薫子との一件があったせいで、花嫁修業はより一層厳しいものになった。
 女中たちは沙苗がうまくこなしても、些細な粗を見つけては厳しく責めたててきた。

 ただ嫁入りが近いということもあってか、罵倒されるだけで暴力を振るわれることはほとんどなかった。

 そしてついに夫となる人がやってくる日を迎えた。
 その日は朝から水で体を清め、いつものように無地のとは違う、華やかな着物をあてがわれた。
 女中たちは不快さを隠さないまま、着物をきつける。

 女中たちに付き添われ母屋へ向かう。
 離れとは違ってよく日が当たり、庭もしっかり手入れが行き届いている。
 女中にここで待つように命じられ、一人ぽつんと部屋に取り残された。
 その日は朝から女中たちがつきっきりだったせいで、ようやく一息つくことができた。

 ――ようやくこの日が来たのね。

 まだ癒えきれていない傷がズキズキと鈍く痛んだ。
 それでもこれくらいどうということはない。
 木霊たちがぴょんぴょんとはしゃぎ回るように、沙苗の体の上で遊ぶ。

「みんなと離れなきゃいけないのは寂しいわ。それだけが心残りかな……え、一緒に来てくれるの? でもみんな、山は……」

 木霊たちは木霊なら他にもたくさんいるから問題ない、と言ってくれる。
 それよりも、沙苗が心配なのだと。

「ありがとう……」

 びっくりだ。まさか木霊たちが一緒に嫁入りについてきてくれるなんて予想外だ。
 嬉しくて、泣きそうになるのをぎりぎりでこらえる。今、泣いてしまったら、せっかくのお化粧が崩れてしまう。

「結婚は……どうかな。幸せになれるのかな……」

 幸せという言葉は、生まれた時からずっと離れに閉じ込められていた沙苗にとっては最も縁遠いもの。
 そもそも何かを望むという行為そのものが、おこがましいと思える。

 半妖である自分が、人並みの幸せなど期待はできないだろう。
 だから幸せなんて望まない。ただ、これまでの暮らしのように苦しくなければそれでいい。それだけを祈るだけだった。

「――こんな日まで独り言とか、やっぱり気持ち悪いわ」

 華やかな着物をまとう薫子の姿に、全身が強張った。
 怯える沙苗を蔑むように見つめてくる。

「まさに馬子にも衣装よね。ま、あんたみたいな化け物、どうなろうがしったこっちゃないけどさ。でも婚約者は狩人なんだから、半妖だってことバレないようにしたほうがいいわね。あんたが半妖だって知ったら殺されるかも」

 そうだ。どうしてそのことを忘れていたのだろう。
 相手はあやかしを狩るのを生業にしている人。その人が迎える妻が半妖だと知ったら。
 今まで花嫁修業の厳しさとせわしなさ、座敷牢から出られた喜びで、完全に忘れていた。

 全身から血の気が引く。

「ま、頑張って」

 クスクスと笑いながら薫子が去っていく。

 ――どうしよう。

 しかし今さらどうにもならない。逃げたところで連れ戻されるのが落ちだ。
 そこへ障子ごしに声がかけられる。

「お嬢様、お客様がお着きになりました」

 お嬢様。一度もそう呼ばれたことがない沙苗からしたら、失笑してしまう呼び方だ。
 しかしわざわざそんな呼び方をしているということは、すでに相手が到着しているのだろう。

「……は、はぃ」

 声を震わせ、立ち上がった沙苗は女中に連れられ、広間へ連れて行かれた。

「お嬢様をお連れいたしました」

 女中が声をかけ、襖を開けた。

「さあ、沙苗。こっちへ来なさい」
「ふふ、やっぱりよく着物が似合っているわ」
「お姉様! とても素敵!」

 偽りの表情と声で、招かれる。
 これまでずっと座敷牢と木霊たちに囲まれて暮らしていた沙苗は、人間のおぞましさには馴れない。
 軽い吐き気を覚えつつ、引き攣った笑顔を浮かべる。

「こちらが、お前の嫁ぐ、天華家の御当主、天華景虎殿だ」

 綺麗な正座でたたずむ青年――景虎の姿を一目見た瞬間、胸を突かれた。
 黒い軍服姿の男性は、先見で見たあの人だったのだ。

 ――え……!

 背中に流された白い髪は、人間というよりも、神仏の遣いであると言われた方が納得してしまいそうなほいどに美しい。
 彫りの深い顔立ちは端正であるにもかかわらず、祝いの日であることを忘れてしまいそうなほど、その表情の中には感情らしいものは見てとれない。整いすぎた美形であるからこそ、無表情の印象がよりきつく見える。
 刃のように鋭い光をおびた瞳は、燃えるような深紅。
 瞬きが少ないせいか冷淡な印象を受ける。

 しかし先見で見た時よりも、ずっと強い近寄りがたさを感じた。

「……木霊を飼っているのか?」

 抑揚のない冷ややかな声で、景虎は言った。

「……み、見えるのですか?」

 この家の誰も見えなかったのに。

「見えないわけがないだろう。どうして木霊がいる? まさか本当に飼っているのか?」

 景虎のそばには、赤い柄に黒い鞘の日本刀が置かれている。

「こ、この子たちは友だちなんです。悪いことは何もしません。き、斬らないで下さい……!」
「そんな無駄なことをするつもりはない。まさか、そいつらも連れて行くのか?」
「……だ、駄目でしょうか」
「何を言っているんだ。木霊はあやかし。そんな不浄なものを連れて行くなど、天華の家が穢れるだろう!」

