半妖の私が嫁いだのは、あやかし狩りの軍人でした

 朝食を食べ終え、沙苗は湯飲みにお茶を注いで差し出す。

 ありがとう、と景虎は言い、口をつける。

「いかがですか? 昨日が濃すぎたので、すこし薄めに淹れてみたのですが」
「これくらいなら丁度いいな」
「分かりました。じゃあ、明日からこれくらいの濃さにしますね」
「それから……」
「はい?」

 景虎は大きく『ぬ』と書かれた紙を卓袱台においた。

「昨日、お前が書いたものをみせてもらった」
「ど、どうでしたか?」

 どきどきする。

「よく書けてる。はじめてにしては上出来だ」
「本当ですか!? 嬉しいです!」

 沙苗はついつい気分が高揚するあまり、大きな声を出してしまう。

 はっとし、「し、失礼しました」と今さら口を閉じた。

「構わん。『ぬ』が苦手のようだから、手本にできるように書いてみた」
「ありがとうございます!」

 沙苗は、景虎の書いてくれた『ぬ』をまじまじと見つめる。

「さすがは景虎様! とても綺麗です……!」

 こんな風に自分も書けたらいいのに。
 いや、書けるように頑張ろうと、ますます文字の読み書きへのやる気があがる。

 景虎はきょとんとした顔をする。

「景虎様? どうされたんですか?」
「あ、いや……」
「すみません。私、少しはしゃぎすぎてしまって……恥ずかしい姿を見せてしまいました」
「それでやる気があがるのなら、それに越したことはない」

 景虎は緑茶を飲み、もう一枚の紙を卓袱台におく。

「ところで聞きたいことがあるんだが、これはなんだ?」
「え! どうしてそれを!」
「お前が自分で俺の文机においたんだろう」
「……それは間違いです! 置くつもりはなくって……あの……す、捨てるつもりでした!」

 きっと後で捨てようと思っている間に、そのことをすっかり忘れて、他の紙と一緒に文机においてしまったのだろう。

 沙苗は恥ずかしさのあまり、その紙を掴もうとするが、それよりも景虎がとりあげるほうが早かった。

「それはそれだ。ここに描かれているものは何だ? 純粋に疑問に思ったんだ」
「それは……あの…………です」
「? よく聞こえなかった」

 俯き気味の沙苗は顔が、どんどん火照る。

「……い、犬でございます!」

 景虎は、まぢまぢと紙を見る。

 ――景虎様、そんなによーく見ないで下さい……!

 穴があったら入りたいというのはまさにこのこと。

「お前もなかなか絵心があるようだな」

 景虎はあいかわらずの心のうちを読ませない無表情だったが、心なし声が高くなってる気がする。

 燃えるように頬が火照る。

「か、からかわないでください……。何度かこっちのほうも練習してみたのですけど、景虎様のようにうまくはいきませんでした」
「絵は練習する必要はないだろう」
「で、ですから、これは落書きだったんです……」
「ま、こっちもうまくかけたら見せてくれ」
「……い、意地悪です」
「そうか? 俺はおまえが提出してくれたから講評しただけだ」

 二人の間にやわらかな空気が流れる。

 ううう、と沙苗は俯く。

 ――どうしてこういう時に、三船さんが来てくれないの!

 関係ない、景虎の秘書に当たってしまう。

「帝都はどうだ?」

 不意に話が変わった。

「そうですね。あいかわらず人がたくさんで眼が回ってしまいそうです」
「まあ、里から来たんだ。馴れないのは当然か。相談だが、今週の日曜は非番なんだが、もしお前に何も予定がなければどこかへ出かけないか?」
「! 出かける……? ど、どなたと、ですか?」
「俺とお前に決まってるだろう」
「か、景虎様とご一緒に?」
「そう言ってるだろ。お前が嫌でなければ」
「嫌だなんて! ぜひ、お願いします!」
「分かった。どこに行きたいか、何をしたいか、考えておけ。できるかぎり、お前の要望を叶えよう」
「ありがとうございますっ」
「これも契約の一環だからな」
「そうなんですか?」
「帝都が嫌になって、逃げられても困る」
「そんなことしませんけど」
「可能性の話だ」

 契約結婚の維持のためとはいえ、景虎から提案してくれることが嬉しい。
 理由はどうあれ、彼の大切な時間を沙苗のために使ってくれるというのだから。

 そこへ、いつものように三船が迎えに来る。

「行ってくる」

 景虎はそう言って立ち上がった。
 いよいよやってきた非番の日。

 沙苗はこの家へやってきた時に着ていた着物をまとう。これが一番、手持ちの中で華やかだったからだ。
 平仮名の練習はこつこつやっていた。

 景虎にも『ぬ』が上達してきたと褒められていたし、平仮名であればつっかえつっかえながらではあるが、読めるようにもなっていた。

 昨日より今日、今日より明日。
 一つ一つこれまで知らなかったことを覚えられている、成長できている自分と出会えることが嬉しい。

 もちろん座敷牢にいた当時も木霊たちからこの世界のことを聞いたりしていたけれど、あの時はただ話を聞いているだけで、沙苗自身、何かが出来るようになったというわけではない。でも今は毎日こつこつ読み書きの練習を行い、できることが増えていることを実感できていた。

 今の沙苗は、これまでの人生もっとも充実した日々を過ごしていると言っても過言ではない。

 それも今日は、景虎とのお出かけ。

 ――幸せすぎて怖い……。

「沙苗、準備は?」

 襖ごしに声をかけられる。
 沙苗。そう景虎に呼びかけてもらえるだけで、頬が火照った。

「はい、もう大丈夫です」

 景虎が部屋に入ってくると、沙苗は言葉を失う。
 彼は山高帽に、紺色の洋装姿。
 特に彼のすらりとした体格によく合う。

 軍服のような堅さがなく、普段より親しみが持てる。
 部屋で過ごす時の和服もいいが、洋装も似合う。とにかく景虎は体格がいいからどんな服でも着こなせるようだ。

「今日の予定なんだが徒歩だと難しいから、自動車を運転するつもりなんだが、平気か?」

 街を見て回りたいとお願いしたいのは、沙苗だ。

「もちろんです」
「気分が悪くなったら言えよ」
「はい」
 行こう、と景虎は歩き出した。沙苗はそのあとをしずしずとついていく。



 自動車で帝都の中心地へ向かう。

 沙苗が酔ってしまわないよう慮ってくれているからか、自動車はゆっくりと走った。

 沙苗たちが住んでいる地域は木造の平屋が多いが、中心地に行けばいくほど煉瓦造りで背の高い建物が目立つようになる。

「あれは何ですか?」
「路面電車。乗り合い馬車のようなものだな」
「あれも、エンジンで動いているのですか?」
「いや、電気だ」
「電気って灯りに使っている? あんな大きなものを動かすものにまで使えるんですね……帝都はやっぱりすごいです……」

 沙苗はまるで子どものように、きょろきょろしてしまう。

「あそこにある、赤くて大きな建物はなんですか?」
「浅草十二階という建物だ。最上階が展望台になってるんだ。のぼってみるか?」
「あんなに高い建物に登れるんですか!?」
「行ってみるか」
「いえ、そんな……大丈夫です。寄り道なんて……」
「帝都を知りたいんだろう。高いところから見れば、分かるだろう。それに今日くらい天気がいいと見えるかもな」
「見える……? 何がですか?」
「行ってからの楽しみだ」

