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 「いらっしゃいませ。空いているお席へどうぞ」

 ──……あ、またあの人だ。


 「今日もいつもの席、座ってもいいかな?」

 「は、はい。大丈夫です」

 「ふふっ、ありがとう!」

 この辺りでは見かけない制服に身を包んで、大きなトートバッグにたくさんの教材を持ってくる彼女。ボリュームのある長い黒髪を、いつも可愛いシュシュで一つに結んでいて、メイクも綺麗に施されている。

 私がこのカフェで働きはじめて一ヶ月が経った頃、彼女ははじめてこの店を訪れた。


 『店員さん、すみません。ここって何時まで営業されてるんですか?』

 『えっと、夜の十時までの営業となっています。ラストオーダーは九時までです』

 『そっかぁ。遅くまでやってくれてるんだぁ』


 それ以来、彼女はこのカフェを気に入ってくれたのか、週に二日のペースで夜八時から閉店時間まで勉強をしに来るようになった。

 「お待たせしました、エスプレッソと苺ケーキです」

 「あ、ありがとうございます!」

 テーブルに注文の品を置くと、毎回上品に頭を下げてお礼を言ってくれる。

 そして必ずスマホでケーキの写真を一枚撮ってから、彼女はおいしそうにそれを頬張っていく。

 「(制服を着てるってことは、私と同じ高校生……なんだよね)」

 けれど、いつ見ても高校生とは思えないほど大人っぽく感じてしまう。

 これだけオシャレで美人なのだから、きっと学校では人気者に違いない。


 「(……いいなぁ)」

 羨ましさにも似た憧れを抱きながら、そっとキッチンへ戻った。
 

 閉店時間が近づくにつれて、一人、また一人とお客さんは帰っていく。

 気付くと店内には彼女が一人だけとなっていた。

 「(夜のシフトって私だけだから、暇になるんだよなぁ)」

 いつも一緒に働いているおばあちゃんは、先月から体調を崩して入院している。一人でお店を回していくのは大変だけれど、最近になってようやく慣れてきたような気がする。

 キッチンや店内の掃除も終わらせて、あとは彼女が帰れば私も上がれる。家に帰ったらお風呂に入って、課題を終わらせて、それから……。

 「……」

 次の日のことを考えると、だんだんと憂鬱になってくる。

 朝になったら両親の言い合いを聞きながら家を出て、学校に行けば勉強の話ばかりされて、雰囲気最悪の友達に気を遣って言葉を慎重に選ばなくちゃいけない。


 こんな毎日の、何が楽しいんだろう。考えれば考えるだけ苦しくて、だんだんと狭くなっていく視界に閉じ込められそうになった。

 あぁ、なんだかもう、学校、行きたくない――……。


 「ねぇねぇ、店員さんって高校生……だよね?」

 そんなとき、私の元へとびきり明るい声が飛び込んできた。

 「……え?」

 「実はどうしても分からない問題が一つあるんだけど、もしよかったら教えてくれないかな?」


 いくら彼女がこのカフェの常連客とはいえ、これまで形式的な会話しかしたことがなかった。

 少しだけ身構えながら、彼女が座っているひとり席へ歩み寄っていく。

 「これ、なんだけどね?」

 彼女が分からないと言って指さした問題は、数学の証明問題だった。

 ちょうど数日前に数学の授業でテスト対策をしたばかりの問題だ。

 「どうやってもYの値が9にならないの! 店員さん、分かるかなこれ?」

 「えっと、これは実部と虚部に分けて、連立方程式で解いていかなくちゃいけないから……」

 「うんうん」

 「あ、これどっちも実数だから複素数のほうを使わなくちゃいけなくて」


 数分間に渡って二人で意見を出し合いながら問題を解き終えると、彼女は嬉しそうに飛び跳ねて私にハイタッチを求めた。

 そんな彼女につられて、思わず手と手を重ね合わせてしまった。

 「(まずい、やりすぎちゃったかも……)」

 慌てて前に出した手を引っ込めようとすると、彼女がそれをグッと引き留める。

 「ねぇ、店員さん!よかったら私達、お友達にならない!?」

 彼女のその言葉に、私の動きがピタリと止まる。

 ……友達? 私と?


 「店員さんすごく頭がいいから、これからも分からない問題とか教えてほしいし!」

 「私、そんなに頭がいいわけじゃ……」

 「あ、もちろん勉強を教えてほしいってだけじゃないよ?店員さんと恋バナだってしたいし、どんな高校生活を送ってるのかも気になっちゃう!」

 「……」

 「だからあたし達、まずは名前を教え合わない?」

 「えっとっ」

 「私は梨々花。 あなたは?」


 彼女の明るい声と、輝くような笑顔に吸い込まれそうになった。

 気づけば私は、無意識に自分の名前を声に出していた。

 坪井愛美です、と──。