「でも、」
橋本さんが何か言う前に、いつの間にか来たのか、中学三年生くらいの人らが、ぎゃはは!!と笑った声が聞こえてきた。
「あははっ!!死んでしまう、だってさ!!おぉ死ね死ね!この世からいなくなれ!佳代なんか死んじまえ~!」
大きな声で、死という言葉を繰り返している。
「…」
橋本さんは、黙って彼らを真剣な目つきで見つめていた。
大翔も、そんな彼女の肩を抱き、ぎゅぅっと握っていた。
「…」
月は…足を進めていた。
彼ら達に向けて。
「…あの。すみません…」
「あ?おっ、いい子じゃねぇか。もしかして逆なん?それなら俺らと飲もうぜー!」
「……な」
「は?」
「死という言葉を…死ねっていう言葉を…軽々しく使うな!!」
大きな声で叫んだ月。
周りにいた、黙って彼らを見つめていた奥さん方も、彼女の言葉に、目を見開いていた。
「…な、なんだよお前」
「それで本当に死んだらどうするの。死んだらあんたはどうなの。悲しいでしょ!?」
「…別に、悲しくなんて」
「…生きるなんて言葉は、はかないの!!死にたくなくても、死を選ばされる人だって居るの!!死なんて…死ねなんて言葉…軽々しくつかうなよ!!」
月は叫んだ。
涙を流しながら。
「…死ねなんて、言わないでよ…」
最後は悲しそうに…寂しそうに言った。
そこに、橋本さんが駆け寄って、彼女の手を握る。
「……」
彼らは、もう何も言わなかった。
「…次死ねなんて言ったら、私が容赦しないから」
彼女はそいつらにそう言ってから、橋本さんの手を握って、こっちにずかずかと歩いてきた。
「…大丈夫?美衣」
「う、うん。怖かったけど」
橋本さんは苦しそうに笑った。
月は、先ほどの怖い顔じゃなく、むじゃき笑顔だった。
「ほら!みんなっ!もう遅いしさ。帰ろ!」
その声に、少し安心したのか、二人も笑う。
「うん。帰ろう」
橋本さんが笑顔でわらって答える。

そのあとは、平和なんて言葉以上に、平和だった。
先ほどのくらい雰囲気とは全然違う。
無邪気なものだった―。

「…はぁ」
ベットに寝転がって、今日の写真を映して描いた絵を見る。
いいようにはできたが…何なのだろうか。
彼女の、悲しそうな顔は……。

いくら考えていたってキリがない。
そう考えた俺は、ベットから起き上がって、カメラのフィルムを開く。
まだ描くものがたくさんあるんだ。
こうしちゃ、いられない。
俺は腕まくりをして、よし、書くぞ!と気合を入れた。
―何時間たっただろう。
ついには仕上げまで描き終えた俺の肩はぽきぽき、と音を鳴らしていた。
時計の針は、もう日にちを超え、三時四十二分を指していた。
7時半に学校に行くとして、あと二時間は寝ていられるだろう。
俺はベットに飛び込んで、アラームをセットし、目をつぶる。
頭の中は月ばっかりだったけれど、無理やり忘れようと首を振る。
それでもどうしても忘れられない。
あの、悲しそうな表情。
何かを伝えようと必死な、月の表情を…。
忘れることは、できなかった。
どうしようもなく、忘れられない。
俺は起き上がって、机の電気をつけ、スケッチブックのページを一つ切り取り、鉛筆で下絵を描いていく。
もうこうなったら、意地でも忘れないでやる。

―あの表情を、描きたい。
そこからは戦争のように大変だった。
ときには眠気が襲い、うとうとしそうになりながらも、俺は描いた。
あのときの月を。
本当の君を。
…これほど何かを、誰かを描きたいなんて思ったことがなかった。
今、俺は…胸の高鳴りを、抑えきれない。

