「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」

 甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。

「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」

 嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。
 笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
 その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。

「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易を営んでいる会社をしていてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」

 聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。

「お姉様はどうして?」
「……か、景虎様と一緒にきているの」
「で、その景虎様は?」

 薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。

「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」

 言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
 彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。

「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」

 ――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。

 そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。

「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」

 耳元に、薫子が口を寄せる。

「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」

 そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。
 本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。

「……少しだけ、よ」
「さあ、行きましょう」

 こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
 沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。
 肌寒い晩で、庭先には誰もいない。

「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えな
い」

 薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。

「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」

 鋭い声に、びくっとしてしまう。
 それが愉快そうに薫子は笑う。

「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」

 呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
 掌が汗でべちょべちょになる。

「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だった」

 ――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?

「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」

 薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。

「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてている。

「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」

 ――親切心? どこがよ!

 薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。

「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」

 ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。
 そんな人の心が壊れているはずがない。
 過去の出来事の虚実については分からない。
 でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。

「なによ、その反抗的な目は!」

 薫子が叩こうとその手を振り上げた。

「っ!」

 沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。
 しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。

「?」

 おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」



 ――くだらん話だったな。

 もちろん国の将来よりも、近いうちの占拠にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。
 今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。
 人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。
 この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。
 目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
 この場でのエスコートは当然のように行われている。
 愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。

 ――あんな連中にさえ容易くできることなのに。

 いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
 呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
 彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
 あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
 しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
 政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。

 早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。
 まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
 いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
 そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。
 辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
 景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
 半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
 一つ屋根の下で暮らし、親しみ深いものになっている婚約者であればなおさら。
 この気配をたどれば、彼女がどこへ行ったかは分かる。
 我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。

 なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。
 庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
 男女の前に、沙苗がいた。
 彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。

 ――あいつ、春辻の次女か。

 里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
 景虎はその手を強く握り締める。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」

 洋装姿の男が声を上げた。

「邪魔だッ」

 冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。

「い、痛い……!」

 手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。

「離して上げて下さい……」

 苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。

「さっさと失せろ」

 よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
 すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎はしゃがむ。
 沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。

「立てるか? 辛いようなら誰かを呼ぶ」

 ――こんな時にも手をかして立ち上がらせることもできないなんて。

「……だ、大丈夫です。少し休めば」

 しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。

「もういいのか?」
「……はい」

 景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。