半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 天華家は代々、優秀な狩人を輩出する名門だ。
 先祖は帝に近侍する大役を任され、あやかし退治だけでなく、身辺警護まで担っていた。
 一族は栄え、日の本一の狩人と呼ばれた。

 それは時代が武士の世から再び帝の統治に戻っても、変わることがなかった。
 この屋敷には天華の家族の他、十人ほどの住み込みの女中、通いを含めればもっと大勢の使用人が働いていた。

 景虎は、天華家待望の嫡男だった。
 二人目の懐妊が分かった瞬間、景虎の父、英真はいくつもの優秀な家門に祈祷までさせたほど。
 新時代を迎えても、天華家の権威も栄華も陰ることがないと、誰からも羨まれる存在だった。

 実際、景虎は将来を嘱望されるだけの強い霊力を持ってうまれた。
 家族中は良かったと思う。祖父母、両親に姉。
 景虎は物心がつく前から父の手ほどきをうけ、己の中の霊力を磨き上げる厳しい修行をおこなった。
 体が傷つくのが当たり前のような修行だったが、決して弱音は吐かなかった。

 それは物心がつくときから教えられてきた、天華家のこの国における役割、そして自分たち狩人の双肩にこの国で生きる人々の命がのっているという責務の重さを、幼いなりに理解していたからでもあった。

 なにより怖ろしいあやかしを前にしても決して怯むことなく、己の一命をなげうっても討伐をする父への憧れ。
 だからどんなに厳しい指導でも耐えられた。でも耐えられたのは憧れだけでなく、猫かわいがりする母と姉がいたから、ということもあったと思う。

 景虎は自分で思うが、かわいげのない子どもだった。大人びていて、子どもらしいところは見た目だけで、滅多に笑わない。
 別の家門の人間たちから大人びていると言われる一方、不気味だと陰口を叩かれていることも知っていた。
 でも母と姉はそんなことなどお構いなく、子どもとして扱ってくれた。
 父は寡黙な人で、家の中でも外でも無駄口を叩くことはなく、必要最低限の言葉しか言わなかった。

 それとは反対に、母や姉はいつも喋っているよう人たちで、景虎が口を挟む余地もないほどだった。そんな明るい女性陣のおかげで、天華家はいつも明るく、温かな空気に包まれ、景虎もその居心地の良さを楽しんでいた。
 厳しい父と、明るい母と姉に囲まれながら、景虎は人間としても狩人としても成長していった。

 天華家の血と、景虎の不断の努力によってわずか十三歳という若年にして、大人顔負けの霊力を発揮し、あやかし討伐も父と共にこなせるようになっていた。
 他の家の者たちと一緒に仕事をする機会も多くなり、他家の次代を担う同年代の少年少女たちと行動を共にすることも多くなったが、彼らを前にして、ぬるいと思うことも少なくなかった。

 どうしてそんな簡単なこともできないのか、どうしてもっと向上心を持って臨めないのか。景虎は決して自分に甘い類いの人間ではなかったが、同年代のぬるさを前に呆れ、自分がいかに優れていたかを自覚してしまった。
 景虎はわずか十五歳にして、一人であやかし討伐を請け負うことになった。
 普通は成人である十八歳を迎えるまでは、あやかし討伐には一族の年長者が同伴につくのが習いだった。

 しかし十五歳にして、十を超えるあやかしの討伐の実戦を経験していた景虎は早く独り立ちがしたかった。
 当代随一の狩人と謳われる父と肩を並べる、いや、それ以上の存在になりたかった。
 さすがは天華家の嫡男だ、と言われたかったし、かつて嘲笑した家門たちを跪かせたいという気持ちもあった。
 父は悩んだ末に、一族の者を後詰めに配置した上で、あやかし討伐を景虎ひとりに任せるという判断をした。

 父の期待を裏切らぬため、万全の準備で景虎は挑んだ。
 あやかしの住処は、帝都から二時間ほど南にいった先にある廃寺。
 一族の者が寺の周囲に結界を張り巡らせ、あやかしを逃がさぬようにすると同時に、少しでも危機に見舞われた時には助太刀に入ろうと構えた。
 景虎の前に現れたのは鬼だった。鬼はあやかしの中でも最上位に入る。

 助けに入ろうとする一族の人間を制し、景虎は鬼と戦った。
 最初は相手が子どもと侮っていたが、数合打ち合っただけで景虎の並々ならぬ力を察したようだった。
 鬼は逃げようとしたが、結界に阻まれ、果たせなかった。
 景虎は鬼の腕や足を斬り刻み、最後にその心臓に刃を突き立てた。
 はじめてのあやかし討伐、それも鬼を無事に討伐することに成功した景虎の武名はますます轟き、帝の耳にもやがて達した。

 景虎は父と共に参内し、帝より直々に言葉をかけられ、褒美を与えられた。
 鬼を討てれば手練れの狩人と言われる世界だ。
 景虎は有頂天だった。
 しかしそれで油断するほど景虎は愚かではなく、ますます場数を踏み、厳しい修行で研鑽に励んだ。
 だが当時の景虎はあやかしがいかに狡猾なのか知らなかった。

 鬼は完全に死んではいなかったのだ。
 復讐の機会を果たそうと、何も知らぬ景虎たちを監視し続けた。
 屋敷には普段から、天華一族に伝わる強力な結界が張り巡らされ、どんなあやかしもその結界を無傷で通ることなできなかった。
 当たり前だが、結界はあくまであやかしのためで、普通の人間が影響を受けることはなかった。

 鬼はそこに目を付け、人になりすまして屋敷に出入りする女中の一人を籠絡した。
 あやかしにとって人間の心を食い物にし、己の意のままに操るのは、呼吸をするのと同じことだった。
 女中の心を虜にした鬼は、その女中に結界を内側より破壊することを命じた。
 女中は自分が何をやらされているか、その結果、どんな災厄が訪れるかさえ、認識してなかっただろう。
 そして惨劇が起こった。
 誰かの悲鳴が屋敷中に響き渡る。

 鬼は一匹ではなかった。景虎に殺されかけた鬼は仲間を語らい、襲撃してきた。
 不意を突かれたことで、一族の者たちは満足に抗うことさえ出来ず、殺されていった。
 寝ぼけ眼の景虎が目の当たりにしたのは、一面の血の海。
 親しかった女中や、庭の手入れをしてくれている下男、子どもの頃に刀の稽古をつけてくれた気のいい一族の青年……見知った顔が虫の息で倒れていた。

 むせかえるような血の臭気に吐き気を覚えながらも、誰か助けられないかと血の海に躊躇なく踏み出す。

『みんな!』
『わ、若様……』

 虫の息の女中や青年が、すがってくる。

『どうか、お助けを……』
『し、死にたくありません……』

 景虎は一人でも多くの人の身体をこの場から連れ出したかった。女中を背中におぶり、両手で男たちを引きずった。人ではなく、まるで重たく冷たい石にでも触れていると錯覚してしまいそうだった。

『景虎、何をしている!』

 必死の形相の父が眼前に現れた。

『父上、みなを助けてください……ま、まだ間に合うかもしれません……っ』

 父の顔が歪む。そんな切なげな顔をする父を見るのははじめてだった。
 父はしゃがむと、景虎が背負い、引きずっている亡骸を手放させていた。
 そうしている間も、屋敷のほうぼうからは戦いの気配を濃厚に感じた。

『景虎、逃げろ』
『いいえ、俺も戦います! 鬼ごときに後れは取りません……!』
『まだ生き残っている者たちがいる! 命を賭けるのなら、その者たちを守るために賭けよ!』

 そこへ鬼が襲いかかってくる。父は景虎を突き飛ばすと、鬼の首をはねた。

『早くいけ!!』

 襲いかかる鬼たち。傷を負いながら、必死に鬼たちを食い止める父。
 景虎は父に背を向けた。それが父を見た最後だった。
 奥座敷には母や姉、かろうじて生き残った女中たちが身を寄せ、震えていた。

『みんな、行こう』

 景虎たちは隠し扉から屋敷の外へ逃げ出した。
 大所帯ではすぐに追いつかれてしまうことを危惧した姉は一部の女中たちを連れ、景虎と別れた。
 景虎は母、残った女中たちをまとめた。
 父がどうなったのか考えたくもなかった。
 景虎は周囲を警戒しながら、いかに父の仇をうつか、そればかり考えていた。

