半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 途中で藤菜を駅で降ろしてから、景虎は沙苗に気を遣ってゆっくり自動車を走らせてくれた。
 日が沈むと、背の高い建物に切り取られた夜空には、里から見るよりも光の乏しい星が一つ二つと光り始める。

 ――街が明るすぎるからかな。

 街路灯は煌々と明るく、人手の多い通りはまるで真昼のように明るい。

 帝都は昼には昼の、夜には夜の顔をそれぞれ持ち、顔を変えながら一日中、眠ることを知らない別世界のようなものだ。

「パーティーの場に出るのははじめてだろうから、こつを教える」
「こつ?」
「会話には適当に相槌を打っていればいい。お前は会話は得意ではないだろうから、聞かれたことに対して答えておけ。自分から積極的に話さなくても向こうから話しかけてくれるし、向こうが一方的にぺらぺらと喋る」
「とはいえ、うまくできるでしょうか」
「会場では、お前のそばから離れないようにするから安心してくれ」
「ありがとうございます」
「いや、俺が出席を頼んだんだ。俺のほうこそ、来てもらってありがたいと思ってる」  景虎の声は、胸に染みこむように優しかった。

 自動車がとある洋風建築の前に止まった。
 建物の前にはいくつもの馬車が止まり、そこから身だしなみを整えた男女が出てきては、建物の中へ吸いこまれていく。

「ここだ」

 沙苗たちは自動車を降りる。
 周りの客たちはみんな、男性が女性の手を引いているが、沙苗たちの間にそれはない。

 あれはエスコートというのだと景虎から事前に教えられた。
 自分たちはふれあえない。仕方がないと分かっていながら寂しいと思ってしまうのだから困ったものだ。

 ――私が普通の人間であったなら。

 この手を景虎に握ってもらい、一緒に会場へ行けるのに。
 そんな風なことをつい考えてしまう。

 ――いけない。集中しないと。

 沙苗は変な考えを追い出す。
 ここへ来たのは、景虎の仕事のためだ。

 と、景虎が沙苗の手をじっと見つめていることに気付く。

「景虎様?」

 景虎ははっとした顔をする。

「……手に、なにかついていますか?」
「いや、何でもない。行こう」

 ――どうしたのかな。

 景虎も少し緊張しているのだろうか。
 景虎に限ってそれはないか。

 責任ある立場だから、色々と考えなければいけないことがあるだけだろう。
 鹿鳴館は一階に食堂や談話室が、そして二階が舞踏会場になっている。
 今日はあくまで舞踏会ではなく、パーティーということもあり、そこかしこで様々な人たちが話をしていた。

 建物の中はきらびやかさで包まれていた。
 天井から下がる照明、場内をいろどる豪奢な装飾の数々。

 そしてそこに並ぶ、内装や装飾にも負けない美しい装いの女性たちを前に、気後れを覚えてしまう。
 肉食動物の檻に投げ込まれた小動物よろしくびついている沙苗に比べ、景虎の堂々として、洗練されている立ち振る舞いには、さすがに目を奪われる。

 胸で輝く勲章や、その切れ長の赤い瞳に、背中に流した白銀の髪。
 他の男性たちとは一線を画した存在だ。

「安心しろ。ここにいるどの女性たちより、お前は綺麗だ」
「! 景虎様……」
「胸を張れ。俯いていては、この場の雰囲気に流されるだけだ。自信をもて。藤菜も褒めていただろう」

 ――そうよ。藤菜さんの太鼓判があるんですもの。

 藤菜が自動車から下りる際、沙苗の耳元で『笑顔を忘れないでくださいね。沙苗さん、あなたは素敵ですよ』とわざわざ言ってくれたのだ。

 背筋を丸めていてはこれまでと同じ。装いが違うだけで、心は座敷牢時代と何ら変わらない。そんなことでは着付けをしてくれた藤菜に、わざわざ着物を買ってくれた景虎に申し訳がない。

 沙苗の立ち振る舞いは、それこそ同伴している景虎の名誉にも直結するのだから。

 あんな女を嫁にもらうことになって天華家は大丈夫かと思われでもしたら、申し訳がたたない。
 顔を上げ、背筋を伸ばし、にこりと微笑む。

「そうだ。笑っているほうがずっと素敵だ」
「! は、はい……」

 素敵という言葉に、沙苗は頬をそめた。
 景虎の容姿はこんな大勢の人たちの中に埋没することがない。それどころか人が多ければ多いほど、その存在感は増すように見える。

「俺の数歩後を歩くようにしろ」
「分かりました」

 人々がまるで花の香りに吸い寄せられるように、景虎に集まってくる。
 その数の多さに沙苗は面食らってしまうが、景虎は馴れたもので自然に応じる。

「みなさん、お会いしたかった」

 ――景虎様!?

 表向き、ということを知っていなければ、言葉を失っていただろう。
 沙苗の中にある景虎へに印象が全て塗り潰されるような、爽やかな笑顔。

 女性たちは頬を桜色に染め、うっとりとした目で見つめる。

「景虎様はたしか婚約されたと伺いましたが」
「沙苗です」

 景虎は虫も殺さぬ笑顔で、沙苗を紹介してくれる。

「沙苗でございます」

 沙苗は深々と頭を下げた。

「ほう、さすがその方が勅命で……」
「たしか、春辻男爵家のご令嬢なのですよね」

 ――そんなことまで知られてるのね。

 正直、見ず知らずの人間に自分のことを知られているということは薄気味の悪さしか感じない。

 事前に教えられた通り、相づちを基本に、二言三言と質問に答えていると、相手のほうがどんどん喋
りだす。

 自分たちはどこでどんな事業をしていて、こういうパーティーに出席するのは何度目で、ドレスや着物、宝石に関してはどれだけ高価で珍しいものか、金を積んで名工に特注された一点物であるかなどなどと、こちらが尋ねもしないのに、休むこともなく捲し立てるように話し続ける。

 口べたな沙苗はただただ圧倒されてしまう。

 ――すごい。よくこんなに話すことが見つかるわ。

 いちいち真剣に聞いていたら、それだけで気力と体力を奪われていたことだろう。
 沙苗が笑顔で相槌を打つだけで相手は「景虎様の婚約者の方は聞き上手ですのね」と上機嫌になってくれる。

 本当はほとんど話の内容は頭に入ってきていないことに罪悪感を抱いてしまう。
 しかし大半の人たちの目当ては、景虎だ。

 景虎は軽妙な会話と笑顔で女性を魅了しながら、男性たちとは経済や世界情勢について活発に議論していた。

 沙苗が聞いてもちんぷんかんぷんだったが、あっという間に景虎が男女関係なく人々の心を掴む一部始終を見て感嘆せずにはいられなかった。

 そしてようやく人の波が切れる。
 沙苗は肩で息をしながら会場の片隅へ避難する。

「疲れただろう」
「す、少し……。景虎様こそ、私以上にたくさんの人たちとお話をされていましたけど、大丈夫でしたか?」
「もう馴れた」

 景虎はさらっと言ってのけた。

「もう切り上げよう」
「よろしいのですか?」
「十分役割は果たした。さっさと家に帰り、お前と静かに過ごしたい」
「え……」
「何だ?」

 自然にこぼれた言葉だったのだろう。景虎は小首をかしげる。
 沙苗は自分が過剰に反応してしまったことが恥ずかしい。

「わ、私もそうしたいと思っていたところです」
「なら行こう」

 そこに、「景虎っ」と声がかかった。

 振り返ると、でっぷりと太った男性がこちらへ駆け寄ってきた。

「少将、どうされたのですか」

 景虎はさっきまで見せていた屈託ない笑顔ではなく、いつもの無表情で応じる。

 つまり、景虎の素を知っている人ということだ。

「そちらは?」
「婚約者の沙苗です」
「沙苗でございます」
「はじめてましてお嬢さん。可憐でお美しい。少し景虎を借りてもよろしいですか?」

 しかし景虎はその場から動こうとしない。少将、と呼ばれた男性が怪訝な顔になる。

「さっさと来い」
「申し訳ありません。今帰るところです」
「何を言っている。先生方と顔を合わさず帰るつもりか? 馬鹿を言うなっ」
「では、沙苗も一緒に」
「なにをふざけたことを……」
「私は真剣ですが。沙苗はパーティーの席には不慣れ。彼女の傍を離れるわけにはいきません」
「お嬢さんに政治の話は難しいし、相手はこの国の重要人物たちだ。国策について話すのだぞ」
「少将。私は……」
「私なら平気です」

