サクラが夢見るような表情で空を眺めている。

 さきほど目にした光景が、忘れられないのだ。

「なんというか、頭も心も追いつきません。ユウキ様を育てられたのが、あの伝説の英雄グラナダス様と……大精霊オリンピアだなんて」

「あ、はは……」

 大精霊オリンピア。

 かつて魔王時代の終焉に、グラナダスを守護していたとされる。

 やがては精霊女王として万物を統べる霊位に昇るかもしれない、非常に重要で偉大な高位精霊であり──ミュゼオン教団が崇める信仰対象のうちの一柱でもあるのだ。

 サクラが夢見心地なのも無理はない。

 自分が崇めている存在であるオリンピアが、正確に言えばオリンピアの分霊が目の前に現れて、喋って、サクラを苦しめていたミュゼオン教団の幹部に裁きを下したのだから。

 その奇跡が起きたのは、数刻前のことだった──。



 ◆



 なんだか申し訳ない状態だな、とユウキは思った。

 支部の最高責任者である司教が、真っ赤になったり真っ青になったりしながら目の前の人物を見つめている。

 教団関係者しか入ってくることができない、教会の中心部にある聖水の間までルーシーは一切のためらいなくあがりこんだのだ。

「司教殿。話があるのだが、少し時間はよろしいか?」

「あ、あああの!? ルーシー様、何をされるおつもりですか!」

 何も知らされずに、ルーシーに教団まで送り届けられたサクラがおろおろとしている。ルーシーはサクラには応えずに、自分よりも背の低い司教をじろりと睨み付けつづけている。

 眼光鋭い狩人が、子どもを抱っこしたままでやってきた異常事態に、司教や彼をとりまく周囲の人間は騒然としていた。

 多くの教団関係者にとりかこまれて歩いていた司教の肩をひっつかんで、逃げようとするのを引き留める。周りにいた聖女たちは、状況がよく飲み込めずに訝しげな顔をしていた。

 中には、「またサクラと、あのチビが騒ぎを起こしている」と渋い顔をして敵意を剥き出しにしている者もいる。

「な、な……」

 じり、じり、と距離を詰めるルーシーから逃れるように後ずさる司教──その後ろには、豪華な噴水があった。

 円形に整えられた噴水の真ん中には、美しい精霊の彫刻が立っている。

 精霊が持っている壺から注がれている水からは、オリンピアの結界内に湧いている泉と同じような気配を感じる。

 彫刻がミュゼオン教団の進行する「大精霊」と呼ばれる存在のようだ。

 どことなく、オリンピアの面影があるような、ないような。

(これ、聖水……ってやつかな?)

 トオカ村を離れる前に、サクラは「瘴気溜まりを浄化する」といって瘴気の濃く吹きだまっているところに聖水を振りかけていた。

 さらには、瘴気酔いをする人が出た場合に備えて……とトオカ村に瓶詰めの聖水とやらをいくつか売り渡していた。

 あの聖水もサクラが教団から買い取って、それを転売している形らしい。よく聞くと、かなりの高額商品だが利ざやはほとんど出ないようにしているとか──見習いや聖女職についている人よって、聖水を売る価格はまちまちなのが現状らしい。

 それもこれも、教団が所属している人間たちから金を吸い上げるだけ吸い上げるような油まみれの歯車が回っているためだ。

「オトナ、汚すぎる……」

 震える司教に、ルーシーが言った。

「証拠は揃っているんだ、過剰に巻き上げた上納金を返却しろ」

「う、うるさい! 我々の働きは失われた精霊様たちの御心を継ぐものだ! グラナダスとかいう傲慢な勇者気取りが魔王を倒した余波で、こんな世の中になってしまった今、我らこそ地上の光……トワノライトという、エヴァニウム算出の拠点を守るには費用もかかる、口出しをするな」

 ものすごい早口のおじさんである。

 見習いのサクラを送り届けてきた謎の子連れ女──彼女がくだんのグラナダスなのだが──ルーシーに睨み付けられて、司教はすっかり萎縮しつつも染みついた傲慢さを隠さずにいる。

「な、なんですかあれ……見習いのサクラが引き入れたの?」

「貴族様はやりたい放題ね、ほんとに」

「誰か呼びましょう、追い出さないと」

 周囲の人たちが徐々に自我を取り戻し、騒ぎ始めた。

(うわ、なんか……やばいんじゃ……)

