「月!」
春には桜がたくさん咲いていた、丘の上の桜の木の下。
彼女はそこに座り、目の前の夕陽と、海を見ていた。
そして、俺が名前を呼ぶと、嬉しそうに、ゆっくりと振り向いて、笑った。
「…遅かったね。自分で呼び出しておいて。もう夕陽が落ちちゃうよ」
いつも通りの月に、涙が出そうになって、慌ててこらえる。
「ごめん…」
「どうしたの。北斗くんは何も悪くないでしょう?空気悪くなっちゃうからやめてよね」
「俺、自分のことばっかりだった…」
「人はみんな自分が一番だよ?私だって自分のことを、ここに残してほしくて、北斗くんに絵を描いてもらっているんだよ」
「…でも、月の気持ちも考えなかった」
「そんなこと考えてくれてたんだね。それだけでうれしいよ」
俺がぽつぽつと、雨のように残した言葉を、彼女は虹に変えていく。
「…ありがとう。北斗くん」
「…何が」
「私なんて、描かなくて、いいんだよ。こんな、薄汚い、私なんか…」
「俺はキミの…月の絵描きだ」
「…」
「月のために…月を描くために、俺は絵を描くんだ」
「でも」
「月は、俺のモデルだ」
そう。そうだよ。
俺のモデルは、月だけだ。
「…ねぇ」
「なに?」
俺は月の隣に座った。
「私を、描いてくれる?」
俺は笑って、深く、頷いた。
「約束しよう」
俺は近くにあった、小さな白い花を、彼女に差し出す。
月は、不思議そうに首を傾げた。
「なぁに。これ。くれるの?」
「これ、約束の証ね」
「ふふ。証って。言葉で伝わるじゃない。別に、お花で証明しなくても方法があるでしょう?」
「この花が枯れる時は、俺たちが壊れる時だ」
「え…。でも、いつか花もかれちゃうよ」
「そうだ。いつかは俺らも壊れてしまうだろう?」
「…」
「その時まで。お互い持って居よう」
彼女は黙った。
夕陽がかんぜんに落ちた、その瞬間。
「ねぇ、北斗くん。これ変だから、海の方で貝を見つけて、それをお守りにしよう!」

ザザーと、波が打つ。
俺は暑い砂の上で、砂を掘って、水色の貝を探す。
噂によると、青と水色の貝を一つずつ持つと、永遠の仲となる、という伝説があるらしい。
「あっ!」
すると、向こうの方で、彼女が大きな声を出した。
「何々?」
俺は暑い砂を踏みながら、彼女に近づく。
「水色の貝あったよ~!」
半分の貝は、淡い水色だ。
「確かにそれだね。でも、よく見つけたね」
「ふふふ。昔ね、伝説に憧れて、こういうのを見つけたら、そこのネコヤマのところにためてあるの。青色の貝もあるかもしれないから、見てくるね」
“ネコヤマ”というのは、ずっと前からある、猫が良く集まる岩のことだ。
「…ありがとう」
ネコヤマか。
昔よく、そこで海を夕陽を眺めていたな。
「あったよ~!真っ青な貝!」
月は嬉しそうに、青色の貝を俺に持たせた。
「これで、約束成立ね―」

「ねぇねぇ、見てよ~!」
休日、ネコヤマに呼び出された俺は、彼女が持ってきたノートを見つめた。
「…何、これ」
「ふふふっ!表紙を見てみてよ~!」
差し出されたノート。
変なノートだなぁと思いながら、ノートを裏返すと、
“るなの夢ノート!”と書いてある。
一ページを開くと、次々に、夢がえがかれている。
[夕陽と私]
[北斗くんとの初めてのツーショット]
[北斗くんにもらったアクセサリーをつけて、屋上の青空と一緒に]
[ジェットコースター!]
[秘密の屋上と夜空]
などと、月がのぞんだものが次々に描かれ、その横にチェックがつけられる枠がある。
「ふぅん」
「どう?この絵ぜーんぶ。描いてくれる??」
俺は自信に満ちた顔で頷いた。
「もちろんだよ。俺は、月を描くために、絵を描いているんだから」
ようやく、これを胸張って言えるようになったこと。
彼女がそれを聞いて、嬉しがっていることが、すごく嬉しかった。
「ねぇ。貝はまだ持っているでしょう?」
「うん。約束の貝だしな」
「持ってきてない??」
「あ…」
俺はリュックの小箱に手をつっこんだ。
「一応、今日ももってきておいたんだ」
「ナイスっ!じゃあカメラは?」
「もちろん持ってきているよ」
俺がそういうと、満足そうに月が笑顔を浮かべた。
「じゃあさ、その貝殻と一緒に撮ろう?」
「え?これを絵にするの?」
「ううん。違うよ。私のお守りにするんだよ。お守り?」
「うん。そうすれば、ずぅっと北斗くんを忘れないでしょう?」
月は笑顔で、カメラをこちらに向けてきた。
そして、俺の肩を寄せて、貝を片手に、笑顔でシャッターを切った―

