る。
「学さ──」
『一番線、ドアが閉まります』
電車の発車メロディが私の声をかき消した。
「あっ!」
ぷしゅ、とドアが閉まる寸前、学さんは一歩を踏み出して電車から飛び降りる。
動けずに棒立ちになるしかない私の方へ駆け寄ってきて、肩を掴まれた。
「え、ちょ、なんでここにいんの」
目の前に彼がいるのが、信じられない。何度もまばたきをするけど、夢なんかじゃなかった。
私自身が会いたくなって、自分で行動をおこしたら、こんなにもあっけなく会いたい人に会えるだなんて、知らなかった。
「しかも薄着だし。えぇ……ちょっと待って」
何も答えられない私に、学さんが鞄を地面に落としてダウンジャケットを脱ぎだす。
「見てるだけでこっちまで寒いよ。なんで薄着で出ちゃったかなぁ。大丈夫?」
「好きです」
大丈夫です、と言おうとして、別の言葉が口から突いて出た。
私にマフラーを巻いてくれていた学さんの手が、止まる。
「す……好きなんです、わたしっ、学さんのこと……っ!」
「え、でも」
「もう死にたいって気持ちはないんです。ウソでもいいから好きだって言ってほしいわけじゃないんです」
思い切り、学さんに頭を下げる。
「本気で付き合ってください」
「ちょ、やめて、やめて……!」
「おねがいします……っ」
「分かった。ちょっと待って。わかった……いや、わかったってそういう意味じゃなくて、ここホームだから、ね?」
肩をガッと持たれた。
視線を上げると、学さんの顔が寒さのせいなのか、それ以外の理由か、真っ赤になっている。
「ちょっと、こっち」
手を強引に取られて引っ張られた。ガラスで囲われた待合室のベンチに座わらされて、学さんはその前に立つ。
こんなに慌てている学さんなんか、初めて見た。
「好き、って」
「ホントに好きなんです。信じてもらえないかもしれないけど、メンヘラとかじゃなくてホントに学さんのことが好きなんです。彼女になりたいんです!」
「僕でいいの?」
「は……?」
断られるかと思っていたのに、彼はてんで的外れなことを問いかけてくる。
「ど、どういう意味ですか?」
学さんが視線を逸して首の後ろを掻く。
「だって僕、高卒だよ? 四月から働くんだよ? 平日は会えないし、土日に会えても疲れ切ってると思う。社会人の僕には透子ちゃんを文化祭にも呼べない。制服でデートもできない。学校での共通の話題もない。……もっといると思うんだよ。透子ちゃんみたいに魅力的な女性を好きになる人。大学生とか、同年代の高校生とか、色々……」
「高校は女子校です、出会いなんかありません! 大学生とはもっと知り合う機会がないです!」
「……そう、なんだ?」
「そうです!」
もしかして、学さんなりに色々と考えてくれていたんだろうか。私がウソをホントにしたとき、どう答えるべきなのかを。
「学さんは、メッセージで私にウソの恋人を解消しようって言いました。私もそうしたほうがいいと思います。その代わり、ホントの恋人になってほしくて……!」
答えを聞くまでもう止まれない。学さんの視線を逃さないように、彼の瞳を凝視する。
「だめ、ですか?」
学さんは首に手を当てたまま、ずっと黙っていた。何度もまばたきをして、熟考して。
やがて彼は息を吐くと、肩から力を抜いた。
何かを諦めたように、ゆるく微笑む。
「困っちゃったな……」
「やっぱり、困るんですか?」
「いや、前越されちゃったなって意味」
「はぁ……?」
学さんは首を横に振った。
「実を言うと、『好きだ』って言ったの、ウソじゃないんだ」
「……え? 『好きだ』って、いつの?」
「一番最初の」
「最初……って」
──だったら、ウソでもいいから今ここで私のこと好きだって言ってよ!
──好きだ。
あの日、橋で死のうとしたのを止めてもらった時が、最初に学さんから好きだと言われたときだ。
それがウソじゃないって、どういうこと……?