 今の状況は、明らかにルーシーが悪者だ。

 いくら汚職の証拠を掴んでいるからと言って、あまりにも性急すぎるのではないかしら……とユウキは震えた。

 まわりに人が集まり初めて調子を取り戻した司教が、勝ち誇ったように吐き捨てる。

「大精霊様が、こんな狼藉を許すと思うのか?」

「ほお、大精霊様が」

 ルーシーがにやりと口の端をつり上げる。

 これはもう、勝ちを確信しているときの表情だ。オリンピアと口喧嘩をしているときに、時折浮かべるこの表情に見覚えがある。

 大きく息を吸い込んで、ルーシーは大司教……の後ろの噴水に向かって問いかけた。

「……どうなんだ、大精霊様?」

「は?」

 ルーシーの言葉から一瞬の間があって、キンという甲高い音が耳をついた。

 キィン、キィンと共鳴しながら音がどんどん大きくなる。

「うわ、うるさっ」

 ユウキは思わず耳を塞いだ。

 頭が痛くなりそうな音だ。

 様子を見守っていた下級聖女や見習いたちも同じように顔を歪めて耳を塞いでいる。

「……?」

 だが、司教や年かさの教団関係者たちはきょとんとして何が起こっているのかわかっていないようだった。

(これ、あれだ! モスキート音だ……)

 一定の年齢を超えると聞こえなくなってくる、高周波音だ。パチンコ屋の前を通りかかったときに、いつの間にか聞こえなくなってしまったときには自分の加齢を痛感したものだ。

 キンキンと、重なり合いながらどんどん大きくなる音に耐えていると噴水が光り始める。

 その光が人の形をとった。

 空中になびく長い髪、豊満な曲線を描く体、頭上に輝く光の輪。

『──……ああ、なんという、なんということでしょう』

 芝居がかった声にも、聞き覚えがあった。

(か、かあさん!)

 どこからどう見てもオリンピアだった。

 だが体は半透明。響き渡る声もラジオを通したように、ちょっとノイズが乗っている。

 実体ではない、ホログラムのような存在のようだ。

『精霊たちの名を騙り、人の欲を満たそうとは……ああ、これはとびきり嘆かわしい!』

 光り輝きながら威厳ある喋り方をしているオリンピアだが……ユウキとルーシーに小さく手を振っているので台無しである。

 そういうところですよ、かあさん。

 授業参観にはしゃいだ母親がやってきてしまったような、なんともいえないうれし恥ずかしい気持ちである。

 あちゃあ、とユウキは目をそらした。

 どちらかというと、母親を参観している形だし。

「こ、これは……っ! 大精霊様が降臨なされた……魔王時代以降、その兆候もなかったというのに……」

 わなわなと震えて、オリンピアの前にひざまずく司教によりいっそう気まずい気持ちになるのであった。

 ルーシーは生暖かい目でオリンピアを見守っているので、おそらくコレが起きることは織り込み済みだったのだろう。

 やや強引にユウキをつれてここまでやってきたことも含めて、彼女の台本通りだったのでは。

 抱っこされたままで、ユウキはルーシーにそっと尋ねてみる。

「ししょう、あれってどういう……?」

「オリンピアがどーーーーしてもお前の顔を見たいと言ってきかなくてな……オリンピアに縁のある泉であれば『現し身』を送れるからというので……」

(え、じゃあこれって……俺に会いにきてるかんじ?)

 過保護にもほどがある。唖然とするユウキであった。

「ついでだから、母のいいところを見せたいというから……ピーターが前々から教団の不正については少々気にしていたもので、協力してもらったわけだ」

「ええ……」

 そっちがついでなんだ。

 サクラが救われそうな方向に話が進みそうだし、いいんだけれど。

 むしろ好都合なのだろうけれど……手放しで喜べない。

「お、お許しください! 大精霊様……」

『ええ、ええ……子どもたちに慈愛を。特に……私の愛しい子のお友達にはとりわけ親切におねがいします』

「……は?」

 オリンピアの言葉に大騒ぎ状態だった聖水広間が、しんと静まりかえる。

 うるさいほどの沈黙だ。

「大精霊様の愛し子……ですと」

『ええ、それはもう。とびっきり愛しい子です』

「な、ななっ」

『そして……何やらそこの娘は、我が愛しい息子と仲良くしていただいているようですね……』

 話しかけられたサクラが、目にいっぱい涙を浮かべて震えだした。

「は、はわ……大精霊様が、わ、わ、私なんかに語りかけて……!? というか、ユウキ様はやっぱり、すごい人だったのですね……」

『ええ……うちの子を今後ともよろしく』

 ぺこり、と一礼をするオリンピア。

(か、かあさん……キャラがブレてる!)

