俺が城から出て8日。
 やっと国境が近づいてきた。

 商売人達なのだろうか。
 窓の外にはどうやら荷馬車が増えてるようで、対照的に通行人の姿は減った。

 この先にはもう、国境の検問くらいしかない。
 国を跨ぐ人間は、徒歩なんかじゃぁ滅多に来ないという事か。
 

 そういう訳で、今の馬車内はまた絶賛すし詰めだ。
 老若男女、寄合馬車だから流石に身なりが良いのは居ないが、老人も居れば子供だって居る。
 そんな彼らは、一体何しに隣国へと行くのだろうか。
 そんな風に思ったが、詮索なんてされようものなら俺こそ具合が悪いから、興味本位で誰かに聞く事もできない――なんて事を考えていた時である。
 すぐ隣に座ってるクイナが、何かを熱心に凝視している。

 あぁ向かいに座っている子供か。
 ちょうどクイナと同年代だし、だから気になってるのかも。

 最初はそう思ったが、絶対違う。
 よく見たら、彼女が見てるのは彼女の手元だ。
 両手で包むようにして、大事そうに持っている飴が入った瓶である。

(あぁー、甘い物かぁー……)

 ついさっき俺が渡した甘いものをペロリと食べたばかりなのに、さっきの今でもう甘い物に釘付けなんて、食いしん坊感が半端ない。
 

 それでもまぁ遠くから見ている分には良いかと思ってたんだが、意識してなのか、無意識なのか。
 ジリジリ、ジリジリとクイナは彼女と距離を詰めて、遂にはその子の持っている瓶に鼻が付きそうなくらいまで近付いて――。

「こーら、クイナ」

 目深に被ったフードの上から、クイナの頭を鷲掴む。

 グリグリとしてやれば、多分嫌なのだろう。
 釘付けのまま「ウーッ」と唸る。
 お前はキツネなんだろうに、犬かと思う反応だ。

 しかし幾ら恨みがましそうな目で見られても、俺だって一応は暫定保護者の立場である。
 きちんと叱ってやらねばなるまい。

「この子がビックリしてるだろ。それにめっちゃ迷惑だ」
「でもとっても気になるの! キラッキラで綺麗なのに、何か甘い匂いがするの!」
「そりゃぁ飴だから甘い匂いは当たり前だろ」
「『あめ』……?」

 コテンと首を傾げたクイナは暗に「飴ってなぁに?」と聞いてきている。
 あぁ知らないのか。
 それで匂いに反応して、こんなにも興味津々という訳か。

(仕方がないなぁ、向こうについたら一つくらい買ってやるか……って、ん?)

 クイナが凝視している瓶が全くそこから動いていない。
 女の子が両手に持っているんだから、普通ならば寄ってきた彼女に驚いて引っ込めるなりしそうなものなのに。
 
 そう思ってやっと彼女を視界に入れて、悪い事をしてしまったと後悔した。


 飴の瓶を持っていた彼女は、カチンと固まっていた。
 そんな彼女の視線の先には瓶に被り付かんと見ているクイナに向けられている。

 間違いない。
 この子はクイナが原因で固まってるのだろう。

「あっ、ごっ、ゴメンな? ちょっと驚いちゃったよな?」

 そう言って彼女の顔を覗き込めば、それでやっと彼女は我に返ったようだ。

「はっ! だ、大丈夫です。ちょっとビックリしちゃっただけ、なので……」

 そう言って慌てて笑った彼女は少し気弱な印象の子だったが、受け答えは歳のわりにきちんとしている印象だ。

 「そう? なら良いんだけど……。あ、そうだコレ」

 お詫びを何かと考えて、思い出して出したのは一つの茶色い包みだった。

 中には砂糖がまぶされたドーナツ。
 前の停留所に着いた時に買ったもので、先ほどクイナがペロリと完食したものとまったく同じやつである。

「お詫びに、良かったら」

 ドーナッツ、嫌いだったりしないかな?
 そう尋ねれば、彼女はおずおずと「……良いの?」と俺に聞いてくる。

「あぁもちろん!」
「じゃぁ、あの、ありがとう……!」

 そう言ってはにかんでくれた彼女に俺は、ホッとする。

 後で食べようと思って取っておいたヤツだけど、彼女が喜んでくれてるみたいでちょっと嬉しい。
 そんな風に思っていると、左腕にズンッと軽い鈍痛がやってきた。
 見ればクイナが俺の腕に、頭をグリグリと押し付けている。

