天華家は代々、優秀な狩人を輩出する名門だ。
先祖は帝に近侍する大役を任され、あやかし退治だけでなく、身辺警護まで担っていた。
一族は栄え、日の本一の狩人と呼ばれた。
それは時代が武士の世から再び帝の統治に戻っても、変わることがなかった。
この屋敷には天華の家族の他、十人ほどの住み込みの女中、通いを含めればもっと大勢の使用人が働いていた。
景虎は、天華家待望の嫡男だった。
二人目の懐妊が分かった瞬間、景虎の父、英真はいくつもの優秀な家門に祈祷までさせたほど。
新時代を迎えても、天華家の権威も栄華も陰ることがないと、誰からも羨まれる存在だった。
実際、景虎は将来を嘱望されるだけの強い霊力を持ってうまれた。
家族中は良かったと思う。祖父母、両親に姉。
景虎は物心がつく前から父の手ほどきをうけ、己の中の霊力を磨き上げる厳しい修行をおこなった。
体が傷つくのが当たり前のような修行だったが、決して弱音は吐かなかった。
それは物心がつくときから教えられてきた、天華家のこの国における役割、そして自分たち狩人の双肩にこの国で生きる人々の命がのっているという責務の重さを、幼いなりに理解していたからでもあった。
なにより怖ろしいあやかしを前にしても決して怯むことなく、己の一命をなげうっても討伐をする父への憧れ。
だからどんなに厳しい指導でも耐えられた。でも耐えられたのは憧れだけでなく、猫かわいがりする母と姉がいたから、ということもあったと思う。
景虎は自分で思うが、かわいげのない子どもだった。大人びていて、子どもらしいところは見た目だけで、滅多に笑わない。
別の家門の人間たちから大人びていると言われる一方、不気味だと陰口を叩かれていることも知っていた。
でも母と姉はそんなことなどお構いなく、子どもとして扱ってくれた。
父は寡黙な人で、家の中でも外でも無駄口を叩くことはなく、必要最低限の言葉しか言わなかった。
それとは反対に、母や姉はいつも喋っているよう人たちで、景虎が口を挟む余地もないほどだった。そんな明るい女性陣のおかげで、天華家はいつも明るく、温かな空気に包まれ、景虎もその居心地の良さを楽しんでいた。
厳しい父と、明るい母と姉に囲まれながら、景虎は人間としても狩人としても成長していった。
天華家の血と、景虎の不断の努力によってわずか十三歳という若年にして、大人顔負けの霊力を発揮し、あやかし討伐も父と共にこなせるようになっていた。
他の家の者たちと一緒に仕事をする機会も多くなり、他家の次代を担う同年代の少年少女たちと行動を共にすることも多くなったが、彼らを前にして、ぬるいと思うことも少なくなかった。
どうしてそんな簡単なこともできないのか、どうしてもっと向上心を持って臨めないのか。景虎は決して自分に甘い類いの人間ではなかったが、同年代のぬるさを前に呆れ、自分がいかに優れていたかを自覚してしまった。
景虎はわずか十五歳にして、一人であやかし討伐を請け負うことになった。
普通は成人である十八歳を迎えるまでは、あやかし討伐には一族の年長者が同伴につくのが習いだった。
しかし十五歳にして、十を超えるあやかしの討伐の実戦を経験していた景虎は早く独り立ちがしたかった。
当代随一の狩人と謳われる父と肩を並べる、いや、それ以上の存在になりたかった。
さすがは天華家の嫡男だ、と言われたかったし、かつて嘲笑した家門たちを跪かせたいという気持ちもあった。
父は悩んだ末に、一族の者を後詰めに配置した上で、あやかし討伐を景虎ひとりに任せるという判断をした。
父の期待を裏切らぬため、万全の準備で景虎は挑んだ。
あやかしの住処は、帝都から二時間ほど南にいった先にある廃寺。
一族の者が寺の周囲に結界を張り巡らせ、あやかしを逃がさぬようにすると同時に、少しでも危機に見舞われた時には助太刀に入ろうと構えた。
景虎の前に現れたのは鬼だった。鬼はあやかしの中でも最上位に入る。