 ユウキの心配をもとに、大精霊の降臨に教団側は萎縮しっぱなしのようだ。

 気持ちよくお説教をし終えたオリンピアが、にこやかにユウキたちに手を振りながら消えていくのを見送ったころには、ユウキとサクラの扱いがまったくもって変わっていた。

 トップアイドルよろしく、崇拝と尊敬をない交ぜにしたような眼差しを一身に受けたユウキは、オリンピアの姿に夢見心地になっているサクラを連れて逃げ出したのだった。



 ◆



 大型の魔獣の出没情報があったということで、ルーシーは早々にトワノライトを発っていった。まったくもって、嵐のような人だ。

 トオカ村から帰ってきたピーターとアキノに教団でのことを話したところ、二人とも大笑いをしていた。

 アキノの淹れたハーブティーを飲みながらの、一仕事を終えた語らいの時間だ。

「そりゃあ、痛快だったわね!」

「あっはは、あの人たちは昔から変わらないなぁ」

「むかしから、あのかんじだったの!?」

「ああ。グラナダス伝説なんて言われて、けっこうシリアスに語られてるが、魔王との戦いとは思えないくらいにハチャメチャだったよ」

 ピーターは多くは語りたがらないのだけれど、おそらく相当に愉快な旅だったらしい。……それにしても。

 「伝説」とまで呼ばれており、自分の銅像まで建っている街に澄んでいて、ほとんど正体を知られずに暮らしているのだからピーターの凡人オーラには驚かされる。

 だからこそ、忘れがちだったけれど。

 この世界でわからないことがあればピーターはなんでも教えてくれる、酸いも甘いも知り尽くした大人なのである。

「そうだ、ピーターさん。ひとつ、ききたいことがあります」

「うん?」

 鉱山の街トワノライトは、エヴァニウムのおかげでかなり現代的な道具が揃っているけれど……精霊がいて、魔獣がいて、魔力がある世界なのだ。

 それなのに、今まで「アレ」を見ていない。

 オリンピアが現し身を使って山奥の結界域からトワノライトまで転移をしてきたのを目の当たりにして、やっと思い出した。

「このせかいには、まほうはあるの?」

「……え?」

 ピーターとアキノが顔を見合わせた。

「もちろんあるよ。魔術と呼ばれることが多いけれど」

「あー……瘴気酔いも知らなかったもんね。なんというか……知ってることと知らないことの差が激しいと、こういうこともあるか」

「それもそうか……ルーシー殿は武術の人、オリンピア殿は魔術なんぞ使わなくとも精霊の力を振るうしなぁ……」

「トワノライトがこんな大都市になれたのは、産出される精霊石エヴァニウムのおかげ。で、そのエヴァニウムが重要視されるのは、魔力を持つ人間が魔術で操るような現象が誰にでも起こせるからなの」

「ふむっ」

 要するに、魔術というのはこの世界ではかなり限られた人間しか使えないものだそうだ。

 生まれつき魔力を多く体内で生成して貯め込める体質で、かつ、魔術師としての修練を積む機会に恵まれて、ようやく魔術を使えるらしい。

「今は魔力を持っている人の多くはミュゼオン教団か魔獣狩りギルドに入ってしまうから、魔術は廃れているよ」

「なるほど」

 ふむぅ、とユウキは考え込んでしまった。

 というのも、オリンピアの行ったように別の空間に転移するような魔法がないだろうか……と気になってしまったのだ。

「あの、ぼくもまじゅつをならえますか?」

 ユウキの質問に、黙り込んだピーターはしばらく考え込んでから返答した。

「魔術師の知り合いは、一人しかいないんだ」

「え、父さん。それって……」

「うん、グラナダス隊にいたリルカ殿なんだが……」

 何か問題がありそうな口ぶりだ。

 口の重くなってしまったピーターのかわりに、アキノが教えてくれた。

「魔術師リルカといえば、父さんなんて比べものにならないくらいの伝説的な人物よ……なにせ、数百年前に魔王出現を予言した人なんだから」

「すうひゃくねん!」

 それって、あれだ。

 魔法をあやつる長命種族……いわゆるエルフ的なやつだ。

 イメージ通りの魔術師像に、ユウキは思わず興奮した。

「ただの魔術師じゃなくて、未来を見通す『眼』を持っているのよね」

「まあ、あの人が有名なのはそれだけじゃなくて……引きこもりの中の引きこもりなんだよ」

 リルカなる魔術師は長いこと少女の姿を保ったまま、「図書館の塔」と呼ばれている自宅に引きこもって過ごしていて、どんなに偉い人物の招聘にも応じないし、来客を招き入れることもほとんどない。

