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 本格的に梅雨入りして、今日も仄暗い分厚い雲が土砂降りの雨を降らせていた。
 
 「──えぇ!超進展アリじゃない!」

 そんな天気にさえ気分を左右される私とは違って、梨々花の笑顔は今日も輝いている。

 いつだって同じテンションで、明るい声で私に話しかけてくれる梨々花に、私は今、どれだけ救われているだろう。

 「梨々花、シッー!まだお店営業中!」

 「ご、ごめん!だって愛美ちゃんがとうとう青葉くんと……っ!」

 「お、大げさすぎ!たまたまお昼ご飯一緒に食べただけだから!」

 梨々花がカフェにやってくる火曜日。彼女に青葉くんとの出来事を話すと、自分のことのように跳び跳ねて喜んでくれた。

 雨の影響で今日も夜のカフェにはお客さんが梨々花以外誰もいないせいで、彼女の高い声は余計に店内に響き渡っていく。


 「ごめんね、愛美ちゃん。メッセージくれてたのに、あたしなかなか返信できなくて」

 「ううん、塾とか学校行事で忙しいんでしょ?気にしないで。こうして話を聞いてくれるだけで、私すごく助けられてるから」

 「やだー!愛美ちゃんってば、あたし照れちゃうよ!」

 梨々花とは連絡先を交換しているけれど、日中は一切返事が返ってこない。それどころか、学校が終わっているはずの夜も、一言、二言会話をするだけで途切れてしまう。

 梨々花いわく、彼女が通っている学校では校内でスマホを触ることが禁止になっているらしい。

 それに梨々花は二つも塾に通っているから、毎日とても忙しいのだといっていた。

 「梨々花はどこの大学に進学するのかもう決めてる?」

 「え?う、ううん、まだ……あんまり考えてなくて」

 「そうなの?」

 これだけ勉強熱心で、塾もダブル通いしている梨々花の進学先がまだ定まっていないことが以外だった。


 「愛美ちゃんは?もう将来の夢とか決まってるの?」

 「はっきりとは決まってないんだけど、パティシエになってお菓子作りの道もいいかなぁって思ってはいるん……だけど」

 「……だけど?」

 「親が普通の大学に行けってうるさいの。お菓子作りは趣味にしろって言われてて」

 大学で心理学の教授をしているお父さんと、役所職員のお母さんは、お菓子作りは仕事じゃなくて遊びだと頭ごなしに決めつけて、二言目には『ちゃんとした大学へ行け』としか言わない。

