景虎はうんざりした気持ちで、自分がこれから入って行く建物を見上げる。
皇居外苑にある、兵部省である。
兵部省はこの国の軍事を一手に担う機関。
西洋文明に対しては迷信の類いは捨てたということになっている政府の秘密組織である退魔部隊の管轄をしている場所でもある。
なぜここに来るのが憂鬱なのかと言えば、ここは現場よりも、足の引っ張り合いを常とする政治の舞台だからだ。
そんなものとは距離を置きたい景虎だったが、退魔部隊の隊長を務める以上、呼び出しに応じないわけにもいかない。
出かける際、一臣と鉢合わせ、兵部省に呼ばれたと愚痴るといつも軽口しかたたない男に「頑張れ」と励まされてしまった。そういう場所だ。
秘書の三船を車と一緒に外で待たせ、景虎が出向いたのは、兵部省陸軍部軍務局局長室という長たらしい札のかかった部屋だ。
戸を叩いて名乗ると、「入れ」と声がかかった。
軍帽を外し、「失礼します」と入室する。
相手は茶褐色の軍服姿の、初老の男。制服ごしにもでっぷりとした肉付きの良さが隠しきれていない。
それがこの男が軍人としてよりも、役人としての嗅覚が優れていることを示している。
――今出川少将、だったか。
「座れ」
今出川は対面の席を示す。失礼します、と景虎は座る。
「この間の活躍は聞いている。味方の犠牲を事前に食い止めたらしいな。さすがは、天華の御曹司、というところかな」
褒めながらも、小馬鹿にしたような眼差し。
狩人への反応はだいたい、これだ。霊力などというものへの失笑。
だがその旧態依然として表向き捨て去ったものに縋らなければ、この国の平穏はないのも事実。
「ありがとうございます。それで御用向きは」
景虎は軽く流して、さっさと話を進める。ここへ来る時は、用件は来てから話すと言われたきりだった。
素っ気ない態度がつまらないのか、今出川は不満そうに鼻を鳴らしながらも、話を進める。
「鹿鳴館で開かれるパーティーに出席しろ。お前は退魔部隊の隊長であると同時に、伯爵家の当主でもある。出席し、政財界の大物たちに広く資金を求めるのも大切な務めだ」
高い霊力を持つ狩人は異相持ち。異相は不気味がられる一方、生きる宝石と称して愛でたがる好事家が、政財界には一定数存在する。
「ちょうど婚約者もいるだろう。彼女も一緒に連れて行け」
「……なぜです」
「将来の伴侶と出席するのは当然のことだと思うが? なにかできない事情があるのか?」
「私の婚約者は、パーティーのような賑やかな席が苦手なんです。客寄せが必要ならば、私だけで十分でしょう」
「駄目だ」
「なぜです」
つい、視線が厳しくなると、今出川の顔にかすかな怯えの色が入るが、若造相手に臆していると思われたくないと、強気の顔で身を乗り出す。
「彼女も男爵家の娘だし、なにより帝の勅命で決まった婚約だろう。賑やかなものが苦手だ、などとそんな理由で出席を控えれば不仲を疑われる。それではお前も困るだろう。ただでさえ狩人という古くさい存在が、帝との距離が近いことを不服に思う者もいる時世だ」
――お前のように、な。
「……分かりました。話してみます」
「いや、出席するよう説得しろ。これは上官命令だ」
今出川は話は終わりだと言わんばかりに、腕を組んだ。
※
「景虎様!?」
まだ日が落ちていないにもかかわらず、景虎が帰宅したことに、沙苗は思わず変な声をあげてしまう。
「お仕事でお怪我でもされたのですか!?」
「いや。今日はお前に少し話さなければならないことがあって、早めに帰ってきた」
「私に……?」
――あの初恋の話のこと!?