助けに入ろうとする一族の人間を制し、景虎は鬼と戦った。
最初は相手が子どもと侮っていたが、数合打ち合っただけで景虎の並々ならぬ力を察したようだった。
鬼は逃げようとしたが、結界に阻まれ、果たせなかった。
景虎は鬼の腕や足を斬り刻み、最後にその心臓に刃を突き立てた。
はじめてのあやかし討伐、それも鬼を無事に討伐することに成功した景虎の武名はますます轟き、帝の耳にもやがて達した。
景虎は父と共に参内し、帝より直々に言葉をかけられ、褒美を与えられた。
鬼を討てれば手練れの狩人と言われる世界だ。
景虎は有頂天だった。
しかしそれで油断するほど景虎は愚かではなく、ますます場数を踏み、厳しい修行で研鑽に励んだ。
だが当時の景虎はあやかしがいかに狡猾なのか知らなかった。
鬼は完全に死んではいなかったのだ。
復讐の機会を果たそうと、何も知らぬ景虎たちを監視し続けた。
屋敷には普段から、天華一族に伝わる強力な結界が張り巡らされ、どんなあやかしもその結界を無傷で通ることなできなかった。
当たり前だが、結界はあくまであやかしのためで、普通の人間が影響を受けることはなかった。
鬼はそこに目を付け、人になりすまして屋敷に出入りする女中の一人を籠絡した。
あやかしにとって人間の心を食い物にし、己の意のままに操るのは、呼吸をするのと同じことだった。
女中の心を虜にした鬼は、その女中に結界を内側より破壊することを命じた。
女中は自分が何をやらされているか、その結果、どんな災厄が訪れるかさえ、認識してなかっただろう。
そして惨劇が起こった。
誰かの悲鳴が屋敷中に響き渡る。
鬼は一匹ではなかった。景虎に殺されかけた鬼は仲間を語らい、襲撃してきた。
不意を突かれたことで、一族の者たちは満足に抗うことさえ出来ず、殺されていった。
寝ぼけ眼の景虎が目の当たりにしたのは、一面の血の海。
親しかった女中や、庭の手入れをしてくれている下男、子どもの頃に刀の稽古をつけてくれた気のいい一族の青年……見知った顔が虫の息で倒れていた。
むせかえるような血の臭気に吐き気を覚えながらも、誰か助けられないかと血の海に躊躇なく踏み出す。
『みんな!』
『わ、若様……』
虫の息の女中や青年が、すがってくる。
『どうか、お助けを……』
『し、死にたくありません……』
景虎は一人でも多くの人の身体をこの場から連れ出したかった。女中を背中におぶり、両手で男たちを引きずった。人ではなく、まるで重たく冷たい石にでも触れていると錯覚してしまいそうだった。
『景虎、何をしている!』
必死の形相の父が眼前に現れた。
『父上、みなを助けてください……ま、まだ間に合うかもしれません……っ』
父の顔が歪む。そんな切なげな顔をする父を見るのははじめてだった。
父はしゃがむと、景虎が背負い、引きずっている亡骸を手放させていた。
そうしている間も、屋敷のほうぼうからは戦いの気配を濃厚に感じた。
『景虎、逃げろ』
『いいえ、俺も戦います! 鬼ごときに後れは取りません……!』
『まだ生き残っている者たちがいる! 命を賭けるのなら、その者たちを守るために賭けよ!』
そこへ鬼が襲いかかってくる。父は景虎を突き飛ばすと、鬼の首をはねた。
『早くいけ!!』
襲いかかる鬼たち。傷を負いながら、必死に鬼たちを食い止める父。
景虎は父に背を向けた。それが父を見た最後だった。
奥座敷には母や姉、かろうじて生き残った女中たちが身を寄せ、震えていた。
『みんな、行こう』
景虎たちは隠し扉から屋敷の外へ逃げ出した。
大所帯ではすぐに追いつかれてしまうことを危惧した姉は一部の女中たちを連れ、景虎と別れた。
景虎は母、残った女中たちをまとめた。
父がどうなったのか考えたくもなかった。
景虎は周囲を警戒しながら、いかに父の仇をうつか、そればかり考えていた。
だから気づけなかった。共に逃げている女中たちの中に、鬼に籠絡された者がいたことに。