「ふふ。北斗くん、変な顔しているね。取り直そうか」
「いや、いいよ…。どうせ、誰にも見られるもんじゃないんだろう?月だけが見てくれれば、それでいいからさ」
「ふふ。かっこいい言葉なんだけどなぁ…」
月が困った顔で苦笑いした。
やっぱり彼女は、今日も笑う――。

「…え??」
「ですから、このままでは危ないんです。月さんは、一か月以内に、亡くなってしまうでしょう…」

「北斗っ…くん。最後の絵、描いてよぉ…」
「ありが、とう…。大好き、だよ…」
「うぅっ…うぅっ…」

「っ!!」
ハッと目が覚めた。
窓から光が差し込む。
いつも通りの、少し涼しくなった温度の日。
もう夏も終わるというそんな時に、冷や汗をかいてしまった俺は、滴りそうな汗を、ぐっと拭った。

嫌な夢だ。しかも、鏡を見れば、クマが広がっている。
俺はベットから起き上がり、今日の夢を消そうと、頭をふるふると振る。
でも、いつもの様にはいかない。
どうしても、その夢は、忘れられない。
「北斗??遅れるわよー?」
母さんの大声で、俺は制服に着替え、学校に行く。
「北斗、ごはんは?」
「…いや、今日はいいや。お腹すいてないから」
俺は母さんのトーストを断って、学校へ向かう。

「おはよ!北斗くん」
今日も月は、俺に笑いかけて机に座る…はずなのに。
「…おはよ、月」
「うん、おはよ、北斗くん」
今日は何か、元気がない…。
もしかして、と思って、俺は反射的に、彼女に手をつかんだ。
「どうしたの?北斗くん」
「…いなく、なんないよね?」
「ふふっ。そんなわけないじゃん。どうしたのよ、北斗くん」
「いや…」
俺は彼女の手を放して、頬杖をついた。
「あ、もしかして。私が落ち込んでいたからかな?」
「あ、あぁ・・・」
「あのね、今日、私が落ち込んでいたのは、席替え、だからだよ」
俺は、そのことばにハッと息をのむ。
「えっ。今日席替えだっけ!?」
「うん。そうだよ。聞いてなかった?昨日のホームルームで言っていた気がするんだけどね」
「なっ…」
すると、そのことばをいう前に、担任が教室に入り、大きな声で宣言した。
「今から、席替えをする!!」

俺のクジは、三四番。
四列ある中の、二番目の列。
そして、前から二つ目の席なのだ―。
「わぁ。北斗くんと離れちゃったなぁー」
「月はどこなの?」
「えぇっとね、四列目の、一番前」
「…結構離れてんな」
「だよね。まぁ、授業中話すことはなくなっちゃうけど、放課後絵を描くのは変わりないからねっ!」
俺たちは笑って机を自分の席へと動かした。

「よろしくね、蒼井くん」
「え、あ、うん。よろしく」
隣の席は、男子に少し人気があると噂の、吉村さんだ。
「あーあ。佐々木くんと離れちゃったなぁ~」
「え?佐々木と隣になりたかったの?」
「うん…。まあね。でも、しょうがないよね。クジで当たっちゃったし…」
「えぇっと、佐々木と隣なのって……」
「えっと、夜空さんじゃなかったけ?」
よぞ、らって。
「月のこと!?」
「え、う、うん。夜空月さんでしょう?いいよね。変わってほしいなぁ~」
その言葉に、俺は立ち上がった。
「変わりたいの!?」
「え…。う、うん。どうしたの?蒼井くん」
「い、いや、月に聞いてこようかなー、なんて」
「えっ!?ほんと!?」
吉村さんも立ち上がって、やった~!とはしゃいで笑った。
そして、俺は緊張しながら、月の席に近づいた。
「でさ~」
「へ~!そんなこともあったんだねっ!すごぉい!」
月が笑顔で笑っているところが見えてきた。
「ねぇ、月ちゃんってすごくかわいいよね。俺の親友とかならない?」
佐々木の言葉に、俺はハッとして、気づいたときには、月の手をつかんでいた。
「っ…。ど、どうしたの、北斗くん」
「えっ、い、いや。吉村さんが、佐々木の隣になりた…じゃ、なくて!吉村さんが変わってくれないかなぁって言ってて」
「えっ?あ、そうなんだ。えっと、吉村さんの隣って誰だっけ??」
「えっと、俺だよ。もしかして、また同じ人なんて嫌?」
「え!?北斗くんなの!?やった~!!」
そういって、吉村さんのようにはしゃぎまわる月。

