寝床に寝転がったって、どうしても眠れない。
明日が、彼女の命日かもしれない。
彼女が、死んでしまうかもしれない。
ピロロン♪
ブルルルとスマホが鳴った。
画面に表示された、“月”という文字。
俺は急いでスマホを開き、送られたメッセージを見つけた。
【会いたい】
そのあとどうしたと思う?
もちろん走った。
思い切り。
絵具と鉛筆、そしてスケッチをリュックに押し詰めながら。
早くいかなきゃ…彼女はもう、遠くへ行ってしまう気がして、怖かった。
きっと彼女は、あそこにいるだろう。
寒い風が、俺のはだをつきさす。
やっぱり彼女はそこにいた。
猫をなでながら、優しく笑っていた。
「…月」
今日はもう、逃げられない。
「久しぶり、北斗くん」
「…うん」
あぁ、なんであの時、あんなことを言ったんだろう。
いまさら後悔しても、もう遅い。
「忘れてって言われたのに、結局、いっつも頼っちゃうなぁ。キミのこと」
「っ…」
彼女は静かに笑った。
「ごめんね。北斗くん。やっぱり、キミを忘れることなんてできなくて…」
「いいんだ!いいんだ。忘れないで…」
それは、か細い声だった。
忘れないでほしい。なんて、かっこ悪いにもほどがある。
告白と言い、セリフといい…かっこ悪い。
「…うん。忘れない。絶対忘れないよ」
月は嬉しそうに答えた。
「……もう、会えないかもしれないの。だから…いいよね?」
「…会えないかもしれないって……」
「聞いたんでしょう?お母さんから。明日…しゅづつを受けるんだ。これが、最後かもしれないんだ」
「……」
やっぱり、そうだ。
夢なんかじゃなかった。
「…ウソって言ってほしかった」
「……うん」
「明日も、生きててほしい」
「…うん」
「まだ、月と一緒に居たかった…」
「うん」
「まだ、月のことが好きなんだ…」
「…」
「だから…」
「なんで、そんなこと言うの…?」
「…っ」
「私だって、一緒に居たい。私だって、北斗くんのこと、大好き…!」
月は悲しそうに言った。
でも、それでこそ月は泣かなかった。
「…ねえ、北斗くん」
「…なに?」
「大好き、だよ」
「…うん」
きっとそれは、俺と同じ意味ではない。
きっと、俺だけと同じ、言葉じゃない。
「……もう、さよならだから…描いてよ。最後の、私を」
月はにこりと笑って、猫に視線を落とした。
俺は鉛筆を握って、スケッチブックに芯を押し付けた。
これがきっと、最後の絵。
「私もノート、持ってきたんだ」
もう何時間たっただろう?
ようやく絵が描き終わって、彼女は“月ノート”を取り出し、一ページを開いた。
「結構埋めたね」
「そうだな」
「嬉しい。ありがとう、こんなに描いてくれて」
「…うん」
「たったの一年しか一緒に居ないんだね、私達って」
一年…。
長いような、短いような感覚。
でも、俺にとっては、短い一年だったと思う。
「…もう、ばいばいしなきゃ」
「え?」
彼女が言った言葉は、衝撃的過ぎて、頭に入ってこなかった。
「じゃあ…ばいばい。北斗くん」
「っ…」
またね、と言ってくれなかったことが、またつらい。
「…あのね」
浜辺で向かい合ったたち。
月は、微笑みながら言った。
「絵が、ほしいの」
「えっ?」
「キミが描いた、絵が欲しいの」
「で、でも…家にあるんだけど」
「うん。それでもいいから」
俺は家へ一度かえって、月に絵を渡す。
「ありがとう。これで…病室に飾れるよ」
「…」
そうだ。
彼女は、今頃病室に居なきゃいけない時間だろう…?
「っていうか、どうして今ここにいるんだ?病室に行かなきゃいけないだろう…?」
「あー。抜け出してきたんだ。北斗くんに、会うために」
「っ…」
俺の、ため…。
「ねえ、ギュってしてよ」
「…え?」
ギュってって…ハグって意味…??