 極めて数少ない例外が、英雄グラナダスとの旅だと言われている。

「まあ、それも最後の数日だけで……旅のほとんどは遠隔参加だったんだけれどもね」

 魔王討伐に遠隔参加とは。どういうことだろう。

 テレワークなんだ、そこが。

「だからさ、魔術師リルカに会うのは難しいと思う。他にツテのある魔術師もいないのよ」

「そうなのか……じゃあ、まほうをおぼえるのはむずかしいのかな」

 ちょっと残念に思っていると、ピーターがそっとハーブティーのカップを持ち上げて言った。

「心配ないよ。こんな風にあの人を話題にしてると、たぶんそろそろ……」

「え……?」

 そのとき。

 カタカタ、と家が揺れ始めた。

「わ、何コレ!? お父さん!?」

「落ち着いて。ユウキ殿、アキノ、カップを押さえて」

「んえ……?」

 ダイニングの大きなテーブルが揺れて、さまざまな図形が組み合わせられた魔法陣が浮き上がって、光り始めた。

 グルル……とポチが唸る。

 何かが近くにいる時の反応だ。たとえば大型の魔獣とか。

「な、なにこれぇ!?」

「このテーブルは、リルカ殿からの開業祝いでね……こういう『仕掛け』なんだ」

「やたら大きいって思ってたけど……ぎゃああ!」

 アキノが絶叫する。

 絶叫して、隣にいたユウキに抱きついた。

 抱きつくのにいい感じの大きさと、ぷにぷにのほっぺた。アキノにしてもサクラにしても、そしてたまにピーターにしても、おちびのユウキを抱きしめることで精神安定を図っているときがある。

 別にいいんだけれども、力が強すぎてちょと苦しい。

 だが、今回ばかりは仕方ない。

 目の前に出現したモノが、あまりにも異質だったのだ。

「な、な、何コレぇええぇ」

「うぎゃあああ!」

 生首だ。魔法陣の真ん中に、生首が鎮座していた。

 切りそろえられた銀色の髪の、女の子の首だ。

『やあ、はじめまして』

 しかも、生首が喋った。可愛い声だ。

 アキノが言葉を失っていると、ひょいっと生首から下が魔法陣から出現した。テーブルの上にあぐらをかいている美少女をピーターがたしなめた。

「……リルカ殿。あまりうちの娘を怖がらせないでください」

『そりゃ失礼、異世界からの旅人くんにインパクトを残したくての』

 リルカが愉快そうにクツクツと笑った。

 見た目は美少女、仕草はおっさん、口調は老人。なるほど、これが長命種か……とユウキは少し感心してしまった。

 彼女がこの世界で最上級の魔術師か……どことなくユウキをこの世界に転生させた金髪ロリ女神に似ている気がする。人間を超越した存在というのは、こういうルックスなのだろうか。

 ずい、とリルカが身を乗り出して、ユウキを見つめる。

 あまりにも至近距離なので、そっと手を伸ばしてリルカの顔面に触れてみると……触れて、しまった。

「わっ」

『むぐ、レディの顔面に何をするのじゃ』

「さ、さわれた!?」

『いやいや、驚いた……たしかに私はここに「いる」けれど、そちら側から干渉できるのは、紛れもなく君の力じゃよ、少年』

「ど、どうも」

 この人、二人称が「少年」だ……と謎の感動をしてしまった。

 リルカの体は半透明ではなくて、きちんと実体があるように見える。

 オリンピアが自分の現し身を送ってきたのとは違うものなのだろうか、あれは向こう側の景色が透けていたはずだ。

『魔術を習得したいというのは少年だね?』

「は、はい」

『いいね、魔力量も膨大だし、魂も知能も十分……そして少年が成し遂げたいことは』

 今度はリルカがユウキに手を伸ばしてきた。

 伸びてきた指先が眼に触れそうに近づいてきたのに驚いて、ぎゅっと目をつぶる。

「……?」

『はは、なるほど……これは鍛え甲斐がありそうだ』

 愉快そうな声に、目を開ける。

 身構えていたけれど、いつまで経っても触れられる様子がなかった。

 おそらく手をかざして何かを読み取ったのだろうか、目の前にはニマニマと笑っている顔がある。

(いやいや、成し遂げたいっていうか……)

