パーティー当日、景虎は早めに帰宅した。朝方、早く帰宅することは聞いていたから、沙苗は三つ指で出迎える。

「おかえりなさいませ、景虎様」
「沙苗さん、お久しぶりです」
「藤菜さん!? お久しぶりです」

 景虎が連れていたのは、『つだ屋』の女将、藤菜だった。

「着付けのために来てもらった。俺では細かいところが分からないからな」
「というわけで、失礼いたしますね。沙苗さんのお部屋はどちらですか?」
「こちらです」

 沙苗は先を進みながら、ちらちらと背後を気にする。
 藤菜はきょろきょろと屋敷の中を見回していた。
 藤菜と景虎はかなり親しいようだから、沙苗の家事の実力に目を光らせているのかもしれない。
 拭き掃除は毎日しているから、汚れてはいないとは思うのだが。

「な、なにか気になるものがございましたか?」

 部屋に入りながら、沙苗はおっかなびっくり尋ねる。

 ――婚約者としてどうかしら、とか言われたらどうしよう……。

 藤菜ははっとして、「すみません。ジロジロと不躾に見てしまって」と少し照れ隠しに微笑んだ。

「あ、咎めているのでは……。こんなに広いお屋敷の手入れをすることには不慣れなもので、もしなにか気になることがございましたら、教えていただきますと嬉しいと思いまして……」

 藤菜は慌てて首を横に振った。

「いいえ、私から申し上げることなんて何も。ただ」久しぶりお屋敷にお邪魔しましたので、懐かしいと思ってついキョロキョロと……。これだけの広いお屋敷を、今は沙苗さんだけで切り盛りされているんですよね。大したものです」
「いえ、そんな……至らないことばかりですが」
「ふふ、ご謙遜を。景虎様が連れて来てくださったということは、お屋敷が見せても問題ないと判断されたからですよ。だってあなたがこちらにいらっしゃるまでは、『うちは汚いから来るな』って一度も中を見せてはくれなかったのに」
「……そ、そうなんですか」
「ええ。それが今回は私のほうから『沙苗さんをこちらへ連れてくるんですか?』って聞いたら、『そのままうちにきてくれ」と、当然のように仰られて……無駄話が過ぎましたね。さっそく、着付けをさせていただきますね」

 そうして着付けを手伝ってもらう。
 さすがは呉服屋の女将。ぱぱっと支度を終えてしまう。

「さあ、では鏡の前にどうぞ」

 鏡台の前にいく。まだ結婚はしていないので色つけの留め袖姿の沙苗。
 緑青の着物に薄く金を混ぜた白い牡丹の小紋が鮮やかに散らされ、白地に黄色を混ぜたところに幾何学模様を配した袋帯をつける。
 髪には、お気に入りの蝶の透かしの入った簪。

「どうです?」
「素敵です!」

 自然と笑みがこぼれる。

「とてもお似合いです」
「仕立てていただいた着物がそれだけ素晴らしいからです」
「もちろん着物も最高のものをご用意しましたからね。でも、沙苗さん、あなた自身がとても素敵だからということを忘れないでくださいね。あなたはもっと自分の素晴らしさに気づくところからはじめたほうがいいです」

 胸のやわらかな場所に触れてくれるような藤菜の優しい言葉に、熱いものがこみあげてるのを意識した。

「藤菜さん……ありがとうございます」
「あら、まだ終わりじゃありませんよ。お化粧もしませんと」
「ま、待ってくださいっ」

 藤菜は左目を隠している前髪に触れようとする、藤菜の手を思わずよけてしまう。

「ご、ごめんなさい。左は……あの……」
「大変しつれいいたしました。では、それ以外なら大丈夫ですか?」
「……すみません」
「謝らないでください。私こそ事前にちゃんと聞くべきでした。では、続けますね」

 藤菜は笑って流してくれる。その優しさが、ありがたかった。
 お化粧までしてもらうと、鏡の前にいるのが別人のように感じられた。

「藤菜さん。お化粧の仕方、教えてもらえませんか?」

 人にしてもらうだけでなく、自分でもちゃんとお化粧をしたいと思えた。
 いつでも藤菜にやってもらえるとは限らない。どんな時でも自分でできるようになっておきたい。特に、景虎と一緒にでかける時には特に。

「もちろんです。お化粧をしっかり学べば、景虎様はますますあなたに惚れること請け合いですよ」
「ますますというのは、さすがに言い過ぎです。まずは……その……少しでも景虎様に不不愉快に思われないよう、身綺麗になりたくて」
「……ふふ」
「私、おかしいこと言いました?」
「初々しいと思っただけです。ま、恋愛に関しては外野がとやかく言うべきではないですものね」
「?」

 頭に疑問符をのせた沙苗だったが、藤菜は笑ってそれ以上、詳しいことは教えてくれなかった。

「それじゃ、お化粧に関してはまた後日にでも。坊ちゃんのところへ行きましょう」

 居間へ足を運ぶと、景虎は座っていた。

「坊ちゃん、仕上がりましたよ」
「坊ちゃんはやめろと……」

 振り返った景虎は少し驚いた顔をする。
 その視線を受け止められる自信がない沙苗は俯く。

「坊ちゃん」

 何も言わずにじっと見ている景虎の膝を、藤菜が優しく叩く。

「よく……似合っている」
「あ、ありがとうございます」

 景虎の視線を意識するだけで、頬が火照る。

「本当に。二人とも初々しい。まるで初恋を覚えてたての子どもよう。ホホホホ」

 呆れまじりに藤菜が呟くと、景虎は咳払いをして「余計なことを言うな」と言う。

「これは申し訳ございません」
「藤菜、車で送る」
「路面電車の駅まででいいですよ、坊ちゃん。そこからは一人で帰れますので」
「だが」
「パーティーに遅れてはいけません」
「分かった」