「えっ、と…それって」
「ハグってこと。してくれる?」
「い、いや…でも……」
俺はたじろいでしまう。
だって、好意もない相手に、ハグなんてされていいのだろうか?
いくら月だって、嫌に決まっている。
「…北斗くんなら、いいんだよ。私の最後のお願い、聞けないの?」
“最後のお願い”
その言葉を聞いて、俺は衝動で彼女を優しく抱き込んだ。
「…あったかい」
月の声を合図に、俺はふぅっと息をつき、彼女を離した。
「…じゃあ、ばいばい」
最期まで、彼女は、笑っていた。
自分が死ぬというのに…。
もう誰にも会えないかもしれないというのに…。
「…北斗。大丈夫?」
「…うん」
俺は頷いて、部屋へと戻って、ベッドに寝転がる。
視線はなぜか、すぐに時計へと止まった。
時計の針は、午前二時を指していた。
俺が目を閉じると、いつの間にか眠ってしまった。
目を開け、再度時計を見ると、午前九時を指していた。
しゅづつはもう始まっている時刻だ。
「母さん!!」
「…北斗。どうしたの」
「月、月は…!?」
「…月ちゃんねぇ。もうすぐしゅづつが、終わるの」
「っ…」
俺は昨日のカバンをつかみ、すぐに家を飛び出した。
「る、月は…夜空月さんは…!?」
「は、はい…。三階の、突き当りの治療室にいらっしゃいますよ。今はしゅづつ中なので…あと十分ほどで面会できると思います」
「ありがとうございます…!」
俺は急いで治療室へと向かう。
ランプが赤く染まっている。
文字には、“しゅづつ中”と書いてある。
数分経つと、終了…と緑のランプに変わっていた。
病室から、先生のような人ができてきた。
「…あのっ!月は!?」
周りには人がいなかった。
月のお兄さん、お母さんたちですら。
「………」
先生は、視線を床に落として、ゆっくりといった。
悪い予感がしていた。
言われれる前に、そんなことを思ってしまう。
胸が苦しい。
気持ちが悪い……!
「…すみません…夜空さんの命は…あと二時間も持たないでしょう……」
「…」
すみませんで済まされることなら、とっくに俺だって、いろんなことをその言葉で乗り切っている。
すみませんで命を失うなら、家のばあちゃんだって、死なないだろう。
「………面会って、できますか?」
いつもの俺なら、きっと先生に殴りかかって、月に飛びついて。
俺だって死のうとしてしまうかもしれない。
それでも、俺の口から出た言葉は、静かで…落ち着いていた。
「…できますよ。今、月さんを病室に運びます」
まもなく、うっすら目を開けた月が、ベットの上で、運ばれながら病室に向かっていた。
俺もその後に続いて、病室に駆け込む。
どうしてだろう?
月が、死んでしまう、というのに。
涙さえ、出て来ない。
「…北斗、くん?」
「うん。月…気分どうだ?」
「……いいよ、すごくね」
彼女はにこりと笑った。
「ウソ、だろう…?」
「ウソじゃ、ない、よ」
「…」
月は…かわいそうだ。
死に際だって…ウソをついて、笑わなきゃいけない。
自分が死ぬというのに、泣くこともできない。
「…月」
「なあに?」
「泣けよ」
「…え?」
「泣いて、いいんだから。笑わなくて、いいんだから…」
「っ…」
月は驚いたようにこちらを向いた。
俺だって、わかってる。
もう月は…ダメなんだ。
月は、もう。
「…泣いて。あの日みたいに」
「……むり、だよ」
「むりじゃない。こらえているだろう?」
「……でも…泣いたら」
「誰も、嫌いにならない。泣いたからって言って、離れたりしない」
「…」
月は悲しそうだった。
それでも、優しく笑ってた。
「ちょっと、散歩しよう!」
数分経って、彼女は元気よく宣言した。
病室から出て、月は陽気に歩きながら、かつて向日葵が咲いていた場所へ足を運んでいた。
その場所へついたとき、もう向日葵は咲いていなかった。
変わりに、空からぽつぽつと、雪が降ってきた。
「もう、クリスマスイブなんだね」
「…そうだな」
「イルミネーション、見たかったなぁ」
「…見れるよ。俺が絵を描いて、キミに見せるから」
「……ねえ、私の仏壇にさ、キミの絵を飾ってほしいの」
“仏壇”
「うん。どれがいい?」
「たくさんあるんだよねぇ。飾りたい絵。でも…やっぱりあれかな。有明海の絵かなぁ…。やっぱり」
「……わかった。っていうか、知ってるか?冬休みの宿題で、絵のコンクールがあったこと」
「えーそんなのあったの?北斗くんは応募したんでしょう?」
「明日…わかるんだ。結果がね。キミに伝えたい」
「うん。一番に伝えてね」
「……だから」
「うん」
泣くな。泣くな…!!
