僕の世界はいつも、曇りガラスの内側にあった。
 外は青空なのだろうけど、窓が曇っているせいでうすぼんやりとした灰色の空しか見えない。
 青空に恋しさはあるけれど、窓を開けたいとは思わなかった。
 だって、僕にはそんな資格はないから。
 僕は……みんなと同じ青空の下には行けない。行く資格がない。
 だけど、ある日。
 締め切ったドアを無理やりこじ開けてきたひとがいた。そのひとは、ガラスの内側でうずくまる僕の手を取って、青空に向かって駆け出した。
 優しい陽だまりに目が眩み、怯える僕を、君は当たり前のように優しく包む。
 僕たちは、まだ青いつぼみ。
 色づく春を待っている。


 ***


 僕には、だれにも言えない秘密がある。
 その秘密に気付いたのは、小学四年生のときだった。
 当時の親友と下校中、ちょっとした喧嘩になった。
 小学生男子にありがちなからかい合いの末、ヒートアップして喧嘩に発展してしまったのだ。
 言い合いから取っ組み合いになり、親友より体格が劣っていた僕はとうとう半泣きになった。
 そして、叫んだのだ。
「お前なんか、いなくなればいいんだ!」
 その直後、親友の手が燃え上がった。
 ぼうぼうと恐ろしい音を立てて、オレンジ色の炎が親友の手を焼いていく。
「うわぁああっ! なっ、なんだよこれ!?」
 熱い、熱いと、パニックになった親友が暴れ出す。
「熱いっ! 助けて、助けて!!」
 僕はパニックになりながらも周囲を見た。近くにあった家に、雨水が溜まったバケツを見つけた。
 急いで取ってきて、親友の手にかける。
 水が命中したおかげですぐに火は消えたけれど、気付いたら僕も親友もずぶ濡れになっていた。
 あれ以来、僕は孤独になった。
 僕の、だれにも言えない秘密。
 僕は、炎を操ることができた。


 ***


 ――三月中旬。
 春一番が吹いたその日、僕は、叔母の家がある神奈川県の海沿いに来ていた。
『春はパステル色』なんて、よく分からないポスターのキャッチコピーを横目に改札を出ると、冷たい海風が吹き付けてきて、僕は思わず目を細めた。
 叔母の家は、たしか駅前の通りをまっすぐ行った坂の途中にあったはずだ。
 駅に着いたら電話をしてと言われたけれど、おそらく歩いているうちに道を思い出すだろう。そう思いながら、駅に着いたとメッセージだけ送って、ごろごろとキャリーケースを引いて駅を出た。
 駅から続く上り坂には、観光客向けのお店や若者に人気のコーヒーチェーンなどが両脇に並んでいる。
 見上げた先、坂の一番上には、これから僕が通う高校が立っている。
 この春から僕は、神奈川県にある私立高校、水彩(すいさい)高校へと進学する。
 水彩高校を選んだ理由は、特にない。強いて言えば、家から適度に遠く、通うのが困難だったから。
 ただ、親には本当のことは言えないので、校風に惹かれたからと嘘をついた。
 ネットには、比較的生徒の個性を尊重する自由な校風と、制服が可愛いところが特徴だと書かれている。
 校風はありがちだし、制服だって可愛いとは言っても、ネットで見た限り男子はふつうの学ランだし、女子もいたってふつうのセーラー服にしか見えない。
 でも、そんなことはどうだっていい。僕はただ、あの街を出られたらそれでよかったのだから。
 坂を登っていると、少し先の道路の真ん中に、黒い物体が見えた。
「……?」
 なんだろう、と目を凝らす。
 すると突然、黒い物体に大きな金色の目が見えた。ぱちぱち、と瞬きをするそれを見て、なんだ、と息をつく。
「猫か」
 見たところ、まだ仔猫のようだ。黒猫は道路のど真ん中で、呑気に耳の後ろを脚でかいていた。脇に避ける気はなさそうだ。車の通りが少ないとはいえ、道路の真ん中にいるというのに。
 少しひやひやして、
「おーい、そこ、道路だから危ないぞ」
 と声をかけてみると、黒猫はぴたりと動きを止めた。
 おもむろにこちらに向かって、
「にゃあ」
 と鳴いた。
 そしてまた、のんびりと毛繕いを始める。猫語で「うるせえ」とでも言われた気分になった。いけ好かないお猫さまだ。
 ほっとこう、と思い直し、再び歩き出す。しばらく坂を登っていると、てんてんてん、と目の前をなにかが横切った。見ると、あの黒猫だ。
「……あ、お前」
 歩き方がうさぎのようにぴょんぴょん跳ねるようで、思わず笑みが漏れる。
「なんだよ、お前。着いてきたのか?」
 もう一度話しかけてみると、黒猫はちらりと僕を見て、再びてんてんと歩き出す。黒猫は、意志を持ってどこかへ向かっているように見えた。
 着いてこい、的な?
 なんとなく気になってついて行ってみることにした。黒猫は坂を迷わず上り、途中、通りを曲がって、狭い横道を進んでいく。そのまま黒猫を追いかけていると、次第に汗ばんできた。上着を脱ぎ、小脇に抱えて再び黒猫を追う。
 ふと、顔を上げると、道の先に小さな神社が見えた。
 大きな朱色の鳥居には、『紫ノ宮(しのみや)神社』とある。
「シノミヤ神社……?」
 きれいな名前だな、と思いながらそろりと敷地の中に足を踏み入れた。
 苔むした石に落ちる木漏れ日、松の枝でさえずる小鳥、香しい芳香の花々。
 鳥居を抜けた先にあったのは、現実離れした美しい世界だった。
 気付いたら、ため息が出ていた。
 右手に、能舞台が見えた。能舞台の脇には、大きな一本の桜の木がある。上から覆うように枝が広がり、薄紅色の桜が舞台を彩っている。
 口を開けたまま満開の桜に魅入っていると、「にゃあ」という声が聞こえた。
「……あ、お前」
 見ると、黒猫は我が物顔で舞台に上がっていた。あろうことか、ころころと背中を舞台の床に擦り付けている。
 ふと、視界の端になにか動くものを見た気がして、舞台の縁に目をやる。
 風に舞った桜の花びらが数枚、空へ抜ける。
 息を呑んだ。
 桜の木の下に女の子がいた。
 風にさらわれる絹糸のような黒髪に、雪のように白く滑らかな素肌。ノースリーブ型の桃色のワンピースはフレアスカートになっていて、裾の白いレースが風にさらわれるたび、魚のひれのようになびいていた。
 神様がもし、春をひとの姿にしたとしたら、きっと彼女のような容姿をしているのだろう。そんなことを思ってしまうほど、桜の下に佇む女の子は美しい。
 ふと、目が合った。
 形のいい赤い唇が、なにかを放ったような気がしたが、どうだろう。
 風が葉を鳴らす音が耳を抜けていく。美しい光景に言葉もなく見惚れていると、女の子はくるりとこちらを向き、歩き出した。
 僕の前へとやってきて、
「やぁ」
 と、まっすぐに僕を見上げてくる。
 女の子が瞬きをする。くっきり二重の瞳を縁取るまつ毛は長く、瞬きのたびぱちぱちと音が聞こえてくるようだった。白目は青白く澄んでいて、唇は果実のように赤くみずみずしい。
「君、ひとり? こんなところでなにしてるの? 観光?」
 一昔前のナンパを受けたような気分になり、思わずあとずさる。
「あ……いや、猫を追いかけてて」
「猫?」
 首を傾げる女の子に、僕はちらりと彼女の後方の舞台を見る。僕の視線に気付いた女の子は振り向き、舞台の上に転がる黒猫を見た。
「わっ! 猫だっ! 可愛い!!」
 女の子は弾けた声を上げて、黒猫の元へ駆けていった。勢いよく迫ってくる女の子に、黒猫は一瞬身構えたものの、悪意はないことを悟ったのか、すぐに警戒を解き、毛繕いを始めた。
 女の子は黒猫の前まで行き、その頭へ手を伸ばそうとして、やめた。
 くるりと振り向き、僕を見る。僕は反射的に身構えた。
「ねぇ君、この子、抱っこすることできる?」
「え?」
「私、猫見るの初めてなの。触りたいけど、ちょっと怖いっていうか」
「え、猫が初めて?」
 そんなひといるのか、と驚いていると、女の子は続けて言う。
「ねぇ、この子抱っこしてみせてよ」
「僕が?」
「うん! お願いお願い!」
 仕方なく、女の子と黒猫の元へ向かう。
 脇に手を入れ、優しく抱き上げると、黒猫は前ならえの姿勢になった。思いのほか大人しい。
 昔飼っていた猫を思い出して、少し懐かしくなった。
 僕は黒猫を前ならえのまま、女の子にずいっと差し出す。
「はい、どうぞ」
「わぁあ、可愛い! 待って、そのままね、そのまま……」
 ちょん、と女の子が指の先で黒猫の眉間を撫でた。黒猫は目を瞑り、ごろごろと喉を鳴らしている。
「きゃあ〜!! 可愛い!」
 甲高い声に、黒猫の耳が後ろ側へぺたっとなった。彼女の声に驚いたのだろう。瞳孔も少し開いている。
「あんまり高い声出したら猫が驚くから、静かにしてあげて」
「あっ、そっか。分かった」
 女の子は僕の指示を素直に受け入れ、黒猫を可愛がっている。どうやら彼女は黒猫を触りたいだけで受け取る気はないようだった。このまま前ならえをさせておくのも可哀想なので、抱き方を変える。
「猫ってすごいふわふわなんだねぇ。耳のうしろとかすごいさらさらしてるー」
 本気で感動している様子の彼女に、僕は思わず訊ねた。
「……本当に猫見るの初めてなの?」
「うん、初めて」
 僕の問いに、彼女は黒猫へ視線を落とし、ふにゃっとした顔のまま答えた。
「野良猫を見かけたこととかもないの?」
「テレビでは見たことあるんだけどね! あ、でもライオンとかゾウならナマで見たことあるよ、動物園に連れて行ってもらったことはあるから! でも、猫は動物園にいないじゃん?」
 そりゃいないだろう、と心の中でツッコミを入れる。
「いたっていいのに」
「……いや、まぁ……」
 たしかに、動物園に猫はいない。だって、いたところで猫なんてなんの真新しさもないし、わざわざお金を払って猫を見に来る客はいないだろう。
 ……と思うけど、彼女の疑問も分からなくもない気がした。
「……そんなこと、疑問に思ったこともなかった」
 ぽつりと呟くと、彼女はころころと笑った。
「そっかぁ」
「…………」
 柔らかな雰囲気の彼女を見つめながら、なんというか、不思議な気分になる。
「あ、ねぇ、君、名前なんて言うの?」
 パッと彼女が顔を上げ、僕を見た。至近距離で目が合い、どきりとする。
「えっ、あ、僕?」
「うん。私はね、千鳥(ちどり)(さくら)。桜って呼んでよ。君の名前は?」
「……僕は、錦野(にしきの)
 とりあえず苗字だけ答えると、彼女――千鳥さんは、なにかを待つように微笑んだ。彼女の意図に気付いていないわけではないけれど、それでも僕が黙りこくっていると、じわじわと千鳥さんの眉間に皺が寄っていく。
「え、もしかして下の名前は教えてくれないの? あ、もしかして、ニシキノって名前?」
「……いや、違うけど……」
「じゃあ下の名前、教えてよ!」
 まっすぐな眼差しで見つめられ、ため息をつく。
「……汐風(しおかぜ)
「汐風? ……え、汐風っていう名前なの?」
 驚いた顔をして振り返る千鳥さんに、少し暗い気分になる。
 だから言いたくなかったんだ。汐風なんて、変な名前だから。
 小学生の頃、クラスメイトにからかわれたいやな記憶が飛び出して、胸の辺りがざわざわした。無意識のうちに手に力がこもっていたらしく、それまで僕の腕の中で大人しくしていた黒猫がぴょんと僕の手をすり抜けて逃げていった。
「……あ、じゃあ、僕はこれで」
 逃げるように、僕も千鳥さんに背を向けた。
「あ、待って!」
 服の袖をパシッと掴まれた。
 振り返り、小さく「なに?」と答える。少しぶっきらぼうな言い方になった。僕の反応に、千鳥さんは少しだけ躊躇う素振りを見せてから、言った。
「いや、あのさ……もったいぶるからどんな名前かと思ったけど、汐風ってすごくきれいな名前じゃん」
「……え」
 思っていた反応と違うものが返ってきて、僕は思わず足を止めた。
「君がなにを気にしてるのか知らないけど、汐風って、すごくいい名前だと思うよ。海があるこの街にぴったりじゃない」
「……べつに、そんなことないでしょ。そもそも僕、ここの人間じゃないし」
「え、そうなの?」
 見ず知らずのひとに言うことではないと思いながらも、今さら引けなくなって続けた。
「高校に通うために、引っ越して来ただけ」
「そっか。ならまた会えるかもしれないね! そのときはよろしくね、汐風くん!」
 そう言うと、千鳥さんは笑顔で手を振り、僕より先に神社を出ていった。
 まるで嵐のようなひとだったな、と僕は小さく苦笑する。
「……変なひと」
 ぽつりと呟いたとき、ポケットの中のスマホが振動した。画面を見ると、叔母だった。
「あっ」
 そういえば、駅に着いたと報告してからしばらく経つ。心配してかけてきたのだろう。僕は慌てて神社を後にした。


