「ワンワンワン!」

 リード紐を持つと、その気配が分かるのか、バニラが吠えながら玄関に向かって走って行く。すると、案の定、一階から二階にある私の部屋に向かって、お母さんが怒鳴った。

葉月(はづき)! 早く降りて来て、バニラを連れて行ってちょうだい! 近所迷惑になるから」

 そう言われても、と思うけれど、バニラの声は小型犬特有の高い声。余計に響き渡ってしまうのだ。子どもの声と同じで、人は低い音より高い音を不快に感じるものだから。

 今のところ、近所から苦情が来たことはないけれど、それはただ言わないだけで、感じているのかもしれない。
 トラブルの元でもあるし、一度苦情を言えば、気まずくなる。もしくは(たが)が外れて、さらに酷くなるケースもある、と聞く。

 トラブルはない方が一番いいからね。

 とはいえ、バニラが楽しみにしているのだから、その気分を害したくはなかった。私だって、楽しい気分に水を差されるのは嫌だから。
 でも、吠えるなと注意したところで、鳴き止むとは思えない、というのが、一番の本音だった。

「バニラ〜。行くよ〜」

 階段を降りながら、今か今かと待つバニラに向かって、私は気が抜けたような声で歩いて行った。


 ***

 薄暗くなった道を、私はバニラに引かれながら歩く。
 ポメラニアンのバニラは、その名前の通り、白くてふさふさした毛並みを靡かせながら、短い足を懸命に動かしている。

 その後ろ姿が何とも言えないくらい可愛い。時々、振り向いて、私の様子を見るところも、また……!
 まさに飼い主バカと言われても仕方がなかった。

 だからこそ、散歩は夜に決めている。日中は私も学校があるからできない、という理由もあるけれど。一番の理由は、交通量。
 夜の方が少ないため、安心して散歩ができるのだ。

 暗くて怖くない? と思われるかもしれないけれど、そこはバニラと一緒だから平気だった。
 あとは……。

児玉(こだま)!」
「関屋くん」

 そう、関屋(せきや)真宙(まひろ)くんに会えるから、怖いというより楽しみの方が勝っていた。なにせ彼は、同じクラスの人気者。
 高校に入りたての頃、たまたま隣の席になった時、関屋くんと同じ中学だった人から聞いたのだ。

『関屋くんってさ。中学の頃からモテていたんだよね〜』

 明らかに牽制しているのが分かる言い方で……。その時の私は「そうなんだ」と言いながら、「牽制しなくても、好きにならないよ」と内心思っていた。

 それなのに八カ月後には……気がついたら、こんな関係になっているなんて、世の中、何があるか分かったものではないな、と思ってしまう。

「良かった。今日は遅くなったから、児玉が待っているんじゃないかって焦ったよ」
「え? 大丈夫だよ。多少、待つくらい。バニラもいるし」

 ね、とバニラに視線を向けると、何のこと? とでも言うようにキョトンとした顔が返ってきた。

「ダメ! 暗くなるのが早くなってきたし、寒いし。何より児玉をここに……待たしておくのは、危ないだろう」
「そんな、大袈裟だよ」
「……もう少し危機感を持ってほしいな。バニラの散歩だからといっても、夜は危険なんだから」

 二カ月前も、関屋くんはそう言っていた。
「いつもこの時間に散歩してんの?」「夜だし、危ないし……そうだ。俺もあずきの散歩をしているから、一緒にするのはどう?」

 しまいには、何故かバニラの散歩を一緒にすることになった。因みにあずきというのは、関屋くんが飼っている犬で、トイ・プードル。茶色からあずきというのだそうだ。

 バニラも白いから、という理由で名付けたから、安直だとは、さすがに言えなかったけど。

「いっそのこと、迎えに行った方が……」
「ダメダメ! さすがにそこまではしてもらうのは悪いよ」

 というより、恥ずかしい。家族になんて説明するの? 彼氏でもない同級生の男子に、迎えに来てもらうなんて。それも、バニラの散歩の……。

 は、恥ずかし過ぎる……!

「何を今更。いつも児玉の家で解散しているのに……」
「あ、あれは関屋くんが……」

 ここまで散歩したんだから送るよ、と何度も言うから、それが常習化しただけで……。
 しかも帰りだから、家族の誰も気づかずに済んでいるけど、いつバレるか。それも時間の問題だった。

「と、とにかく、それはダメなの! ほら、もうバニラが待ち切れないって顔しているから、行こう!」

 私は無理やり話題を変えて歩き出した。


 ***


 嬉しそうに前を歩くバニラとあずき。二匹とも、私たちが合流しないと散歩が始まらないことを知っているからか、お行儀良く、並んで歩いている。
 すでに二カ月も続いているから、お手のものだった。

 私には分からないけれど、バニラとあずきもお喋りしながら歩いているのかな。そう思っただけで頬が緩んだ。すると、隣を歩く関屋くんが、遠慮しがちに声をかけてきた。

「もしかして、無理に付き合わせてる?」
「え? 何で?」

 そう思われるようなこと、したかな。私の方こそ、付き合わせているような気がするのに……。

「あれから、何度か席替えしているけど、なかなか隣にならないじゃん。クラスで見る児玉は、どこか沈んでいる……ように見えたから」
「確かに学校だと、関屋くんとこうして話すことって滅多になくなったけど。だからこそ、この時間は楽しいよ。一学期に戻ったみたいで」
「戻ったみたいって、やっぱり何かあったのか?」