窓から日が差し込んでくる。
時計の針は七と十二をさしていて、俺は床に大の字で寝転がっていた。
「……まに、あった…?」
自然と声がこぼれ、笑みをこらえきれない。
出来上がった絵は、結構は仕上がりだった。
あの険悪な雰囲気も、浴衣姿だってちゃんと残してあるし、何より月の…初めて見せた涙だってちゃんとここに描かれてある。

「おはよー!」
教室についたとたん、俺の視界は塞がれた。
「だーれだ?」
こんなの、声を聴いて一発でわかる。
忘れようとしても忘れられなかったのだから。
「…月、おはよ。元気にしてた?」
そう言ってやると、声の主は満足げに、「うんっ!」と元気よく答え、満面の笑みで俺を見てきた。
「ねねっ。昨日の写真の絵、もう完成した?」
「あー。写真に撮ってないほうが完成した、かな」
「えっ?そんなのあったっけ」
うーん?と首をひねる月を見ていると、自然と笑みがこぼれてくる。
「ま、いいやっ。私の目的はそっちじゃないし」
「あきらめ早いな」
そんな風に突っ込んだりしながら、俺たちは席に着く。

「もうすぐ、中間テストでしょ?だから…ダブルデートもかねて、勉強会を開きます。私の、家で!!」
高々と、「中間テスト」「ダブルデート」「勉強会」「私の家で」と、たくさんのキーワードを大きな声で宣言した月は、にやり、と口角を上げ、
「行くよね?」
と微笑んだ。
俺はそんな月の笑みを、挑戦状だと、すぐに理解した。
「…もちろん。受けてたとう」
俺もにぃ、と口角を持ち上げると、月はそりゃあもう嬉しそうに、にっこり、と笑った―。

十時三十五分ちょうど…。
俺はたった一人で、駅のホームで立ち尽くしていた。
五分もたったのに、集合するはずのメンバーたちが、こないためだ。
「…遅い」
待ち合わせ場所、ここであってるか何度も何度も確認しても、メモには駅のホーム、二番乗り場、と書かれてある。
それでも、誰も来ない。
あと五分経てば、十分も待っているということになる。
一応、メールも送っておいたが…既読はつかず。
今日のメンバーは、夏祭りと一緒の、俺、月、橋本さん、あと大翔だ。
月ならまだしも、橋本さんと大翔が遅れるなんてことはあまりないだろう。
何か、会ったんじゃないか。
どくどくと、心臓が鈍い音を立てながらなる。
もし、事故にでもあっていたら、俺はどうなるだろう。
三人まとめて一気に失ってしまったら…
俺は…俺…
「だーれだ?」
そんなことを考えていると、また視界が塞がれた。
心底ほっとした。
事故にあったわけでも、何か緊急事態があったわけでもなさそうな、屈託のない、間抜けな、でも明るい声だったから。
でも、これは違う。
あとから、くすっ、と笑ったような声が聞こえたから。
きっとこれは…
「橋本さん、遅かったじゃないですか」
「あー。バレちゃったか」
うふふ、と笑う橋本さんが、そこにはいて。
大翔もにこやかに微笑みながらこちらに歩いてきていた。
ただ、月だけは、「ちぃ。次はどんな手を使おうか…」と考えていた。
最初のころとは比べ物にならないような性格の一変さに、俺は正直驚いていた。
「じゃっ、行こう!ここから家、近いから」
「え?じゃあ今日、どうして遅れたの」
「あー。えぇっと…」
月は目を背け、上や左や下など、交互に目を回した。
すると、橋本さんがあきれながら言った。
「月ちゃんったら、寝坊しちゃったんだよ。LINEで、十時二十八分に【今起きた!間に合わん】なんて来るものだから、私たち、迎えに行ってたの。ごめんね、LINE見れなくって」
「ああ、そういうこと」
「本当にごめん。ほら、月ちゃんも誤って」
橋本さんと大翔が、一斉に誤ってきたため、俺は半分はあきれ、半分はしょうがないなぁ、と思いながら、「いいよ」と了承した。
「ゴメンなさーい」
そう言って反省しなさそうな月は別だけど。
「今度からは、絶対に寝坊しないでよ」
「えぇ…。私には難しいお願いだねぇ」
そう言ってにぃ、と笑う月に、心底ほっとしたのは秘密だ。

