『男っていうのは、みんなバカでウソつきでロクでもないの』
 ……というのが、私のお母さんの口癖だった。
 昔お母さんが、私のお父さんだった人に捨てられて、苦労したせいらしい。
『不純異性交遊とか、同棲とかなんとか、ほんっと(けが)らわしい。透子(とうこ)、あんたは絶対にひとりで生きていかなきゃだめ』
 そんな調子でお母さんは一つ一つ私の行動を束縛してきた。
 男子と喋っちゃだめ。スカートは履いちゃだめ。体育の水泳は出ちゃだめ。
 そんなことを言われ続けていたら、小学校では母さんが潔癖症だってウワサが広まった。そのせいで男子から集団で囲まれて、お母さんのことをからかわれた。男の子に『かごめかごめ』みたいに囲まれるのは、なかなか言葉に出来ないくらい怖い体験だ。その日から、私自身もなんとなく男の人が苦手になった。
 もちろんこれにはお母さんが大激怒。中学と高校は女子校に入学させるって、私の身の丈に合わない偏差値の女子校を受験させられた。
 受かったのは良いけど後が大変で、勉強は付いていくので精一杯だった。
 塾に行って、家に帰っても夜更かしして机に齧り付く。好成績を取るのは私自身の目標じゃないのに、なんでこんなことをしなきゃいけないの、って時々むなしくなる。
 もちろん高校生になっても、スカートの裾を上げるとか、化粧をするとか、髪を染めるとか、そんなものは言語道断。お母さんいわく、電車で痴漢にあったらどうするの、地味な格好をして行くのが一番安全でしょ──とのこと。
 前髪を隠して、丈の長い制服のスカートを履いて、私は今日も寝不足になりながら、教室にひとりぼっちで昼ごはんを食べている。
「高校生にもなって一度も彼氏すらできたことがないって、今どきあり得ないよね?」
「やめなよぉ、透子(とうこ)に聞こえるよ?」
「事実なんだからしょうがないじゃん」
「聞こえてないかもよぉ? 透子ちゃんの『透』はぁ、透明人間の『透』だもんねー!」
 私の斜め前で机をくっつけている女子たちが、私に聞こえるように言って、きゃははと甲高く笑う。
 そのうちの一人、美弥(みや)が首を私の方に向けた。ふんわり茶髪のロングヘアをしていて、顔も飛び抜けてかわいい。スカートはもちろん裾を上げて腿を見せている。成績も優秀でみんなに愛されるカースト一位。
 そんな美弥が、トドメとばかりに言った。
「あんな根暗で地味なやつ、誰にも愛されないんだから」
 私はただ顔をうつむかせて、相手の言葉に耐えるしか無かった。ずっと切っていない前髪が、ざらっと束になって落ちてきて、視界が暗くなる。
 いじめとまでは行かないけど、高校に入って以来、こうして言葉でねちねち攻撃され続けている。
 クラスでハブられるようになったきっかけは、ほんの些細なことだった。
 高校に入学したての頃、美弥に話しかけられたのが始まりだ。
『スカートの裾長くない? 上げなよぉ』
 美弥はお人形みたいにふんわり笑いながら、私のスカートの裾を折り上げようと手を伸ばしてきた。相手にとっては百パー厚意だったと思う。
 私はお母さんの言いつけを破ってしまうんじゃないかって怖くなって、とっさに美弥の手を弾いてしまった。
 その日から私はカースト最下位に認定され、美弥の主導によりクラスで孤立させられた。
 入学してからもう十ヶ月間、ずーっと、こんな感じ。うちの高校ではクラス替えもない。だからこの生活は、後二年続く。
 だけど私は、美弥にも周りにも言い返そうって気にはどうしてもなれなかった。
 だって、女子の言ってることはみんな正しいから。私がたぶん、間違ってるから。
 お母さんの言ってることがおかしいし、それを当たり前のことだと思いこんで律儀に従ってた私だって間違えてた。
 地味で、彼氏なんかいたことなくて、ブスで、根暗で、男子と喋るって想像しただけで怖くなる。