 ***


『個性』という言葉を聞くたび、僕はいつも疑問を抱いていた。
 だって、どこまでを個性と呼ぶのだろう。
 じぶんの意見をはっきり言うことは、一般的には美徳とされているけれど、社会ではそうではない。
 右にならって、『みんなと同じ』ほうがぜったいに生きやすい。
 じぶんの意志を持ち、『ひとと違う』ことは、否定されがちだ。
 それなら僕は、いったいどうしたらいいのだろう……。

 叔母の家に来てから、一ヶ月が過ぎた。ずっと気が重かった高校生活は、始まってみれば、案外静かで淡々としていた。部活に入らず、必要最低限の関係を築いてしまえば、高校生活はそれほど居心地が悪いものではないのかもしれない。僕自身のことをクラスメイトが嫌うほど知らないから、もいうのもあるかもしれないが。
「しおちゃん、新しい学校はどう?」
 僕は今、叔母である寿(ことぶき)蝶々(ちょうちょう)さんと食卓を囲んでいる。
「まぁ、ふつうです」
 答えてから、あさりの炊き込みご飯を口に入れる。
「しおちゃんが高校生かぁ。あんなに小さかったのに、感慨深いなぁ」
「大袈裟ですよ」
 蝶々さんは、母の妹だ。歳はたしか、結構離れていたから三十代半ばくらいだったはずだ。
 正直、母とはぜんぜん似ていない。細くてきれいで、元医師だから頭もいい。
 上品に動く口元だとか密やかな喉元を眺めながら、そういえば幼い頃は蝶々さんのことを人形だと思い込んでいた頃があったなと思い出した。
 きれいにカールした長いまつ毛とか、白くて透き通った白目だとかがあまりにも作り物めいていて、だから母が蝶々さんにご飯を出したときはとても慌てた。それで僕が蝶々さんを人形だと思っていることが発覚して、両親にめちゃくちゃ笑われた。
 もちろん、蝶々さんも驚いた顔をしていたけれど、笑いはしなかった。
 蝶々さんはいつだって優しい。子供であっても大人であっても、ぜったいに態度を変えない。からかうようなことも言わない。
 僕の悩みを一晩中だって聞いてくれるし、僕の感じたことや意思ををぜったいに否定したりしない。
 今回、僕が神奈川の高校に通えることになったのも、蝶々さんが両親を説得してくれたおかげだ。
 蝶々さんは、いつだって僕の味方になってくれた。だから僕は、蝶々さんにだけは素直になれた。みっともない感情でも吐き出せた。
 僕にとって蝶々さんは、なくてはならない、酸素のようなひとだ。
 母がいやだというわけではないけれど、もしこのひとがじぶんの母親だったら、と思ったことは何度かある。
 ぼんやりとしていると、蝶々さんが顔を上げた。
「今日はなにか予定あるの?」
 蝶々さんは菜の花の胡麻和えを口へ運びながら、ひっそりと微笑んだ。
「もし予定がないなら、街を散策とかしてみたらどうかな? ここに来てからほとんど外出てないでしょ?」
「……そうですね。そうします」
 蝶々さんは、僕がひとと関わることを避けていることも、その理由も知っている。だからあまり口うるさいことは言わない。それでもたまに、こうして気を遣ってくれることがある。申し訳なく思う反面、先回りしてくれるその優しさはありがたかった。
「そういえば、坂の途中の紫ノ宮神社って、すごくきれいなところですよね。能舞台とか、大きな桜の木もあって」
 僕の話に、蝶々さんは一度目を丸くしてから、
「あぁ、あの神社ね、紫ノ宮(しのみや)じゃなくて、紫ノ宮(ゆかりのみや)って読むのよ」
「えっ! そ、そうなんだ」
 じわじわと恥ずかしさが込み上げる。
「縁結びの神様が有名なの」
「あぁ、だからユカリ……」
「私もよく行くけど、しおちゃんもお参り行ってきたらいいよ」
「え、いや、僕べつに縁結びとか、恋愛とか興味ないし」
 慌てる僕に、蝶々さんは穏やかな口調で言う。
「あら。縁結びは恋愛に限った話じゃないわよ。ひととひとを繋ぐ縁には、ほかにもたくさんあるでしょ。友達との縁とか、より良い就職先とか。巡り会いってね、良くも悪くもひとを変えるのよ。だからとても重要なの」
「…………」
「しおちゃんのひとりでいたいっていう気持ちも分かるわ。ひと付き合いって煩わしいからね……他人は勝手に期待したり評価したり、失望する。いやになるよね。でも、マイナスなことばかりでもないの。しおちゃんはまだ、本当に好きなひとと出会ってないだけ」
 陽だまりのように優しい声だった。
「……蝶々さんは、出会えましたか? 本当に好きなひとに」
 おずおずと訊ねると、蝶々さんは小さく頷いた。
「出会えたよ。もうしばらく会っていないけど、彼女はずっと、私の特別なひと」
「え……女のひと?」
 少しだけ前のめりになる僕に、蝶々さんはひっそりと笑う。
「あ、べつに恋ってわけじゃないわよ。いわゆる親友ね」
「あぁ……」
 そういえば、と思う。
 昔、母から聞いたことがある。蝶々さんには、中学生の頃とても仲がいい親友がいたそうだ。けれど、その子は中学三年の冬、突然失踪して行方が分からなくなってしまったらしい。すぐに行方不明届が出されて、家族も蝶々さんも散々探したけれど、とうとう見つからなかったとか。
 おそらく、蝶々さんが語った『特別なひと』というのは、消えてしまったその親友のことなのだろう。
 蝶々さんはさっき、『しばらく会っていない』と言った。まるで、そのうち会うつもりでいるような言い回しだ。
 蝶々さんはきっとまだ、その親友が帰ってくるのを待っているのだろう。
「あ、しおちゃん、菜の花の胡麻和えは?」
 蝶々さんがおもむろに小鉢を僕に出す。
「あ、もういいです。こっち、もらいます」
 やんわり断り、代わりにその隣の卵焼きをとる。実を言うと、菜の花は口の中に広がる独特の苦味が苦手で、胡麻和えはひとくちも食べていない。たぶん、蝶々さんは気付いている。
 僕は残りのご飯をお箸で挟み、ひとくちで食べる。醤油とあさりの風味が広がった。最後に卵焼きを食べ、箸を置く。
「ごちそうさまでした」

