「…今日も来なかったな、夜空さん」
男子たちが、俺の隣を通り過ぎていく。
俺の横の席は…夜空月の席だ。
俺の名前は、蒼井北斗。
美術部に入っている、趣味が絵の、普通の男子中学生だ。
夜空月は、中学二年生から、いつまでもここに来たことがない。
でも、一年の時は、よく学校に来ていたし、きれいな容姿だったので、容姿は覚えられていた。
なので、みんなは彼女を心配していた。二年生になってから、まるっきり来なかったから。
もう二か月もたったのに、彼女は顔を見せることもなかったのだ。
でも…。ちょうど、もうすぐ夏休みに入る、というとき。
「…あのぉ…2年3組って、ここですか…??」
という、ソプラノ声が聞こえてきたのだ。
「…えっ?」
先生も、驚いたように、教室の外を見た。
「…よ、夜空!久しいな!」
その言葉に、みんなが驚いたようにそちらを向いた。
当然、俺も。
「…えっ!?夜空さん!?」
「うわぁっ!久しぶり~!」
すると、5秒もたたないうちに、彼女は、クラスの生徒たちに囲まれた。
「…う、うん。ただいま」
にこっと笑う彼女は、息を飲むほど…美しかった。
他に、きれいな物なんてないような。
「…あの、私の席って」
「あぁ、北斗の横だよ。北斗ってわかる?蒼井北斗!」
「う、うん。知ってるよ。えぇっと、たしか。美術部で賞状をもらってたよね?」
突然、俺に視線が向けられた。
「えっと。去年なら、そうだよ」
俺はうなずいて、横の席を指さした。
「あ、ここだね。ありがとう、蒼井くん」
彼女は、カバンを横にかけ、頬杖をついて座った。
彼女の姿を見た。
真っ白な銀髪の髪に、優しい笑顔。
美しい空色の目。
本当に、きれいな容姿をしている。
結局、ほうかごまで彼女は残っていた。
そして、普通の女子中学生のように、女友達と、笑いながら帰っていった。
俺はそのすがたを見つめながら、さっさ、と鉛筆を画用紙へ走らせた。
それは、桜の木の下で、風に揺られながら目をつむって笑っている…昨日まではいなかった、“夜空さん”だ。
だからと言って、銀髪でも、水色の目でもない、俺が感じていた彼女。
俺は、一年の時も、彼女のことを知らなかった。
というか、姿を一度や二度見たほどだ。
だから…俺が思い描いた“夜空月”を描いたのだ。
「…ねぇ。聞いてるの、蒼井くん」
聞こえたソプラノ声。
俺はハッとして、鉛筆を画用紙から遠ざけた。
「よ、夜空さん!?」
「うん。私、日直ずっと休んでたから。少しくらい手伝えって言われちゃって」
そういって笑った夜空さんは、黒板けしを使って、黒板を消し始めた。
「…」
沈黙が始まると、おれはまた鉛筆を握り返す。
「…ねぇ」
後ろ姿の夜空さんは、小さな声で言った。
「それって、私?」
その言葉に、息が詰まる。
「……うん」
「モデルにしてくれたんだね」
「迷惑だった?」
「そんなことないよ。うれしい。私を絵に表してくれただけで」
彼女はやっと振り返って、にこっと笑った。
「………そんなことで喜ぶなら…他のも描いてもいい?」
「えっ…?」
彼女は、黒板けしを勢いよく落とし、ハッ…として、それを拾った。
「いいの!?」
きらきらな目で見てきた彼女に、俺は困惑しながら頷いた。
「ありがとう…!」
彼女はとびっきりの笑顔で笑った。
「じゃあ、これからは夜空さんとかじゃなくて、名前呼びね!」
彼女は笑って、約束っ!と、俺の手を握った。
「え…。夜空さんじゃダメなの?」
「うん。だって堅苦しいじゃない。わたしも北斗君って呼ぶ。いい?」
「…まぁ、それはいいんだけど」
「もう約束しちゃったから。いいよね?ほ・く・と・くん!」
彼女はいたずらっぽく笑っていった。