 こんなやつ、誰にも愛して貰えない。


 拷問みたいな学校の時間が過ぎて、塾に行き、夜もとっぷり暮れてから家に帰る。古い都営アパートの向かいには広い公園がある。それを横切って階段を上り、扉を開ける。
「ただいま」
「ちょっと透子、来なさい」
 『おかえり』の代わりに、怒った声が返ってくる。玄関を踏み鳴らして現れたお母さんが、昨日テーブルに置いていた中間試験の結果表を持っていた。
「あんた、なんなのこの成績。前より下がってるじゃない」
「……すみません」
 すぐ謝るのがいけなかったのか、声が弱々しいのがいけなかったのか、お母さんは一層目くじらを立てた。
「すみません、でどうにかなるのは学生までよ。あんたまさか、外で男作って勉強をおろそかにしてるわけじゃないわよね?」
「え、そんなことしてないよ」
「だったらなんで成績が下がるの? 塾代いくら払ってると思ってるの!」
 お母さんの、大きなため息。私に『そんな子に育てた覚えはありません』って責めているみたいだ。
「いい? お母さんはいい学校、いい大学に行かないまま結婚して離婚したから苦労したの。だからあなたに同じ苦労をしてほしくない。わかる?」
「……」
 結婚とか、離婚とか。
 わかんないよ、正直。
 だって、小学校の男子とすらまともに手を繋いだこと無かったのに、分かれと言われてもムリだ。
「……わかった。夜ご飯食べたら、勉強するから……」
「それでいいの。とにかく、まずは及第点を取り戻しなさい」
 お母さんは納得したように強く良い含めて、リビングの方へ戻っていく。
 靴置きの上に置かれていた時計を見ると、もう夜の九時になろうとしていた。これからご飯を食べて、お風呂に入って、歯磨きをして、勉強して──。
 気がおかしくなりそうだった。


 勉強を終えた頃には、もう二十三時を過ぎていた。
 なんにも進まなかった。寝る時間を削っているのに、ろくに集中できなくて、文字を追うたびに目が滑る。
 諦めて教科書を閉じ、ベッドに潜り込んだけど、やっぱり今日も眠ることができない。身体は疲れてるのに目ばかりがぎんぎんと冴え渡って、脳が身体に『寝るな』、『寝るな』と命令しているみたいだった。
 泣きたくても、声を上げたらお母さんが気づくかもしれない。気づいたらまた問い詰められて、男に何かされたのか、とか変な勘ぐりをされるに決まってる。
 ベッドから体を起こして、カーテンを少し開ける。窓越しに見えるアパート外の公園は、外灯で薄暗く照らされていた。
「……ブチ、今日もいるかな」
 布団から這い出て、音を立てずに廊下に出ると、そっとアパートの扉を開いて外に出た。
 ちょっとだけ。ちょっと外に出るだけだ。
 ブチというのは、猫の名前だ。と言っても、私が勝手につけただけで誰かに飼われているわけじゃない。尻尾の先だけ黒くて、それ以外は白い特徴的な野良猫だ。
 夜な夜な公園にやってきては人間を見つけると茂みから出てきて、人間慣れしているのか足元にすり寄ってくる。もしかしたら都営アパートの住民が餌付けしているのかもしれない。
 高校生になってから十ヶ月。昼も夜も気が休まらないのに、それでも毎日を過ごせるのは斑のおかげだった。
 ブチは相手がどんな人間でも、どんな姿をしても関係ない。触らせてくれるし、つぶらな瞳で甘えてくるのが私にとっては癒やしだった。
 ──あんな根暗で地味なやつ、誰にも愛されないんだから。
 美弥が放った言葉も、ブチだけは例外なんだ。
 だから……。
「ブチー? おいでー」
 小さく、近所迷惑にならない程度に、公園の茂みにしゃがんでブチの姿を探す。
「ブチー?」
 いつもならブチと一回や二回呼べば、向こうから鳴いて出てきてくれるのに、今日はどういうわけか、いくら探しても出てきてくれない。
 もどかしくなって、花壇の茂みをかき分ける。
