あれは高校三年生の夏だった。

自室の星座が描かれた時計の針はもう少しで日付の変更を告げようとしている。私はベッドに潜り込んだものの、時計の秒針の音になるべく聴覚を集中させる。

聴きたい音だけ聴こえるようになれたらいいのに。そんなありえない想像を嘲笑うかのように階下から今晩も怒声が聞こえてくる。

「あなたは私のことも、(ゆう)のことも何にもわかってない!」

「毎日毎日、身を粉にして家族の為に働いている俺の何がわかるんだ!」

私はぎゅっと瞑っていた目を開けると静かにため息を吐きだした。

一階から聞こえてきたのは毎日毎日飽きもせず繰り返される両親の怒鳴り声だ。私は耳を塞いでも聞こえてくる両親の声にいっそ耳が聞こえなくなればいいのにと何度願ったことだろう。

(うるさい……いい加減にして……)

私はベッドの下に転がっていたヘッドフォンを耳につけるとオルゴール調のゆったりとした音楽を流す。流行りのものは好きじゃない。バラードもアップテンポの曲もどうでもいい。

心が壊れそうになるのを毎晩ヘッドフォンと子守唄のような優しいメロディーで何とか誤魔化し守ってきたがそろそろ限界だ。

「優は私が引き取りますからっ!」

「お前に育てさせられるわけないだろう! 優は俺が育てる! お前こそさっさと出ていけっ!」

やめて。やめて。もうやめて。

「……ひっく……消えちゃいたい……」

何もかもが嫌になる。自分がなんだか惨めで悲しくて私は布団の中で膝を抱えた。こうやって小さく丸ってなって、朝起きたら姿かたちが一粒残らずなくなっちゃえばいいって近頃の私は本気で思っている。

「……どうしてうちはこうなんだろう……」

小さな頃は仲が良かった。お金をかけなくても、公園でピクニックをしたり動物園に行ったり、どこにでもあるありきたりの普通の家だったのがいつからか、どこにでもあるとは思えない程、大嫌いで帰りたくない家になったのかはわからない。

「パパもママも……大っ嫌い……」

毎日毎日些細な事から言い争う親を見て子供はまともになんか育たない。親ガチャなんて言葉があるけど、本当にその通りだと思う。私は見事にはずれてしまった。

「……もう疲れた……」

私は枕の下からスマホを取り出すと検索画面に入力をしていく。

『パパ ママ 心 疲れた 寂しい 死にたい 死神 出会い 助けて』

真っ暗の中、ただ浮かんだ心の声を私は気づけば羅列していた。臆病な私は本当に死ぬ勇気なんてきっとない。死に方だってわからない。

でもいま目の前に死神が現れたら私は迷うことなく死をお願いするだろう。ここが小説の世界ならば死神なんてものが現れるのかもしれないが、実際は現れるわけもなく、こうしてネット検索をしても死神に必ず会えるサイトなんてものも当然存在しない。

あるのは怪しげなうたい文句で女子高生を誘い込もうとするパパ活サイトや出会い系サイトの数の多さにうんざりしただけだった。

「馬鹿だな……所詮こんなもんだよね。現実なんて」

私は指をスクロールさせながら勝手に流れてくる涙を何度も拭った。

「……どうやったらラクに死ねるんだろ。パパとママの前から消えちゃえるんだろ」

その時だった。

(ん?)