 建物の下に到着すると、その高さにあらためて唖然としてしまう。

「すごい……」
「見上げすぎて、ひっくり返るなよ」
「そ、そこまでおっちょこちょいではありません」
「そうか?」

 景虎がすぐそばにいることを思い出し、沙苗は頬を赤らめた。

 塔に入る門も立派だ。

「昇るのは大変そうですね。あんなに高いところまで階段ではあがれそうにないです」
「エレベーターがあるから平気だ」
「えれ……?」
「説明するより、実際に乗ってみたほうが早い」

 入場料を支払い、金属製の小さな部屋の中に入る。

「あの、階段がないみたいですけど」
「いいから、じっとしていろ」
「は、はあ……」

 その時、ウウウンという駆動音は、小さな空間を揺さぶった。

「景虎様!?」
「落ち着け。大丈夫だ」

 沙苗の全身が浮遊感に包まれる。背筋がぞわぞわして、「ひゃ」と小さな声が思わずこぼれ、慌てて口を閉じた。

 扉が開く。沙苗は奇妙な感覚のする狭い空間から早く逃げたくて、部屋を飛び出す。
 しかし眼前に広がるのは地上ではない。

 遠くのほうまで広がる街並みと、手を伸ばせば届きそうなくらい近い空。

「景虎様!?」
「あっという間だっただろう。これがエレベーターだ」
「ど、どうなってるんですか?」
「あの箱が人を乗せて地上からここまで持ち上げるんだ」

 仕組みを聞いても、沙苗にはちんぷんかんぷん。
 エレベーター内で経験した、背筋のぞわぞわするような奇妙な感覚がどうでもいいと思えるくらい高い所から見る景色は素晴らしかった。

 これまでの経験で、一度も見たことがない視点だ。
 親に肩車をされてはしゃぐ子どもが羨ましい。

 ――私も子どもだったら、もっと大きな声を上げられるのに!

 帝都というのは本当に大きな街なんだと、こうして高いところから望むと実感する。人のちっぽけさも。

「あれを見てみろ」

 景虎が指さすほうを見ると、てっぺんが白い大きな山が見えた。

「あの山が、日本一の富士の御山だ」
「あれが……富士、なんですね。木霊たちが言ってました。一度は行ってみたいって。富士はとても霊験あらかたで、あやかしの聖地でもあるって」
「そうなのか? それは初耳だな。感想は?」
「すごいです。本当に」

 沙苗は展望に見入った。
「……すみません」

 建物を離れる自動車の中で、沙苗は頭を下げた。

 展望台からの景色に夢中になるあまり、気づくと、一時間が経っていたのだ。
 いくら見る物すべてが素晴らしいからと言って、長時間滞在しすぎてしまった。
 きっと景虎にとっては見飽きた光景だっただろう。

「お前に街案内をするのが目的なんだ。遠慮をするな」

 自動車は街中を離れ、川沿いを進んでいく。
 土手にはたくさんの木々が植えられていた。

「あの木は何て言う種類ですか?」
「桜だ」
「桜! あれが……」
「桜が好きなのか?」
「はいっ」

 あくまで、木霊たちから聞いた限りではあるけれど。

「なら、花が咲く頃にまたこのあたりに来るか」
「いいんですか?」
「見たいんだろ。屋敷のそばには桜がないからな」
 自動車はとある店の前で停まった。
「こちらは?」
「これが、出かけた目的の一つだ」

 店先には美しい反物や着物が飾られている。
 風格のある店構えに、沙苗は気後れを覚えてしまう。

「何をしている?」
「あ、今、行きます」

 暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ」と店の奥から恰幅のいい女性が出てくる。女性は眼を輝かせ、「お坊ちゃま!」と明るい声を上げた。

「藤菜、その呼び方はやめてくれ。俺ももう、いい大人だ」
「申し訳ございません。つい……。それにしても、呉服屋に洋装でいらっしゃるなんて、なにかの嫌がらせですか?」
「そう意地の悪いことを言うな。草履だと運転がしにくいんだ」

 ――景虎様が笑ってるいらっしゃる!

 笑顔というより、微苦笑なのだが、それでも表情の乏しい彼がここまで表情を変えるなんて驚きだ。それに、二人の距離感にも。

「まあ、そういうことでしたら許しましょう。ところで、そちらの方は?」
「婚約者だ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
「まあ! よろしくおねがいいたします! つだ屋の女将の津田藤菜と申します」
「沙苗と申します」
「沙苗さん。とても素敵なお名前ですねえ」
「あ、ありがとうございます」
「俺の婚約者だ」
「まあ! ふふ、可愛らしい方。お坊ちゃまとお似合いですね。ところで、今日は何を仕立てましょう」
「沙苗に似合う色留袖、それから小物を一通り揃えて欲しい」
「え、そんな結構です。着物なら、里より持ってきましたものが」
「分かっている。しかしあれはどれもこれも年季が入っている。せっかく帝都へ来たんだ。新しい着物を仕立てて悪いことはないだろう」
「ですが」
「もちろん愛着がある着物を着るなとはいわない。だが別の着物も持っていてもいいだろう。今後、結婚すれば、面倒な集まりに参加しなければならないこともあるかもしれない」

 ――結婚……。

 景虎からしたら何気ない言葉に、沙苗はドキッとした。
 藤菜は沙苗を座敷へ招くと、様々な色や柄で彩られた反物を並べる。
 どれも目の覚めるような美しさだ。

「素敵……」
「ホホホ。分かっていただけて光栄でございます。どれもこれも熟練の職人が染め上げたものなんでございますよ。これからの季節で言いますと、薄紅や撫子、萌黄や花緑青などのお色、柄ですと菖蒲や牡丹などもよろしいかと」

 見本の色留袖を見せてくれるから、反物だけでは想像しにくい完成品の想像もしやすい。

 世の中にはこれほどまでに様々な色があったのかと、圧倒されてしまう。
 今日はほんとうに驚きっぱなしだ。

「沙苗、さっきからため息ばかりついているが、気に入らないか?」
「違います。逆です。すごすぎて……すみません。決められなくて」
「そう言っていただいてこちらとしても嬉しいです。では、柄だけお好きなものを選んで頂いて、色はこちらに任せていただくというのはいかがですか?」
「それでお願いします」

 柄は梅紋、それから花筏、牡丹を選んだ。

「では次に小物ですね。沙苗様。こちら、簪でございます」

 たくさんの種類を見せても迷うだけだと藤菜ができるかぎり候補を絞ったものを差し出してくれるが、それでもやっぱり迷う。

「俺は全部でもいいが」
「景虎様。一点じっくり選んだものを決められたほうが、愛着も湧くというものですよ。もちろん私どもも商売ですから、結果的にすべて購っていただくことは大歓迎ですけれど」

 綺麗にならべられた簪を見つめる。どれもこれも素敵な作りだ。
 造花、透かし彫り、螺鈿とさまざまな種類の簪の数々に、心を奪われる。

 ――ぜんぶ素敵だけど……私に似合うのかな。

 さきほどの着物もそうだが、身につけるのが自分では、どんなに素晴らしいものも色褪せるのではないかという不安に襲われてしまう。

「迷いますか?」
「そ、そうですね」
「でしたら、その簪をつけた姿を一番見て欲しい人に決めてもらいましょう」
 沙苗は、景虎を振り返った。
「俺か?」
「坊ちゃんの婚約者様なんですから、当然でしょう」
「だから坊ちゃんはやめろ。……だが、俺が決めて本当にいいのか?」
「お願いしますっ」