「何だどうした」
「クイナも!」
「さっき自分の食べただろ?」
「むぅぅぅぅーっ!」

 グリグリとめり込む頭突きが、何だか地味に痛いんだけど。
 そう思って片やフードを被ったクイナの頭を両手でグイッと遠ざける俺と、まだ俺の腕を自分の頭で掘削するのを諦めていない様子のクイナ。
 俺達の地味な攻防戦が、馬車の中の酷く狭い一角で割と真剣に繰り広げられる。
 

 とはいえ俺は大人でクイナは子供、勝利の女神が俺に微笑むのは当たり前だ。

 結局クイナが先に疲れて、俺の掻いてた胡坐の左側に頭がポテリと落ちてきた。
 お陰で見た目は膝枕を貸している仲良しの図だ、が。

「……おいクイナ。男の膝なんて残念ながら、固くて寝てられないだろー?」
「んぅーっ!」

 俺の指摘はどうやら的を射ていたようで、どうやら彼女はその事実がとても不服なようである。

 まぁそうだろう。
 が、コレばっかりはどうにもならない。



 そんなやり取りがひと段落着いたところで、「あれ? どうやら自分が誰かからの視線を浴びているらしいな」と気がついた。

 見れば先程、俺がお詫びにドーナツをあげたあの子と目が合う。


 もしかしたらおかわりが欲しいのかもしれない。
 だけどスマン、もう残ってないんだよ。
 そもそも残ってたんだとしたら、俺の膝の上で未練がましく唸っているこのクイナは居なかった筈だ。

 ……っていうか、いつまでいじけてるんだよお前は。

 そう思って顔をちょっとのぞき込めば、被っているフードの中に口をツンっと尖らせたままのクイナが居た。

 えー、どうすんの。
 だってしょうがないじゃんか。
 そんな風に思っていると、俺達の間に割り込む様にニュッと何かが現れた。
 
「良かったら、一個いる……?」
「えっ?!」

 飛び出してきたのは先程クイナがガン見していたあの飴の瓶で、言ったのはさっきの子だ。


 クイナはひどく喜んだ。
 それはもう喜んだ。
 その結果、彼女はガバッと勢いよく頭を上げて――。

 ゴンッ

「「〜っ!!」」

 凄い音と共に額に、思わず「割れたか」と思った。
 クイナの頭と彼女をちょうど覗き込んでたせいで出てた俺の顎がクリーンヒット。
 言うまでも無いだろうが、めっちゃ痛い。

 俺は顎をクイナは頭を抑えながら、それぞれが無音のままで悶絶する。
 と、突然で一瞬だった《《事故》》現場のすぐ近くに居合わせてしまったあの少女が「あの……大丈夫ですか?」とオロオロしながらも聞いてきてくれる。


 俺だって、だてに18年も王族なんて地位に居たわけじゃない。
 相手が本当に心配しているのか、それとも上辺だけなのか。
 それくらいはすぐに分かる。

 この子が見ず知らずの俺たちの顎と頭を本気で心配してくれている事くらい、簡単に分かるのだ。

「なんて良い子なんだ……」

 気が付けば、そんな言葉がポロッと漏れた。
 まだ痛む額のせいで、生理的な涙が目に溜まって前がよく見えない。
 が、それでも小さな彼女の無垢な心配に俺の心は洗われた。


 と、誰かの吹き出す様な声が聞こえた様な気がした。
 そちらを見れば、30代くらいのダンディーなオジサマが居る。

「いやぁ、すみません。あまりにも感情の籠った声だったので……」
「……はっ!」

 そう指摘されて初めて自分の独り言を自覚した。
 羞恥心が顔を駆け登り、体温が体感0.5度ほど上がったような気分にさせられた。
 誤魔化す為に「ははは」と空笑いをすると、彼が俺に手を出してくる。

「私はこの子・メルティーの父親で、ダンノと言います」
「あぁ、ご丁寧にどうも。俺はこのクイナの旅の同行者で、アルドと言います」
「おや、この国の王太子殿下と同じ名ですね」

 面白い偶然だ。
 そう言った彼は、おそらく何か含むところがあった訳じゃない筈だ。
 
 それでもドキッとしてしまったのは、どうしようもない事だろう。
 それを掻き消すようにして誤魔化すための笑顔はしたが、もしかしたら差し出された手とした握手に少し力が籠り過ぎてしまったかもしれない。


