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「(──今日は水曜日だから、梨々花はカフェに来ない日……か)」
いつもどおりに接客して、いつもどおりに注文された珈琲を入れて、いつもどおりに店内を掃除する。
普段と違うことといえば、言葉を発するという行為が極端に減ったことくらいだ。
優里と紗奈の一件があって、私は梨々花のアドバイスどおり、自分が一人になることを選んだ。
こんな選択ができたのも、すべて梨々花がいてくれるおかげだと思う。私一人だったら、きっと優里のほうについていたかもしれない。
自分の保身のためだけに。私が一人にならないように。
『ごめん、どちら側につくのかってことだけど……私、どっちかなんて選べそうにない。だって二人とも友達だから』
あの日、優里にそう告げると、彼女は『さすが、どっちつかずの性格してんね』と言って小さく鼻で笑った。
知夏はそんな私を見て、『愛美って自分の意見ないよねいつも』とだけ言って優里とどこかへ行ってしまった。
だけど、優里達に面と向かってそう言えたことで、今の自分を少しだけ好きになることができた。
とはいえ、授業の合間にある休憩時間も、放課後も、一人行動が増えてしまったけれど。
クラスの中にまったく友達がいないわけじゃない。
けれど、優里や紗奈達との関係がギクシャクしてしまったからと言って、他の人に寄っていくのは何か違うような気もしている。
一人になるという選択をしたことに後悔はしていない。
だけどやっぱり臆病な私は、他の人達から『ひとりぼっち』というレッテルを貼られたくなくて、お昼休みはいつも体育館裏にある古びたベンチでお弁当を食べるようになった。
ひとびぼっちは寂しいと思う感情が限りなく軽減されているのは、間違いなく梨々花という存在がいてくれるからだ。
「同じ学校だったらいいのに……」
ため息混じりに出てきた言葉は本音だった。
外の雨が窓を打ちつける音が、店内まで容赦なく入り込んでくる。
雨のせいか、今日はお客さんが一人もいない。
壁に掛けてある時計は、もうすぐ九時を迎えようとしていた。
「(お店、もう閉めちゃおうかな)」
沈む気持ちに追い討ちをかけるように、梅雨独特の雨と湿気に憂鬱度が増していくばかり。
私はもう一度小さくため息をついて、『close』の掛け札を手に持った。
そのとき、カランッと鈴の音が強く鳴り響いた。
勢いよく扉は開かれて、雨の音と共に外気の湿気が一気に店内に流れ込んできた。
「とりあえずここで雨宿りしよっか、美優」
「……うん」
雨を避けるように店内に入ってきた二組のお客さん。
私は慌てて掛け札の代わりにメニュー表を持ち直して、『いらっしゃいませ』と声をかけようとした。
「……あれ、坪井さん?」
「え?」
私の名前を呼んだその声に、ドキリと私の胸が弾んだ。
心地よい低音の澄んだ声。間違うはずもない──……。
「青葉、くん?」
「やっぱり坪井さんだ!偶然だね、ここで働いてるの?」
「あ、えっと、うん」
心臓が大きく脈を打ちはじめる。
こんなにもラッキーな偶然が本当にあるんだと疑ってしまうくらい、目の前にいる彼に緊張してしまう。
けれど、青葉くんのとなりにいる“彼女”によって、私の笑顔は少しずつ消えていく。
にこやかに微笑んでくれる青葉くんとは正反対に、今にも消え入りそうな雰囲気の彼女は、遠慮がちに青葉くんの袖を掴みながら俯いている。
「(あの人が噂の……彼女さん、なのかな)」
「ごめんね、坪井さん。ちょっとだけ雨宿りさせてもらってもいいかな?」
「あ、うん。好きな席に座ってて」
青葉くんと彼女から無理やり目を背けるようにキッチンへ走って、ずぶ濡れの二人にタオルを渡した。
青葉くんは私からそれを受け取ると、一番に彼女に宛てがいながら心配そうな顔を浮かべた。
そして席に座った彼女は、鼻を啜るように泣きはじめてしまった。
「(何かあったのかな……って、ダメダメ!聞き耳立てるなんて最低だ)」
私はショーケースの中から売れ残ったケーキを二つ取り出して、暖かい珈琲と一緒に青葉くんたちの席へ持っていく。
「坪井さん、これ……」
「今日お客さんも少なくて、余り物なんだけど……よかったら、どうぞ」
「いいの?坪井さん、お店の人に怒られたりしない?」
「あ、余り物だし、ほんと、気にしないで食べてもらえたら……!」
「ありがとう、坪井さん。このお礼はまた今度ちゃんとさせてね」
ニッコリと笑ってそう言った青葉くんに、軽くお辞儀をしながら小走りにキッチンへ戻った。
……私、うまく笑えてるといいんだけど。
梨々花は噂が本当かどうか分かるまで諦めちゃダメだと言っていたけれど、今、この目ではっきりと見てしまったことへのショックは自分が思っているよりも大きいみたいだ。
何かしていないと気持ちが落ち着かなくて、私はきれいに掃除したばかりの洗い場をもう一度スポンジで擦っていく。
思えば二年生でバスケ部の主力選手として活躍しながら、勉強の成績もよくて、おまけに芸能人みたいな高身長に加えて、あのイケメン具合だもん。
彼女がいないほうが不思議なんだよね。
まだ大丈夫。告白したわけでもなければ、ちょっといいなと思っていただけだから。
まだまだ引き返せる。
自分にそう言い聞かせるように、心の中で何度もそんなことを思い続けた。けれど、ギュッと胸が締め付けられるような痛みはじわじわと私を侵食していく。
「……梨々花に、会いたい」
無意識に頬を伝って流れてきた涙をかき消すように、私は水道の蛇口をめいっぱい開いて水音で誤魔化した。
***
お昼休みがはじまるチャイムが鳴ったと同時に、教室は一気に騒がしくなる。
四限目の授業が終わって、やっと勉強から解放されるお昼休みが唯一の癒しの時間だったあの頃が、すでに懐かしく感じる。
今はただ、一人虚しくお弁当を食べるという地獄のようなお昼休みに変わってしまっている。
私は今日も、重たい足を引きずるようにして体育館裏のベンチへと向かう。
優里と紗奈は相変わらず目を合わせようともせず、優里は知夏と二人で一緒にお弁当を広げていて、紗奈はそそくさと教室を出ていった。
「……」
いつまでこんな状態が続くんだろう。当たり前のように四人で集まって机を並べていたあのときが、もう遠い過去のことのようにさえ思えてしまう。
優里は四人で作ったメッセージグループを抜けて、紗奈を抜いた三人のグループを新たに作って私を招待した。
私はまだ、その招待を受け取らずにいた。きっとそのことも良くは思われていないだろうな。
「(紗奈とも一度、ちゃんと話ができればいいんだけど)」
優里と揉めてから、紗奈は私達に一切近づかなくなった。
休み時間のたびに教室を抜けてどこかへ行っているようで、まるで最初から私達とは友達じゃなかったかのように、徹底して避け続けている。
どうにかこの状況を打破したい。だけど、どうやって?何をすればいい?