 だから気づけなかった。共に逃げている女中たちの中に、鬼に籠絡された者がいたことに。
 叫び声が聞こえた時に、女中の足元に母が転がっていた。

 みるみる広がる鮮血。
 女中はその時まで自分の身も心も、果ては魂までも鬼に食われていたことに気付いていなかった。

 鬼に魂を食らわれた人は、鬼となる。

『うわああああああああああ……!!』

 それまで培ってきたものなど関係なかった。
 ただ目の前のあやかしを殺す。ただそれだけのためにがむしゃらに刀を振るい、鬼と成り果てた女中を殺した。

『母上! 母上ぇ!』

 景虎は血だまりに倒れる母を抱き上げ、必死に声をかけた。

『……逃げて、あなた、だけ、でも……』
『嫌です。ここにいます。母上と一緒に……』

 血にまみれた母の手が景虎の頬に触れる。その手からこぼれていく温もりを守りたくて、強く握り締めた。しかしどれだけ声をかけても強く握っても、力のなくなった母の目は、景虎を映してくれることはもうなかった。

 呆然とした景虎は、背後に忍び寄ってきた鬼がもう一匹いることに気づけなかった。

『お前が最後だ、小僧』

 頭の中に泥水を注がれるような薄気味悪い声。

『化け物めぇ!』
『お前も、そうだろう。お前は誰も守れぬ。お前が救おうとした。見ろ。お前が手を差し伸べ、守ろうとした人間どもはことごとく死んだ』

 反応する間もなく、景虎は背後から体を貫かれた。

 景虎は血を吐きながら、それでも渾身の一撃で鬼を斬り殺す。
 自分を貫く鬼の腕が灰と化して消えていく。
 片膝をつき、肩で息をする。どくどくと全身を血が巡る音がした。

 ――俺のせいで……傲慢さのせいで、皆が……。

 助けを求められながら、誰も救えなかった。
 景虎は精も根も尽きてその場に倒れた。
 そこで何もかも終わったと思った。

 しかし景虎はなぜか生きていた。
 姉たちの行方は分からなかった。しかし姉が連れて逃げた女中たちが亡くなっていることを考えると、生存は絶望的だと言われた。

 この一件があって以来、他者に触れられることを嫌悪感を覚え、他人と一緒に暮らすことができなくなった。
「――これが、俺の過去だ。不愉快にさせたと思う。全ては俺の思い上がりが発端だ。気味が悪いと思ったのなら正直いってくれ。それで俺から離れたいと思うのは正常な心だ」
「そんなこと、思うはずがありません……!」

 重たい過去を、この広すぎる屋敷の中で一人、抱え込みながら生きて来たのか。
 その辛さや苦しみは、想像することさえできない。
 できないことと理解しながらも、景虎を抱きしめたいという強い気持ちがこみあげる。

「そんな顔をするな。悲しみや苦しみにはもう馴れた。今は、もうあの時のことを思い出して苦しむこともない」
「ですが、それで景虎様の心にできた傷がなくなったわけではありませんよね」
「沙苗……?」

 突然、近づいて来た沙苗に、景虎が目を見開き、距離を取ろうとする。しかし彼の後ろには漆喰の壁があってそれ以上は下がれない。
 壁際に追い詰めるという格好になった景虎に向かって、沙苗は手を伸ばす。
 バチッと火花にも似たものが飛び散り、指先に痛みがはしる。

「やめろ、何をしている!」

 かすかに痛みに顔を歪める。

 ――これくらいだったら大丈夫。

 少し肌がひりっとする程度だ。
 沙苗はじっと景虎の鮮やかな深紅に染まる瞳を見つめる。沙苗は互いの距離を測るように手を動かす。

「ここまでなら……近づけるみたいです。景虎様は触れるのも、触れられるのも、お好きではないのなら、ちょうどいい距離だと思いませんか?」
「沙苗……」
「これは、私たちに許された距離です」

 景虎は触れられたくない。沙苗は触れることができない。
 それでも心細さや寂しさを覚え、人肌を恋しく思う。
 こうしていれば、互いの息遣いや存在を感じられる。

「心の傷が消えることはありません」

 かざぶたにならず、膿もせず、思い出したように痛みつづける。
 幼い頃から周囲から虐げられてきた沙苗には、心の傷がよく分かる。

「触れられなくても、こうして寄り添うことはできますから。景虎様は決して一人ではありません」

 新たな喜びを教えてくれた景虎のためにできることがしたい。

「私がご家族の代わりになるなんておこがましいことはもうしません。それでも、誰かがそばにいてくれることで救われることはあると思います」

 沙苗はにこりと微笑んだ。
 景虎の表情が揺れ、右手が動く。
 今沙苗がそうしたように火花が飛び散らない互いの距離を測るように、掌を近づける。

「お前は不思議だな。そんなことを言ってもらえたのは初めてだ」
「きっと、景虎様の周りにいらっしゃる人たちが強い方々ばかりだからですよ。弱い人間には弱い人間なりの生きぬく知恵があるものです」
「いいや、お前は強い」

 その声はとても優しくて。
 どちらからともなく、笑みがこぼれた。
 そんなささやかな笑み一つで、沙苗の心には少し早めの春風が吹き抜けるように、温かくなる。
 このときめきを知っている。

 ――やっぱり私は、景虎様が好きなんだわ。

 幼い頃の先見で初恋をした時には、その幻想的な姿に、そして、二度目の恋は彼の強さと優しさに触れて。

 ――契約関係としてのつながりだけでも、景虎様と出会えた私は果報者だわ。

「……それにしてもお前は律儀だな。俺の過去のことを聞かされたからと言って、黙っていれば俺には分からなかったのに」
「契約関係であっても夫婦は夫婦。隠し事はするべきではないと思ったんです。もちろん言わなくてもいいことはあるのは分かっております。相手を慮り、想い合うからこそ、話せないことがあったり、胸に秘めなければいけないこともあるとは思うのですが、このことは伝えなければならないことだと思いまして……」

 景虎は小さく息を吐き出す。

「なら、俺も告白しなければならないな。お前に嘘をついていた」
「嘘?」
「お前がうなされていたから心配になったと言ったが、嘘だ。気分が悪そうだったお前を一人にできず、お前が眠ってからずっとここで見ていた。だから、うなされていることにすぐ気づけたんだ」

 沙苗はぱっと距離を取ると、景虎に背中を向けた。

「いきなりどうしたんだ」
「寝顔は無防備なんですよ。それを見ていただなんて、恥ずかしいです……」
「悪かった。もう……」
「しませんか?」
「いや、またするかもな」

 その言葉には笑みが混じっていた。

「うう……景虎様、意地悪です……っ」
「許せ。お前を心配してのことだ」
「そ、それでも……」

 恥ずかしいものは恥ずかしい。

「悪かった。もう眠れ」
「景虎様こそ、もうお休みください。もう大丈夫ですから」
「分かった」

 背中ごしに、景虎が部屋から出て行く気配を感じる。
 自分でもう大丈夫だと言いながら、彼が部屋を出て行くことを寂しく思わずにはいられなかった。

「……明日も早いんだから、ちゃんと眠らないと」

 沙苗は自分に言い聞かせるように呟くと、布団に潜り込んだ。
 しばらくして、襖が開く音が聞こえた。

「景虎様、まだ何か? …………な、なにをしているのですか!?」

 景虎はなぜか布団を抱えて、部屋に入ってくると、沙苗の左隣に布団を敷き始める。

「見れば分かるだろう。眠るんだ」
「そういうことを聞いているのではなくって、どうして私の部屋で……」
「お前が心配だから。それ以上の理由がいるか?」
「もう大丈夫と言ったはずですが……」
「……今日くらい付き添わせてくれ。俺が目を離さなければ、お前が嫌な想いをすることは避けられたんだから」

 そんなことない、と沙苗は口を開こうとするが、景虎は自分の唇に右手の人差し指をそっとあてがう。

「頼む。毎日、共寝をしようというのではない。今晩だけでいい」
「……わ、分かりました」
「ありがとう。おやすみ、沙苗」
「お、おやすみなさい、景虎様」

 とても景虎のほうを見ることはできず、背中を向けたまま、目を閉じる。
 無理矢理にでも眠れと、自分に言い聞かせながら。
 眠れそうにないと思いながら、気付けば、眠っていた。
 木霊たちが体を揺すって起こしてくれる。