「前に、都営アパート前の公園が僕にとっても通学路だって言ったじゃない」
「はい」
「夜中の帰り道にあのアパートを通る時、よく透子ちゃんがブチと遊んでるところ、見てたから。透子ちゃんのこと、姿だけなら前から知ってたんだよ」
学さんが、私を、前から知ってた──?
「……な」
言っている言葉の意味を理解して、汗で冷え切っていた身体がどんどん熱くなる。
思わずベンチから立ち上がった。
「な、なんでそういう大事なこと、ずっと言ってくれなかったんですか……!」
「いや、会っていきなりそんなこと言ったら、完全にこっちが不審者じゃないか」
「ブチのこと知らない素振りまでして!」
「あの猫にきみがブチって名前を付けてたことは、ほんとに知らなかったんだ」
とりあえず落ち着いて、と言われ、私はベンチに再度座らされると、その横の席に学さんが腰掛けた。
「最初はきみの存在も、なんとなく認知していただけだった。昼間に働いて、夜は学校に行って、休日は家のことをして……正直、僕にはあんまり自由の利く時間がなかった。こんなこと言ったら情けないけど、高校辞めちゃおうかな、なんて思ってて」
「えっ」
学さんがふっと息を吐いた。
「でもね、夜にくたくたになった帰り道、アパート前の公園で猫と戯れて、透子ちゃんが猫語でブチに『にゃあにゃあ』って話しかけてるのが、なんとなくおかしくて、可愛くて」
幸せそうな顔で目を伏せたかと思ったら、出てきた言葉は、私の猫語。
恥ずかしすぎて、顔を手で覆った。
まさか、見られてたなんて。
「それでね。高校辞めたらこの光景も見ることがなくなるんだって思うと、この人が夜中に猫と戯れているうちは、辞めないでおこうかなって心に決めたんだ。花占いみたいなやつ?」
帰り道、透子ちゃんがまだいたら、高校を辞めない。
帰り道、透子ちゃんを見かけなくなったら、その時は高校を辞める。
学さんは、花びらを摘んで落とすみたいに抑揚のない口調で、そう唱えた。
……そっか。
彼も、私と同じなんだ。
決して完璧でも達観してるわけでもない。物事に不安を感じることがあれば、誰かにすがりたくなるときもある、等身大の高校生。
「でも、高校を辞めるかどうかなんて大事なことを、私なんかで決めないでください……」
「大事だからそうするんだよ。だって僕、透子ちゃんに片思いしてたんだもん」
「へ?」
「好きな子が橋から飛び降りようとしてたら、止めるでしょ」
にわかに、私が橋の手すりを乗り越えようとするのを止めた、彼の力強い手つきを思い出した。
好きだって言葉がウソじゃないって、そういうこと? 学さんは会う前から私のことを知っていて、だから……。
「じゃ、じゃあ、あの電話はなんですか! ウソの恋人を解消しようってやつ! あ、あれは……別れたいって意味じゃないんですか!」
「え、違うよ?」
「違うんですか!?」
「ウソの恋人を解消して、本当の恋人になってくれませんかって、次会った時に言おうとした。でも合う約束を取り付ける前に、透子ちゃん電話切っちゃったし」
「あ……」
つまり全部、私の勘違いだったってこと?