「ここが、私の家!」
駅のすぐそばの、大きな家の前で、月は高々と宣言した。
「わあ、大きい!」
橋本さんがはしゃいだように言って、大翔も「うん、すごいね」と橋本さんと一緒にはしゃぐ。
「ふふん。さあ、どうぞ」
そう言って玄関を開けた先にいたのは…
「あ、こんちわ」
月と何となく似ている、男性だった。
「…えっ、あ、こんにちは」
橋本さんが礼儀正しくいうと、男性も「…あ、初めまして」という。
「月ちゃん、カレシいたの?」
「カレシー!?いるわけないじゃんっ。この人は私のお兄ちゃん!ほら、挨拶してよ、北斗くん!」
「あ、初めまして…。蒼井北斗と言います。お邪魔します」
そう言って家に上がらせてもらった俺は、”お兄ちゃん”をなめるように見ていく。
やっぱり兄弟だから、少し似た体形をしている。
ほっそりした手足、キリリ、とした、元気はつらつな目。
性別は違うけれど、どことなく月に似ている気がする。

「ささ、始めますか!」
水色の壁に囲まれた俺たちは、勉強道具を広げ、コクり、と頷いた。
ここはまさしく、”月の間”だ。
扉の看板にもそう書いてあったし…。
多分、ここは間ではなく、月の部屋ということで認識していいだろう。
「えっと、まずは数学から…」

「あっ、このクロスワードすごい面白そう!ね、こっちをやらない?」

「あっ、私トランプあるよ?こっちからやろう、息抜きで!」

「ねね、人生ゲームやろうよ!楽しいよっ?」

月のゲーム攻撃にて、橋本さんはもう限界らしい。
はぁ、はぁ、と息を整えて、次の文句を言うと思った時。
「やるよ!月ちゃん、一緒にやろう!大翔も、もちろん北斗くんも!!」
こうなる。
ほとんどの人は、月のゲーム攻撃に出会ってしまったら、絶対かなわない。

人生ゲームでは、僕が大逆転勝利、月が負けてしまった。
負けた月は、負けず嫌いなのか、「今のはずるでしょっ。もっかい、もっかい!」と癇癪を起している。
結局、日が暮れるまでゲームを満喫し、帰っていった橋本さんと大翔。
「ばいばい!」と手を振って、二つの影をうっとり眺める月。
「…寂しいの?」
「そりゃあね。台風が去ったようだよ」
「いや、それなら月が台風でしょ」
冷静に突っ込み、「じゃ、僕もこれで…」と、帰ろうとしたとき。
「待って、北斗くん。キミはもうちょっとだけ、いてほしい」
「え?まぁ、あと三十分くらいなら居れるけど…どうしたの、急に」
「…海」
「え?」
いつもなら、はきはきとした口調で言う月が、今日はなんだか縮こまっている。
俺は距離を詰め、耳を澄ませた。
「…海、行きたい」
今度ははっきり聞こえた。
俺はその言葉に、頸を振る理由がなかった。
だから俺は、こういったのだ。
「うん。俺も、今から行きたい。月と二人で」
月はそういうと、はにかむように、小さく笑った。