 食事を終えて部屋に戻ると、上着を持って外へ出た。
 ふらふらと坂を下っていると、例の神社――紫ノ宮神社の通りにつく。道の先に神社が見えた。鳥居の下に例の黒猫を見つけ、足を止める。
 黒猫は僕を見て、「よお」とでもいうようにひとつ鳴くと、そのままてんてんと跳ねるような歩き方で神社の奥へと入っていく。
 鳥居を見る。
 紫ノ宮(しのみや)、ではなく紫ノ宮(ゆかりのみや)と読むらしい。
「縁結び……」
 この前来たときはお参りはしなかったし、せっかくだから寄っていこうかな、と思い、僕は通りへ入った。
 石畳が敷かれた参道の両脇には、淡い色の葉をつけた銀杏並木。銀杏の木漏れ日が落ちる参道を抜けると、静けさの落ちた境内が広がっている。
 お賽銭を投げ入れて、鈴を鳴らす。
「…………」
 お参りを済ませて来た道を戻ろうと回れ右をすると、能舞台が見えた。
 あの日満開だった桜は、だいぶ散ってしまっているが、まだまだ美しい。
「にゃあ」
 黒猫の声がした。見ると、黒猫が舞台の上で我が物顔で毛繕いをしている。そっと近付くと、花びらが能の舞台の床に絨毯のように敷き詰められた美しい光景が目を焼いた。
 ちらりと辺りを見回して、あの子がいないことを確認する。
 ……いや、べつに会いたいわけじゃないし、がっかりなんてしていない。ただ、なんとなくいそうな気がしたから、ちょっと確認しただけだ。
 ……と、なぜかいいわけめいたセリフが脳内を過ぎって、頭を振る。
「にゃあ」
 黒猫が鳴いた。
 そっと、驚かせないようにそばに寄り、舞台に背を預ける。
 黒猫と同じような感じで、ぼんやりと桜を見上げた。
 もうすぐ、春が終わる。
 ここへ来ることが決まったとき、蝶々さんにひとつだけ言われたことがある。
『ひとりになるためにここに来るのはだめ。ここに住むからには、ちゃんとひとと関わること』
 県外の高校を選んだのは、知り合いがいないからだ。
 すべてをリセットしたかった。地元の人間は、みんな僕のことを知っているから。
 蝶々さんには悪いけど、友達を作る気はなかった。僕はただ、ふつうの人間としてふつうの学校生活を送れればそれでいい。これからも。
 ぼんやりしていると、新しいなにかをもたらすかのごとく春風が、桜の枝をざわっと揺らした。花びらが僕に向かって降り注ぐ。
 降り落ちる花びらを見上げていると、背後でざりっと砂利を踏み締める音がした。
 振り向くと、そこにいたのは春そのものを連れた女の子――。
「あーっ!! 汐風くんだっ!」
 見覚えのある影に小さく声を上げた瞬間、弾けるような声が聞こえた。
 千鳥さんだ。千鳥さんは、初めて会ったあの日と同じ、ノースリーブの白いワンピースを着ている。ちょっと寒そうだ。
「……あの、前も思ったんだけど、その格好、寒くないの?」
「え? ぜんぜん?」
 ふつうじゃない? そうケロッと返され、僕は「そうなんだ」としか返せなくなる。
「まさかまたここで会えるなんてすごくない!? 汐風くんって、もしかしてここの近くに住んでるの?」
「……まぁ、この坂の途中に家がある」
「へぇ! そうなんだ! 奇遇だね、私もだよ!」
「え、そうなの?」
「うん! 坂の上のほうに、結賀大学附属病院(ゆいがだいがくふぞくびょういん)ってあるでしょ。ほら、あそこ!」
 千鳥さんはそう言って、銀杏の木の先のほうを指さした。
「……え、病院に住んでるの?」
「うん! でもね、十時は抜け出していい時間なんだよ!」
「え、抜け出していい時間ってなに」
 ぜったいそんな時間はないと思うんだが。
「だって病院って、退屈なんだもん」
 てへ、と、千鳥さんはペロッと舌を出して笑った。
「いやいや……それまずいでしょ。主治医の先生とか知ってるの?」
「いいんだよ! 私、どこも悪くないもん!」
「どこも悪くなかったら、入院なんてしないでしょ。早く戻りなよ」
「大丈夫! 先生には最近は安定してるって言われてるし!」
「……なら、いいけど」
「それより見て、この子! 今日もここにいるの。昨日も一昨日もここにいたんだよね。もしかしたら、この辺に住んでるのかな?」
 と、千鳥さんは舞台の上でころころと転がっている黒猫を見て楽しそうに言った。
「さぁ、野良かどうかも分からないし。この子、まだ仔猫だから母猫も近くにいるかもだし」
「え? この子、仔猫なの?」
「……そういえば、猫見たことなかったんだっけ」
「うん」
 ふと思った。もしかして彼女は、ずっと入院生活を送っているから猫を見たことがなかったのだろうか。
 もしそうなら、彼女を少し不憫に思う。
「辛くないの?」
 口走ってから、ハッとした。聞いてはいけないことだったかもしれない。
 ちらりと千鳥さんを見ると、彼女は僕の言葉に特段気を悪くしたふうでもなく、首を傾げた。
「どういう意味?」
「……あ、いや、その……入院って、したことないからわからないけど、いろいろ制限とかされるんでしょ?」
 千鳥さんは顎の辺りに手をやって、のんびりと空を見上げた。
「うーん、そうなのかなぁ? 私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや」
 のんびりとした声で言う千鳥さんを、僕は少しだけ不憫に思った。
 この子には、自身の生活を悲しむ余地すらないんだ、と。
「これが私の日常だもの! お姉ちゃんはすごく優しいし、先生も看護師さんも優しくていろいろ教えてくれるから大好き!」
「……お姉さんがいるんだ?」
「うん! お姉ちゃんが私の名前付けてくれたの」
 千鳥さんは、桜を見上げながら言った。
「へぇ……」
 お姉さんが名付け親ということは、千鳥さんとは歳が離れているんだろうか。
「あのね、ソメイヨシノってね、もとは一本の木から生まれたんだって」
 ぼんやり考えごとをしていると、千鳥さんが桜を見上げて言った。
「桜ってすごくきれいだけど、実を結ばないから子種を増やせないんだって。でも、世界中のどの花より有名で、人種を越えて愛されてるでしょ? それってすごいことじゃない?」
 言われてハッとする。
「……そういえば」
 桜って、たった一本の木から広がったんだ。
「私もね、そうなりたいって思ってるんだ」
「……え、増殖したいってこと?」
 ぎょっとして千鳥さんを見ると、彼女はぷはっと息を吐いて笑った。
「あははっ! まさか! 違うよ。そうじゃなくて、花としての役割がなくても、みんなから愛されるひとになりたいってこと」
 そう言って、千鳥さんは桜を見上げる。つられるように、僕も桜へ視線を流した。
「……桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に」
「……桜に」
「病院には桜がないから、桜が見たくなったらいつもここに来るの。この花を見たら、この世に必要のないものなんてないんだって思えるから」
 その言い回しがどこか引っかかって、僕は再び千鳥さんを見た。桜を見上げる千鳥さんの瞳は、どこか寂しげに揺れている。
「意味があるの、ぜったい。どんなものにも」
「……そうだね」
 千鳥さんが僕を見る。
「君は?」
「え?」
「どうして俯いてるの?」
 戸惑いがちに視線を泳がせる。
「初めて会ったときから、君はなにかに怯えてるみたい。君は、なにに怯えてるんだろう」
 怯えているのだろうか。
 もし、僕がなにかに怯えているのだとしたら、それはきっと、
「……学校」
 だろうか。僕にはぜったいに知られてはいけない秘密があるから。この秘密だけは、三年間なにがあってもぜったいに守り切らなければならないから。
「どうして?」
「…………」
「学校、楽しくないの?」
「楽しくないよ。授業は退屈だし夢もないし……それに、僕には一緒に遊ぶ友だちもいないから」
「そんなの、今はでしょ? これから作ればいいじゃない」
 まっすぐ過ぎる眼差しに、僕はいよいよなにも言えずに黙り込む。
「君はまだ十五歳だよ! それに、友だちなら私がいるじゃん!」
 そのセリフに、ハッとする。
「友だち?」
「うん! 私たち、もう友だちでしょ?」
 それはまるで、どこまでも澄み切った水のように。千鳥さんは、純粋な眼差しで僕を見つめる。吸い込まれそうになって、僕は反射的にその視線から目を逸らす。
「……君は、僕を知らないからそんなことを言えるんだよ」
「じゃあ教えてよ。君のこと。君はどんなひと?」
 そう、千鳥さんは直球に訊いた。
「どんなひとって……君には関係ないよ」
「私はクラスメイトじゃないよ。怖がらないで、話してよ」
 しばらく黙り込んだあと、僕はしかめっ面のまま呟くように話し始める。
「……昔、同級生と喧嘩になって、怪我を負わせたことがある。僕が一方的に怪我させた。そのあとも、何度かトラブルを起こしたことがあって、友だちはいなくなった」
「…………」
「……僕はそういう人間」
 ひんやりとした風が僕たちの間をすり抜けて、さわさわと梢を揺らす。
 ふと、千鳥さんが瞬きをした。
「……あのぉ、君、いちばん重要なことを言い忘れてる気がするんだけど」
「え」
「大切なのは、喧嘩した理由だと思うんだけど」
「……理由?」
「どうして怪我させちゃったの?」
 訊かれて、考える。
 考えながら顔を上げると、千鳥さんの大きな瞳と目が合った。どこか蒼ざめたその瞳に、僕は目が離せなくなる。
「……僕は、ひとと違う力を持ってるんだ。怪我は、そのせい」
「ひとと違う力……」
 僕はこれまで、蝶々さんにしかこの力のことを話したことはなかった。話したいと思ったことなんてなかった。
 それなのに、なんでだろう。気付いたら、口が動いていた。
「それって、どんな?」
 興味本位じゃないと分かる真剣な眼差しに、僕の中の迷いが消える。
 僕は人差し指を空に向けて、念を込めた。すると指先に、ぽう、と小さな火が点る。
 千鳥さんが目を瞠った。
「幼なじみとちょっとしたことで喧嘩になって、そのとき突然手から火が出て……手に、火傷を負わせた」
 千鳥さんはしばらく驚いた顔のまま、僕の手を見ていた。
「それ以来、僕はひとりでいるようになった。力の制御の仕方が分からなかったから。だけど中学のとき、クラスメイトがいじめをしていて、僕はたまたまその場に居合わせて……いじめられっ子を助けようとしたんだ」
 いじめられていたのは、かつて怪我させてしまった親友だった。
 僕たちはあれ以来話すことはなく、他人になっていた。だから、親友がいじめられているなんて僕はこれっぽっちも知らなかった。だから、中学で同じクラスになり、その場面に居合わせたときはすごく驚いた。
 動揺して、咄嗟に知らないふりをしようかとも思ったけど、できなかった。あのときの罪滅ぼしができると思った。
「でも結局、騒ぎを大きくしただけだった。それからはもう、噂が広まって、僕と仲良くしようとするひとはいなくなった」
 千鳥さんはなにも言わず、静かに僕の話に耳を傾けている。
「……僕は、だれかといるとぜったいにそのひとを傷付けちゃう。だから、ひとりでいるべき人間。……いや、この世に存在しちゃいけない人間なのかもしれない」
 そう吐き捨てると、あのさ、と千鳥さんが控えめに口を開いた。
「……あのさぁ。君は傷つけたことばかりを重要視しているようだけど、違くない? 守ったんだよね? いじめられてた子を」
「え……」
「汐風くんは、いじめられっ子を助けたんだよ。怪我させちゃったことはたしかにダメなことだったかもしれないけど、それは君がたまたま特別な力を持ってたからであって、君のせいじゃない。いなくていいわけない。君は、必要な人間だよ」
 その言葉は、まるで真冬の寒空に落ちた太陽の光のように、冷え切っていた僕の心を溶かしていく。
「そもそもどうして汐風くんが悪いことになるのかな」と、千鳥さんは不満そうな顔をして言った。
「いつも思うの。週刊誌とかでもさ、女優さんの人柄が話題になるでしょ。この女優は気さくだとか、この女優は性格最悪とか。みんなそれを当たり前のように信じたりするけど、それって変だよ」
「どうして?」
「だって、ひととひとって相性でしょ。そのひとの性格が悪いんじゃなくて、たまたま取材したひととか、話を暴露したひととその女優さんの性格が合わなかっただけじゃないかなぁ」
 合わなかった、だけ……。
「だから私は、噂よりもじぶんで見たものを信じたい。もし君が学校で悪く言われるなら、私が否定するよ。私が知ってる汐風くんは悪者じゃない。私に猫を触らせてくれた優しいひとだよ。いじめられっ子を助けたヒーローだよ、って。だからそんな顔する必要なんて少しもないよ。顔を上げて」
 ほろ、となにかが頬に触れた。それは、桜の花びらだった。花びらが濡れている。
 あぁ、泣いてたんだ、と思った。
 ――春はパステル色。
 駅の広告かなんかにあったキャッチコピーをふと思い出す。桜の木を見上げ、隙間から降り注ぐ淡い陽の光に目を細めながら、あれは本当だったんだな、と思った。
「さてとっ! そろそろ戻らなきゃ」
 沈黙を破るように、千鳥さんが舞台からぽんっと降りる。
「じゃあね、汐風くん!」
 千鳥さんはくるりと僕に背中を向けて歩き出した。……かと思ったら、千鳥さんが振り返った。
「汐風くん!」
「なに?」
「さっきの過去の話だけど。間違えた行動をしたと思ったなら、謝ればいいんじゃないかな! 汐風くんの悪いところは、勝手に自己完結しちゃうところだと思うよ」
 ずばっと言われ、背筋を伸ばす。そんな僕を見て、千鳥さんはころころと笑った。
「未だに悩んで後悔してるなら、謝ったらいいんだよ! それで関係が元通りになるわけじゃないかもしれないけど、少しはすっきりするかもしれないよ」
「……うん」
 頷くと、千鳥さんはすっと手を伸ばした。彼女の伸ばした指先は、僕の上を指している。
「俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから! それじゃあね!」
 駆けていく千鳥さんの後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと瞬きをする。
 視界を彩るのは、彼女の白いワンピースと、舞い散る桜の花びら。足元に視線をやると、視界が薄紅色に染まった。
「……桜だらけだ」
 なんだか胸の辺りがむず痒くなってきた。
 こんなにも春を感じたのは、初めてのことだった。