今までの努力が、事故とはいえ必要のないことだったなんて……。
ううん。私には、必要だったんだ。
お母さんが昔言った束縛の言葉じゃなくて、私が私自身のホントの気持ちで、学さんのことが好きだと確信できる、時間が。
でも、待って。
先を越されちゃったって……つまり。
私の告白の答えも──。
バッ、と学さんの方に首を回す。
こっちの表情に気づいた彼が、いたずらがバレた小学生みたいに笑った。
「最初から透子ちゃんのこと好きなのに、僕こそ知らないふりしてウソついて、ごめんね」
「あ……」
学さんはとても、義務感と責任感が強い人だと思う。仕事をして、学校にも通って。童顔だけれど、その中には大人にも負けないパワーを持っている。
私はずっと、そんな学さんにウソをつかせて、偽装恋人をさせていることが後ろめたかった。私が死にたくなくなったら、「じゃ」と手を振られて、この関係が終わるんだと思っていた。
だけど、真夜中のウソがホントになった。
学さんが改まって「透子ちゃん」と名を呼んでくる。
「『僕なんか』なんてもう言わない。高校生でも大学生でもなくなるけど、僕と付き合ってください」
──男なんてバカでウソつきでロクでもない。
その言葉を信じるなら、学さんは馬鹿でも碌でもなくないけど、ウソつきだ。
だけど、人を幸せにしてくれるウソもあるんだ。
「……うん」
心が温かくて、思わず涙が出てきた。
私はひとりで生きていくものだとずっと思っていた。そう決めつけて心にウソをついている間、ずっと孤独で辛かった。
だけど、生まれて初めて恋人になってくれる人がいてくれた。
私は誰にも愛されない──その言葉をウソにするのも、ホントにするのも、私次第だったのかも。
深く呼吸をすると、学さんが巻いてくれたマフラーと、ダウンジャケットの匂いがする。
これまで生きてきた中で、初めてうまく呼吸ができた気がした。
〈終〉
それでもメッセージでやり取りを交わすのが当たり前のようになっていて、私は学さんがいなかった頃のことを思い出せないくらいになっていた。
夜はそれなりにぐっすり寝られるし、相変わらず学校では透明人間扱いされて時々美弥たちに心無い言葉を浴びせられたりもしたけど、学さんとの会話を思い出したり、保護猫カフェにいるブチのことを思い出しながら平常心を保つことができた。
それからしばらく経って、夜の寒さもほんの少し和らいで来た頃。
塾から家に帰ってきたタイミングで、学さんからメッセージが来た。
『透子ちゃんこんばんは。最近会えてないけど、調子どう?』
よく言えば他愛のない、悪く言えば中身がない、そんなやりとりをすることもずいぶん増えたけど、学さんが曖昧なニュアンスでメッセージを送ってくるのは珍しいことだった。
『こんばんは。今ってちょうど学校にいる時間ですか? 調子はフツウです』
よくわからないまま、今思った本心を告げると、ほぼリアルタイムでポコンと返事がきた。
『死にたいとか、そういう衝動は、最近はなさそう?』
ドキリとした。
あまりに向こうが自然に振る舞ってくるから、忘れかけていた。
私たちが、ウソの恋人だってこと。
元はと言えば、私が橋から飛び降りようとしたのを止めるため──誰でもいいから助けてほしい、愛してほしいってとっさに叫んだから、学さんに『好きだ』と言ってもらえただけだ。
私を本当に彼女として好きなんじゃなくて、学さんの過去からくる使命感がそうさせるんだ。
私が死にたいって衝動が収まった時、この関係は終わりを告げる。
「ウソでも死にたいって言い続けたら、学さんはずっと私を気にかけてくれるのかな……」
……だめだ。
それだけは、やっちゃだめ。
だって、学さんのご両親は生きたくて生きられなかった。学さんは決して私には見せないし、話そうとしないけど、それで苦労したことは間違いない。
まだ死にたいなんてずっと言い続けていたら、学さんを傷つけてしまう。
部屋に上がって、着替えて、机の前に座って深呼吸して、またメッセージに返事を打ち込む。
『もう、ずいぶん大丈夫です。ブチも見つかったし、学校も母親も何も変わっていないけど、あの時みたいな衝動はもう無いです』
送信してからしばらく、私はトーク画面を凝視していた。
だけど学さんから返信が来ると思ったら、いきなりスマホが震え出したので飛び上がった。
電話だ。学さんからだ。
慌てて端末を取って、通話開始ボタンを押す。
「…………も、もしもし?」
『あ、もしもし透子ちゃん? ごめん、急に』
「いえぜんぜん。大丈夫です」
実を言うと大丈夫じゃない。リビングにいるお母さんに聞かれたら、とんでもないことになるからだ。
電話を切りたくない。だけど、外に出る素振りを見せたら誰と通話しているのかと勘ぐられてしまう。できるだけ声を落とした。
「どうしたんですか?」
『ん。声が聞きたくなって。実は、今とは別の就職先が決まったんだ』
「え! おめでとうございます」
思わず声が大きくなってしまって、慌てて手で口を押さえた。
「な、何か、何かお祝いさせてください。大したもの用意できないと思うんですけど」
『ありがとう。でね透子ちゃん……』
学さんにしては珍しく、言葉の歯切れが悪い。私は息をひそめて相手の次の言葉を待った。
『次の春には別の場所に引っ越すんだ、僕』
「……え」
引っ越す? ……学さんが?