「涼しいっ。ね、そう思うでしょ?北斗くん!」
「そうだね。すごく涼しい」
本当は、「空気がおいしい」というところだろうが、彼女に合わせて黙っていた。
「…ねぇ、海に比べたら、私たちって、弱くて、ちっちゃいんだろうね」
「うーん。まあ、そうだね」
「…人間の命って、儚いよね。だってカメは、万年だって生きていけるのに、人間はたった百歳超えるかどうかくらいだもん」
「そうだね。そう考えると、ツルも千年で、いいなぁと思うよ」
「…北斗くんは、百歳超えても生きてたいんだ?」
「うーん。どうだろう。そこに愛する人とか、友達とかがいるなら、もっと生きていたいと思うだろうね」
珍しく、彼女の声のトーンが下がったのは、気づかないふりをしようと決めた。
だから、あえて普通に返事を返す。
「…北斗くんは、もし大切な人を失ったら、どうする?」
「え?」
「その人はずぅっと苦しくて、助けてほしくて、キミを求めていたら」
その言葉に、正直俺は、悩みもせずに声を発した。
違う。言葉がすり抜けた。
俺の口から。ストレートに。
「別に、何ともならないんじゃないの?その人が、最後幸せだったのなら、俺はそれで満足だよ」
「…悲しまないの?それは君にとって、すごく大事な人なんだよ?」
「悲しむと思う。それでも、その人はきっと、泣いてほしいなんて思わないだろうから」
「…なんでそんなことを言えるの?だって、その人は本当は腹黒くて、情けなくて、ひ弱で、思ってることちゃんと言えないような人かもしれないんだよ?」
その言葉に、俺の頭には火が付いた。
それはきっと、月のことを言っていると思う。
月には、何らかの危機が迫っていて、助けてほしい、と俺に縋り付いているのだ。
「それでも俺は、その人と居れて、幸せだったと思うよ」
俺は言い放った。いつもの彼女のように、どうどうと。
月はそんな俺を見て、驚いたように目を見開いた、その瞬間。
見たこともないくらいに、にっこり笑ったのだ。
見たこともないくらい、とは、すごく満面の笑みで、という意味ではない。
泣きそうで、弱そうで、もろくて、すぐに壊れてしまいそうな、そんな笑顔。
始めてみたその笑顔に、俺はどうしようもなく鼓動が高まっていた。

―思えば、ここからだったのかもしれない。俺の、初恋は。月菜に対する、恋心は…。
そのあと別れた俺たちは、いつも通りにメールを交わし、次の日だって普通に生活していた。
なのに。異変が起きてしまった。
彼女はだんだんと表情が暗くなっていき、俺が笑ったのと同時に、つらそうに眉を顰めるのだ。
何か理由があるんじゃあないかと考えても、なかなか言い出せずにいる。

「はあ」
ベットうえでため息をついた俺は、月の絵を何枚か仕上げ終わり、疲れていたときだった。
今日は日曜で、一晩中絵に没頭していたからか、なんだか頭がクラクラしている。
今頃、彼女はどうしているのだろうか。
もしかして、あの日の夜のように…泣いているんじゃないか。
不安が俺を押し寄せ、汗が滲み、ベッドのシーツの上に着地した、そのとき。
月のことをぼんやり考えていると、母さんの声が下から聞こえた。
「北斗。大事な、話があるの」
変くらいのいやぁな声色。
俺はしたへと下りようとして、少し立ち止まる。
「…なんの話?」
「……いいから来なさいよ」
母さんの声が、少し強張った。
俺は仕方なく、したへと下りる。

母さんは、リビングのいすに座っていた。
俺は、その真ん前に座る。
「…あのね、この前、月ちゃんに言われたの。そろそろ…北斗にウソをつきたくないって」
「…ウソって」
俺は息をのむ。
変だ。母さんの言葉も、ウソという単語も。
「…あのね。月ちゃんは、精神的な、病気なんだって」
「病気…?」
「えぇ。なんていえばいいのかしらね。感情が生まれないというか…」
感情が、生まれない…?
「そんなわけ…。だって、月はいつも笑ってる。何言ってんだよ、母さん」
「…北斗」
「月だって、こんなこと知ればきっと怒るぞ。ほら、誤るんだろう?電話かけるから」
「北斗」
「母さん。ほら、早く話しなよ」
俺はスマホをタップしながら言った。
「北斗!!!」
ついに、母さんが大声を出した。
俺は、ぴたぁっと手を止める。
「北斗…。ねぇ。これは…これだけは、北斗が信じないと、誰も月ちゃんを救えないの。あんたに、月ちゃんがかかっているのよ。目をそらしちゃダメ」
「…」
知っていた。母さんがウソをつかないことだって、月のことに向き合えるのは、俺だけだということだって。