 ***


 その日の夜。
 スマホのメッセージアプリを開き、かつて火傷を負わせてしまった幼ななじみのアカウントとにらめっこをしていた。
 メッセージ画面は、まっさら。もともとお互い欲しくて交換したわけでなく、中学進学時に連絡網として学校側に強制的に交換させられたものだったからだ。結局、一度も起動しないまま卒業したが、今でも消すことができずにいた。
『後悔してるなら、謝ったらいいんだよ』
 昼間の彼女の言葉に押されるように、指先がぽっと画面に触れる。
「あっ……」
 画面が発信中に切り替わり、心臓が暴れ出す。
 パニックになり、バツ印を押そうとしたとき。
『汐風くんの悪いところは、勝手に自己完結しちゃうところだと思うよ!』
 もう一度千鳥さんの声が聞こえて、思いとどまる。
 そっと耳元にスマホを持っていく。しばらく発信音が響いて、そして、音がプツッと切れた。
『もしもし?』
「あ……」
 久しぶりの親友の声に、それまで考えていた言葉がすべて吹っ飛んで、頭が真っ白になった。
「あ、あの、錦野……だけど」
 とりあえず名乗り、口を噤む。
『あぁ……うん。どうしたの、いきなり電話なんて』
 戸惑うような声が返ってきて、僕は少し早口になる。
「あぁ、うん……あの、どうしてるかなって」
『高校?』
「うん」
『楽しいよ。しおは? 県外に行ったって、噂で聞いたけど』
「うん。神奈川」
『……そっか』
 楽しいか、とは聞かれなかった。
「あのさ、今さらなんだけど……腕、大丈夫?」
 その言葉だけで、親友は僕がなにを言いたいのか分かったようだった。
「……ごめん。ずっと、謝れてなくて」
 震える声で続ける。
「今さら謝ったって、遅過ぎることは分かってる。許してほしいなんて思ってない。ただ……」
『違うよ』
 しんとした声が返ってきて、僕は続けようとしていた言葉を飲み込む。
『謝るのは、俺のほう。俺こそずっと謝りたいって思ってた』
 返ってきた予想外の言葉に、僕は戸惑う。
「なんで、(なぎ)が」
 久しぶりに呼ぶ親友の名前は、なんだか慣れない。
『中学のとき、俺たちすっかり疎遠になってたのに、しおはからかわれてた俺を助けてくれただろ。それなのに俺は、孤立していくしおを助けられなかった。……いや、助けなかったんだ。またいじめられるかもって思ったら、怖くて』
「……そんなことどうだっていいよ」
 そもそも孤立したのはこの力の噂が広まったからであって、凪のせいではない。
『よくない。俺はずっと引っかかってた。あのとき庇ってくれてありがとうって、守れなくてごめんって、ずっと言いたかった。……けど、いざ声をかけようと思うと、周りの目とかいろいろ考えちゃって……話すのが怖くなって、結局なにも言えないままだった。……マジごめん』
「……凪」
『あのときちゃんと向き合ってたら、今もまだしおと友だちでいられたのかなって、ずっと後悔してたんだ』
「後悔……してた。僕も」
『しおが連絡くれなかったら俺、ずっともやもやを引きずったまま後悔し続けてたと思う。正直、もう連絡なんて来ないと思ってたし』
 僕だって、そうだ。
『ねぇ、なんで連絡くれたの?』
「……こっちで出会った子に言われたんだ。後悔してるなら謝れって。謝って過去がなくなるわけじゃないけど、少しはすっきりするかもしれないって。たぶん、そう言われなかったら僕も連絡なんてできなかったと思う」
『いい子だな、その子』
「……まぁ、ちょっと変わってるけどね」
『もしかして彼女?』
「ち、違うよ!」
 慌てて否定すると、
『でも好きなんだな。その子のこと』
「なんでそーなんの」
 にやつく凪の顔が浮かび、げんなりする。
『だってアドバイスされたってことは、じぶんのことその子に話したってことだろ?』
「……それは、まぁ」
『それだけ、心を許してるってことじゃん』
 そうなのだろうか。よく分からない。
『なぁ、しお』
「なに?」
『今度、遊ぼーぜ』
「……うん」
 しばらく話すうちに、僕たちはいつの間にか小学生の頃のように笑い合っていた。
 通話を切り、ベッドに身を投げ出す。静寂が戻った部屋の中、僕はふぅ、と息を吐きながら胸を押さえる。
 心臓の辺りが、なんだかぽかぽかするような気がして、僕はふわふわとした気分のまま目を瞑った。


 ***


「汐風くん見てみてーっ! 変な貝殻見つけた!」
 蒼ざめた空の下、広がるのは果てのない水平線。
 創立記念日で休みの今日、僕は桜と海に来ていた。
 浅瀬の海に足を浸してはしゃぐ桜を、砂浜から眺める。
 あれから僕たちは少しづつ距離を縮めて、今では名前で呼び合うほどに仲良くなった。
 でも、べつに付き合っているとかではない。
 今日だって、待ち合わせをしたわけではなかった。神社に行けば必ず彼女が桜の木のところにいて、目が合えば話しかけてきてくれるから、だからいつもなんとなく一緒にいる。
 ふとスマホを見て、ハッとする。
「桜、そろそろ帰る時間じゃない?」
「今何時?」
「十一時半」
「あーそっかぁ」
 名残惜しそうにしながらも、桜は素直に海から上がった。
「そろそろ帰らなきゃ」
「じゃあ、送る」
「ありがと!」
 桜は、大学病院に入院している。彼女曰く、午前十時から正午辺りまでなら外出していいそうで、だから会うのはいつもこの時間と決まっているのだ。
 彼女がどんな理由で入院しているのか、僕は知らない。彼女が語りたがらないから、聞かない。……というのは建前で、聞けないのだ。怖くて。