『高校を卒業するから、夜中にあの通学路を通ることも、もうない。いつも真夜中に会っていたけど、それもできなくなる』
「で、でも──」
でも、こうしてメッセージや通話は、できるんだよね……?
学さんは緊張しているのか、鼻をすする短い音が聞こえてくる。
『あの日ね、透子ちゃんがつらいと思っていたからとっさにウソでも好きだと言った。だけど、もう大丈夫なら、ウソの恋人を続けるのはよくないと思ってる。これから透子ちゃんがほんとに好きな人に出会った時、僕の存在が邪魔になるのはよくないと思う』
邪魔、だなんて。そんなこと思ってない。
『ウソの恋人、解消しようか』
「……」
スマホを握りしめた。
全部ウソだって言って。
すっかり今まで通りとはいかないけど、一ヶ月や半年に一度でもいいから、ちゃんと会えるよって言って。
「つまりそれって、もう会えないってこと? 学さんに?」
会えないと口に出してから、遅れて胸がぎゅっと苦しくなる。
死にたい、とは思わない。だけど、生きていけないかもしれない、と思った。
これって、人に寄り掛かる行為なんだろうか。
──透子、あんたは絶対にひとりで生きていかなきゃだめ。
お母さんが言っていた言葉に反する気持ちなのか。
「学さん、私の他に好きな人ができたん、ですか……?」
言ってしまってから、カッと頬が火照った。
まるで本物の恋人みたいなこと、言っちゃった。ぜったい引かれる。
学さんは優しいウソを貫き通していただけ。私のことを後輩とは思っていても、ほんとは恋人だなんて思ってなかったかもしれないのに。
今の私は、正直重い。
それこそ、新しい職場に行ったらもっと学さんにふさわしい好きな人ができるかもしれないのに、それを邪魔しちゃったら……。
学さんは、私のことがホントは負担になってたのに、ずっと黙ってたってこと?
──男なんてみんなバカでウソつきでロクでもないの。
「ち、ちがくて……そう、じゃなくて……」
『……透子ちゃん?』
頭が混乱して、金魚みたいに口だけがはくはくとして、続きの声が出てこない。
同時に、部屋の外でノックの音がした。
「っ……!」
肩が震える。とっさに通話終了ボタンを押すと、お母さんが断りなく部屋のドアを開け、顔を出した。
「ま、まだ『どうぞ』って言ってない……!」
「だって、夜ご飯できたのにいつまでも降りてこないんですもの」
お母さんは自分が悪いなんて微塵も思ってない顔でしれっと言う。
「誰かと電話してたの?」
「え? あ、うん。塾の先生から」
「そう。早く降りてらっしゃい。話したいこともあるから」
お母さんは言うだけ言って、さっさと扉を閉めた。足音が遠ざかっていくのを聞きながらスマホ端末に視線を下ろす。
こっちが通話を一方的に終わらせてしまったうえ、学さんから追加のメッセージもない。お詫びを入れようと思ったけど、お母さんをまたせているので、ご飯を食べてからにしようと思い直す。
リビングに向かうと、お母さんはいつもよりやけに機嫌が良さそうな顔で、料理が並べられているテーブル席に付いたところだった。恐る恐る向かいに腰掛ける。
「えっと、話ってなに?」
「あのね透子」
お母さんは、かしこまった表情で居住まいを正した。
「透子に新しいお父さんをお迎えすることにしたの」
「……え?」
お父、さん。
つまりそれって──。
「お母さん、再婚するってこと?」
──新しい男の人を迎えるってこと?