俺が泣いていいことじゃない…!
「死ぬ、な」
やっと出た声は、震えていた。
こんなこと言ったって、月が困るだけなのに…。
「…わがまま言ってもいい?」
月は空を見上げたまま、静かに言った。
真っ白な髪が、ひらひらと、雪のように舞っている。
「…北斗くんは、きっとすごい画家になるよ」
声を張り上げた月の声は、震えていた。
まるで、空に声を張り上げるように。
「私が保証する!」
本音なんだなぁと思った。
ぽろぽろと、俺の目じりから、涙があふれでた。
月はいつでも、笑っていた。
「そろそろ、戻ろっか」
月が笑って言った。
「…」
これが最後だと、何となく思う。
「…じゃあ、月」
またばいばい、と言われるのだろうか。
もう会えないから、またね、と言ってくれないのだろうか…。
「…またねっ、北斗くん!」
月はそう言って、笑ってくれた。
「…また」
俺も笑った。
泣いてしまう。
あれほど泣いたというのに。ああ、最近俺は泣いてばかりだなぁ、と、つくづく思う。
俺の片目から、涙が零れ落ちた。
しばし笑いあった俺たちは、言葉を交わすことも、ましてや何かポーズをすることもなく、ただ突っ立って笑っていた。
周りの人たちが、怪訝な表情で俺らを見ていたとしても、この時間が俺たちにとって、どれだけ大切で、どれだけ愛に満ちているか、知らないだろう。
確かにそこには、強いきずながあった。
どうしようもない、愛おしさがあふれていた。
彼女は、去り際にも笑っていた。
枯れることを知らない俺の涙は、どんどん流れてきたけれど。
月は、それでも笑っていた―。
それから三十分後…“月が死んだ”という知らせを聞いた……。
彼女は最後まで、笑っていたようだった。
にこりと微笑みながら、去っていった、と知らされた。
母さんは泣いていた。
学校中のみんなが泣いていた。
橋本さんなんて、大声をあげて泣いて、泣いていた。
授業中だって、涙があふれながらも、ちゃんと勉強していた。
そのくらい、月はみんなにとって、大事な存在だった。
「蒼井くん…当選、しましたよ。美術館に、飾られています」
「…そうですか。ありがとうございます」
あれから、俺は、ずいぶん暗くなったと思う。
月の葬式が終わった後から、月の夢ノートをもらい、交換で海の写真を預けた。
でも…月のノートは、開けなかった。
開きたくなかった。
もうあの日から、一週間が経過したというのに…。
絵の中の彼女を見ると、あの日のように、優しく笑ってくれるんじゃないか、と考えてしまう。
今より元気そうで、優しく笑う月に、会いたいと思ってしまう。
だから、開きたくなかったんだ。
「…ねえ、北斗。そろそろ、開いたら?」
一週間と二日経ったその日、母さんが俺の部屋に入ってきて、ノートを手に取った。
「…でも…」
「月ちゃんは、きっと見てほしいと思っているわよ」
母さんの言葉に、ハッとした。
…そしたら、俺が一人で開いたら、月はいないと、突きつけられたように思ってしまうから、俺は開かなかった…開けなかったのだと。
母さんが去っていったあと、俺は置かれたままのノートを手に取った。
「…月。ねえ、見ても、いいか…?」
風がふわりと舞って、俺の耳をなでた。
俺は一ページをそっと開いた。
四角い枠に、二人で行ったところ、一つ一つにチェックがついていた。
次のページは、ほとんどついていない。
また次のページは、すべてついていなかった。
最後のページを開くと、追伸のような文と、手紙が挟まれていた。
手紙は机に置いて、文を読み始めた。
【久しぶり!きっと北斗くんのことだから、あんまりこれを開けなかったんじゃないかなー?当選はどうだった?北斗くんのことだから、きっと当選されているよね!見たかったなぁ。私、本当にキミの絵、大好き!】
そこで途切れた文。
何かを書こうとして、止めた印があった。
次に、手紙に封筒を開いた。
その時、ポトンッと落ちたカセット。
ラジオに移せるのだろうか…?