「えへへっ。だからこれからは、月って呼んでね!」
「…っていうか、キミの名前、月じゃないんだね」
「え?今頃知ったの??私は夜空月!パソコンとかに書き込めば、すぐに出てくるよ」
彼女は次に、ぷぅっとほほを膨らませた。
喜怒哀楽な人だなぁと思う。
でも、喜怒哀楽の、哀が足りていない。
まるで…そんな感情がないかのように。
「…ねぇ?じゃあ今日さっそく描いてよ」
「え?こ、これじゃダメなの?」
俺は、今描いている絵を持って見せた。
「えっ。だってそれって、私じゃないじゃない?」
「…」
たしかに、これは…月じゃない。
茶色の髪に、紫色の瞳。
少しくせっけの、ほわっとしている、ショートカット。
彼女とは正反対な容姿をしている。
「…だから、次からはちゃんと、私を描いてよ。北斗くん」
彼女は無関任だ。
にっこり笑って、決めつける。
…彼女は無責任で…誰よりもきれいだ。

「ねぇねぇっ。描けた?」
次の日。
俺が日直なのを想定したのか、朝早くから席に座ってにやりとしている月。
「…いや、俺は家では描いてこないから。やっても学校で、だよ」
「へぇ…。そっか。じゃあ描けてないのもしょうがないよね」
彼女はつまんなそうに、机に伏せた。
「…」
俺は、日直の仕事を無言で始める。
「…」
彼女は、まだ黙ったまんまだ。
ついに、日直の仕事が終わっても、彼女は一言も話さなかった。
思い切って、彼女に近づいていくと。
「…すぅ…くぅ…すぅ…すぅ…」
小さな寝息が聞こえてきたのだ。
「…寝てんじゃん」
俺はそう呟いて、彼女のように伏せた。
こてっとなって、こちらを向いた彼女の顔は…いつものきれいなものではなく、可愛らしいものだった。
その日は、ホームルームまで俺らは寝てしまい、先生にこってりと怒られた。
そのあとの授業は、いつもよりも長く感じた。
ようやく、授業も終盤になってきた。最後の授業も、あと10分で終わる、というとき。
ふと、横を向くと、にやっとしながら、彼女がこっちを見てきた。
「…ねぇ、耳貸して!」
小さなその声に、俺は素直にそちらに耳を貸した。
「…キミが好き」
聞こえてきた声は…震えるような、か細い声だった。
「…っ!?」
顔が赤くなるのが分かる。
キミは?と聞かれ、俺は、返事に困る。
「…お、俺は…!!」
「おい!!聞いてんのか、蒼井!!」
すると、目の前の先生に、ビシッ!!とチョークをぶつけられた。
「すいません!!」
俺は大きな声で言って、席に座った。
横をみて睨むと、あっはははっ!!と笑っている彼女が見えて、ふがいない…という気持ちが強まった。
「ひぃっ…くくくっ」
「…何してんだよ!」
「えへへっ。だって面白いんだもんっ!だから、ウソついたの!」
くくくっと笑っていた彼女にどうしてもふがいなかった。
「…キミってもしかして、ものすごく性格悪いの?」
「んー。そうかもね。でもそれは、キミ限定!」
笑った顔が、確かに不気味であったが、どうしてか俺も笑ってしまった。
二人で笑いあったあと、もう一度先生にチョークをぶつけられ、俺だけ廊下に立たされたあと、月に大爆笑されたのは、言うまでもないだろう。


「ねぇってば。聞いてる??」
「へ…?」
放課後、俺たちは、二人で掃除を任されていた。
「…ごめん、聞いていなかった」
「ふぅん。もう。じゃあもう一回言うね。明日の土曜日と、日曜日、空いてる?」
「あぁ・・・まぁ、空いてると思う。急な誘いがなければ」
「あ、ほんと?じゃあ駅で集合ね」
そういって、ばいば~いと言って、去っていこうとする彼女。
「ちょ…!ちょっと待ってよ、月。何をするんだよ?」