まさか早めに帰宅してまでも、あの発言が我慢できなかったのか。
「今なにをしていた?」
「ゆ、夕食の支度を」
「そうか、なら、悪いが俺の分も用意してくれ。食事をしながら話そう」
「…………か、かしこまりました」
「どうかしたか?」
「い、いえ……」
――まさか、離縁? 半妖ごときが自分に初恋なんて調子にのったことを言うな、とか……。
景虎の背中を見送った沙苗はどきどきしながら料理をおこなう。
そして景虎と食卓を囲む。
沙苗は心ここにあらずで、俯きぎみで機械的に食事を口に運ぶ。
――謝ろう。全力で。
「……話ついてだが」
沙苗は箸を置く。
「沙苗?」
その場で土下座をする。
「お、お許しください! この間のことは本当に、言うべきではなかったと思います! でも繰り返し申し上げますが、初恋というのはあくまで初めて見た時の感情で! 今は景虎様に恋心など微塵も抱いておりません! し、信じて下さいっ!」
「おい、何を言って……」
「初恋と言ったことが煩わしくて、私との契約関係を打ち切るということではないのですか……?」
「どうしてそういう話しになるんだ」
「あの、は、話と聞いて、真っ先にそのことが思い浮かんだのですが…………ち、違ったんですか…………?」
「お前はそそっかしいな」
「っ!」
景虎の見せた笑顔に、どくん、と鼓動が跳ねた。
口を半開きにしたまま、景虎の美しい笑顔に見とれてしまう。
「土下座をやめて、ちゃんと座れ。さっきから俯きっぱなしだったのは、そのことを考えていたからか」
「それじゃあ……?」
景虎はパーティーへの話をされた。
勝手に勘違いしたことにくらべると、肩すかしを食らってしまうほどの用件だった。
「そ、そんなことでしたか。あ、すみません。大切なお仕事のことなのに!」
「いいや、お前の言う通り。そんなこと、だ。だがそんなことも、お役所ではやらなければならない時がある」
「だが、お前は出席するな」
「でも」
「俺の妻ともなれば望むと望まないとにかかわらず注目を浴びることになる。パーティーに出席するような連中は常に噂話に飢えているような暇人どもだ。お前も嫌な目に遭うかもしれない」
景虎はそう言ってくれるが、欠席すれば、なおさらその噂好きの暇人たちの好奇心をくすぐることになりはしないかと考えてしまう。
「……私たちの婚約に関しては帝の勅命によるもの、ですよね。もし今回のパーティーを欠席したとして、私たちが不仲だという話が広がったりすれば、良くないのではありませんか?」
「それは……」
沙苗が少し我慢すればそれで済む。景虎の立場を危うくしたくはなかった。
なにより、先日の先見につづいて、パーティーに出席すれば、景虎の役にも立てる。
「出席いたしますので、ご安心ください。景虎様の顔に泥をぬるような真似は決していたしませんから」
「そんなことは心配していない。お前は日々よくやってくれている。俺は、お前に妻としての献身は求めないと言っておきながら、今では弁当を当然のように作らせて……。だから、お前が俺の顔に泥を塗るということはまずありえないことだ」
はっきり言われると、頬が熱くなってくる。
「弁当は私が勝手にしていることですから、お気になさらず」
「……それにしても狩人の方々のことを見世物のように扱うなんて、理解できません……」
箸と茶碗を持つ手に思わず力がこもってしまう。
景虎たちはこの国のために身を危険にさらし、あやかしと戦っている。
国の為に働く人々のことを見世物にするような人々が、本来、民の手本にならなければいけない上流階級の人々の中にいるだなんて。
「その人たちの心にこそ、あやかしが宿っているように思えてしまいますっ」
思わずそんな声がこぼれすと、景虎が驚いたように見てくる。