「……みんな、おはよう」

 眠い目を擦りながら、ごろんと寝返りを打った。

「おはよう、沙苗」
「! お、おはよう……ご、ございます……」

 今の今まで景虎がいることをすっかり忘れていた沙苗は、ただ挨拶を口にするのがやっとだった。

 ――寝起きなのに、景虎様、いつも通り隙がないわ……。

「あれから、うなされるようなこともなかったから安心した」
「起きておられたんですか?」
「……どうやらお前と一緒に眠るということに、緊張してしまってなかなか寝付けなくてな」

 景虎は柔らかく微笑みまじりに言った。
 そんな何気ない言葉ひとつに、沙苗の胸は高鳴るのだ。

「あ、あの……着替えますので……」
「分かった」

 景虎は起き上がると、折り畳んだ布団を抱え上げ、部屋を出ていく。
 沙苗は口元を綻ばせながら布団から抜け出し、着替える。
 着替えを終えるといつものように朝食とお弁当を作り、軍服姿の景虎を迎える。
 食事を終えると、お茶を出し、三船が迎えに来るまでの時間を過ごす。

 いつもの朝。いつもの日常。
 昨夜のやりとりのおかげか、景虎との距離が近づいているような、そんな気がした。

 沙苗は思いきって口を開く。

「景虎様、仏壇に手をあわさせてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろん」

 景虎は立ち上がり、廊下に出る。沙苗もそのあとに続く。
 部屋の一番奥の仏間。やはりここだけ、他の部屋と空気が違う。
 しんっと空気が張り詰めていて、緊張してしまう。

 景虎が観音扉を開ける。
 そこには亡くなった家族の位牌が収められていた。
 景虎が仏壇の蝋燭にマッチで火をつけてくれる。
 沙苗は線香に火をつけて立てると、手を合わせた。

 ――春辻沙苗と申します。春辻の家から景虎様に嫁ぐために参りました。半妖という立場ではありますが、景虎様のためにできることをしていくつもりです。

 沙苗が下がると、景虎が代わり線香を立てて手を合わせる。
 そこで「お迎えに上がりました」と三船の声が玄関から聞こえた。

 いつものように門前まで見送る。
 景虎は不意に立ち止まると、三船に先に馬車へ行くよう命じる。

「忘れ物ですか?」
「そんなものだ」
「?」

 景虎は右手の掌をそっと差し出してみせる。
 沙苗はにっこりと微笑めば、同じように掌を差し出す。

 触れあうことはない。
 でも確かに、心が接しているようなそんな喜びを覚えた。

「いってくる」
「いってらっしゃいませ」

 景虎を乗せた馬車が見えなくなるまで見送った。

「みんな、今日は何かやらなきゃいけないことってあった?」

 肩の上にのった木霊たちに声をかける。

「あぁ、そうだったわね。お酒や醤油、味噌も少なくなってきたんだった。みんながしっかりしてくれるおかげで、助かっちゃった」

 今日のやるべきことを指折数えながら屋敷へ戻ろうとした時、背後で音がして振り返ると、馬車だった。
 景虎が乗るのとはかなり小振りで、このあたりでは見かけたことがない。

 ――こんな朝早くにお客様?

「あの、申し訳ございません。道を聞きたいのですが、少しよろしいですか?」

 洋装姿の中年男が顔を出す。

「はい。私もこのあたりはそこまで詳しくはないのですが、お役に立てることがありましたら……」
 沙苗が近づいた瞬間、男が腕を掴み、強引に引っ張られる。
「っ!?」

 まさかそんなことになるとは予想もしていなかった沙苗は踏ん張ることもできず、馬車に引きずり込まれてしまう。
 中にはもう一人いた。もう一人は扉を閉めると御者に合図を送った。馬車が動き出す。

 ――駄目!

「な、なにをするんですか! やめて! は、離して下さい!」

 沙苗は必死に足搔き、男たちの手から逃れようとするが、二人がかりで体を押さえつけられてしまう。

「誰か! 誰か助けて……!!」

 口と鼻を塞ぐように柔らかな布を押しつけられる。
 息を吸うと鼻の奥に、ツンッとした刺激臭がなだれこんできた。

 意に反して声から力が失われ、手足にも力が入らなくなる。
 頭の中が靄がかかったように意識が曖昧になり、意識が途絶えた。



 景虎は馬車にのりながら、昨夜のことを思い返す。

 今しがた家を出たばかりなのに、もう沙苗を恋しく思ってしまうことが情けなくも、新鮮な心地だった。
 この年齢で、誰かを恋しく思うこと気持ちになるなんて。

 ――触れられなくても、寄り添うことはできる、か。

 彼女の息遣いを感じられるほどの距離。
 狩人である景虎と、半妖である沙苗に許された、限界の距離。
 重ね合わせることの叶わない掌。それでもあの瞬間、景虎はたしかに、沙苗の手を感じられたような気がした。

「大佐? どうかされましたか?」
「いや……何でもない」
「昨夜のパーティーは……」
「見世物になるために出たんだ。嫌なことを思い出させるな」
「も、申し訳ございません!」

 パーティーの席上で良かったのは、美しい沙苗を見られたこと。それ以外に、得たものなどなにもない。

 沙苗の声を思い出すだけで、胸のあたりが締め付けられるような心地になる。
 仕事など放り出したい気持ちに駆られたのは、はじめてだった。
 全身に吹き付ける熱さで、沙苗は目を覚ます。

 沙苗はぼろぼろの姿だった。
 どうして、こんなぼろぼろの格好なのだろう。

 ――あ、あれ?

 沙苗の頭に疑問が湧き上がる。
 どうして自分の姿を第三者の視点から見ているのだろう、と。
 それから目の当たりにしている光景が現実ではないことに気付く。

 先見を見ているのだ。

 黒煙に咳き込んだ沙苗は、這うようにして建物から出ようとする。

 ――ここは、土蔵?

 まとっていた着物がぼろぼろなのはもちろん、剥き出しになった肌には打撲痕や斬り傷が無数についている。
 髪もぐちゃぐちゃで痛々しくて、未来の自分に何が起こったかなんて考えたくもなかった。
 なのに顔を背けることは許されず、目を閉じることもできない。

 土蔵の中は外から流れ込んでくる黒煙で、視界がきかない。
 着物の袖で鼻と口を押さえ、外へ出た。
 目の前に広がったのは瓦礫の山と、紅蓮の炎。

 無数の人々が真っ黒に焼けて物言わぬ骸になって倒れ、瓦礫がうずたかく積まれている。

 これは一体何の先見なのか。

 ふらふらと頼りない足取りで、沙苗は瓦礫の散乱する中を進んでいった。
 炎で揺らめく視界の中、見慣れた後ろ姿を見た。

 その時、こみあげるのは安堵の気持ち。

「かげとら、様……」

 先見の中で自分がこぼした声はひどく頼りない。
 しかし景虎には届いたようだった。

 右手に刃こぼれした軍刀を構えた景虎は、沙苗を見るなり、笑みを浮かべた。
 瓦礫の山と炎という取り合わせからは考えられないほど優しげな表情。

「良かった、沙苗。無事だったんだな……。待っていろ。今、お前を苦しめる者たちを始末するところだ」
「え?」

 景虎の足元には、薫子。顔を青ざめさせ、沙苗以上にぼろぼろの姿をしていた。

「た、助け……」

 仰向けに倒れている薫子が胸を大きく上下させながら喘ぐ。

「黙れ」

 景虎は薫子の心臓めがけ刀を振り下ろせば、血飛沫がその顔を、髪を、汚す。

「どうして、どうして、こんなこと……」

 沙苗は足下から崩れ落ちてしまう。

 景虎と再会できた喜びはもはや、どこにもない。ただ寒々とした気持ちばかりが心を吹き抜けていく。

「さあ、帰ろう。俺たちの家へ」

 景虎が浮かべた壊れた笑顔を前に、沙苗は恐れを抱いた。



「ん……んん……っ」

 重たい瞼を持ち上げる。
 全身に嫌な汗をかいて気持ち悪い。
 先見の余韻を引きずり、心臓が痛いくらいばくばくと音をたてている。

「こ、ここは……?」

 そこは先見で見た、土蔵の中。
 よろよろと立ち上がった沙苗は扉に手をかけるが、びくともしない。

 ――このままじゃ、あの先見が実現してしまう!