それから、また机を移動させた彼女たち。
そして、俺の横にストンッと腰を下ろした彼女。
「やった。また北斗くんの隣だー!」
月がにやにやしながら言った。
「そうだな」
俺も笑って、彼女を見つめた――――

秋に入り、セーラー服の上に、カーディガンを着る人が多くなってきた時期だ。
しかも、三連休が多い月だった為、あまり月と直接話すことも少なくなってきた。
家でダラダラする日々。
そんな日が続いた、日曜日。
「…ほ、ほくとぉっ!!」
「え?どうしたのさ、母さん」
午前…10時ごろ、だっただろうか。
母さんが血相を変えて、俺の部屋に飛び込んできた。
「る、るな…月ちゃんがぁ…!!」
「月が…!?」
俺は母さんに聞いた言葉を繰り返してから、家を飛び出す。
プルルル…
電話の音が、車のブレーキとエンジンの中に鳴り響く。
[もしもし?]
っ…。いつも通りの普通の声が、電話の奥から聞こえた。
「月!!体調は大丈夫か!?」
それでも俺は、血相を変えて彼女に聞く。
[えっ。体調って。私はいたって元気です!っていうか、また今度、ネコヤマ集合しようよ。いいよね?]
…やっぱり、いつも通りだ…。
どうして。
「今から、そっちに行ってもいい?」
[うん。もちろんいいよ]
俺は彼女の家へと走っていく。
「はぁっ…はぁっ…」
俺は、彼女の家のチャイムを押した。

「はーい!!」
すると、いつもの彼女の声が聞こえてきた。
そして、次の瞬間、ガチャとドアが開いて、満面の笑みの月が表れた。
俺は反射的に、その小さな体に抱きついた。
「…どうしたの?北斗くん」
「…」
俺は黙っていた。
彼女が身体を離そうとしても、俺は彼女を離さなかった。
顔を見られたくなかったからだ。
少しばかり涙をこぼしていた俺は、絶対に、彼女には見せたくなかったのだ。
「月」
やっとのことで涙を拭いて、顔を上げた俺は、彼女の名前を呼んだ。
「なあに?」
「…いなく、ならないよな?」
俺は言った。
言わずにはいられない。
母さんのあの言葉を聞いて、飛び出してきた俺は、汗だくだし、匂うかもしれないし、もしかしたら、気持ち悪い男としか思われていないかもしれない。
それでも…それでも俺は、聞くことしかできなかった。
だって、彼女の痛みだって、苦しさだって、俺は知らない。
彼女の悲しみも、孤独さも、俺にはわからない。
だから、聞くしかない。
まだ生きていてくれるか。
まだ、死なないか。
俺の前から、いなくならないか。

そんなのは、俺には知らない。わかれないんだ…。
どんなにわかりたくても。
「……ねえ」
「…なに?」
「………ごめんね」
その言葉に、俺はハッとして、彼女をまた抱きしめようとする。
でも、それは彼女に停められてしまう。
「ねっ?今日の私、どこか違くない?」
そういわれ、俺は彼女からサッと離れた。
変なところ・・・・。
違う、ところ…??
「……」
「はいっ!タイムアップ!」
「えぇ!?」
思いのほか、なぜか元気な彼女に、違和感を覚えたが、月はそんなの気にせずに、言葉をつづけた。
「せーかいはね……」
月の指が…顔に移った。
「あ、メイク?」
「違うよ」
え…?
確かに、メイクは…薄いのしかしていないみたいだ。
じゃあ、何だ…。
そう思った時、ハッ…と気が付いた。
我ながら、なんてバカだったんだろう。
毎日、月の顔を見ているだろう。
母さんにも、言われただろう!?
バカだ。
俺は、なんてバカなんだ…。
「…るな」
「なあに?」
「なんで…なんでさっきから、そんな笑顔しか見せないんだ…??」
「…よく気づいたねっ!せ~かい!」
そういいながらも、彼女は同じ顔のままだ。
「……母さんが言っていた、大変なことってさ…」
「ごめんね、北斗くん」
俺が言葉を言う前に、月が俺に誤った。
そんな時でも、“笑顔”のまんまだった…。

