広川さん改め、学さんと私はウソの恋人になった。
その日はなぜだかぐっすりと眠れた。いろんなことが起きて疲れたせいかもしれない。
朝起きて、昨日までの学校やお母さんの態度が変わることは決して無かったけど、夜中にまた学さんに会う必要があるかと思うと、死ぬに死ねないような気がした。
いや、本当は、昨日の彼の手付きが気になって仕方がなかった。前髪に触れて、少しだけかすめた指先の温度がまだいつまでもぬくく残っているみたい。授業中も塾への道も、なんだか落ち着かない。
いっそ前髪、上げちゃおうかな。
塾まで少し時間があったので、駅中の百貨店に入ってヘアピンを探しにヘアアクセのお店を見てみた。
「なにこれ……」
手に取るヘアピンの一つ一つが、銀や金に輝く大げさな飾りを付けた大げさなものばかりだった。私が思い描いていたのは、タダの黒いヘアピンだったのに。
それに値段を見てみたら、千円以上する。お母さんには必要最低限のお金しか渡されていないし、バイトも禁止されていたから手持ちがなかった。お小遣いも、バイトも、全部男の人と遊ぶことが万が一にないように、コントロールされているからだ。
「……はぁ」
結局学さんっていう恋人ができたところで、私の生活は何一つ変わらない。上向きになっていた気持ちが急に萎んだ。ヘアピンが買えたって、美弥や女子たちにまた何か言われるだろうし。
家に帰ったお母さんに、また浮ついたことをしているのかと勘ぐられて学さんのことがバレたらと思うと、怖い。
「恥っず……」
手に取ったヘアピンを置いて、さっさと塾への道に戻った。
その後は普通に講義を聞いて、また九時頃に帰って、早寝なお母さんを起こさないように二十三時頃にアパートを抜け出して、また公園から少し歩いた橋の上で学さんを待つ。
「あ、透子ちゃん」
しばらく川の湿った匂いをかぎながら待っていると、道の向こうから柔らかい声がした。
振り返ると、今日も昨日と同じ鞄を持った学さんが、幼さの残る目を大きく見開いて、手を挙げる。
「よかった。来てくれるかどうか、半信半疑だったんだよね」
「来なかったらどうしてたんですか」
学さんは口をすぼめて肩を上下させる。
「透子ちゃんは僕がいなくても立ち直れたのかなぁ、って思ってたかも」
昨日も思ったけど、学さんは結構ドライな人だ。だって、死のうとしてた私のこと、怒りもしないし、警察にも届けなかったし。
そこに私がいたから助けただけで、そこに自分がいたから恋人役になっただけ、という感じ。
「もちろん、〝恋人〟に会えなくなるのは淋しいけど」
「……よくわかんないです」
そう正直に言うと、学さんはちょっと困ったように苦笑した。
昨日と同じコンビニに寄った。コーヒーを奢ると言われたけど、断った。相手も高校生で、しかも受験生だし、そんなに私に払うお金があるとも思えない。それに、後で返せなんて言われたら私ひとりではどうしようもないのだ。
「昨日の後、どうだった?」
学さんもコンビニで何かを買うわけでもなく、ガードレールに腰掛けて私に他愛もないことを聞いてくる。
「……別に。フツウです」
「フツウかぁ」
面白みもないことしか言えない自分に、学さんを付き合わせていることが申し訳ない。何かもっと、生産的なことを言えないんだろうか。
男の人って、どんな話題が好きなの? 女子相手にすら会話をしていないのに、年上の恋人を相手に、何を話せばいいかなんてわかるわけがない。
視線を地面の靴に向ける。俯くことが癖になってしまった。落ちてきた前髪が邪魔で、耳の間にかけ直したけど、また落ちてくる。
「そういえば、前髪を……上げようとしたんですけど」
「お、いいね。透子ちゃん、多分髪上げたほうが似合うと思う」
「でも、やめました」
こうやって答えると学校の子達だったら、「絶対に合うよ!」なんて無根拠な励ましを押し付けてくる。
だけど学さんは、
「ふうん、どうして?」
と、共感も否定もしないで理由だけ淡々と尋ねてくる。
やっぱり学さんって、高校生にしてはちょっとヘンだなと思った。距離感、というか。むやみに踏み込んでこないのがオトナ、っていうか。
でも男子高校生なんて、そんなもんなんだろうか。
私は百貨店でのことを話した。
黒いヘアピンを探してたけど無かったこと。百貨店のヘアピンはみんなキラキラしていて気後れしたこと。たとえ気後れせずとも、お小遣いが無くて買えなかっただろうこと。
一通り話を聞いてくれた学さんは、ガードレールから腰を浮かせた。
「ちょっとまってて」
言うだけ言って、私を残してコンビニの中に入っていく。
数分後、手に何かを持ちながら戻ってきた学さんは私の前に立ち、「はい」と小さな袋を差し出してきた。
「あ……」
フィルムに入った、黒いヘアピンだった。
「黒いヘアピンなら、百均か、割高だけどコンビニにも売ってるよ。これ使って」
「で、でもお金……!」
「いいよ。僕稼いでるから」
「稼いでるって……あ、ちょっと」
私がいいとも悪いとも言っていないのに、学さんはその場で袋の封を開けてしまった。これじゃあ返品もできない。
そのままヘアピンを袋ごと差し出されて、反射的に受け取るしかなくなってしまう。
「あ、ありがとうございます……」
恐る恐るヘアピンを一本取り出す。ここで前髪を上げてしまわないと、買ってきてくれたものが無駄になるような気がした。
前髪を真ん中でかき分けて、ピンを挟む。ゆっくり差し込んでみる。それを、真横にいる学さんに、微笑みとともに眺められる。