 しかしそんな俺にダンノは、深入りする事は決して無かった。
 
「す、すみません。クイナがそちらのお嬢様にご迷惑を」

 もしかしたら引きつっているかもしれない笑顔で言えば、彼はフッと人の良さそうな笑みを浮かべてくれる。

「いいえ、気にしないでください。こちらもドーナツ、ありがとうございます」
「あぁいえいえ」

 互いにそんな大人のやり取りをしている横で、クイナはダンノの娘・メルティーから飴を一粒受け取っていた。

 貰ったそれを口の中にポイッと入れてコロコロモグモグしてすぐに、彼女は両手の頬に添えて笑う。

「甘ぁー!」

 とても嬉しそうだなぁー。

「クイナ、お礼はちゃんと言ったのか?」
「あっ、ありあほ、あの!」
「どういたしまして」

 口の中がもごもごしているお陰でお礼なのかどうか分からない言葉が出てしまってたが、お礼の気持ちそれ自体はどうやらちゃんと届いたらしい。

 メルティーはやはりちょっと控えめな感じで、それでもにっこり笑って応じてくれた。
 とりあえず二人は仲良くできそうだ。

(正直言って、一つしか残っていなかったドーナッツを譲ってしまって「どうなることか」とちょっと心配したんだが、まぁ大丈夫そうだな……)

 そう思い、ホッと胸を撫で下ろす。

 流石は飴、凄まじいパワーだ。
 今後何かを言い含める時用のアイテムとして、見つけたらすぐに買っておこう、うん。

 真剣にそう頷いたところで、ちょうどダンノが聞いてくる。

「アルドさんは、ノーラリアにはご旅行に?」
「ご旅行というか、ちょっと見てみて良さげだったら王都に移り住みたいなぁと思っていまして」
「そうなのですね、入国は初めてで?」
「はいそうです」

 実際には公務で国には来たことがあるが、城下にすら降りる事は叶わなかったし、国境だってVIP待遇で超えたから自分の足で検問を通るのも初めてだ。
 入国自体初めてだと言ってもそう大差はないだろう。

「ノーラリアは多国籍で多種多様。その影響で、色々な国の品が集まる場所なので、市場はとても賑やかですよ。喧しいのがお嫌いでなければ、活気のある住みやすい場所だと思いますよ。王都は治安も良いですしね」
「へぇー、それは楽しみだ」

 俄然高まってきた期待に、ちょっと嬉しくなってくる。

 色々な国の品というのも興味があるし、賑やかなのも嫌いじゃない。
 むしろ以前は手放しで誰かと一緒に空気を楽しむという事が出来ない身分だったから、それについても好奇心の方が先立つ。

 彼の言った事全てが俺にとってはプラスだ。

「ダンノさんは、ノーラリアの方なんですか?」

 ならばもっと詳しく話を聞きたい。
 そう思って質問すれば、彼は快く答えてくれる。

「えぇ、私はノーラリアの首都・イリストリーデンで商会を開いているんですよ」
「えっ商会を?!」

 俺は思わず「凄いですね」と声を上げる。
 俺にとって商会というのは、俺の知らない領分で金と人を動かすエキスパートのようなイメージだ。




 首都の商会ともなればそれなりの手腕が必要なんじゃないだろうか。
 それ以上に、「商会を《《開いている》》」というんだから、きっと彼は商会長なのだろう。

 そう思えば、なおさら興味が沸き上がる。

「ではもしかして、今回はその関係でこの国に?」
「えぇそうなんです、他国進出の下見の一つで。しかしちょっと折り合いがつかず、結局今回は手ぶらで帰る途中です」
「それはそれは……残念でしたね」

 苦笑交じりにそう話したダンノに、「せっかくはるばるやってきたのに何も収穫が無いなんて」と俺もちょっと残念になる。
 もし俺に地位が残っていたならば、もしかするとどうにかしてあげられたのかもしれない。
 が、無いものは無いんだから仕方がないだろう。

 しかし彼の気持ちを思うと、ちょっと俺まで落ち込んでしまう。
 が、そんな気持ちで見た彼の顔は、思いの外明るいもので。

「まぁこういうのはご縁ですし、商売にはそういう事も往々にしてあるものなのです。それに何より今回は、メルティーに初めて他国というものを見せてやれましたからね」

 そう言いながら娘を見遣る彼の目は優しく、「とても楽しそうでしたから」と言った声は柔らかい。
 それは疑いようもない子供想いの父の姿で、仕事を置いても「良かった」と思えている彼が一体どんな人間なのかは、少なからずそれで分かる。