叫び声が聞こえた時に、女中の足元に母が転がっていた。
みるみる広がる鮮血。
女中はその時まで自分の身も心も、果ては魂までも鬼に食われていたことに気付いていなかった。
鬼に魂を食らわれた人は、鬼となる。
『うわああああああああああ……!!』
それまで培ってきたものなど関係なかった。
ただ目の前のあやかしを殺す。ただそれだけのためにがむしゃらに刀を振るい、鬼と成り果てた女中を殺した。
『母上! 母上ぇ!』
景虎は血だまりに倒れる母を抱き上げ、必死に声をかけた。
『……逃げて、あなた、だけ、でも……』
『嫌です。ここにいます。母上と一緒に……』
血にまみれた母の手が景虎の頬に触れる。その手からこぼれていく温もりを守りたくて、強く握り締めた。しかしどれだけ声をかけても強く握っても、力のなくなった母の目は、景虎を映してくれることはもうなかった。
呆然とした景虎は、背後に忍び寄ってきた鬼がもう一匹いることに気づけなかった。
『お前が最後だ、小僧』
頭の中に泥水を注がれるような薄気味悪い声。
『化け物めぇ!』
『お前も、そうだろう。お前は誰も守れぬ。お前が救おうとした。見ろ。お前が手を差し伸べ、守ろうとした人間どもはことごとく死んだ』
反応する間もなく、景虎は背後から体を貫かれた。
景虎は血を吐きながら、それでも渾身の一撃で鬼を斬り殺す。
自分を貫く鬼の腕が灰と化して消えていく。
片膝をつき、肩で息をする。どくどくと全身を血が巡る音がした。
――俺のせいで……傲慢さのせいで、皆が……。
助けを求められながら、誰も救えなかった。
景虎は精も根も尽きてその場に倒れた。
そこで何もかも終わったと思った。
しかし景虎はなぜか生きていた。
姉たちの行方は分からなかった。しかし姉が連れて逃げた女中たちが亡くなっていることを考えると、生存は絶望的だと言われた。
この一件があって以来、他者に触れられることを嫌悪感を覚え、他人と一緒に暮らすことができなくなった。
先祖は帝に近侍する大役を任され、あやかし退治だけでなく、身辺警護まで担っていた。
一族は栄え、日の本一の狩人と呼ばれた。
それは時代が武士の世から再び帝の統治に戻っても、変わることがなかった。
この屋敷には天華の家族の他、十人ほどの住み込みの女中、通いを含めればもっと大勢の使用人が働いていた。
景虎は、天華家待望の嫡男だった。
二人目の懐妊が分かった瞬間、景虎の父、英真はいくつもの優秀な家門に祈祷までさせたほど。
新時代を迎えても、天華家の権威も栄華も陰ることがないと、誰からも羨まれる存在だった。
実際、景虎は将来を嘱望されるだけの強い霊力を持ってうまれた。
家族中は良かったと思う。祖父母、両親に姉。
景虎は物心がつく前から父の手ほどきをうけ、己の中の霊力を磨き上げる厳しい修行をおこなった。
体が傷つくのが当たり前のような修行だったが、決して弱音は吐かなかった。
それは物心がつくときから教えられてきた、天華家のこの国における役割、そして自分たち狩人の双肩にこの国で生きる人々の命がのっているという責務の重さを、幼いなりに理解していたからでもあった。
なにより怖ろしいあやかしを前にしても決して怯むことなく、己の一命をなげうっても討伐をする父への憧れ。
だからどんなに厳しい指導でも耐えられた。でも耐えられたのは憧れだけでなく、猫かわいがりする母と姉がいたから、ということもあったと思う。
景虎は自分で思うが、かわいげのない子どもだった。大人びていて、子どもらしいところは見た目だけで、滅多に笑わない。
別の家門の人間たちから大人びていると言われる一方、不気味だと陰口を叩かれていることも知っていた。
でも母と姉はそんなことなどお構いなく、子どもとして扱ってくれた。
父は寡黙な人で、家の中でも外でも無駄口を叩くことはなく、必要最低限の言葉しか言わなかった。