まるで、笑顔を張り付けたような顔。
完璧な、“笑顔”。
彼女は、その顔しか見せない。
いつもの、怒った顔や、悲しそうな顔。
俺だけに向けてくれる、嬉しそうな、優しい笑顔なんて、その顔には、いつまでたっても現れなかった。
「…ごめんね」
彼女はもう一度誤ってきた。
変な笑顔を張り付けたまま…。
「…もう、私を描けないね」
彼女は笑った。
先ほどまでの笑顔ではなく、目を閉じようと踏ん張っているような感じだ。
「そんなわけ…」
「ごめんね。もう私、この顔しかできない。こんなの描いてても、面白くないし、楽しくもないでしょう?」
「…」
「…キミは、ほかのモデルを見つけたほうがいいかもしれないよ」
その言葉に、俺は首を振った。
「違う。違う!俺のモデルは、月だけだ!!」
「…ねえ、北斗くん」
俺はハッとなって、声を上げた。
「ご、ごめん。月」
「ううん。北斗くんのせいじゃないよ。全部、全部私のせいだから」
「…」
違う。月のせいじゃない。
…とでも、言えればよかったのに、何も言えない俺に、ひどく腹が立った。
なんだよ、月に慰めもできないのか。
「…どうしてそうなったのか…教えてくれない?」
おこがましいだろう??
でも、俺は知るしかできない。
分かる、なんて言っちゃいけない。
だから…せめて知らなきゃいけない。
彼女のすべてを。

「うん」
彼女はにっこり、頷いた。
「…昨日の夜ね、お母さんたちに、笑顔を浮かべていたの。妹にも、兄にも、ずっと笑顔、笑顔笑顔。そしたら…兄に浮かべていた笑顔が、張り付いちゃったの」
彼女は笑う。
口角が、少し上がった気がした。
「…発作かな。見て、この薬のビン」
彼女は、玄関に置かれていた、茶色のビンを手に取り、発作…と書いてあるところを指さした。
“発作:顔が固まる。100/1の確率。 吐き気や、痛みが襲うことがある”
そう書いてある。
でも、百分の一、だろう。
「ウソ、だろう?」
「違うよ。ウソじゃない」
信じられない。
やはり無理だ…。
俺には、無理だ…。

「…だから、ばいばい」
小さな声で言った彼女の眼は、やはり笑っていた……。
ガチャと、玄関が閉まっていく。
彼女の身体が、見えなくなった。
奥から、ガタッと奥から声が聞こえてきた。
でも、その後何もきこえなくなり、見捨てられたのだ…と感じると、足を後ろへ向け、帰ろうとした瞬間。
「…ぅっぅぅ…」
すすり泣く声が聞こえてきた…。
え…?
今のって。
俺はあわてて玄関へと駆け寄り、すぐに扉へ耳を押し付けた。
周りの人が変な目で見てきたことは分かった。
視線が、俺へと突き刺さっては消えて、突き刺さって、また消える…。
その繰り返しでも、俺は、車のブレーキ音や、信号の音。
そして、人がしゃべっている声。
そんなのも、すべて聞こえないように、耳をぎゅーっと押し付けた。
「うぅ…えぅっ……うぅっ…」
今度は、小さな声なんかじゃない。
普通の、月の声だった。
涙をこぼしているような、そんなすすり声。
「る…・」
いや…俺は行ってもいいのだろうか。
彼女のことを、何にも知らない俺なんかに慰められたって、嬉しくないんじゃないだろうか…。
そんな考えが、ぐるぐると頭を回る。
一応、ドアノブをひねってみた。
すると……ギィィと、きしんだ音が聞こえた後、外側に少し開いたドア。
あ、開いた…。
今なら、行ってもいいんだろうか。
彼女に、言えるだろうか。
―無理だ。
逆に、彼女をかなしませてしまうだろう…。
でも今、月を助けられるのは、俺しかいない……。
それでも、俺には荷が重い。
無理だ…。
彼女は、俺を突き放したんだ。
だから、俺はできない。
行けない…。
俺は、ドアノブを、反対側にひねり、ドアを奥まで押し込んだ。
そして、ゆっくりと足をくつがえした。
ゆっくりと歩いているつもりなのに、チラチラと家の方に目を向けると、どんどん遠くなっていく。
まるで、もう一生たどり着かない、天と地の差だと思うほどに、遠のいていく家。
そして、信号を渡って、ゆっくりと後ろを振り向いて、家に目をやった、その瞬間。