 そうだな、と呟きながら、景虎は簪と沙苗の顔を交互に見ると、鼈甲で蝶の透かし彫りがされているものを手に取る。

「これはどうだ? 似合いそうな気がする」

 藤菜も大きく頷く。

「さすがは坊ちゃん、趣味がいいです。どうぞ、鏡です」

 景虎は自然な動作で、簪を髪に挿そうとする。

「だ、だめです!」

 沙苗は思わず大きな声を上げてしまう。
 景虎の手がぴくっと震えて、髪に触れるすんぜんで止まる。

「……そうだったな。藤菜、頼めるか」
「え? 私でよろしいのですか?」

 藤菜は戸惑いつつも、沙苗が「お願いします」と頼むので、不思議そうな顔をしながらも髪に挿してくれる。

「いかがですか?」

 藤菜が景虎を振りかえる。

「よく似合っているな」
「私もそう思います。大変お似合いです。では、沙苗さんの採寸などをおこないますので、坊ちゃんはこちらで待っていて頂いてよろしいですか?」
「分かった」

 沙苗は、奥の部屋へ案内される。
 着物を脱いで肌襦袢姿になると、採寸をしてもらう。

 二人きりになると、他人と接する機会の少ない沙苗はどうしても緊張してしまう。

 ――今の、変に思われたかな。

 婚約者に触れられるのを嫌うなんて。
 咄嗟のことだったから、つい大きな声をあげてしまったのもまずかった。

 ――あとで景虎様に、謝らないと。

「どうされました?」
「本当にあの着物、私が着ていいのだろうかと思ってしまって。あまりに綺麗すぎて……もっと似合う方がいらっしゃるんじゃないかと……」
「老婆心ながら、どんな服や装飾も似合うようになる方法を、お教えしてもよろしいですか?」
「そんな方法があるんですか?」
「ございますともっ」

 藤菜はにこりと微笑んだ。

「笑顔、でございますよ」
「笑顔?」
「左様です。どんなに入念に着物や装飾品を選んでいても、それを着られる方が笑顔を忘れてしまったら、魅力が色褪せてしまうものなんです。反対に言えば、笑顔さえ忘れなければ、どんな服装をしようとも魅力がなくなるということは絶対にありえない、ということです」
「笑顔……」

 その言葉は、沙苗のこれまでの生き方からはかけ離れたもの。

「その考え、とても素敵ですね」
「まあこれは先代女将からの受け売りなんでございますけどね。でも経験上、どれほど美しい方もぶすっとしていては魅力が大きく減ることは間違いございません」

 景虎が自分に買ってくれたのだ。それに相応しい人間になりたいし、買ったことを後悔させたくなかった。

「ありがとうございます。肝に銘じます」
「今、お坊ちゃんのことを思い浮かべました?」
「え」
「やっぱり。今の微笑み、とても素敵でしたよ。その微笑みがあればどんな服装も立派に着こなすことができること、請け合いです。ですから自信をもってくださいね。ふふ。沙苗さんは果報者ですよ。あんな素敵な方に嫁げるなんて」
「そうですね。本当に。ところで」
「はい?」
「藤菜さんは、景虎様ととても親しいように見えたのですが。坊ちゃんと呼んでいらっしゃいますし……」
「左様でございます。天華家の方々には先代様の頃より、懇意にしていただきましたので」
「じゃあ、景虎様のことも?」
「ええ。子どもの頃からよく知っております」
「……景虎様の子どもの頃はどんな方でしたか? 今みたいにしっかりされた子でしたか?」
「今と同じ表情を表に出すのはあまり得意ではないようでしたが、子どもとは思えないくらいしっかりされていたお子さんでしたよ。年上のはずの私がそれこそ、子ども扱いされるほど」
「さすがは景虎様です!」

 沙苗は心の底から感心した。やっぱり、あれだけしっかりされている方は子どもの頃から違ったのだ。

 藤菜がくすっと笑う。

「私、変なこと言いましたか?」
「いいえ。あやかしを狩る家という傍から見たら怖ろしいものに見えるのか、あんな家と関わって大丈夫なのかとよく言われたものでした……。ですから沙苗さんのように表情を輝かせる方ははじめてだったので」
「そ、そうですか……」
「だから、沙苗さんのような方が婚約者になっていただき、景虎様を昔から知る者としてとても嬉しいんです。あんなことさえなければ、天華家にとってとても素晴らしい出来事であったはずなのに」

 その呟きは沙苗へ聞かせるためではなく、つい口からこぼれてしまったという風に聞こえた。

「それはどういう……」

 藤菜ははっとし、「余計なことを言いました。今のは……忘れてくださいませ」とそれまでの和やかさが嘘のように、口ごもってしまう。

「あ、はい……」

 沙苗は曖昧にうなずく。
 採寸を終え、景虎のもとへ戻る。

「終わったか」
「はい」
「では、着物ができあがりましたら、小物ともども届けさせていただきます」
「あ、簪はこのままつけていてもいいですか?」
「そうしろ」
「ええ、とてもお似合いですから」

 藤菜に礼を言って店を後にした。

「景虎様、さきほどは大きな声を出してしまってすみませんでした」
「俺のほうこそ迂闊だった。止めてくれて助かった」

 自動車に乗りこむと、出発させる。
 沙苗はさっきの藤菜の言葉を思い出す。
 あんなことがなければ。

 ――あれはどういう意味だったのかな。

 広いお屋敷に一人で住んでいることと何か関係があるのだろうか。

 しかし結局、聞けなかった。半妖でありながらも特別に許されて一緒に住んでいる自分のような者が軽々しく聞いていいことではない、そう思ったからだ。
「私にとっては両親であり、兄妹のような存在、かもしれません」
「……俺にその感覚は分からないな」
「景虎様は狩人という大切なお役目がございますから。でもそういうお仕事をされているからこそ、木霊たちに邪さがないことを見抜いて、同行することを許してくださったので、感謝しています」

 今日は木霊たちは、留守番をしてもらっていた。
 博識な彼らも、ショートケーキは知らないはず。

「ついているぞ」

 景虎が口元を指さす。

「あ、すいません……っ」

 俯いた沙苗は手巾で口の周りを拭った。

 ――食い意地が張った女って思われちゃったのかも。

 でもしょうがない。クリームという食べ物も、苺もどっちも美味しすぎたのだから。

「他にもチョコレートやアイスクリーム、色々と異国より渡ってきた甘味が、ここでは食べられる。気に入ったのならまた来よう」
「本当ですかっ」

 チョコレートやアイスクリームにはもちろん興味はある。
 でもそれ以上に嬉しいのは、景虎がまた来よう、と言ってくれたことだった。

 ミルクホールを出ると、日が傾きはじめる。

 夕日に赤々と照らされる街中を、景虎はぐるりと一周するようにして、昼間とはまた別の顔を見せる帝都の様子を見せてくれる。

「景虎様、少し歩きませんか?」
「どこに行きたい」
「そこでいいです。川沿いを少しだけ」

 路肩に自動車を停めると、土手を下りていく。

 川沿いの桜並木。よく見れば、つぼみがたくさんついていた。
 あともう一ヶ月したら、見事な桜並木が見られる。

 ――もし景虎様と一緒に見られたら、嬉しいな。

 そんなことを考える自分に、くすりとしてしまう。

 さっきのまた来よう、ということもそうだが、沙苗がこうして未来のことに想いを馳せるなんてこと、これまでになかった。
 座敷牢に囚われていた沙苗にとって、楽しみは木霊たちと話すことだけ。

