半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 沙苗は台所で朝食を作るかたわら、竹でできたお弁当箱におかずやご飯を詰めていく。

 景虎のお弁当だ。

 何でも持っているし、不足があれば買えるだけの資力のある景虎に、沙苗ができる恩返しといえば食事を作ることくらい。
 貴重な休日を自分のために使ってくれた景虎にどうしてもお礼がしたくて、考えたのが弁当だった。

 弁当箱をしっかり包む。
 それから起床した景虎のために、朝食を卓袱台へと並べていく。

「おはようございます、景虎様」
「ああ……」

 言葉少なに景虎は応じ、箸を動かす。
 元より、沙苗と景虎の間に愛情のつながりはないのだから、そんな態度を残念に思うなんていけないのに。

「これは明太子か?」
「はい。正造さんから……」
「正造?」
「あ、魚屋の店主さんから明太子をすすめていただいたので、ご用意してみたいのですがいかがでしょうか?」
「うまい」
「良かったです」
「この照り焼きもいけるな」
「はい。ぶりの照り焼きが美味しいと教えてもらったので。作り方は魚屋の女将さんから教えてもらいました」

 景虎は素っ気ないながらも、しっかり美味しいものには美味しいと言ってくれる。

 食事を終えると、今日は昆布茶を淹れた。いつも緑茶ではと思って、これもまたお茶屋さんの店主からおすすめしてもらったものを用意していた。

「さっきからどうした?」

 指摘されてどきっとする。実はさっきから膝のうえにお弁当をのせていたのだが、渡す機会をずっと窺っていたのだ。

 お弁当なんてとつぜん作られてわずらわしいと思われないだろうか。
 素人が作った料理のせいで外食する機会を奪われ機嫌をそこねないだろうか。
 そもそも弁当を望んでくれるだろうか、などなど。

「あの……」

 そこへ、三船が迎えに来る。

「行ってくる」
「か、景虎様!」
「? 何だ?」
「これ……もし、良ければ。お昼のお弁当です」
「俺に?」
「よろしければ……です。あの、突然こんなものを作ってしまってすみません。お昼はなにかご予定があるか事前に聞くべきでしたが、この間の休日のお礼の意味をこめて、作らせていただきました……」

 手にあった重りがなくなる。
 顔をあげると、景虎が弁当の包みを手にしていた。

「……わざわざ用意してくれたのか」
「わざわざ、というほどのものではないのですし、外で食べるとは比べものにならないものですが……」

 ごにょごにょと口の中で呟く。

「ありがとう。お前の料理はうまい。自信を持て」
「!」

 どきりとする。景虎はどうしてこんなにも、沙苗を喜ばせてくれる言葉を口にしてくれるのだろう。

「いってらっしゃいませ、景虎様……!」

 いつも以上に声を張り、沙苗は見送った。



 昼、景虎は書類をあらかた片付ける。
 三船は景虎が弁当を受け取ったことを知っているから、席を外している。

 ――弁当、か……。

 こうして誰かの手作りの弁当を食べるのは久しぶりだ。

 まさか沙苗が弁当を用意してくれていたとは予想もしていなかった。
 沙苗に触れたいという自分でも戸惑うような気持ちを覚えて以来、沙苗と距離を取るようにしていた。と言っても、突き放すような態度にならぬよう注意を払いながら。
 あくまでこの婚約は契約であり、愛はないのだと。

 しかし弁当は拒否できなかった。
 わざわざ作ったものを拒絶されれば、沙苗が悲しむと咄嗟に思ったのだ。
 自分のために作ったと言われ、驚きと同時に、胸の奥がくすぐったくなった。またも不用意に口元が緩んでしまいそうになるところだった。

 ――食べ物を無駄にすることはできないからな。
 誰に対してか分からないような言い訳をしてから、包みをとく。
 竹で出来た弁当箱の上には折り畳まれた紙が置かれていた。

 開くと、そこには『おしごと おつかれさまでございます ごむりはなさらず 沙苗』と、最初の頃にくらべると格段に上達した平仮名で書かれていた手紙が入っている。

 最後の署名である『沙苗』というのは、数日前に、彼女から自分の名前はせめて漢字で書きたいので教えて欲しいとお願いされたのだ。

 さすがに平仮名や片仮名は日々の練習でさまになってはきたものの、漢字ともなるとまだ書き慣れていないせいか、かなり崩れている。
 しかし沙苗が努力家であることは日々の練習成果や書き損じて捨てられた紙をこっそり回収して見ているから、分かっている。

 ――沙苗のやつ。
 また、口元が緩んでしまう。一体いつから自分の表情筋はこんなにも締まりのないものになってしまったのか。

「おい、まだ仕事してるのか?」

 一臣が無遠慮に入ってくる。

「昼、行こうぜ」
「昼なら今食べるところだ」
「食べるところって……」
「沙苗が弁当を作ったんだ」
「愛妻弁当か。くっそ。うらやましい奴め……って、なんだ、そりゃ。下手な文字だな。がきの手習いか? お、おい!」

 一臣は、景虎の手の中でゆらめく青白い炎を前に、炎と同じか、それ以上に顔を青ざめさせた。

「これは沙苗が書いたものだ。あれを侮辱するということは、私を侮辱するのと同義だと分かってるのか」
「お、落ち着けよ! そ、そうか。奥さんのかぁ」
「失せろ」

 景虎の辛辣な言葉と、絶対零度の眼差しに、一臣は怖れをなしたのか、「じゃあ、ごゆっくり」と引き下がる。

 が、去り際、「うまくいってるみたいじゃんか。というかお前、いつになく目元が優しいな。まるで恋する乙女だぞ」と言い逃げしていく。

 一瞬不意を突かれ、唖然としてしまった。
 久しぶりに、先見を見た。

 先見は眠っている時にみるが、夢のように曖昧模糊としていたり、ぼんやりしているようなものではないから、すぐにそれと分かった。

 まるで実際にそこに立っていると錯覚するような生々しさを全身で感じる。
 夜気の冷たさ、鼻の奥にくるような冷たい風、踏みしめる地面の感触までも。

 景虎と同じ軍服姿の人たちが大勢いた。
 この中に景虎がいるかもしれない。
 沙苗は周囲を見回したくてしょうがなかったが、先見では自分の見たいものが見られるわけではない。

 ただ目の前で繰り広げられる芝居を観客として見ていることしかできない。
 介入もできず、かといって中座することも許されない。

 先見が終わるまで、その場を立つことも許されず、それだけに見たくないものを見続けなければいけない。
 星空のまたたく夜空を、黒い影が飛び回っている。
 成人男性より一回りは大きいだろうか。

 あやかし。

 巨大な翼を大きくはばたかせるそれが、建物を過ぎった瞬間、煉瓦造りの尖塔が大きくずれたかと思うと、煉瓦をぼろぼろと地上へ降らせながら、大勢の人々めがけ落下する。

 ――逃げて!

 無駄だと知りながら思わずにはいられない。
 尖塔が地面に落下する。地響きが、沙苗の元にまで伝わった。

 呻き声と、流れ出る鮮血。
 大勢の人々が混乱し、右往左往し、悲鳴を上げる。

 そこへ、飛行するあやかしがさらに追い打ちをかけた。

 体勢を立て直せないまま、軍服姿の人々が食われていく。その咀嚼音を、沙苗は耳を塞ぐこともできず、聞き続けた。



 目覚めた沙苗は気持ち悪さに口を押さえた。
 頭の中ではまだ先見の余韻がありありと残り、えづいてしまう。

 断末魔に、あやかしが人を食らう咀嚼音。周囲に立ちこめる、鉄錆の臭気。
 それを目を閉じることも許されず、沙苗は見せられていたのだ。

 まばたきすると、涙がじわりとにじみ、頬を流れる。

 木霊たちが心配して寄り添ってくれる。
 沙苗は小刻みに体を震わせ、木霊たちを抱きしめた。

「……だ、大丈夫……大丈夫……」

 木霊がいてくれて良かった。もし一人だったらとても起き上がることができなかっただろう。

 ――朝ご飯、用意しないと。

 木霊たちのおかげで、どうにか気持ちを取り戻すことができた。
 深呼吸を繰り返し、早鐘を打つ鼓動が鎮まるのを待つ。

 ――あの中に、景虎様もいらっしゃった?