『こういうことが、したいのじゃろ?』

 とん、と。

 ユウキの目の前に、何かが置かれた。

『……こうやって、異界のものを取り寄せたいのだろ?』

「え? え、えええ!」

 魔法だ。

 まごうことなく、魔法だ。

 だってこれは、ユウキが欲しいと思っていた──。

「しょうゆだ!」

 はるか遠い場所に干渉ができるなら、ユウキが元いた世界から少しだけモノを拝借できないかしら……と思っただけなのだ。

 この世界にあるもので、味噌や醤油とか作れそうもないし。

『少年の記憶から引き出させてもらったよ……他にも色々とあったけれど、こいつが一番鮮明に刻まれていたからね』

「にほんのこころなのでっ……」

 外国人が日本の航空機に乗ると、ショウユのスメルがするとかいう噂がまことしやかに囁かれている。

 大豆のことを英語でソイビーンズと呼ぶけれど、もともとはソイ……すなわち日本語の「ショウユ」の原料になる豆ということでそのネーミングになったらしい。諸説ありだけれど。

 とにもかくにも、醤油がなくてははじまらないのだ。

 逆に言えば、醤油があれば「はじまる」のだ。

 感動に打ち震えていると、リルカの衝撃的な登場の衝撃から立ち直ってきたアキノが訝しげに尋ねる。

「なに、それ? 黒い水……瘴気に汚染されてない?」

 とんでもない。

 ユウキにとっては聖水よりも重要なものだ。

『ふふ……魔法陣ごしに私に触れることができるうえに、実体化に耐えうるほどの想像力や記憶も持っている……魔力量といい、少年は天才的に筋がいいようだな』

 嬉しそうにしているリルカの体が少しずつ透けていく。

 時間切れか、と名残惜しそうに呟くリルカは、ユウキにむかってひらひらと手を振った。

『単刀直入に言おう。魔術を学びたいという意思があるのなら、君の記憶にある世界からあんなものやこんなものを取り寄せることも可能じゃよ……それどころか、人の心を操ったり、死んだ人を蘇らせたり、意志のない動物を生み出したり……魔術というのはなんでもできるのじゃよ?』

「ちょっと! リルカ殿!」

 明らかに悪い顔で勧誘をしてくるリルカに、ピーターが割り込んだ。

「それ、禁忌になっている古代魔法でしょう! また図書館の塔でろくでもない文献を掘り出して……」

『ほほほ、バレたか。ほれほれ、最近ハマっている古文書がこれじゃよ?』

 どこからともなく、古びた本を取り出した。

 周囲に転がっているモノを拾い上げるような動作をしている。

 テーブルの上に描かれた魔法陣の中にリルカの実体があるように見えるけれど、やはり肉体は別の場所にあるようだ。

 引きこもりというのは、嘘ではなさそうだ。

 一方的に自分の言いたいことをまくし立てるコミュニケーションにも癖があるし、普段はあまり人と話したりしないのだろう。

 今目の前にあるのは、いわば、やたらと存在感のあるホログラムのようなものだろうか。

 大精霊のオリンピアでも映像を送ってくるのが精一杯だったのを考えると、リルカがかなり強大な魔術師であることがわかる。

『弟子入りしたくなったらいつでも塔を尋ねておいで……ピーター、案内は頼んだぞ?』

 ぱち、とウィンクを飛ばしてくるリルカ。

『神域に至った我が姉君から、イキのいい奴が来たと聞いて楽しみにしておったが……んっふふ、しばらくは退屈しなさそうじゃの!』

「やっぱり、めがみさまのかんけいしゃ!」

 他人のそら似ではなかったようだ。

 色々と問い詰めたいことがあるのだけれど、その瞬間にリルカもテーブルの上に展開していた魔法陣もかき消えていた。

「はぁ……驚いただろう。昔から、ああいう人なんだよ」

「お父さんが謝る必要はないんじゃない……っていうか、本物のエルフって初めて見たわよ。耳が長いって本当なのね」

 イヤリングをぶら下げ放題ね、というとぼけた感想を零すアキノ。

「なんか……あらしのようなひとだね」

「もし本気で魔術を志すなら、あれほど頼れる師匠もいないさ。今や王立学園の魔術科主任だからね……まあ、ほとんど自分の研究をしているだけみたいだけれどね」

「かんがえておきます」

 ユウキは手の中に残された醤油を見つめて返事をした。

 本当ならば、今すぐにでも弟子入りしたいくらいだけれど……今は、こいつが先だ。この世界に来てから、ずっと憧れていた味の濃いおかずにありつけそうなのだから。