 その他のことは沙苗にとっては苦痛なことばかりで、時間が止まって欲しい……そんなことばかり考えていたから。

 夜も眠れないことのほうが多かった。
 明日また繰り返される使用人のからの冷たい視線、腹を満たすだけの冷め切った食事。

 繰り返される、ただ時間を浪費するだけの日常が苦痛で仕方がなかった。
 でも帝都に来てからは毎日が喜びに溢れている。どんな些細なことも、沙苗にとっては貴重な経験だった。

 二人して土手を歩く。夕日で長く伸びた影が親しげにくっついている。
 実際にはできないからこそ、影が羨ましく思えてしまう。

 ――私、大丈夫かな。どんどんわがままになってきてる気がする。

 最初は帝都にいられるだけで、屋敷においてくれているだけでありがたかった。

 今もその気持ちは変わらない。でも今は、彼に触れたいと、触れて欲しいと思ってしまう。簪のことがあったからだろうか。

 ――ちゃんと自制しないと。わがままな女だと呆れられて、それこそ里へ追い返されてしまうかもしれない。

「今日は一日、ありがとうございました」
「まだ一日は終わってないぞ」
「そうなんですが……一言お礼をいいたくて」
「お前は要らないと言ったのに着物や小物を押しつけたことを余計なことをしてしまったと、少し後悔していたところだが、そうではないんだな」
「今から完成が楽しみです。それに」

 沙苗は自分の髪を飾っている簪をちょんと触れる。

「今日から毎日つけます」
「家事の時につけても意味がないだろう」
「でもつけます。景虎様が買ってくださったのですから」
「お前とて里生まれと言っても、華族の娘だ。髪飾りもいくつか持っているだろう。そんな他愛のないものひとつで、大袈裟だな」
「……景虎様から買って頂いたということが、私にとっては大事なことなんです。素敵な着物を買っていただけただけじゃありません。ショートケーキまで食べさせて頂けるなんて……夢、みたい」
「大袈裟だ」
「大袈裟じゃありませんっ」
「それだけ楽しんでくれたのなら、連れ回した甲斐があった」
「……ところで、この川って泳げますか?」

 つい好奇心にかられて呟いたことをに、景虎が虚を突かれたみたいにぽかんとした。

「女はあまりいないだろうが、夏場は男は泳いだりしているな。なぜだ?」
「一度は泳ぎたいと思ってて」
「里には川を見かけたが、泳いだりはしなかったのか」
「え、ええ……。はしたないと怒られるので」
「まあ、それくらいは釘を刺されるだろうな」

 こうして何かをしたいと思ったのも、景虎のおかげだ。
 帝都に来たからにはこれまでやったことがないことをやりたい。
 生きているということを実感したい。

 川面が大きく揺れ、白く波打つ。

「少し風が出て来たな。そろそろ帰るぞ」

 日も沈みつつある。沙苗は、景虎の言葉に大人しくしたがった。



 屋敷へ戻り食事と風呂を済ませた沙苗は、文机に簪をおいた。
 嬉しすぎてお風呂にまでもっていってしまった。

「みんな、見て。素敵でしょう」

 今日、景虎に買ってもらった蝶の透かしの入った簪を、洋灯へ照らしてみせる。
 簪の周りには木霊たちが集まり、しげしげと眺めては、綺麗だと褒めてくれた。

「……うん、もちろん大切にするわ。景虎様が、私のために買ってくださったものですもの。それから、みんなにもお土産がるの」

 沙苗は手巾で包んだものを文机においた。

「開けてみて?」

 木霊たちは興味津々で手巾の結び目をとく。

「じゃーん。みんな、これはなんでしょう」

 木霊たちはしげしげとお菓子を眺めては、ちょんちょんとつっついたりしている。

「正解は、ショートケーキっていうお菓子。みんなに見せてあげたくって持ってきたの。すごく美味しいから食べて。大丈夫。私はたくさん食べたから」

 木霊たちはショートケーキに抱きつくように食べ始めた。

 生地の甘さや、クリームの蕩けるような美味しさ、苺の甘酸っぱさに昂奮しているようだ。

 ――ショートケーキを前にして、私もこんな感じの反応だったのかな。

 そう思うと、かなり恥ずかしい。

 景虎に、子どもっぽいと思われないといいんだけど。
 あっという間にショートケーキがなくなる。

「うん、また景虎様と出かける機会があったら、お土産にもってくるね。今日はすごく楽しかった。景虎様と出かけられて、とても幸せ……」

 ふぁ、と欠伸がこぼれた。

 本当は読み書きの練習を寝る前にしようと思ったのだが、自分が意識するよりもずっと、疲れていたみたいだ。
 お風呂で温まった体がほぐれたせいか、心地良い眠気を覚えた。

 その日は、簪を胸に抱きながら布団に潜り込む。
 蝶の透かしを撫でる。

 目を閉じると、あっという間に意識を手放すように眠りに落ちた。
 風呂からあがった景虎は、ごろんと布団に寝転がりながら自分の手を見る。
 仕事や食事以外の用事で、こうして一日、外に出かけていたのは本当に久しぶりだ。
 最後がいつだったか思い出せないくらいに。

 そして一人の女性を見つづけていたことも。
 沙苗の照れた顔、笑った顔、驚いた顔、申し訳なさそうな顔。
 こんなにもころころと表情が変わるのだなと、驚いた。
 なにより。

 ――俺は今日、沙苗に触りたいと思った……。

 美しく艶めく黒髪に。

 これまで一度として抱いたことがなかった下心を持ってしまったことに、戸惑いさえ覚えてしまう。

 触れればどうなるか知っていたはずなのに。
『愛するつもりなどない』。そう言ったのは景虎だ。
 この結婚は、お互いに利のある契約だとも。

 沙苗はおいてくれているだけでもありがたい、と言っていた。
 目を閉じると、ショートケーキを前に子どものように目を輝かせる沙苗の顔を思い出してしまう。

 胸がざわめく。
 女性にこんな気持ちを抱いたのははじめてだった。
 相手はよりにもよって半妖なのに。それは決して否定的な意味ではない。

 半妖である沙苗に、狩人である景虎は触れることは叶わないのだ。
 彼女の着物を黒々と汚す鮮血を思い出す。

 ――出かけたのは失敗だったか……。

 そもそも休日、出かけようと提案したのは、ずっと里で暮らし続けて来た沙苗が早く帝都に馴れればと思ってのことだった。
 契約で成り立っている関係とはいえ、見知らぬ土地に連れて来てそのまま勝手に過ごせでは、辛いだろう。

 新しい着物を仕立てさせたのは、里から持参したのはものが世辞にも爵位を持つ家の娘とは思えないほど粗末で着古されていたものだったからだ。
 里ではそれで良かったのかもしれないが、あれでは帝都の有象無象から決して良くは思われないだろう。正直、同情心もあった。

 沙苗はよく働く。ものも大切にする。きっとその性分ゆえ、着古した着物であっても問題ないと考えたのだろうが、いくら流行の装いに疎い景虎でも、沙苗の着物が帝都には不釣り合いなのは分かっていた。

