あの夜以降──私と俊哉が会うことは二度となかった。
暫くは俊哉に自分のこと、両親もことを報告するメールを送っていたがやがてその頻度は減っていった。

ただ本格的に美大合格に向けて受験勉強を始めたころ、正直、あまり勉強が得意ではなかった私は担任の先生から英語の成績が悪く、このままではD判定だと言われひどく落ち込んだことがあった。

(ダメだ……眠れない)

明日も学校だからと目を瞑るが担任の先生からのD判定が頭から離れない。

(先生、まだ起きてるかな……)

布団の中でスマホを見れば、真夜中0時すぎだ。

私は思い切ってD判定だったこと、もう美大生になれなんじゃないか不安に思っていることを俊哉にメールした。

──『優の頑張りはきっと報われる。迷わず前だけ見つめて』

『でも……美大生になれる未来が思い浮かべれないの。もう神頼みするしかないかも』

美大生になれないかもしれない、そう文字にしただけだ目頭が熱くなる。

──『未来は誰にもわからない。それはきっと神様もわからないんだ。優の人生も未来も優が描いて強い心を持って優が切り拓いていかなきゃいけないから……優が自分の力を信じて思い描く未来を、望む未来を得られることを僕はいつもいつも応援しています! 頑張れ優! 負けるな』

その熱い心からのメッセージに私の目からはやっぱり涙が転がった。悲しいからじゃない。寂しいからでもない。嬉しかったから。

私は何度も何度も俊哉のメッセージを目でなぞってから『絶対負けない。合格して画家になる夢を必ず叶えるから』と返信した。これが俊哉とやりとりした最後のメッセージだ。

それから私はどんなに不安な夜も自分に負けそうになる夜も俊哉からの最後のメッセージをお守りに、必死に机に向かう日々を繰り返した。


けれど……人間、そう上手くはいかない。苦手な英語は絵を描く時間を削っても睡眠時間を削ってももなかなか学力が伸びず、私が途方に暮れていたとき、手を差し伸べてくれたのは長谷川さんだった。長谷川さんとは私がクリスマス会の栞の絵を描いたことをきっかけにできた初めての友達だ。

そんな長谷川さんから実は帰国子女で英語が堪能だと聞いたときは、私は長谷川さんがミステリー小説好きだと知った時よりも驚いた。

そして迎えた卒業式では別れがつらくて二人で沢山泣いて目を腫らしたのは、今でもいい思い出だ。

※※

(いよいよだなぁ……)

私は少し背伸びして買ったシャツワンピースにカーディガンを羽織り、今から始まる大学での初めての美術の講義に胸を高鳴らせていた。

教室の窓からは遅咲きの桜が春風にのって、ふわりふわりと舞い込んでくる。

(まさか、合格できるなんて)
 
そう。今春──私が入学したのは俊哉から教えてもらった第一志望の〇△芸術大学だ。

そして、私がこんなにも胸を高鳴らせているのは講義が楽しみなのも勿論あるが、入学する前に貰った資料で私はある名前を見つけたから。

その名前を目にした時は、まるで奇跡のような出来事に心が震えた。

(あー……どきどきする……)

私は騒がしい教室の片隅で何度も深呼吸を繰り返す。

その時、手に持っていたスマホにメッセージが入って身体がびくんと震えた。

──『ねぇ、優。彼には会えた?』

メッセージを送ってきたのは長谷川さんこと純菜だ。自他ともに認める親友の私たちは今や互いを名前で呼び合っている。

『もうっ、まだだよ! 純菜のせいで急にスマホ震えてびっくりしたじゃん』

──「笑! ごめんごめん。つい優の彼のことが気になって、また週末ランチの時、報告宜しく』

私はおどけたような純菜からのLINEにOKのスタンプで返事をした。

そして、緊張を和らげるようにいつも持ち歩いているスケッチブックを鞄から取り出すと、ぱらりと開けた。そこには何枚も同じ男性の模写が繰り返しデッサンしてある。

またいつかもう一度会いたくて、忘れたくなくて、私は記憶を頼りにあの夜の彼を何度も何度もデッサンし続けていたのだ。

──ガラリと扉の開く音がして、私は予想していたにも関わらず心臓が大きく飛び跳ねる。

見れば見覚えのある長身のスーツ姿の男性が颯爽と教室に入ってくる。

「皆さん、お待たせしました。今年度、美術でデッサン科目を担当させていただきます。講師の神代俊哉です」

俊哉は白いボードに黒のマジックでサラサラと名前を書くと、「くましろしゅんや」とフリガナを振った。更にその横に見たことのある可愛らしいシロクマの絵を書くと、俊哉は名簿を確認しながら生徒一人一人の名前を呼んでいく。

そして──「春野優(はるのまさる)

そう呼んでから俊哉が私を見て大きく目を見開いた。 

「神代先生、(ゆう)です」

「あ!えっと……ごめん。春野優さん、だね」

俊哉は私をじっと見ると、そのあと恥ずかしそうに頭を掻きながら目尻を下げて笑った。

その笑顔があの夜と同じなことにほっとして、それと同時に自分の心の中のモノがゆっくり形を変えていくのがわかった。それが何と呼べるモノなのかまだわからないけれど、桜の花びらにによく似た淡く切ない感情が私の中に小さく芽生えて膨らんでいく。

きっとこれから私はまた貴方に恋をするんだろう。あの日からずっと忘れられなかった。

──真夜中の嘘から始まった、私の初めての恋を。


※※

私は今日も窓から吹き込む春風に心地よさを感じながら鉛筆を握りしめる。そして今日もミケランジェロそっちのけで貴方を見ながら淡い恋心をデッサンする。

「こら、マサ……春野さん、今日のデッサンはミケランジェロだぞ」

見上げれば私の真横にはいつのまにか俊哉が立っていて私を見て困ったような顔をしている。

(あ、ラッキー)

私は至近距離から俊哉の柔らかそうな髪の毛に視線をさっと移すと、脳内で記憶してすぐにまたキャンバスに向かって黒髪を描いていく。

「聞いてるのか?」

「はいっ! 頑張って私なりにミケランジェロ描いてるところです」

そう言って私が舌を出せば、俊哉が柔らかい黒髪をガシガシと搔いた。

「やれやれ。困ったな」

私は私のことで困る俊哉の顔も大好きだ。

いつかこのデッサンに貴方の心が映って私の心が乗っかって、やがて命が宿ることを密かに願いながら、私はずっとずっと恋するデッサンし続けるから。

──ね、俊哉センセ。