「――これが、俺の過去だ。不愉快にさせたと思う。全ては俺の思い上がりが発端だ。気味が悪いと思ったのなら正直いってくれ。それで俺から離れたいと思うのは正常な心だ」
「そんなこと、思うはずがありません……!」

 重たい過去を、この広すぎる屋敷の中で一人、抱え込みながら生きて来たのか。
 その辛さや苦しみは、想像することさえできない。
 できないことと理解しながらも、景虎を抱きしめたいという強い気持ちがこみあげる。

「そんな顔をするな。悲しみや苦しみにはもう馴れた。今は、もうあの時のことを思い出して苦しむこともない」
「ですが、それで景虎様の心にできた傷がなくなったわけではありませんよね」
「沙苗……?」

 突然、近づいて来た沙苗に、景虎が目を見開き、距離を取ろうとする。しかし彼の後ろには漆喰の壁があってそれ以上は下がれない。
 壁際に追い詰めるという格好になった景虎に向かって、沙苗は手を伸ばす。
 バチッと火花にも似たものが飛び散り、指先に痛みがはしる。

「やめろ、何をしている!」

 かすかに痛みに顔を歪める。

 ――これくらいだったら大丈夫。

 少し肌がひりっとする程度だ。
 沙苗はじっと景虎の鮮やかな深紅に染まる瞳を見つめる。沙苗は互いの距離を測るように手を動かす。

「ここまでなら……近づけるみたいです。景虎様は触れるのも、触れられるのも、お好きではないのなら、ちょうどいい距離だと思いませんか?」
「沙苗……」
「これは、私たちに許された距離です」

 景虎は触れられたくない。沙苗は触れることができない。
 それでも心細さや寂しさを覚え、人肌を恋しく思う。
 こうしていれば、互いの息遣いや存在を感じられる。

「心の傷が消えることはありません」

 かざぶたにならず、膿もせず、思い出したように痛みつづける。
 幼い頃から周囲から虐げられてきた沙苗には、心の傷がよく分かる。

「触れられなくても、こうして寄り添うことはできますから。景虎様は決して一人ではありません」

 新たな喜びを教えてくれた景虎のためにできることがしたい。

「私がご家族の代わりになるなんておこがましいことはもうしません。それでも、誰かがそばにいてくれることで救われることはあると思います」

 沙苗はにこりと微笑んだ。
 景虎の表情が揺れ、右手が動く。
 今沙苗がそうしたように火花が飛び散らない互いの距離を測るように、掌を近づける。

「お前は不思議だな。そんなことを言ってもらえたのは初めてだ」
「きっと、景虎様の周りにいらっしゃる人たちが強い方々ばかりだからですよ。弱い人間には弱い人間なりの生きぬく知恵があるものです」
「いいや、お前は強い」

 その声はとても優しくて。
 どちらからともなく、笑みがこぼれた。
 そんなささやかな笑み一つで、沙苗の心には少し早めの春風が吹き抜けるように、温かくなる。
 このときめきを知っている。

 ――やっぱり私は、景虎様が好きなんだわ。

 幼い頃の先見で初恋をした時には、その幻想的な姿に、そして、二度目の恋は彼の強さと優しさに触れて。

 ――契約関係としてのつながりだけでも、景虎様と出会えた私は果報者だわ。

「……それにしてもお前は律儀だな。俺の過去のことを聞かされたからと言って、黙っていれば俺には分からなかったのに」
「契約関係であっても夫婦は夫婦。隠し事はするべきではないと思ったんです。もちろん言わなくてもいいことはあるのは分かっております。相手を慮り、想い合うからこそ、話せないことがあったり、胸に秘めなければいけないこともあるとは思うのですが、このことは伝えなければならないことだと思いまして……」

 景虎は小さく息を吐き出す。

「なら、俺も告白しなければならないな。お前に嘘をついていた」
「嘘?」
「お前がうなされていたから心配になったと言ったが、嘘だ。気分が悪そうだったお前を一人にできず、お前が眠ってからずっとここで見ていた。だから、うなされていることにすぐ気づけたんだ」

 沙苗はぱっと距離を取ると、景虎に背中を向けた。

「いきなりどうしたんだ」
「寝顔は無防備なんですよ。それを見ていただなんて、恥ずかしいです……」
「悪かった。もう……」
「しませんか?」
「いや、またするかもな」

 その言葉には笑みが混じっていた。

「うう……景虎様、意地悪です……っ」
「許せ。お前を心配してのことだ」
「そ、それでも……」

 恥ずかしいものは恥ずかしい。

「悪かった。もう眠れ」
「景虎様こそ、もうお休みください。もう大丈夫ですから」
「分かった」

 背中ごしに、景虎が部屋から出て行く気配を感じる。
 自分でもう大丈夫だと言いながら、彼が部屋を出て行くことを寂しく思わずにはいられなかった。

「……明日も早いんだから、ちゃんと眠らないと」

 沙苗は自分に言い聞かせるように呟くと、布団に潜り込んだ。
 しばらくして、襖が開く音が聞こえた。

「景虎様、まだ何か? …………な、なにをしているのですか!?」

 景虎はなぜか布団を抱えて、部屋に入ってくると、沙苗の左隣に布団を敷き始める。

「見れば分かるだろう。眠るんだ」
「そういうことを聞いているのではなくって、どうして私の部屋で……」
「お前が心配だから。それ以上の理由がいるか?」
「もう大丈夫と言ったはずですが……」
「……今日くらい付き添わせてくれ。俺が目を離さなければ、お前が嫌な想いをすることは避けられたんだから」

 そんなことない、と沙苗は口を開こうとするが、景虎は自分の唇に右手の人差し指をそっとあてがう。

「頼む。毎日、共寝をしようというのではない。今晩だけでいい」
「……わ、分かりました」
「ありがとう。おやすみ、沙苗」
「お、おやすみなさい、景虎様」

 とても景虎のほうを見ることはできず、背中を向けたまま、目を閉じる。
 無理矢理にでも眠れと、自分に言い聞かせながら。