夏なのに、沈黙の風が、ひんやりと俺のほほをなでる。
扇風機の強めの風が、俺と母さんの髪を揺さぶる。
「…あのね、北斗。これを、読んでみて…?」
母さんが差し出したのは、“蒼井様へ”と書いてある、手紙。
封筒に包まれた、水色の便せん。
そこに、丸っこい、綺麗な字がつづられているのが何か見えた。
「…何、これ」
「月ちゃんのお手紙よ。私のために書いてくれたみたいで、北斗には読んでもらいたくなかったみたいだけどね。北斗にも、読んでもらいたいの」
俺はそれを受け取って、お風呂の方へと歩いていく母さんの後に、自分の部屋に戻り、机に座る。

足がジンジンする。ずっと座っていたからだろうか。
でも、俺はそんなのも気にせず、ふぅっと息をつく。
先ほど母さんから受け取った、便せんを、封筒から取り出す。
蒼井様へと書いてある字は、やはり月の字だ。
俺は、ペラ…と便せんをめくった。
[北斗君のお母さんへ
いきなりすみません。前に一度会ったことが、あると思います。夜空月です―]
そこまで読んで、夜空月という言葉に、安心する。
月だ。これは月が書いた手紙だ。
そう思うと、肩の力が抜けた。
夜空月。漢字で書いてあるため、夜空の月という感覚もあるのが、すごく月らしい。
だけど、敬語というところだけ、月らしくはなかった―。
[親に、聞いたと思います。北斗君には、まだ伝えないでいただきたい、とも、聞いたと思います。それは、私の本心なので、決心ができたら、私から伝えたいな、と思っています]
つたえないでいただきたい。
なんで…なんでだよ。
俺は、心臓を打つのが早くなるのを感じながら、次の便せんを見る。
[変なものですよね。感情がないから、ウソをついて笑って、怒って。言葉で感情をセーブして。
ずるくて、気持ち悪い人間です]
うそ。母さんが言っていたのは、このことなんだろうか。
でも、伝えないで、というのは、どういうことだろう。
ピンでつながっている便せん。
三つ目の便せんは…ぐちゃっとつぶした後があった。
[それに、二つの病気を背負っているのは、多分私だけですよね]
一行離れて書いてある文字は、震えていた。
次の文字も、途中まで震えている。
そして、下の方に、しずくが落ちた後がある。
[北斗君のお母さんに、直接伝えたかったけれど、私はやはり、今すぐ伝えなきゃいけないことがあるんです。
あぁ、手紙を書きながら緊張して、文字が震えてしまいます笑]
視界に現れた、彼女の笑顔。
あぁ、俺も、こんなに月の笑顔を見てしまったのだろう。
見なくても、覚えてしまう。
[私は、北斗さんのことを、慕っていました。
いい人だなぁと思っています。
でも、それ以上に、親しくなりたいと願うようになったのです]
論文のようなその言葉に、思わず笑みがこぼれる。
意味が分からない。どういうことだろう。
俺のことを、どう思っているのだろうか…??
[どうか、どうか。最初で最後の私の願いを、かなえてほしいと思っています。
それがダメなら、少しでいいです。一時間でも、一日でもいい。
彼が私のことを、少しでも見ていてくれれば、それだけで私は―]
途切れた、三枚目。
まだ行はあるのに、そこには続きがない。
俺は、最後の便せんをめくった―。
[それだけで私は、安らかに眠れますから―]
最初の行に書いてあった、眠るという言葉――。
どういう、ことだ。
彼女は、命にかかわらないのだろう?
…あ、あぁ。そうか。
寿命が尽きても、幸せに死ねる、という意味だろう。
俺は、目を、下へとスライドさせた。
[この便せんは、北斗さんには見せないようにお願いします。
私の気持ちは、あなたが抱いていてくれれば、それで満足なので。
私がもしいなくなっても、きっとあなたが最後に願い、彼に言葉を伝えてくれれば、それだけで―   夜空月]
最後の、“それだけで”という文字も、震えている。
…月は、どんな気持ちで、どんな表情で、これを書いたんだろう。
俺は、そんな疑問を抱きかかえながら、今日を終わらせるために眠った。