 どうしよう。これからブチがいなくなったら、私──。
「いっ! ……た」
 暗がりで手元がおぼつかない中、花壇を探っていた指に尖ったものが刺さる。とっさに手を押さえながら痛みの原因に目を向けて、息が止まった。
 猫よけのシートだ。
 黒いトゲトゲしたやつ。
「あ……」
 頭が追いつかない。誰が。一体誰が猫よけなんて……。
 気づいたら公園を離れて、橋の前に来ていた。
 走った記憶がないのに息が切れていた。現実から目を背けたかったのかもしれない。
 橋の手すりに思わず手をついて、黒く轟々と流れる川を見下ろす。頭の中がどくどくと脈打って、思考が現実に戻ってくる。
 そうだ。
 ブチは、もう私の前にに現れないんだ──。
 そう思った瞬間、私の中で何かが切れた。

 ◇

「──きみ、大丈夫!?」
 私を助けたのが男だと知った瞬間、この橋に来るまでの記憶がぶわりとなだれ込んできた。死のうとしたことに対する走馬灯、みたいなものかもしれない。
「あ……」
 私、男の人に肩を思い切り掴まれて、引きずり降ろされたんだ。
 小学校の時、大勢に取り囲まれてからかわれたときの怖い思い出が蘇る。
「いやっ!」
「ちょ、まって!」
 もう一度橋を乗り越えようとして、今度は相手に腕を掴まれる。振り払おうとするのに、力が強くて全く解けない。
「やだ、離してよっ!」
「落ち着いて」
「だって、ブチが……!」
 もうブチが来てくれないから。私の癒しがどこかに消えちゃったから。茂みのどこを探してももういないから。
「ブチって?」
 相手の手が少しだけ緩んだ。だけど私が行動を起こす前に質問をされて、振り払うタイミングを見失う。
「……猫」
「飼い猫? 死んだの?」
「ううん。野良猫。白い毛で、尻尾の先だけ黒い猫。いつも夜に撫でてたのに、今日だけどっか行っちゃって……っ」
「いつも触ってる野良猫がいなかったから、死のうとしたの?」
 男の人は事実を確認しただけだけど、それがものすごく責められているみたいに聞こえてくる。
「だって……!」
 だって、そう答えるしかないじゃない。
 相手の顔をできるだけ見ないようにして、もう一度、男の人が掴んでいる手を振りほどこうと、腕を振り払う。
 泣きたかった。
「だって、ブチしか私を愛してくれないから!」
 ……違う。
 本当は、ブチだって私のことが好きで近づいてきてるんじゃないって、わかってた。
 ブチにとっては、人間なら誰でもよかったんだ。だって、猫だから。
 俯いていた顔を、キッと上げる。
「私みたいなやつなんか、誰にも愛して貰えないんだから!」
 私はその時になって初めて、相手の顔をまともに見た。もっと大人だと思っていたその人は、私と同い年くらいの若い男の人だ。もしかしたら高校生かも。ちょっと童顔、かもしれない。
「そんなことないよ、絶対、そんなことない」
 目を大きく見開いて、怒っているわけでも、軽蔑しているわけでもない表情で、その人は当たり前のようにそう答える。
 なんなの。
「無責任なこと言わないでよっ!」
 あんたに私の何がわかるの。
「なんの関係もないじゃない! 初対面だからそんなこと言えるんでしょ!」
「初対面だけど、一度助けたのにもう一度死んじゃったら僕は嫌だなって、思うよ」
「なんなの。絶対そんなことないって、意味分かんないよ……!」
 お父さんの顔も知らないし、お母さんは私のためとか言ってホントは自分のことしか考えてないし、女子にはいじめられるし。
 わけわかんない。苦しい。
 涙が勝手に溢れてきて、それを相手に見せるのも恥ずかしかった。思い切り目を閉じて地面に向かってありたけ叫んだ。
 誰でもいいから、助けてよ。
「だったら、ウソでもいいから今ここで私のこと好きだって言ってよ!」
「好きだ」
「言えないくせに……え?」
 今、なんて言った?