心臓がまたバクバクした。
何か裏があるんだろうか。お母さんが言っているみたいに、今はウソをついて後でなにか酷いことを言われるんだろうか。お金返して、とか。それとも、前髪をいざ上げてみて『似合わない』とかって、持ち上げたものを下げてみせるんだろうか。
だって、私は誰にも愛して貰えないから──。
「こっち見てみて……うわ、やっぱ似合う」
──だけど彼は、蔑むでも騙すでもなく、素直にそう言ってくれた。
「ほんとですか……?」
「うん。透子ちゃんって、名前とおんなじだよね」
「え?」
「『透』って透き通ってるって意味でしょ? 肌も綺麗だし、目もぱっちりしてるし、髪上げた方が表情が透き通って見えるよ」
「……」
ウソだ。
とっさにそう言おうとして、口をつぐむ。
──透子の『透』は、透明人間の『透』のはずだ……。
学さんがこんなに私を褒めるのは、ウソの恋人だからだ。
今の私は学さんの彼女、ってことになってる。ただし、私が死ぬのをやめるまでは、っていうタイムリミットつき。
そう思うと目を合わせられない。俯こうとしたと同時に、学さんの手がヘアピンの袋に伸びた。
「一本貸して」
学さんは、スッと伸ばした指でヘアピンをもう一つ掴んだ。それをピンで留められた私の前髪に持っていく。
「あ……」
また、昨日と同じように指が額につっと触れた。さっき私が挿したヘアピンにクロスさせるみたいに、もう一本のヘアピンを前髪に留める。
「ん、ちょっとオシャレになったんじゃない?」
「っ」
とっさに前髪を手で押さえた。
オシャレ、だなんて、私に向けられた言葉じゃないみたい。
「は、恥ずかしいです」
「え、そう? 校則違反にもならないし。それに、かわいいよ」
「かわ、いい」
ウソ、だ。
「恋人をかわいく思わないやつなんていないでしょ」
ウソの恋人だからそんなこと言うんでしょ。
──男なんてみんな、バカでウソつきで、ロクでもないの。
「わ、私、もう帰ります」
「あ、ねえ」
大股になってアパートに帰ろうとしたところを、声に呼び止められる。
振り返ると、学さんがスマートフォンを持っていた。やけに旧式で、使い古されたやつ。
「連絡先、交換しない?」
帰ろうと飛び出した数歩を、早足に戻る。スマートフォンを取り出す。
連絡先のIDを交換した時、あんなにきらいなお母さんに心の中で『ごめんね』ってつぶやく私がいた。
ごめんね。
内緒で男の人と連絡先交換して、ごめんね。
だけどどうしても、お母さんの言いつけを守ってまで学さんを振り切ろうとは思えなかった。
オシャレ、も、かわいい、も。
戸惑いと同じくらい、耳に心地よかったから。
◇
それからしばらくは、数日に一度、恋人みたいなことを続けた。
夜中にお母さんが寝た頃合いを見計らって家を出て、学さんと合流して、コンビニで数十分だけ話す。
そんな日々の繰り返しが少しだけ変化したのは、恋人になって二週間ほど経った時だった。
深夜に寝る直前、学さんがスマホにメッセージを送ってきたのだ。
『一日だけ、夕方ごろに会えない?』
夕方に会う? 学さんに?
頭の中でぐるぐると思考が回る。
お母さんになんて言い訳をしよう。というか、明るいうちに会うなんて、大丈夫なんだろうか。いや、フツウは真夜中に男の人と会う方がよっぽど怖いのに、夕方に学さんと会うのが怖いだなんて、変だ。
『なんで、夕方に会う必要があるんですか?』
返信から数秒も立たないうちに既読が付く。そこからピロンと浮かんだポップアップの文字を見て、私はベッドの上で飛び上がった。
『ブチが見つかったよ』
人生で初めて、塾を休んだ。
無断欠席をすると塾側からお母さんに電話をされるかもしれないから、自分でスマホを使って、自分の意志で塾の電話に休むと連絡を入れた。
それだけで指が震えた。しかも休む理由は、普段お母さんが蔑んでいる、男の人と待ち合わせをするためだ。
相手がブチじゃなかったら、こんなことしてない。
学さんが指定した待ち合わせの場所は、保護猫カフェだった。
建物への道を早足に歩く。通行人が私を監視しているみたいに見えて、身体を小さくしながら鞄を思い切り抱きしめた。
もしかして、ブチを餌に危ないところへ連れて行かれるんじゃないの──と、私の冷静な部分が囁いてくる。
でも、今までだって私を誘拐しようと思えば、できたじゃん。男の人でも、学さんは大丈夫かもしれないでしょ──根拠のない自信が冷静な私を押し込める。
そうしているうちに、駅から歩いて数分のビルにたどり着いた。エレベーターで三階に上がり、猫のステッカーが貼られたガラス扉の前に立つ。
中を覗くと、パーカーとジーンズ姿の学さんがこちらに気づいた。はたから見ると中学生みたいだった。
扉が開いて、ドアベルが鳴る。音で私に気づいた学さんが立ち上がった。
「今日、ブチいるって。受付しよう」
いつもだったらこちらを気遣って雑談をしてくれる学さんが、一も二もなく受付に急いだ。
荷物を置いて、消毒をして、猫のいるスペースに入る。
猫たちは、にゃぁと鳴いたり、ふす、と唸ったりしながら思い思いの場所で過ごしている。
学さんが、キャットタワーを指さした。
「あの子」
指差した先で、白い猫が丸まって寝ている。
息を止めて、恐る恐る近づいてみる。
幸せそうに寝ている白猫は、尻尾の縁だけが黒くなっていた。
「……ブチだ」
ブチがいた。ちゃんといた。
それがわかった瞬間、喉が詰まった。