 桜を病院へ送り届けたあと坂を下っていると、凪から電話がかかってきた。凪の高校は今が昼休みなのだろう。
 なにしていたのかと訊かれ、僕は素直に桜と会っていたことを話した。
 すると、
『はぁ? そんな会っててなんでまだ付き合ってないの? さっさと告れよ! 好きなんだろ?』
「……まぁ」
『おーい、聞こえないぞ』
「好きだけど。でも、桜のこと、まだよく知らないいし。桜が僕をどう思ってるかも……」
『両想いじゃなきゃ告白しないのかよ』
「だって、もしふられたらぜったい気まずくなるだろ」
 もしかしたら、関係が終わってしまうかもしれない。
『大丈夫だよ。ぜったい両想いだろ』
「……そうかな」
 凪に背中を押され、すっかりその気になった僕は、そのまま夜中まで告白大作戦を考えるのだった。

 翌週の日曜日、十時に紫ノ宮神社に向かう。
 手には、小さな紙袋。
 凪と話し合った結果、プレゼントとともに告白するという結論に至ったのだ。
 昨日、駅ビルの雑貨屋で悩みに悩んだ末、選んだのは黒猫が桜の枝をくわえているキーホルダー。買った今も本当にこれでよかったのか、よく分からない。でも、彼女のイメージは桜の花と黒猫だったから、これ以外ピンとこなかった。
「大丈夫。黒猫好きっていうのは確実なんだし」
 そう声に出してじぶんの心に言い聞かせ、僕は神社へ向かった。
 銀杏並木の参道を抜けると、いつもの場所に桜がいた。
「桜!」
「あー汐風くん! 君、昨日来なかったでしょー」
 桜は僕に気付くなり、ぷんすか怒った様子で駆けてくる。
「昨日は用事があったんだよ」
「用事ぃ?」
 じとっとした視線を向けてくる桜に苦笑しつつ、僕は能舞台に寄りかかった。それを見て、桜も僕のとなりに来る。
「昨日は君が来るの待ってたら、雨が降ってきたんだよ」
「え、それは災難だったね」
「ううん、ぜんぜん! 嬉しかったよ。君には会えなかったけど、虹が見えたから」
「虹……」
 空を見上げる。彼女といるときの空は、いつも青々としている気がする。
「生まれて初めて見たんだ、虹!」
 生まれて初めて……。
 黒猫も、虹も。
 彼女の言葉の節々には、いつも引っかかる。彼女はいったい、これまでどんな生活を送ってきたのだろうと。
 やっぱり知りたい。彼女のことを、もっと。
 そう、強く思った。
 どくんと心臓が弾む。心臓が全身に血を巡らせるためのその一音は、まるで僕の背中を押すかのようだった。
「……あのさ」
「んー?」
「これ、あげる」
 後ろ手に隠していた紙袋を彼女の前に突き出した。
「えっ、なになに?」
 桜は瞳をきらきらとさせて、紙袋を受け取る。まるで、ずっとほしかったおもちゃを初めて与えられた子どものようにはしゃぐ桜に、やっぱり買ってよかったと心から思う。
 桜は、鼻歌交じりに紙袋からキーホルダーを取り出した。
「わぁっ黒猫! しかも桜だっ!!」
 開けていい? のひとこともなく紙袋を破る彼女があまりにも彼女らしくて、屈託のない笑顔を返してくれる桜が可愛すぎて、僕は気付いたら、
「好きなんだ」
 と漏らしていた。
 口走ってからハッとして、桜を見る。すると桜は思いがけない顔をしていた。
 まるで、きれいなガラスにヒビが入ったときのような。
 怯えるような、心もとない顔。
 どうして?
「……ごめん」
「え?」
「私……ごめん」
 桜は僕の胸にキーホルダーを押し付けると、神社を飛び出していってしまった。
「え……」
 どうして? さっきまであんなに嬉しそうに喜んでいたのに。
 手元に残された黒猫を見下ろして、僕は放心した。

 どんよりした面持ちで家に帰ると、ちょうど蝶々さんが昼食を作っていた。
「おかえりしおちゃん」
「……ただいま」
 僕の暗い声音に、蝶々さんが振り返る。
「……おかえり」
 ふんわりとした優しい微笑みが僕に向けられる。
「あの、蝶々さん。これ、あげます」
「あら、可愛い」
 渡されたキーホルダーを見て、蝶々さんは静かに息を吐いた。
「……そっか。ちゃんと青春してるのね、しおちゃん」
 涙で視界が滲む。服の袖でごしっと目元を拭う。ぽん、と頭の上に蝶々さんの優しい手のひらがのった。
「ちゃんとってなんですか……てか、青春のひとことで片付けないでくださいよ……」
 言い返しているこのときも、ぽろぽろと涙が溢れてくる。
「ふふ、ごめんごめん」
 蝶々さんは僕の肩に手を置くと、そのままぐいっと押してきた。
「さ、ご飯食べよう。すぐできるから、ちょっと座って待ってて」
 促されるまま、椅子に座る。
 正直、食欲なんてこれっぽっちもない。でも、蝶々さんがわざわざ出してくれた食事を今さら断ることもできず、無理やり口に運んだ。鼻が詰まっているせいで味なんてぜんぜん分からなかったけれど、「美味しい」と言ったら蝶々さんは笑っていた。
 その日の夜、凪から電話がかかってきた。昼間、メッセージを送ったのだ。
「ふられました」と、ひとことだけ。
 画面を見ながら、出ようか迷う。今出たらまた涙腺が緩んでしまいそうで、怖かった。でも、先にメッセージを送ったのは僕だ。少し間をおいてから通話ボタンを押す。
「もしも……」
『しおー! ふられたってマジか!?』
 とんでもなく大きな声が耳の中で響いて、思わずスマホを遠ざけた。
「うるさ……」
『しお、ごめん。マジでごめん! 俺がけしかけるようなこと言ったからだよなぁ』
「違うよ。僕が言いたかったから言ったんだよ。凪のせいじゃないってば」
『でも……』
 その後しばらく電話口の凪は泣きべそをかいていて、僕はなだめるのに必死で、泣く暇すらなかった。
「……つか、なんで凪が泣いてんだよ」
『だってぇ……』
 すんすんしている凪の声を聞きながら、僕は初めて、友だちってこんな感じだったっけと思った。
「……言ってよかったな」
 気付いたら、口からそんな言葉が漏れていた。
『は? なにを』
「告白。だって、凪がこんなに泣いて慰めてくれるとは思わなかったから」
『俺だって泣く気なんてなかったよ。でも、お前のこと考えてたら勝手に涙が出てくるんだよぉ』
「大袈裟だな」
 笑ってはいけないのだけど、凪のふにゃふにゃした声がおかしくて笑いそうになっていると、
『なぁしお。俺さ』と、凪が話し出した。
『俺、しおが連絡くれたとき、すごく嬉しかったんだよ』
「ん?」
『俺との思い出なんて、まるごとなかったことにされてるんだろうなって思ってたから』
「…………」
『でも、話を聞いたらしおはずっと俺のことを考えてくれてた』
「当たり前だろ」
『うん……でもそれ、言わなきゃ分かんないんだよな』
「え……?」
『しおに教えられてから、俺、いろいろ話すようになったんだ。親とか友だちとかとさ』
「そうなの?」
『うん。俺思うんだけど、今のしおと桜ちゃんは、昔の俺としおなんじゃないかな。しお、言ってたじゃん。桜ちゃんのことなにも知らないって。なんとなくだけどさ、桜ちゃんも、しおみたいに言いたくても言えないことがあるんじゃないの。もしそうなら、きっとひとりで秘密抱えて、苦しんでるんじゃないかな』
 ふと、桜がかつて呟いていた言葉を思い出した。
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される桜に』
『意味があるの、ぜったい。どんなものにも』
『君は、必要な人間だよ』
 ……そうだ。桜はずっと、桜の花を見上げていた。
 焦がれるような眼差しで。
 怯えるような眼差しで。
 生きる意味を探しているような、切なげな横顔で。
 いつも、昼間にだけ現れる不思議な女の子。
 あの場所で、桜はなにを思って……。
「凪、ありがと。僕、もう一回桜と話してくる」
『おう。頑張れ』
 通話を切り、部屋を出ると、すぐ目の前に蝶々さんがいた。
「探し物はこれかな」
 差し出された手にあったのは、黒猫と桜のキーホルダー。
「すみません」
 頭を下げつつ受け取ると、蝶々さんが言った。
「良い友だちができたのね」
「はい。親友です」
 僕は笑顔で、そう答えた。

 神奈川に来て、僕は初めてひととかかわることの尊さを知った。
 ひとりで生きていけると思っていた。
 でも、そんなことはなかった。
 気付いたらいつも、だれかそばにいてくれるひとがいないかと探した。
 ひとりは寂しかった。
 だれかと語らいたかった。
 意見が聞きたかった。
 結局僕は、ひとりではなにもできない。
 神奈川へ来られたのは、蝶々さんがいたから。
 学校へ通えているのは、両親がいるから。
 学校が窮屈でないのは、凪や、桜や、蝶々さんが……相談できるひとがいるから。
 毎日が色鮮やかに見えるのは、桜がいるから。
 ひとりじゃないから、生きていられる。
 桜もそうだ。
 あの日桜が僕を救ってくれたように、桜も声を上げている。
 助けて、と叫んでいる。
 ……会いたい、桜に。