 すべてよかれと思ってしたこと。
 しかしそれが結果的に、景虎の心にさざ波が立っていた。
 幼い頃から機微に疎い景虎は、自分の心に起きた変化にただただ戸惑った。
 沙苗は台所で朝食を作るかたわら、竹でできたお弁当箱におかずやご飯を詰めていく。

 景虎のお弁当だ。

 何でも持っているし、不足があれば買えるだけの資力のある景虎に、沙苗ができる恩返しといえば食事を作ることくらい。
 貴重な休日を自分のために使ってくれた景虎にどうしてもお礼がしたくて、考えたのが弁当だった。

 弁当箱をしっかり包む。
 それから起床した景虎のために、朝食を卓袱台へと並べていく。

「おはようございます、景虎様」
「ああ……」

 言葉少なに景虎は応じ、箸を動かす。
 元より、沙苗と景虎の間に愛情のつながりはないのだから、そんな態度を残念に思うなんていけないのに。

「これは明太子か?」
「はい。正造さんから……」
「正造?」
「あ、魚屋の店主さんから明太子をすすめていただいたので、ご用意してみたいのですがいかがでしょうか?」
「うまい」
「良かったです」
「この照り焼きもいけるな」
「はい。ぶりの照り焼きが美味しいと教えてもらったので。作り方は魚屋の女将さんから教えてもらいました」

 景虎は素っ気ないながらも、しっかり美味しいものには美味しいと言ってくれる。

 食事を終えると、今日は昆布茶を淹れた。いつも緑茶ではと思って、これもまたお茶屋さんの店主からおすすめしてもらったものを用意していた。

「さっきからどうした?」

 指摘されてどきっとする。実はさっきから膝のうえにお弁当をのせていたのだが、渡す機会をずっと窺っていたのだ。

 お弁当なんてとつぜん作られてわずらわしいと思われないだろうか。
 素人が作った料理のせいで外食する機会を奪われ機嫌をそこねないだろうか。
 そもそも弁当を望んでくれるだろうか、などなど。

「あの……」

 そこへ、三船が迎えに来る。

「行ってくる」
「か、景虎様!」
「? 何だ?」
「これ……もし、良ければ。お昼のお弁当です」
「俺に?」
「よろしければ……です。あの、突然こんなものを作ってしまってすみません。お昼はなにかご予定があるか事前に聞くべきでしたが、この間の休日のお礼の意味をこめて、作らせていただきました……」

 手にあった重りがなくなる。
 顔をあげると、景虎が弁当の包みを手にしていた。

「……わざわざ用意してくれたのか」
「わざわざ、というほどのものではないのですし、外で食べるとは比べものにならないものですが……」

 ごにょごにょと口の中で呟く。

「ありがとう。お前の料理はうまい。自信を持て」
「!」

 どきりとする。景虎はどうしてこんなにも、沙苗を喜ばせてくれる言葉を口にしてくれるのだろう。

「いってらっしゃいませ、景虎様……!」

 いつも以上に声を張り、沙苗は見送った。



 昼、景虎は書類をあらかた片付ける。
 三船は景虎が弁当を受け取ったことを知っているから、席を外している。

 ――弁当、か……。

 こうして誰かの手作りの弁当を食べるのは久しぶりだ。

 まさか沙苗が弁当を用意してくれていたとは予想もしていなかった。
 沙苗に触れたいという自分でも戸惑うような気持ちを覚えて以来、沙苗と距離を取るようにしていた。と言っても、突き放すような態度にならぬよう注意を払いながら。
 あくまでこの婚約は契約であり、愛はないのだと。

 しかし弁当は拒否できなかった。
 わざわざ作ったものを拒絶されれば、沙苗が悲しむと咄嗟に思ったのだ。
 自分のために作ったと言われ、驚きと同時に、胸の奥がくすぐったくなった。またも不用意に口元が緩んでしまいそうになるところだった。

 ――食べ物を無駄にすることはできないからな。
 誰に対してか分からないような言い訳をしてから、包みをとく。
 竹で出来た弁当箱の上には折り畳まれた紙が置かれていた。

 開くと、そこには『おしごと おつかれさまでございます ごむりはなさらず 沙苗』と、最初の頃にくらべると格段に上達した平仮名で書かれていた手紙が入っている。

 最後の署名である『沙苗』というのは、数日前に、彼女から自分の名前はせめて漢字で書きたいので教えて欲しいとお願いされたのだ。

 さすがに平仮名や片仮名は日々の練習でさまになってはきたものの、漢字ともなるとまだ書き慣れていないせいか、かなり崩れている。
 しかし沙苗が努力家であることは日々の練習成果や書き損じて捨てられた紙をこっそり回収して見ているから、分かっている。

 ――沙苗のやつ。
 また、口元が緩んでしまう。一体いつから自分の表情筋はこんなにも締まりのないものになってしまったのか。

「おい、まだ仕事してるのか?」

 一臣が無遠慮に入ってくる。

「昼、行こうぜ」
「昼なら今食べるところだ」
「食べるところって……」
「沙苗が弁当を作ったんだ」
「愛妻弁当か。くっそ。うらやましい奴め……って、なんだ、そりゃ。下手な文字だな。がきの手習いか? お、おい!」

 一臣は、景虎の手の中でゆらめく青白い炎を前に、炎と同じか、それ以上に顔を青ざめさせた。

「これは沙苗が書いたものだ。あれを侮辱するということは、私を侮辱するのと同義だと分かってるのか」
「お、落ち着けよ! そ、そうか。奥さんのかぁ」
「失せろ」

 景虎の辛辣な言葉と、絶対零度の眼差しに、一臣は怖れをなしたのか、「じゃあ、ごゆっくり」と引き下がる。

 が、去り際、「うまくいってるみたいじゃんか。というかお前、いつになく目元が優しいな。まるで恋する乙女だぞ」と言い逃げしていく。

 一瞬不意を突かれ、唖然としてしまった。
 久しぶりに、先見を見た。

 先見は眠っている時にみるが、夢のように曖昧模糊としていたり、ぼんやりしているようなものではないから、すぐにそれと分かった。

 まるで実際にそこに立っていると錯覚するような生々しさを全身で感じる。
 夜気の冷たさ、鼻の奥にくるような冷たい風、踏みしめる地面の感触までも。

 景虎と同じ軍服姿の人たちが大勢いた。
 この中に景虎がいるかもしれない。
 沙苗は周囲を見回したくてしょうがなかったが、先見では自分の見たいものが見られるわけではない。

 ただ目の前で繰り広げられる芝居を観客として見ていることしかできない。
 介入もできず、かといって中座することも許されない。

 先見が終わるまで、その場を立つことも許されず、それだけに見たくないものを見続けなければいけない。
 星空のまたたく夜空を、黒い影が飛び回っている。
 成人男性より一回りは大きいだろうか。

 あやかし。

 巨大な翼を大きくはばたかせるそれが、建物を過ぎった瞬間、煉瓦造りの尖塔が大きくずれたかと思うと、煉瓦をぼろぼろと地上へ降らせながら、大勢の人々めがけ落下する。

 ――逃げて!