本当は喜んで、叫んで、学さんと手を叩いて喜びを分かち合いたいくらいに嬉しかったのに、涙が出てきて止まらない。
「ブチ……!」
ブチは少しだけ目を開けたけど、私なんか知らんふりで、身動ぎした後また寝てしまった。
だけど、それでもよかった。ブチがどこかにいてくれるってわかっただけで、今までの嫌な記憶や孤独がすっと胸から消えていくのがわかった。
「よかったね」
学さんが、私の背中にそっと手を添えてくれた。
答える代わりに、涙を腕で拭きながら、私は何度もうなずいた。
帰り際、カフェのスタッフさんが、ブチについて詳しいことを教えてくれた。
「ああ! 尻尾だけ黒い白猫ちゃんね。アパートの住民さんから連絡があったんですよ。可愛がっていたのに大家さんが猫よけを設置しちゃってひもじい思いをしているだろうから、引き取ってくれないかって」
「そうだったんですか」
よかった。
「ブチはアパートの皆様に愛されてたんだねぇ」
店員さんはテキパキと手続きをしながらしみじみとそんな事を言った。
私だけがブチに愛されて癒やされてるって思ってた。
「ブチ、愛されてたのかな」
「そうだったらいいね」
学さんが優しさで寄り添うように、短く答えた。
「……うん」
「あ、やっと笑った」
ポツリとつむじに落ちてきた声に、バッと顔を上げる。
「透子ちゃん、笑っている表情の方がいつもより透き通って見える」
学さんが頬を緩めて、心の底から嬉しそうに唇を弓なりにした。
駅まで送っていくと申し出た学さんの厚意に甘えて、人が行き交う駅までの大通りを二人で歩いた。行き交う人の肩にぶつかりそうになってとっさに避けると、私の学生鞄が学さんの腰にぶつかってしまう。
「あ、ごめんなさい」
「ううん。ここっていつも人多いよね。もうちょっとこっちおいで」
学さんがそっと手を掴んで、引いて、歩道側に私を導いていく。
冬の寒さの中で、握ってくれた手が温かい気がした。
どうしよう。こんなことしちゃいけないのに。
でも、誰も見てないし。通行人たちは私達のことなんか気に留めもしない。お母さんの言っていることとは真反対のことをしている私のことを、誰も見て見ぬふりしてくれているみたいだ。
もう少しだけ、この時間を過ごしても、悪くないよね。
学さんが離しかけた指に、力を込めた。
「あの……ブチをどうやって見つけたんですか?」
「んー、ちょっとネットで画像を探しただけだよ。もしかしたらどこかで保護されてるかもって。ダメ元だったけど」
そうは言っても、数ある保護猫カフェの中からブチを見つけようとするなんて、途方も無いことだ。
駅が見えてくる。
私が立ち止まると、握っていた指がくんと引っ張られて、学さんも立ち止まった。
「どうしてあの日、私を止めたんですか」
ずっと疑問だった。
死のうとしていたとはいっても、学さんが赤の他人の私にこんなに良くしてくれる理由が、わからない。
なんて言ったっけ。危険な状況を一緒に乗り越えることで恋愛感情が芽生えるってやつ。……吊り橋効果?
それにしたっておかしい。
裏がある、とは思わない。だけど、理由はあるんじゃないかと思う。
「どうして、ここまで気にかけてくれるの?」
視線を受けた学さんは、心の底から困ったみたいだった。口では「んー」と考えるような声を出すけど、顔は考え事をしているというより、言うべきことは決まっているのに、言ってもいいかどうかを悩んでる感じの表情だ。
「……ホントはね」
果たして、学さんはいつもよりいっそう真面目な声になった。
「ブチのこと、前から知ってたんだ。透子ちゃんに会う前から」
「え?」
「あの都営アパート、通学路だし。あんなに特徴的な猫だから、よく覚えてたし、僕も時々触らせてもらってた」
あの日、死のうとしたあの真夜中に私と出会ってなかったら、学さんはブチを探してたんだろうか。
「ちょっと、話そうか。長くなるかもだけど」
私達は、駅の中に避難する。冷たく刺すような寒気が遮断されて、ホームの温かい暖気が改札から私達の居るところまで抜けてくる。
「僕、夜間定時制の高校に通ってるって言ったでしょ」
「はい」
「端的に言うと僕って、就労学生なんだよね」
「しゅうろうがくせい」
「昼には働いて、夜に学校へ行ってる、ってこと」
そういえば、ヘアピンを買った時、学さんは自分をして「稼いでるから」と言っていた。
あの言葉は、文字通り昼に働いているって意味だったんだ。
学さんが、高校生にしては誰よりも大人びて見える理由がわかった気がした。決してませているのでも、背伸びしているのでもない。働いている分いろいろな経験をしたおかげで達観している、というのが本当の学さんなのかもしれない。
「働いてるって、なんで」
「僕の親、事故で亡くなってるんだよね」
「え……」
「僕が二歳くらいの時らしい。全然覚えた無いけど、車の事故だったとかって」
頭のてっぺんから、一気に血の気が引いた。指先が痛いくらい暖気で温められていた身体が、嫌な悪寒に冷えていくのを感じる。
学さんはご両親を亡くした後、親戚のお家に預けられていた。だけど、このご時世では子供が一人増えただけで生活が大変だからと、高校になって自分の意志で働くようになったらしい。
「ま、そういうわけだから、橋から川に落ちようとする透子ちゃんを見て、見過ごせないなって思った。僕、記憶はないけど親がいないことが悲しかったから、透子ちゃんのことだって、誰かが悲しいと思うんじゃないかってね」
「そんな人──!」
いるわけない。そう言う前に学さんが首を振って言葉を続ける。