 巨大な尖塔が落下し、大勢の人が下敷きになった。

 先見は将来、必ずおこる。
 見たものを言うべきだろう。もしかしたらあの悲惨な結末を避けられるかもしれない。
 でも信じてくれるだろうか。

 わけのわからない夢を見たと一笑に付されて終わりにならないだろうか。

 これまで先見を伝えた人たちと同じように、お前のせいで不幸がやってきたんだ、半妖の血が不運を招き寄せたんだと罵倒されないだろうか。

 ――って、私は一体何を見てきたの。景虎様が里の人たちみたいなひどいことをしたことが一度でもあった? 文字を教えてくれて、色々な景色を見せてくれて、食べたことがないものをごちそうしてくれて……。

 景虎はそんな人ではない。それは短い間、一緒にいただけでも分かること。
 里にいる怪物たちと、景虎は同じじゃない。

 ――頭ごなしに否定したりはしないはず。そうよ。先見を伝えることだって、立派な恩返しになるじゃない。

 部屋を出ようとしたその時、木霊たちが足にしがみついて引き留める。

「みんな、遊んであげたいけど、今からご飯を」

 木霊たちは一斉に手で文机を示す。

「机がどうしたの? ……って、紙?」
 眠る時にはなにもなかったそこに、丁寧に四つ折りにされた紙が置かれていた。
 そこには『沙苗へ』と沙苗がとても真似できないような美しい筆遣いで書かれていた。
「沙、苗……私の名前!」

 ということは、これを置いたのは景虎だ。

 沙苗は手紙を開く。

「あ!」

 笑みが、口の端にのぼった。

『べんとう おいしかった またつくってくれるとうれしい 景虎』

「!」

 嬉しさをこらられず、紙をぎゅっと抱きしめてしまう。
 鼓動がとくとくと早くなった。

 ――それに、この最後のこの文字はきっと……景虎様の名前なんだわ。
 沙苗という自分の名前はもちろんだが、景虎という名前もしっかり書けるようになりたい。いつ使うのかということより、知っておきたいと強く思った。

 ――そうよ、これが私の知っている景虎様。言ってみるべきよ。

「……っと、いけない。朝ご飯」

 台所に向かうと、弁当箱が洗われて乾かされていた。
 夜遅くに帰宅したから、景虎が洗ってくれたのだろう。

 沙苗は朝食、それからお弁当の準備をする。あんなお手紙をもらったのだから、恩返しとかそういったこととは無関係に作りたくなってしまう。

 起床した景虎と一緒に朝食を取る。

「お手紙、ありがとうございます! すごく嬉しかったです!」
「お前が書いてくれたものに返事をしただけだ」
「ふふ、そうですね。でもありがとうございます。私にとってははじめてのお手紙ですから。一生大切にしますっ」
「そこまでのものじゃないだろう」
「いいえ、私にとっては、そこまでのものなんです。あのお手紙のおかげで、景虎様の漢字を知ることができたんですから。練習します!」
「俺の名前はあとでいいから、まずは自分の名前を優先しろ」
「う。が、がんばります。あ、こちら、どうぞ」

 朝食を食べ終え、お茶を飲む景虎にお弁当を渡す。

「今日の弁当も楽しみだ」
「ご期待に添えればいいのですが」
「添えるさ」

 そんな他愛のないやりとり一つとっても、沙苗の鼓動は早鐘を打ってしまう。

 ――今はドキドキしてる場合じゃない。ちゃんとお伝えしないと。

「……景虎様、お話があるのですが……その……信じられないと思うのですが、わ、私には未来が見えるんです」

 景虎の無表情が揺らぎ、その目がかすかに瞠られた。

「それは、半妖だからか。それとも、春辻の血か?」
「……おそらく半妖のせいだと思います」

 もし春辻の血にそんな不思議な力があれば、あんな風に邪険にされることなどなかったはずだ。

「昔から、先のことが見えたりするんです。私はれを先見と呼んでいます。でも実家ではそれを告げても気持ち悪がられるどころか、私のせいで起こったことだと叱責されてしまって」
「……それを今日見たのか?」
「はい。景虎様と同じ軍服姿の方々が大勢いて――」

 沙苗は自分が見た先見について語った。

 景虎はいつも通り背筋を伸ばしたまま口を挟むことも、笑うこともなく、ただ耳を傾けてくれた。

「それはいつ起こるか分かるか?」
「……分かりません。すみません。肝心なことをお伝えできず」
「いや。あやかしの出現に関しては気を配ろう。よく知らせてくれた」

 沙苗は聞き届けてくれたことに安堵を覚える。
 沙苗に見送られ、いつものように家を出る。
 正直、沙苗の先見の力は頭から信じたわけではなく、半信半疑だった。

 しかしこれまで突飛なことを一度も言い出さなかった沙苗が真剣な顔で伝えてきたことだ。
 今さら景虎の関心を引くような子どもぽいことをするはずもない。

 ――信じるべきだな。

 内容が内容だ。それこそ、何もなければそれに越したことはない。
 しかしもし本当にそういう事態が起こるのであれば、部下たちの命を守るためにも気を配るべきだ。

 分かっていることは、夜であること、尖塔の建物がそばにあることと、そして空を飛ぶあやかしが出てくること。

 と、馬車の向かいに座っている三船が小さく笑う。

「三船。なにがおかしい?」
「笑っていたのではなく、微笑ましいなと思っておりました。今日も沙苗様のお弁当ですね」

 三船は、膝においた弁当の包みを見ている。

「せっかく作ったものを無下にはできないだろう。それだけだ」
「最近、大佐の雰囲気が変わったと皆が噂しております。これも、婚約者のおかげなのだろうか、大佐も人の子だったんだ、と」
「……誰がそんな馬鹿なこを言っている」

 景虎の目が鋭くなったことに、三船は慌てる。

「それは!」
「人の子だとかほざいてるのはどうせ一臣だろう。馬鹿なやつだ」

 三船は曖昧に笑う。
 庁舎へ出勤し、いつものように仕事をこなしていく。

 その日は結局何事も起こらずに過ぎていった。
 沙苗にそれを話すと安心していたようだが、それでも彼女の表情にある影は去らなかった。いつかは絶対に起こるということを経験しているからだろう。

 景虎も夜の出動要請に関しては常に気を配るようにした。
 そして沙苗から先見を聞いた一週間後、日が暮れた時間帯。

 あやかしの出現を三船が伝えてくる。
 現場指揮は他の狩人が任されたが、景虎は自分も向かうと半ば強引に了承させた。
 退魔部隊が保有する自動車に乗り込み、現場に急行する。

「……大佐がご自身が行かれるとは、なにか予感があるのですか?」

 常にない強引さで現場に急行している景虎を、ハンドルを握る三船は不安そうに眺める。

 ただの人間であれば虫の知らせというのは、本人も周りも大して気にも留めることはないが、こと常人にはもてぬ強い霊力をもつ狩人――特に、全ての狩人諸家の頂点に立つ天華の当主の虫の知らせというのは、特別な意味を持つ。

「杞憂であればそれでいい」

 景虎はそう言葉少なに答えるに留めた。余計なことを言って必要以上に不安にさせる必要はない。

 無線通信機により現場の情報が逐一、伝えられる。

 出現したあやかしは蝙蝠型。そして急行する現場には、教会の尖塔がある。

「三船、もっと急げっ」
「は、はいっ!」

 現場に到着するなり、景虎は三船の制止も聞かずに飛び出した。

 景虎は頭上高く飛び回るあやかしではなく、尖塔を見る。そしておそらくあれが崩れた場合の落下地点にいるだろう部下たちに目を向ける。

「お前ら! そこから離れろ!」

 景虎の叫びに、部下たちがびくっとして振り返る。

「命令だ!」

 景虎がどすのきいた声で叫べば、部下は慌てたように指示に従う。
 直後、あやかしが尖塔のそばを横切ると同時に、その巨大な翼が、尖塔を裂いた。
 ぐらりと揺らいだ尖塔が切断され、ついっさきまで部下たちがいた場所に落下した。

 巨大な土埃が巻き上げられ、辺りに立ちこめた。
 その全てが、沙苗から聞いていたとおり。

 ――次に起こることは……。

 刀を抜く。

 ――あやかしの襲来!