 無駄だと知りながら思わずにはいられない。
 尖塔が地面に落下する。地響きが、沙苗の元にまで伝わった。

 呻き声と、流れ出る鮮血。
 大勢の人々が混乱し、右往左往し、悲鳴を上げる。

 そこへ、飛行するあやかしがさらに追い打ちをかけた。

 体勢を立て直せないまま、軍服姿の人々が食われていく。その咀嚼音を、沙苗は耳を塞ぐこともできず、聞き続けた。



 目覚めた沙苗は気持ち悪さに口を押さえた。
 頭の中ではまだ先見の余韻がありありと残り、えづいてしまう。

 断末魔に、あやかしが人を食らう咀嚼音。周囲に立ちこめる、鉄錆の臭気。
 それを目を閉じることも許されず、沙苗は見せられていたのだ。

 まばたきすると、涙がじわりとにじみ、頬を流れる。

 木霊たちが心配して寄り添ってくれる。
 沙苗は小刻みに体を震わせ、木霊たちを抱きしめた。

「……だ、大丈夫……大丈夫……」

 木霊がいてくれて良かった。もし一人だったらとても起き上がることができなかっただろう。

 ――朝ご飯、用意しないと。

 木霊たちのおかげで、どうにか気持ちを取り戻すことができた。
 深呼吸を繰り返し、早鐘を打つ鼓動が鎮まるのを待つ。

 ――あの中に、景虎様もいらっしゃった?

 巨大な尖塔が落下し、大勢の人が下敷きになった。

 先見は将来、必ずおこる。
 見たものを言うべきだろう。もしかしたらあの悲惨な結末を避けられるかもしれない。
 でも信じてくれるだろうか。

 わけのわからない夢を見たと一笑に付されて終わりにならないだろうか。

 これまで先見を伝えた人たちと同じように、お前のせいで不幸がやってきたんだ、半妖の血が不運を招き寄せたんだと罵倒されないだろうか。

 ――って、私は一体何を見てきたの。景虎様が里の人たちみたいなひどいことをしたことが一度でもあった? 文字を教えてくれて、色々な景色を見せてくれて、食べたことがないものをごちそうしてくれて……。

 景虎はそんな人ではない。それは短い間、一緒にいただけでも分かること。
 里にいる怪物たちと、景虎は同じじゃない。

 ――頭ごなしに否定したりはしないはず。そうよ。先見を伝えることだって、立派な恩返しになるじゃない。

 部屋を出ようとしたその時、木霊たちが足にしがみついて引き留める。

「みんな、遊んであげたいけど、今からご飯を」

 木霊たちは一斉に手で文机を示す。

「机がどうしたの? ……って、紙?」
 眠る時にはなにもなかったそこに、丁寧に四つ折りにされた紙が置かれていた。
 そこには『沙苗へ』と沙苗がとても真似できないような美しい筆遣いで書かれていた。
「沙、苗……私の名前!」

 ということは、これを置いたのは景虎だ。

 沙苗は手紙を開く。

「あ!」

 笑みが、口の端にのぼった。

『べんとう おいしかった またつくってくれるとうれしい 景虎』

「!」

 嬉しさをこらられず、紙をぎゅっと抱きしめてしまう。
 鼓動がとくとくと早くなった。

 ――それに、この最後のこの文字はきっと……景虎様の名前なんだわ。
 沙苗という自分の名前はもちろんだが、景虎という名前もしっかり書けるようになりたい。いつ使うのかということより、知っておきたいと強く思った。

 ――そうよ、これが私の知っている景虎様。言ってみるべきよ。

「……っと、いけない。朝ご飯」

 台所に向かうと、弁当箱が洗われて乾かされていた。
 夜遅くに帰宅したから、景虎が洗ってくれたのだろう。

 沙苗は朝食、それからお弁当の準備をする。あんなお手紙をもらったのだから、恩返しとかそういったこととは無関係に作りたくなってしまう。

 起床した景虎と一緒に朝食を取る。

「お手紙、ありがとうございます! すごく嬉しかったです!」
「お前が書いてくれたものに返事をしただけだ」
「ふふ、そうですね。でもありがとうございます。私にとってははじめてのお手紙ですから。一生大切にしますっ」
「そこまでのものじゃないだろう」
「いいえ、私にとっては、そこまでのものなんです。あのお手紙のおかげで、景虎様の漢字を知ることができたんですから。練習します!」
「俺の名前はあとでいいから、まずは自分の名前を優先しろ」
「う。が、がんばります。あ、こちら、どうぞ」

 朝食を食べ終え、お茶を飲む景虎にお弁当を渡す。

「今日の弁当も楽しみだ」
「ご期待に添えればいいのですが」
「添えるさ」

 そんな他愛のないやりとり一つとっても、沙苗の鼓動は早鐘を打ってしまう。

 ――今はドキドキしてる場合じゃない。ちゃんとお伝えしないと。

「……景虎様、お話があるのですが……その……信じられないと思うのですが、わ、私には未来が見えるんです」

 景虎の無表情が揺らぎ、その目がかすかに瞠られた。

「それは、半妖だからか。それとも、春辻の血か?」
「……おそらく半妖のせいだと思います」

 もし春辻の血にそんな不思議な力があれば、あんな風に邪険にされることなどなかったはずだ。

「昔から、先のことが見えたりするんです。私はれを先見と呼んでいます。でも実家ではそれを告げても気持ち悪がられるどころか、私のせいで起こったことだと叱責されてしまって」
「……それを今日見たのか?」
「はい。景虎様と同じ軍服姿の方々が大勢いて――」

 沙苗は自分が見た先見について語った。

 景虎はいつも通り背筋を伸ばしたまま口を挟むことも、笑うこともなく、ただ耳を傾けてくれた。

「それはいつ起こるか分かるか?」
「……分かりません。すみません。肝心なことをお伝えできず」
「いや。あやかしの出現に関しては気を配ろう。よく知らせてくれた」

 沙苗は聞き届けてくれたことに安堵を覚える。
 沙苗に見送られ、いつものように家を出る。
 正直、沙苗の先見の力は頭から信じたわけではなく、半信半疑だった。

 しかしこれまで突飛なことを一度も言い出さなかった沙苗が真剣な顔で伝えてきたことだ。
 今さら景虎の関心を引くような子どもぽいことをするはずもない。

 ――信じるべきだな。

 内容が内容だ。それこそ、何もなければそれに越したことはない。
 しかしもし本当にそういう事態が起こるのであれば、部下たちの命を守るためにも気を配るべきだ。

 分かっていることは、夜であること、尖塔の建物がそばにあることと、そして空を飛ぶあやかしが出てくること。

 と、馬車の向かいに座っている三船が小さく笑う。

「三船。なにがおかしい?」
「笑っていたのではなく、微笑ましいなと思っておりました。今日も沙苗様のお弁当ですね」

 三船は、膝においた弁当の包みを見ている。

「せっかく作ったものを無下にはできないだろう。それだけだ」
「最近、大佐の雰囲気が変わったと皆が噂しております。これも、婚約者のおかげなのだろうか、大佐も人の子だったんだ、と」
「……誰がそんな馬鹿なこを言っている」

 景虎の目が鋭くなったことに、三船は慌てる。

「それは!」
「人の子だとかほざいてるのはどうせ一臣だろう。馬鹿なやつだ」

 三船は曖昧に笑う。
 庁舎へ出勤し、いつものように仕事をこなしていく。

 その日は結局何事も起こらずに過ぎていった。
 沙苗にそれを話すと安心していたようだが、それでも彼女の表情にある影は去らなかった。いつかは絶対に起こるということを経験しているからだろう。