 沙苗は差し出がましいと思いつつ、口をはさんだ。

 男はニヤッと笑う。

「というわけだ。お嬢さんの許可があるのだから問題ないだろう」
「景虎様。私に構わず、行ってください」

 自分のせいでうまくいくべきものがいかなくなるのは、沙苗の望むところではない。
 場内の雰囲気にも少しずつ馴れて来た。一人で待つことくらい別に苦ではない。

 景虎は小さく溜息を漏らした。

「すぐ戻る。ここで待て。どこにも行くなよ」
「子どもではないんですから」
「……そうだな」

 それでも心配なのか、景虎はちらちらとしきりに沙苗を気にしながらも、男性と一緒に人混みの中に消えていく。

 とはいえ、人に話しかけられても困るので、壁際の椅子に座って休ませてもらうことにする。
 場内では本当に色々な人たちがいて、難しい話をしている。

「三洋が汽船事業に進出するぞ」
「は? 嘘だろ」
「本当だって。木之元汽船、買収されただろ。あれだよ」
「買収したのは三洋じゃなかっただろ」
「汽船で働いてる知り合いが、三洋の役員を事務所で見かけたらしい。他社から警戒されないよう、買収するための会社をわざわざ立ち上げたんだよ。油断してる他社を一気に出し抜こうって腹づもりらしい」
「ってことは、次は三洋に投資かぁ」

 耳に入ってきた話はちんぷんかんぷんだ。
 しかし男たちはニヤニヤしながらそういう話をそこかしこでしている。何に投資するべきか、次に流行るものは何か、新規事業を立ち上げたいかどの分野にするべきか。

 何もかも、沙苗には無縁なこと。

「――あれぇ、もしかして、お姉様?」

 その声を聞いた瞬間、背筋にぞくりとしたものが走り抜け、顔を上げた。

 沙苗は自分の目を疑った。

「か、薫子……」

 そこには緑色の洋装姿の薫子がいたのだ。

 彼女は山高帽に紺色の洋装姿の男の腕に寄り添っていた。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」

 甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。

「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」

 嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。
 笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
 その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。

「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易を営んでいる会社をしていてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」

 聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。

「お姉様はどうして?」
「……か、景虎様と一緒にきているの」
「で、その景虎様は?」

 薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。

「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」

 言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
 彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。

「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」

 ――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。

 そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。

「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」

 耳元に、薫子が口を寄せる。

「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」

 そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。
 本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。

「……少しだけ、よ」
「さあ、行きましょう」

 こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
 沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。
 肌寒い晩で、庭先には誰もいない。

「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えな
い」

 薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。

「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」

 鋭い声に、びくっとしてしまう。
 それが愉快そうに薫子は笑う。

「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」

 呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
 掌が汗でべちょべちょになる。

「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だった」

 ――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?

「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」

 薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。

「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてている。

「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」

 ――親切心? どこがよ!

 薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。

「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」

 ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。
 そんな人の心が壊れているはずがない。
 過去の出来事の虚実については分からない。
 でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。

「なによ、その反抗的な目は!」

 薫子が叩こうとその手を振り上げた。

「っ!」

 沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。
 しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。

「?」

 おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」



 ――くだらん話だったな。

 もちろん国の将来よりも、近いうちの占拠にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。
 今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。
 人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。
 この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。
 目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
 この場でのエスコートは当然のように行われている。
 愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。

 ――あんな連中にさえ容易くできることなのに。

 いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
 呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
 彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
 あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
 しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
 政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。

 早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。
 まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
 いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
 そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。
 辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
 景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
 半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
 一つ屋根の下で暮らし、親しみ深いものになっている婚約者であればなおさら。
 この気配をたどれば、彼女がどこへ行ったかは分かる。
 我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。

 なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。
 庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
 男女の前に、沙苗がいた。
 彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。

 ――あいつ、春辻の次女か。

 里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
 景虎はその手を強く握り締める。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」

 洋装姿の男が声を上げた。

「邪魔だッ」

 冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。

「い、痛い……!」

 手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。

「離して上げて下さい……」

 苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。

「さっさと失せろ」

 よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
 すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎はしゃがむ。
 沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。

「立てるか? 辛いようなら誰かを呼ぶ」

 ――こんな時にも手をかして立ち上がらせることもできないなんて。

「……だ、大丈夫です。少し休めば」

 しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。

「もういいのか?」
「……はい」

 景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」

 甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。

「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」

 嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。

 笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
 その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。

「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易業を営んでいてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」

 聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。

「お姉様はどうして?」
「……景虎様ときているの」
「で、その景虎様は?」

 薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。

「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」

 言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
 彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。

「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」

 ――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。

 そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。

「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」

 耳元に、薫子が口を寄せる。

「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」

 そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。

 本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。

「……少しだけ、なら」
「良かった。じゃ、行きましょう」

 こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
 沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。

 肌寒い晩で、庭先には誰もいない。

「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えない」

 薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。

「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」

 鋭い声に、びくっとしてしまう。

 それが愉快そうに薫子は笑う。

「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」

 呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
 掌が汗でべちょべちょになる。

「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だ」

 ――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?

「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」

 薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。

「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてている。

「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」

 ――親切心? どこがよ!

 薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。

「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」

 ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。

 そんな人の心が壊れているはずがない。
 過去の出来事の虚実については分からない。

 でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。

「なによ、その反抗的な目は!」

 薫子が叩こうとその手を振り上げた。

「っ!」

 沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。

 しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。

「?」

 おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」



 ――くだらん話だったな。

 もちろん国の将来よりも、近いうちの選挙にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。

 今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。

 人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。

 この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。

 目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
 この場でのエスコートは当然のように行われている。
 愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。

 ――あんな連中にさえ容易くできることなのに。

 いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
 呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
 彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
 あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
 しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
 政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。
 早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。

 まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
 いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
 そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。

 辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
 景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
 半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
 我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。
 なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。

 ――外に出たのか?

 庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
 男女の前に、沙苗がいた。
 彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。

 ――あいつ、春辻の次女か。

 里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
 景虎はその手を強く握り締める。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」

 洋装の男が声を上げた。

「邪魔だッ」

 冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。

「い、痛い……!」

 手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。

「離して上げて下さい……」

 苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。

「さっさと失せろ」

 よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
 すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎は、座り込んだ沙苗と目線を合わせるようにしゃがむ。

 沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。

「立てるか? 辛いようなら人を呼ぶ」

 ――こんな時に、手をかして立ち上がらせることもできないなんて。

「……だ、大丈夫です。少し休めば」

 しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。

「もういいのか?」
「……はい」

 景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。



「怪物めっ」

 去って行く景虎を睨み付けた嘉一郎は吐き捨て、洋酒をぐっと呷る。
 それから、薫子のあざのついた手首をさする。

「平気か?」
「へ、平気なわけないでしょ。あんな怪物に触られたのよ……。どうしてやり返してくれなかったのっ」
「し、仕方ないだろ。相手は軍人だ。殴りかかったところでこっちに勝ち目はない。それに、君だっていたんだぞ。もっと酷い目にあわされてたかもしれないんだ……」
「あんな女の前で、恥をかかされるなんて!」
「それにしても、半妖って言っても普通の人間と変わらないな。お前を前にして、あの半妖、顔を青くして震えてたぜ?」
「そんなことないわ。お父様によると、とんでもない不幸を招いたって言ってたもの」
「あれが? そうは見えないが」
「まだあの化け物が子どもだった頃、里の誰かが死ぬとか、干ばつが来るとか、座敷牢でそんな夢を見たって女中に言ったんですって。でもそんなこと取り合わずに無視してたら、そのままの出来事が実際に起こったらしいわ。きっとあの化け物に流れるあやかしの血が不幸を招き寄せたのよ」
「……そうとも言えないんじゃないか?」

 薫子は、嘉一郎が突然何を言い出すのかと、訝しそうな顔をする。

「何? 信じないの? 確かよ」
「いや、嘘をついてるって言いたいんじゃない。こうだって考えられるだろう。あの化け物が、未来を予知したって」
「冗談でしょ。だって、それ以降、何も言い出さなかったのよ」
「それは何を言っても、気味悪がられたり、お前のせいだと罵られたりしたら、その夢を見ても言わなくなるだろう」
「……もし未来を予知したら何だっていうの?」
「もし本当に予言ができるなら、仕事に使えると思ってな」
「あの半妖を?」
「今後、世界で何が起きるのか、どんな分野に投資すれば儲かるのか、そういうことが分かれば……」
「いやよ。あんな化け物にお願いするなんてありえない」
「おいおい、化け物に頭なんて下げる必要ないだろ」
「じゃあどうするの?」
「怖がらせて、従わせるんだよ」