 顔を覆って怯んでいた部下を突き飛ばした景虎は、襲いかかってきたあやかしの攻撃を、受け止めた。
 まさかこの状況で、冷静に動ける人間がいるとは思わなかったのだろう。

 あやかしの顔が驚きに包まれる。
 一刀の元に、あやかしを斬り伏せた。

「全員、体勢を立て直せ! くるぞ!」

 あやかしは一体ではない。
 尖塔の落下から間髪いれずにやってくる襲撃に一時は恐慌状態に陥っていた部下たちだったが、景虎の叫びが彼らに理性を取り戻させた。

 彼らは冷静にあやかしに対処する。
 あやかしも体制の立て直しの速さに慌てているようにも見えた。

 景虎は闇夜にも映える美しい白髪を振り乱し、あやかしを両断する。
 周囲に気を張り巡らせる。あやかしの気配は完全に消失した。

「全員、すぐに撤収準備に入れ!」
「はっ!」

 敬礼する部下たちにあとのことを任せ、三船の元に戻る。

「大佐……どうして尖塔が崩れることが分かったのですか?」

 景虎の行動は明らかに、尖塔が崩れることを前提にしたものだったから、疑問に思うのも当然だ。
 まさか沙苗が教えてくれたとは言えない。

「あのあやかしは飛び回るばかりで一向に攻撃をしてこなかった。だから何か思惑があると思ったんだ。すぐそばに、崩しやすい建物があることに気付いたから、念の為に避難させた。それだけだ」

 もし無防備なままの部下たちの上に、あの尖塔が落下していたらと思うと、背筋がぞくりとする。

 部下の多くが下敷きになり、さらに巻き上がった土埃によって視界が奪われるとい
う最悪の副次効果も合わさって、どれだけの命が奪われていたか分からない。

 ――被害が出さずに済んだのは、沙苗のおかげだな。

 景虎があやかし出現に関する処理を終えて帰宅する頃にはまたも深夜近い。
 しかし気持ちは晴れやかだ。

 ――明日は、三船に言って、沙苗にショートケーキを届けさせようか。それとも食べたことがない、アイスクリーム、パンケーキもいいかもな。
 本当は連れていってやれればいいのだが、非番は当分こなから仕方がない。
 そんなことをあれやこれやと考えて、はっと我に返る。

 ――また沙苗のことばかり、考えていたな。いや、これは正当な礼のためで……。

 誰に言い訳をしているのか分からないが胸の内でそう自分に言い聞かせるように呟く。
 三船に礼を言い、馬車を降りて屋敷に入った。

 そして居間に入るなり、

「景虎様!」

 沙苗が縋るような眼差しを向けてきた。

「どうしてまだ起きてるんだ」
「胸騒ぎがしたんです。気のせいだと言い聞かせたんですが、どうしても気になってしまって眠れず……」
「……胸騒ぎ。春辻の血、かもな」
「はい?」
「いや、こっちのことだ。お前の胸騒ぎは正しかったようだな。安心しろ。お前から聞いていたから、被害は出ていない。あやかしも倒せた。お前のおかげで、将来有望な連中を失わずに済んだ。ありがとう」
「景虎様もお怪我は……」
「平気だ」
「良かった……!」

 沙苗は少し涙ぐみながら、はにかんだ。
 先見というのはまるで現実の出来事のうように生々しいと沙苗は言っていた。
 大勢の人間が崩れた尖塔の下敷きになるのを沙苗はまるで自分が体験しているかのように生々しく感じ取っていたということになる。

 今の安堵の表情は、先見で一足早く体験していたということもあるのだろう。

 泣き笑いの表情の沙苗を前に、胸が締め付けられるように苦しくなった。
 普通の夫婦であればこういう時、抱き寄せ、安心させるべき言葉をささやけるのだろう。

 しかし景虎にはそれがそうすることが叶わない。それが悔しい。

「景虎様? ぼうっとしてどうされましたか?」

 沙苗に呼びかけられ、我に返る。

「お茶を淹れましょうか?」
「あ、ああ……頼む」
「はい、すぐにっ」

 すぐにお茶を運んで来てくれる。
 切なかった気持ちを押し流すように、茶を一気に飲んだ。

「先見で見るのは、怖ろしいことばかりだったのか?」
「ほとんどは。でも一つだけ……幼い頃からずっと見ていたものがあったんです」
「ずっと?」
「先見でそれまで見えたものは近い将来の出来事のはずでしたが、それだけが違ったんです。それに、怖いことでもありませんでした。それどころか私にとってはとても素敵な先見で……」

 沙苗は、ちらっと景虎を見てくる。

「まさか俺と関わり合いがあるか?」
「関わり合いどころか、そのものです。景虎様のお姿を、幼い頃から見ておりました。寂しげに、切なそうに笑う、景虎様です。そして私にとって…………初恋の人でした。あ、初恋と言っても、あの、その気持ちを今も引きずっているということではありません! 幼い私にとっては、景虎様のように輝くように美しい方を見るのが初めてで……! ちゃんと自分の分は分かっているつもりですので……」

 景虎が『愛するつもりはない』と口にしたことを気にしているのだろう。沙苗はしどろもどろになりながら言葉を重ねた。

「……そ、そうか」

 景虎はぎこちなく頷くのがやっとだった。
 こういう時、どう反応を示すべきなのが正しいのだろう。
 景虎には分からなかった。

「とにかく俺は無事だ。だからもう眠れ」
「はい。おやすみなさいませ」

 沙苗は小さくお辞儀をすると、居間を出ていく。

 ――初恋……こんな俺に?

 この顔も美しいだなどと言われたのは初めてだ。
 他人は元より奇異なものとして見ていた。それが普通だったし、景虎自身それに対して特別な気持ちを抱くこともなかった。

 今でこそ馴れたとはいえ、この白い髪に赤い目は景虎にとっては忌まわしいものでしかなかったのだから。それは今も変わらず、鏡に自分の顔をうつすことさえ嫌っていた。

 それなのに、美しい、と彼女の澄んだ声で聞くと、胸が締め付けられるような錯覚を覚える。



 沙苗は部屋に戻ると、布団にもぐりこむ。
 しかしなかなか眠気はこず、ずっと、さきほどの景虎とのやりとりを思い返す。

 ――景虎様からお礼まで言ってもらえるなんて。

 まるで夢を見ているような心地。
 自分の先見がはじめて、誰かの役に立った。そのことが嬉しい。はじめて先見を役立ててくれたのが景虎で嬉しい。

 気味悪いと思うことなく、その場で話を聞くだけのふりをするわけでもなかった。
 だからこそ、そのあとの己の軽率さが悔やんでも悔やみきれない。

「いくらなんでも、初恋なんて言うべきじゃなかったのに……」

 きっと最悪の事態を回避できた上に、景虎も無事でいたことに心から安心したせいで、話さなくてもいいことが口からこぼれてしまったのだ。

「今ごろ、“俺たちの関係が契約にすぎないというものだと忘れたのか?”って、思われたらどうしよう……」

 思い返すと、初恋と聞いたあとの景虎は口調が心なし、ぶっきらぶだったように思える。

 今からでもさっきのことは嘘ですと言ったほうがいいだろうか。
 いや、そんなことをしたら余計、煩わせるだけだ。

 これだったら、未来予知なのではなく、人の心が読める力であってくれたらどれだけいういだろう。
 相手の心さえ手に取るように理解できるのなら、こんな風に戸惑うこともなかっただろう。
 でも景虎のことを先見ではじめて見たときの気持ちは、沙苗にとってかけがえのないものであることに他ならない。

 傷だらけの身心に、あの時の気持ちがどれだけ救いとなってくれたか。
 だからこれからも出来ることはしよう。少しでも役に立てるように。

 沙苗はそう思いながら眠りに落ちていった。
 景虎はうんざりした気持ちで、自分がこれから入って行く建物を見上げる。
 皇居外苑にある、兵部省である。
 兵部省はこの国の軍事を一手に担う機関。
 西洋文明に対しては迷信の類いは捨てたということになっている政府の秘密組織である退魔部隊の管轄をしている場所でもある。

 なぜここに来るのが憂鬱なのかと言えば、ここは現場よりも、足の引っ張り合いを常とする政治の舞台だからだ。
 そんなものとは距離を置きたい景虎だったが、退魔部隊の隊長を務める以上、呼び出しに応じないわけにもいかない。

 出かける際、一臣と鉢合わせ、兵部省に呼ばれたと愚痴るといつも軽口しかたたない男に「頑張れ」と励まされてしまった。そういう場所だ。

 秘書の三船を車と一緒に外で待たせ、景虎が出向いたのは、兵部省陸軍部軍務局局長室という長たらしい札のかかった部屋だ。

 戸を叩いて名乗ると、「入れ」と声がかかった。
 軍帽を外し、「失礼します」と入室する。
 相手は茶褐色の軍服姿の、初老の男。制服ごしにもでっぷりとした肉付きの良さが隠しきれていない。
 それがこの男が軍人としてよりも、役人としての嗅覚が優れていることを示している。

 ――今出川少将、だったか。

「座れ」

 今出川は対面の席を示す。失礼します、と景虎は座る。

「この間の活躍は聞いている。味方の犠牲を事前に食い止めたらしいな。さすがは、天華の御曹司、というところかな」

 褒めながらも、小馬鹿にしたような眼差し。
 狩人への反応はだいたい、これだ。霊力などというものへの失笑。
 だがその旧態依然として表向き捨て去ったものに縋らなければ、この国の平穏はないのも事実。