それとは反対に、母や姉はいつも喋っているよう人たちで、景虎が口を挟む余地もないほどだった。そんな明るい女性陣のおかげで、天華家はいつも明るく、温かな空気に包まれ、景虎もその居心地の良さを楽しんでいた。
厳しい父と、明るい母と姉に囲まれながら、景虎は人間としても狩人としても成長していった。
天華家の血と、景虎の不断の努力によってわずか十三歳という若年にして、大人顔負けの霊力を発揮し、あやかし討伐も父と共にこなせるようになっていた。
他の家の者たちと一緒に仕事をする機会も多くなり、他家の次代を担う同年代の少年少女たちと行動を共にすることも多くなったが、彼らを前にして、ぬるいと思うことも少なくなかった。
どうしてそんな簡単なこともできないのか、どうしてもっと向上心を持って臨めないのか。景虎は決して自分に甘い類いの人間ではなかったが、同年代のぬるさを前に呆れ、自分がいかに優れていたかを自覚してしまった。
景虎はわずか十五歳にして、一人であやかし討伐を請け負うことになった。
普通は成人である十八歳を迎えるまでは、あやかし討伐には一族の年長者が同伴につくのが習いだった。
しかし十五歳にして、十を超えるあやかしの討伐の実戦を経験していた景虎は早く独り立ちがしたかった。
当代随一の狩人と謳われる父と肩を並べる、いや、それ以上の存在になりたかった。
さすがは天華家の嫡男だ、と言われたかったし、かつて嘲笑した家門たちを跪かせたいという気持ちもあった。
父は悩んだ末に、一族の者を後詰めに配置した上で、あやかし討伐を景虎ひとりに任せるという判断をした。
父の期待を裏切らぬため、万全の準備で景虎は挑んだ。
あやかしの住処は、帝都から二時間ほど南にいった先にある廃寺。
一族の者が寺の周囲に結界を張り巡らせ、あやかしを逃がさぬようにすると同時に、少しでも危機に見舞われた時には助太刀に入ろうと構えた。
景虎の前に現れたのは鬼だった。鬼はあやかしの中でも最上位に入る。
助けに入ろうとする一族の人間を制し、景虎は鬼と戦った。
最初は相手が子どもと侮っていたが、数合打ち合っただけで景虎の並々ならぬ力を察したようだった。
鬼は逃げようとしたが、結界に阻まれ、果たせなかった。
景虎は鬼の腕や足を斬り刻み、最後にその心臓に刃を突き立てた。
はじめてのあやかし討伐、それも鬼を無事に討伐することに成功した景虎の武名はますます轟き、帝の耳にもやがて達した。
景虎は父と共に参内し、帝より直々に言葉をかけられ、褒美を与えられた。
鬼を討てれば手練れの狩人と言われる世界だ。
景虎は有頂天だった。
しかしそれで油断するほど景虎は愚かではなく、ますます場数を踏み、厳しい修行で研鑽に励んだ。
だが当時の景虎はあやかしがいかに狡猾なのか知らなかった。
鬼は完全に死んではいなかったのだ。
復讐の機会を果たそうと、何も知らぬ景虎たちを監視し続けた。
屋敷には普段から、天華一族に伝わる強力な結界が張り巡らされ、どんなあやかしもその結界を無傷で通ることなできなかった。
当たり前だが、結界はあくまであやかしのためで、普通の人間が影響を受けることはなかった。
鬼はそこに目を付け、人になりすまして屋敷に出入りする女中の一人を籠絡した。
あやかしにとって人間の心を食い物にし、己の意のままに操るのは、呼吸をするのと同じことだった。
女中の心を虜にした鬼は、その女中に結界を内側より破壊することを命じた。
女中は自分が何をやらされているか、その結果、どんな災厄が訪れるかさえ、認識してなかっただろう。
そして惨劇が起こった。
誰かの悲鳴が屋敷中に響き渡る。
鬼は一匹ではなかった。景虎に殺されかけた鬼は仲間を語らい、襲撃してきた。
不意を突かれたことで、一族の者たちは満足に抗うことさえ出来ず、殺されていった。
寝ぼけ眼の景虎が目の当たりにしたのは、一面の血の海。
親しかった女中や、庭の手入れをしてくれている下男、子どもの頃に刀の稽古をつけてくれた気のいい一族の青年……見知った顔が虫の息で倒れていた。