「死にたいって思うのって、一瞬じゃない? でもその一瞬が過ぎた後、残った数十年のうちに透子ちゃんを愛してくれる人と会うかもしれない。なのにそんな人と出会えないままなのは、嫌じゃない?」
僕は嫌だ──と、学さんが力強く私に訴える。
今まで彼は『そうだったらいいな』とか『こういうふうに見える』とか、できる限り自分の意思よりも相手の意思を尊重していた。
だけど、私が誰にも愛してもらえないと言ったときだけ、学さんはきっぱり断言をした。
──そんなことないよ。絶対、そんなことない。
その理由が今、わかった気がする。
「ごめんなさい……生きたいのに生きられなかった人たちがいるのに、生きられる私が死のうとするなんて。責められても当然だよ」
「透子ちゃんって、優しいよね」
「え……」
「多分すごく辛かっただろうに、俺のこと気遣ってくれて」
初めて会ったときのように、学さんの手が私の前髪に伸びてくる。だけど今度は私の視線の上をすり抜けて、頭の上に柔らかく置かれると、その手が私を撫でた。
「死にたいって思う気持ちは、全力で生きている証拠だよ」
その時に見えた彼の表情は、優しさとも慈しみとも違う。
どこか、愛おしそうな眼差しだった。
──男なんてみんな、バカでウソつきでロクでもないの。
お母さんは口癖にように言っていた。
でもそれって、本当なのかな。
学さんがかけてくれた言葉や、撫でてくれる手付きの何もかもが、他の人には感じたことのない感情を私にくれる。心が温かくなる。
学さんがウソでも私の恋人役になってくれるのは、ご両親が亡くなったからこその義務感かもしれないけど。
それでも、私が今感じる幸せな感覚は……ウソじゃないと思う。
自分の感情に覚えがなくて、戸惑った。思えば、学さんに会ってからずっと、頭の中は彼のことばかりが占めていた。
これは、好き、なんだろうか。
「学さん、恥ずかしいです」
「あ、ごめん。つい」
学さんが手を私の頭からどける。
「嫌だった?」
「嫌……じゃないです。私達、〝恋人〟なんですし」
「……そうだね」
そろそろ帰ろうかと言われ、駅の改札をくぐってホームに降りる。
ホームに滑り込んできた電車に乗って、最寄り駅まで揺られている間、いつもの学さんにして珍しく、感慨深げに外の景色を見たままずっと黙っていた。
「今日はありがとうございます」
「うん。元気になった?」
「はい、だいぶ……」
言いかけてハッとする。
いままで過ごしてきた恋人同士の時間は、ぜんぶウソの上で成り立っている。
死にたかった私が、ウソでもいいから好きだと言ってほしいって、やけっぱちになって叫んでしまったのが始まりだ。
だけど今は、ブチも見つかって、あの時の衝動みたいな死にたい気持ちも学さんのお陰でだいぶ薄れてきた。そうなったら、もう彼に恋人役をやってもらうことも、なくなってしまうんじゃないか。
ふとした時に、いつものドライで達観した、本心を押し付けない彼に戻って、「じゃあもう大丈夫かな」なんて言い始めるかもしれない。
なんとなく、嫌だった。
まだこのウソを突き通していたい。
でも学さんはもう高校三年生で、今は二月──大学受験期だ。もう一ヶ月したら高校を卒業してしまう。
そうなったら、もう会うことすらできなくなるんだろうか。
それどころか、新しい場所で本物の彼女を見つけることだって、彼なら簡単にできそうな気がした。なのにそれをウソで縛り付け続けることが正しいんだろうか。
「あの……学さんって、高校を卒業したらどうするんですか? 大学?」
学さんは静かに首を横に振る。
「いや、働く」
「今、昼に行っている職場で働き続けるんですか?」
「実は、もうちょっと給料の良い職場を探してるんだ。できれば正社員就職したくて」
学さんは急に、電車の手すりを両手で掴んでうなだれた。
「でも就職先が見つからなかったらどうしようって、それが不安だ」
「え……学さんでも不安になることってあるんですか」
「あるよ。不安ばっかり。体壊して家賃が払えなくなったらどうしよう、とか。周りは大卒なのに自分だけ高卒の正社員でキャリアは大丈夫なのかな、とか。新しい職場が見つかっても、そこに馴染めるだろうか、とか」
手すりを掴んだ手に顔を預けて、学さんは力なく笑う。
「ほら、基本僕ってひとりだからさ。友達も多くないし、頼れる人も限られてて相談先もあまりないからね」
「ひとり……」
いつも大人びていて達観している学さんの弱いところを、初めて見た気がした。
こういう時、なんて声をかければいいのかわからない。
『絶対、就職先見つかりますよ』。『だって学さん、すごくいい人だもん』。
どれもこれも、ただの無根拠な気休めのような気がした。
私が就職先を保証できるわけもない。学さんがいい人だからって、就職できるとは限らない。
だけど、彼が望むような未来が来てくれたら、それが一番私にとっても幸せだった。
「あの、愚痴聞くだけなら、私でも聞けます」
「ん?」
「う、ウソでも、私は恋人だから。学さんが私の話を聞いてくれたみたいに、私も学さんの話、聞くだけならできます。ぜんぜん頼りないかもだけど」
「頼りなくなんかないよ」
被せるように、学さんが力強く答える。手すりから顔を離して、微笑んだ。
「じゃあ、一つだけお願い聞いてくれる?」
「なんでも言ってください」
「ウソでもいいから、『絶対、就職先見つかります』って僕のこと励まして」
「えっ……」
そんなことで、いいの?