「ありがとうございます。それで御用向きは」

 景虎は軽く流して、さっさと話を進める。ここへ来る時は、用件は来てから話すと言われたきりだった。

 素っ気ない態度がつまらないのか、今出川は不満そうに鼻を鳴らしながらも、話を進める。

「鹿鳴館で開かれるパーティーに出席しろ。お前は退魔部隊の隊長であると同時に、伯爵家の当主でもある。出席し、政財界の大物たちに広く資金を求めるのも大切な務めだ」

 高い霊力を持つ狩人は異相持ち。異相は不気味がられる一方、生きる宝石と称して愛でたがる好事家が、政財界には一定数存在する。

「ちょうど婚約者もいるだろう。彼女も一緒に連れて行け」
「……なぜです」
「将来の伴侶と出席するのは当然のことだと思うが? なにかできない事情があるのか?」
「私の婚約者は、パーティーのような賑やかな席が苦手なんです。客寄せが必要ならば、私だけで十分でしょう」
「駄目だ」
「なぜです」

 つい、視線が厳しくなると、今出川の顔にかすかな怯えの色が入るが、若造相手に臆していると思われたくないと、強気の顔で身を乗り出す。

「彼女も男爵家の娘だし、なにより帝の勅命で決まった婚約だろう。賑やかなものが苦手だ、などとそんな理由で出席を控えれば不仲を疑われる。それではお前も困るだろう。ただでさえ狩人という古くさい存在が、帝との距離が近いことを不服に思う者もいる時世だ」

 ――お前のように、な。

「……分かりました。話してみます」
「いや、出席するよう説得しろ。これは上官命令だ」
 今出川は話は終わりだと言わんばかりに、腕を組んだ。



「景虎様!?」

 まだ日が落ちていないにもかかわらず、景虎が帰宅したことに、沙苗は思わず変な声をあげてしまう。

「お仕事でお怪我でもされたのですか!?」
「いや。今日はお前に少し話さなければならないことがあって、早めに帰ってきた」
「私に……?」

 ――あの初恋の話のこと!?

 まさか早めに帰宅してまでも、あの発言が我慢できなかったのか。

「今なにをしていた?」
「ゆ、夕食の支度を」
「そうか、なら、悪いが俺の分も用意してくれ。食事をしながら話そう」
「…………か、かしこまりました」
「どうかしたか?」
「い、いえ……」

 ――まさか、離縁? 半妖ごときが自分に初恋なんて調子にのったことを言うな、とか……。

 景虎の背中を見送った沙苗はどきどきしながら料理をおこなう。

 そして景虎と食卓を囲む。
 沙苗は心ここにあらずで、俯きぎみで機械的に食事を口に運ぶ。

 ――謝ろう。全力で。

「……話ついてだが」

 沙苗は箸を置く。

「沙苗?」

 その場で土下座をする。

「お、お許しください! この間のことは本当に、言うべきではなかったと思います! でも繰り返し申し上げますが、初恋というのはあくまで初めて見た時の感情で! 今は景虎様に恋心など微塵も抱いておりません! し、信じて下さいっ!」
「おい、何を言って……」
「初恋と言ったことが煩わしくて、私との契約関係を打ち切るということではないのですか……?」
「どうしてそういう話しになるんだ」
「あの、は、話と聞いて、真っ先にそのことが思い浮かんだのですが…………ち、違ったんですか…………?」
「お前はそそっかしいな」
「っ!」

 景虎の見せた笑顔に、どくん、と鼓動が跳ねた。
 口を半開きにしたまま、景虎の美しい笑顔に見とれてしまう。

「土下座をやめて、ちゃんと座れ。さっきから俯きっぱなしだったのは、そのことを考えていたからか」
「それじゃあ……?」

 景虎はパーティーへの話をされた。
 勝手に勘違いしたことにくらべると、肩すかしを食らってしまうほどの用件だった。

「そ、そんなことでしたか。あ、すみません。大切なお仕事のことなのに!」
「いいや、お前の言う通り。そんなこと、だ。だがそんなことも、お役所ではやらなければならない時がある」
「だが、お前は出席するな」
「でも」
「俺の妻ともなれば望むと望まないとにかかわらず注目を浴びることになる。パーティーに出席するような連中は常に噂話に飢えているような暇人どもだ。お前も嫌な目に遭うかもしれない」

 景虎はそう言ってくれるが、欠席すれば、なおさらその噂好きの暇人たちの好奇心をくすぐることになりはしないかと考えてしまう。

「……私たちの婚約に関しては帝の勅命によるもの、ですよね。もし今回のパーティーを欠席したとして、私たちが不仲だという話が広がったりすれば、良くないのではありませんか?」
「それは……」

 沙苗が少し我慢すればそれで済む。景虎の立場を危うくしたくはなかった。
 なにより、先日の先見につづいて、パーティーに出席すれば、景虎の役にも立てる。

「出席いたしますので、ご安心ください。景虎様の顔に泥をぬるような真似は決していたしませんから」
「そんなことは心配していない。お前は日々よくやってくれている。俺は、お前に妻としての献身は求めないと言っておきながら、今では弁当を当然のように作らせて……。だから、お前が俺の顔に泥を塗るということはまずありえないことだ」

 はっきり言われると、頬が熱くなってくる。

「弁当は私が勝手にしていることですから、お気になさらず」
「……それにしても狩人の方々のことを見世物のように扱うなんて、理解できません……」

 箸と茶碗を持つ手に思わず力がこもってしまう。

 景虎たちはこの国のために身を危険にさらし、あやかしと戦っている。

 国の為に働く人々のことを見世物にするような人々が、本来、民の手本にならなければいけない上流階級の人々の中にいるだなんて。

「その人たちの心にこそ、あやかしが宿っているように思えてしまいますっ」

 思わずそんな声がこぼれすと、景虎が驚いたように見てくる。

「な、何か?」
「お前もそうやって怒るのだな。はじめて見たから少し驚いただけだ」
「すみません。つい、感情的に……」

 赤面して俯き、黙々と箸を動かす。

「そうして人の為に怒れるのは美徳だ」
 パーティー当日、景虎は早めに帰宅した。朝方、早く帰宅することは聞いていたから、沙苗は三つ指で出迎える。

「おかえりなさいませ、景虎様」
「沙苗さん、お久しぶりです」
「藤菜さん!? お久しぶりです」

 景虎が連れていたのは、『つだ屋』の女将、藤菜だった。

「着付けのために来てもらった。俺では細かいところが分からないからな」
「というわけで、失礼いたしますね。沙苗さんのお部屋はどちらですか?」
「こちらです」

 沙苗は先を進みながら、ちらちらと背後を気にする。
 藤菜はきょろきょろと屋敷の中を見回していた。
 藤菜と景虎はかなり親しいようだから、沙苗の家事の実力に目を光らせているのかもしれない。
 拭き掃除は毎日しているから、汚れてはいないとは思うのだが。

「な、なにか気になるものがございましたか?」

 部屋に入りながら、沙苗はおっかなびっくり尋ねる。

 ――婚約者としてどうかしら、とか言われたらどうしよう……。

 藤菜ははっとして、「すみません。ジロジロと不躾に見てしまって」と少し照れ隠しに微笑んだ。

「あ、咎めているのでは……。こんなに広いお屋敷の手入れをすることには不慣れなもので、もしなにか気になることがございましたら、教えていただきますと嬉しいと思いまして……」

 藤菜は慌てて首を横に振った。

「いいえ、私から申し上げることなんて何も。ただ」久しぶりお屋敷にお邪魔しましたので、懐かしいと思ってついキョロキョロと……。これだけの広いお屋敷を、今は沙苗さんだけで切り盛りされているんですよね。大したものです」
「いえ、そんな……至らないことばかりですが」
「ふふ、ご謙遜を。景虎様が連れて来てくださったということは、お屋敷が見せても問題ないと判断されたからですよ。だってあなたがこちらにいらっしゃるまでは、『うちは汚いから来るな』って一度も中を見せてはくれなかったのに」
「……そ、そうなんですか」
「ええ。それが今回は私のほうから『沙苗さんをこちらへ連れてくるんですか?』って聞いたら、『そのままうちにきてくれ」と、当然のように仰られて……無駄話が過ぎましたね。さっそく、着付けをさせていただきますね」

 そうして着付けを手伝ってもらう。
 さすがは呉服屋の女将。ぱぱっと支度を終えてしまう。

「さあ、では鏡の前にどうぞ」

 鏡台の前にいく。まだ結婚はしていないので色つけの留め袖姿の沙苗。
 緑青の着物に薄く金を混ぜた白い牡丹の小紋が鮮やかに散らされ、白地に黄色を混ぜたところに幾何学模様を配した袋帯をつける。
 髪には、お気に入りの蝶の透かしの入った簪。