 翌日、神社へ足を運んだが、桜はいなかった。正午まで神社で桜が来るのを待ってから、僕は大学病院へ向かった。
 広い病院の中、桜を探し回る。
 病院内、中庭、駐車場、待合室。どこにも見当たらない。
 それでも探し続けて、そしてようやく見つけた。
「桜」
 桜は屋上にいた。
 ひとり、神社の方角を眺めている。
 声をかけると、ハッとした顔で桜が振り向く。
「汐風くん……」
 僕を見て、どうしてここに、とでも言いたげな顔をした。
「桜に、話がしたくて会いに来た」
「話?」
 ほんの少し警戒したような顔に、ちょっと怖気付きそうになる。
 だれかの心に踏み込むのは、怖い。でも、知りたい。その気持ちのほうが強かった。
「僕、桜に会うまではずっと、だれのことも信用してなかった。嫌われるのが怖かったんだ。だから意地を張って、ひとりでも大丈夫って言い聞かせてきた」
「汐風く……」
「桜はなにが怖いの?」
「え……」
「桜は、僕の秘密をまっすぐに受け入れてくれた。だからってわけじゃないけど、僕は桜のことが好きだから受け入れるよ。どんなことでも」
 風が吹く。さらさらとした彼女の髪をさらって、華やかな春の香りを僕のところまで運んでくる。
「教えてよ、桜」
 まっすぐに訊く。しかし、桜は首を横に振って、言った。
「言えない」
「どうして?」
「汐風くんの気持ちは嬉しい。でも、言えない」
「なんで……」
「だって私、汐風くんに嫌われたくない。気持ち悪いって思われたくない」
「そんなこと思うわけないだろ。僕をなんだと思って……」
「みんな、最初はそう言うの。でも結局、離れてく」
「ほかの奴らと一緒にしないでよ。僕は、どんな桜も受け入れる」
「……本当に? 本当に、嫌わない?」
「うん」
 まっすぐ、頷く。すると桜は、しばらく黙り込んでから口を開いた。
「私、偽物なの」
「え?」
 言葉の意味が分からず、眉を寄せて桜を見る。桜は目を泳がせてから、もう一度僕を見た。
「私、クローンなの。もともとは本体の……お姉ちゃんの病気を治すために、お姉ちゃんのDNAから作られた医療用クローン。でも昨年お姉ちゃんが死んで、私は用済みになったんだ」
「…………」
「お姉ちゃんは、私を守るために死んだ。研究所のひとたちはみんな、私をものとして扱ったけど、お姉ちゃんだけは違った。私をちゃんと、ひとりの人間として見てくれてた」
 桜は懐かしそうに目を細めて、どこか遠くを見つめる。
「お姉ちゃんはいろんなことを教えてくれた。大好きだった。……お姉ちゃん、最後に会ったとき言ったんだ」
 もし、私が死んだとしても、桜は生きて。私がいなくても、これからもちゃんと生きていくのよ。私のことを負い目に思うことなんてない。しっかり、じぶんを生きるの。
「お姉ちゃん、自殺だったんだって」
「え……」
「私が造られた目的は、お姉ちゃんへの臓器提供だったから、私を生かすには、移植相手のお姉ちゃんが死ぬしかなかった」
「そんな……」
「それからは、私は戸籍上、千鳥(ゆめ)って名前になった。私はね、お姉ちゃんに成りすまして生きてる偽物なんだ」
 抑揚のない淡々としたその口調は、いつもの明るい彼女の喋り方とはかけ離れていた。
「……幸せなんて言葉、なんであるんだろう」
 ぽつりと、桜が言った。
「え……?」
「だってふつう、幸せだったらそんな言葉は生まれないでしょ」
 だからきっと、幸せなんてこの世に存在しないの。みんな、『幸せ』って言葉を無理やり当てはめて、じぶんに言い聞かせてるの。私は幸せなんだ、って。
 淡々と話す桜の眼差しに、感情はなかった。
『意味がある。絶対』
『君は必要だよ』
 頭の中で、彼女のかつての言葉が何度もリフレインする。
 ずっと、その言葉をほしがっていたんだ。今の彼女には、そう言ってくれるひとがいないから。
「……ごめんね、いきなりこんなこと暴露しちゃって。驚かせるつもりはなかったんだけどね」
 悲しげに笑うその横顔が切なくて、胸がぎゅっと絞られるようだった。
 言葉にならない思いはすべて涙に変換されて、表に溢れ出す。
「君は、ずっとそんなことをひとりで抱えて生きてきたの……? お姉さんが亡くなってからも、ずっと」
 ずっと、ずっとひとりぼっちで……。
「みんな、優しいよ。今だって病院の奥に私専用の部屋をくれてるし、検査とかもきっちりしてくれる」
「でも、ひとりで我慢してたことに変わりはないでしょ」
 お姉さんを失った悲しみを。
 桜にとって、きっとお姉さんは唯一の味方だったのだ。周囲がどれだけ優しくても、気を遣ってくれても、どうしたって埋められないものはある。桜にとってお姉さんは、きっとその穴を埋めてくれる唯一のひとだったのだと思う。
 そう思ったら、息ができないくらいに胸が苦しくなって、涙が出てきた。
「……もう、なんで汐風くんが泣くの」
「知らないよ、勝手に出てくるんだから……」
 言いながら、ハッとした。
 つい最近、僕はこの言葉をどこかで聞いた気がする。
 ……そうだ、凪だ。凪は僕がふられたことを知ると、じぶんのことのように泣いていた。なんなら、僕のことを置いてけぼりにして泣いていた。
 それを見て僕の心は動いたのだ。
 今の僕は、あのときの凪だ。
 これまでずっと、僕はじぶんを冷めた人間だと思っていた。
 ひとりでいたほうが楽。ふつうの楽しみなんていらない。興味ない。そう、思っていた。
 でも、違った。目から溢れるあたたかいものが、それを証明している。
 だれかのために……いや、好きなひとのためになら、涙はこんなにも溢れるものなのだ。苦しくなるものなのだ。
 ようやく理解する。
 こんなにも胸が苦しくなるのは。
 こんなにも、やるせなく感じるのは。
 ……こんなにも、どうにかしたいと思ってしまうのは。
「……桜だからだ」
 ほかのだれでもない、僕の好きなひとだから。
 涙で視界はぐちゃぐちゃだ。桜が今どんな顔をしているかすら分からない。
 それでもこの言葉だけは言わなきゃと、僕は涙を拭って桜を見つめる。
「君は代わりじゃない。偽物でもない。君は君。世界でたったひとりの、僕の好きなひとだよ」
「汐風くん……」
「どうしてこんなに涙が出るのか、今分かった。好きなひとが抱えてた秘密を打ち明けてくれたから、嬉しいんだ。すごく、すごく嬉しいんだ」
 そう言うと、桜は驚いた顔をした。
「え、そういう意味で泣いてたの?」
「そうだよ。だって、だれかにこんな大切なことを言われたのは、初めてだったんだから」
「ははっ……なにそれー」
「……だからさ」
 一旦言葉を区切って、服の袖で涙を拭う。そして、はっきりとした声で言った。彼女の心に、届くように。
「たぶん幸せって、こういうことだ」
「そっかぁ……」
 すると、桜は笑いながら目元を拭った。
「……ねぇ、またあの神社で会える?」
「うん。土曜日、行く」
「ぜったいだよ」
 頷くと、桜はおもむろに小指を僕に差し出してきた。すぐ意味を察して、僕も小指を出す。すると、不意に小指に桜の小指が触れた。そのまま、お互いの指が優しく絡まる。
「じゃあまたね」
「うん、約束」
 まるで、秘密の約束ごとのようで、どきどきした。
 その日の夜はもちろん、眠ることなんてできなかった。

