沙苗は物心がついた時にはもう、座敷牢に入っていた。

 どうしてここにいるのか、どうして誰も来てくれないのか、そして最低限の世話をしにくる女中たちがどうして自分のことをそこまで嫌うのか、何も分からなかった。

「おとうさま……おとうさまぁ……」

 舌足らずな声で父の名を呼ぶが、誰も応えてはくれない。
 夜になれば、離れは真っ暗で月明かりくらいしかまともな光がない。
 離れのそこかしこには光の届かない暗所があり、そこから何か得体のしれない怪物が現れるような悪夢にうなされては夜中に飛び起き、泣き叫んだ。
 沙苗が泣き出すと、本宅から女中が足音をどたどたといわせながら、やってくる。

「あんたが泣くせいで旦那様や奥様が眠れないじゃない!」
「お、おねがい……こわいの……いっしょにいてぇ……」
「誰があんたみたいな化け物と眠るものですか!」
「わ、わたし、ばけものじゃない……」
「いいや、化け物だよ!」

 女中は懐から手鏡を出して来たかと思うと、それで沙苗の長く伸びた前髪を乱暴に掴むと、たくしあげ、左目を露わにさせた。

 心臓が飛び出してしまいそうなほど、沙苗は驚いた。
 右目は普通の人間なのに、左目だけが、金色で猫のように黒い筋が一本、入っていた。

「いやあ……!」

 怖くて顔を背けてしまう。

「分かっただろう! お前は化け物なんだよ!」

 扉が開けられ、乱暴に腕を掴まれて引きずり出されると、泣く力がなくなるくらいまで叩かれ、「今度、泣きわめいたら殺すわよ!」と脅された。

 夜中に泣きわめいた罰だと食事を抜かれ、泣くことも、眠ることもままならず、沙苗の幼い心は少しずつ色をなくしていった。



 沙苗が目を開けると、自分がどこにいるか一瞬わからず、混乱した。
 薫子に叩かれそうになったのを、景虎が止めてくれた。

 ――それから……?

 その先の記憶が曖昧だった。
 でも今、見えているのは屋敷の部屋の天井。

 沙苗が目覚めたことに気付いた木霊たちが、わらわらと集まってくる。

「みんな」

 心配してくれたのが伝わってくる。

「うなされてた? 本当に?」

 たしかに嫌な夢は見た。幼い頃のことを夢に見るのは久しぶりだ。

 ――きっと、薫子と会ったせいね……。

「本当だ」
「景虎様!?」

 声のするほうを見ると、景虎が壁に背をもたれるように胡座をかいていた。

「お前がうなされているのに気付いて、心配になったんだ」
「薫子たちと話してからの記憶が曖昧なんですけど……私、自分の足で歩けたんですか?」
「木霊たちに支えられて、な」

 景虎は苦いものを呑み込んだような顔をする。

「……景虎様は仕方ありません! 触れないのですからっ!」
「分かっている。でもだからと言って不甲斐なさは消えない……」

 景虎は手巾を差し出してくる。

「使え」
「え?」
「……涙を流していた」
「あ、ありがとうございます……」

 沙苗は受け取ると目尻に滲んだ涙をそっと拭った。

「飲み物は? 茶くらいなら俺でも淹れられるが」
「大丈夫です。ありがとうございます……」
「他にできることはあるか?」
「……しばらく、ここにいてくださいますか?」
「それだけでいいのか?」
「はい」

 沙苗は小さく頷いた。
 本当は彼の温もりを感じたかった。胸が締め付けられるような寂しさを忘れたかった。
 でもそれは叶わないのなら、せめて景虎にここにいて欲しかった。
 それだけでも安心できるから。

 木霊たちが励ますように体の上に乗って、飛び跳ねたり、組み体操をしたりして、沙苗を笑わせようとする。

「本当ににぎやかな連中だな。これまで多くのあやかしを見てきたが、本当の意味で人間じみた行動をとるあやかしは初めてだ」
「本当の意味?」
「あやかしは人を騙したり、たぶらかすため、己の欲を満たす為に人間の真似をする。でもそいつらはお前を励ますために行動している」
「小さな頃の私を、こうして励ましてくれたんです。大切な友だちですから」
「いい友を持ったな」
「はいっ」

 景虎は優しそうに目を細めた。
 景虎との間に会話はなかったが、不思議と気まずさはなかった。

 一緒の空間にいてくれる、ただそれだけのことなのにとても心強かった。

 ――本当に愛してくれていると勘違いしてしまいそう。

 そんなことはないのは分かっているが、それでも構わない。
 景虎が安らぎをくれる。そのことが沙苗にとっては重要だ。
 だからこそ、彼に秘密を持ちたくなかった。

 沙苗は布団の上にのっかる木霊たちに、「ごめんね」と言ってどいてもらう。

 そして布団から抜け出し、景虎と向き合う。

「どうかしたのか?」
「……景虎様、お話がございます。実は、妹から……景虎様のことを聞いてしまいました……申し訳ございません」
 沙苗はその場で深々と頭を下げた。
「俺の?」
「……ご家庭のこと、です」

 どう思われるだろう。たとえ沙苗が自分の意思で聞いたわけでないにせよ、景虎にとっては決して触れられたくないことのはず。それを愛してもいない、ただ形ばかりの夫婦関係を結んでいるにすぎない沙苗に知られ、不愉快に思うだろう。
 もちろん黙っていれば分からないのだから、聞かなかったふりはできる。

 しかしこんな大変なことを知ってしまったら、知らないふりをするのは不実のように思えた。
 もしそれがでたらめであればそれで構わない。でも本当だったら。

 たった一人で耐えている彼の心を支えたい。それが許されないのであれば、せめて寄り添いたかった。たとえ独りよがりだったとしても、沙苗を受け入れてくれた景虎のために何かしたい。

「顔を上げろ」
「……はい」
「どこまで聞いた」

 景虎の声はいつも通り淡々として、その胸の内は分からない。

「ご家族をあやかしに殺された、と……」
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝るな。お前が聞きたくて聞いたことではないのだろう。それに、お前が天華の家に入るのなら、いつかは話さなければならないと思っていたことだ」

 景虎は何かを思い出すようにかすかに目を上げ、部屋の片隅に凝った闇をじっと見つめた。