 嘉一郎の呟きに、薫子の口元に大きな笑みが浮かび上がった。

「それ、いいかも! 生意気にあんな上等な着物や簪までつけちゃって、化け物が調子のるなんて許せないもの。ちゃんと、身の程を弁えさせないと!」
「おいおい、壊したりするなよ。金の卵を産むガチョウになるかもしれないんだ」
「分かってるわ。でもあれは化け物だし、痛めつけてやったほうが従順になるわよ、きっと」
「問題はあの軍人のほうだな。さすがに婚約者が行方知れずになれば、面倒なことになるかもしれない……」
「そんなことないわよ。見たでしょ。会場の二人。あんな離れてるのよ。勅命があるから一緒にいますって宣伝して歩いているようなものじゃない。浮気してる人だってああいう公の場所では、妻の仲睦まじいふりをするものよ」
「だが、お前が姉を殴ろうとした時には、止めにはいったぞ。俺まで今にも殺しそうな勢いで……」
「じゃあ、諦めるわけ?」
「まさか」
「なら腹をくくらないと。あの化け物が行方知れずになったって、私たちが関わってるなんて分かるはずがないでしょ」
「……それもそうだな。問い詰められたところで証拠なければ、いくらかあの男でも無茶はできないか」

 薫子に叱咤され、嘉一郎は不敵な笑みを浮かべた。
 沙苗は物心がついた時にはもう、座敷牢に入っていた。

 どうしてここにいるのか、どうして誰も来てくれないのか、そして最低限の世話をしにくる女中たちがどうして自分のことをそこまで嫌うのか、何も分からなかった。

「おとうさま……おとうさまぁ……」

 舌足らずな声で父の名を呼ぶが、誰も応えてはくれない。
 夜になれば、離れは真っ暗で月明かりくらいしかまともな光がない。
 離れのそこかしこには光の届かない暗所があり、そこから何か得体のしれない怪物が現れるような悪夢にうなされては夜中に飛び起き、泣き叫んだ。
 沙苗が泣き出すと、本宅から女中が足音をどたどたといわせながら、やってくる。

「あんたが泣くせいで旦那様や奥様が眠れないじゃない!」
「お、おねがい……こわいの……いっしょにいてぇ……」
「誰があんたみたいな化け物と眠るものですか!」
「わ、わたし、ばけものじゃない……」
「いいや、化け物だよ!」

 女中は懐から手鏡を出して来たかと思うと、それで沙苗の長く伸びた前髪を乱暴に掴むと、たくしあげ、左目を露わにさせた。

 心臓が飛び出してしまいそうなほど、沙苗は驚いた。
 右目は普通の人間なのに、左目だけが、金色で猫のように黒い筋が一本、入っていた。

「いやあ……!」

 怖くて顔を背けてしまう。

「分かっただろう! お前は化け物なんだよ!」

 扉が開けられ、乱暴に腕を掴まれて引きずり出されると、泣く力がなくなるくらいまで叩かれ、「今度、泣きわめいたら殺すわよ!」と脅された。

 夜中に泣きわめいた罰だと食事を抜かれ、泣くことも、眠ることもままならず、沙苗の幼い心は少しずつ色をなくしていった。



 沙苗が目を開けると、自分がどこにいるか一瞬わからず、混乱した。
 薫子に叩かれそうになったのを、景虎が止めてくれた。

 ――それから……?

 その先の記憶が曖昧だった。
 でも今、見えているのは屋敷の部屋の天井。

 沙苗が目覚めたことに気付いた木霊たちが、わらわらと集まってくる。

「みんな」

 心配してくれたのが伝わってくる。

「うなされてた? 本当に?」

 たしかに嫌な夢は見た。幼い頃のことを夢に見るのは久しぶりだ。

 ――きっと、薫子と会ったせいね……。

「本当だ」
「景虎様!?」

 声のするほうを見ると、景虎が壁に背をもたれるように胡座をかいていた。

「お前がうなされているのに気付いて、心配になったんだ」
「薫子たちと話してからの記憶が曖昧なんですけど……私、自分の足で歩けたんですか?」
「木霊たちに支えられて、な」

 景虎は苦いものを呑み込んだような顔をする。

「……景虎様は仕方ありません! 触れないのですからっ!」
「分かっている。でもだからと言って不甲斐なさは消えない……」

 景虎は手巾を差し出してくる。

「使え」
「え?」
「……涙を流していた」
「あ、ありがとうございます……」

 沙苗は受け取ると目尻に滲んだ涙をそっと拭った。

「飲み物は? 茶くらいなら俺でも淹れられるが」
「大丈夫です。ありがとうございます……」
「他にできることはあるか?」
「……しばらく、ここにいてくださいますか?」
「それだけでいいのか?」
「はい」

 沙苗は小さく頷いた。
 本当は彼の温もりを感じたかった。胸が締め付けられるような寂しさを忘れたかった。
 でもそれは叶わないのなら、せめて景虎にここにいて欲しかった。
 それだけでも安心できるから。

 木霊たちが励ますように体の上に乗って、飛び跳ねたり、組み体操をしたりして、沙苗を笑わせようとする。

「本当ににぎやかな連中だな。これまで多くのあやかしを見てきたが、本当の意味で人間じみた行動をとるあやかしは初めてだ」
「本当の意味?」
「あやかしは人を騙したり、たぶらかすため、己の欲を満たす為に人間の真似をする。でもそいつらはお前を励ますために行動している」
「小さな頃の私を、こうして励ましてくれたんです。大切な友だちですから」
「いい友を持ったな」
「はいっ」

 景虎は優しそうに目を細めた。
 景虎との間に会話はなかったが、不思議と気まずさはなかった。

 一緒の空間にいてくれる、ただそれだけのことなのにとても心強かった。

 ――本当に愛してくれていると勘違いしてしまいそう。

 そんなことはないのは分かっているが、それでも構わない。
 景虎が安らぎをくれる。そのことが沙苗にとっては重要だ。
 だからこそ、彼に秘密を持ちたくなかった。

 沙苗は布団の上にのっかる木霊たちに、「ごめんね」と言ってどいてもらう。

 そして布団から抜け出し、景虎と向き合う。

「どうかしたのか?」
「……景虎様、お話がございます。実は、妹から……景虎様のことを聞いてしまいました……申し訳ございません」
 沙苗はその場で深々と頭を下げた。
「俺の?」
「……ご家庭のこと、です」

 どう思われるだろう。たとえ沙苗が自分の意思で聞いたわけでないにせよ、景虎にとっては決して触れられたくないことのはず。それを愛してもいない、ただ形ばかりの夫婦関係を結んでいるにすぎない沙苗に知られ、不愉快に思うだろう。
 もちろん黙っていれば分からないのだから、聞かなかったふりはできる。

 しかしこんな大変なことを知ってしまったら、知らないふりをするのは不実のように思えた。
 もしそれがでたらめであればそれで構わない。でも本当だったら。

 たった一人で耐えている彼の心を支えたい。それが許されないのであれば、せめて寄り添いたかった。たとえ独りよがりだったとしても、沙苗を受け入れてくれた景虎のために何かしたい。

「顔を上げろ」
「……はい」
「どこまで聞いた」

 景虎の声はいつも通り淡々として、その胸の内は分からない。

「ご家族をあやかしに殺された、と……」
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝るな。お前が聞きたくて聞いたことではないのだろう。それに、お前が天華の家に入るのなら、いつかは話さなければならないと思っていたことだ」

 景虎は何かを思い出すようにかすかに目を上げ、部屋の片隅に凝った闇をじっと見つめた。
 天華家は代々、優秀な狩人を輩出する名門だ。
 先祖は帝に近侍する大役を任され、あやかし退治だけでなく、身辺警護まで担っていた。
 一族は栄え、日の本一の狩人と呼ばれた。

 それは時代が武士の世から再び帝の統治に戻っても、変わることがなかった。
 この屋敷には天華の家族の他、十人ほどの住み込みの女中、通いを含めればもっと大勢の使用人が働いていた。

 景虎は、天華家待望の嫡男だった。
 二人目の懐妊が分かった瞬間、景虎の父、英真はいくつもの優秀な家門に祈祷までさせたほど。
 新時代を迎えても、天華家の権威も栄華も陰ることがないと、誰からも羨まれる存在だった。

 実際、景虎は将来を嘱望されるだけの強い霊力を持ってうまれた。
 家族中は良かったと思う。祖父母、両親に姉。
 景虎は物心がつく前から父の手ほどきをうけ、己の中の霊力を磨き上げる厳しい修行をおこなった。
 体が傷つくのが当たり前のような修行だったが、決して弱音は吐かなかった。