俺と同い年か、その上くらいの男が、彼女の家の扉を開けて、月の存在に気付くと、彼女を抱きしめ、そのまま抱き上げて、そのまま家の中へと入っていった。

思わなかった男の行動に、呆然と立ち尽くした―。
その日は、ねむれなかった。
月の笑顔なんて、もう忘れて、今日の男と、月の関係が気になって、ねむれないのだ……。
俺は布団を上へと押し上げ、ベットから起き上がり、机の電気の電源ボタンを押し、明かりをつけた。
ぼぉ…と光った光は、儚く、輝いている光だった……。
「きれいだ、」と、無意識に言葉を放った。
でも、電球には、ごみや、くずがついていた。
なのに、こんなにも綺麗な光が灯った。
…それって……と思ってしまう。
彼女は笑っている。
ただそれだけで、“絵”になるはずなのに。
俺は…なんてことをしてしまったんだろう…。
俺はすぐにスマホを手に取り、時計を確認する。
時間は、午前3時47分。
彼女は起きていないだろう。
でも、俺は自分でも気づかないうちに、指を動かしていた。
プルルル…と、部屋に音が響き渡る。

サンコール、ヨンコール…といった時、ガチャ…と、スマホの奥から音が聞こえ、はぁい…と小さく声が、あたりに響き渡った―
「…月?」
〔っ…え?も、しかして…〕
「あぁ。ごめん、こんな深夜に」
〔ううん!いいの、いいの!私もあんまり寝れないし〕
「っていうか、どうして俺だってわからなかったの?」
〔えっ…もう関わらないって思っていたから。連絡、切ってたの〕
「……え」
正直、心苦しい。
そんなに嫌わなくったっていいじゃないか…。
〔…ごめんね。消さないほうが、よかったよね。えっと、電話番号、また教えてくれない?〕
「……あぁ」
俺は彼女に番号を教えて、会話をまた始める。

〔それで、どうしたの?〕
「…俺さ、まだキミを描きたい。描かせてくれないか…?」
〔……ねぇ。言ったでしょう?私のことを描いてても、楽しくないんだって…〕
「でもキミは、また見せてくれるだろう?俺はその可能性を信じているんだ…」
〔でも…無理だよ〕
「キミは、モデルになりたくないのか?」
〔そんなわけ…。私はただ…私なんか、もう終わりなんだよ…?〕
「違う。キミは、終わりなんてない…!!」
〔…〕
「キミは、その表情だって、キレイだ」
〔綺麗なんかじゃないよ…。キミは、何も知らないから言えるの…!私は…私は、もう無理なんだってば……〕
「……」
〔ごめんね…。でも、私はもう、終わるの…。これで、最後にしよう??〕
「そんな…」
〔…今までありがとう。ばいばい〕
ブツッと切られた電話。
ツー、ツー。と、真っ暗な夜に、また違う音が響いた。
最期まで、彼女は、“北斗くん!”と、俺のことを呼んではくれなかった。
それほど、俺を避けたいんだろう。
正直、傷ついたというほどの問題ではないほど、深く傷ついた。
時間は、3時を過ぎ、あと数分で、4時になるほどの時刻だ。
今日も学校はあるし、寝なきゃいけないって思ったのに。
俺はどうしても、寝付けなかった…。

「おはよ~!」
寝不足で学校に登校した俺は、元気な声で、目を覚ました。
―月だ。
俺は、ガタッと音を立てながら、席を立った。
「えー?どうしたの?蒼井くん!」
横では、彼女がふふっと笑っている。
昨日とは、また違う顔だ。
蒼井くんと言われたショック。
そして、違う顔だという、小さな幸せ。
「…違う顔になったんだね」
そういって、下におろした顔を上げた。
すると…。
やっぱりさっきの、ふふっと笑った、顔だった。
「…もしかして」
「何がー?っていうか、国語のノート貸してくれないかな?私、今日忘れちゃって。いいよね?蒼井くんっ!」
…ダメだ。
彼女は、やはりもう無理なんだ…。
「…いいよ」
俺は国語のノートを彼女に手渡す。
「ありがと!」
月はさっきのように笑って、国語のノートを写し始めた。