「なるほど」

 相槌を打ちながら感心する俺は、今度は「笑顔が引きつっているかもしれない」なんて心配はする必要が無かった。
 そんな俺に何故か彼まで安堵したような顔になったのは少しばかり不思議だったが、その理由を深く考える前に彼はこんな提案をしてくれる。

「あぁそうだ。もし何かご入用な物がありましたら、是非『ダンリルディー商会』を頼ってください。私自らご案内いたしますよ」

 私の商会なんです。
 街で聞けば、場所はすぐに分かるでしょうから。
 
 そう言った彼は、少なくとも俺に対して商会長自ら案内するくらいの価値を認めてくれたらしい。
 
「ありがとうございます。土地勘も頼れる相手も皆無なので、とてもありがたい申し出です」

 是非とも頼らせてもらおう。
 そう思って、俺は『ダンリルディー商会』『ダンリルディー商会』と頭の中でその名前を何度も唱えた。
 忘れてしまったら勿体ない。


 と、その時だ。
 馬車がゆっくりと停車した。
 
 少し身を乗り出して外を見れば、前に少し行列が出来ている。

「あぁ、国境に着きましたね」

 呟くようにそう言ったダンノは、既に何度も国境を通る経験をしているのだろう。
 特に緊張も気負いもする様子はなく、口に出たのもただの反射のようなものだったに違いない。


 が、俺にとってはそうじゃない。
 一人で国境を超える事に慣れている筈もなく、あまつさえ今はクイナだって居る。
 居る筈の無い獣人少女が出国するのだ。
 緊張しない筈が無い。

(もしここでバレてしまえば……)

 どうなるんだろう。
 そう思えば不安で仕方がない。


 思えばそもそも、出国審査というものに対する知識がないのがいけなかった。
 
 そのせいでどんな出国審査にどのような工程があるのかが分からない。
 身体検査なんてものがあったら、コートで獣人のトレードマークを隠しているだけのクイナはもう終わりである。

 が、顔を青ざめた俺に、ダンノが微笑み交じりに教えてくれた。

「そんなに緊張せずとも大丈夫ですよ。この国は、入国審査こそ厳密ですが出国審査は条件がかなり緩いですから。それこそ国の要人が国外に誘拐されない様にする措置や何らかの原因で出国禁止令が出ている人間の出国を止める事くらいしかしません」
「因みにそれは、どのようにして判断を……?」
「あぁそれは、魔法具を使うんです。こう……大体頭くらいの大きさの水晶玉を一人ずつ触って確認するだけですよ」

 そう言われて、思い出す。

 確か俺も、出国時には毎回誰かがやってきて水晶玉を触らせられた。
 そうするといつも水晶が黄色く光って、「問題ありません」と言われて通される。
 確かそんな感じだった。
 
(そうかあれって、出国審査の手続きだったのか)

 今更になってそんな事に気付かされ、俺は思わず苦笑する。
 しかし誰もがあれだけで通れるのなら、よほどの事が無い限りクイナの種族がバレる事は無いだろう。


 だから俺は、ここでひどく安堵した。
 が、まさか思わなかったのである。

 あんな事になるなんて。



 国境の目の前で一斉に馬車から降ろされて、俺たちは皆とある部屋に通された。
 そこには水晶が用意されていて、「順番に手で触ってから通れ」と指示されてそれに従う。

 もちろん俺も言われた通りにやっておいた。
 水晶だっていつもように黄色に光った。
 だから俺は、少しホッとしさえしてその場を通り抜けようとした。
 ――その時だった。

「あの、すみませ……恐れ入ります」

 突然ぎこちない丁寧語が掛けられて、そちらの方に顔を向ける。

 と、そこにはベテラン兵士が眉尻を下げて立っていた。
 どうしたんだろう、その後ろでは他の警備兵達も少しざわめいている様に思う。

(――あぁ俺は、コレを知ってる)