 沙苗はどうにか土蔵から逃れられないか、肩から扉にぶつかっていくが、沙苗の小さな身体はあっという間に弾き飛ばされてしまう。

「おい、静かにしろっ」

 土蔵の扉が開いたかと思えば、男が顔をだす。
 その男は沙苗を馬車に引きずり込んだ人間だ。

「ここから出してくださいっ!」
「うるせえ女だ。おい、旦那様たちを読んで来い」
「旦那様?」

 さっきの先見には、薫子がいた。ということはつまり。

 ――薫子と、その夫の仕業ってこと?

 パーティー会場で沙苗を辱めただけでなく、まだ追い詰めたいのか。
 どうしてそこまでされなければいけないのか。自分が一体、薫子たちに何をしたというのか。

 ――私はただ静かに暮らしたいだけなのに!

 薫子と、その夫、嘉一郎たちが姿を見せる。

「あら、お姉様。お目覚めね。とんでもなく無様! アハハハ!」
「……薫子、お願い。帰らせて……。このことは誰にも言わない……黙ってるから……」
「誰にも言わない? 化け物の分際で! 立場を理解しなさいよね!?」
「落ち着け、薫子。目的を忘れるな」

 嘉一郎がまるで物分かりのいいような顔で、近づいてくる。
 その不気味な笑みに、沙苗は後退ってしまう。

「手荒な真似をしてしまって申し訳ない。乱暴な真似はしないように言っておいたんだが、これだからちんぴらは困る」

 嘉一郎が軽薄な笑みを浮かべた。口元は笑っているが、目は全く笑っていない。

「……何が目的なんですか」
「簡単だ。あなたの力を借りたい」
「わ、私の?」
「薫子から聞いたが、未来予知ができるんだろう。その力を私のために使って欲しいんだ。今後、この社会で何が起こるのかとか、どの会社に投資すればいいのか、とかね」
「本当に未来が分かるのなら、だけど」

 薫子が蔑みの視線を向けてきた。
 どうやら先見というものが、自分の意思で見るものを決められないことを知らならしい。

「……条件があります」
「はあ!? 条件って何様……」
「薫子、落ち着いて。条件ってなんだい?」
「こんな土蔵ではなくて、ちゃんとした部屋に移してください」
「何言ってんの! 化け物なんだから、この土蔵で十分じゃない!」
「薫子」
「……分かったわよ」
「もし、有益な情報を教えてくれるんだったら、いいだろう」
「どこへ投資するのかが知りたいんですよね」

 パーティーで、見知らぬ人たちがしていた会話を思い出す。
 しかしすぐに言っては駄目だ。
 いかにも先見でそれを知ったと振る舞わないといけない。

 沙苗はその場で座ると目を閉じる。

 そしてさも意識を集中しているかのような素振りをする。
 たっぷり時間を取ると、もったいぶるようにゆっくりと目を開けた。

「……見えました」
「教えてくれ」

 嘉一郎は目を輝かせ、前のめりになった。

「さ、三洋に投資すればいい、と……」
「三洋? なぜ」
「……汽船事業に新しく参入しようとしているからです。き、木之元汽船という会社が買収されたはず」

 最初は手妻を前にわくわくする子どものように目を輝かせていた嘉一郎だったが、具体的な名前が出て来たことで、その顔がにわかに真剣みを帯びる。
 薫子が、嘉一郎の洋装の袖を引く。

「今の話は本当なの?」
「……確かに木之元汽船が買収された。だが、買収したのは三洋じゃない」
「じゃあ、でたらめじゃないっ」
「――三洋が、他社に気取られないように秘密裏に進めたかったから、別会社に買収させた、とありました」

 自分でも何を言っているのか理解はしていない。でもパーティー会場で耳にしたことを間違いなく言えているはずだ。あとは偶然、耳にしたこの情報が間違っていないことを祈るしかない。

「詳しく調べよう。他には?」
「……先見は一日に一回が限度なんです。すごく体力を使うので……。お願いです。こんな場所じゃ体力を回復させられません。せめて、ちゃんとした部屋に」
「いいだろう」
「嘉一郎さん、正気なの!?」
「木之元汽船が買収された話を知っているはずがない。つい最近の出来事だ。薫子、君はそのニュースを知ってたかい?」
「知らないわよ、そんなこと」
「三洋という会社は?」
「それは、なんとなく聞いたことがあるけど……」
「女はだいたいそんなもんだろう。仮に経済に関心があったとしても、木之元汽船買収なんて新聞にちらっと出たにすぎない。たしかに、あの買収はきな臭いと思ったんだ。裏に三洋か。たしかに……真実みはある。分かった。部屋へ案内しよう。体を休めて、その調子で明日も先見を頼むよ。もしもっと有益な情報をくれたら、ここから解放しよう」
「ありがとうございます。がんばります」

 嘉一郎の顔には嘘だと書いてある。
 しかしここは従順なふりをする必要がある。

「こっちだ。ついてきて」

 薫子が気に入らなさそうに睨み付けてくるのを、沙苗は背筋を伸ばし、胸を張って、無視して歩き出す。目の端で薫子が今にも噛みつかんばかりに歯ぎしりしそうな顔をしていたが、嘉一郎の手前、何もできないようだった。

 沙苗の身柄は、土蔵から本宅――洋館の三階にある一室へ移された。

「ここでどうかな。寝台もある。机も。食事は?」
「大丈夫です。今は休みたいので」
「じゃあ、また明日。いくぞ、薫子」
「……ええ」

 薫子は嘉一郎と一緒に出ていった。
 窓は一つだけ。開けると、夜風が部屋に入ってくる。ここは三階。窓からの脱出はさすがに無理だ。それを見越してこの部屋に案内したのだろう。

 今し方嘉一郎たちが部屋を出ていく時に見えたが、沙苗を誘拐した男が部屋のすぐ前にいた。見張りだろう。

 窓から見える景色を見る限り、先見で見えたのはここに違いない。
 つまり、あの瓦礫はこの館。燃えていた人々はきっと、この館で働く使用人たち。

 運がいいことに、沙苗の手元には木霊たちがいる。

「みんな、ここを脱出するためにも力を貸して」

 任せろ言わんばかりに木霊たちは自分の胸をたたく。
 心強さに、くすっと笑みがこぼれた。

 景虎の助けがなくても十分、抜け出せる。
 景虎が来なければ、先見で見た悲惨な状況は回避できるはず。

「私は一人じゃないわ」
「なに独り言を言ってるの。気持ち悪いんだけど」

 邪悪な笑みを浮かべた薫子が、部屋に入ってきた。
 沙苗は思わず身構える。

「……私に何かをしたら、嘉一郎さんが怒るわよ」
「嘉一郎さん? 馴れ馴れしいのよ! 多少、痛めつけたところで別にどうってことないでしょ。その髪飾り、綺麗よね。さっきから気になってたの。よこしなさい」
「……これは大切なものなの。あなたなら欲しいものは夫に買ってもらえるでしょう」
「分からない? あんたから奪うのが楽しいのよ! 化け物の分際で逆らうんじゃないわよ!」

 薫子に苦しめられるのはたくさんだ。

「私はもう座敷牢に閉じ込められた時の私じゃない」

 口に出すと、

「あの時のままよ! 化け物!」

 薫子が向かってくる。

「みんな、お願い……!」
「は?」

 その瞬間、部屋中に散らばった木霊たちが体当たりをして、花瓶を割った。

「ひ!」

 薫子が何の前触れもなく割れた花瓶に、声を上げた。
 木霊を認識できない薫子からしたら、勝手に物が動き、壊れていくようにしか見えないだろう。

「奥様、何の音ですか!?」

 物音に監視役の男が洋燈を手に、部屋に飛び込んでくる。男もまた勝手にものが壊れるの様子を目撃して、顔を青くする。
 さらに机が倒れ、家具を動かす。

「や、やっぱり、あんたは化け物だわ!」

 薫子たちは肝を潰しながら部屋を飛び出していく。
 沙苗は悠然と廊下に出る。

「ちょ、ちょっとあんた! 何とかしなさいよ!」

 薫子が男に追いすがる。

「冗談じゃない! 邪魔だ!」

 男から邪険に振り払われるが、薫子はしがみついて離れようとしない。男が苛立ったように薫子を足蹴にした瞬間、その手の燭台が絨毯に落ちた。

 絨毯に引火する。
 炎はたちまち大きくなり、男と、沙苗、薫子の間を分断する。
 たちのぼる黒煙が廊下にたちこめ、視界を奪う。

 木霊たちも元々は木より生まれたあやかしのせいか、炎を恐れ、沙苗にしがみつく。
 沙苗が元来た道を戻ろうとするが、「待ってぇ!」と薫子が情けない声をあげた。

 ――薫子はいたぶるために部屋にきたのよ。助ける必要は……。

 しかしここで見捨てれば、それこそ薫子と同類になってしまう。
 沙苗は薫子の腕を掴んだ。

「ああああああ……!」

 彼女のまとう霊力が、沙苗の手を焼く。無論、痛みは、景虎に触れられた時よりもずっと弱い。それでも痛みは感じ、肌が破れ、血が流れてしまう。
 それでも歯を食いしばり、窓まで引きずっていく。

 ――嫌な女だけど、大嫌いな女だけど、それでも!