「え?それも聞いていなかったの!?もう。しょうがないね。絵を描く旅だってば。だから、これからたくさんの場所に行くんだよ」
「…え。そんなの」
「無理だって言いたい?」
「え、普通そうでしょ?」
俺は当然の顔で言った。
「…じゃあわかった!今日、キミの家に行ってもいい?」
「は…?」

ということで、ちゃっかりお茶をずびずびっと飲んでいる彼女を横目に、俺はお馴染みのコーラをぐびっと飲み干す。
彼女の目の前には、ニコニコ笑顔の母さんが座っていた。
「初めてねぇ。北斗が女の子を連れてくるなんて」
「いえ、女の子認定しなくてもいいんですよ!私、多分北斗さんに女の子認定されていないので」
「あらまぁ」
「いや、それくらいは俺だってしているよ」

そのあと、沈黙感が出てきたところで、彼女がその沈黙を大きな声でぶち破る。
「単刀直入に言います!!明日の土曜日と、日曜日、北斗さんを借りてもいいですか!?」
「え…?」
ぽかん、と口を開けて、閉まらない母さん。
俺ははぁっとため息をついた。
「…え、えっと…北斗を借りるっていうのは…?」
「はい。えっと、彼の絵をご存じですか?」
「あ、えぇ。とてもうまい絵柄ですよね」
「そうなんです。そうなんです!私は、彼の友達、というか…彼の絵のモデルをしています」
「あら、そうなの!」
とたんに、母さんの目がピカッと光った。
「絵のモデルとして、絵をもっと盛り上げたいんです。なので…九州の、有明海に行きたい、と思っています!そして、富士山をみて帰ろうと、計画しています」
これには、親子そろって頭を抱える。
「うぅん…でも、子供だけなんでしょう?」
「はい。でも、私には、スマホもありますし、いつでも連絡が取れます。お母さんとも、連絡交換をすれば、すぐに電話がかけれるようになります」
「でも…危ないんじゃないないかしら?」
「家の父と母には、了承を受けています。もし、どうしても無理なら…私一人で、海と富士山の写真を撮って、だいたい、月曜日くらいに帰ってきます。どうですか」
いつもと違う、真剣な目。
その視線に…やっと母さんの光る眼が、優しく変わった。
「…それじゃあ、あなたのお父さんたちと、連絡は取れますか?」
「はい。えぇっと、この電話番号です」
彼女は急いで紙に何やら電話番号を書き、母さんに渡した。
「…わかったわ。北斗に連絡させます。もう遅いので…えぇっと」
「夜空です。夜空月です!」
「月ちゃんね。素敵な名前。漢字はなんて書くの?」
「えっと、夜のよと、そらで夜空です。るなは、月って書きます」
「夜空の月。きれい。素敵な名前」
ほめたぎる母を横目に、俺は席を立った。
「月ちゃん。もう遅いので、帰りなさい。明日の朝までに、連絡させますから」
「…はい。わかりました。ありがとうございました!」
月は頭を下げ、会釈した。

月が去っていったあと、母さんはいい子そうね、と言ったのは、聞かないことにした。
その夜、母さんは彼女の親御さんと、なにやら話をしていたようだ。
時々、母さんは顔をしかめ、口元を押さえ…苦しそうにしわを寄せていた。
「……北斗。明日、月ちゃんと行ってきてくれない?」
え…?
あんなに嫌そうだったのに。
「…どうして?」
「それは、私が言っていいことじゃないわ。…月ちゃんに、聞いてみて」
母さんは、それから何も言わなかった。
そうしなければいけない理由があるんだと、なんとなくわかった。
お金でも、握らされたのか。
俺は母さんを心配しながら、行けることになったよ、と、事前に彼女に教えてもらったLINEに打ち込み、送信した。
すぐに既読がつき、やったー!という明るい文字と、絵文字が送られてきた。
彼女らしいな、とおもった。
その日は、ドキドキなんてしなかった。