「あ、透子ちゃん今、そんなもんでいいのかって顔したでしょ」
「い、いえとんでもない」
「ははっ」
学さんが口を開けて笑った。
「ウソでも気休めでも、言葉が欲しい時があるんだよ。特に……ひとりになりがちな、きみや僕のような人間にはね」
さあ、と学さんが促してくる。
私は深呼吸をした。
「新しい就職先、絶対見つかります。……だって、学さんはいい人だから」
かけた言葉がホントになる保証もないけど、この気持ちはウソでも気休めでもない。
学さんはいい人だし、だからこそ就職先が見つかって欲しい。
この気持ちは、私の本音だ。
「絶対、見つかります」
「……うん」
学さんは、太陽に視界を照らされた時のように、眩しげに目を細める。
「ありがとね」
その表情は、これまで見せてくれた中で一番弱々しく見えたけど、でも一番、学さんらしい笑顔だと思った。
「透子ちゃん」
少しだけ背の高い位置にある彼と、目が合う。
相手の目尻が細くなって、視線に絡め取られた。
「好きだよ」
その日はなぜだかぐっすりと眠れた。いろんなことが起きて疲れたせいかもしれない。
朝起きて、昨日までの学校やお母さんの態度が変わることは決して無かったけど、夜中にまた学さんに会う必要があるかと思うと、死ぬに死ねないような気がした。
いや、本当は、昨日の彼の手付きが気になって仕方がなかった。前髪に触れて、少しだけかすめた指先の温度がまだいつまでもぬくく残っているみたい。授業中も塾への道も、なんだか落ち着かない。
いっそ前髪、上げちゃおうかな。
塾まで少し時間があったので、駅中の百貨店に入ってヘアピンを探しにヘアアクセのお店を見てみた。
「なにこれ……」
手に取るヘアピンの一つ一つが、銀や金に輝く大げさな飾りを付けた大げさなものばかりだった。私が思い描いていたのは、タダの黒いヘアピンだったのに。
それに値段を見てみたら、千円以上する。お母さんには必要最低限のお金しか渡されていないし、バイトも禁止されていたから手持ちがなかった。お小遣いも、バイトも、全部男の人と遊ぶことが万が一にないように、コントロールされているからだ。
「……はぁ」
結局学さんっていう恋人ができたところで、私の生活は何一つ変わらない。上向きになっていた気持ちが急に萎んだ。ヘアピンが買えたって、美弥や女子たちにまた何か言われるだろうし。
家に帰ったお母さんに、また浮ついたことをしているのかと勘ぐられて学さんのことがバレたらと思うと、怖い。
「恥っず……」
手に取ったヘアピンを置いて、さっさと塾への道に戻った。
その後は普通に講義を聞いて、また九時頃に帰って、早寝なお母さんを起こさないように二十三時頃にアパートを抜け出して、また公園から少し歩いた橋の上で学さんを待つ。
「あ、透子ちゃん」
しばらく川の湿った匂いをかぎながら待っていると、道の向こうから柔らかい声がした。
振り返ると、今日も昨日と同じ鞄を持った学さんが、幼さの残る目を大きく見開いて、手を挙げる。
「よかった。来てくれるかどうか、半信半疑だったんだよね」
「来なかったらどうしてたんですか」
学さんは口をすぼめて肩を上下させる。
「透子ちゃんは僕がいなくても立ち直れたのかなぁ、って思ってたかも」
昨日も思ったけど、学さんは結構ドライな人だ。だって、死のうとしてた私のこと、怒りもしないし、警察にも届けなかったし。
そこに私がいたから助けただけで、そこに自分がいたから恋人役になっただけ、という感じ。
「もちろん、〝恋人〟に会えなくなるのは淋しいけど」
「……よくわかんないです」
そう正直に言うと、学さんはちょっと困ったように苦笑した。
昨日と同じコンビニに寄った。コーヒーを奢ると言われたけど、断った。相手も高校生で、しかも受験生だし、そんなに私に払うお金があるとも思えない。それに、後で返せなんて言われたら私ひとりではどうしようもないのだ。
「昨日の後、どうだった?」
学さんもコンビニで何かを買うわけでもなく、ガードレールに腰掛けて私に他愛もないことを聞いてくる。
「……別に。フツウです」
「フツウかぁ」
面白みもないことしか言えない自分に、学さんを付き合わせていることが申し訳ない。何かもっと、生産的なことを言えないんだろうか。
男の人って、どんな話題が好きなの? 女子相手にすら会話をしていないのに、年上の恋人を相手に、何を話せばいいかなんてわかるわけがない。
視線を地面の靴に向ける。俯くことが癖になってしまった。落ちてきた前髪が邪魔で、耳の間にかけ直したけど、また落ちてくる。
「そういえば、前髪を……上げようとしたんですけど」
「お、いいね。透子ちゃん、多分髪上げたほうが似合うと思う」
「でも、やめました」
こうやって答えると学校の子達だったら、「絶対に合うよ!」なんて無根拠な励ましを押し付けてくる。
だけど学さんは、
「ふうん、どうして?」
と、共感も否定もしないで理由だけ淡々と尋ねてくる。
やっぱり学さんって、高校生にしてはちょっとヘンだなと思った。距離感、というか。むやみに踏み込んでこないのがオトナ、っていうか。
でも男子高校生なんて、そんなもんなんだろうか。
私は百貨店でのことを話した。
黒いヘアピンを探してたけど無かったこと。百貨店のヘアピンはみんなキラキラしていて気後れしたこと。たとえ気後れせずとも、お小遣いが無くて買えなかっただろうこと。
一通り話を聞いてくれた学さんは、ガードレールから腰を浮かせた。
「ちょっとまってて」
言うだけ言って、私を残してコンビニの中に入っていく。
数分後、手に何かを持ちながら戻ってきた学さんは私の前に立ち、「はい」と小さな袋を差し出してきた。
「あ……」
フィルムに入った、黒いヘアピンだった。
「黒いヘアピンなら、百均か、割高だけどコンビニにも売ってるよ。これ使って」
「で、でもお金……!」
「いいよ。僕稼いでるから」
「稼いでるって……あ、ちょっと」