 これまで何度も進路の話し合いをしてきたけれど、お父さんもお母さんも、私の意見なんてまるで聞こうとはしない。

 「パティシエ、いいじゃない!素敵な夢だよ!」

 「……本当?」

 「大学なんて行こうと思えばいつだって通えるし、なりたいものがぼんやりとでもあること自体すごいことなんだよ?」

 「……ありがとう、梨々花」

 「ううん、大好きな愛美ちゃんの夢だもん。一番に応援するに決まってるじゃない!」
 

 梨々花はいつだって私の欲しい言葉をくれる。

 それもただ上辺だけの言葉じゃなくて、本当に私を励まそうとしてくれるのが言葉の隅々まで伝わってくるから、そんな優しさにぐ泣きそうになってしまう。

 「実はね、梨々花が最近いつも頼んでくれるその苺ケーキ、私が考案したんだよね」

 「えぇ!?この苺のショートケーキ!?嘘だぁ!」

 「アッハハ!本当だってば!私が考案して、おばあちゃんと一緒に何回も試作したケーキなの、それ」

 「すごいよ!天才じゃん愛美ちゃん!もう絶対パティシエになるべきだよ!」
 
 親からいつも反対されていた、まだ描ききれていないぼんやりとした夢だった。

 大学の費用以外は出さないとまで言われていたから、半ば諦めていたけれど、梨々花の言葉で何か決心がついたような気がした。

 「あ!いいこと思いついた!あたしと愛美ちゃんの共同メニュー、何か一つ作ろうよ!」

 「えー?新作出すってこと?それより梨々花、勉強はいいの?」

 「今は新メニューのほうが大事!」

 梨々花はトートバッグの中から新しいルーズリーフを一枚取り出して、新しいメニューを書き込んでいく。

 私は手に持っていたモップを壁にかけて、梨々花が座っているひとり席の隣にもう一つ椅子を用意して腰掛ける。

 「ねぇ!焦しチーズケーキなんてどう!?前にね、焦しチーズ味のスナック菓子を食べたことがあってね!?」

 「……」

 「これ、ケーキにしたら絶対美味しいと思うんだけどさ!?どう思う?」

 「……」

 「愛美ちゃん?」

 「梨々花が同じ学校にいてくれたらよかったのに」

 最近、もしも梨々花がもっと身近にいてくれたら……だなんて想像ばかりしてしまう。

 彼女が同じ学校にいてくれたら、体育館裏の寂れたベンチで一人でお弁当を食べることもなかっただろうし、みんなから『自分の意見がない』だなんてことも言われなかったと思う。

 紗奈が私に言った『人生楽しい?』という問いかけにも、間をあけずに『楽しいよ!』と答えることだってできていたに違いない。


 「……愛美ちゃん、まだ例の友達とは仲良くなれてないの?」

 「うん。どっちつかずの私の態度に、三人からは同じように"自分の意見はないの?"って言われちゃったくらいかな……ハハッ」
 
 「そっかぁ。愛美ちゃんは気遣い屋さんだから、きっと言葉を選んじゃうんだろうね。意見がない、じゃなくて、どういえばみんなが傷つかないか考えて、結果何も言えなくなったり、自分がちょっと我慢すればみんなが平和でいられるって思ったら、自分の意見をのみ込んじゃったりするんじゃないかな?」

 「……っ」

 図星でぐうの音も出ない、とはまさにこのことだと思った。

 「愛美ちゃんは優しい子だもんね」

 「そんな、こと……っ」

 「でもね?ちゃんと自分の言いたいこと、もっともっと言っていいんだよ?本音が言えなかったり、機嫌を伺うようになっちゃったら、それってもう友達とはいえないと思うから」

 「……」

 「だからね、愛美ちゃんがお友達に思ってること、全部吐き出していいと思う。何も言えずに後悔するより、全部言って後悔するほうが……何倍もスッキリするよ」


 梨々花はいつも、何か私に言葉をくれるとき、手をギュッと握ってくれる。

 ただ、今日はなぜだか……彼女の手が微かに震えていた。

 梨々花はときどき、こうして眉をひそめながらどこか遠くを見て悲しそうな表情を浮かべるときがある。グッと下くちびるを噛みしめて、何かを思い出しているような、そんな苦味のある表情。

 「……あ!愛美ちゃん大変!もう閉店時間すぎてる!長居しちゃってごめんね!」

 壁にある時計を見て驚きながら立ち上がった梨々花。

 その拍子に彼女のトートバッグが床に落ちて、中に入っていたものが散乱していく。

 「きゃー!大変!筆箱の中身までバラバラになっちゃった!」

 「床に落ちたものは私が拾うから、梨々花はトートバッグ整理してて!」

 「ごめんね愛美ちゃん!ありがとう!」

 私はコロコロと転がっていくシャーペンやプリントを追いかけるように拾い上げていく。

 そして手にした、一枚の小さなカード。


 「……なにこれ?」

 それは、梨々花の顔写真が載った車の免許証だった。
 
 「(梨々花、車の運転免許なんて持ってたんだ……って、え?)」
 
 けれど、驚いたのはそこじゃなかった。

 免許証に書かれた名前が、彼女の名前ではなかったから。

 間違いなく梨々花の顔写真が載ったものなのに、『梨々花』という名前はどこにもない。

 書かれてあるその名前は、心底彼女には似合わないと……失礼なことを思ってしまった。

 「田中、陽子?」