「どうです?」
「素敵です!」

 自然と笑みがこぼれる。

「とてもお似合いです」
「仕立てていただいた着物がそれだけ素晴らしいからです」
「もちろん着物も最高のものをご用意しましたからね。でも、沙苗さん、あなた自身がとても素敵だからということを忘れないでくださいね。あなたはもっと自分の素晴らしさに気づくところからはじめたほうがいいです」

 胸のやわらかな場所に触れてくれるような藤菜の優しい言葉に、熱いものがこみあげてるのを意識した。

「藤菜さん……ありがとうございます」
「あら、まだ終わりじゃありませんよ。お化粧もしませんと」
「ま、待ってくださいっ」

 藤菜は左目を隠している前髪に触れようとする、藤菜の手を思わずよけてしまう。

「ご、ごめんなさい。左は……あの……」
「大変しつれいいたしました。では、それ以外なら大丈夫ですか?」
「……すみません」
「謝らないでください。私こそ事前にちゃんと聞くべきでした。では、続けますね」

 藤菜は笑って流してくれる。その優しさが、ありがたかった。
 お化粧までしてもらうと、鏡の前にいるのが別人のように感じられた。

「藤菜さん。お化粧の仕方、教えてもらえませんか?」

 人にしてもらうだけでなく、自分でもちゃんとお化粧をしたいと思えた。
 いつでも藤菜にやってもらえるとは限らない。どんな時でも自分でできるようになっておきたい。特に、景虎と一緒にでかける時には特に。

「もちろんです。お化粧をしっかり学べば、景虎様はますますあなたに惚れること請け合いですよ」
「ますますというのは、さすがに言い過ぎです。まずは……その……少しでも景虎様に不不愉快に思われないよう、身綺麗になりたくて」
「……ふふ」
「私、おかしいこと言いました?」
「初々しいと思っただけです。ま、恋愛に関しては外野がとやかく言うべきではないですものね」
「?」

 頭に疑問符をのせた沙苗だったが、藤菜は笑ってそれ以上、詳しいことは教えてくれなかった。

「それじゃ、お化粧に関してはまた後日にでも。坊ちゃんのところへ行きましょう」

 居間へ足を運ぶと、景虎は座っていた。

「坊ちゃん、仕上がりましたよ」
「坊ちゃんはやめろと……」

 振り返った景虎は少し驚いた顔をする。
 その視線を受け止められる自信がない沙苗は俯く。

「坊ちゃん」

 何も言わずにじっと見ている景虎の膝を、藤菜が優しく叩く。

「よく……似合っている」
「あ、ありがとうございます」

 景虎の視線を意識するだけで、頬が火照る。

「本当に。二人とも初々しい。まるで初恋を覚えてたての子どもよう。ホホホホ」

 呆れまじりに藤菜が呟くと、景虎は咳払いをして「余計なことを言うな」と言う。

「これは申し訳ございません」
「藤菜、車で送る」
「路面電車の駅まででいいですよ、坊ちゃん。そこからは一人で帰れますので」
「だが」
「パーティーに遅れてはいけません」
「分かった」
 途中で藤菜を駅で降ろしてから、景虎は沙苗に気を遣ってゆっくり自動車を走らせてくれた。
 日が沈むと、背の高い建物に切り取られた夜空には、里から見るよりも光の乏しい星が一つ二つと光り始める。

 ――街が明るすぎるからかな。

 街路灯は煌々と明るく、人手の多い通りはまるで真昼のように明るい。

 帝都は昼には昼の、夜には夜の顔をそれぞれ持ち、顔を変えながら一日中、眠ることを知らない別世界のようなものだ。

「パーティーの場に出るのははじめてだろうから、こつを教える」
「こつ?」
「会話には適当に相槌を打っていればいい。お前は会話は得意ではないだろうから、聞かれたことに対して答えておけ。自分から積極的に話さなくても向こうから話しかけてくれるし、向こうが一方的にぺらぺらと喋る」
「とはいえ、うまくできるでしょうか」
「会場では、お前のそばから離れないようにするから安心してくれ」
「ありがとうございます」
「いや、俺が出席を頼んだんだ。俺のほうこそ、来てもらってありがたいと思ってる」  景虎の声は、胸に染みこむように優しかった。

 自動車がとある洋風建築の前に止まった。
 建物の前にはいくつもの馬車が止まり、そこから身だしなみを整えた男女が出てきては、建物の中へ吸いこまれていく。

「ここだ」

 沙苗たちは自動車を降りる。
 周りの客たちはみんな、男性が女性の手を引いているが、沙苗たちの間にそれはない。

 あれはエスコートというのだと景虎から事前に教えられた。
 自分たちはふれあえない。仕方がないと分かっていながら寂しいと思ってしまうのだから困ったものだ。

 ――私が普通の人間であったなら。

 この手を景虎に握ってもらい、一緒に会場へ行けるのに。
 そんな風なことをつい考えてしまう。

 ――いけない。集中しないと。

 沙苗は変な考えを追い出す。
 ここへ来たのは、景虎の仕事のためだ。

 と、景虎が沙苗の手をじっと見つめていることに気付く。

「景虎様?」

 景虎ははっとした顔をする。

「……手に、なにかついていますか?」
「いや、何でもない。行こう」

 ――どうしたのかな。

 景虎も少し緊張しているのだろうか。
 景虎に限ってそれはないか。

 責任ある立場だから、色々と考えなければいけないことがあるだけだろう。
 鹿鳴館は一階に食堂や談話室が、そして二階が舞踏会場になっている。
 今日はあくまで舞踏会ではなく、パーティーということもあり、そこかしこで様々な人たちが話をしていた。

 建物の中はきらびやかさで包まれていた。
 天井から下がる照明、場内をいろどる豪奢な装飾の数々。

 そしてそこに並ぶ、内装や装飾にも負けない美しい装いの女性たちを前に、気後れを覚えてしまう。
 肉食動物の檻に投げ込まれた小動物よろしくびついている沙苗に比べ、景虎の堂々として、洗練されている立ち振る舞いには、さすがに目を奪われる。

 胸で輝く勲章や、その切れ長の赤い瞳に、背中に流した白銀の髪。
 他の男性たちとは一線を画した存在だ。

「安心しろ。ここにいるどの女性たちより、お前は綺麗だ」
「! 景虎様……」
「胸を張れ。俯いていては、この場の雰囲気に流されるだけだ。自信をもて。藤菜も褒めていただろう」

 ――そうよ。藤菜さんの太鼓判があるんですもの。

 藤菜が自動車から下りる際、沙苗の耳元で『笑顔を忘れないでくださいね。沙苗さん、あなたは素敵ですよ』とわざわざ言ってくれたのだ。

 背筋を丸めていてはこれまでと同じ。装いが違うだけで、心は座敷牢時代と何ら変わらない。そんなことでは着付けをしてくれた藤菜に、わざわざ着物を買ってくれた景虎に申し訳がない。

 沙苗の立ち振る舞いは、それこそ同伴している景虎の名誉にも直結するのだから。

 あんな女を嫁にもらうことになって天華家は大丈夫かと思われでもしたら、申し訳がたたない。
 顔を上げ、背筋を伸ばし、にこりと微笑む。

「そうだ。笑っているほうがずっと素敵だ」
「! は、はい……」

 素敵という言葉に、沙苗は頬をそめた。
 景虎の容姿はこんな大勢の人たちの中に埋没することがない。それどころか人が多ければ多いほど、その存在感は増すように見える。

「俺の数歩後を歩くようにしろ」
「分かりました」

 人々がまるで花の香りに吸い寄せられるように、景虎に集まってくる。
 その数の多さに沙苗は面食らってしまうが、景虎は馴れたもので自然に応じる。

「みなさん、お会いしたかった」

 ――景虎様!?