私がいいとも悪いとも言っていないのに、学さんはその場で袋の封を開けてしまった。これじゃあ返品もできない。
そのままヘアピンを袋ごと差し出されて、反射的に受け取るしかなくなってしまう。
「あ、ありがとうございます……」
恐る恐るヘアピンを一本取り出す。ここで前髪を上げてしまわないと、買ってきてくれたものが無駄になるような気がした。
前髪を真ん中でかき分けて、ピンを挟む。ゆっくり差し込んでみる。それを、真横にいる学さんに、微笑みとともに眺められる。
心臓がまたバクバクした。
何か裏があるんだろうか。お母さんが言っているみたいに、今はウソをついて後でなにか酷いことを言われるんだろうか。お金返して、とか。それとも、前髪をいざ上げてみて『似合わない』とかって、持ち上げたものを下げてみせるんだろうか。
だって、私は誰にも愛して貰えないから──。
「こっち見てみて……うわ、やっぱ似合う」
──だけど彼は、蔑むでも騙すでもなく、素直にそう言ってくれた。
「ほんとですか……?」
「うん。透子ちゃんって、名前とおんなじだよね」
「え?」
「『透』って透き通ってるって意味でしょ? 肌も綺麗だし、目もぱっちりしてるし、髪上げた方が表情が透き通って見えるよ」
「……」
ウソだ。
とっさにそう言おうとして、口をつぐむ。
──透子の『透』は、透明人間の『透』のはずだ……。
学さんがこんなに私を褒めるのは、ウソの恋人だからだ。
今の私は学さんの彼女、ってことになってる。ただし、私が死ぬのをやめるまでは、っていうタイムリミットつき。
そう思うと目を合わせられない。俯こうとしたと同時に、学さんの手がヘアピンの袋に伸びた。
「一本貸して」
学さんは、スッと伸ばした指でヘアピンをもう一つ掴んだ。それをピンで留められた私の前髪に持っていく。
「あ……」
また、昨日と同じように指が額につっと触れた。さっき私が挿したヘアピンにクロスさせるみたいに、もう一本のヘアピンを前髪に留める。
「ん、ちょっとオシャレになったんじゃない?」
「っ」
とっさに前髪を手で押さえた。
オシャレ、だなんて、私に向けられた言葉じゃないみたい。
「は、恥ずかしいです」
「え、そう? 校則違反にもならないし。それに、かわいいよ」
「かわ、いい」
ウソ、だ。
「恋人をかわいく思わないやつなんていないでしょ」
ウソの恋人だからそんなこと言うんでしょ。
──男なんてみんな、バカでウソつきで、ロクでもないの。
「わ、私、もう帰ります」
「あ、ねえ」
大股になってアパートに帰ろうとしたところを、声に呼び止められる。
振り返ると、学さんがスマートフォンを持っていた。やけに旧式で、使い古されたやつ。
「連絡先、交換しない?」
帰ろうと飛び出した数歩を、早足に戻る。スマートフォンを取り出す。
連絡先のIDを交換した時、あんなにきらいなお母さんに心の中で『ごめんね』ってつぶやく私がいた。
ごめんね。
内緒で男の人と連絡先交換して、ごめんね。
だけどどうしても、お母さんの言いつけを守ってまで学さんを振り切ろうとは思えなかった。
オシャレ、も、かわいい、も。
戸惑いと同じくらい、耳に心地よかったから。
◇
それからしばらくは、数日に一度、恋人みたいなことを続けた。
夜中にお母さんが寝た頃合いを見計らって家を出て、学さんと合流して、コンビニで数十分だけ話す。
そんな日々の繰り返しが少しだけ変化したのは、恋人になって二週間ほど経った時だった。
深夜に寝る直前、学さんがスマホにメッセージを送ってきたのだ。
『一日だけ、夕方ごろに会えない?』
夕方に会う? 学さんに?
頭の中でぐるぐると思考が回る。
お母さんになんて言い訳をしよう。というか、明るいうちに会うなんて、大丈夫なんだろうか。いや、フツウは真夜中に男の人と会う方がよっぽど怖いのに、夕方に学さんと会うのが怖いだなんて、変だ。
『なんで、夕方に会う必要があるんですか?』
返信から数秒も立たないうちに既読が付く。そこからピロンと浮かんだポップアップの文字を見て、私はベッドの上で飛び上がった。
『ブチが見つかったよ』
人生で初めて、塾を休んだ。
無断欠席をすると塾側からお母さんに電話をされるかもしれないから、自分でスマホを使って、自分の意志で塾の電話に休むと連絡を入れた。
それだけで指が震えた。しかも休む理由は、普段お母さんが蔑んでいる、男の人と待ち合わせをするためだ。
相手がブチじゃなかったら、こんなことしてない。
学さんが指定した待ち合わせの場所は、保護猫カフェだった。
建物への道を早足に歩く。通行人が私を監視しているみたいに見えて、身体を小さくしながら鞄を思い切り抱きしめた。
もしかして、ブチを餌に危ないところへ連れて行かれるんじゃないの──と、私の冷静な部分が囁いてくる。
でも、今までだって私を誘拐しようと思えば、できたじゃん。男の人でも、学さんは大丈夫かもしれないでしょ──根拠のない自信が冷静な私を押し込める。
そうしているうちに、駅から歩いて数分のビルにたどり着いた。エレベーターで三階に上がり、猫のステッカーが貼られたガラス扉の前に立つ。
中を覗くと、パーカーとジーンズ姿の学さんがこちらに気づいた。はたから見ると中学生みたいだった。
扉が開いて、ドアベルが鳴る。音で私に気づいた学さんが立ち上がった。
「今日、ブチいるって。受付しよう」
いつもだったらこちらを気遣って雑談をしてくれる学さんが、一も二もなく受付に急いだ。
荷物を置いて、消毒をして、猫のいるスペースに入る。
猫たちは、にゃぁと鳴いたり、ふす、と唸ったりしながら思い思いの場所で過ごしている。
学さんが、キャットタワーを指さした。
「あの子」
指差した先で、白い猫が丸まって寝ている。
息を止めて、恐る恐る近づいてみる。
幸せそうに寝ている白猫は、尻尾の縁だけが黒くなっていた。
「……ブチだ」
ブチがいた。ちゃんといた。
それがわかった瞬間、喉が詰まった。
本当は喜んで、叫んで、学さんと手を叩いて喜びを分かち合いたいくらいに嬉しかったのに、涙が出てきて止まらない。