俺はカセットを横におき、入っていた手紙を読んだ。
【ここには、最後のお願いを記します!私が死んでも、泣かないでほしいんだ。
それと、笑って生きてほしいんだ。一緒に入っていたカセットはね、キミを勇気づけるために入れたの。きっと落ち込んでいるだろうから。それと、自分の絵も見てないでしょう?当選しただろうから、ちゃんと見てほしいな。っていうかね、私も当選したの!ごめんね、キミにウソついちゃった。
だから、ぜひ見てほしいな。
キミのために描いた絵だもん】
そこで終わった文字。
カセットのことも書いていたから、きっと彼女の声が記されているんだろう。
俺はカセットを近くのラジオにセットして、再生ボタンを押した。
〔北斗くんのアイドルっ!月だよぉ!って、なんか変だよね〕
笑った声が聞こえてきた。
これは、いつ撮ったものだろう?
〔これは、キミに告白されて、少し経ったときに撮ったものなんだ〕
久しぶりに彼女の声が聞こえて、安心した。
〔あのね…前好きだったっていうのは、ウソなんだ。病気持ちの私が、恋なんてして、彼氏でもできちゃったら…死んじゃうの、嫌になっちゃうから〕
悲しそうな声だった。
〔ねえ、大好きだよ!北斗くんっ!〕
「…うん」
思わず答えてしまった。
それくらい、安心してしまったから。
〔北斗くんは、北斗くんを生きて。死なないでね〕
…生きれるかな。
俺は、今まで通りの人生を、ちゃんと生きれるかな。
心の中で月に問い、俺は残り1分のカセットを、もう一度再生した。
〔…ほんとはね〕
すると、突然くらい声になった月が、ぽつり、とつぶやいたように言った。
〔わがまま、言いたかったの〕
〔甘え、たかった〕
〔ほんとのこと、言いたかった〕
〔君になら、いいかな〕
まるで涙のように、すれ違ったようにそういった月は、すぅ、と一度息を吸った音と共に、こういった。
〔本当はね…死にたくない〕
…ああ、本心なんだな、と思った。
始めて、本当の月と話したような気分だ。
〔…もっとキミと、一緒に居たかったの〕
泣いているのだろうか。
ぐすっと鼻をすする音と、うぅ、という嗚咽が聞こえてくる。
〔お母さんにね、もっともっと甘えたかった。このお洋服買って、とか、恋したから相談のって、とか〕
〔お兄ちゃんのお嫁さんの晴れ姿、見たかった。お兄ちゃんってば、勉強も運動もできるし、ギターも弾けるのに、自慢一つせず、一人で居るんだもん。もっと励ましたかったし、結婚式にも出席したかった〕
喉の奥から、何かの感情がこみあげてくる。
〔…もっとキミに、絵を描いてほしかった。もっとキミと、いろんな場所に行きたかった。私の絵だって、見てほしかった…!!〕
最後は荒々しく言い放った月は、もう一度鼻をすすって、こういった。
〔生まれ変わったら、絶対キミのお嫁さんになる。それが私の、ゆめだから〕
まるで最後に言うかのようなセリフに、安心感は一気に消え去っていく。
…消えるな。
止まるな。絶対に、このカセットを止めないで。
心の中でそう叫びながら、俺はつぅ、と息を吸う。
〔あ、そうそう。いつか話した、私の初恋の話、覚えてる?〕
「覚えてるに決まってるだろ」
無意識にそんなことを言いながら、あの時の話を思い出す。
確か、キミはきれいだと、言ってくれた男がいる…と。
〔あれ、実は君のことなんだよ。後から名前を聞いたら、北斗君っていう名前なんだって知ったんだ。それでまた再会したとき、運命みたいって思ったの。まあ、私の運命なんて、しぬことだけだけどね〕
あはは、と笑っているかのような声が聞こえてくる。
でもきっと今、彼女の顔は涙で濡れているんだろう。
〔もう一度再開したとき、キミは少し根暗になっていて、驚いたよ!あの時のさわやかさとは大違いっ!でも、キミだって確信してた。だから、いろいろ話しかけたりしたんだ。あー、そういえば、最初のころは不登校だったよね、私。あれ、実は海外の病院入ってて、なかなかこっちもどってこれなかったんだ。迷惑かけたよね、ごめんね〕