「な、何か?」
「お前もそうやって怒るのだな。はじめて見たから少し驚いただけだ」
「すみません。つい、感情的に……」
赤面して俯き、黙々と箸を動かす。
「そうして人の為に怒れるのは美徳だ」
皇居外苑にある、兵部省である。
兵部省はこの国の軍事を一手に担う機関。
西洋文明に対しては迷信の類いは捨てたということになっている政府の秘密組織である退魔部隊の管轄をしている場所でもある。
なぜここに来るのが憂鬱なのかと言えば、ここは現場よりも、足の引っ張り合いを常とする政治の舞台だからだ。
そんなものとは距離を置きたい景虎だったが、退魔部隊の隊長を務める以上、呼び出しに応じないわけにもいかない。
出かける際、一臣と鉢合わせ、兵部省に呼ばれたと愚痴るといつも軽口しかたたない男に「頑張れ」と励まされてしまった。そういう場所だ。
秘書の三船を車と一緒に外で待たせ、景虎が出向いたのは、兵部省陸軍部軍務局局長室という長たらしい札のかかった部屋だ。
戸を叩いて名乗ると、「入れ」と声がかかった。
軍帽を外し、「失礼します」と入室する。
相手は茶褐色の軍服姿の、初老の男。制服ごしにもでっぷりとした肉付きの良さが隠しきれていない。
それがこの男が軍人としてよりも、役人としての嗅覚が優れていることを示している。
――今出川少将、だったか。
「座れ」
今出川は対面の席を示す。失礼します、と景虎は座る。
「この間の活躍は聞いている。味方の犠牲を事前に食い止めたらしいな。さすがは、天華の御曹司、というところかな」
褒めながらも、小馬鹿にしたような眼差し。
狩人への反応はだいたい、これだ。霊力などというものへの失笑。
だがその旧態依然として表向き捨て去ったものに縋らなければ、この国の平穏はないのも事実。
「ありがとうございます。それで御用向きは」
景虎は軽く流して、さっさと話を進める。ここへ来る時は、用件は来てから話すと言われたきりだった。
素っ気ない態度がつまらないのか、今出川は不満そうに鼻を鳴らしながらも、話を進める。
「鹿鳴館で開かれるパーティーに出席しろ。お前は退魔部隊の隊長であると同時に、伯爵家の当主でもある。出席し、政財界の大物たちに広く資金を求めるのも大切な務めだ」
高い霊力を持つ狩人は異相持ち。異相は不気味がられる一方、生きる宝石と称して愛でたがる好事家が、政財界には一定数存在する。
「ちょうど婚約者もいるだろう。彼女も一緒に連れて行け」
「……なぜです」
「将来の伴侶と出席するのは当然のことだと思うが? なにかできない事情があるのか?」
「私の婚約者は、パーティーのような賑やかな席が苦手なんです。客寄せが必要ならば、私だけで十分でしょう」
「駄目だ」
「なぜです」
つい、視線が厳しくなると、今出川の顔にかすかな怯えの色が入るが、若造相手に臆していると思われたくないと、強気の顔で身を乗り出す。
「彼女も男爵家の娘だし、なにより帝の勅命で決まった婚約だろう。賑やかなものが苦手だ、などとそんな理由で出席を控えれば不仲を疑われる。それではお前も困るだろう。ただでさえ狩人という古くさい存在が、帝との距離が近いことを不服に思う者もいる時世だ」
――お前のように、な。
「……分かりました。話してみます」
「いや、出席するよう説得しろ。これは上官命令だ」
今出川は話は終わりだと言わんばかりに、腕を組んだ。
※
「景虎様!?」
まだ日が落ちていないにもかかわらず、景虎が帰宅したことに、沙苗は思わず変な声をあげてしまう。
「お仕事でお怪我でもされたのですか!?」
「いや。今日はお前に少し話さなければならないことがあって、早めに帰ってきた」
「私に……?」
――あの初恋の話のこと!?