 景虎も夜の出動要請に関しては常に気を配るようにした。
 そして沙苗から先見を聞いた一週間後、日が暮れた時間帯。

 あやかしの出現を三船が伝えてくる。
 現場指揮は他の狩人が任されたが、景虎は自分も向かうと半ば強引に了承させた。
 退魔部隊が保有する自動車に乗り込み、現場に急行する。

「……大佐がご自身が行かれるとは、なにか予感があるのですか?」

 常にない強引さで現場に急行している景虎を、ハンドルを握る三船は不安そうに眺める。

 ただの人間であれば虫の知らせというのは、本人も周りも大して気にも留めることはないが、こと常人にはもてぬ強い霊力をもつ狩人――特に、全ての狩人諸家の頂点に立つ天華の当主の虫の知らせというのは、特別な意味を持つ。

「杞憂であればそれでいい」

 景虎はそう言葉少なに答えるに留めた。余計なことを言って必要以上に不安にさせる必要はない。

 無線通信機により現場の情報が逐一、伝えられる。

 出現したあやかしは蝙蝠型。そして急行する現場には、教会の尖塔がある。

「三船、もっと急げっ」
「は、はいっ!」

 現場に到着するなり、景虎は三船の制止も聞かずに飛び出した。

 景虎は頭上高く飛び回るあやかしではなく、尖塔を見る。そしておそらくあれが崩れた場合の落下地点にいるだろう部下たちに目を向ける。

「お前ら! そこから離れろ!」

 景虎の叫びに、部下たちがびくっとして振り返る。

「命令だ!」

 景虎がどすのきいた声で叫べば、部下は慌てたように指示に従う。
 直後、あやかしが尖塔のそばを横切ると同時に、その巨大な翼が、尖塔を裂いた。
 ぐらりと揺らいだ尖塔が切断され、ついっさきまで部下たちがいた場所に落下した。

 巨大な土埃が巻き上げられ、辺りに立ちこめた。
 その全てが、沙苗から聞いていたとおり。

 ――次に起こることは……。

 刀を抜く。

 ――あやかしの襲来!

 顔を覆って怯んでいた部下を突き飛ばした景虎は、襲いかかってきたあやかしの攻撃を、受け止めた。
 まさかこの状況で、冷静に動ける人間がいるとは思わなかったのだろう。

 あやかしの顔が驚きに包まれる。
 一刀の元に、あやかしを斬り伏せた。

「全員、体勢を立て直せ! くるぞ!」

 あやかしは一体ではない。
 尖塔の落下から間髪いれずにやってくる襲撃に一時は恐慌状態に陥っていた部下たちだったが、景虎の叫びが彼らに理性を取り戻させた。

 彼らは冷静にあやかしに対処する。
 あやかしも体制の立て直しの速さに慌てているようにも見えた。

 景虎は闇夜にも映える美しい白髪を振り乱し、あやかしを両断する。
 周囲に気を張り巡らせる。あやかしの気配は完全に消失した。

「全員、すぐに撤収準備に入れ!」
「はっ!」

 敬礼する部下たちにあとのことを任せ、三船の元に戻る。

「大佐……どうして尖塔が崩れることが分かったのですか?」

 景虎の行動は明らかに、尖塔が崩れることを前提にしたものだったから、疑問に思うのも当然だ。
 まさか沙苗が教えてくれたとは言えない。

「あのあやかしは飛び回るばかりで一向に攻撃をしてこなかった。だから何か思惑があると思ったんだ。すぐそばに、崩しやすい建物があることに気付いたから、念の為に避難させた。それだけだ」

 もし無防備なままの部下たちの上に、あの尖塔が落下していたらと思うと、背筋がぞくりとする。

 部下の多くが下敷きになり、さらに巻き上がった土埃によって視界が奪われるとい
う最悪の副次効果も合わさって、どれだけの命が奪われていたか分からない。

 ――被害が出さずに済んだのは、沙苗のおかげだな。

 景虎があやかし出現に関する処理を終えて帰宅する頃にはまたも深夜近い。
 しかし気持ちは晴れやかだ。

 ――明日は、三船に言って、沙苗にショートケーキを届けさせようか。それとも食べたことがない、アイスクリーム、パンケーキもいいかもな。
 本当は連れていってやれればいいのだが、非番は当分こなから仕方がない。
 そんなことをあれやこれやと考えて、はっと我に返る。

 ――また沙苗のことばかり、考えていたな。いや、これは正当な礼のためで……。

 誰に言い訳をしているのか分からないが胸の内でそう自分に言い聞かせるように呟く。
 三船に礼を言い、馬車を降りて屋敷に入った。

 そして居間に入るなり、

「景虎様!」

 沙苗が縋るような眼差しを向けてきた。

「どうしてまだ起きてるんだ」
「胸騒ぎがしたんです。気のせいだと言い聞かせたんですが、どうしても気になってしまって眠れず……」
「……胸騒ぎ。春辻の血、かもな」
「はい?」
「いや、こっちのことだ。お前の胸騒ぎは正しかったようだな。安心しろ。お前から聞いていたから、被害は出ていない。あやかしも倒せた。お前のおかげで、将来有望な連中を失わずに済んだ。ありがとう」
「景虎様もお怪我は……」
「平気だ」
「良かった……!」

 沙苗は少し涙ぐみながら、はにかんだ。
 先見というのはまるで現実の出来事のうように生々しいと沙苗は言っていた。
 大勢の人間が崩れた尖塔の下敷きになるのを沙苗はまるで自分が体験しているかのように生々しく感じ取っていたということになる。

 今の安堵の表情は、先見で一足早く体験していたということもあるのだろう。

 泣き笑いの表情の沙苗を前に、胸が締め付けられるように苦しくなった。
 普通の夫婦であればこういう時、抱き寄せ、安心させるべき言葉をささやけるのだろう。

 しかし景虎にはそれがそうすることが叶わない。それが悔しい。

「景虎様? ぼうっとしてどうされましたか?」

 沙苗に呼びかけられ、我に返る。

「お茶を淹れましょうか?」
「あ、ああ……頼む」
「はい、すぐにっ」

 すぐにお茶を運んで来てくれる。
 切なかった気持ちを押し流すように、茶を一気に飲んだ。

「先見で見るのは、怖ろしいことばかりだったのか?」
「ほとんどは。でも一つだけ……幼い頃からずっと見ていたものがあったんです」
「ずっと?」
「先見でそれまで見えたものは近い将来の出来事のはずでしたが、それだけが違ったんです。それに、怖いことでもありませんでした。それどころか私にとってはとても素敵な先見で……」

 沙苗は、ちらっと景虎を見てくる。

「まさか俺と関わり合いがあるか?」
「関わり合いどころか、そのものです。景虎様のお姿を、幼い頃から見ておりました。寂しげに、切なそうに笑う、景虎様です。そして私にとって…………初恋の人でした。あ、初恋と言っても、あの、その気持ちを今も引きずっているということではありません! 幼い私にとっては、景虎様のように輝くように美しい方を見るのが初めてで……! ちゃんと自分の分は分かっているつもりですので……」

 景虎が『愛するつもりはない』と口にしたことを気にしているのだろう。沙苗はしどろもどろになりながら言葉を重ねた。

「……そ、そうか」

 景虎はぎこちなく頷くのがやっとだった。
 こういう時、どう反応を示すべきなのが正しいのだろう。
 景虎には分からなかった。

「とにかく俺は無事だ。だからもう眠れ」
「はい。おやすみなさいませ」

 沙苗は小さくお辞儀をすると、居間を出ていく。

 ――初恋……こんな俺に?