 それは物心がつくときから教えられてきた、天華家のこの国における役割、そして自分たち狩人の双肩にこの国で生きる人々の命がのっているという責務の重さを、幼いなりに理解していたからでもあった。

 なにより怖ろしいあやかしを前にしても決して怯むことなく、己の一命をなげうっても討伐をする父への憧れ。
 だからどんなに厳しい指導でも耐えられた。でも耐えられたのは憧れだけでなく、猫かわいがりする母と姉がいたから、ということもあったと思う。

 景虎は自分で思うが、かわいげのない子どもだった。大人びていて、子どもらしいところは見た目だけで、滅多に笑わない。
 別の家門の人間たちから大人びていると言われる一方、不気味だと陰口を叩かれていることも知っていた。
 でも母と姉はそんなことなどお構いなく、子どもとして扱ってくれた。
 父は寡黙な人で、家の中でも外でも無駄口を叩くことはなく、必要最低限の言葉しか言わなかった。

 それとは反対に、母や姉はいつも喋っているよう人たちで、景虎が口を挟む余地もないほどだった。そんな明るい女性陣のおかげで、天華家はいつも明るく、温かな空気に包まれ、景虎もその居心地の良さを楽しんでいた。
 厳しい父と、明るい母と姉に囲まれながら、景虎は人間としても狩人としても成長していった。

 天華家の血と、景虎の不断の努力によってわずか十三歳という若年にして、大人顔負けの霊力を発揮し、あやかし討伐も父と共にこなせるようになっていた。
 他の家の者たちと一緒に仕事をする機会も多くなり、他家の次代を担う同年代の少年少女たちと行動を共にすることも多くなったが、彼らを前にして、ぬるいと思うことも少なくなかった。

 どうしてそんな簡単なこともできないのか、どうしてもっと向上心を持って臨めないのか。景虎は決して自分に甘い類いの人間ではなかったが、同年代のぬるさを前に呆れ、自分がいかに優れていたかを自覚してしまった。
 景虎はわずか十五歳にして、一人であやかし討伐を請け負うことになった。
 普通は成人である十八歳を迎えるまでは、あやかし討伐には一族の年長者が同伴につくのが習いだった。

 しかし十五歳にして、十を超えるあやかしの討伐の実戦を経験していた景虎は早く独り立ちがしたかった。
 当代随一の狩人と謳われる父と肩を並べる、いや、それ以上の存在になりたかった。
 さすがは天華家の嫡男だ、と言われたかったし、かつて嘲笑した家門たちを跪かせたいという気持ちもあった。
 父は悩んだ末に、一族の者を後詰めに配置した上で、あやかし討伐を景虎ひとりに任せるという判断をした。

 父の期待を裏切らぬため、万全の準備で景虎は挑んだ。
 あやかしの住処は、帝都から二時間ほど南にいった先にある廃寺。
 一族の者が寺の周囲に結界を張り巡らせ、あやかしを逃がさぬようにすると同時に、少しでも危機に見舞われた時には助太刀に入ろうと構えた。
 景虎の前に現れたのは鬼だった。鬼はあやかしの中でも最上位に入る。

 助けに入ろうとする一族の人間を制し、景虎は鬼と戦った。
 最初は相手が子どもと侮っていたが、数合打ち合っただけで景虎の並々ならぬ力を察したようだった。
 鬼は逃げようとしたが、結界に阻まれ、果たせなかった。
 景虎は鬼の腕や足を斬り刻み、最後にその心臓に刃を突き立てた。
 はじめてのあやかし討伐、それも鬼を無事に討伐することに成功した景虎の武名はますます轟き、帝の耳にもやがて達した。

 景虎は父と共に参内し、帝より直々に言葉をかけられ、褒美を与えられた。
 鬼を討てれば手練れの狩人と言われる世界だ。
 景虎は有頂天だった。
 しかしそれで油断するほど景虎は愚かではなく、ますます場数を踏み、厳しい修行で研鑽に励んだ。
 だが当時の景虎はあやかしがいかに狡猾なのか知らなかった。

 鬼は完全に死んではいなかったのだ。
 復讐の機会を果たそうと、何も知らぬ景虎たちを監視し続けた。
 屋敷には普段から、天華一族に伝わる強力な結界が張り巡らされ、どんなあやかしもその結界を無傷で通ることなできなかった。
 当たり前だが、結界はあくまであやかしのためで、普通の人間が影響を受けることはなかった。

 鬼はそこに目を付け、人になりすまして屋敷に出入りする女中の一人を籠絡した。
 あやかしにとって人間の心を食い物にし、己の意のままに操るのは、呼吸をするのと同じことだった。
 女中の心を虜にした鬼は、その女中に結界を内側より破壊することを命じた。
 女中は自分が何をやらされているか、その結果、どんな災厄が訪れるかさえ、認識してなかっただろう。
 そして惨劇が起こった。
 誰かの悲鳴が屋敷中に響き渡る。

 鬼は一匹ではなかった。景虎に殺されかけた鬼は仲間を語らい、襲撃してきた。
 不意を突かれたことで、一族の者たちは満足に抗うことさえ出来ず、殺されていった。
 寝ぼけ眼の景虎が目の当たりにしたのは、一面の血の海。
 親しかった女中や、庭の手入れをしてくれている下男、子どもの頃に刀の稽古をつけてくれた気のいい一族の青年……見知った顔が虫の息で倒れていた。

 むせかえるような血の臭気に吐き気を覚えながらも、誰か助けられないかと血の海に躊躇なく踏み出す。

『みんな!』
『わ、若様……』

 虫の息の女中や青年が、すがってくる。

『どうか、お助けを……』
『し、死にたくありません……』

 景虎は一人でも多くの人の身体をこの場から連れ出したかった。女中を背中におぶり、両手で男たちを引きずった。人ではなく、まるで重たく冷たい石にでも触れていると錯覚してしまいそうだった。

『景虎、何をしている!』

 必死の形相の父が眼前に現れた。

『父上、みなを助けてください……ま、まだ間に合うかもしれません……っ』

 父の顔が歪む。そんな切なげな顔をする父を見るのははじめてだった。
 父はしゃがむと、景虎が背負い、引きずっている亡骸を手放させていた。
 そうしている間も、屋敷のほうぼうからは戦いの気配を濃厚に感じた。

『景虎、逃げろ』
『いいえ、俺も戦います! 鬼ごときに後れは取りません……!』
『まだ生き残っている者たちがいる! 命を賭けるのなら、その者たちを守るために賭けよ!』

 そこへ鬼が襲いかかってくる。父は景虎を突き飛ばすと、鬼の首をはねた。

『早くいけ!!』

 襲いかかる鬼たち。傷を負いながら、必死に鬼たちを食い止める父。
 景虎は父に背を向けた。それが父を見た最後だった。
 奥座敷には母や姉、かろうじて生き残った女中たちが身を寄せ、震えていた。

『みんな、行こう』

 景虎たちは隠し扉から屋敷の外へ逃げ出した。
 大所帯ではすぐに追いつかれてしまうことを危惧した姉は一部の女中たちを連れ、景虎と別れた。
 景虎は母、残った女中たちをまとめた。
 父がどうなったのか考えたくもなかった。
 景虎は周囲を警戒しながら、いかに父の仇をうつか、そればかり考えていた。

 だから気づけなかった。共に逃げている女中たちの中に、鬼に籠絡された者がいたことに。
 叫び声が聞こえた時に、女中の足元に母が転がっていた。

 みるみる広がる鮮血。
 女中はその時まで自分の身も心も、果ては魂までも鬼に食われていたことに気付いていなかった。

 鬼に魂を食らわれた人は、鬼となる。

『うわああああああああああ……!!』

 それまで培ってきたものなど関係なかった。
 ただ目の前のあやかしを殺す。ただそれだけのためにがむしゃらに刀を振るい、鬼と成り果てた女中を殺した。

『母上! 母上ぇ!』

 景虎は血だまりに倒れる母を抱き上げ、必死に声をかけた。

『……逃げて、あなた、だけ、でも……』
『嫌です。ここにいます。母上と一緒に……』

 血にまみれた母の手が景虎の頬に触れる。その手からこぼれていく温もりを守りたくて、強く握り締めた。しかしどれだけ声をかけても強く握っても、力のなくなった母の目は、景虎を映してくれることはもうなかった。