「ブチ……!」
ブチは少しだけ目を開けたけど、私なんか知らんふりで、身動ぎした後また寝てしまった。
だけど、それでもよかった。ブチがどこかにいてくれるってわかっただけで、今までの嫌な記憶や孤独がすっと胸から消えていくのがわかった。
「よかったね」
学さんが、私の背中にそっと手を添えてくれた。
答える代わりに、涙を腕で拭きながら、私は何度もうなずいた。
帰り際、カフェのスタッフさんが、ブチについて詳しいことを教えてくれた。
「ああ! 尻尾だけ黒い白猫ちゃんね。アパートの住民さんから連絡があったんですよ。可愛がっていたのに大家さんが猫よけを設置しちゃってひもじい思いをしているだろうから、引き取ってくれないかって」
「そうだったんですか」
よかった。
「ブチはアパートの皆様に愛されてたんだねぇ」
店員さんはテキパキと手続きをしながらしみじみとそんな事を言った。
私だけがブチに愛されて癒やされてるって思ってた。
「ブチ、愛されてたのかな」
「そうだったらいいね」
学さんが優しさで寄り添うように、短く答えた。
「……うん」
「あ、やっと笑った」
ポツリとつむじに落ちてきた声に、バッと顔を上げる。
「透子ちゃん、笑っている表情の方がいつもより透き通って見える」
学さんが頬を緩めて、心の底から嬉しそうに唇を弓なりにした。
駅まで送っていくと申し出た学さんの厚意に甘えて、人が行き交う駅までの大通りを二人で歩いた。行き交う人の肩にぶつかりそうになってとっさに避けると、私の学生鞄が学さんの腰にぶつかってしまう。
「あ、ごめんなさい」
「ううん。ここっていつも人多いよね。もうちょっとこっちおいで」
学さんがそっと手を掴んで、引いて、歩道側に私を導いていく。
冬の寒さの中で、握ってくれた手が温かい気がした。
どうしよう。こんなことしちゃいけないのに。
でも、誰も見てないし。通行人たちは私達のことなんか気に留めもしない。お母さんの言っていることとは真反対のことをしている私のことを、誰も見て見ぬふりしてくれているみたいだ。
もう少しだけ、この時間を過ごしても、悪くないよね。
学さんが離しかけた指に、力を込めた。
「あの……ブチをどうやって見つけたんですか?」
「んー、ちょっとネットで画像を探しただけだよ。もしかしたらどこかで保護されてるかもって。ダメ元だったけど」
そうは言っても、数ある保護猫カフェの中からブチを見つけようとするなんて、途方も無いことだ。
駅が見えてくる。
私が立ち止まると、握っていた指がくんと引っ張られて、学さんも立ち止まった。
「どうしてあの日、私を止めたんですか」
ずっと疑問だった。
死のうとしていたとはいっても、学さんが赤の他人の私にこんなに良くしてくれる理由が、わからない。
なんて言ったっけ。危険な状況を一緒に乗り越えることで恋愛感情が芽生えるってやつ。……吊り橋効果?
それにしたっておかしい。
裏がある、とは思わない。だけど、理由はあるんじゃないかと思う。
「どうして、ここまで気にかけてくれるの?」
視線を受けた学さんは、心の底から困ったみたいだった。口では「んー」と考えるような声を出すけど、顔は考え事をしているというより、言うべきことは決まっているのに、言ってもいいかどうかを悩んでる感じの表情だ。
「……ホントはね」
果たして、学さんはいつもよりいっそう真面目な声になった。
「ブチのこと、前から知ってたんだ。透子ちゃんに会う前から」
「え?」
「あの都営アパート、通学路だし。あんなに特徴的な猫だから、よく覚えてたし、僕も時々触らせてもらってた」
あの日、死のうとしたあの真夜中に私と出会ってなかったら、学さんはブチを探してたんだろうか。
「ちょっと、話そうか。長くなるかもだけど」
私達は、駅の中に避難する。冷たく刺すような寒気が遮断されて、ホームの温かい暖気が改札から私達の居るところまで抜けてくる。
「僕、夜間定時制の高校に通ってるって言ったでしょ」
「はい」
「端的に言うと僕って、就労学生なんだよね」
「しゅうろうがくせい」
「昼には働いて、夜に学校へ行ってる、ってこと」
そういえば、ヘアピンを買った時、学さんは自分をして「稼いでるから」と言っていた。
あの言葉は、文字通り昼に働いているって意味だったんだ。
学さんが、高校生にしては誰よりも大人びて見える理由がわかった気がした。決してませているのでも、背伸びしているのでもない。働いている分いろいろな経験をしたおかげで達観している、というのが本当の学さんなのかもしれない。
「働いてるって、なんで」
「僕の親、事故で亡くなってるんだよね」
「え……」
「僕が二歳くらいの時らしい。全然覚えた無いけど、車の事故だったとかって」
頭のてっぺんから、一気に血の気が引いた。指先が痛いくらい暖気で温められていた身体が、嫌な悪寒に冷えていくのを感じる。
学さんはご両親を亡くした後、親戚のお家に預けられていた。だけど、このご時世では子供が一人増えただけで生活が大変だからと、高校になって自分の意志で働くようになったらしい。
「ま、そういうわけだから、橋から川に落ちようとする透子ちゃんを見て、見過ごせないなって思った。僕、記憶はないけど親がいないことが悲しかったから、透子ちゃんのことだって、誰かが悲しいと思うんじゃないかってね」
「そんな人──!」
いるわけない。そう言う前に学さんが首を振って言葉を続ける。
「死にたいって思うのって、一瞬じゃない? でもその一瞬が過ぎた後、残った数十年のうちに透子ちゃんを愛してくれる人と会うかもしれない。なのにそんな人と出会えないままなのは、嫌じゃない?」
僕は嫌だ──と、学さんが力強く私に訴える。
今まで彼は『そうだったらいいな』とか『こういうふうに見える』とか、できる限り自分の意思よりも相手の意思を尊重していた。
だけど、私が誰にも愛してもらえないと言ったときだけ、学さんはきっぱり断言をした。