ピーンポーン
あたりにチャイム音が鳴る…という表現さえもできなかった。
車や、ほかの人のおしゃべりで、かき消されたチャイム音。
でも、奥からはーいと言いながら、見覚えがある顔が表れた。
「っ…え?」
「すみません、えぇっと。どちら様ですか?」
彼は…月の家にいた…。
放課後、俺は月の家へと来ていた。
そんな時、あの日、月の家へと入っていた、男の人が表れたんだ…。
「…あの、俺は、蒼井北斗と言います。夜空月さんのお宅は、ここですか?」
そう聞くと、彼は、ハッとして、快く俺を家へと入れてくれた。
「どうぞ…」
差し出された湯呑を片手にしたとき、彼は、俺の真ん前に座った。
「…月から聞いています。月の絵描きをしてくれているようですね。月がいつも、よくキミのことを話しています」
「…そうなんですか」
彼女との関係はどうなんですか、なんて聞けるわけない…。
「…あの。俺は夜空シンです。月の…兄です」
その言葉を聞いて、おれはハッとする。
「だからあの時、家に…」
「え?」
「い、いえ。何でもないです」
俺は首を振って、彼の言葉を待つ。
「…月はいつも、嬉しそうに笑っていました。キミに絵を描いてもらった時なんて、満面の笑みでキミのことを話してくれましたよ」
「……」
「えぇっと、一番嬉しかったのは、確か…福岡まで行ったとき、描いてくれた絵…と言っていたような気がします。後は…そうですね。線香花火の時、だと言っていたような」
花火の、時…。
「…あの、これを」
俺が黙っていると、お兄さんは、ささ…とノートを見せてきた。
「え…?」
これ…。
ネコヤマで、見せてもらった、ノート。
るなの夢ノート!とでかでかと書いてあるノートは、やっぱり見覚えがありすぎた。
「“もし北斗くんが来てしまったら、これを渡してほしいの”と言われたので。どうでしょう。もらってくれますか?」
お兄さんは、悲しそうに俺の顔を見つめた。
俺は…頷くしかできなかった……。

帰って、リュックを放り出してベットに寝ころぶ。
でも、どうしてもあのノートが気になって、ノートを片手に、持った。
そして、るなの夢ノート!と書いてある文字を、人差し指でなぞる。
そして、一ページ開いた。
やはりそこには、彼女の夢がえがかれている。
「…あぁ」
俺は絵を描き始めた。
何枚も、何枚も…。
母さんに、もう寝なさい!!と怒号されるまで、俺は絵を描き続けた。
学校なんて忘れ、俺は絵を描いた。
一週間が経過したとき、もう外は寒くなっていて、みんな厚着のジャンバーなどを着ている。
ふぅっと一息つき、余っている水を一気に飲み干す。
絵筆が、カチャカチャと音を立てて、机の上に置かれた。
―今まで、一番の出来だ。
心の中でそう呟いて、写真に撮って、絵を机で乾かしておく。
誰もいない家。
小学生がキャッキャと公園へと走っていく姿が、窓からちらほら見えてきた。
俺は月に電話をかけようとして…指を止めた。
…ダメだ、よな。
一週間も放置しておいて、急にしおらしく家に来てほしい、なんて。
俺は立ち上がって、一週間ぶりに外に出る。
外は、凍るように冷たく、吐いた息が真っ白く外に飛び散った。
もう冬だなぁと感じる。
マフラーを巻いて、ネコヤマに向かう。
冬の海は、ほかの寒さとはわけが違った。
全身が凍るように冷たく、痛い。
彼女は、ネコヤマにもいなかった。
って。何してんだよ、俺。
月を探したって、もういいんだ。
もう…。
俺はネコヤマを通りすぎて、桜の木を見に行った。
木は、へなぁっとしていて、春とは大違いだ。
俺は桜の木の下に座り込んで、持ってきたノートを開く。
バカみたいに大きく書いてある文字に、笑みがこぼれるのは当たり前。
俺は描いた絵のところにチェックをつけた。
そして、ノートをパタッと閉じた。
夕陽が沈む…というとき、ハ…と、目をそらせなくなった。
それくらい、目を引く姿。
彼女は、今日も笑っていた…。