 呆然とした景虎は、背後に忍び寄ってきた鬼がもう一匹いることに気づけなかった。

『お前が最後だ、小僧』

 頭の中に泥水を注がれるような薄気味悪い声。

『化け物めぇ!』
『お前も、そうだろう。お前は誰も守れぬ。お前が救おうとした。見ろ。お前が手を差し伸べ、守ろうとした人間どもはことごとく死んだ』

 反応する間もなく、景虎は背後から体を貫かれた。

 景虎は血を吐きながら、それでも渾身の一撃で鬼を斬り殺す。
 自分を貫く鬼の腕が灰と化して消えていく。
 片膝をつき、肩で息をする。どくどくと全身を血が巡る音がした。

 ――俺のせいで……傲慢さのせいで、皆が……。

 助けを求められながら、誰も救えなかった。
 景虎は精も根も尽きてその場に倒れた。
 そこで何もかも終わったと思った。

 しかし景虎はなぜか生きていた。
 姉たちの行方は分からなかった。しかし姉が連れて逃げた女中たちが亡くなっていることを考えると、生存は絶望的だと言われた。

 この一件があって以来、他者に触れられることを嫌悪感を覚え、他人と一緒に暮らすことができなくなった。
「――これが、俺の過去だ。不愉快にさせたと思う。全ては俺の思い上がりが発端だ。気味が悪いと思ったのなら正直いってくれ。それで俺から離れたいと思うのは正常な心だ」
「そんなこと、思うはずがありません……!」

 重たい過去を、この広すぎる屋敷の中で一人、抱え込みながら生きて来たのか。
 その辛さや苦しみは、想像することさえできない。
 できないことと理解しながらも、景虎を抱きしめたいという強い気持ちがこみあげる。

「そんな顔をするな。悲しみや苦しみにはもう馴れた。今は、もうあの時のことを思い出して苦しむこともない」
「ですが、それで景虎様の心にできた傷がなくなったわけではありませんよね」
「沙苗……?」

 突然、近づいて来た沙苗に、景虎が目を見開き、距離を取ろうとする。しかし彼の後ろには漆喰の壁があってそれ以上は下がれない。
 壁際に追い詰めるという格好になった景虎に向かって、沙苗は手を伸ばす。
 バチッと火花にも似たものが飛び散り、指先に痛みがはしる。

「やめろ、何をしている!」

 かすかに痛みに顔を歪める。

 ――これくらいだったら大丈夫。

 少し肌がひりっとする程度だ。
 沙苗はじっと景虎の鮮やかな深紅に染まる瞳を見つめる。沙苗は互いの距離を測るように手を動かす。

「ここまでなら……近づけるみたいです。景虎様は触れるのも、触れられるのも、お好きではないのなら、ちょうどいい距離だと思いませんか?」
「沙苗……」
「これは、私たちに許された距離です」

 景虎は触れられたくない。沙苗は触れることができない。
 それでも心細さや寂しさを覚え、人肌を恋しく思う。
 こうしていれば、互いの息遣いや存在を感じられる。

「心の傷が消えることはありません」

 かざぶたにならず、膿もせず、思い出したように痛みつづける。
 幼い頃から周囲から虐げられてきた沙苗には、心の傷がよく分かる。

「触れられなくても、こうして寄り添うことはできますから。景虎様は決して一人ではありません」

 新たな喜びを教えてくれた景虎のためにできることがしたい。

「私がご家族の代わりになるなんておこがましいことはもうしません。それでも、誰かがそばにいてくれることで救われることはあると思います」

 沙苗はにこりと微笑んだ。
 景虎の表情が揺れ、右手が動く。
 今沙苗がそうしたように火花が飛び散らない互いの距離を測るように、掌を近づける。

「お前は不思議だな。そんなことを言ってもらえたのは初めてだ」
「きっと、景虎様の周りにいらっしゃる人たちが強い方々ばかりだからですよ。弱い人間には弱い人間なりの生きぬく知恵があるものです」
「いいや、お前は強い」

 その声はとても優しくて。
 どちらからともなく、笑みがこぼれた。
 そんなささやかな笑み一つで、沙苗の心には少し早めの春風が吹き抜けるように、温かくなる。
 このときめきを知っている。

 ――やっぱり私は、景虎様が好きなんだわ。

 幼い頃の先見で初恋をした時には、その幻想的な姿に、そして、二度目の恋は彼の強さと優しさに触れて。

 ――契約関係としてのつながりだけでも、景虎様と出会えた私は果報者だわ。

「……それにしてもお前は律儀だな。俺の過去のことを聞かされたからと言って、黙っていれば俺には分からなかったのに」
「契約関係であっても夫婦は夫婦。隠し事はするべきではないと思ったんです。もちろん言わなくてもいいことはあるのは分かっております。相手を慮り、想い合うからこそ、話せないことがあったり、胸に秘めなければいけないこともあるとは思うのですが、このことは伝えなければならないことだと思いまして……」

 景虎は小さく息を吐き出す。

「なら、俺も告白しなければならないな。お前に嘘をついていた」
「嘘?」
「お前がうなされていたから心配になったと言ったが、嘘だ。気分が悪そうだったお前を一人にできず、お前が眠ってからずっとここで見ていた。だから、うなされていることにすぐ気づけたんだ」

 沙苗はぱっと距離を取ると、景虎に背中を向けた。

「いきなりどうしたんだ」
「寝顔は無防備なんですよ。それを見ていただなんて、恥ずかしいです……」
「悪かった。もう……」
「しませんか?」
「いや、またするかもな」

 その言葉には笑みが混じっていた。

「うう……景虎様、意地悪です……っ」
「許せ。お前を心配してのことだ」
「そ、それでも……」

 恥ずかしいものは恥ずかしい。

「悪かった。もう眠れ」
「景虎様こそ、もうお休みください。もう大丈夫ですから」
「分かった」

 背中ごしに、景虎が部屋から出て行く気配を感じる。
 自分でもう大丈夫だと言いながら、彼が部屋を出て行くことを寂しく思わずにはいられなかった。

「……明日も早いんだから、ちゃんと眠らないと」

 沙苗は自分に言い聞かせるように呟くと、布団に潜り込んだ。
 しばらくして、襖が開く音が聞こえた。

「景虎様、まだ何か? …………な、なにをしているのですか!?」

 景虎はなぜか布団を抱えて、部屋に入ってくると、沙苗の左隣に布団を敷き始める。

「見れば分かるだろう。眠るんだ」
「そういうことを聞いているのではなくって、どうして私の部屋で……」
「お前が心配だから。それ以上の理由がいるか?」
「もう大丈夫と言ったはずですが……」
「……今日くらい付き添わせてくれ。俺が目を離さなければ、お前が嫌な想いをすることは避けられたんだから」

 そんなことない、と沙苗は口を開こうとするが、景虎は自分の唇に右手の人差し指をそっとあてがう。

「頼む。毎日、共寝をしようというのではない。今晩だけでいい」
「……わ、分かりました」
「ありがとう。おやすみ、沙苗」
「お、おやすみなさい、景虎様」

 とても景虎のほうを見ることはできず、背中を向けたまま、目を閉じる。
 無理矢理にでも眠れと、自分に言い聞かせながら。
 眠れそうにないと思いながら、気付けば、眠っていた。
 木霊たちが体を揺すって起こしてくれる。

「……みんな、おはよう」

 眠い目を擦りながら、ごろんと寝返りを打った。

「おはよう、沙苗」
「! お、おはよう……ご、ございます……」

 今の今まで景虎がいることをすっかり忘れていた沙苗は、ただ挨拶を口にするのがやっとだった。

 ――寝起きなのに、景虎様、いつも通り隙がないわ……。

「あれから、うなされるようなこともなかったから安心した」
「起きておられたんですか?」
「……どうやらお前と一緒に眠るということに、緊張してしまってなかなか寝付けなくてな」

 景虎は柔らかく微笑みまじりに言った。
 そんな何気ない言葉ひとつに、沙苗の胸は高鳴るのだ。

「あ、あの……着替えますので……」
「分かった」

 景虎は起き上がると、折り畳んだ布団を抱え上げ、部屋を出ていく。
 沙苗は口元を綻ばせながら布団から抜け出し、着替える。
 着替えを終えるといつものように朝食とお弁当を作り、軍服姿の景虎を迎える。
 食事を終えると、お茶を出し、三船が迎えに来るまでの時間を過ごす。

 いつもの朝。いつもの日常。
 昨夜のやりとりのおかげか、景虎との距離が近づいているような、そんな気がした。

 沙苗は思いきって口を開く。

「景虎様、仏壇に手をあわさせてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろん」

 景虎は立ち上がり、廊下に出る。沙苗もそのあとに続く。
 部屋の一番奥の仏間。やはりここだけ、他の部屋と空気が違う。
 しんっと空気が張り詰めていて、緊張してしまう。