ただ、母さんのことが心配で、夜遅くまで、寝られずにいた。


「おー!おそかったね。ほ・く・とくんっ!」
「…キミのおかげで寝れなかったよ」
俺はぐったりしながら、駅に来た。
彼女は、夏らしい、半袖のパーカーに、半袖のズボン。
俺は、普通の、どこにでもあるような服だ。
「え。それって、私のこと意識してくれたってこと~!?」
「違うって」
「ふふ。じゃあ、電車までレッツゴー!」
彼女は笑って、改札口までかけていった。
電車に乗ると、どこも席が空いていた。まだ朝早くだからだろうか。
「全然人いないね」
「そうだね。奥の方に数人いる見たいだけど、今いるこの5列目には誰もいないね」
「…二人っきりだね」
えへっと笑う彼女。
そのとたん、ガタッ!!と電車が大きく揺れた。
「きゃっ」
隣に座っていた彼女が、少し傾く。
そのまま、バランスを崩し、こてっと俺の肩に顔が置かれた。
「ちょ…!」
「ごめんね、北斗くん。私バランスとるの、下手なんだぁ」
彼女はまた笑いながら、体制を戻し、数秒後、窓を見ながら寝落ちしていた。
数十分後、駅は終点に陥った。
でも…彼女は起きなかった。
置いて行ってやろうと考えたが、俺はやはり見捨てることができず、彼女を抱えて、いわゆる、“おんぶ”という体形になった。
ちょうど、飛行機にのる、というところで、彼女は起きた。
「ん…もう九州?」
「そんなわけないでしょ。まだ東京だよ」
俺はあきれた声で言った。
彼女を指定された席に座らせると、俺もその隣に座る。
「イヤホンいりますかー?」
飛行機内で、女性が折れに向かって声をかけてくる。
「えぇっと、一つください」
俺は一つもらって、彼女に手渡した。
「…えっ、いいの?」
「俺はいらないから」
ありがと、といいって、彼女は自分の小さな耳につけた。
そして、座席にある穴に差し、目を閉じて笑いながら、揺れた。
“飛行機が発射します!”大きな声が聞こえ、ぐわぁんっと機内が揺れた。
「…動き始めたのかな?」
「みたいだね。ここから二時間かかるから、少し寝ておいた方がいいよ」
「うん」
彼女はそれから数分後、また寝息をたてはじめた。
俺も、眠くなったので、目を閉じた。

どれくらいたっただろう。
「もう着きましたよ」
という、横からのおじいさんの声に、俺は身を起こした。
「ん…あ、もう着いたんですか?」
「えぇ。ちゃんとつきましたよ。ずっと寝ているようなので。そこのお嬢さんも起こした方がいいんじゃないかな?」
そういわれ、俺は横にいる彼女を見つめた。
「はい。ありがとうございます。わざわざ」
俺はお礼を言って、去っていくおじいさんを少し見つめてから、彼女を揺さぶった。
「ついたよ、月。ほら、早くいかないと」
それでも、彼女は起きない。俺は、仕方なく、彼女を抱えこみ、前を向きながら歩き出した。
すると、うふふっと笑い声が聞こえた。
気のせいか…?と思ったが、そんなわけない。
「…月、起きているな」
「なんのことー?」
やっぱり。
俺はそこで月をおろし、はぐれないように代わりに手をつないだ。
「へぇっ。ここが福岡かぁ~」
すぅっと空気を吸っていく彼女。
「広いね。空が良く見える。東京と違って、空気がおいしいよ」
えへっと横で笑い声が聞こえる。
「きれいな街だ」
俺も言って、歩きはじめた。
カツカツと、月の少し高いヒールサンダルが音を鳴らす。
「ここかな?」
バスで一時間。たどり着いたのは…綺麗な瑠璃色の海だった。
そこに、夕陽も重なった。
ますます海は、綺麗さを増した。
「…」
彼女は何も言わず、ただ、海を凝視していた。
「…この海が、見たかったんだろう?」
「……違うよ」
え?