ああ、本当に迷惑かけたよ。
俺の隣が不登校だなんて、噂になってばかりで、最初のころはなれなかったんだから。
胸の奥で突っ込み、俺は笑った。
〔思えば、ずぅっと私、キミに片思いしてたんだね。あ、それはキミもか。病院で会ったって子、私だもん〕
サラッ…とネタ晴らしをしてくる月に、殴りかかりそうな勢いで、俺はずっこけた。
きっと月が今ここに居れば、俺はすぐさま、「そんな大事なこと、もっと早く教えてほしかった」というだろう。
〔…最後になるけれど、今までずっとありがとう。ずっと言えなかったこと、受け止めてくれてありがとう。もうあと数秒で容量一杯になっちゃうから、切るね。私の絵、ちゃんと観に行ってよねー!〕
ぐすっ、とまた鼻をすすったことが分かる音が聞こえ、俺の目からも、涙があふれ出た。
〔じゃあ、切るね。今まで、ありがとう。北斗くん。大好きっ!〕
そこでブツリと切れたカセット。
…終わったんだ。
もう、俺と月の関係は。
終わってしまったんだ。
ようやく、受け入れられた気がした。
月はまだ生きていて、またにこりと笑ってくれるんじゃないか、と考えてしまう。
でも、もうないんだ。そんな、ありえないことは……!
俺はその日、一人で泣いた。
月との、約束も守らずに…
次の日曜日、美術館に足を運んだ俺。
俺の絵は、特別室に飾られている。
周りにはたくさんの人がいた。
だけど俺は、迷わずその部屋にたどり着くことができた。
真っ赤なカーペットが敷いてある部屋は、どう見ても一流が描いた絵が飾られているようだった。
すぐに見つけた、俺のたったひとつの絵。
金の額縁に包まれた絵は、“大賞”と大きく書かれていた。
それは…まぎれもなく月だった。
優しい笑顔を張り付けながらも、一筋の涙を流している、“月”をそのまま描いた。
自分の表情をちゃんと表せて、にこりと笑う月。
それが、俺が夢に見た月の顔だった。
泣きたいときは泣いて、つらいときはつらいって言える、そんな月になってほしいと願いながら、描いた作品だ。
彼女の後ろの背景は、夕陽にした。
俺が彼女の絵を描くときは、決まってというわけではないけれど…よく夕陽だったからだ。
「…月。これを見てほしかったんだよな…?」
一人で勝手につぶやいて、そっとそこを離れようと、後ろを向いた俺の瞳に吸い付くような絵。
銀色の額縁に包まれた絵は、優秀賞と書かれていた。
名前欄には、“夜空 月”と書かれていて、思わず笑みがこぼれた。
「なんだ…自分だって絵、うまいじゃないか…」
それは、俺だった。
優しく笑った、俺がいた。
彼女がえがいた絵も、背景は夕陽だった。
周りの人が、「カップルの絵かしら?」と噂しているのが聞こえてくる。
まぁ、そう思われたって、しょうがないだろう。
ある意味同じ絵がらだったのだから。
でも。
もう月は、死んだ。
カップルも友達もないのだ。
もう、終わりなのだから。
俺は静かに、美術館を出た。
すると、俺の前に立ちはだかった、一つの影。
「あっ。蒼井北斗さんですか?」
それは、女の人だった。
面影が、月に似ている。
「…はい。えっと、月の親族の方、ですか?」
「あれ、月から聞いていたんですか?私はてっきり、聞いていないものかと」
「いえ…。面影が似ていたので」
「…そうですか。月から、渡してほしい、と手紙を渡されていましたので」
「…手紙?」
月は手紙を何枚書いたんだろうか。
俺は手紙を受け取って、すぐに紙を広げた。
[北斗くんへ。 きっと北斗くんは泣いてばかりでしょう?私の願いを、かなえてくれないでしょう?わかってるよ。北斗くんが大好きだもん。
でも約束を破るのはおかしいんじゃないかなー?