 景虎が観音扉を開ける。
 そこには亡くなった家族の位牌が収められていた。
 景虎が仏壇の蝋燭にマッチで火をつけてくれる。
 沙苗は線香に火をつけて立てると、手を合わせた。

 ――春辻沙苗と申します。春辻の家から景虎様に嫁ぐために参りました。半妖という立場ではありますが、景虎様のためにできることをしていくつもりです。

 沙苗が下がると、景虎が代わり線香を立てて手を合わせる。
 そこで「お迎えに上がりました」と三船の声が玄関から聞こえた。

 いつものように門前まで見送る。
 景虎は不意に立ち止まると、三船に先に馬車へ行くよう命じる。

「忘れ物ですか?」
「そんなものだ」
「?」

 景虎は右手の掌をそっと差し出してみせる。
 沙苗はにっこりと微笑めば、同じように掌を差し出す。

 触れあうことはない。
 でも確かに、心が接しているようなそんな喜びを覚えた。

「いってくる」
「いってらっしゃいませ」

 景虎を乗せた馬車が見えなくなるまで見送った。

「みんな、今日は何かやらなきゃいけないことってあった?」

 肩の上にのった木霊たちに声をかける。

「あぁ、そうだったわね。お酒や醤油、味噌も少なくなってきたんだった。みんながしっかりしてくれるおかげで、助かっちゃった」

 今日のやるべきことを指折数えながら屋敷へ戻ろうとした時、背後で音がして振り返ると、馬車だった。
 景虎が乗るのとはかなり小振りで、このあたりでは見かけたことがない。

 ――こんな朝早くにお客様?

「あの、申し訳ございません。道を聞きたいのですが、少しよろしいですか?」

 洋装姿の中年男が顔を出す。

「はい。私もこのあたりはそこまで詳しくはないのですが、お役に立てることがありましたら……」
 沙苗が近づいた瞬間、男が腕を掴み、強引に引っ張られる。
「っ!?」

 まさかそんなことになるとは予想もしていなかった沙苗は踏ん張ることもできず、馬車に引きずり込まれてしまう。
 中にはもう一人いた。もう一人は扉を閉めると御者に合図を送った。馬車が動き出す。

 ――駄目!

「な、なにをするんですか! やめて! は、離して下さい!」

 沙苗は必死に足搔き、男たちの手から逃れようとするが、二人がかりで体を押さえつけられてしまう。

「誰か! 誰か助けて……!!」

 口と鼻を塞ぐように柔らかな布を押しつけられる。
 息を吸うと鼻の奥に、ツンッとした刺激臭がなだれこんできた。

 意に反して声から力が失われ、手足にも力が入らなくなる。
 頭の中が靄がかかったように意識が曖昧になり、意識が途絶えた。



 景虎は馬車にのりながら、昨夜のことを思い返す。

 今しがた家を出たばかりなのに、もう沙苗を恋しく思ってしまうことが情けなくも、新鮮な心地だった。
 この年齢で、誰かを恋しく思うこと気持ちになるなんて。

 ――触れられなくても、寄り添うことはできる、か。

 彼女の息遣いを感じられるほどの距離。
 狩人である景虎と、半妖である沙苗に許された、限界の距離。
 重ね合わせることの叶わない掌。それでもあの瞬間、景虎はたしかに、沙苗の手を感じられたような気がした。

「大佐? どうかされましたか?」
「いや……何でもない」
「昨夜のパーティーは……」
「見世物になるために出たんだ。嫌なことを思い出させるな」
「も、申し訳ございません!」

 パーティーの席上で良かったのは、美しい沙苗を見られたこと。それ以外に、得たものなどなにもない。

 沙苗の声を思い出すだけで、胸のあたりが締め付けられるような心地になる。
 仕事など放り出したい気持ちに駆られたのは、はじめてだった。
 全身に吹き付ける熱さで、沙苗は目を覚ます。

 沙苗はぼろぼろの姿だった。
 どうして、こんなぼろぼろの格好なのだろう。

 ――あ、あれ?

 沙苗の頭に疑問が湧き上がる。
 どうして自分の姿を第三者の視点から見ているのだろう、と。
 それから目の当たりにしている光景が現実ではないことに気付く。

 先見を見ているのだ。

 黒煙に咳き込んだ沙苗は、這うようにして建物から出ようとする。

 ――ここは、土蔵?

 まとっていた着物がぼろぼろなのはもちろん、剥き出しになった肌には打撲痕や斬り傷が無数についている。
 髪もぐちゃぐちゃで痛々しくて、未来の自分に何が起こったかなんて考えたくもなかった。
 なのに顔を背けることは許されず、目を閉じることもできない。

 土蔵の中は外から流れ込んでくる黒煙で、視界がきかない。
 着物の袖で鼻と口を押さえ、外へ出た。
 目の前に広がったのは瓦礫の山と、紅蓮の炎。

 無数の人々が真っ黒に焼けて物言わぬ骸になって倒れ、瓦礫がうずたかく積まれている。

 これは一体何の先見なのか。

 ふらふらと頼りない足取りで、沙苗は瓦礫の散乱する中を進んでいった。
 炎で揺らめく視界の中、見慣れた後ろ姿を見た。

 その時、こみあげるのは安堵の気持ち。

「かげとら、様……」

 先見の中で自分がこぼした声はひどく頼りない。
 しかし景虎には届いたようだった。

 右手に刃こぼれした軍刀を構えた景虎は、沙苗を見るなり、笑みを浮かべた。
 瓦礫の山と炎という取り合わせからは考えられないほど優しげな表情。

「良かった、沙苗。無事だったんだな……。待っていろ。今、お前を苦しめる者たちを始末するところだ」
「え?」

 景虎の足元には、薫子。顔を青ざめさせ、沙苗以上にぼろぼろの姿をしていた。

「た、助け……」

 仰向けに倒れている薫子が胸を大きく上下させながら喘ぐ。

「黙れ」

 景虎は薫子の心臓めがけ刀を振り下ろせば、血飛沫がその顔を、髪を、汚す。

「どうして、どうして、こんなこと……」

 沙苗は足下から崩れ落ちてしまう。

 景虎と再会できた喜びはもはや、どこにもない。ただ寒々とした気持ちばかりが心を吹き抜けていく。

「さあ、帰ろう。俺たちの家へ」

 景虎が浮かべた壊れた笑顔を前に、沙苗は恐れを抱いた。



「ん……んん……っ」

 重たい瞼を持ち上げる。
 全身に嫌な汗をかいて気持ち悪い。
 先見の余韻を引きずり、心臓が痛いくらいばくばくと音をたてている。

「こ、ここは……?」

 そこは先見で見た、土蔵の中。
 よろよろと立ち上がった沙苗は扉に手をかけるが、びくともしない。

 ――このままじゃ、あの先見が実現してしまう!

 沙苗はどうにか土蔵から逃れられないか、肩から扉にぶつかっていくが、沙苗の小さな身体はあっという間に弾き飛ばされてしまう。

「おい、静かにしろっ」

 土蔵の扉が開いたかと思えば、男が顔をだす。
 その男は沙苗を馬車に引きずり込んだ人間だ。

「ここから出してくださいっ!」
「うるせえ女だ。おい、旦那様たちを読んで来い」
「旦那様?」

 さっきの先見には、薫子がいた。ということはつまり。

 ――薫子と、その夫の仕業ってこと?

 パーティー会場で沙苗を辱めただけでなく、まだ追い詰めたいのか。
 どうしてそこまでされなければいけないのか。自分が一体、薫子たちに何をしたというのか。

 ――私はただ静かに暮らしたいだけなのに!