俺は目を疑った。
彼女が靴を脱いで、ぴちゃぴちゃ…と海に入っていったからだ。
「じゃ、じゃあどうしてここに来たの」
「…私の目的は、これを見るためじゃないよ」
彼女は海の浅いところのぎりぎりまで入って、こっちを向いて笑った。
「キミに、この背景で、絵をかいてもらうため。そのために、私たちはここに来たんだよ」
その言葉を聞いて、俺は納得した。
だから昨日の夜、あんなことを言われたのだ。
ただの旅なのに、どうしてもスケッチ帳とカメラ、そして絵具と色鉛筆を持ってこい、言われたのだ。
「だからこんなにも荷物を持たせたんだね」
「そうだよ。ほんとは私が用意しようと思ったんだけど、あいにく私の家に絵具も、色鉛筆もないんだよね。絵も描かないから、自由帳とかも持ってないし。ごめんね」
「いや、いいんだよ。結構重かったけれどね」
俺はそういいながら、スケッチ帳を出し、鉛筆で描き始めた。
彼女の輪郭を描き、顔を描く。楽しそうなその表情。
そこまで描き終わると、彼女がこちらを見つめた。
「…どうしたの」
「ううん。福岡は、日がおちるの遅いなぁって思って」
そういわれ、俺も頷く。
確かに、もう日がおちそうになって数十分たっているはずなのに、日はいつまでも落ちていない。
明るい街なみのままだ。
これなら、あと数十分描き続けても大丈夫だろう。

それから、日が少し落ち、俺たちは写真を撮って、月が予約をしてくれた旅館へと向かう。
「っていうか、旅館なの?ホテルじゃなくて?」
「うぅん。わかんない。ホテルだと思うよ」
あいまいだなぁと思いながら、そこからバスで45分経った…。
「お疲れ気味ですね、お客様」
ついたホテルは、東京と同じくらいの高さのビル。
「ここの、8階の部屋、予約してるから」
笑顔で言った月。
そのあと、エレベーターで8階にあがり、部屋の鍵を開けた。
「わぁっ…!広い!教室より少し広いね!!」
大きな声で叫ぶ彼女。
俺も、ベットにねそべって、天井の模様を眺める。
「じゃあ、お風呂沸かしてくるね」
そういって、風呂場へと去っていった月を見つめながら、俺はテレビをプチッとつけた。
何気ないお笑いのテレビが映り、俺はソファに腰を掛けて、持ってきたペットボトルの水を飲んだ。
「もうすぐわくよ」
そういって戻ってきた月は、寝巻をもう準備していた。
「パジャマ、あそこの棚に置いてあったよ。パンツ、ちゃんと持ってきたよね?」
いたずらっぽく言う月に、俺は恥ずかしながら言った。
「も、持ってきたよ。母さんに持たされたんだ」
「そりゃそうだろうね」
アハハ…と笑う彼女。
すると、ピロンッ♪と、風呂場の方から聞こえた。
「あ、沸けたみたいだね。どうする?どっちから入る?」
「いや、月からでいいよ」
「そう?じゃあ、おさきにもらうね」
月がにこっと笑って、お風呂の方にかけていく。
それから、数分経つと、上がったよ~と、寝間着姿の月が出てきた。
「どうかな?このパジャマ。可愛いよね」
「あ、あぁ・・・」
「認めてくれるんだ?ありがとう」
彼女は、じゃあどうぞ、と、俺に風呂場の場所に連れて行き、そこで別れた。

俺は恥ずかしさを感じながら、ひらりと服を脱いだ。
シャワーを軽く浴びながら、湯気が立ち上るお湯の中に足を入れる。
「…あちっ」
声を出してしまったが、俺はゆっくりと首までつかる。
風呂の面積は少し小さいが…結構あったかく、疲れが取れる。

数分そこにいると、指がもつれてしまった。
俺は近くにあったタオルで身体を拭き、棚にあった寝巻に着替えた。
そして、月がいるところへと向かう。
「…えっと。これでいいんだよね?」
「うんっ!似合ってるよ、北斗くん」
彼女も、寝間着とは思えない、服を着ている。
「ねね、屋上で花火もらえるんだって。行かない?」
「…花火?」
「うん。花火も、9時から打ちあがるみたいだよ」
時計を見ながら月が言う。
「もうすぐ9時だし、行かない?」

「わぁ…綺麗」
屋上で、線香花火を持ちながら、綺麗を連発している月。
「…綺麗だ」
俺も、彼女の姿を写真に収める。
スマホ以外は、持ち込み禁止だったため、スケッチを持ってくることができなかった。
「ねえ、北斗くんも、線香花火しようよ」
「いいの??」