 瞬時にそう、分かってしまった。

 
 例えば俺が想定外の事や、突然予定の変更が必要になってしまった時。
 現場の人間は、決まってこうして慌て狼狽えていた。

 つまり、だ。
 これはたぶん十中八九――。

「あの……何故こんな寄り合い馬車で出国されようとしているのですか? アルド殿――」

 殿下と言い切る前に俺は、慌ててその兵士の口をシュバッと塞いだ。


 彼の驚いた目と視線が交わる。
 それはそうだろう、彼はあくまでも自らの職務を全うするために質問したに過ぎないのだ。
 まさかそれを、高貴な筈の人間に、しかもこんな物理的な方法で静止されるとは思うまい。




 しかしそうしてまでも、この敬称が周りに広く聞こえるのは困るのだ。

 俺が王太子だったのは事実だが、そもそもそれも最早過去の話なんだし、もし身バレして、面倒事に巻き込まれたらと思うともちろん身バレしないに越した事は無い。

「せめて端っこに……」

 そう言えば、彼はまるで壊れた操り人形のようにコクコクコクと頷いた。
 そうして二人で部屋の隅っこまで移動してから、やっと会話を再開する。

「す、すみません。王族の方がこういう形で国境を通るのは、誘拐された時くらいしか無く、些か周りへの配慮に欠けました。今日はお忍びか何かなのですか?」

 俺の言動から「周りにバレてはいけない案件なのだろう」とどうやら察してくれたようだ。
 謝ってくる彼は今度はちゃんと小声で周りに配慮してくれている。
 
(誠実そうな兵士だな。周りの様子を見た感じ、おそらく彼がここの責任者なんだろう。こういう真面目さが現場には必要なんだ)

 そんな風に思いながら、だからこそ彼の仕事に泥を付けない様にしようと心に決めて告げる。

「お忍びじゃないよ。だって俺はもう、王族じゃないからな」
「……え?」

 俺の答えに、彼は間の抜けた声で聞き返してくる。

「えっと……俺、つい8日ほど前に王太子から平民に下ったんだけど……通達は来てないか?」
「え、知らないです」
「……え?」
「え?」

 俺としては「来てないか?」という彼への問いは、「来ているだろう?」という確認だった。
 自分で言うのも少々むず痒いけど、王太子の廃嫡というのは国の大事だ。
 普通は各所にすぐ、そういう通達が回る。

 それこそ俺は罪を犯した身なんだから普通は動向を知っておきたいと思うのが普通だろう。
 それなのに馬車を出す事を拒んだのだから、行先は誰にも分からない。
 せめて出国したかどうかくらいの事は把握したいと思う筈で、そうなれば国境には即座にそういう連絡が届く筈なのに、彼を見る限りではどうやらそれも無いらしい。



 思い返せばここ8日間の道中で、「王太子が廃嫡されたらしい」という話はただの一つも聞かなかった。

(もしかして、俺の動向に興味が無いのか……?)

 いや俺だって、何もこの期に及んで「俺の事、気にしてくれよ!」なんて言ったりしない。
 そもそも自分から縁を切って国を出ようとしている身だし。


 だけど俺がその後国内で何か悪い事をする可能性とか、廃嫡された後でクーデターの旗頭になるかもしれないとか。
 裏工作が嫌いな俺でもそういう可能性がある事くらいは分かるのである。

 裏工作に精通している元婚約者のバレリーノや何かと小賢しかった弟・グリント、あまつさえあの王が思いつかない筈なんてない。


 なのにここまで何も対策をしていないとなると、俺が何もできないと踏んでいるか、事後対処で事足りると思っているのか。
 どちらにしろ俺の動向それ自体には興味がないと、若干こっちを舐めた形で思っているには違いなくて。

(なぁんだ、心配して損したわ)

 思わずそう思ったのは、実はここ数日「もしかしたら暗殺者とか来るかもしれない」とちょっぴり警戒していたからである。

 しかしそれも、国境にさえ全く話が及んでないのならばもう杞憂だろう。
 そうと分かればちょっとばかし自意識過剰な感じがして恥ずかしいやら、拍子抜けやら。

 いやしかし、まずはそれよりも。 

「仕事なんだから、誰かちゃんと伝令くらいは送っとけよ……」
 
 日々真面目に仕事に従事している様子のこの兵達に抱いた同情の念が、俺にそう呟かせた。

 そういう事なら俺みたいなのが普通に検問を通ってきて、さぞかし驚いた事だろう。

「えーっと……さっき言った通りだな、俺は陛下から8日前に平民に下る様に言われた。もうこの国の王太子でもなければ権力持ちでさえ無いんだ」
「は、はぁ……」

 さっぱりと端的な俺の言葉に、兵の彼は頷いた。
 しかしそれは「何とかして理解しようと努力している最中」という感じで、どう見ても納得している訳じゃない。

「まだ連絡が届いていないかもしれないが、それは事実だ。じきに国からもお達しがあるだろう。で、何で俺は止められたんだ?」
「あ、あぁはい。あの、先ほど水晶が黄色く光ったと思うのですが」
「あぁでもそれは前からだろう?」
「はい。あの水晶は出国禁止令が出ている人間が触ると赤く光を放ち、上流貴族や王族の方々が触ると黄色く光ります。光った場合は一緒に名前も浮かびますので、それと同時にどなたなのかも分かるという仕組みです」
 
