景虎は執務に励んでいた。すでに日が暮れかかる時間帯。
 今頃、沙苗は夕食の準備緒していることだろう。そう、頭の中では沙苗のことばかり考えていた。無論、考え事をしながらでも煩わしい事務作業を処理する動きは変わらない。

 その時、景虎は部屋にあやかしの気配に気づく。
 それもよく親しんだことのある、ものだ。

「三船、悪いが少し休憩する。一人にしてくれないか?」
「わ、分かりました」
 三船は突然の言葉に驚きながらも、そこは出来た秘書。
「では、十分後にまた……」

 頭を下げて部屋を出て行く。
 景虎は背後の窓を開けた。そこにいたのは木霊。

「沙苗のそばにいなくていいのか?」

 木霊たちはじたばたといつも以上に落ち着かないそぶり。
 景虎に対して、懸命に何かを伝えようとしている。

「……沙苗に何かあったのか」

 木霊たちが大きく頷いた。
 血の気が引き、身体が小刻みに震える。

「案内しろっ」

 景虎は窓から外に飛び降りる。二階分くらいならば、無傷で着地できる。
 そのまま執務室を飛び出した景虎は裏手に止められた自動車に向かう。
 ちょうど係の人間が車の清掃をおこなっていた。

「おい、自動車を使うぞ!」
「わ、分かりました!」
「クランクを回せ!」
「は、はいっ」

 係の人間がクランクを回せば、エンジンが動き出す。
 景虎はアクセルをベタ踏みして、敷地を飛び出した。

 冷静に、落ち着けと己に言い聞かせても、鼓動が早くなる。
 ハンドルを握り締める両手がみるみる汗で湿っていった。
 沙苗に危機が迫っていることに、全身がこれまで感じたことがないくらい恐怖と不安に苛まれているのだ。

「沙苗はどこだっ」

 彼らは腕で進むべき方向を示してくれている。
 紅蓮の炎に包まれる洋館が見えてきた。

 ――あそこに沙苗が!?

 景虎は自動車から飛び降りると、館へ向かって駆ける。

「あなた、誰ですか!」
「ここは私有地ですよ!」

 道を阻もうという男たちに「邪魔だ!」と叫ぶ。
 景虎の一睨みで男たちは顔を青ざめさせ、道を空けた。

 唖然として景虎を見つめる人々の中に、嘉一郎の姿を認めた時、何が起こったのかを察した。しかし今は構っている場合ではない。

 ――あいつの処理は後回しだ!

 人々が見上げる方へ眼をやった。そこだけ窓が開いている。

 ――あそこに沙苗か!

 景虎は、炎の渦巻く館内へ突入する。
 紅蓮の炎が天井を階段を、壁を包み込む。

 霊力で編み上げた炎で本物の火を塗り潰し、景虎は崩れかけた階段を駆け上がっていく。

 ――沙苗! 間に合ってくれ!



 メリメリと扉が音をたてて崩れ、緋色の炎が噴き上がった。
 熱風が全身に吹きつけ、肌を焦がす。

 視界が涙でぐちゃぐちゃになり、ぼやける。
 すでに息をすることもままならない。呼吸をすれば肺に熱風が入り込み、むせるだけでうまく呼吸ができない。
 頭の芯がぼやけ、手足の感覚が失われていく。

「かげ、とら、さま……」

 視界がみるみる黒く塗り潰される。
 その時、屋敷が揺れる。
 緋色の炎を圧するように、青白い炎が部屋に雪崩れ込んだ。
 身体に吹き付ける熱波が消え去り、まるで一迅の春風のような穏やかさを感じた。
 そしてその中に、馴染み深い気配が混ざっていることに気づく。

 ――景虎様の、霊力……。

 朦朧としていた意識がゆっくりと覚醒する。
 重たい足音が近づいてくる。
 重たい瞼を開けると、そこに肩で息をし、肌をところどころ黒く汚した景虎が立っていた。
 これは何かの夢だろうか。とうに自分は死んでいて、走馬灯でも見ているのだろうか。
 景虎が手を振ると、白い炎が消えていく。そのあとには本物の炎も跡形もない。

「沙苗……無事で……」

 景虎は今にも泣き出しそうな顔をすると、両膝をおる。

「景虎様……? これは夢……?」
「現実だ。沙苗、本当に良かった……」
「どうして」
「木霊たちがお前が危ないと教えに来てくれた」
「み、みんなが……。景虎様、ありがとうございます。やっぱりあなたはすごいお方です……」
「すごいものか! お前を危険な眼に遭わせ、未来の夫として、これほど恥じることはない……」
 すまない、と景虎はその場で額を擦りつけんばかりに土下座をする。
「頭をあげてください! 景虎様は、なにも悪くないじゃないですか……!」
「……許してくれるのか」
「許すも何もありません。何の罪もないのに……」
「ん……んん……」

 薫子が小さく呻いたかと思うと、目を開ける。
 鈍い光を浮かべていた瞳が、見張られた。

「か、怪物!」

 薫子は慌てふためき、景虎から距離を取った。
 そこへ騒がしい足音が聞こえてくる。

「薫子!」
「嘉一郎さん!」

 使用人たちを引き連れた嘉一郎が薫子の元へ駆け寄ろうとする。
 しかし景虎は立ち上るや刀を抜き、その首筋に剣先をあてがう。

「ひ……!」
「動けば、首をとばすぞ。教えろ。どうしてここに沙苗がいるっ! 何をした!」

 嘉一郎がごくりと唾を飲み込む。

「だ、だめ! 傷つけないでください!」

 沙苗は声をあげた。

「かばうのかっ」

 沙苗の頭にはまだあの生々しく残る、先見の記憶があった。

「そんな下らない男のために、あなたが罪を負うのを見たくないだけです!」
「こいつのせいで、お前は死にかけたんだ!」
 こんなにも激高する景虎を見るのは初めてだった。
「たとえそうであっても……景虎様のおかげで生きています! だから……」
「くっ……」

 景虎は不満を露わにしながらも刀を下ろす。
 と、嘉一郎が媚びるような上目遣いで、景虎をうかがう。

「なあ、取引しないか? その女の未来予知の力を使えばお互い、好きなだけ儲けることが……ぐへえ!」

 景虎は、嘉一郎の顔面めがけ拳を叩きつけた。嘉一郎は白目を剥き、鼻血を出して、その場に倒れた。

「嘉一郎さん!? ちょっとあんたたち! その怪物を早くたたきのめしなさいよ! 役立たず! 給料泥棒ぉぉぉぉぉ……!」

 薫子は絶叫するが、使用人たちは景虎が怖くて近づけない。

「……黙れ」

 景虎は薫子の元へ近づくと、その喉元に剣先を突きつける。
 歯の根が合わなくなった薫子ががくがくと体を震わせる。
 喉笛に刀の切っ先が触れると、血が一筋、垂れた。

「ち、血ぃぃぃぃぃ……! 死ぬ! こ、殺されるぅぅぅぅぅぅぅ!」
「黙らないと本当に殺す」
「ひぃ……!」

 薫子は両手で口を塞ぎ、こくこくと頷く。
 景虎は呆然と立ち尽くす使用人たちを一瞥した。

「警察を呼べ」