 表向き、ということを知っていなければ、言葉を失っていただろう。
 沙苗の中にある景虎へに印象が全て塗り潰されるような、爽やかな笑顔。

 女性たちは頬を桜色に染め、うっとりとした目で見つめる。

「景虎様はたしか婚約されたと伺いましたが」
「沙苗です」

 景虎は虫も殺さぬ笑顔で、沙苗を紹介してくれる。

「沙苗でございます」

 沙苗は深々と頭を下げた。

「ほう、さすがその方が勅命で……」
「たしか、春辻男爵家のご令嬢なのですよね」

 ――そんなことまで知られてるのね。

 正直、見ず知らずの人間に自分のことを知られているということは薄気味の悪さしか感じない。

 事前に教えられた通り、相づちを基本に、二言三言と質問に答えていると、相手のほうがどんどん喋
りだす。

 自分たちはどこでどんな事業をしていて、こういうパーティーに出席するのは何度目で、ドレスや着物、宝石に関してはどれだけ高価で珍しいものか、金を積んで名工に特注された一点物であるかなどなどと、こちらが尋ねもしないのに、休むこともなく捲し立てるように話し続ける。

 口べたな沙苗はただただ圧倒されてしまう。

 ――すごい。よくこんなに話すことが見つかるわ。

 いちいち真剣に聞いていたら、それだけで気力と体力を奪われていたことだろう。
 沙苗が笑顔で相槌を打つだけで相手は「景虎様の婚約者の方は聞き上手ですのね」と上機嫌になってくれる。

 本当はほとんど話の内容は頭に入ってきていないことに罪悪感を抱いてしまう。
 しかし大半の人たちの目当ては、景虎だ。

 景虎は軽妙な会話と笑顔で女性を魅了しながら、男性たちとは経済や世界情勢について活発に議論していた。

 沙苗が聞いてもちんぷんかんぷんだったが、あっという間に景虎が男女関係なく人々の心を掴む一部始終を見て感嘆せずにはいられなかった。

 そしてようやく人の波が切れる。
 沙苗は肩で息をしながら会場の片隅へ避難する。

「疲れただろう」
「す、少し……。景虎様こそ、私以上にたくさんの人たちとお話をされていましたけど、大丈夫でしたか?」
「もう馴れた」

 景虎はさらっと言ってのけた。

「もう切り上げよう」
「よろしいのですか?」
「十分役割は果たした。さっさと家に帰り、お前と静かに過ごしたい」
「え……」
「何だ?」

 自然にこぼれた言葉だったのだろう。景虎は小首をかしげる。
 沙苗は自分が過剰に反応してしまったことが恥ずかしい。

「わ、私もそうしたいと思っていたところです」
「なら行こう」

 そこに、「景虎っ」と声がかかった。

 振り返ると、でっぷりと太った男性がこちらへ駆け寄ってきた。

「少将、どうされたのですか」

 景虎はさっきまで見せていた屈託ない笑顔ではなく、いつもの無表情で応じる。

 つまり、景虎の素を知っている人ということだ。

「そちらは?」
「婚約者の沙苗です」
「沙苗でございます」
「はじめてましてお嬢さん。可憐でお美しい。少し景虎を借りてもよろしいですか?」

 しかし景虎はその場から動こうとしない。少将、と呼ばれた男性が怪訝な顔になる。

「さっさと来い」
「申し訳ありません。今帰るところです」
「何を言っている。先生方と顔を合わさず帰るつもりか? 馬鹿を言うなっ」
「では、沙苗も一緒に」
「なにをふざけたことを……」
「私は真剣ですが。沙苗はパーティーの席には不慣れ。彼女の傍を離れるわけにはいきません」
「お嬢さんに政治の話は難しいし、相手はこの国の重要人物たちだ。国策について話すのだぞ」
「少将。私は……」
「私なら平気です」

 沙苗は差し出がましいと思いつつ、口をはさんだ。

 男はニヤッと笑う。

「というわけだ。お嬢さんの許可があるのだから問題ないだろう」
「景虎様。私に構わず、行ってください」

 自分のせいでうまくいくべきものがいかなくなるのは、沙苗の望むところではない。
 場内の雰囲気にも少しずつ馴れて来た。一人で待つことくらい別に苦ではない。

 景虎は小さく溜息を漏らした。

「すぐ戻る。ここで待て。どこにも行くなよ」
「子どもではないんですから」
「……そうだな」

 それでも心配なのか、景虎はちらちらとしきりに沙苗を気にしながらも、男性と一緒に人混みの中に消えていく。

 とはいえ、人に話しかけられても困るので、壁際の椅子に座って休ませてもらうことにする。
 場内では本当に色々な人たちがいて、難しい話をしている。

「三洋が汽船事業に進出するぞ」
「は? 嘘だろ」
「本当だって。木之元汽船、買収されただろ。あれだよ」
「買収したのは三洋じゃなかっただろ」
「汽船で働いてる知り合いが、三洋の役員を事務所で見かけたらしい。他社から警戒されないよう、買収するための会社をわざわざ立ち上げたんだよ。油断してる他社を一気に出し抜こうって腹づもりらしい」
「ってことは、次は三洋に投資かぁ」

 耳に入ってきた話はちんぷんかんぷんだ。
 しかし男たちはニヤニヤしながらそういう話をそこかしこでしている。何に投資するべきか、次に流行るものは何か、新規事業を立ち上げたいかどの分野にするべきか。

 何もかも、沙苗には無縁なこと。

「――あれぇ、もしかして、お姉様?」

 その声を聞いた瞬間、背筋にぞくりとしたものが走り抜け、顔を上げた。

 沙苗は自分の目を疑った。

「か、薫子……」

 そこには緑色の洋装姿の薫子がいたのだ。

 彼女は山高帽に紺色の洋装姿の男の腕に寄り添っていた。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」

 甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。

「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」

 嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。
 笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
 その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。

「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易を営んでいる会社をしていてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」

 聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。

「お姉様はどうして?」
「……か、景虎様と一緒にきているの」
「で、その景虎様は?」

 薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。

「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」

 言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
 彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。

「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」

 ――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。

 そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。

「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」

 耳元に、薫子が口を寄せる。

「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」

 そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。
 本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。

「……少しだけ、よ」
「さあ、行きましょう」

 こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
 沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。
 肌寒い晩で、庭先には誰もいない。

「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えな
い」

 薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。

「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」

 鋭い声に、びくっとしてしまう。
 それが愉快そうに薫子は笑う。

「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」

 呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
 掌が汗でべちょべちょになる。

「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だった」

 ――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?

「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」

 薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。

「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてている。

「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」

 ――親切心? どこがよ!

 薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。

「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」

 ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。
 そんな人の心が壊れているはずがない。
 過去の出来事の虚実については分からない。
 でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。

「なによ、その反抗的な目は!」

 薫子が叩こうとその手を振り上げた。

「っ!」

 沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。
 しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。

「?」

 おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」



 ――くだらん話だったな。

 もちろん国の将来よりも、近いうちの占拠にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。
 今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。
 人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。
 この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。
 目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
 この場でのエスコートは当然のように行われている。
 愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。

 ――あんな連中にさえ容易くできることなのに。

 いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
 呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
 彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
 あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
 しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
 政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。

 早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。
 まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
 いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
 そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。
 辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
 景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
 半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
 一つ屋根の下で暮らし、親しみ深いものになっている婚約者であればなおさら。
 この気配をたどれば、彼女がどこへ行ったかは分かる。
 我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。

 なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。
 庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
 男女の前に、沙苗がいた。
 彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。

 ――あいつ、春辻の次女か。

 里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
 景虎はその手を強く握り締める。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」

 洋装姿の男が声を上げた。

「邪魔だッ」

 冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。

「い、痛い……!」

 手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。

「離して上げて下さい……」

 苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。

「さっさと失せろ」

 よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
 すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎はしゃがむ。
 沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。

「立てるか? 辛いようなら誰かを呼ぶ」

 ――こんな時にも手をかして立ち上がらせることもできないなんて。

「……だ、大丈夫です。少し休めば」

 しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。

「もういいのか?」
「……はい」

 景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。
「ど、どうしてあなたが……」
「どうしてって……。私も結婚してこっちに来てるの。ね、嘉一郎さん」

 甘えた声で名前を呼ばれた男性は頷く。

「君が、薫子のお義姉さん? はじめまして。百瀬嘉一郎と言います」

 嘉一郎と名乗った青年は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 赤みがかった髪に、灰色がかった眼差し。

 笑顔ではあるけれど、どこか軽薄そうな印象を抱いてしまう。
 その点、愛らしい笑顔の裏に夜叉のような本性を隠している薫子とよく似ているような気がした。

「……百瀬、さん。はじめまして」
「嘉一郎さん、貿易業を営んでいてね。その関係で、こうしてお呼ばれされたのよ」

 聞かれてもいないことを薫子はべらべらと喋る。その何気ない会話一つとっても耳障りだった。

「お姉様はどうして?」
「……景虎様ときているの」
「で、その景虎様は?」

 薄ら笑いを浮かべながら薫子が聞いてくる。

「上役の方と席を外されているわ」
「じゃあ、おいてけぼりを食らったのね」

 言葉の端々に、沙苗への嘲笑が滲んでいる。
 彼女の声を聞くだけで身が竦んだ。

「違うわ……。私が、私に構わず話してきてくださいと言ったの」
「ハハ、強がるんじゃないわよ。あんたたちがここに来た時の姿を見てたけどさぁ、ほーんと添え物って無様な姿だったわよね。許嫁でありながら、あんなに距離を取られちゃって……みーんな、こうして男性が女性に付きそうのが礼儀だっていうのに、そんなことさえしてもらえないとか、あ・わ・れ」