頭が真っ白になった。なのに目の前は真っ暗になって。俯いて視界に何も見えなくなった私に、お母さんの声だけが耳から脳に響いてくる。
「職場で会った人なんだけど、あ、前の男とはぜんぜん違うから、そこは安心しなさいね」
「……」
「だから透子も、年度が変わったときにでも会ってほしいのよ。……やだ、そんなに真っ白な顔しなくていいじゃない。まずは会うだけだから」
「だ、だって……」
かろうじて声を出せても、後が続かない。
お母さんが、再婚。それ自体はどうでもいい。別にもう子供じゃないし。誰が誰とどうなろうと私には知ったことじゃない。
だけど、お母さんは今まで私に『ひとりで生きていかなきゃだめって』あんなに言ってたじゃない。
──男なんてみんな、バカでウソつきで、ロクでもないの。
だから、私はその言葉に必死に従って、今日まで必死に生きてきた。
なのに、どうして今さら私に押し付けていたことを、覆そうとするの?
私が今まで、お母さんのせいで小学生の頃から苦労していたのは何だったの? 高校に上がっていじめられてまで守っていたお母さんの言いつけって、そんな簡単に覆るものなの?
なんとか言葉をつっかえさせて、自分の気持を吐き出した。
「それ、いつの話? お母さんがそんなこと言ったの、あなたが小学生の頃じゃない。最近はそんなこと言った覚えはないよ」
「え……」
信じられない気持ちで顔を上げると、お母さんは私に申し訳ない気持ちとか、こっちを傷つけて悪いなんて表情は何一つしないで、私を小馬鹿にするみたいに、鼻笑いする。
「なに? あなた、高校生にもなって親の言うことを一から十まで真に受けてたの? まったく、もう大人になるんだから、人の言うことは家族だろうとなんだろうと、自分が必要だと思った部分だけ受け止めて、後は聞き流すくらいのことはできるでしょ?」
ガッ、と音がして、背後で椅子が倒れる音がした。
私はいつの間にか立ち上がっていた。いきなりのことに、視線を上げたお母さんが驚いた顔をしているのを、どこか冷めた気持ちで私は眺めていた。
「なに、それ……」
私は、小学校の頃に言われたあんたの言葉を信じてきたんじゃない。
そうじゃなきゃ怒られるから。男子とちょっと話しただけで、それをいちいち論って、私を叱りつけてたじゃない。
たとえお母さんにとっては昔の話でも、その時に植え付けられた私の恐怖は消えない。
私にとっては、お母さんの呪いの言葉は『昔の話』じゃなくて、『今の話』なんだ。
「っ……お母さんなんか……」
これまで生きてきた中で感じたことのない熱が、頬にのぼってきた。
憎い。
私をここまで追い詰めて、最後には「真に受けるな」なんて達観したような口をきく母親が、憎い。
ありたけの力を喉に込める。
「あんたなんか──っ!」
──しんじゃえ!