 父が激昂する。

「霊護の家系というのも、大したことがないな」

 父が言葉を重ねようとするのを、景虎はぴしゃりと遮った。

「な、なんですって」
「あいつらはかなり長くお前の娘と一緒にいるようだ。すっかりなついているようだ。好きにしろ」
「ありがとうございますっ」
「それから、お前、木霊は不浄と言ったな。木霊はあやかしと言っても邪気はない。そもそも大きい括りであやかしとは言われてはいるが、精霊に近い存在だ。穢れることなどありえない。当主だというのに、そんなことも分からないのか?」

 ぐっと言葉に詰まった父が恥ずかしそうに俯く。その手がぎゅっと拳を握りしめる。

「霊護と言ってもこの程度か。こんな田舎に引きこもっているんだ。そもそも期待はしていなかったが。おい、荷物は?」
「荷物は……」
「これ、沙苗の荷物をもってきなさい。少しお待ち下さい」

 後妻が女中に命じる。

 ――荷物なんて用意してないのに。

 その時、薫子が目を輝かせて景虎へ近づく。

「それにしても美しい髪ですよね。惚れ惚れしてしまいますわ」

 薫子は自分がどう振る舞えば相手に可愛いと思ってもらえるかを学習しているのか、媚びを売るような眼差しを景虎に注ぐと、その美しい髪に無遠慮に触れようとする。

「触るな」

 景虎が威嚇するように薫子を睨み付ける。まさかそんな反応を見せられるとは思わなかったのか、薫子は「ひ!」と声を震わせ、顔を青ざめさせる。

「誰かに触るのも、触られるのも不快だ」

 整った顔が不愉快そうに歪む。

「わ、私たちは今日から、義理の兄妹になるのにそんな冷たいこと……」
「お前たちと家ぐるみの付き合いをするつもりはない。そもそもこの婚約自体、俺は望んでもいない」

 広間がいたたまれない空気に支配されたその時、二つの旅行鞄を女中たちが運んでくる。
 景虎は立ち上がると、女中からひったくるように鞄を手にする。

 ――お、大きい……。

 沙苗は、景虎の背の高さに驚く。
 父よりも二回りは大きいせいか、小柄な沙苗は仰がねばならない。
 手足もすらりとして長く、軍服ごしにも均整の取れた身体だというのが分かった。
 景虎は、父を一瞥する。

「結納などの面倒な儀式についてはこちらも忙しい故、省略するというので問題ないんだな」
「は、はい、もちろんでございます……」
「結納の品はあとで届けさせる」

 景虎はさっさと歩き出して、広間を出る。
 沙苗は急いであとを追いかける。
 景虎は沙苗の歩幅などまったく気にせず、どんどん歩く。
 沙苗は置いてかれまいと息を切らせながら小走りになった。

 玄関を出ると、冬晴れの日射しに目が眩みそうになる。
 景虎は、門へと続く道の半ばで不意に立ち止まっている。

 はぁはぁと肩を上下させた沙苗も立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。

 景虎は振り返る。

「帝に言われて仕方なくお前と婚約したにすぎない。だから、お前を愛するつもりはない」

 ぞわりと鳥肌が立つ。

「無論、お前に、妻としての献身も求めない。それだけは言っておく」
「……かしこまりました」

 沙苗は深々と頭を下げた。
 そんなことか、と思った。
 愛してくれないのは構わない。

 生まれてからこれまで、一度だって愛されたことなどない沙苗からすれば、ことさら気に病むことはなかった。
 座敷牢から出られて、外を歩く自由があるだけで十分すぎるほどだ。

「何がおかしい」
「え?」

 沙苗は自分の頬を触る。自分でも意識していないうちに、口角が上がっていた。
 慌てて唇を引き結ぶ。
 景虎は呆れたのか溜息ををつくと再び歩き出して、門を出た。
 沙苗の背後で、家族たちが見送りに出てくる。

「えっと……?」

 門前には馬車も何もなかった。ただ黒塗りの見馴れないものがある。

「何をしている。乗れ」
「……それは、乗り物、なのですか」
「自動車だ」

 景虎は扉を開けて、「早く城」と告げる。

「は、はい」
「……土足のままでいい」

 田舎者だと馬鹿にされただろうか。恥ずかしさで耳が熱くなってしまう。
 沙苗は言われた通り乗り込んで、扉を閉めた。

「……これは何で動くのですか?」

 馬は見当たらない。

「エンジンで動く」
「えん……?」
「とにかく、これは乗り物で、馬や人足は必要ない」

 自動車が走り出せば、ぐんぐんと景色が後方へ流れていく。

 ――は、早い!

 沙苗はあまりの速さに恐怖を覚え、目をぎゅっと閉じて座席にしがみつく。
 景虎は沙苗をちらりと一瞥すると少し速度を落とし、田舎道を走っていった。