 一秒の間もなく、相手から言われた言葉の意味を思い浮かべてみる。
 起こったことが信じられなくて、恐る恐る顔を上げた。
 男の人が、決して冗談で言ったんじゃないとわかる真剣な表情をしている。
 眼の前にいるのが幻なんかじゃないって、言ってくれた言葉も幻聴なんかじゃないって、そう言い聞かせるために、男の人は静かな声でもう一度私に言った。
「好きだ」



「とりあえず、そこのコンビニの前まで行かない? 人が居ないところで話していても怖いでしょ」
 そう言われて、私は黙って男の人とコンビニに移動した。彼は一度店内に入ってホットコーヒーを二つ買ってきて、一つをこちらに手渡してきた。
「はい。僕のおごりね」
 再び現れた男の人の顔を、まじまじと見る。
 こざっぱりとした短い髪、前髪はほどほどに長い。顔は形こそ童顔だけど、どこか垢抜けて見えた。
 なんというか、時々配信動画インタビューで見るような現役男子高校生の誰とも雰囲気が似ていない。強いて言えば大学生とか……童顔の教師とか、どこか私よりも大人びた印象を受けた。
 顔ばかり見つめていたせいか、相手がキョトンとしながら首を傾げる。
「もしかして、コーヒー苦手だった?」
「あ……いえ。ありがとうございます……」
 知らない男の人から何かを貰うなんて怖かったけど、着の身着のままで来たので二月の寒さに耐えるほうが大変だった。コーヒーを受け取って、コンビニの光に鈍く照らされているガードレールに私達は並んで腰掛けた。
 男の人はポケットの財布からカードを取り出してこちらに差し出す。見てみると、学生証だった。
 なんとなく、書かれた名前を口に出してみる。
「……広川学(ひろかわまなぶ)
「そう。僕、広川って言います。高校三年生」
 年、私と二つしか違わないんだ。
「この学校の名前、聞いたこと無いです」
「ここから電車で一時間くらいのところにある、夜間定時制がある高校です。夜の九時に終わるんだけど、色々やってたら帰宅がいつもこの時間になる」
「夜間定時制……」
 彼の話によると、私みたいに日中に通う学校は『全日制』という括りらしい。それに比べて夜間定時制は午後の五時頃から始まって、九時頃に終わるのだとか。
 なんのために夜の学校へ通うのかはいまいちよくわからない。寝坊グセがあるとか、不登校だった人とか、そういう人のためにあるのかな。
 だからこの人は、こんな夜更けに道を歩いていたのか……。
「ちょっと落ち着いた? 僕はこのとおり怪しい者じゃないんで、ちょっと安心できるといいんですけど」
 広川さんが私の様子を伺いながら声をかけてくる。
「あ、はい……だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」
 今更になって、さっき橋の上でのことを思い出して、掴まれたほうの腕をさすった。
 ほんの十分前まで、私、死のうとしてたんだ──。
「さっきの言葉さ、」
 広川さんが、コーヒーを飲んだ唇を舐めてから、切り出した。
「さっきの言葉?」
「『私は誰にも愛して貰えない』ってやつ」
「……」
 一時(いっとき)、地獄みたいな時間から逃げられると思っていたのに、広川さんは話を現実に戻してしまった。
「どうしてそう思うのかな、って。単純に疑問? っていうか」
「……」
 相手の疑問に答えるかどうか迷い、言葉が詰まる。
 広川さんは最初から無理に答えなんて求めていないのか、
「ブチって子が戻ってきたら、ちょっとは楽になるのかな」
 と、独り言みたいに続ける。
「……たぶん、楽にはならないと思います」
 そうだ。ブチが戻ってきたって、私の生活は何一つ変わらない。
「お母さんは自分のことで必死で、一言目には『私のため』、『私のため』なんて言って、実際は私のこと全然見てくれないし。友達もいないし。『私みたいなやつは誰にも愛して貰えない』って言われるんです」
 コーヒーを飲もうとカップを傾けていた広川さんの手が止まる。彼が視線をこっちに向ける気配がした。
「なにそれ。ひど」
「でも、ホントのことだし、私なんか、地味で根暗で……」
「そうかな?」
 広川さんの身体が半歩分近づいてきて、あっ、と思ったときには私の額に彼の手が伸びていた。
 指が私の前髪をそっとかき分けてきて、コンビニの青白い光に照らされた広川さんの顔がさっきよりもよく見えた。思ったより、目鼻がくっきりとしてる。
 ぎゅ、と心臓が掴まれたような気がした。
 どうしよう。男の人に触られた。
「前髪とか上げたら、きっと明るくて──」
 バシン。
 はっとした時には、私の手が彼の手を強く弾いていた。
 遅れて、とんでもないことをしてしまったと気づく。今まで感じたことがないくらい鼓動がバクバクと暴れてる。