 ――あれは景虎様とふれあったら、私が傷つくから……気を遣ってくださってるのよ。

 そう思っても口にはできない。ただ黙ってることしかできないのが悔しい。

「せっかく、こうして出会えたんだから、お庭で話さない?」
「……景虎様にはここで動くなと言われてるの。話ならここでだってできるでしょ」
「少しくらいいいでしょ」
「や、約束したの」

 耳元に、薫子が口を寄せる。

「なに逆らってるわけ? 座敷牢に閉じ込められてた化け物の分際で。ここで今すぐ、あんたが化け物だって暴露してやってもいいのよ」

 そんなことをすれば春辻の家にも打撃があることだ。

 本当にそんなことをするつもりなどない、ただの脅しだと理解しながらも、逆らえない。

「……少しだけ、なら」
「良かった。じゃ、行きましょう」

 こんな状況で笑顔なんて浮かべられるはずもない。
 沙苗は惨めな気持ちになりながら、二人の後ろをまるで使用人のようについていくことしかできなかった。

 肌寒い晩で、庭先には誰もいない。

「さてと。座敷牢で生まれ育った化け物にしては、うまくやってるみたいじゃない。何も知らなかったら、ただの人間にしか見えない」

 薫子が頭の爪先から天辺まで舐めるように見つめてくる。

「……私だって、人間よ」
「口答えをするんじゃないわよ。人間って、半分だけでしょ。で、もう半分があやかし。狩人に首を斬られるべき化け物」

 鋭い声に、びくっとしてしまう。

 それが愉快そうに薫子は笑う。

「そうよね。背筋を伸ばして笑顔をふりまくより、その怯えきった顔が化け物らしくって、お似合いよ」

 呼吸が苦しくなる。見えない手で心臓を鷲掴みにされるような気分になってしまう。
 掌が汗でべちょべちょになる。

「ま、あんたたちお似合いだったわよ。心の壊れた怪物と、半妖っていう組み合わせが。ね、嘉一郎さん」
「ああ、似合いの仲だ」

 ――心の壊れた怪物? 景虎様のこと?

「それ……どういう意味なの」
「なにが?」
「心の、壊れたって……」

 薫子は勝ち誇るような笑みを浮かべた。

「やっぱり知らなかったのね。あんたの夫になる男はね、昔、あやかしに家族を皆殺しにされたの。あの男もあやかしに襲われながらも、半死半生になりながら生き残った。それ以来、あいつの心は壊れたって話よ」
「景虎様のご家族……」

 どくどくと心臓が嫌な音をたてている。

「だからねぇ、あんた、半妖じゃないってばれなくてもいずれ殺されるかもよ、あの男にさ」
「!」
「もし、あんたがどうしてもって言うなら、うちの使用人として雇ってあげないこともないんだけど、どうするぅ? あ、これ、あんたが一応、私の腹違いの姉だから、親切心で教えてやってるんだからねぇ?」

 ――親切心? どこがよ!

 薫子が、沙苗の心を傷つける目的で、告げたことは明らかだ。

「景虎様は、とても賢くて、それに優しい……。壊れてるなんて出任せよっ」

 ショートケーキを食べさせてくれたし、お弁当を美味しいと言ってくれた。お礼の手紙を返してくれたし、それに、沙苗が文字の読み書きのできないことを知っても笑わず根気強く教えてくれた。先見についてだって馬鹿にせず耳を傾けてくれた。

 そんな人の心が壊れているはずがない。
 過去の出来事の虚実については分からない。

 でも景虎と過ごした数ヶ月の時間は嘘をつかない。

「なによ、その反抗的な目は!」

 薫子が叩こうとその手を振り上げた。

「っ!」

 沙苗は首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、顔をかばう。

 しかしいつまでも予想している衝撃はおとずれない。

「?」

 おそるおそる目を開けると、振り上げられた薫子の右手首を、景虎が掴んでいた。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」



 ――くだらん話だったな。

 もちろん国の将来よりも、近いうちの選挙にしか興味のない政治屋どもと話して有意義であるはずもないのだが、抜け出すのに骨が折れた。

 今出川はまだ景虎を引き留めたいようだったが、それとなく仕事をにおわすと政治屋の連中が手放してくれた。向こうのほうがよっぽど、空気が読める。

 人でごった返すパーティー会場を、景虎は堂々とすすんでいけば、人混みのほうから勝手に割れてくれる。

 この目立つ容姿も本当に時たまだが、役に立つこともある。

 目に付くのが、手をつなぐ夫婦。
 この場でのエスコートは当然のように行われている。
 愛妾を多く囲っている政治屋も、仮面夫婦と名高い華族や政商どもも、誰も彼もが本心を隠しながら妻に腕を貸している。

 ――あんな連中にさえ容易くできることなのに。

 いつも以上に美しい沙苗の姿に、目を奪われた。
 呆けたようで一瞬、何と言えば分からず言葉に支えてしまったことが恥ずかしいと思うほど。
 彼女のために手を差し出し、共に手を繋ぎたい。
 あのしなやかな指を、温もりを感じたい。
 しかしそれが叶わないことは分かっている。分かっているからこそ、考えてしまうのだろうか。
 政治家たちと話している間も、沙苗のことばかり考えていた。
 早く誰にも邪魔されない屋敷に戻りたい。

 まだ午後八時を過ぎた頃だ。二人で過ごす時間はあるだろう。
 いや、どこかに食事によって、付き合わせた礼をするべきだろう。
 そこまで考えて、人混みの向こうで待っているだろう沙苗のもとへ戻るが、そこには誰もいなかった。

 辺りを見回すが、沙苗の姿はどこにもいない。この人でごった返す会場でも、沙苗の姿を見失うはずがない。
 景虎は沙苗のまとう、あやかしの気配を探る。
 半妖という特異な彼女の気配はたどりやすい。
 我ながら過保護すぎるとは思う。彼女とて花を摘みに行ったかもしれないし、好奇心に駆られて館内を見て回っているだけかもしれない。
 なのに、いなくなった途端、景虎の胸を焦燥が襲うのだ。

 ――外に出たのか?

 庭へ回ると話し声が聞こえてくる。
 男女の前に、沙苗がいた。
 彼女はこれまで見たことがないくらい怯えきった顔で頭をかばう。女のほうが、沙苗を叩こうと手を振り上げているところだった。

 ――あいつ、春辻の次女か。

 里へ沙苗を迎えに行った時、景虎に対して馴れ馴れしく接してこようとしたことを思い出す。
 景虎はその手を強く握り締める。

「姉に手をあげるのが、春辻の家風、か?」
「か、景虎様……」
「沙苗、もう大丈夫だ。今なにをしようとしていたっ」
「おい、あんた」

 洋装の男が声を上げた。

「邪魔だッ」

 冷たく一瞥すると、「ひっ」と優男は顔を青ざめさせ、後退った。

「い、痛い……!」

 手首に力をこめると、女が顔を歪めた。里で会った時も不快極まりない女だったが、まさか姉に対して平然と手をあげるとは。

「離して上げて下さい……」

 苦しげな沙苗の声に、突き飛ばすように手を離す。

「さっさと失せろ」

 よろめいた春辻の次女を男が支えると、二人は逃げるように走り去っていく。
 すぐに二人のことなど意識の外に追い出した景虎は、座り込んだ沙苗と目線を合わせるようにしゃがむ。

 沙苗は尋常な様子ではなかった。脂汗が浮かび、そして胸を押さえて、呼吸が荒い。

「立てるか? 辛いようなら人を呼ぶ」

 ――こんな時に、手をかして立ち上がらせることもできないなんて。

「……だ、大丈夫です。少し休めば」

 しばらく休むと、沙苗はいくらか顔色がよくなってきて、立ち上がった。

「もういいのか?」
「……はい」

 景虎は沙苗と距離を開けるようにして、歩き出す。



「怪物めっ」

 去って行く景虎を睨み付けた嘉一郎は吐き捨て、洋酒をぐっと呷る。
 それから、薫子のあざのついた手首をさする。

「平気か?」
「へ、平気なわけないでしょ。あんな怪物に触られたのよ……。どうしてやり返してくれなかったのっ」
「し、仕方ないだろ。相手は軍人だ。殴りかかったところでこっちに勝ち目はない。それに、君だっていたんだぞ。もっと酷い目にあわされてたかもしれないんだ……」
「あんな女の前で、恥をかかされるなんて!」
「それにしても、半妖って言っても普通の人間と変わらないな。お前を前にして、あの半妖、顔を青くして震えてたぜ?」
「そんなことないわ。お父様によると、とんでもない不幸を招いたって言ってたもの」
「あれが? そうは見えないが」
「まだあの化け物が子どもだった頃、里の誰かが死ぬとか、干ばつが来るとか、座敷牢でそんな夢を見たって女中に言ったんですって。でもそんなこと取り合わずに無視してたら、そのままの出来事が実際に起こったらしいわ。きっとあの化け物に流れるあやかしの血が不幸を招き寄せたのよ」
「……そうとも言えないんじゃないか?」