まさか早めに帰宅してまでも、あの発言が我慢できなかったのか。
「今なにをしていた?」
「ゆ、夕食の支度を」
「そうか、なら、悪いが俺の分も用意してくれ。食事をしながら話そう」
「…………か、かしこまりました」
「どうかしたか?」
「い、いえ……」
――まさか、離縁? 半妖ごときが自分に初恋なんて調子にのったことを言うな、とか……。
景虎の背中を見送った沙苗はどきどきしながら料理をおこなう。
そして景虎と食卓を囲む。
沙苗は心ここにあらずで、俯きぎみで機械的に食事を口に運ぶ。
――謝ろう。全力で。
「……話ついてだが」
沙苗は箸を置く。
「沙苗?」
その場で土下座をする。
「お、お許しください! この間のことは本当に、言うべきではなかったと思います! でも繰り返し申し上げますが、初恋というのはあくまで初めて見た時の感情で! 今は景虎様に恋心など微塵も抱いておりません! し、信じて下さいっ!」
「おい、何を言って……」
「初恋と言ったことが煩わしくて、私との契約関係を打ち切るということではないのですか……?」
「どうしてそういう話しになるんだ」
「あの、は、話と聞いて、真っ先にそのことが思い浮かんだのですが…………ち、違ったんですか…………?」
「お前はそそっかしいな」
「っ!」
景虎の見せた笑顔に、どくん、と鼓動が跳ねた。
口を半開きにしたまま、景虎の美しい笑顔に見とれてしまう。
「土下座をやめて、ちゃんと座れ。さっきから俯きっぱなしだったのは、そのことを考えていたからか」
「それじゃあ……?」
景虎はパーティーへの話をされた。
勝手に勘違いしたことにくらべると、肩すかしを食らってしまうほどの用件だった。
「そ、そんなことでしたか。あ、すみません。大切なお仕事のことなのに!」
「いいや、お前の言う通り。そんなこと、だ。だがそんなことも、お役所ではやらなければならない時がある」
「だが、お前は出席するな」
「でも」
「俺の妻ともなれば望むと望まないとにかかわらず注目を浴びることになる。パーティーに出席するような連中は常に噂話に飢えているような暇人どもだ。お前も嫌な目に遭うかもしれない」
景虎はそう言ってくれるが、欠席すれば、なおさらその噂好きの暇人たちの好奇心をくすぐることになりはしないかと考えてしまう。
「……私たちの婚約に関しては帝の勅命によるもの、ですよね。もし今回のパーティーを欠席したとして、私たちが不仲だという話が広がったりすれば、良くないのではありませんか?」
「それは……」
沙苗が少し我慢すればそれで済む。景虎の立場を危うくしたくはなかった。
なにより、先日の先見につづいて、パーティーに出席すれば、景虎の役にも立てる。
「出席いたしますので、ご安心ください。景虎様の顔に泥をぬるような真似は決していたしませんから」
「そんなことは心配していない。お前は日々よくやってくれている。俺は、お前に妻としての献身は求めないと言っておきながら、今では弁当を当然のように作らせて……。だから、お前が俺の顔に泥を塗るということはまずありえないことだ」
はっきり言われると、頬が熱くなってくる。
「弁当は私が勝手にしていることですから、お気になさらず」
「……それにしても狩人の方々のことを見世物のように扱うなんて、理解できません……」
箸と茶碗を持つ手に思わず力がこもってしまう。
景虎たちはこの国のために身を危険にさらし、あやかしと戦っている。
国の為に働く人々のことを見世物にするような人々が、本来、民の手本にならなければいけない上流階級の人々の中にいるだなんて。
「その人たちの心にこそ、あやかしが宿っているように思えてしまいますっ」
思わずそんな声がこぼれすと、景虎が驚いたように見てくる。
「な、何か?」
「お前もそうやって怒るのだな。はじめて見たから少し驚いただけだ」
「すみません。つい、感情的に……」
赤面して俯き、黙々と箸を動かす。
「そうして人の為に怒れるのは美徳だ」