半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 眠れそうにないと思いながら、気付けば、眠っていた。
 木霊たちが体を揺すって起こしてくれる。

「……みんな、おはよう」

 眠い目を擦りながら、ごろんと寝返りを打った。

「おはよう、沙苗」
「! お、おはよう……ご、ございます……」

 今の今まで景虎がいることをすっかり忘れていた沙苗は、ただ挨拶を口にするのがやっとだった。

 ――寝起きなのに、景虎様、いつも通り隙がないわ……。

「あれから、うなされるようなこともなかったから安心した」
「起きておられたんですか?」
「……どうやらお前と一緒に眠るということに、緊張してしまってなかなか寝付けなくてな」

 景虎は柔らかく微笑みまじりに言った。
 そんな何気ない言葉ひとつに、沙苗の胸は高鳴るのだ。

「あ、あの……着替えますので……」
「分かった」

 景虎は起き上がると、折り畳んだ布団を抱え上げ、部屋を出ていく。
 沙苗は口元を綻ばせながら布団から抜け出し、着替える。
 着替えを終えるといつものように朝食とお弁当を作り、軍服姿の景虎を迎える。
 食事を終えると、お茶を出し、三船が迎えに来るまでの時間を過ごす。

 いつもの朝。いつもの日常。
 昨夜のやりとりのおかげか、景虎との距離が近づいているような、そんな気がした。

 沙苗は思いきって口を開く。

「景虎様、仏壇に手をあわさせてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろん」

 景虎は立ち上がり、廊下に出る。沙苗もそのあとに続く。
 部屋の一番奥の仏間。やはりここだけ、他の部屋と空気が違う。
 しんっと空気が張り詰めていて、緊張してしまう。

 景虎が観音扉を開ける。
 そこには亡くなった家族の位牌が収められていた。
 景虎が仏壇の蝋燭にマッチで火をつけてくれる。
 沙苗は線香に火をつけて立てると、手を合わせた。

 ――春辻沙苗と申します。春辻の家から景虎様に嫁ぐために参りました。半妖という立場ではありますが、景虎様のためにできることをしていくつもりです。

 沙苗が下がると、景虎が代わり線香を立てて手を合わせる。
 そこで「お迎えに上がりました」と三船の声が玄関から聞こえた。

 いつものように門前まで見送る。
 景虎は不意に立ち止まると、三船に先に馬車へ行くよう命じる。

「忘れ物ですか?」
「そんなものだ」
「?」

 景虎は右手の掌をそっと差し出してみせる。
 沙苗はにっこりと微笑めば、同じように掌を差し出す。

 触れあうことはない。
 でも確かに、心が接しているようなそんな喜びを覚えた。

「いってくる」
「いってらっしゃいませ」

 景虎を乗せた馬車が見えなくなるまで見送った。

「みんな、今日は何かやらなきゃいけないことってあった?」

 肩の上にのった木霊たちに声をかける。

「あぁ、そうだったわね。お酒や醤油、味噌も少なくなってきたんだった。みんながしっかりしてくれるおかげで、助かっちゃった」

 今日のやるべきことを指折数えながら屋敷へ戻ろうとした時、背後で音がして振り返ると、馬車だった。
 景虎が乗るのとはかなり小振りで、このあたりでは見かけたことがない。

 ――こんな朝早くにお客様?

「あの、申し訳ございません。道を聞きたいのですが、少しよろしいですか?」

 洋装姿の中年男が顔を出す。

「はい。私もこのあたりはそこまで詳しくはないのですが、お役に立てることがありましたら……」
 沙苗が近づいた瞬間、男が腕を掴み、強引に引っ張られる。
「っ!?」

 まさかそんなことになるとは予想もしていなかった沙苗は踏ん張ることもできず、馬車に引きずり込まれてしまう。
 中にはもう一人いた。もう一人は扉を閉めると御者に合図を送った。馬車が動き出す。

 ――駄目!

「な、なにをするんですか! やめて! は、離して下さい!」

 沙苗は必死に足搔き、男たちの手から逃れようとするが、二人がかりで体を押さえつけられてしまう。

「誰か! 誰か助けて……!!」

 口と鼻を塞ぐように柔らかな布を押しつけられる。
 息を吸うと鼻の奥に、ツンッとした刺激臭がなだれこんできた。

 意に反して声から力が失われ、手足にも力が入らなくなる。
 頭の中が靄がかかったように意識が曖昧になり、意識が途絶えた。



 景虎は馬車にのりながら、昨夜のことを思い返す。

 今しがた家を出たばかりなのに、もう沙苗を恋しく思ってしまうことが情けなくも、新鮮な心地だった。
 この年齢で、誰かを恋しく思うこと気持ちになるなんて。

 ――触れられなくても、寄り添うことはできる、か。

 彼女の息遣いを感じられるほどの距離。
 狩人である景虎と、半妖である沙苗に許された、限界の距離。
 重ね合わせることの叶わない掌。それでもあの瞬間、景虎はたしかに、沙苗の手を感じられたような気がした。

「大佐? どうかされましたか?」
「いや……何でもない」
「昨夜のパーティーは……」
「見世物になるために出たんだ。嫌なことを思い出させるな」
「も、申し訳ございません!」

 パーティーの席上で良かったのは、美しい沙苗を見られたこと。それ以外に、得たものなどなにもない。

 沙苗の声を思い出すだけで、胸のあたりが締め付けられるような心地になる。
 仕事など放り出したい気持ちに駆られたのは、はじめてだった。