「うん。もちろん」
彼女は、自分が持っていた袋から、線香花火を一つ、俺に手渡した。
和風の寝巻のため、本当に花火大会のような雰囲気。
「ねえ、掛けしない?」
「かけ?」
「うんっ。どっちが早く落ちるか」
月は笑って言った。
「先に落ちたほうが、落ちなかった方のいうことを聞くってことね」
月はいたずらっぽく言ったあと、えへっと笑った。
「…わかった」
俺は、頷いて、先に花火に火をつけた。
じりじり…と、火が赤く光っている。
彼女の火も、綺麗にともされている。
ポト…俺の火が先に落ちた。
その後すぐに、月の火も、ポテッと落ちる。
「私の勝ちね」
月は笑いながら、俺の手を握る。
俺は肩を落としていった。
「…お願いって何?」
事前に願いがなければ、こんなことは絶対に言わない。
「えっとね、まず一つ目!」
「一つ目!?」
「うん。一つ聞く、なんて言ってないでしょう?」
悔しく思いながら、俺は頷いた。
「一つ目は、キミが絵を描くのをやめるまで、私がモデルね」
思ったより簡単なお願いで、ほっとした。
「それくらいなら。別にいいよ」
「よかった。じゃあ二つ目ね。今日は、絶対に花火、最後まで見てかえろうね」
これまた簡単なお願い。
俺は笑って言った。
「もちろん。俺も花火とキミを、写真に収めたいからね」
「じゃあ三つ目ね」
「うん」
ここまでくれば、きっとまた簡単な物なのだろう。
「私のこと、好き?」
「…ふぁ!?」
思わず変な声が出た。
「…答えて」
真剣な目を見せた彼女。
…俺は、正直に答えたほうがいいのか。
それとも…。
「……嫌いじゃない」
「それって、好きってこと?」
「…好きって意味でも、ないかな」
「じゃあ」
「俺らはあくまで、絵かきとモデルの関係だ。そこを超えるなんてことはない」
俺は、恥ずかしくなりながら言った。
すると、ぷくくっ…と彼女の笑った顔が目の前にある。
「あははっ!何本気で言ってるのっ?好きって、恋愛感情じゃないってば!」
「え?」
「友達として、好きって意味だよ。もう。北斗くんって、変に敏感だね」
お腹を抱えて笑う月に、恥ずかしさは抑えきれなかった。
「じゃあ、4つ目ね」
「まだあるの!?」
「うん」
にひひ、と笑う月。
「じゃあ、恋バナしよう!」
ドーン!!と花火の、一発目が打ちあがった。
「すごいっ。綺麗」
「先に写真撮ろう」
俺はその言葉に、続くように言った。
カシャと、あたりにシャッター音が響き渡る。
そして、俺が座り込んだ隣に、彼女が座り込んだ。
「好きな人いる?」
「…いない」
「ほんとかなー?」
「あ。小学3年の時に、気になった子はいた」
その言葉に、月が、驚いたように目を見開く。
「…そうなんだ?どんな子?どこであったの?」
「えぇっと…ふわふわの髪に、綺麗な目だったよ。出会ったのは、たしか…病院、だったっけ」
「えっ!?病院?」
「うん。絵を描き始めたのは、その時からだよ」
俺はゆっくりと、昔話を始めた。
―あれは、俺が小学3年生のころだった―
俺は、母さんの健康診断に、初めてついて行ったんだ。
母さんはその時、お腹が痛い、と言っていて、一応病院で検査をしていたんだ。
俺は、控室で、一人で、新しく買ってもらったカメラを触っていた。
すると、ぶるぶる…と震えている、女の子を見かけたんだ。
その子にゆっくりと近づくと、もうすぐ死ぬんだ、と話してくれたのだ。
俺は、カメラをその子に向けた。
すると、彼女は、笑顔で笑ってくれたんだ。
まるで、今の月のように。
俺は、カメラの履歴に残っていた、女の子の姿。
俺は…スケッチブックに、その子の姿を描いた。
彼女が死んでも、きっとこのスケッチブックと、このカメラの中で、彼女は残っている。
この中で、彼女が生きていると思うと、すごくうれしくなったのだ。
―絵を描き始めた理由―
「ふぅん。キミは、その女の子に恋をしたんだね?」
「…あれは、恋というか。あこがれたんだ。死ぬとわかっていて、笑っている、という彼女にね」
「ふぅん。素敵だね」
「キミはないの?」
「うーん。あるとしたら、小学5年生かなぁ」
「結構最近だね」
月は嬉しそうに話した。
「私、そのころ少し悩んでいたの。自分のことと、家族関係、って言えばいいのかな」