なーんちゃって。これが最後の手紙になっちゃうけど。
北斗くんは、あたらしい素敵な人を見つけて、幸せになってね。
幸せに消えていく月]
最後の手紙
その文字を何度も何度も読み返し、泣かないようにぎゅっと目をつむる。
なんでこんなにたくさんの手紙を、俺に一通も手渡ししないまま、死んでしまったんだろう。
本当に月は、頑固で、優しくて、まじめな人だ。
「北斗くん、これで私は失礼するわね」
いつの間にか手紙を覗き込んできていた女性は、ヒールの音を鳴らして去っていった。
俺は数分そこに立ち尽くしていたが、やがてふらり、と足を動かし…
あの場所へ、来ていた。
「月…。俺はどうすればいい?」
いつの間にか日は落ちていて、真っ暗な夜に、俺の声だけが響いた。
でも、月が死んでから、一度も来たことはなかった。
風がそよそよ拭いている。
寒いな、もう帰らなければ、母さんを心配させてしまう。
俺はネコヤマから立ち上がり、そっと、海辺をあとにしようとした、その時。
「もう帰るんですか?」
すると、どこからか声が聞こえてきた。
「え?」
俺はすぐに体制をとって、あたりを見回す。
「警戒しないでくださいよ。まるで猫の私の様ですね」
“猫の私”
猫…!?
俺は不意にしたを向くと、美しい真っ白な…月のような、雪のような猫がいた。
そうだ…こいつだけ、ネームプレートを下げている、品がある猫だ。
なんだか珍しかったので、外見だけでも、と思って絵に描いたことを覚えている。
名前のところには、“ゆき”と書かれていた。
「…おまえ、ゆきっていう猫なのか?」
「そうですよ」
にゃあんという言葉と一緒に、俺の耳に届いた、慌ただしいような声。
どうして猫と口が利けるのだろう、なんて思ったけれど、これはきっと夢だ、と思い、無視することに決めた。
「北斗さん。月さんはきっと、北斗さんに会いたいと思っていますよ」
「…そうかな」
「そうです。きっとそうです!月さんと会いたいと思いませんか?」
「…思う。だけど俺は…月に会えばきっと、抱き着いて泣きじゃくって、死んでも止めたくなってしまう」
「でも、後悔しますよ。きっと」
猫のいうことなんて、信用できない。
帰ろうか、と言ってやろうと思っていたけれど、猫の言葉に、ハッとして、足を止めた。
「月さんに、会えますよ。ついてきてください」
―猫が足を止めた場所は、桜の木のふもとだった。
「…ここで月に会えるとは思わないけど」
「いえ、信じていれば会えますよ。私も父を亡くしたとき、ここで父に会いましたから」
ニコニコと笑ったように、にゃあと答えたゆきは、ぴょんっと後ろに下がって、歩いて行った。
「ちょ…!」
「邪魔者は退散しますから。もうすぐ日の出ですね。日の出が完全に出てしまえば、もう月さんには会えないと思ってください」
そういって去っていったゆき。
俺は指名された桜の木の下に座り、彼女のことを…月のことを思い出す。
『君が好き』
『…二人っきりだね』
『北斗くん』
『ほ・く・と・くん』
『北斗くん~?』
『北斗くんっ!』
「会いたい」
思わず言ってしまった、その言葉。
考えると止まらなくなってしまう。
愛らしい声で俺を呼ぶ、月を。
会いたい。会いたい。会いたい。
月に、会いたい。