──それは私が真夜中についた、ほんの小さな嘘だった。

その頃の私はいつも苦しくって、理由もなく泣きたくなって。

いつもいつも生きることがしんどかった。
誰でもいい。
ただ誰にも言えない寂しい心の声を聴いて欲しかった。
ここに私がいるんだってことを誰かに気づいて欲しかった。


──桜舞う四月。 

念願の美大生になった私は今日も大学の校舎の二階の端にある美術室でキャンバスに向かっていた。

(はぁ、今日もいい気持ち……)

窓辺からは春風に乗って桜の花びらがふわりと舞い込むと私のキャンバスの上にちょこんと乗っかった。 

(ふふっ、可愛い。桜の花びらって小さなハートみたい……) 

私は手元の腕時計でまだ彼がやってこないことを確認すると鞄からスケッチブックを取り出した。そしてスケッチブックを広げれば鉛筆片手に頭の中の彼を思い出しながら、ゆっくりと輪郭を描いていく。

サラサラの長めの黒髪。薄目の唇に鼻筋の通った鼻。トレードマークの黒ぶちメガネから見える少し目じりがたれた切れ長の目。 

(あ、もうちょっと頬骨出てたかも……)


その時──ガラリと扉の開く音がして、私はまだ輪郭だけしか描けていないスケッチブックから視線を上げた。

長めの前髪を揺らしながら入ってきたのは神代俊哉(くましろしゅんや)先生だ。

俊哉先生は腕に抱えていた、胸までのミケランジェロの石膏を教壇にことりと置く。そして生徒の出席を取るとすぐに今日のデッサンについて熱く説明を始める。

熱心なその様子に私は今日も口元を緩めた。

「いいか、この顎のラインをシャープに描きつつ、男性特有の骨ばった頬骨を陰影をつけながら……指の腹で優しく……」

私はこの春に念願の〇△芸術大学に入学したばかりの一回生で、俊哉先生は今年からこの大学で美術を教えている非常勤講師だ。

初対面同士であるはずの私と俊哉先生には誰にも内緒の二人だけの秘密がある。

それはあの日──真夜中に私が嘘をついたことから始まった秘密の出会い。


私はこっそりスマホを開くと壁紙に設定している、あるサイトのクマのマスコットキャラクターにふっと笑みを漏らした。

「じゃあ、この辺りで説明は一旦置いといて、各自描き始めてくれるかな」

私はスケッチブックを膝に乗せるとミケランジェロを眺めるフリをしながらキャンバスに向かって鉛筆を走らせていく。

あの夜、私が貴方に出会えたこと。
そして、私を貴方に出会わせてくれた『マサル』に私は未だに感謝している。

あの夜、貴方に会ってなかったらいま私はどこで何してただろう。

こんな気持ちで絵を描けていただろうか。

──貴方に恋していただろうか。