私はあるサイトが目に入った。

──『心が疲れたら僕が貴方の心の声を聴きます。シロクマ先生より』

──『寂しがり屋専門・こころの相談所 シロクマ』

(心が疲れたら……)

その文言に惹かれるように私は気付けばそのサイトのURLをクリックしていた。

クリックするとすぐに目に飛び込んできたのは、可愛らしいりんごを持ったシロクマのキャラクターだ。そして背景は目が覚めるようなセルリアンブルーの色をした青空に真っ白な雲が浮かんでいる。

「わ……絵、上手だな……」

私は小さな頃から絵を描くのが好きで今も暇さえあれば勉強よりも絵を描いている。書くのは主に身近な物の模写ばかりだ。

目の前の物に静かに向かっていれば嫌な事を忘れるから。そして気づけば夢中で自分の目で見た物を命を吹き込むように再現していく作業は、寂しくて悲しい心を一瞬忘れることができるから。

「水彩画かな?」

私はもぞもぞと布団から顔だけ出すと窓辺の方に体を向けた。そして月明かりの下で自分のスマホをのぞき込む。

シロクマのマスコットがこちらに向かってにこりと微笑んでいて、私は気付けばふっと笑みが零れていた。私は『寂しがり屋専門・こころの相談所 シロクマ』のサイトの紹介文に目を通していく。

多くの情報は書かれてはいないが、二十歳以上なら誰でも登録可能で、利用料金は無料。登録後いま抱えている心の悩みや相談ごとを送れば、このサイトの運営者であるシロクマ先生が返信してくれるシステムのようだ。

(でもこれ……出会い系とか、パパ活とかじゃないのかな)

誰でもいい。誰かに今の自分の気持ちを聞いて欲しい。吐き出したい。そう思うのに見ず知らずの他人が無料で運営していることに不安と疑念が頭をよぎる。

死んでしまいたいなんて大それたこと思っていたくせに結局、私は臆病で小心者だ。

「え……」

──『最後に。生きることに疲れてしまった君へ ひとりじゃないよ』

スクロールしていって最後に記載されたそのメッセージを私は二度、三度と目でなぞった。

(ひとりじゃない……か)

私は覚悟を決めると『会員登録希望』ボタンを押す。すぐに画面が切り替わり、名前と年齢、性別、そしてメールアドレスの項目が出てくる。

「名前か……」

勿論、本名でなくて構わないとサイトには補足説明が書いてある。

「でもなぁ……なんでもいい名前って難しいな」

学校では陰キャと呼ばれる私に友達はいない。勿論、彼氏がいたこともない。さらには音楽や流行りのTikTotにもまるで興味ない。好きなドラマも漫画も推しもいない。
ベッドの中で頭を捻るが自分の名前以外に何にも浮かんでこない。

「何か好きなもの……とか?から取れたらいいけど。私の好きなものって絵しかないしな……」

寂しがり屋な私のそばにあって一緒にいて心に寄り添ってくれるのは、ずっとスケッチブックと鉛筆だけだった。

「あ……っ。そうだ。自分の名前……春野優(はるのゆう)の優を……訓読みにして『マサル』にしよ。これならシロクマ先生も男の子だと思うだろうし」

私はずっと前に絵画コンクールで銀賞を受賞したことを思い出した。書道が上手だった当時の校長先生が私の名前を賞状に記入しながらずっと男の子だと思っていたと、賞状授与のあとこっそり話してくれたことをふと思い出した。

「いいよね……自分を守る嘘だもん」

私は名前の項目に『(マサル)』、性別『男』と嘘の記載をしていく。

「えっと年は……十八歳だけど……仕方ない。二十歳に……するしかないよね」

名前や性別だけでなく、年齢を偽るのは更に悪いことをしている気がしてなんだか鼓動が落ち着かない。

本当はいけないことをしている。
だって今、私は自分を偽って嘘をつこうとしている。
そもそも私は地味とはいえ長い黒髪に華奢な体つき、更に声はどちらかといえば同世代の中でも高い。そんな明らかに見た目はどう見ても女の私が男だと嘘をつくなんて、自分でもありえないなと思う。でも──。