「ご、ごめんなさい……っ」
 美弥が私に話しかけてきたときと、同じことをしちゃった。
 まただ。この人からも嫌われてしまう。
 やっぱりもう、生きていけないかも。
「こっちこそごめん!」
 だけど私の怖い予想に反して、広川さんはそう言いながら手を空中に彷徨わせた。
「初対面の人の前髪に触るなんて、無神経なことして、ほんとごめんなさい」
「あ、いえ」
「今日はもう、家に帰ったほうがいいよ。親御さん、心配すると思う」
「え……」
 さっき会ったばっかりなのに、帰ったほうがいいと言われて、急に距離を取られたような錯覚がした。
 前髪に触られたけれど、死のうとしてたところを助けてもらって、コーヒーも奢ってくれた。数分誰かに優しくされただけで、あの日常に戻るのが急に恐ろしくなる。
 何も言えない私に、広川さんは困ったように眉を寄せた。
「もしかして、帰りたくない?」
 正直に言葉を言うのは、こんなに勇気がいるんだったっけ。
 顔を上げられないまま、『男の人は怖いですけど、家にも帰りたくないんです』って、正直に言うべきかどうか迷った。
 だけど広川さんは、私を急かしてこない。
 もしかしたらこの人は、私が正直な気持ちを言っても、怒ったりしないんじゃないか。そんな根拠のない事を考えて、深く息を吸った。
「……はい。帰りたくなくて……」
「そうか。うーん」
 ほんの少し考える声になったけど、すぐに「じゃあこうしよう」とはっきり言ったので、私は顔を上げた。
「この時間に、僕とまた会おうよ」
「えっ、なんで?」
「え? なんで……って?」
「だ、だって! そんなの迷惑ですし!」
「死んじゃうよりは迷惑かけてもらったほうが百倍マシだから」
 いや、そんなことより真夜中に男の人と会うなんて、そんなこと、怖くてできない……!
「なんで広川さんは、私なんかにかまってくれるんですか。なんの関係もないじゃないですか」
「死なれるのは僕が嫌なんだよなぁ。あ、うーん……それは僕の都合で、きみと関係はないってことなんだろうな、きっと……」
 頭を掻いて、ああどうしようかな、とその場で視線を泳がせて、広川さんはさっきまでの大人びた雰囲気から、初めて高校生らしいしぐさになる。男子高校生なんて見たことないから、予想でしかないけれど。
「じゃあ」
 広川さんは身体に芯を込めた。
「僕たちは、今から偽装恋人ってことにしよう」
「……はい?」
「ええと、ほら。『ウソでも好きだって言って』ってきみに言われたし。好きだって言っちゃったし、僕」
 私……からかわれてるんだろうか。
 広川さんが私を助けたのは実のところ彼女が欲しいからで、適当に通りすがりの私を選んで、飽きたらはいおしまい──なんてことにならないだろうか。
 広川さんは男の人だ。男の言葉を真に受けるなんて……。
 相手の表情を見上げて、はっとする。
 広川さんは提案の内容とは真逆に、まるで懇願するみたいな瞳を私に向けてくる。
 死なないでくれ、と訴えているみたいな表情だ。
「ここで死んじゃうなら、ウソでもおふざけでも、全部やってからにしようよ」
「……」
 一瞬でも、彼を疑ってしまった私が、恥ずかしくなった。
 ──男なんて、みんなバカでウソつきでロクでもないの。
 お母さんは口癖のようにそう言っていた。
 だけど目の前の広川さんは、ウソつきかどうかはわからないけど、バカでもなければ、ロクでもなくない。
 私を助けてくれて、こっちが怖くないよう気遣ってコンビニに移動してくれて、コーヒーを奢ってくれた。
 だったら、私を縛ってくるお母さんの言いつけよりも、美弥たちの暴言よりも、目の前の広川さんの言葉のほうが、もっとずっと信じられるような気がする。
「わ、わかりました。ウソでいいなら、恋人に……」
「うん、そうしよう」
 なんとなく煮えきらない声になってしまった私に、広川さんが頬をほころばせる。
「死にたくなくなったら、やめればいいんだから」
 広川さんは、コーヒーを持っていない方の手を、音もなくすっと差し出してきた。
「そういえば、きみの名前ってなんだっけ?」
「と、透子です。綾瀬(あやせ)透子」
「透子さんね。ウソの彼氏だけど、これからよろしくね」
「あ……はい」
 差し出された手をおずおずと握る。
 男の人に触れても、この時だけは震えも吐き気もしなかった。
「今から、この世界の誰がきみを愛さなくても、僕だけは透子さんのこと好きだって言い続けるよ。死にたい、が、生きたい、になるまで」
 相手が私をこの世界に繋ぎ止めようとするみたいに、橋の上で言ってくれた言葉を広川さんがもう一度繰り返した。
「透子さん、好きだ」