そんな疑問ばかりが頭の中をグルグルと駆け巡っている。
「はぁ……」
「──ねぇ、早く食堂行くよ!」
体育館裏へ向かう途中、三年生の教室のほうからふと、紗奈の声が聞こえた気がした。
もしかしたら、今話せる時間が作れるかもしれない。
そんなことを思いながら彼女の姿を探してみると、紗奈は教室の窓から誰かと楽しそうに会話を弾ませているようだった。
そして中から出てきた三年生の男の先輩と腕を組んで、堂々と廊下を歩きはじめる。
「(まずい、このままじゃ鉢合わせてしまう!)」
私は慌ててどこかへ身を潜めようとしたけれど、すでに遅し。
「愛美?」
「……っ」
紗奈に呼び止められて、私は彼女に背を向けたままその場から動けなくなってしまった。
後をつけてきたの、だとか、迷惑だとか言われたらどうしよう。
もしも優里達の様子を聞かれたら、どう答えるのが正解なんだろう。
「……ごめん、修平くん。先に行っててくれない?」
「おう。じゃあ食堂の席取っとくわ」
「うん!ありがとう、すぐ行くね」
修平、と呼ばれた三年の先輩。彼が優里と揉めた原因となった人……なのだろうか。
優里はグループ随一の恋愛体質で、常に彼氏がいるようなタイプだ。それに対して紗奈はあまり自分のことを率先して言う性格ではないから、これまでの恋愛のことはあまり知らなかった。
優里と知夏は、紗奈が彼氏を取ったと言っていた。
それが事実なのか嘘なのか、今の私には分からない。
「愛美は優里たちと一緒につるんでないんだ」
「……あ、うん」
「さっきの私を見て、軽蔑した?」
「え?」
「ほら、優里からある程度の事情は聞いてるんじゃないの?“ウチの彼氏取ったー”とか、“裏切り者ー”とかさ?」
紗奈は優里達の悪口を気にしている様子もなく、いつもと変わらない軽い口調でそう言った。
どう返答していいのか困った私は、何度も『えっと』と『あの』を繰り返していく。
「いいよ?はっきり言ってくれても。別に私は後悔なんてしてないし」
「い、いや、そんなことは……」
「まぁ、言い訳っぽく聞こえるだろうけど、私達が付き合う前に、修平くんは優里に振られてるから。そのあとに私が言い寄っただけね?」
「そう、なんだ……」
「だから何も悪いことなんてしてないし、奪ったとか裏切ったとか言われる覚えはないんだけどさ?優里ってプライドが異常に高いじゃん?だから別れたあとにすぐ私と付き合うことが許せなかったんじゃない?」
「……」
「そう。で、愛美はそんな私のことを見て、どう思う?」
紗奈の問いかけに、言葉がすぐに出てこなかった。頭をフル回転させて、どんな返しをすれば傷つけないかないようにできるか考えて、また言葉を詰まらせる。
こういうとき、何ていえばいいんだろう。
梨々花だったら、うまく言葉を選べるのかな。
「えっと、私は別に、なんとも思ってない……よ?」
絞り出すように言った私の返答を聞いて、紗奈は優里と同じように『ふっ』と鼻で短く笑った。
「愛美って本当、出会ったときから思ってたけどさ?自分の意見を言わないよね?」
「え?」
「そんなんで、人生楽しい?」
紗奈も優里と同じように、思ったことはなんでも口に出すタイプだ。
だから二人は一番気が合っていて、四人グループの中でも特に優里と紗奈は絶対的なペアになっていた。
「あぁ、ごめん。言葉きつくなっちゃったけど、ただ私が言いたいのはさ?優里達に気を遣いすぎて、これ以上自分を抑えるのはやめなねってこと」
「……っ」
「愛美は特にさ、もっと好き勝手生きていいと思うんだよね。なんとなく、だけど」
紗奈はそう言って、『彼氏待ってるからもういくね』と手をヒラヒラさせながら食堂へ向かっていった。
私はそれに、頷くことさえできなかった。
なんだかすごく……傷ついた。けれど、どうして傷ついたのか、その理由が自分でも分からない。
自分の意見がないって言われたから?人生楽しい?って聞かれて答えられなかったから?
どこに傷つく要素があったのか理解できていないのに、それでも紗奈の問いかけにすごく……心が傷ついた。