「生年月日も書かなくていいし。絶対バレないから……いいよね?」

私は誰もいない部屋で疑問符を吐き出しながらひととおり入力した新規登録の項目をじっと見つめた。

今なら後戻りできる。なかったことにできる。けれど、この時の私は自分の抱えた『寂しい』を誰かに聞いてもらわなきゃもう満足に眠ることもできそうもなかった。

私は年齢『二十歳』とすると最後にメールアドレスを入力して少し震える指先で『送信』ボタンを押した。それと同時に時計の針は深夜0時を回る。

「……送っちゃった……」

すぐに間違えたことをした気がして心臓がトクトクと駆け足になって来るが今更遅い。私はサイトのマスコットキャラクターであるシロクマをただじっと眺めた。

──ブーッ。

「わ……っ」

ふいに震えたスマホに私はスマホを落っことしそうになった。

見れば届いたメールの送信元は『寂しがり屋専門・こころの相談所 シロクマ』だ。開けば早速、サイトの運営者だと名乗るシロクマ先生からのメッセージが表示されていた。

「嘘……っ、はや」

──『はじめまして、シロクマと申します。サイトへの登録有難う。何でもここに吐き出してくださいね』

そのメッセージの感じから何となくシロクマ先生は男性な気がした。

(良かった、性別男の子にしといて。これなら変に誘われたりってこともなさそう……)

私はすぐに返信をする。

『初めまして。マサルです。宜しくお願いします』

──『いい名前だね、優しい心の持ち主なんだろうね』

一瞬、画面に釘付けになった。

親から私の名前の由来は心が優しい子に育って欲しいとい意味を込めたと聞いたことがあったが、他人から優しい心をなんて初めて言われた。

でもそもそも『優』なんて文字、よく考えたら文字の意味なんかそれしかない。それにその文字なら他人のイメージとしては『優しい』一択じゃないだろうか。このシロクマ先生とやらは誰にでもそんな取っ掛かりで会話してるのかもしれないな、なんて思った。

でも、私が偽名を使っている可能性が大いに高いとメールの相手であるシロクマ先生も理解した上で、どこの誰かもわからない私の為にそんな言葉をくれたシロクマ先生にほんの少しだけ興味が湧いた。

『良かったら俺にもシロクマ先生の名前も教えてください』

私はちゃんと一人称を『俺』だと嘘を書けていることを確認してからメッセージを返す。

──『僕の名前は俊哉です』

(俊哉……としや?)

やっぱりシロクマ先生は男性なんだと思うと共に今どきの子にしては古風な名前から私より随分、年上の男性の気がした。

(三十代から四十代とか?)

そんなどうでもいいことが頭に浮かんでから私は首を振った。

「どうせ相手も偽名だし、シロクマをマスコットにするくらいだから、お腹がぽっこり出たおじさんじゃん。ってかそんなこともどうでもいいし……」

やっぱりこんなとこに登録しなきゃよかった。

なんかこんな雰囲気でいきなり『親が不仲で生きるのに疲れたとか』『明日には消えてなくなっちゃいたい』なんて重すぎる。

私はサイトを閉じるとスマホの画面を暗くして枕の横にそっと置いた。私から送らない限り向こうから送って来ることもないだろう。そんな気がした。

(はぁ……余計眠れないや……)

──ブルッ

(あれ?)

布団に潜り込んだのもつかの間、私はすぐに震えたスマホに手を伸ばした。

(もしかして……)

──『此処は寂しいを吐き出す場所だからいつでも寂しいを落としていいからね。マサル』

私は暫くその画面を眺めていた。

寂しいことを『言う』とか『書く』とかじゃなくて、『落とす』って言葉が印象的だった。

こんな世間から見たら可哀そうな私が寂しいを吐き出していいんだって、辛くなったら寂しさも涙も落っことしちゃっていいんだってどこかほっとした。

私は気付けば指先で、今の心のありのままをただ吐き出していた。そして真夜中の星空に向かって電波に乗せて、この世のどこかにいる俊哉(としや)にメールを送る。

今思えば泣き虫で言いたいことが上手く言えない寂しがり屋の私は、この時すでに俊哉への淡い恋心が芽生えていたのかもしれない。