 薫子と、その夫、嘉一郎たちが姿を見せる。

「あら、お姉様。お目覚めね。とんでもなく無様! アハハハ!」
「……薫子、お願い。帰らせて……。このことは誰にも言わない……黙ってるから……」
「誰にも言わない? 化け物の分際で! 立場を理解しなさいよね!?」
「落ち着け、薫子。目的を忘れるな」

 嘉一郎がまるで物分かりのいいような顔で、近づいてくる。
 その不気味な笑みに、沙苗は後退ってしまう。

「手荒な真似をしてしまって申し訳ない。乱暴な真似はしないように言っておいたんだが、これだからちんぴらは困る」

 嘉一郎が軽薄な笑みを浮かべた。口元は笑っているが、目は全く笑っていない。

「……何が目的なんですか」
「簡単だ。あなたの力を借りたい」
「わ、私の?」
「薫子から聞いたが、未来予知ができるんだろう。その力を私のために使って欲しいんだ。今後、この社会で何が起こるのかとか、どの会社に投資すればいいのか、とかね」
「本当に未来が分かるのなら、だけど」

 薫子が蔑みの視線を向けてきた。
 どうやら先見というものが、自分の意思で見るものを決められないことを知らならしい。

「……条件があります」
「はあ!? 条件って何様……」
「薫子、落ち着いて。条件ってなんだい?」
「こんな土蔵ではなくて、ちゃんとした部屋に移してください」
「何言ってんの! 化け物なんだから、この土蔵で十分じゃない!」
「薫子」
「……分かったわよ」
「もし、有益な情報を教えてくれるんだったら、いいだろう」
「どこへ投資するのかが知りたいんですよね」

 パーティーで、見知らぬ人たちがしていた会話を思い出す。
 しかしすぐに言っては駄目だ。
 いかにも先見でそれを知ったと振る舞わないといけない。

 沙苗はその場で座ると目を閉じる。

 そしてさも意識を集中しているかのような素振りをする。
 たっぷり時間を取ると、もったいぶるようにゆっくりと目を開けた。

「……見えました」
「教えてくれ」

 嘉一郎は目を輝かせ、前のめりになった。

「さ、三洋に投資すればいい、と……」
「三洋? なぜ」
「……汽船事業に新しく参入しようとしているからです。き、木之元汽船という会社が買収されたはず」

 最初は手妻を前にわくわくする子どものように目を輝かせていた嘉一郎だったが、具体的な名前が出て来たことで、その顔がにわかに真剣みを帯びる。
 薫子が、嘉一郎の洋装の袖を引く。

「今の話は本当なの?」
「……確かに木之元汽船が買収された。だが、買収したのは三洋じゃない」
「じゃあ、でたらめじゃないっ」
「――三洋が、他社に気取られないように秘密裏に進めたかったから、別会社に買収させた、とありました」

 自分でも何を言っているのか理解はしていない。でもパーティー会場で耳にしたことを間違いなく言えているはずだ。あとは偶然、耳にしたこの情報が間違っていないことを祈るしかない。

「詳しく調べよう。他には?」
「……先見は一日に一回が限度なんです。すごく体力を使うので……。お願いです。こんな場所じゃ体力を回復させられません。せめて、ちゃんとした部屋に」
「いいだろう」
「嘉一郎さん、正気なの!?」
「木之元汽船が買収された話を知っているはずがない。つい最近の出来事だ。薫子、君はそのニュースを知ってたかい?」
「知らないわよ、そんなこと」
「三洋という会社は?」
「それは、なんとなく聞いたことがあるけど……」
「女はだいたいそんなもんだろう。仮に経済に関心があったとしても、木之元汽船買収なんて新聞にちらっと出たにすぎない。たしかに、あの買収はきな臭いと思ったんだ。裏に三洋か。たしかに……真実みはある。分かった。部屋へ案内しよう。体を休めて、その調子で明日も先見を頼むよ。もしもっと有益な情報をくれたら、ここから解放しよう」
「ありがとうございます。がんばります」

 嘉一郎の顔には嘘だと書いてある。
 しかしここは従順なふりをする必要がある。

「こっちだ。ついてきて」

 薫子が気に入らなさそうに睨み付けてくるのを、沙苗は背筋を伸ばし、胸を張って、無視して歩き出す。目の端で薫子が今にも噛みつかんばかりに歯ぎしりしそうな顔をしていたが、嘉一郎の手前、何もできないようだった。

 沙苗の身柄は、土蔵から本宅――洋館の三階にある一室へ移された。

「ここでどうかな。寝台もある。机も。食事は?」
「大丈夫です。今は休みたいので」
「じゃあ、また明日。いくぞ、薫子」
「……ええ」

 薫子は嘉一郎と一緒に出ていった。
 窓は一つだけ。開けると、夜風が部屋に入ってくる。ここは三階。窓からの脱出はさすがに無理だ。それを見越してこの部屋に案内したのだろう。

 今し方嘉一郎たちが部屋を出ていく時に見えたが、沙苗を誘拐した男が部屋のすぐ前にいた。見張りだろう。

 窓から見える景色を見る限り、先見で見えたのはここに違いない。
 つまり、あの瓦礫はこの館。燃えていた人々はきっと、この館で働く使用人たち。

 運がいいことに、沙苗の手元には木霊たちがいる。

「みんな、ここを脱出するためにも力を貸して」

 任せろ言わんばかりに木霊たちは自分の胸をたたく。
 心強さに、くすっと笑みがこぼれた。

 景虎の助けがなくても十分、抜け出せる。
 景虎が来なければ、先見で見た悲惨な状況は回避できるはず。

「私は一人じゃないわ」
「なに独り言を言ってるの。気持ち悪いんだけど」

 邪悪な笑みを浮かべた薫子が、部屋に入ってきた。
 沙苗は思わず身構える。

「……私に何かをしたら、嘉一郎さんが怒るわよ」
「嘉一郎さん? 馴れ馴れしいのよ! 多少、痛めつけたところで別にどうってことないでしょ。その髪飾り、綺麗よね。さっきから気になってたの。よこしなさい」
「……これは大切なものなの。あなたなら欲しいものは夫に買ってもらえるでしょう」
「分からない? あんたから奪うのが楽しいのよ! 化け物の分際で逆らうんじゃないわよ!」

 薫子に苦しめられるのはたくさんだ。

「私はもう座敷牢に閉じ込められた時の私じゃない」

 口に出すと、

「あの時のままよ! 化け物!」

 薫子が向かってくる。

「みんな、お願い……!」
「は?」

 その瞬間、部屋中に散らばった木霊たちが体当たりをして、花瓶を割った。

「ひ!」

 薫子が何の前触れもなく割れた花瓶に、声を上げた。
 木霊を認識できない薫子からしたら、勝手に物が動き、壊れていくようにしか見えないだろう。

「奥様、何の音ですか!?」

 物音に監視役の男が洋燈を手に、部屋に飛び込んでくる。男もまた勝手にものが壊れるの様子を目撃して、顔を青くする。
 さらに机が倒れ、家具を動かす。

「や、やっぱり、あんたは化け物だわ!」

 薫子たちは肝を潰しながら部屋を飛び出していく。
 沙苗は悠然と廊下に出る。

「ちょ、ちょっとあんた! 何とかしなさいよ!」

 薫子が男に追いすがる。

「冗談じゃない! 邪魔だ!」

 男から邪険に振り払われるが、薫子はしがみついて離れようとしない。男が苛立ったように薫子を足蹴にした瞬間、その手の燭台が絨毯に落ちた。

 絨毯に引火する。
 炎はたちまち大きくなり、男と、沙苗、薫子の間を分断する。
 たちのぼる黒煙が廊下にたちこめ、視界を奪う。

 木霊たちも元々は木より生まれたあやかしのせいか、炎を恐れ、沙苗にしがみつく。
 沙苗が元来た道を戻ろうとするが、「待ってぇ!」と薫子が情けない声をあげた。

 ――薫子はいたぶるために部屋にきたのよ。助ける必要は……。

 しかしここで見捨てれば、それこそ薫子と同類になってしまう。
 沙苗は薫子の腕を掴んだ。

「ああああああ……!」

 彼女のまとう霊力が、沙苗の手を焼く。無論、痛みは、景虎に触れられた時よりもずっと弱い。それでも痛みは感じ、肌が破れ、血が流れてしまう。
 それでも歯を食いしばり、窓まで引きずっていく。

 ――嫌な女だけど、大嫌いな女だけど、それでも!

 手に痛みが走った。景虎ほど強い霊力がないとはいえ、半妖の身体は傷つけられた。
 それでも腰を抜かした薫子ともども、部屋に避難する。
 薫子から手を離したあと掌を見ると、真っ赤に腫れ上がり、ひりつく。

 ――これくらいだったら大丈夫。

 扉を閉めるが、扉の継ぎ目からは黒煙が入り込んできていた。
 沙苗は窓を開ける。

「助けて……!」

 あらんかぎりの声で叫ぶ。

 火事に気づいた人間たちが、屋敷から逃げ、屋敷を見上げている。
 薫子もまた窓から顔を出し、「助けてぇぇぇぇ!」と泣きべそまじりに絶叫する。

 ――せっかく景虎様の力を借りずに、逃げられるはずだったのに!