 手に痛みが走った。景虎ほど強い霊力がないとはいえ、半妖の身体は傷つけられた。
 それでも腰を抜かした薫子ともども、部屋に避難する。
 薫子から手を離したあと掌を見ると、真っ赤に腫れ上がり、ひりつく。

 ――これくらいだったら大丈夫。

 扉を閉めるが、扉の継ぎ目からは黒煙が入り込んできていた。
 沙苗は窓を開ける。

「助けて……!」

 あらんかぎりの声で叫ぶ。

 火事に気づいた人間たちが、屋敷から逃げ、屋敷を見上げている。
 薫子もまた窓から顔を出し、「助けてぇぇぇぇ!」と泣きべそまじりに絶叫する。

 ――せっかく景虎様の力を借りずに、逃げられるはずだったのに!

 部屋に侵入してくる煙もどんどん濃くなってくる。
 どれだけ沙苗たちが声を上げても、火の勢いが強いせいで、外の人々は屋敷に近づくこともままならない。

「も、もう駄目よ……。おしまいだわ……」

 薫子がその場に崩れ落ちる。
 煙を吸い込みすぎた沙苗は激しく咳き込みながら、その場に崩れた。

「ちょっと、薫子!」

 ぐったりしてしまっている。叫んだ拍子に煙を吸い込んだ沙苗も咳き込んだ。

「みんな、逃げて……」

 自分にすがりつく木霊たちに呼びかける。彼らなら窓から外へ逃げられる。
 彼らは、沙苗と一緒にいると言ってくれるが、甘えるわけにはいかない。

 炎は何もかもを飲み込む。

 それは弱い霊力しか持たぬあやかしも例外ではないのだ。
 彼らは、沙苗にとって人生の恩人。それをこんなところで失うわけにはいかない。

「これまで、ありがとう……ゲホゲホ!」

 窓辺にいる木霊たちは右往左往する。

「みんな!」

 木霊たちがぴくっと動きを止めた。

「お願いだから逃げて……!」

 可哀想だと思いつつ、沙苗は木霊たちを窓の外へ追いやった。
 木霊たちがふわふわと漂いながら、窓の外へ下りていくのを眺め、ずるずると足下から崩れ落ちていく。

 煙を吸いすぎたせいで身体に力が入らない。

 ――……ここで、私……。
 景虎は執務に励んでいた。すでに日が暮れかかる時間帯。
 今頃、沙苗は夕食の準備緒していることだろう。そう、頭の中では沙苗のことばかり考えていた。無論、考え事をしながらでも煩わしい事務作業を処理する動きは変わらない。

 その時、景虎は部屋にあやかしの気配に気づく。
 それもよく親しんだことのある、ものだ。

「三船、悪いが少し休憩する。一人にしてくれないか?」
「わ、分かりました」
 三船は突然の言葉に驚きながらも、そこは出来た秘書。
「では、十分後にまた……」

 頭を下げて部屋を出て行く。
 景虎は背後の窓を開けた。そこにいたのは木霊。

「沙苗のそばにいなくていいのか?」

 木霊たちはじたばたといつも以上に落ち着かないそぶり。
 景虎に対して、懸命に何かを伝えようとしている。

「……沙苗に何かあったのか」

 木霊たちが大きく頷いた。
 血の気が引き、身体が小刻みに震える。

「案内しろっ」

 景虎は窓から外に飛び降りる。二階分くらいならば、無傷で着地できる。
 そのまま執務室を飛び出した景虎は裏手に止められた自動車に向かう。
 ちょうど係の人間が車の清掃をおこなっていた。

「おい、自動車を使うぞ!」
「わ、分かりました!」
「クランクを回せ!」
「は、はいっ」

 係の人間がクランクを回せば、エンジンが動き出す。
 景虎はアクセルをベタ踏みして、敷地を飛び出した。

 冷静に、落ち着けと己に言い聞かせても、鼓動が早くなる。
 ハンドルを握り締める両手がみるみる汗で湿っていった。
 沙苗に危機が迫っていることに、全身がこれまで感じたことがないくらい恐怖と不安に苛まれているのだ。

「沙苗はどこだっ」

 彼らは腕で進むべき方向を示してくれている。
 紅蓮の炎に包まれる洋館が見えてきた。

 ――あそこに沙苗が!?

 景虎は自動車から飛び降りると、館へ向かって駆ける。

「あなた、誰ですか!」
「ここは私有地ですよ!」

 道を阻もうという男たちに「邪魔だ!」と叫ぶ。
 景虎の一睨みで男たちは顔を青ざめさせ、道を空けた。

 唖然として景虎を見つめる人々の中に、嘉一郎の姿を認めた時、何が起こったのかを察した。しかし今は構っている場合ではない。

 ――あいつの処理は後回しだ!

 人々が見上げる方へ眼をやった。そこだけ窓が開いている。

 ――あそこに沙苗か!

 景虎は、炎の渦巻く館内へ突入する。
 紅蓮の炎が天井を階段を、壁を包み込む。

 霊力で編み上げた炎で本物の火を塗り潰し、景虎は崩れかけた階段を駆け上がっていく。

 ――沙苗! 間に合ってくれ!



 メリメリと扉が音をたてて崩れ、緋色の炎が噴き上がった。
 熱風が全身に吹きつけ、肌を焦がす。

 視界が涙でぐちゃぐちゃになり、ぼやける。
 すでに息をすることもままならない。呼吸をすれば肺に熱風が入り込み、むせるだけでうまく呼吸ができない。
 頭の芯がぼやけ、手足の感覚が失われていく。

「かげ、とら、さま……」

 視界がみるみる黒く塗り潰される。
 その時、屋敷が揺れる。
 緋色の炎を圧するように、青白い炎が部屋に雪崩れ込んだ。
 身体に吹き付ける熱波が消え去り、まるで一迅の春風のような穏やかさを感じた。
 そしてその中に、馴染み深い気配が混ざっていることに気づく。

 ――景虎様の、霊力……。

 朦朧としていた意識がゆっくりと覚醒する。
 重たい足音が近づいてくる。
 重たい瞼を開けると、そこに肩で息をし、肌をところどころ黒く汚した景虎が立っていた。
 これは何かの夢だろうか。とうに自分は死んでいて、走馬灯でも見ているのだろうか。
 景虎が手を振ると、白い炎が消えていく。そのあとには本物の炎も跡形もない。

「沙苗……無事で……」

 景虎は今にも泣き出しそうな顔をすると、両膝をおる。

「景虎様……? これは夢……?」
「現実だ。沙苗、本当に良かった……」
「どうして」
「木霊たちがお前が危ないと教えに来てくれた」
「み、みんなが……。景虎様、ありがとうございます。やっぱりあなたはすごいお方です……」
「すごいものか! お前を危険な眼に遭わせ、未来の夫として、これほど恥じることはない……」
 すまない、と景虎はその場で額を擦りつけんばかりに土下座をする。
「頭をあげてください! 景虎様は、なにも悪くないじゃないですか……!」
「……許してくれるのか」
「許すも何もありません。何の罪もないのに……」
「ん……んん……」