「…えっ?」
「だから、母さんに手紙書いたんだろう?あれって、どういう意味なんだ?」
次の日、決心を決め、俺は手紙のことを、月に伝えた。
移動教室だったため、廊下には、人であふれている。
ただ、日直の俺と、彼女だけは、教室に残っているため、俺は“秘密”をしゃべることができた。
シーンと静まり返った教室。
彼女も、俺もしゃべらない。
俺は彼女に背を向けたまま、教室の黒板の文字を消した。
「…なんでキミがそれを知っているの?」
やっとのことで出した声のように、彼女は言葉を発した。
「…母さんに、北斗にも読んでほしいって言われたんだよ。最初は、断ろうとしていた。だけど、どうしても、気になって」
「…」
彼女は、またしゃべらなくなった。
彼女は、笑っているわけない。
後ろを向いているため、表情は見えない。
だが、きっと複雑な顔なんだろう。
そう、想像しながら、俺は仕事をおわらせた。
「行こうか」
この言葉を言いながら後ろを向き、彼女に向き直る。
「っ…え?」
彼女は…月は、笑っていた。
どんな時でも、彼女は笑う。
あの、ケンカの時だけしか、涙を流さなかった。
“怒る”という、表情だって、あの時だけ。
だから…彼女は、こんな時も、悲しそうに笑っていた。
「…あのね。私、笑うしかできないの…。笑うしか、表情が表れないの」
「でも。あの時は、怒っていたよね?涙さえ、流してたよ」
「…それは、多分病気の発作みたいなものだと思う。生きるとか、死ぬとか、そういう言葉を聞いちゃうと、感情がコントロールできなっちゃうの」
信じることは、できない。
いや、信じられないんじゃない。
信じるのが、怖いのだ。
いつか、月を失ってしまうんじゃないか、なんて考えてしまうから。
「ねぇ。北斗くん」
「…なに?」
「気味が悪くて、バカで、アホで。ブスな私を描いてて、楽しい?」
「…」
「…私なんて、描いてても、楽しくないと思うの。キミのモデルは、私で…いいの??」
「・・・」
俺は、即答ができなかった。
彼女をこのまま描いていて、いいのか。と考える自分がいたのだ。
「…まだできない。決められない。俺には、もう…」
彼女は笑った。
窓から差し込んだ光が、彼女の目からあふれ出たしずくを照らした―。

月は、移動教室の、音楽の授業中に熱が上がって、早退してしまった、と橋本さんに聞いた。
あの後、俺は正直後から教室に行った。
けれど、班行動だったため、隣の席同士でも、会話ができなくなるどころか、姿も見えなくなった。
でも、そんな騒動が起きているなんて、思いも知らなかった。
橋本さんによると、38,9もあったらしい。
橋本さんは、おびえたように涙をためながら、顔を青くして去っていった。

俺は、何をしているんだろう。
屋上で空を見上げなら、ふと思う。
俺が絵を描くのは、月のためじゃないか。
彼女が病気でも、なんでもいい。
俺は彼女の絵描きで、彼女は俺のモデルじゃあないか。
それなのに、勝手に彼女を傷つけ、自分の都合で彼女を突き放す。
サイテーだ。
そんなの。
月のことを大切にしようと決めたじゃないか。
いつも北斗くんて呼んでくれた月を、あんなふうに傷つけて突き放すなんて。
俺は震えていた手のひらを握りしめ、月の笑顔を、月の言葉をもう一度頭のなかで浮き出させた。
あやまろう。
俺は決意を固め、もういちど、青空を見上げる。
どうか、どうか待っていてくれ。
俺はもう一度、キミの絵を描くんだ。
キミだけが、俺の絵の、モデルなのだから。
もう一度だけ、俺にチャンスをくれ。
そう願いながら、俺はもう一度、強く手のひらを、握りしめた。