 次の週末、僕は紫ノ宮神社にいた。桜の木の下に愛おしいシルエットを見つけて、頬がほころぶのを実感する。
「桜」
 名前を呼ぶと、桜が軽やかに振り返った。
「汐風くん!」
 桜は僕のもとへやってくると、さっそく元気な声で言った。
「この前の答え、撤回したくて」
「この前の答え?」
 首を傾げると、
「私、考えてみた。考えて考えて、これがぜったいに正しいって思う答えはまだ分からないけど……でも、生きたい。気持ち悪いって思われても、みっともないって思われても、生きたい。私は、お姉ちゃんが大好きだったから。汐風くんに……好きなひとに出会えたから」
 ハッとして桜を見る。蒼ざめた深水のような瞳に、僕が映っていた。
「錦野汐風くん。私は、汐風くんのことが好きです」
 生まれて初めて、受けた告白だった。
 嬉しくて、飛び上がりそうになるのを必死でこらえ、負けじと言う。
「僕も、好きです」
 桜は心底嬉しそうにはにかんだ。ポケットをまさぐる。
「ねぇ、これ、もらってくれる?」
 取り出したのは、あの日突き返されてしまった、黒猫と桜のキーホルダー。
「つまりその……付き合ってくれませんかってことなんだけど」
 桜は一度僕を見てから手の中のそれへ視線を移す。そして、僕の手ごと、両手でぎゅっとした。
「はいっ!」
 こうして僕たちは、恋人となった。
 桜と一緒に過ごす時間、僕の心は初めての感情で溢れていた。
 天気のようにころころと変わる桜の表情のひとつひとつが愛おしくてたまらない。
 楽しい、嬉しい、可愛い。あれが食べたい、あそこに行きたい。
 桜は、いつだって素直な感情を口にした。僕はそれが、すごく嬉しかった。
 ふたりで近くの美術館に行ったり、海に行ったり、たい焼きやたこせんを半分こしたりしながら、他愛ないことをたくさん話した。
 ただ、ふとしたとき桜の顔が曇る瞬間があった。何度もその瞬間を見たはずなのに、僕は深く気に留めなかった。
 夏休み前になると、桜はさらに病院から出られない日が増えた。
 それでも僕は、早く夏休みにならないかな、なんて浮かれたことばかり考えて、桜の変化にこれっぽっちも気付かなかった。
 夏休みになれば平日もたくさん会える。だから今は、桜もきっと検査を詰め込んでいるんだ。その程度にしか考えていなかった。
 そして。
 無限にあると思っていた桜との時間は、突然に終わりを告げた。
 ある日の朝、蝶々さんが僕に言った。
「しおちゃん、神社で女の子と会ってたりする?」
 どきっとした。
 べつに悪いことをしているわけではないのだけど、なんとなく後ろめたいような、恥ずかしいような気持ちになり、僕は蝶々さんから目を逸らす。
「……まぁ、はい」
「そっか。その子とは、付き合ってるの?」
「……まぁ」
 答えない僕の態度を肯定と捉えた蝶々さんが、小さくため息をついた。
「……なんなんですか?」
 少しイラッとして、語気を強めに訊く。
「会ってるのは、桜ちゃんっていう女の子?」
 名前を言い当てられて、僕は弾かれたように顔を上げた。
「……なんで蝶々さんが桜のこと」
 ハッとした。蝶々さんは今、桜が入院する病院の研究施設に勤めている。
 もしかして、と思った。
「……しおちゃん。話があるの」
「話?」
「まず初めに聞くけど、桜ちゃんのこと、どれくらい知ってる?」
 真剣な眼差しに、なんとなく察した。蝶々さんは、桜がクローンであることを言っているのだと。
 だから僕は、蝶々さんをまっすぐ見据えて、言った。
「ちゃんと、知ってます。桜の生まれた経緯とか、彼女のお姉さんの話とか。ぜんぶ彼女から聞きました。ぜんぶ知ってて、付き合ってます」
「……そう」
 蝶々さんは一度目を伏せてから、僕を見た。いつもと違う厳しい目付きに背筋が伸びる。
「じゃあ、彼女の余命のことは知ってる?」
「……え?」
 ――余命?
 困惑気味に首を振ると、蝶々さんは静かに話し始めた。
 蝶々さんの話は、こういうことだった。
 蝶々さんは数年前に医師を辞め、それ以来大学病院の研究施設で働いている。その施設は主にクローン研究に力を入れているらしい。
 そして七月の初め、蝶々さんが担当することになった患者というのが、研究所初のクローン成功検体である桜だった。
 蝶々さんはつい最近、彼女との会話の中で僕の名前を聞いて、僕たちの関係に気付いたのだそうだ。
「クローンはね、ふつうのひとよりもずっと短命なの」
「え……」
 生きて、二年程度。
「だから、桜ちゃんは入院しているのよ」
 あの施設で、桜は既に一年半ほど暮らしている。つまり余命は単純に計算してあと半年ほど。
 しかし桜の体は予定よりずっと早く、限界を迎えていた。
「クローンが短命なのは、臓器が弱いからなの。クローンが私たちと同じ食生活をしていたら、クローンの臓器はすぐにだめになる。研究施設で出されるものだけを食べていれば、そこまで極端な劣化はしないのだけど……桜ちゃん、外出してるときにいろいろ食べてたみたいで」
 頭の中が真っ白になった。
 知っている。僕はこれまで、桜とたくさんのものを共有してきた。気持ちとか思い出だけでなく、食べ物も。
「この前の検査結果で、桜ちゃんの臓器は既に限界を越えていた。彼女を苦しませないため、私たちは彼女を眠らせることにした」
「眠らせる……?」
 蝶々さんは静かに頷き、言った。
「安楽死させることが決定したの」
「あん……らく……」
 世界中の時間が止まったような気がした。
「ま、待って、それ……桜を殺すってこと?」
 急に気が遠くなった。
「どうして。だって、この前までふつうに元気だったのに」
「桜ちゃん、臓器がもうほとんど機能してない状態なの。これ以上の無闇な延命は、桜ちゃんをただ苦しめるだけになっちゃうのよ」
 ――安楽死。
 蝶々さんの言葉が、ずっと頭の中で反芻している。
「……なんでよ。桜は生きてるんだよ? 桜は、僕たちと同じように生きてて……なのに安楽死って、まるで実験動物みたいな扱いじゃないか!」
「しおちゃん」
「桜は、僕のせいで死ぬってこと……?」
「違うよ、しおちゃん」
 蝶々さんが僕を呼ぶ。
「僕のせいで……桜は」
 呆然とする僕を、蝶々さんが何度も呼ぶ。
「しおちゃんっ!」
 両肩を揺すられ、ようやく僕は蝶々さんを見た。
「ちゃんと聞いて。しおちゃんの大切なひとのことだから、私も規律を破って話してるの。お願いだから、冷静に聞いて」
 蝶々さんの強い口調に、息を呑む。
「桜ちゃんはね、施設外での飲食が禁じられていること、その理由、ぜんぶちゃんと知ってた。分かったうえで破ったの。それがどういうことだか、しおちゃん分かる?」
「僕のせいだ……僕がなにも知らずに一緒に食べようって言ったから」
 込み上げてくる涙をこらえながら言うと、蝶々さんははっきりとした声で「違うよ」と否定した。
「きっと、桜ちゃんは知りたかったんだと思う。君と同じものを見て、食べて、感情を共有したかったのよ」
「共有……?」
「彼女、お姉さんを亡くしてからずっと塞ぎ込んでたみたい。でも今年の春頃から、とても性格が明るくなって、いろんなことに興味を持つようになったって」
 春頃。ちょうど、僕と桜が出会った頃だ。
「……でも僕と出会わなかったら、桜はもっと生きられた」
 蝶々さんは、
「たしかにそうかもしれない」
 と言いつつ、けど、と続ける。
「桜ちゃんはしおちゃんに出会って、初めてじぶんの人生を生きたんだと思う。生きるってね、ただ毎日を淡々と過ごすことじゃないの。じぶんで考えて、じぶんの意思で選択する。好きなひとと好きなことをして、好きなものを食べて……そうやっていろんなことを学んで、いろんな可能性をじぶんで選択していくことが生きるということ」
「でも」
 膝の上に置いた手をぎゅっと握り込む。その手を、蝶々さんが優しく握った。
「しおちゃん。ひとはみんないつかは死ぬよ。私も、あなたも。生まれてすぐ亡くなる子だっているし、死ぬことは特別なことなんかじゃない」
 分かってはいても、僕の頭はどうしたって、もし、を考えてしまう。
「桜ちゃんの安楽死は今週末に予定してる。桜ちゃん、今既に発熱してて、もうたぶん外に出ることは不可能だと思う。でも、今ならまだ意識はあるよ。会いに来る?」
 なんの返事もできずに黙り込んでいると、蝶々さんは続けた。
「私ももっと早く気付いてあげればよかったんだけど……。私にはもう、ふたりに時間を作ってあげることしかできない。だから、後悔しない選択をして。……ただ、しおちゃんがどんな選択をしたとしても、これだけは忘れないで。しおちゃんとの時間を選んだのは、桜ちゃん自身。彼女の意志だよ。だから、じぶんを責めるのはやめてあげて。彼女のためにも」
 蝶々さんはそう言うと、椅子から立ち上がった。
 冷蔵庫を開け、
「……分からないかな。お別れをする選択肢があるっていうのは、贅沢なことなんだけど」
 そう、ぽつりと呟いた。
 虚しさが胸いっぱいに広がって、僕は唇を噛み締める。
「……蝶々さんは他人だから言えるんだよ」
 蝶々さんが冷蔵庫を開けたまま振り向いた。僕が言い返すとは思わなかったのだろう。少し驚いたような顔をしている。
「蝶々さんは当事者じゃないからそんなこと言えるんだ。蝶々さんがもし僕の立場だったら、もし僕と同じ年齢で、同じ状況で当事者になってたとしたら、冷静にお別れしようなんて思えるはずない!」
 蝶々さんは口をつぐみ、俯いた。
 こんなの、八つ当たりだ。蝶々さんは、かつての後悔を踏まえて、僕に助言してくれているのに。
 ……でも、だからって。安楽死を受け入れるなんてそんな選択、僕にはできない。僕はそんなに大人じゃない。

 翌日、僕は学校をさぼって、神社に行った。
 いつもの桜の木の下に、黒猫がいる。すっかり大きくなった黒猫は、僕を見るなり足元に擦り寄ってきた。
「にゃあ」
 すっかり懐かれてしまったな、と苦笑していると、不意に黒猫は僕から離れて能舞台に飛び乗った。舞台の上でころころと床に背中を擦りつけている。図々しい奴め、と思いながら近寄ると、すぐそばに拳の大きさほどの石が置いてあった。いたずらだろうか。持ち上げると、ひらり、となにかが足元に落ちた。
 落ちたものを拾って、目を瞠る。
「手紙?」
 それは、黒猫が描かれた可愛らしい封筒だった。宛名の欄には『錦野汐風さま』とある。ちょっと下手くそな字だ。
「桜?」
 いつの間にこんなものを置いていたのだろう、と思いながら、僕は手紙を開封した。

 ――汐風くんへ。
 桜です。実はこれ、私にとって初めての手紙です。
 緊張するけど、汐風くんにどうしても伝えたいことがあって、手紙を書こうと決心しました。というのも、私はたぶん、もうすぐ死んじゃうと思うから。
 私はクローンだから、先生たちいわく、ふつうのひとよりも寿命が短いんだって。とはいっても、思っていたよりずっとずっと長生きしたんだけどね。
 お姉ちゃんが死んでから、私はずっと、生きる意味を探してました。だって私は、お姉ちゃんを生かすために生まれてきたから。それなのに私はたったひとつの使命すら果たせなかった。お姉ちゃんを救えなかった私に、クローンの私に、生きる資格なんてあるのかなって。
 だから、せめてもと思って、私は先生たちの言うことをちゃんと聞くようにしました。
 食べ物は与えられたものだけ。
 検査もちゃんと受けて、わがままは言わない。
 それは、生きているのか死んでいるのか、よく分からない毎日でした。
 そんなときです。君に、出会ったのは。
 あのね、お姉ちゃんがよく言っていたんだ。
 ――迷ったら桜の花を探して。
 ――桜を見上げれば、その先に空と太陽があるから。
 ――桜は、希望だよ。だから、あなたは私の希望なの。
 お姉ちゃんが恋しくなって、私は先生に桜が見たいと頼んで、あの神社に行きました。そして、君に会いました。
 あの場所で汐風くんを見つけたとき、すっごくどきどきして、わくわくしたんだ。
 汐風くんと過ごした毎日は、信じられないくらい楽しくて、本当にあっという間でした。
 もしかしたらお姉ちゃんは、この感情を私に知ってほしくて、私を生かしてくれたのかも、なんてことを考えちゃうくらい。
 だけど汐風くんと出会ったとき、私に残された時間は既にほとんどなくって、だから私は、寿命よりも汐風くんを選びました。
 汐風くんは優しいから、事実を知ったらきっと、じぶんに責任を感じちゃうよね。
 ごめんね。
 本当は、分かってたんだ。
 私はふつうじゃないから、汐風くんとは一緒にいるべきじゃない。
 汐風くんとの時間を求めるのは間違った選択肢なんだって分かってた。でも、選ばずにはいられなかった。
 だって汐風くんが美味しいっていうものがどんなものなのか気になったし、汐風くんが好きって言うものを私も好きになりたかった。
 だってそれは、汐風くんを知ることだから。
 私は、汐風くんのそばで最後まで私らしくいることを選びたかったんだ。
 わがままでごめんね。
 ふつうの女の子じゃなくてごめんね。
 ずっと一緒にいられなくてごめんね。
 また、桜を一緒に見られたらよかった。
 電車とか、飛行機にも乗って、もっと広い世界を見てみたかったな。
 汐風くんが生まれた場所も見てみたかったし、親友の凪くんにも会ってみたかった。
 やり残したことはたくさんある。でもね、後悔だけはひとつもないよ。
 私ね、汐風くんに出会って初めて、幸せってなにか分かったよ。
 私にとっての幸せは、汐風くんと出会えたこと。汐風くんとの時間すべて。
 幸せを、教えてくれてありがとう。
 大好きだよ。
 ぜったい忘れない。
 ……。