──そんなことないよ。絶対、そんなことない。
その理由が今、わかった気がする。
「ごめんなさい……生きたいのに生きられなかった人たちがいるのに、生きられる私が死のうとするなんて。責められても当然だよ」
「透子ちゃんって、優しいよね」
「え……」
「多分すごく辛かっただろうに、俺のこと気遣ってくれて」
初めて会ったときのように、学さんの手が私の前髪に伸びてくる。だけど今度は私の視線の上をすり抜けて、頭の上に柔らかく置かれると、その手が私を撫でた。
「死にたいって思う気持ちは、全力で生きている証拠だよ」
その時に見えた彼の表情は、優しさとも慈しみとも違う。
どこか、愛おしそうな眼差しだった。
──男なんてみんな、バカでウソつきでロクでもないの。
お母さんは口癖にように言っていた。
でもそれって、本当なのかな。
学さんがかけてくれた言葉や、撫でてくれる手付きの何もかもが、他の人には感じたことのない感情を私にくれる。心が温かくなる。
学さんがウソでも私の恋人役になってくれるのは、ご両親が亡くなったからこその義務感かもしれないけど。
それでも、私が今感じる幸せな感覚は……ウソじゃないと思う。
自分の感情に覚えがなくて、戸惑った。思えば、学さんに会ってからずっと、頭の中は彼のことばかりが占めていた。
これは、好き、なんだろうか。
「学さん、恥ずかしいです」
「あ、ごめん。つい」
学さんが手を私の頭からどける。
「嫌だった?」
「嫌……じゃないです。私達、〝恋人〟なんですし」
「……そうだね」
そろそろ帰ろうかと言われ、駅の改札をくぐってホームに降りる。
ホームに滑り込んできた電車に乗って、最寄り駅まで揺られている間、いつもの学さんにして珍しく、感慨深げに外の景色を見たままずっと黙っていた。
「今日はありがとうございます」
「うん。元気になった?」
「はい、だいぶ……」
言いかけてハッとする。
いままで過ごしてきた恋人同士の時間は、ぜんぶウソの上で成り立っている。
死にたかった私が、ウソでもいいから好きだと言ってほしいって、やけっぱちになって叫んでしまったのが始まりだ。
だけど今は、ブチも見つかって、あの時の衝動みたいな死にたい気持ちも学さんのお陰でだいぶ薄れてきた。そうなったら、もう彼に恋人役をやってもらうことも、なくなってしまうんじゃないか。
ふとした時に、いつものドライで達観した、本心を押し付けない彼に戻って、「じゃあもう大丈夫かな」なんて言い始めるかもしれない。
なんとなく、嫌だった。
まだこのウソを突き通していたい。
でも学さんはもう高校三年生で、今は二月──大学受験期だ。もう一ヶ月したら高校を卒業してしまう。
そうなったら、もう会うことすらできなくなるんだろうか。
それどころか、新しい場所で本物の彼女を見つけることだって、彼なら簡単にできそうな気がした。なのにそれをウソで縛り付け続けることが正しいんだろうか。
「あの……学さんって、高校を卒業したらどうするんですか? 大学?」
学さんは静かに首を横に振る。
「いや、働く」
「今、昼に行っている職場で働き続けるんですか?」
「実は、もうちょっと給料の良い職場を探してるんだ。できれば正社員就職したくて」
学さんは急に、電車の手すりを両手で掴んでうなだれた。
「でも就職先が見つからなかったらどうしようって、それが不安だ」
「え……学さんでも不安になることってあるんですか」
「あるよ。不安ばっかり。体壊して家賃が払えなくなったらどうしよう、とか。周りは大卒なのに自分だけ高卒の正社員でキャリアは大丈夫なのかな、とか。新しい職場が見つかっても、そこに馴染めるだろうか、とか」
手すりを掴んだ手に顔を預けて、学さんは力なく笑う。
「ほら、基本僕ってひとりだからさ。友達も多くないし、頼れる人も限られてて相談先もあまりないからね」
「ひとり……」
いつも大人びていて達観している学さんの弱いところを、初めて見た気がした。
こういう時、なんて声をかければいいのかわからない。
『絶対、就職先見つかりますよ』。『だって学さん、すごくいい人だもん』。
どれもこれも、ただの無根拠な気休めのような気がした。
私が就職先を保証できるわけもない。学さんがいい人だからって、就職できるとは限らない。
だけど、彼が望むような未来が来てくれたら、それが一番私にとっても幸せだった。
「あの、愚痴聞くだけなら、私でも聞けます」
「ん?」
「う、ウソでも、私は恋人だから。学さんが私の話を聞いてくれたみたいに、私も学さんの話、聞くだけならできます。ぜんぜん頼りないかもだけど」
「頼りなくなんかないよ」
被せるように、学さんが力強く答える。手すりから顔を離して、微笑んだ。
「じゃあ、一つだけお願い聞いてくれる?」
「なんでも言ってください」
「ウソでもいいから、『絶対、就職先見つかります』って僕のこと励まして」
「えっ……」
そんなことで、いいの?
「あ、透子ちゃん今、そんなもんでいいのかって顔したでしょ」
「い、いえとんでもない」
「ははっ」
学さんが口を開けて笑った。
「ウソでも気休めでも、言葉が欲しい時があるんだよ。特に……ひとりになりがちな、きみや僕のような人間にはね」
さあ、と学さんが促してくる。
私は深呼吸をした。
「新しい就職先、絶対見つかります。……だって、学さんはいい人だから」
かけた言葉がホントになる保証もないけど、この気持ちはウソでも気休めでもない。
学さんはいい人だし、だからこそ就職先が見つかって欲しい。
この気持ちは、私の本音だ。
「絶対、見つかります」
「……うん」
学さんは、太陽に視界を照らされた時のように、眩しげに目を細める。
「ありがとね」
その表情は、これまで見せてくれた中で一番弱々しく見えたけど、でも一番、学さんらしい笑顔だと思った。
「透子ちゃん」
少しだけ背の高い位置にある彼と、目が合う。
相手の目尻が細くなって、視線に絡め取られた。
「好きだよ」