 薫子が小さく呻いたかと思うと、目を開ける。
 鈍い光を浮かべていた瞳が、見張られた。

「か、怪物!」

 薫子は慌てふためき、景虎から距離を取った。
 そこへ騒がしい足音が聞こえてくる。

「薫子!」
「嘉一郎さん!」

 使用人たちを引き連れた嘉一郎が薫子の元へ駆け寄ろうとする。
 しかし景虎は立ち上るや刀を抜き、その首筋に剣先をあてがう。

「ひ……!」
「動けば、首をとばすぞ。教えろ。どうしてここに沙苗がいるっ! 何をした!」

 嘉一郎がごくりと唾を飲み込む。

「だ、だめ! 傷つけないでください!」

 沙苗は声をあげた。

「かばうのかっ」

 沙苗の頭にはまだあの生々しく残る、先見の記憶があった。

「そんな下らない男のために、あなたが罪を負うのを見たくないだけです!」
「こいつのせいで、お前は死にかけたんだ!」
 こんなにも激高する景虎を見るのは初めてだった。
「たとえそうであっても……景虎様のおかげで生きています! だから……」
「くっ……」

 景虎は不満を露わにしながらも刀を下ろす。
 と、嘉一郎が媚びるような上目遣いで、景虎をうかがう。

「なあ、取引しないか? その女の未来予知の力を使えばお互い、好きなだけ儲けることが……ぐへえ!」

 景虎は、嘉一郎の顔面めがけ拳を叩きつけた。嘉一郎は白目を剥き、鼻血を出して、その場に倒れた。

「嘉一郎さん!? ちょっとあんたたち! その怪物を早くたたきのめしなさいよ! 役立たず! 給料泥棒ぉぉぉぉぉ……!」

 薫子は絶叫するが、使用人たちは景虎が怖くて近づけない。

「……黙れ」

 景虎は薫子の元へ近づくと、その喉元に剣先を突きつける。
 歯の根が合わなくなった薫子ががくがくと体を震わせる。
 喉笛に刀の切っ先が触れると、血が一筋、垂れた。

「ち、血ぃぃぃぃぃ……! 死ぬ! こ、殺されるぅぅぅぅぅぅぅ!」
「黙らないと本当に殺す」
「ひぃ……!」

 薫子は両手で口を塞ぎ、こくこくと頷く。
 景虎は呆然と立ち尽くす使用人たちを一瞥した。

「警察を呼べ」
 それからはめまぐるしく時がすぎていった。
 沙苗は警察に、自分の身に何が起こったのかを全て打ち明けた。
 事情を聞かれる間中、終始、景虎が片時も離れずにいてくれたお陰で冷静に答えることができ、すぐに帰宅が許された。

 それから間もなく、嘉一郎と薫子が逮捕されたという報告を受けた。
 二人は何も知らない、勝手に沙苗が屋敷にやってきたんだとこの期に及んで白を切っていたようだ。しかし金で雇われた男たちが、自分たちがとんでもない人間の婚約者に手を出したことを知り、全てを打ち明けたらしい。
 こうして沙苗にもいつも通りの日常が戻ってくる――かに見えた。

 事件から数日後の昼下がりのこと。

「あ、あの……景虎様」
「どうした?」
「水汲みは私ができますから」
「遠慮するな」
「いえ、遠慮というわけではなくて……」

 景虎は井戸水を汲み上げると、それを桶へ入れる。たっぷり入れると、片手で軽々と持ち上げ、屋敷へ運んでくれる。力仕事を代わりにしてくれるのは、沙苗としてもとてもありがたい。

 しかし。

「掃除は私の仕事ですので、どうか書斎でご自分のことを……」

 景虎は桶の水で雑巾をきつく絞る。

「ここからそこまで、雑巾で拭けばいいんだろう」
「そ、そうです。そういう雑用は私が……」
「ここは俺に任せて、お前は休んでいろ。あんなことがあった後なんだからな」

 景虎は今、特別休暇を取っていた。
 沙苗が事件に巻き込まれたことに誰より責任を感じているのは景虎だ。
 自分が沙苗を一人きりにしていたせいだ、と。

 こうして片時も沙苗と離れず、家事のあれやこれやを手伝ってくれている。
 寝る時も心配だからと今では一緒の部屋で眠ることが当たり前になっていた。
 さすがにそこまでしなくてもと思うのだが、景虎は頑として譲らなかった。

「で、でしたら、庭の草むしりをお願いできますか? 拭き掃除は私でもできますので!」

 草の生え放題になっている庭を示す。

「根っこがかなり深くまで張っているせいで頑固なんです」
「これだったら簡単だ」

 景虎は霊力で生み出した炎の威力を微調整し、雑草だけを焼いた。
 霊力で生み出した炎は普通の火とは違う。炎のように見えるが、霊力の塊。
 みるみる雑草は景虎の霊力に生命力を蝕まれ、枯れていく。
 雑草があっという間になくなり、広々とした空間ができあがった。

「こんなに簡単にできるものなんですか……。でしたら、もっと早くにやっていただけたら良かったです……」
「この庭は何に使うんだ?」
「花でも植えられたら綺麗だなって思っています。お屋敷は色が少ないので。これからの季節、色々な花がありますし。綺麗な花があったら素敵だなって」

 景虎はにこりと薄く笑う。

「それは楽しみだ」
「!」

 あの事件以降、景虎が過保護になっただけではない。こうして笑いかけてくれることが多くなった。

 ――本当に、どうして景虎様は私を勘違いさせるような笑顔を見せるんですか!

 そんな笑顔を見せられたら、もしかしたら景虎は自分が好きなのかもしれないと勘違いしてしまいたくなるのに。

 今の沙苗がどれほど彼の表情ひとつに翻弄されているか、景虎はどこまで理解してくれているのだろう。

 もちろん真面目な景虎だから、沙苗の心を弄んでいるはずもないが、その可能性をわずかでも疑いたくなる。

「ここは片付いたな。次は買い物か?」
「あ、大根とにんじんを後で買おうかと……」
「分かった。ならあとで一緒に行こう。それまでに掃除を終わらせておく」
「で、ですから、掃除は私が!」
「お前は茶を飲んで、読み書きの練習をしていろ」

 一緒にいる時間が増えたことで、つきっきりで文字の読み書きの勉強も教わっていた。

 今では平仮名、片仮名、簡単な漢字は書けるようになっていたし、難しい漢字も読めるようになっていた。少なくとも外へ出かけたりした際に文字が読めなくて困るということはだいぶ減っている。

 まだまだ人に見せられるほど書きのほうはうまくはないが、何も知らなかった状況を考えれば、大きな進歩だ。

「このままでは私、穀潰しに……」
「穀潰し? 何の冗談だ? お前はたとえ何もしていなくても穀潰しだなんてありえない。お前がいてくれるだけで、俺がどれだけ嬉しいか」
「う、嬉しいだなんて……」
「当たり前のことを言ったまでだ。とにかく俺が屋敷にいる間だけでも力仕事は任せてくれ」
「……わ、分かりました」

 そこへ、「ごめんくださいっ」と男性の声が玄関から聞こえてきた。

「私、見てきますね」
「待て」

 景虎はすぐそばにおいてあった刀を手に取る。

「行こう」
「そこまで警戒しなくても」
「一度誘拐されたんだぞ。用心するに越したことはない」
「……はい」

 強く言われてしまえば、受け入れるしかなかった。
 玄関に向かうと、身なりのしっかりした中年男性が立ってた。男性は山高帽を取ると、深々と頭を下げてきた。

「……勅使、か」

 景虎が呟く。

「あ、帝の……!」

 沙苗は三つ指をつく。

「ど、どうぞ、お上がり下さい」

 広間へ勅使を案内する。
 勅使は景虎に対して用事があるようで、沙苗は別の部屋で待つことになった。
 十分ほどで勅使が部屋から出てくると、景虎と一緒に見送る。

「景虎様、勅使の方はどのような用事だったのですか?」
「……正式な処罰が決定した」
「薫子たちに、ですか?」
「違う。お前の実家へ、だ」
「は、春辻の?」
「帝は、お前が誘拐された事件でひどく胸を痛められている」
「帝が!? 一度もお会いしたことがないのに……」
「だが、俺とお前の婚約は勅命によってなされた。帝としてはお前を帝都へ呼んだのは自分の責任だと思われている」
「そんなこと! 悪いのは全部、薫子たちですのに……」
「帝はそういう御方なのだ。ついては処罰は薫子や嘉一郎だけにとどまらず、春辻の家そのものに及ぶようだ」

 春辻。その家名があまりに遠くに感じる。自分の家という認識はくなっていた。

「春辻の里まで向かい、処分の実行を見届けよ、との勅命だ。俺は今、お前をここに一人で残すことも、誰かに託すこともできない……だから」
「……私も一緒に春辻の里へ行く、ということですね」
「ずっと自動車にいてくれればいい。あとは俺が」