「へぇ。キミも悩むことあるんだね」
「ひどいなぁ」
彼女は肩をすくめ、笑った。
「それで…今みたいに、小川で花火を見ていたの。7月で、ちょうど七夕の日でね。夜空に花火と、天の川がきれいに光っていた。それが、川に移って、四つの光に包まれていたの」
花火をいとしそうに眺めている、月。
彼女の眼の中には、確かに花火が移っていた。
「そんな光景を見て、わたし、みじめになっちゃって。花火と天の川は、こんなにもきれいなのに、私だけ、こんなにも醜いって。泣いて、泣いて…泣いていたらね。ある男の子が、キミはきれいだよって。優しく言ってくれたんだ」
嬉しそうに、悲しそうに話す月に、俺は少しチクッと心が痛む。
「すごくうれしかった。そのままね、花火と天の川を背景に、絵をかいてくれたの。今でもその絵は、私の部屋に飾ってあるの」
「ふーん」
俺はわざと、ぶっきらぼうに答えた。
「…それが私の、初恋、かな」
最後の花火が打ちあがった。
どれよりも綺麗で、色鮮やかで。
大きくて、最後の花火なんだとわかる。
「ほら、早く帰ろう?」
彼女は、立ち上がって、団子型に結んだ髪と、横髪が、ひらりと宙を舞った。
「とった写真を早く、絵に乗せてね」
彼女はそういったとたん、たったっと駆けていく。
「ちょ!」
俺も、急いで立ち上がって追いかける。
「先に部屋についたほうが勝ちね!」
大声で叫ぶ月に、お静かに!走らないでください!と、ホテルの人が言う。
その声を聴いて、月はあははっと笑った。
俺よりも先にエレベーターに乗って、本当に部屋に先に帰ってしまった。
結果…一日で、一枚の絵を仕上げろと、罰ゲームを言い渡されてしまった。

次の日、俺が目覚めると、もう隣のベッドに、月はいなかった。
その代わりに、リビングの方から、大きな音が聞こえてきた。
テレビの音らしい。
俺はゆっくりと、すぐそこにあったカバンから、今日の分の服を着て、リビングの部屋へと歩いていく。
「…おはよ」
ドアをスライドさせたタイミングで、ソファに腰掛けている、月が声を上げた。
「うん。おはよう、月」
俺も頷いて言った。
「な、なんか落ち込んでる?」
ずぅーん。と、いかにも落ち込んでそうな彼女。
「だってぇ…今日帰る日なんだもん…」
るなは目をうるうるさせながら言った。
「そ、そうだけどさ」
俺はそのあと、一生懸命に月をなだめた。
そして、髪をくしでといて、というお願いに、俺は頷いた。
「…私ね、友達に、ひどいことをしたの」
急に、やわらかい口調で話し始めた月。
俺は、黙って聞いていた。
「昔、いじめられていた子をね…助けたの」
「…」
それが、どうして友達にひどいことをした、というのだろうか。
「いじめの標的が、私に変わって、彼女はほっとした、って言ってた。それから、ぐんぐん友達とか、恋とかしていくその子を見てね、すごくつらくなった…」
そりゃあそうだろう。
彼女のために、すごく頑張ったくせに、彼女はみじんも助けてくれなかったんだから。
「でも…それってしょうがないよね。私が彼女を助けたのは…自分の思いなんだもん。代わりにお願い、なんてないんだもんね。私の、ただの思いなんだから」
そんなの、無責任だ。
ずるくて、にぶい。
「……だからね、私、全校生徒の前で、言っちゃった」
えへへっと笑った月は…力がなく、苦しそうだった。
生徒会に入っていたからね、と続ける。
「そしたらね…いじめっ子は退学とかに追い込まれてたみたいなんだけどね…その子には、何も気概がなかったの…。本当は、その子が一番、そんな目にあってほしかった。だから…」
それから先、月は何も言わなかった。
「…って話はほんとだと思う?」
いたずらっぽく笑って言う彼女。
「は!?今のほんとの話じゃなかったの!?」
「もちろんだよ。私がいじめられるようなよわよわな子だと思ったの?」
彼女は笑って、じゃあ髪結んでくるね、と嬉しそうに笑って、去っていく。
数分経って、髪を二つの三つ編みにして戻ってきた彼女。
「さ、描かれる準備はできてるよ。よろしくね、北斗くん!」
月は笑顔で、ポーズをとる。
それが、旅行での最後の絵だった。
家についたころには、もう午後の5時になっていた。
だから、さすがに俺らは、駅の真ん前で別れた。