そう、叫びかけて、頭に学さんの顔がちらついた。
「……っ」
言えない。
しんじゃえなんて、口が裂けても言えない。
その場から離れなきゃ、と本能が告げていた。お母さんに背を向けて床を蹴る。
「透子!」
リビングから廊下を通り抜けて、アパートから外へ飛び出す。
一瞬の怒りがピークを超えると、あとに残るのは、恐ろしい言葉を口に出そうとした自分への怖さと、悲しさだった。
なんてひどい言葉を吐き出そうとしたんだろうか。死んでしまえだなんて、あんな言葉は絶対に人に向けられない。
私自身、死のうとしたから。
それを学さんに命を救われたから。
相手に死ねって言うのは、彼の優しさに泥を塗る行為なんだ。
がむしゃらに道を走りながら、息を切らして立ち止まる。今になって急に汗がぶわりと溢れてきた。
「はぁ……っ、はぁ……」
膝を押さえて息を整える。鼻から川の臭いがして、いつの間にか橋の上まで来ていることに気づいた。
学さんと初めて会った場所。
「……会いたい」
無性に、彼に会いたい。
「会いたいよ……っ」
気づけばいつからか、学さんの事ばかり考えていた。会えないと淋しいな、って。
別れる時、ほんの少しちくりとした痛みを感じていた胸が、今は張り裂けるくらいに痛い。
今までは、その痛みがお母さんの言いつけに背いている罪悪感だと思い込んでいた。
でも、違う。
助けてくれた時に感じた、手の感触も。
買ってくれたヘアピンも。
好きだと言ってくれる眼差しや唇も。
全部が全部、学さんのことが、好きだからだ。
「うっ……うぁっ……」
私、好きなんだ、学さんのこと。
自分の気持ちの正体がわかって、涙が出た。
だって学さんは、ウソの恋人を解消したがっていた。今さら恋心に気づいても、私は学さんの本物の恋人にはなれない。
男が怖いとか、男なんてバカだとか、そんなものはただのレッテル貼りだ。
たしかに酷いことをする人間はたくさんいる。男も、女も。
でも、学さんを好きだという気持ちは、そんな陳腐なレッテル貼りじゃない。
たとえこの関係がウソだったとしても、私が彼を好きだという気持ちは、ホントなんだ。
息ができない。走った汗と嗚咽、額に垂れてくるのがどっちかもわからない。それを私は腕で無理やり拭った。前髪は学さんがくれたヘアピンで留められていて、水滴を拭うと視界がはっきりとした。
叶わなくても、気持ちを伝えたくなるほどに、胸が熱くて、締め付けられる。
「行かなきゃ」
学さんの学校に、行かなきゃ。
彼に会わなければ。
たと学さんにとってこの関係がウソで、もう終わらせたいものだとしても、私が好きなんだ。
私が伝えたい。断られても、かまわないから。
──ウソでもいいから好きだと言ってよ!
これは、私が彼にウソをつかせたことへの、精算だ。
彼に無理やり好きだと言わせてしまった。自分が今ウソをつかなかったら、私が目の前で橋から飛び降りたかもしれない、と思っただろうから。
でももし叶うなら『ウソでもいいから』じゃなくて、ウソをホントにしたいと強く思った。
スマホのIC定期券を使って改札をくぐる。やってきた電車に飛び乗って、マップアプリで夜間定時制の学校を探す。その間、お母さんから何度も電話が来たけど、今だけは私の好きにさせてほしかった。
ジリジリと時間が過ぎる。
電車が高校のある駅に停まり、開いたドアからスタートダッシュで飛び出して、もう一度走り出した。
「──透子ちゃん?」
吹き付けた冷たい風に混じって、声が聞こえた。
慌てて振り返ると、私服姿に鞄をかけた男の人が、ちょうど電車に乗ったところだった。
見間違えようのない童顔が視界に映る。
「学さ──」
『一番線、ドアが閉まります』
電車の発車メロディが私の声をかき消した。
「あっ!」
ぷしゅ、とドアが閉まる寸前、学さんは一歩を踏み出して電車から飛び降りる。
動けずに棒立ちになるしかない私の方へ駆け寄ってきて、肩を掴まれた。