 沙苗は首を横に振った。

「私なら大丈夫です。私も処分というのを見届けさせてください」
「お前がそういうのなら」

 ――春辻の里へ帰るのね……。

 きっと嫌な眼に遭うことだろう。それでも今の沙苗なら怖れることなく、両親と面と向かって会えることができる。そんな気がした。
 翌日、係官たちと一緒に沙苗たちは帝都を出立し、春辻の里に向かった。
 およそ二ヶ月前に離れた里に再び戻る。
 あの時は半妖であることがばれないだろうかという不安と、あの家を出られたという開放感を抱き、生まれ故郷を後にした。
 今は身も心も穏やか。
 恐怖の対象だったはずの里へ向かうことに対して、ひるむこともない。
 景虎がすぐそばにいてくれるというだけではない。
 都で多くの経験をし、沙苗は確実に強くなっていた。

 煉瓦造りの建物がなくなり、山や田園風景が目につくようになる。
 空気感も変わる。
 里に戻ってきて良かったと思うのは、綺麗な空気と、自然の豊かさくらい。
 自動車が実家の前に止まった。
 ずっと閉じ込められ続けて来た、忌まわしい離れが庭の奥にちらっと見えた。

 ――うちってこんなに小さかったんだ。

 帝都の建物に馴れたせいだろうか。ふとそんな感想を抱いた。

「大丈夫か?」
「はい」

 景虎は係官たちを待たせると、沙苗と一緒に肩を並べて屋敷へ入る。
 扉を叩くと、何も知らぬ使用人が「いらっしゃませ」と出迎え、景虎と沙苗を前に、深々と頭を下げる。

「どのようなご用件でしょうか」
「家政に会いに来た。いるか?」
「どちらさまでしょうか」
「都から重要な知らせを届けに来た」
「わ、分かりました」

 使用人に客間に通されると、「すぐに呼んで参りますと」と使用人は席を外す。

 ――私がいるのに、眉ひとつしかめなかった……。

 あの使用人はずっと、沙苗に嫌がらせをしてきた。それなのに、今日は沙苗にも笑顔を見せた。
 まさか、たった二ヶ月で沙苗の顔を忘れたということはないだろうが。
 嵐の前の静けさのようで、沙苗はかすかな戸惑いを覚えつつ、客間で家政たちを待つ。

 しばらく待っていると、忙しない足音と一緒に家政、そして八重が入ってきた。
 家政は憔悴のせいか顔が青白く、体も一回りは痩せたように思えた。一方の八重は目をつり上げ、景虎を睨み付けた。

「うちの娘と百瀬さんが逮捕されたなんてどういうことなの! どうせ、あの半妖が嘘をついているに決まっているわ!!」
「座れ。立っていられては落ち着いて話もできない」

 激昂する八重に対して、景虎は冷静に応じる。
 家政からも「座りなさい」と言われ、八重は景虎を睨み付けながら座る。

「……それで、そちらの方は一体どなたなの?」

 ――え?

 八重の言葉に、沙苗は虚を突かれてしまう。

「分からないのか?」

 景虎もかすかに驚いている。

「どういうこと?」

 沙苗をじっと見つめていた家政の顔が変わる。

「……まさか、さ、沙苗、か?」
「はあ!?」

 八重が目を剥く。
 沙苗は背筋を伸ばし、胸を張ったまま、「お久しぶりで御座います、お父様、八重さん」と告げた。

「う、嘘でしょ……あの、ボロボロで汚らしかった娘が……?」

 なるほど。さっきの使用人も、沙苗だと分からなかったからあれほど愛想が良かったのか。

「あ、あんた! よくも顔を出せたわねええ! この化け物めぇ!」

 掴みかかろうとするが、すかさず景虎が庇ってくれる。

「それ以上、近づいてみろ。ただではおかないぞ」

 声そのものは淡々としていながら、殺気を秘めた眼差しに射竦められ、八重は「ひ……」と喉奥から悲鳴を漏らす。

 家政はまだ信じられないという顔で沙苗を見ながら、「今度のことは何かの間違いなんだろう。あの子が、お前を誘拐するなんてありえないっ」と言う。
 親馬鹿というか、その愚かさに、沙苗は溜め息を禁じ得なかった。

「この期に及んでもあんなひどい人をかばおうとなさるんですね」
「かばうもなにも、姉妹じゃないか……。なんとか助けてやらないのか」
「私を誘拐した人ですよ。とても許せません。それに、向こうは私と姉妹だと言われるのは我慢ならないと思います」

 八重は我慢できというように叫ぶ。

「景虎さん! あなたの婚約者はね、化け物なんですよ! 半分、あやかしの血が流れているのですよ!? この女は、あなたに嘘をついているんですよ!!」
「知っている」
「は?」
「沙苗が半妖だと知っている、と言ったんだ」
「な、なによそれ! それでも一緒にいる!? き、気持ち悪い! あんた、頭がおかしいわ! 異常よ!」
「お前たちには、沙苗の価値が分からないのだな」

 金切り声を上げ続ける八重に呆れかえったのか、景虎はため息をこぼす。

「本題に入る。帝におかれては、こたびの一件により、春辻の家そのものを処罰する命を出された」

 景虎は懐から出した菊のご紋が染め抜かれた命令書を突きつけた。

「ちょ、勅命……?」

 家政は震える手で、その命令書を受け取る。

「土地家屋はすべて没収となり、お前たちも拘束される。今日、俺たちが来たのはそれを見届けるため。沙苗、行こう」
「はい」

 景虎に従い、立ち上がった。命令を受け取った家政は呆然としてぴくりとも動かず、八重は顔を赤黒く変色させた。

「冗談じゃないわよ!」

 八重が今だこりずに景虎に掴みかかろうとしてくる。
 沙苗が立ちふさがる。

「邪魔よ、化け物ぉぉぉぉぉぉ!」

 沙苗は迷うことなく、八重の頬めがけ平手を見舞った。

「っ!」
「いい加減にして。これ以上、春辻の家名に傷をつけるような真似はやめてください」
「化け物に触られた! いやああああああ……!!」
「沙苗、お前というやつは! 親に手をあげるとはぁ!」

 父が怒りに声を上擦らせた。

「……私はずっと、この家であなたたちに虐げられてきました。それをもう忘れてしまったのですか?」
「……あ、あれは……虐げるなどと……春辻家の名誉を守るためで……」
「遅かったですね。あなたがするべきだったのは、私を虐げるのではなく、薫子へ真っ当な教育をほどこすこと、でした。もう何もかも遅すぎますが……」

 八重の壊れたような声を背に、沙苗たちは屋敷を出た。

 ――もっとすっきりするかと思ったけど……。

 拍子抜けするほど何も感じなかったことに、驚いてしまう。
 これまで手も足も出なかった相手だ。
 それに一糸報いたのだから胸がすくかと思った。
 しかし沙苗の胸には何の感慨も湧くことがない。
 文字通り、何も感じなかった。