 部屋に侵入してくる煙もどんどん濃くなってくる。
 どれだけ沙苗たちが声を上げても、火の勢いが強いせいで、外の人々は屋敷に近づくこともままならない。

「も、もう駄目よ……。おしまいだわ……」

 薫子がその場に崩れ落ちる。
 煙を吸い込みすぎた沙苗は激しく咳き込みながら、その場に崩れた。

「ちょっと、薫子!」

 ぐったりしてしまっている。叫んだ拍子に煙を吸い込んだ沙苗も咳き込んだ。

「みんな、逃げて……」

 自分にすがりつく木霊たちに呼びかける。彼らなら窓から外へ逃げられる。
 彼らは、沙苗と一緒にいると言ってくれるが、甘えるわけにはいかない。

 炎は何もかもを飲み込む。

 それは弱い霊力しか持たぬあやかしも例外ではないのだ。
 彼らは、沙苗にとって人生の恩人。それをこんなところで失うわけにはいかない。

「これまで、ありがとう……ゲホゲホ!」

 窓辺にいる木霊たちは右往左往する。

「みんな!」

 木霊たちがぴくっと動きを止めた。

「お願いだから逃げて……!」

 可哀想だと思いつつ、沙苗は木霊たちを窓の外へ追いやった。
 木霊たちがふわふわと漂いながら、窓の外へ下りていくのを眺め、ずるずると足下から崩れ落ちていく。

 煙を吸いすぎたせいで身体に力が入らない。

 ――……ここで、私……。
 景虎は執務に励んでいた。すでに日が暮れかかる時間帯。
 今頃、沙苗は夕食の準備緒していることだろう。そう、頭の中では沙苗のことばかり考えていた。無論、考え事をしながらでも煩わしい事務作業を処理する動きは変わらない。

 その時、景虎は部屋にあやかしの気配に気づく。
 それもよく親しんだことのある、ものだ。

「三船、悪いが少し休憩する。一人にしてくれないか?」
「わ、分かりました」
 三船は突然の言葉に驚きながらも、そこは出来た秘書。
「では、十分後にまた……」

 頭を下げて部屋を出て行く。
 景虎は背後の窓を開けた。そこにいたのは木霊。

「沙苗のそばにいなくていいのか?」

 木霊たちはじたばたといつも以上に落ち着かないそぶり。
 景虎に対して、懸命に何かを伝えようとしている。

「……沙苗に何かあったのか」

 木霊たちが大きく頷いた。
 血の気が引き、身体が小刻みに震える。

「案内しろっ」

 景虎は窓から外に飛び降りる。二階分くらいならば、無傷で着地できる。
 そのまま執務室を飛び出した景虎は裏手に止められた自動車に向かう。
 ちょうど係の人間が車の清掃をおこなっていた。

「おい、自動車を使うぞ!」
「わ、分かりました!」
「クランクを回せ!」
「は、はいっ」

 係の人間がクランクを回せば、エンジンが動き出す。
 景虎はアクセルをベタ踏みして、敷地を飛び出した。

 冷静に、落ち着けと己に言い聞かせても、鼓動が早くなる。
 ハンドルを握り締める両手がみるみる汗で湿っていった。
 沙苗に危機が迫っていることに、全身がこれまで感じたことがないくらい恐怖と不安に苛まれているのだ。

「沙苗はどこだっ」

 彼らは腕で進むべき方向を示してくれている。
 紅蓮の炎に包まれる洋館が見えてきた。

 ――あそこに沙苗が!?

 景虎は自動車から飛び降りると、館へ向かって駆ける。

「あなた、誰ですか!」
「ここは私有地ですよ!」

 道を阻もうという男たちに「邪魔だ!」と叫ぶ。
 景虎の一睨みで男たちは顔を青ざめさせ、道を空けた。

 唖然として景虎を見つめる人々の中に、嘉一郎の姿を認めた時、何が起こったのかを察した。しかし今は構っている場合ではない。

 ――あいつの処理は後回しだ!

 人々が見上げる方へ眼をやった。そこだけ窓が開いている。

 ――あそこに沙苗か!

 景虎は、炎の渦巻く館内へ突入する。
 紅蓮の炎が天井を階段を、壁を包み込む。

 霊力で編み上げた炎で本物の火を塗り潰し、景虎は崩れかけた階段を駆け上がっていく。

 ――沙苗! 間に合ってくれ!



 メリメリと扉が音をたてて崩れ、緋色の炎が噴き上がった。
 熱風が全身に吹きつけ、肌を焦がす。

 視界が涙でぐちゃぐちゃになり、ぼやける。
 すでに息をすることもままならない。呼吸をすれば肺に熱風が入り込み、むせるだけでうまく呼吸ができない。
 頭の芯がぼやけ、手足の感覚が失われていく。

「かげ、とら、さま……」

 視界がみるみる黒く塗り潰される。
 その時、屋敷が揺れる。
 緋色の炎を圧するように、青白い炎が部屋に雪崩れ込んだ。
 身体に吹き付ける熱波が消え去り、まるで一迅の春風のような穏やかさを感じた。
 そしてその中に、馴染み深い気配が混ざっていることに気づく。

 ――景虎様の、霊力……。

 朦朧としていた意識がゆっくりと覚醒する。
 重たい足音が近づいてくる。
 重たい瞼を開けると、そこに肩で息をし、肌をところどころ黒く汚した景虎が立っていた。
 これは何かの夢だろうか。とうに自分は死んでいて、走馬灯でも見ているのだろうか。
 景虎が手を振ると、白い炎が消えていく。そのあとには本物の炎も跡形もない。

「沙苗……無事で……」

 景虎は今にも泣き出しそうな顔をすると、両膝をおる。

「景虎様……? これは夢……?」
「現実だ。沙苗、本当に良かった……」
「どうして」
「木霊たちがお前が危ないと教えに来てくれた」
「み、みんなが……。景虎様、ありがとうございます。やっぱりあなたはすごいお方です……」
「すごいものか! お前を危険な眼に遭わせ、未来の夫として、これほど恥じることはない……」
 すまない、と景虎はその場で額を擦りつけんばかりに土下座をする。
「頭をあげてください! 景虎様は、なにも悪くないじゃないですか……!」
「……許してくれるのか」
「許すも何もありません。何の罪もないのに……」
「ん……んん……」

 薫子が小さく呻いたかと思うと、目を開ける。
 鈍い光を浮かべていた瞳が、見張られた。

「か、怪物!」

 薫子は慌てふためき、景虎から距離を取った。
 そこへ騒がしい足音が聞こえてくる。

「薫子!」
「嘉一郎さん!」

 使用人たちを引き連れた嘉一郎が薫子の元へ駆け寄ろうとする。
 しかし景虎は立ち上るや刀を抜き、その首筋に剣先をあてがう。

「ひ……!」
「動けば、首をとばすぞ。教えろ。どうしてここに沙苗がいるっ! 何をした!」

 嘉一郎がごくりと唾を飲み込む。

「だ、だめ! 傷つけないでください!」

 沙苗は声をあげた。

「かばうのかっ」

 沙苗の頭にはまだあの生々しく残る、先見の記憶があった。

「そんな下らない男のために、あなたが罪を負うのを見たくないだけです!」
「こいつのせいで、お前は死にかけたんだ!」
 こんなにも激高する景虎を見るのは初めてだった。
「たとえそうであっても……景虎様のおかげで生きています! だから……」
「くっ……」

 景虎は不満を露わにしながらも刀を下ろす。
 と、嘉一郎が媚びるような上目遣いで、景虎をうかがう。

「なあ、取引しないか? その女の未来予知の力を使えばお互い、好きなだけ儲けることが……ぐへえ!」

 景虎は、嘉一郎の顔面めがけ拳を叩きつけた。嘉一郎は白目を剥き、鼻血を出して、その場に倒れた。

「嘉一郎さん!? ちょっとあんたたち! その怪物を早くたたきのめしなさいよ! 役立たず! 給料泥棒ぉぉぉぉぉ……!」

 薫子は絶叫するが、使用人たちは景虎が怖くて近づけない。

「……黙れ」

 景虎は薫子の元へ近づくと、その喉元に剣先を突きつける。
 歯の根が合わなくなった薫子ががくがくと体を震わせる。
 喉笛に刀の切っ先が触れると、血が一筋、垂れた。

「ち、血ぃぃぃぃぃ……! 死ぬ! こ、殺されるぅぅぅぅぅぅぅ!」
「黙らないと本当に殺す」
「ひぃ……!」

 薫子は両手で口を塞ぎ、こくこくと頷く。
 景虎は呆然と立ち尽くす使用人たちを一瞥した。

「警察を呼べ」