 薫子は、嘉一郎が突然何を言い出すのかと、訝しそうな顔をする。

「何? 信じないの? 確かよ」
「いや、嘘をついてるって言いたいんじゃない。こうだって考えられるだろう。あの化け物が、未来を予知したって」
「冗談でしょ。だって、それ以降、何も言い出さなかったのよ」
「それは何を言っても、気味悪がられたり、お前のせいだと罵られたりしたら、その夢を見ても言わなくなるだろう」
「……もし未来を予知したら何だっていうの?」
「もし本当に予言ができるなら、仕事に使えると思ってな」
「あの半妖を?」
「今後、世界で何が起きるのか、どんな分野に投資すれば儲かるのか、そういうことが分かれば……」
「いやよ。あんな化け物にお願いするなんてありえない」
「おいおい、化け物に頭なんて下げる必要ないだろ」
「じゃあどうするの?」
「怖がらせて、従わせるんだよ」

 嘉一郎の呟きに、薫子の口元に大きな笑みが浮かび上がった。

「それ、いいかも! 生意気にあんな上等な着物や簪までつけちゃって、化け物が調子のるなんて許せないもの。ちゃんと、身の程を弁えさせないと!」
「おいおい、壊したりするなよ。金の卵を産むガチョウになるかもしれないんだ」
「分かってるわ。でもあれは化け物だし、痛めつけてやったほうが従順になるわよ、きっと」
「問題はあの軍人のほうだな。さすがに婚約者が行方知れずになれば、面倒なことになるかもしれない……」
「そんなことないわよ。見たでしょ。会場の二人。あんな離れてるのよ。勅命があるから一緒にいますって宣伝して歩いているようなものじゃない。浮気してる人だってああいう公の場所では、妻の仲睦まじいふりをするものよ」
「だが、お前が姉を殴ろうとした時には、止めにはいったぞ。俺まで今にも殺しそうな勢いで……」
「じゃあ、諦めるわけ?」
「まさか」
「なら腹をくくらないと。あの化け物が行方知れずになったって、私たちが関わってるなんて分かるはずがないでしょ」
「……それもそうだな。問い詰められたところで証拠なければ、いくらかあの男でも無茶はできないか」

 薫子に叱咤され、嘉一郎は不敵な笑みを浮かべた。
 沙苗は物心がついた時にはもう、座敷牢に入っていた。

 どうしてここにいるのか、どうして誰も来てくれないのか、そして最低限の世話をしにくる女中たちがどうして自分のことをそこまで嫌うのか、何も分からなかった。

「おとうさま……おとうさまぁ……」

 舌足らずな声で父の名を呼ぶが、誰も応えてはくれない。
 夜になれば、離れは真っ暗で月明かりくらいしかまともな光がない。
 離れのそこかしこには光の届かない暗所があり、そこから何か得体のしれない怪物が現れるような悪夢にうなされては夜中に飛び起き、泣き叫んだ。
 沙苗が泣き出すと、本宅から女中が足音をどたどたといわせながら、やってくる。

「あんたが泣くせいで旦那様や奥様が眠れないじゃない!」
「お、おねがい……こわいの……いっしょにいてぇ……」
「誰があんたみたいな化け物と眠るものですか!」
「わ、わたし、ばけものじゃない……」
「いいや、化け物だよ!」

 女中は懐から手鏡を出して来たかと思うと、それで沙苗の長く伸びた前髪を乱暴に掴むと、たくしあげ、左目を露わにさせた。

 心臓が飛び出してしまいそうなほど、沙苗は驚いた。
 右目は普通の人間なのに、左目だけが、金色で猫のように黒い筋が一本、入っていた。

「いやあ……!」

 怖くて顔を背けてしまう。

「分かっただろう! お前は化け物なんだよ!」

 扉が開けられ、乱暴に腕を掴まれて引きずり出されると、泣く力がなくなるくらいまで叩かれ、「今度、泣きわめいたら殺すわよ!」と脅された。

 夜中に泣きわめいた罰だと食事を抜かれ、泣くことも、眠ることもままならず、沙苗の幼い心は少しずつ色をなくしていった。



 沙苗が目を開けると、自分がどこにいるか一瞬わからず、混乱した。
 薫子に叩かれそうになったのを、景虎が止めてくれた。

 ――それから……?

 その先の記憶が曖昧だった。
 でも今、見えているのは屋敷の部屋の天井。

 沙苗が目覚めたことに気付いた木霊たちが、わらわらと集まってくる。

「みんな」

 心配してくれたのが伝わってくる。

「うなされてた? 本当に?」

 たしかに嫌な夢は見た。幼い頃のことを夢に見るのは久しぶりだ。

 ――きっと、薫子と会ったせいね……。

「本当だ」
「景虎様!?」

 声のするほうを見ると、景虎が壁に背をもたれるように胡座をかいていた。

「お前がうなされているのに気付いて、心配になったんだ」
「薫子たちと話してからの記憶が曖昧なんですけど……私、自分の足で歩けたんですか?」
「木霊たちに支えられて、な」

 景虎は苦いものを呑み込んだような顔をする。

「……景虎様は仕方ありません! 触れないのですからっ!」
「分かっている。でもだからと言って不甲斐なさは消えない……」

 景虎は手巾を差し出してくる。

「使え」
「え?」
「……涙を流していた」
「あ、ありがとうございます……」

 沙苗は受け取ると目尻に滲んだ涙をそっと拭った。

「飲み物は? 茶くらいなら俺でも淹れられるが」
「大丈夫です。ありがとうございます……」
「他にできることはあるか?」
「……しばらく、ここにいてくださいますか?」
「それだけでいいのか?」
「はい」

 沙苗は小さく頷いた。
 本当は彼の温もりを感じたかった。胸が締め付けられるような寂しさを忘れたかった。
 でもそれは叶わないのなら、せめて景虎にここにいて欲しかった。
 それだけでも安心できるから。

 木霊たちが励ますように体の上に乗って、飛び跳ねたり、組み体操をしたりして、沙苗を笑わせようとする。

「本当ににぎやかな連中だな。これまで多くのあやかしを見てきたが、本当の意味で人間じみた行動をとるあやかしは初めてだ」
「本当の意味?」
「あやかしは人を騙したり、たぶらかすため、己の欲を満たす為に人間の真似をする。でもそいつらはお前を励ますために行動している」
「小さな頃の私を、こうして励ましてくれたんです。大切な友だちですから」
「いい友を持ったな」
「はいっ」

 景虎は優しそうに目を細めた。
 景虎との間に会話はなかったが、不思議と気まずさはなかった。

 一緒の空間にいてくれる、ただそれだけのことなのにとても心強かった。

 ――本当に愛してくれていると勘違いしてしまいそう。

 そんなことはないのは分かっているが、それでも構わない。
 景虎が安らぎをくれる。そのことが沙苗にとっては重要だ。
 だからこそ、彼に秘密を持ちたくなかった。

 沙苗は布団の上にのっかる木霊たちに、「ごめんね」と言ってどいてもらう。

 そして布団から抜け出し、景虎と向き合う。

「どうかしたのか?」
「……景虎様、お話がございます。実は、妹から……景虎様のことを聞いてしまいました……申し訳ございません」
 沙苗はその場で深々と頭を下げた。
「俺の?」
「……ご家庭のこと、です」

 どう思われるだろう。たとえ沙苗が自分の意思で聞いたわけでないにせよ、景虎にとっては決して触れられたくないことのはず。それを愛してもいない、ただ形ばかりの夫婦関係を結んでいるにすぎない沙苗に知られ、不愉快に思うだろう。
 もちろん黙っていれば分からないのだから、聞かなかったふりはできる。

 しかしこんな大変なことを知ってしまったら、知らないふりをするのは不実のように思えた。
 もしそれがでたらめであればそれで構わない。でも本当だったら。

 たった一人で耐えている彼の心を支えたい。それが許されないのであれば、せめて寄り添いたかった。たとえ独りよがりだったとしても、沙苗を受け入れてくれた景虎のために何かしたい。

「顔を上げろ」
「……はい」
「どこまで聞いた」

 景虎の声はいつも通り淡々として、その胸の内は分からない。

「ご家族をあやかしに殺された、と……」
「そうか」
「申し訳ありません」
「謝るな。お前が聞きたくて聞いたことではないのだろう。それに、お前が天華の家に入るのなら、いつかは話さなければならないと思っていたことだ」

 景虎は何かを思い出すようにかすかに目を上げ、部屋の片隅に凝った闇をじっと見つめた。