「え、ちょ、なんでここにいんの」
目の前に彼がいるのが、信じられない。何度もまばたきをするけど、夢なんかじゃなかった。
私自身が会いたくなって、自分で行動をおこしたら、こんなにもあっけなく会いたい人に会えるだなんて、知らなかった。
「しかも薄着だし。えぇ……ちょっと待って」
何も答えられない私に、学さんが鞄を地面に落としてダウンジャケットを脱ぎだす。
「見てるだけでこっちまで寒いよ。なんで薄着で出ちゃったかなぁ。大丈夫?」
「好きです」
大丈夫です、と言おうとして、別の言葉が口から突いて出た。
私にマフラーを巻いてくれていた学さんの手が、止まる。
「す……好きなんです、わたしっ、学さんのこと……っ!」
「え、でも」
「もう死にたいって気持ちはないんです。ウソでもいいから好きだって言ってほしいわけじゃないんです」
思い切り、学さんに頭を下げる。
「本気で付き合ってください」
「ちょ、やめて、やめて……!」
「おねがいします……っ」
「分かった。ちょっと待って。わかった……いや、わかったってそういう意味じゃなくて、ここホームだから、ね?」
肩をガッと持たれた。
視線を上げると、学さんの顔が寒さのせいなのか、それ以外の理由か、真っ赤になっている。
「ちょっと、こっち」
手を強引に取られて引っ張られた。ガラスで囲われた待合室のベンチに座わらされて、学さんはその前に立つ。
こんなに慌てている学さんなんか、初めて見た。
「好き、って」
「ホントに好きなんです。信じてもらえないかもしれないけど、メンヘラとかじゃなくてホントに学さんのことが好きなんです。彼女になりたいんです!」
「僕でいいの?」
「は……?」
断られるかと思っていたのに、彼はてんで的外れなことを問いかけてくる。
「ど、どういう意味ですか?」
学さんが視線を逸して首の後ろを掻く。
「だって僕、高卒だよ? 四月から働くんだよ? 平日は会えないし、土日に会えても疲れ切ってると思う。社会人の僕には透子ちゃんを文化祭にも呼べない。制服でデートもできない。学校での共通の話題もない。……もっといると思うんだよ。透子ちゃんみたいに魅力的な女性を好きになる人。大学生とか、同年代の高校生とか、色々……」
「高校は女子校です、出会いなんかありません! 大学生とはもっと知り合う機会がないです!」
「……そう、なんだ?」
「そうです!」
もしかして、学さんなりに色々と考えてくれていたんだろうか。私がウソをホントにしたとき、どう答えるべきなのかを。
「学さんは、メッセージで私にウソの恋人を解消しようって言いました。私もそうしたほうがいいと思います。その代わり、ホントの恋人になってほしくて……!」
答えを聞くまでもう止まれない。学さんの視線を逃さないように、彼の瞳を凝視する。
「だめ、ですか?」
学さんは首に手を当てたまま、ずっと黙っていた。何度もまばたきをして、熟考して。
やがて彼は息を吐くと、肩から力を抜いた。
何かを諦めたように、ゆるく微笑む。
「困っちゃったな……」
「やっぱり、困るんですか?」
「いや、前越されちゃったなって意味」
「はぁ……?」
学さんは首を横に振った。
「実を言うと、『好きだ』って言ったの、ウソじゃないんだ」
「……え? 『好きだ』って、いつの?」
「一番最初の」
「最初……って」
──だったら、ウソでもいいから今ここで私のこと好きだって言ってよ!
──好きだ。
あの日、橋で死のうとしたのを止めてもらった時が、最初に学さんから好きだと言われたときだ。
それがウソじゃないって、どういうこと……?
「前に、都営アパート前の公園が僕にとっても通学路だって言ったじゃない」
「はい」
「夜中の帰り道にあのアパートを通る時、よく透子ちゃんがブチと遊んでるところ、見てたから。透子ちゃんのこと、姿だけなら前から知ってたんだよ」
学さんが、私を、前から知ってた──?