 最後まで手紙を読み切る前に、僕は勢いよく地面を蹴った。
 走って家に帰りながら、強く思った。
 いやだ。こんな手紙で終わりはいやだ。だって、桜はまだ生きてるんだ。
 たとえ桜との未来はないのだとしても。
 いや、だからこそだ。
 だからこそちゃんと顔を見て、お別れをするべきなのだ。
 だってこれは、桜が選んだことなのだから。
 冷静でいられるかなんて、最初からどうだってよかったのだ。
 重要なのは、桜の想いだ。
 桜との別れを悲しいものにはしたくない。
 もう二度と、あのときのような後悔をしたくない。
「蝶々さん!」
 家に帰り、玄関を開けてすぐ大きな声で蝶々さんを呼ぶ。蝶々さんはすぐにリビングから顔を出した。
 汗でびしょびしょの僕を見て、蝶々さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「どうするの?」
 僕はまっすぐ蝶々さんを見て、言う。
「桜に会わせてください」


 ***


 結賀大学病院の研究棟は、病院北側の隅にある。基本的に一般のひとは出入りできないため、人気はほとんどない。蝶々さんとともに受付を済ませ、桜がいる病室へ向かう。歩くたび、薬品のつんとした匂いが鼻を刺した。病室へ向かう間、僕と蝶々さんの間に言葉はなかった。
 蝶々さんがとある扉の前で止まる。
「……ここですか?」
 扉横のプレートには『千鳥夢』とあった。
 プレートの前で足を止めた僕に気付いた蝶々さんが、「桜ちゃんは、ここでは夢ちゃんって呼ばれてるの」と言う。
「……そうなんですね」
 蝶々さんは申し訳なさそうに微笑んだ。
「私はここにいるから、行っておいで」
「ありがとうございます」
 蝶々さんに礼を言い、そっと中に入った。
 病室の中は、意外にも可愛らしく飾り付けられていた。
 淡いピンク色のレースのカーテンに、桜模様のシーツカバー。棚には桜の花びらの形をしたスタンドランプが置いてあり、その横のアクセサリースタンドには、僕があげた黒猫と桜のキーホルダーがかけられていた。
 部屋の中央に目を向ける。少し大きめのベッドに、桜が横たわっていた。
「桜」
 そっと近付き、名前を呼ぶ。
 小さな声で呼びかけただけなのに、桜は起きていたのか、ゆっくりとまぶたを開けた。
「汐風くん?」
 掠れた声で、桜が僕の名前を呼ぶ。
 その表情はまるで、どうしてここに汐風くんが、と言っているようだった。
「桜、手紙読んだよ」
 桜の小さな手を控えめに握りながら、僕は言う。
「でもごめん、途中でやめちゃった」
 すると、桜はきょとんとした顔で首を傾げた。
「やっぱり桜の声が聞きたくて」
「ふふ……ごめん。いきなりびっくりしたでしょ」
「ま、ちょっとね」
 そう答えると、桜はふわりとはにかんだ。その表情に、少しだけ切なくなる。
「……桜、あの」
 ごめん、と言おうとして慌ててその言葉を飲み込む。言ってはいけない。この言葉は、言ってしまえば桜が責任を感じてしまう。
 だから、代わりに。
「調子はどう?」
 そう訊くと、桜は、
「最高だよ」
 と言って笑った。
「そっか。それなら、いいんだけど」
 あのさ、と、少し溜めてから、僕は口を開く。
「次は、旅行に行こう」
 そう言うと、桜は眉を寄せて、なにかをこらえるような顔をした。
「りょ、こう……?」
「うん。まだまだ、桜とやりたいことたくさんあるからさ。次は沖縄に行ってアイスを食べようよ。あっちにしかないやつ。そのあとは文化祭を一緒に回って、年越しを一緒にして、初詣にも行こう」
 気づいたら、声が震えていた。
「桜、ちょっと出かけるって聞いたからさ。次の約束をしておこうかなって」
 桜の手を強く握り、笑いかける。
「だから今日は、行ってらっしゃいって言おうと思って」
「……ん」
 桜の目尻から、涙がつたう。
「じゃあ……帰ったら、おかえりって、言ってくれる?」
 僕の手を握る力が、ぐっと強くなった。
「もちろん。ずっと待ってるよ。桜が帰ってくるの、ずっと待ってる」
 嗚咽混じりに頷いて、桜の手を両手で強く握った。
「僕はずっとここにいるから、だから、なにも怖くないよ」
「そっかぁ。汐風くんがいてくれるなら、ぜんぜん怖くないね」
 力のない笑顔に、涙がこらえ切れなくなる。
「桜、僕……僕ね、じぶんがこんな気持ちになるなんて、有り得ないと思ってた。だれかを大切に思うなんて……だれかのために涙を流すなんて、だれかを愛すことなんて、一生ないと思ってた」
 桜と出会わなかったら、こんな気持ちは知らなかった。
「ずっと、胸の中に桜がくれた言葉があるんだ。桜がいなかったら、僕はずっと俯いたままだった。ねぇ、桜。僕に愛を教えてくれてありがとう。僕を、愛してくれてありがとう」
 そう言うと、桜は静かに涙を流して微笑んだ。
「こちらこそ」
 それは間違いなく、世界中のだれよりも美しい微笑みだった。


 ***


「おはようございます」
 朝、いつものように顔を洗ってリビングへ行くと、蝶々さんが朝食を用意して待ってくれていた。
「わぁ、美味しそう」
 食卓に並べられた和食にお腹を鳴らしながら、僕は蝶々さんの向かいに座る。
「さて、食べようか」
「はい」
 手を合わせて、「いただきます」と言ってから、箸を掴んだ。
「……あの、蝶々さん」
 茶碗を持ったまま、僕はおずおずと蝶々さんを見た。
「ん? なに?」
 蝶々さんはだし巻き玉子を頬張りながら、僕を見た。
「あの……この前は、生意気なことを言ってすみませんでした」
 以前、桜のことでひどいことを言ってしまったことを謝罪すると、蝶々さんは笑って頷いた。
「気にしなくていいよ。しおちゃんの本音が聞けて嬉しかったし。それに、しおちゃんが案外一途ってことも分かったしね。恋愛には淡白なタイプかと思ってたけど、しおちゃんは好きになると周りが見えなくなるタイプなのかもねぇ」
 涼しい顔でそんなことを言われ、顔中に熱が集まってくるのを感じる。
「そ、そんなことは」
 ない、とは言えず口を引き結ぶ。
「ほら、今日は栃木に帰るんでしょ。電車遅れないように早く食べないと」
 蝶々さんはそう言って、やはり涼しい顔で箸を進めた。
 あぁ、もう。蝶々さんには敵わない。
 もういいや。これ以上蝶々さんに文句を言うのはやめて、凪に話を聞いてもらおう。
 そんなことを思いながら、僕はだし巻き玉子に箸を突き刺した。
 朝食を終え、荷支度を済ませて家を出る。
 坂を下っていると、少し先の道路の真ん中に、黒い物体が見えた。
「あぁ、お前か」
 いたのは、あの黒猫だった。道路のど真ん中で、呑気に耳の後ろを脚でかいている。
「みゃあ」
 相変わらずマイペースな猫だ、と思いながらも放っておけず、
「おーい、そこ、道路だから危ないぞ」
 と声をかけてみる。すると黒猫はぴたりと動きを止めて、僕を見た。
 そして、
「にゃあ」
 と鳴き、のんびりと毛繕いを始めた。どうやら猫語で「うるせえ」と言われたようだ。またか。
 そういえば、こいつはそういう奴だった。
 ほっとこう、と思い直し、再び歩き出す。しばらく歩いていると、てんてんてん、と目の前をなにかが横切った。見ると、案の定あの黒猫だ。
「……お前」
 歩き方がうさぎのようにぴょんぴょん跳ねるようで、思わず笑みが漏れる。
「なんだよ、お前。また着いてきたのか?」
 もう一度話しかけてみると、黒猫はちらりと僕を見て、再びてんてんと歩き出す。黒猫はやはり、意志を持ってどこかへ向かっているように見えた。
 黒猫を追いかけてみる。黒猫は坂を下り、途中、通りを曲がって狭い横道を進んでいく。
 道の先に小さな神社が見えた。
 大きな朱色の鳥居には、『紫ノ宮神社』とある。
 苔むした石に落ちる木漏れ日、松の枝でさえずる小鳥と香しい芳香の花々。
 鳥居を抜けた先には、現実離れした美しい世界が広がっている。
 右手には能舞台。能舞台の脇には、あの大きな桜の木がある。上から覆うように枝が広がり、青々とした桜の葉が舞台を彩っている。
 鮮やかな桜の葉に魅入っていると、「にゃあ」という声が聞こえた。
「……あ、お前」
 見ると、黒猫は我が物顔で舞台に上がっている。あろうことか、ころころと背中を舞台の床に擦り付けていた。
 ふと、視界の端になにか動くものを見た気がして、舞台の縁に目をやる。
 そこにいたのは……。