 鋭いなぁ、と思いつつ、懐かしさで胸がいっぱいになった。

 ちょっとした変化に気づいて声をかけてくれる関屋くん。
 他の男子にちょっかいをかけられた時、さり気なく庇ってくれたこと。

 たった八カ月前なのに、懐かしいというのは変かもしれないけれど、それくらい印象深かったのだ。多分、関屋くんを好きになったキッカケだと思うから。

 そういえば、バニラのことを話したのも、その時だったような気がする。まぁ、飼い主バカなんだから、話していてもおかしくはないよね。

「たいしたことじゃないよ。ちょっと部活選びを間違えたかな、と思っちゃって」
「部活……確か、吹奏楽だっけ」
「うん。中学でもやっていたから高校でも、と思ったんだけど、想像していたのと違ってて、後悔しているの」
「中学と高校じゃ、皆の意識も違うしな」

 確かに。中学まではまだお遊び感があるけれど、高校は違う。真面目、大真面目だ。
 それは偏に、将来を見据えて部活に励んでいる人たちが多いせいだった。だからこそ、場違いというか、お門違いというか……。

「違い過ぎていて、逆に引いちゃったんだ。目指せ金賞! とか、まるで宗教みたいだったよ。絶対に取らなくちゃ、とか。皆の気持ちを一つに、とか。まるでそうしないと、絶対に勝てない、とか。熱気が凄くて。しかもそこの枠から外れると、一気に冷たい目線を浴びるの」

 裏切る気? とまるで親の敵のような視線で。

「ウチの吹奏楽部、そこそこ強いからね。誰かが火付け役になって、そうなっちゃったんだろうな」
「いい迷惑だよ。中学の時みたいに、そこそこ楽しめれば良い、と思っていた私からすると」
「……児玉は賞とかには興味がないのか? 受験には有利に働くと思うけど」

 そこを言われると、実は痛い。ボランティアとか野外学習。何かしら、他との差異を見せると受験には有利なのだ。
 その先にある就職活動にも役立つ、と聞いたこともある。

「関屋くんはそこにいた方がいいと思う? 嫌でも頑張った方がいいって」
「……しがみつきたいほど好きなら、そこにいるべきだと思う」
「しがみつきたい、ほど?」
「うん。だってさ、三年間しかないんだよ、高校生活は。俺はさ、児玉にも、その一つ一つを大事にしてほしいんだ」

 どうして突然、そんな遠いところからものを言うの? 関屋くんだって同じ高一じゃない。

 喉まで出かかった言葉を、私は懸命に飲み込んだ。

 言えば嫌われる。
 言えばこの散歩が終わってしまう。
 言えば関屋くんとの接点が完全になくなる。

「っ!」

 そうか。しがみつきたいほど好きってこういうことなのかな。
 だとしたら、私は……。

「児玉? ゴメン。何か偉そうなこと言って」
「……だ、大丈夫。気にしていないから」

 嘘だ。気にしていたから、別のことに気づかされたのだ。

 何となくいいな。
 カッコいいな。
 話したら気さくで、話しやすい。

 好き? と言われたら好き、と答えられるくらい好きな人。

 ううん。それは違う。
 この関係がなくなるのも、このポジションを取られるのも嫌って思えるくらい、関屋くんが好きになっていた。

 私はリードを持つ手に力を入れる。

「関屋くんに言われたことも含めて、もう少し考えてみる。辞めるのはいつだってできるから」
「……そうだな。この散歩もいつまでできるか」
「え?」
「いや、何でもない。ほら、もうすぐ児玉の家だ。バニラが走りたがっている」

 本当だ。待ち合わせから二十分。それが関屋くんと話せる一日の限界だった。
 クラスでは、席が近くないと話す機会もないから。

 リードから、バニラがうずうずしているのが伝わってくる。いくら犬でも、寒い中ずっといるのはキツい。散歩が大好きであったとしても、だ。

「それじゃ、今日はここまでにするね。さすがに家の前までは……」
「あっ、でも、入るまでは確認させて。もし何かあったらと思ったら気になるから」

 確かに逆の立場だったら、私もそう思うかもしれない。翌日、私が学校を休んだら、何かあったのかな、とか。色々、気に病むもの。

「うん。分かった。でも、関屋くんも気をつけてね。私も同じ気持ちになるから」
「え?」
「あっ、その、ちゃんと無事に帰れたかなって心配になるから」
「あぁ、そっち。うん。気をつけるよ」

 ほんの少しだけ気まずくなりかけた瞬間、リードを引っ張られる。バニラが早く行こうと催促してくれたのだ。この時ほど、バニラの存在に助けられたことはない!

 私はしみじみと思いながら、関屋くんに手を振って家へと向かった。玄関を閉める瞬間、チラッと関屋くんがいる方向を見る。途端、手を振られて慌てて閉めた。

 まるで彼女を心配する、彼氏に見えてしまったからだ。