 なるほど。
 それで町民風の身なりをしていた俺を見ても、すぐに王太子だと判断できたという訳か。




「赤の場合は即刻この場で取り押さえ、黄色い場合は他国への拉致の可能性がありますので少し慎重にならざるを得ません。そういう方々が来られる場合は大抵前もってご連絡がありますので、その場合は特にお待たせするような事も無いのですが……」

 ふむ。
 つまり今回は、この国の王太子――だと彼らが信じていた者が、何の前触れもなく、しかも彼らが乗っている馬車の中に水晶を持って来させて審査させるなどというVIP対応を要求せずに出国しようとしたから驚いて止めた、という訳らしい。

「もしかして、この水晶は魔力に反応して?」
「はい。魔力は指紋と同じように他に二つとないものですから」

 ぶっちゃけ俺は、魔法はちょっと使えても魔道具に関してはからっきしだ。
 だからわりと当てずっぽうだったんだけど、どうやら当たっていたらしい。


 しかし、用途が『拉致防止』だと分かったのは僥倖だ。

「さっきこの水晶は黄色く光った。つまり出国禁止令は出てない。そうだよな?」
「はい、それはその通りですが……」
「で、その連絡は来てない訳だな?」
「『殿下を捕らえよ』という命令ですかっ? そんな滅相もありません!」

 すぐさま否定してくれて助かった。
 これで俺はここを通れる。

「なら俺は、ここを通って構わないよな? 俺は分別のある大人だし、正気にも見えるだろう? それに今、ここで助けを求めればお前たちに保護してもらえると分かった上で出国を希望してもいる。それらを鑑みればおのずと、誘拐の可能性はなくなるだろう。また、出国禁止もされていない」
「そう……ですね。分かりました。しかし最後に一つだけお答えください。私から見て、殿下は何やら出国を急いでいるように見えます。その理由は何ですか……?」

 そう尋ねてきた彼は俺に、誘拐されていく人間に最後の命綱を垂らしているようにも、相手が犯罪に関わる者か否かを判断するためのものの様にも考えられた。

 が、やましい事は無い。
 だから俺は正直に言う。

「実はちょっと国王陛下の意に沿わない事をしてな。だから平民になって自由になったんだし、陛下の気が変わる前に早く国外へと出ておきたくて」

 そう思っているのは本当だった。
 ただそこにはもう一つクイナの素性がバレる前にというものあって、だけどそれは流石に彼には言えないから省いておいた。

 

 俺の答えに、少しの沈黙の後で彼は、ゆっくりと頷いた。

 実際に、彼はこれ以上俺をここに留めておける材料が無い。
 理由もないのに引き止める事は、職務的にも礼儀的にもよろしく無い。
 実に仕事や人に、誠実で忠実な人間と言えるだろう。

「じゃぁ俺はそろそろ行くよ」
「はい、どうぞお通りください。お手数をおかけいたしました」

 そう言って一礼した彼に、俺はフッと笑みを零す。

「俺は君の仕事ぶりをとても気に入ったよ。こういう人たちがこの国の平和を支えてくれていたのだと、今改めて感じたさ。とはいえ今更実感しても、もう王太子ではない俺には君たちに報いる事は出来ないけどな」

 そう言って後ろ手に手を振りながら、俺は一歩を踏み出した。

 そんな俺の後ろから「あのっ」と最後に声が掛けられる。

「俺の実家は殿下が制定してくださった『国内の穀物価格の下限を定める法律』によって過去に窮地を救われたのです! 末端の国民の事を考えてくださる殿下には、ずっと感謝していました!」

 ありがとうございます。
 そう言って頭を下げてくれた彼に俺は、ただそれだけで今までの全てが報われたような気分になった。

 
 この国での最後の記憶も、中々捨てたもんじゃない。