むせかえるような血の臭気に吐き気を覚えながらも、誰か助けられないかと血の海に躊躇なく踏み出す。
『みんな!』
『わ、若様……』
虫の息の女中や青年が、すがってくる。
『どうか、お助けを……』
『し、死にたくありません……』
景虎は一人でも多くの人の身体をこの場から連れ出したかった。女中を背中におぶり、両手で男たちを引きずった。人ではなく、まるで重たく冷たい石にでも触れていると錯覚してしまいそうだった。
『景虎、何をしている!』
必死の形相の父が眼前に現れた。
『父上、みなを助けてください……ま、まだ間に合うかもしれません……っ』
父の顔が歪む。そんな切なげな顔をする父を見るのははじめてだった。
父はしゃがむと、景虎が背負い、引きずっている亡骸を手放させていた。
そうしている間も、屋敷のほうぼうからは戦いの気配を濃厚に感じた。
『景虎、逃げろ』
『いいえ、俺も戦います! 鬼ごときに後れは取りません……!』
『まだ生き残っている者たちがいる! 命を賭けるのなら、その者たちを守るために賭けよ!』
そこへ鬼が襲いかかってくる。父は景虎を突き飛ばすと、鬼の首をはねた。
『早くいけ!!』
襲いかかる鬼たち。傷を負いながら、必死に鬼たちを食い止める父。
景虎は父に背を向けた。それが父を見た最後だった。
奥座敷には母や姉、かろうじて生き残った女中たちが身を寄せ、震えていた。
『みんな、行こう』
景虎たちは隠し扉から屋敷の外へ逃げ出した。
大所帯ではすぐに追いつかれてしまうことを危惧した姉は一部の女中たちを連れ、景虎と別れた。
景虎は母、残った女中たちをまとめた。
父がどうなったのか考えたくもなかった。
景虎は周囲を警戒しながら、いかに父の仇をうつか、そればかり考えていた。
だから気づけなかった。共に逃げている女中たちの中に、鬼に籠絡された者がいたことに。
叫び声が聞こえた時に、女中の足元に母が転がっていた。
みるみる広がる鮮血。
女中はその時まで自分の身も心も、果ては魂までも鬼に食われていたことに気付いていなかった。
鬼に魂を食らわれた人は、鬼となる。
『うわああああああああああ……!!』
それまで培ってきたものなど関係なかった。
ただ目の前のあやかしを殺す。ただそれだけのためにがむしゃらに刀を振るい、鬼と成り果てた女中を殺した。
『母上! 母上ぇ!』
景虎は血だまりに倒れる母を抱き上げ、必死に声をかけた。
『……逃げて、あなた、だけ、でも……』
『嫌です。ここにいます。母上と一緒に……』
血にまみれた母の手が景虎の頬に触れる。その手からこぼれていく温もりを守りたくて、強く握り締めた。しかしどれだけ声をかけても強く握っても、力のなくなった母の目は、景虎を映してくれることはもうなかった。
呆然とした景虎は、背後に忍び寄ってきた鬼がもう一匹いることに気づけなかった。
『お前が最後だ、小僧』
頭の中に泥水を注がれるような薄気味悪い声。
『化け物めぇ!』
『お前も、そうだろう。お前は誰も守れぬ。お前が救おうとした。見ろ。お前が手を差し伸べ、守ろうとした人間どもはことごとく死んだ』
反応する間もなく、景虎は背後から体を貫かれた。
景虎は血を吐きながら、それでも渾身の一撃で鬼を斬り殺す。
自分を貫く鬼の腕が灰と化して消えていく。
片膝をつき、肩で息をする。どくどくと全身を血が巡る音がした。
――俺のせいで……傲慢さのせいで、皆が……。
助けを求められながら、誰も救えなかった。
景虎は精も根も尽きてその場に倒れた。
そこで何もかも終わったと思った。
しかし景虎はなぜか生きていた。
姉たちの行方は分からなかった。しかし姉が連れて逃げた女中たちが亡くなっていることを考えると、生存は絶望的だと言われた。
この一件があって以来、他者に触れられることを嫌悪感を覚え、他人と一緒に暮らすことができなくなった。