 ――もう私は春辻の家に対して何のこだわりも、何の思いもない、ということなのね。

 外に出ると、景虎は外で待っていた係官たちに頷く。係官たちは母屋へどんどん入って行った。

「沙苗……」

 景虎は言いにくそうに口ごもる。
 虐げられた、という言葉を聞きたいのだろう。

「……付き合ってくれますか?」
「お前が行く場所ならどこへでも」
「そんな大層な場所じゃありません」

 沙苗は庭を横切り、日の当たらない場所にぽつねんと立てられた離れへ向かう。そこにもすでに係官が何人か入り込んでいる。

 忌まわしい場所。
 竹で作られた格子のはまった丸窓に胸が締め付けられる。
 足がすくみそうになるのをこらえ、離れへ向かう。

「ここは? 使用人が使っていたのか?」
「いいえ。ここで私は育ちました」

 景虎の目がかすかに見開かれた。

「悪いが、少し二人きりにしてくれないか」

 景虎は係官たちに告げる。
 出ていく係官たちと入れ違いに中に入る。古ぼけた台所、一日を通して日が当たらないせいで、じめっとした湿気が肌に絡みついてきた。

 何もかもが、出ていった時のまま。
 いや、今では誰も使うような人間がいないせいか、そこかしこに埃がたまり、汚れがひどく目立っている。

 ――こんなに狭かったんだ……。

 天華家の屋敷になれすぎてしまったせいか、余計にそう思う。
 板張りの床がギシギシと軋むのを足裏で感じながら奥へ向かう。

「……座敷牢」

 景虎がぽつりと呟く。
 何もかも、あの頃のまま。
 漆喰壁の汚れも、ひび割れも、ところどころ腐食した床板も、何もかも。

「ここに、私はいました」

 無人の座敷牢を見ながら、沙苗は言った。

「……いつから」
「物心がついてから、です。あの日、パーティーから帰った時、ここに入っていた時の夢をみたんです」
「……今すぐ、あいつらを殺してやりたい」

 冷え切った声で、景虎は言った。
 刀の柄に手がかかっている。今、目の前に両親がいれば、景虎は迷いなく殺していただろう。

「殺す価値もありません。あんな人たちのせいで、景虎様の手が汚れるほうが、私には耐えがたい……」

 座敷牢の扉を押すと、軋みながら扉が開いた。
 入る気にはもちろんなれない。

「ここも更地になるんですよね」
「そうだ」
「それなら、良かったです」

 沙苗はにこりと微笑んだ。

「……行きましょう」

 離れを出ると、里の人間たちが騒ぎを聞きつけて集まってきていた。
 彼らの視線の先には、係官によって拘引される家政たち。

「あの人たちはどうなるんですか?」
「身柄を他家に預けられて軟禁状態におかれる。ある程度時が経てば解放されることになるだろうが、あの離れを見て気が変わった。一生解放されないよう手を回す。お前が二度と、あいつらに会わぬように」
「ありがとうございます。もう一つだけ行きたいところにいかせてもらってもいいですか。ただ、その場所が分からなくて」
「場所が分からないのに、行きたいのか?」
「……生みの母のお墓に一度でいいので、参りたいんです」
「あやかしに襲われて亡くなられた、という……」
「はい」

 景虎は係官に命じ、使用人をひとり連れてくるよう言った。
 びくびくしながら使用人が近づいてくる。上目遣いで沙苗たちの様子を窺う。

 沙苗が目を合わせると、恥じるように目を伏せた。
 さんざん沙苗に悪態をつき、いびってきた世話係。
 沙苗は、じっと見つめる。

「母の墓にいきたいの。場所を教えて」
「こ、この畦道をまっすぐ上っていった先の二股道を右下。その先に……」
「ありがとう」

 沙苗は言われた通り、道を進んでいく。途中で野花をいくつか積んだ。
 道の先に、お墓が見えてきた。小さな里で、決してお墓の数は多くはない。
 お陰ですぐに母の墓は見つかった。
 春辻家の墓とは別に、操の墓が別に建てられていた。

 ――これだけは父に感謝するべきかもしれないわね。

 墓前に花をそなえ、手を合わせる。

 ――お母様、私は今とても幸せです。こちらにいらっしゃる景虎様と一緒にいられ
ることが私の幸せです。景虎様は私の全てを受け入れた上で、大切にしてくださっています。

 顔を上げた沙苗は溌剌とした笑顔を向ける。

「お母様、また来ます」
 沙苗が目が覚めると、木霊たちがわらわらと集まってくる。

「みんなぁ、おはよぉ……」

 彼らの頭を優しく撫でながら、眠い目を擦りながら起き上がった。

「おはよう、沙苗」
「! お、おはようございます、景虎様」

 景虎と一つの部屋で布団を並べて眠るようになってからおよそ一ヶ月が経とうとしているが、いまだにこうして声をかけられることには馴れない。

 なぜか景虎は、沙苗が何時に起きても、いつも一足早く目を覚ましているのだ。

「景虎様、ちゃんと眠っておられますか?」
「当然だ。どうして?」
「いつも私よりも早く起きているようなので……寝不足になっていないのか、心配なんです」
「安心しろ。お前より少し早めに目が覚めてしまうだけだ」
「お仕事のほうは?」
「明日から、だな。まったく……

 景虎は不満そうだ。

「お嫌なのですか?」
「都の人々を守ることが嫌なんじゃない。お前を残すことが心配なんだ」
「……使用人を雇うとこの間、仰っていらっしゃいましたよね……?」
「また前回のようなことはあっては困るからな。それに、お前も広い屋敷に一人でいるより、誰かが一緒にいたほうがいいだろう」
「はい」

 景虎が優しく微笑みかけてくれる。

「昼頃、出かけないか?」
「いいですね。温かくなってきましたし、お出かけ日和だと思います。あ、お弁当を作りましょうか」
「頼む」

 沙苗は布団から出た。

「どこへ行く?」
「朝食の支度です。できましたらお呼びいたしますので、休んでいてくださいね」

 沙苗は頭をさげ、別室に移動して着替える。
 そして着物に着替えて廊下に出ると、すっかり浴衣から着物に着替えた景虎がほとんど同時に出てくる。

「休んでいてくださいと言ったのに……」
「眠たくもないのに眠る必要はないだろう。それに、家にいる時は、可能なかぎりお前を守っていたい」
「……わ、分かりました」

 景虎の優しさがくすぐったい。

 ――仕事がはじまったら、こういうこともなくなるのよね。……なくなったらなくなったで、景虎様がいてくれないことが寂しくなるんだから。
 朝食と、お弁当の用意をする。
 食事を終えて少し腹ごなしをし、昼時になったら景虎の運転で出かけた。
 沙苗は膝に包んだお弁当をのせながら、春の風が髪を撫でるのを感じる。
 長い冬が終わり、温かな日射しと風が、次の季節を帝都へもたらす。
 街も鮮やかさを増しているような気がした。

 そこは、いつかやってきた河川敷。

「あ……!」

 桜の並木が、桃色や白の大輪の花びらを咲かせていた。

「こ、これ、桜ですよね!?」

 沙苗は大きな声をあげてはしゃいでしまう。
 これがずっと、木霊たちから話に聞いていた桜。

 ――なんて綺麗なんだろう!

 まるでピンク色の雲だ。ふかふかしてそうで、夢の世界に迷い込んだと錯覚してしまいそうになる。
 あまりのうれしさに胸が熱くなった。

「景虎様、見て下さい! 綺麗ですよ!」
「ああ、見えてる」
「……す、すみません。はしゃいでしまって」

 景虎に苦笑され、耳まで熱くして身を縮こまらせる。

「いや、それだけ喜んでくれるのなら、来た甲斐があった」

 景虎は路肩に自動車を止めると、下りた。
 風が吹き、桜の花びらが吹き散らされる。見事な花吹雪に、沙苗はますます目を輝かせた。
 花びらで川が桃色に染まっている。

 景虎が少し前を行き、体が触れあわないよう細心の注意を払いながら土手を歩く。
 沙苗たち以外にも大勢の人々が、見事な桜並木を目当てに集まっている。
 世界はこんなにも色で溢れている。

 ――はじめて桜を見られたのが、景虎様と一緒の時で良かった。

 桃色の花びらの舞い散る下、景虎が桜の木を見上げる。

「このあたりで食事にしよう」

 景虎は少し大きめの手巾を取り出すと、土手に敷く。

「あ、ありがとうございます」

 包みを開き、お弁当を食べる。
 特別でもなんでもないありきたりの料理だけど、景虎と一緒に食べているだけで胸がいっぱいになる。

 沙苗と景虎の関係が仮初めだったとしても、こうして過ごす時間は偽りではない。
 舞い落ちた花びらが、景虎の髪にくっつく。

「景虎様、髪に……」
「そうか」

 景虎は髪に付いた花びらをそっと取り、それから沙苗を見つめる。

「お前の頭にもついている」
「あ、本当ですね」

 景虎が教えてくれた場所に手をやると、しっとりとみずみずしい花びらをつまんだ。
 辺りを見回すと、夫婦や恋人どうしだろうか、そこかしこで沙苗たちと同じように花見を楽しんでいる.。

 彼らは体を触れあわせ、手を繋いでいる。
 沙苗と景虎の間にある距離を客観的に見れば、仲睦まじいとは思えないかもしれない。
 でもこの距離こそ、沙苗と景虎が互いを想いやっている証。

 沙苗は景虎を仰ぎ、その美しい顔立ちは柔らかく緩んでいる姿をしっかり目に焼き付ける。

「どうかしたか?」
「景虎様。私、とても幸せです」

 景虎ははっとし、それから微笑んでくれる。

「沙苗が幸せなら、俺は嬉しい」

 二人は笑みをかわした。

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