「……な」
言っている言葉の意味を理解して、汗で冷え切っていた身体がどんどん熱くなる。
思わずベンチから立ち上がった。
「な、なんでそういう大事なこと、ずっと言ってくれなかったんですか……!」
「いや、会っていきなりそんなこと言ったら、完全にこっちが不審者じゃないか」
「ブチのこと知らない素振りまでして!」
「あの猫にきみがブチって名前を付けてたことは、ほんとに知らなかったんだ」
とりあえず落ち着いて、と言われ、私はベンチに再度座らされると、その横の席に学さんが腰掛けた。
「最初はきみの存在も、なんとなく認知していただけだった。昼間に働いて、夜は学校に行って、休日は家のことをして……正直、僕にはあんまり自由の利く時間がなかった。こんなこと言ったら情けないけど、高校辞めちゃおうかな、なんて思ってて」
「えっ」
学さんがふっと息を吐いた。
「でもね、夜にくたくたになった帰り道、アパート前の公園で猫と戯れて、透子ちゃんが猫語でブチに『にゃあにゃあ』って話しかけてるのが、なんとなくおかしくて、可愛くて」
幸せそうな顔で目を伏せたかと思ったら、出てきた言葉は、私の猫語。
恥ずかしすぎて、顔を手で覆った。
まさか、見られてたなんて。
「それでね。高校辞めたらこの光景も見ることがなくなるんだって思うと、この人が夜中に猫と戯れているうちは、辞めないでおこうかなって心に決めたんだ。花占いみたいなやつ?」
帰り道、透子ちゃんがまだいたら、高校を辞めない。
帰り道、透子ちゃんを見かけなくなったら、その時は高校を辞める。
学さんは、花びらを摘んで落とすみたいに抑揚のない口調で、そう唱えた。
……そっか。
彼も、私と同じなんだ。
決して完璧でも達観してるわけでもない。物事に不安を感じることがあれば、誰かにすがりたくなるときもある、等身大の高校生。
「でも、高校を辞めるかどうかなんて大事なことを、私なんかで決めないでください……」
「大事だからそうするんだよ。だって僕、透子ちゃんに片思いしてたんだもん」
「へ?」
「好きな子が橋から飛び降りようとしてたら、止めるでしょ」
にわかに、私が橋の手すりを乗り越えようとするのを止めた、彼の力強い手つきを思い出した。
好きだって言葉がウソじゃないって、そういうこと? 学さんは会う前から私のことを知っていて、だから……。
「じゃ、じゃあ、あの電話はなんですか! ウソの恋人を解消しようってやつ! あ、あれは……別れたいって意味じゃないんですか!」
「え、違うよ?」
「違うんですか!?」
「ウソの恋人を解消して、本当の恋人になってくれませんかって、次会った時に言おうとした。でも合う約束を取り付ける前に、透子ちゃん電話切っちゃったし」
「あ……」
つまり全部、私の勘違いだったってこと?
今までの努力が、事故とはいえ必要のないことだったなんて……。
ううん。私には、必要だったんだ。
お母さんが昔言った束縛の言葉じゃなくて、私が私自身のホントの気持ちで、学さんのことが好きだと確信できる、時間が。
でも、待って。
先を越されちゃったって……つまり。
私の告白の答えも──。
バッ、と学さんの方に首を回す。
こっちの表情に気づいた彼が、いたずらがバレた小学生みたいに笑った。
「最初から透子ちゃんのこと好きなのに、僕こそ知らないふりしてウソついて、ごめんね」
「あ……」
学さんはとても、義務感と責任感が強い人だと思う。仕事をして、学校にも通って。童顔だけれど、その中には大人にも負けないパワーを持っている。
私はずっと、そんな学さんにウソをつかせて、偽装恋人をさせていることが後ろめたかった。私が死にたくなくなったら、「じゃ」と手を振られて、この関係が終わるんだと思っていた。
だけど、真夜中のウソがホントになった。
学さんが改まって「透子ちゃん」と名を呼んでくる。
「『僕なんか』なんてもう言わない。高校生でも大学生でもなくなるけど、僕と付き合ってください」
──男なんてバカでウソつきでロクでもない。
その言葉を信じるなら、学さんは馬鹿でも碌でもなくないけど、ウソつきだ。
だけど、人を幸せにしてくれるウソもあるんだ。
「……うん」
心が温かくて、思わず涙が出てきた。
私はひとりで生きていくものだとずっと思っていた。そう決めつけて心にウソをついている間、ずっと孤独で辛かった。
だけど、生まれて初めて恋人になってくれる人がいてくれた。
私は誰にも愛されない──その言葉をウソにするのも、ホントにするのも、私次第だったのかも。
深く呼吸をすると、学さんが巻いてくれたマフラーと、ダウンジャケットの匂いがする。
これまで生きてきた中で、初めてうまく呼吸ができた気がした。
〈終〉