 この顔も美しいだなどと言われたのは初めてだ。
 他人は元より奇異なものとして見ていた。それが普通だったし、景虎自身それに対して特別な気持ちを抱くこともなかった。

 今でこそ馴れたとはいえ、この白い髪に赤い目は景虎にとっては忌まわしいものでしかなかったのだから。それは今も変わらず、鏡に自分の顔をうつすことさえ嫌っていた。

 それなのに、美しい、と彼女の澄んだ声で聞くと、胸が締め付けられるような錯覚を覚える。



 沙苗は部屋に戻ると、布団にもぐりこむ。
 しかしなかなか眠気はこず、ずっと、さきほどの景虎とのやりとりを思い返す。

 ――景虎様からお礼まで言ってもらえるなんて。

 まるで夢を見ているような心地。
 自分の先見がはじめて、誰かの役に立った。そのことが嬉しい。はじめて先見を役立ててくれたのが景虎で嬉しい。

 気味悪いと思うことなく、その場で話を聞くだけのふりをするわけでもなかった。
 だからこそ、そのあとの己の軽率さが悔やんでも悔やみきれない。

「いくらなんでも、初恋なんて言うべきじゃなかったのに……」

 きっと最悪の事態を回避できた上に、景虎も無事でいたことに心から安心したせいで、話さなくてもいいことが口からこぼれてしまったのだ。

「今ごろ、“俺たちの関係が契約にすぎないというものだと忘れたのか?”って、思われたらどうしよう……」

 思い返すと、初恋と聞いたあとの景虎は口調が心なし、ぶっきらぶだったように思える。

 今からでもさっきのことは嘘ですと言ったほうがいいだろうか。
 いや、そんなことをしたら余計、煩わせるだけだ。

 これだったら、未来予知なのではなく、人の心が読める力であってくれたらどれだけいういだろう。
 相手の心さえ手に取るように理解できるのなら、こんな風に戸惑うこともなかっただろう。
 でも景虎のことを先見ではじめて見たときの気持ちは、沙苗にとってかけがえのないものであることに他ならない。

 傷だらけの身心に、あの時の気持ちがどれだけ救いとなってくれたか。
 だからこれからも出来ることはしよう。少しでも役に立てるように。

 沙苗はそう思いながら眠りに落ちていった。
 景虎はうんざりした気持ちで、自分がこれから入って行く建物を見上げる。
 皇居外苑にある、兵部省である。
 兵部省はこの国の軍事を一手に担う機関。
 西洋文明に対しては迷信の類いは捨てたということになっている政府の秘密組織である退魔部隊の管轄をしている場所でもある。

 なぜここに来るのが憂鬱なのかと言えば、ここは現場よりも、足の引っ張り合いを常とする政治の舞台だからだ。
 そんなものとは距離を置きたい景虎だったが、退魔部隊の隊長を務める以上、呼び出しに応じないわけにもいかない。

 出かける際、一臣と鉢合わせ、兵部省に呼ばれたと愚痴るといつも軽口しかたたない男に「頑張れ」と励まされてしまった。そういう場所だ。

 秘書の三船を車と一緒に外で待たせ、景虎が出向いたのは、兵部省陸軍部軍務局局長室という長たらしい札のかかった部屋だ。

 戸を叩いて名乗ると、「入れ」と声がかかった。
 軍帽を外し、「失礼します」と入室する。
 相手は茶褐色の軍服姿の、初老の男。制服ごしにもでっぷりとした肉付きの良さが隠しきれていない。
 それがこの男が軍人としてよりも、役人としての嗅覚が優れていることを示している。

 ――今出川少将、だったか。

「座れ」

 今出川は対面の席を示す。失礼します、と景虎は座る。

「この間の活躍は聞いている。味方の犠牲を事前に食い止めたらしいな。さすがは、天華の御曹司、というところかな」

 褒めながらも、小馬鹿にしたような眼差し。
 狩人への反応はだいたい、これだ。霊力などというものへの失笑。
 だがその旧態依然として表向き捨て去ったものに縋らなければ、この国の平穏はないのも事実。

「ありがとうございます。それで御用向きは」

 景虎は軽く流して、さっさと話を進める。ここへ来る時は、用件は来てから話すと言われたきりだった。

 素っ気ない態度がつまらないのか、今出川は不満そうに鼻を鳴らしながらも、話を進める。

「鹿鳴館で開かれるパーティーに出席しろ。お前は退魔部隊の隊長であると同時に、伯爵家の当主でもある。出席し、政財界の大物たちに広く資金を求めるのも大切な務めだ」

 高い霊力を持つ狩人は異相持ち。異相は不気味がられる一方、生きる宝石と称して愛でたがる好事家が、政財界には一定数存在する。

「ちょうど婚約者もいるだろう。彼女も一緒に連れて行け」
「……なぜです」
「将来の伴侶と出席するのは当然のことだと思うが? なにかできない事情があるのか?」
「私の婚約者は、パーティーのような賑やかな席が苦手なんです。客寄せが必要ならば、私だけで十分でしょう」
「駄目だ」
「なぜです」

 つい、視線が厳しくなると、今出川の顔にかすかな怯えの色が入るが、若造相手に臆していると思われたくないと、強気の顔で身を乗り出す。

「彼女も男爵家の娘だし、なにより帝の勅命で決まった婚約だろう。賑やかなものが苦手だ、などとそんな理由で出席を控えれば不仲を疑われる。それではお前も困るだろう。ただでさえ狩人という古くさい存在が、帝との距離が近いことを不服に思う者もいる時世だ」

 ――お前のように、な。

「……分かりました。話してみます」
「いや、出席するよう説得しろ。これは上官命令だ」
 今出川は話は終わりだと言わんばかりに、腕を組んだ。



「景虎様!?」

 まだ日が落ちていないにもかかわらず、景虎が帰宅したことに、沙苗は思わず変な声をあげてしまう。

「お仕事でお怪我でもされたのですか!?」
「いや。今日はお前に少し話さなければならないことがあって、早めに帰ってきた」
「私に……?」

 ――あの初恋の話のこと!?

 まさか早めに帰宅してまでも、あの発言が我慢できなかったのか。

「今なにをしていた?」
「ゆ、夕食の支度を」
「そうか、なら、悪いが俺の分も用意してくれ。食事をしながら話そう」
「…………か、かしこまりました」
「どうかしたか?」
「い、いえ……」

 ――まさか、離縁? 半妖ごときが自分に初恋なんて調子にのったことを言うな、とか……。

 景虎の背中を見送った沙苗はどきどきしながら料理をおこなう。

 そして景虎と食卓を囲む。
 沙苗は心ここにあらずで、俯きぎみで機械的に食事を口に運ぶ。

 ――謝ろう。全力で。

「……話ついてだが」

 沙苗は箸を置く。

「沙苗?」

 その場で土下座をする。

「お、お許しください! この間のことは本当に、言うべきではなかったと思います! でも繰り返し申し上げますが、初恋というのはあくまで初めて見た時の感情で! 今は景虎様に恋心など微塵も抱いておりません! し、信じて下さいっ!」
「おい、何を言って……」
「初恋と言ったことが煩わしくて、私との契約関係を打ち切るということではないのですか……?」
「どうしてそういう話しになるんだ」
「あの、は、話と聞いて、真っ先にそのことが思い浮かんだのですが…………ち、違ったんですか…………?」
「お前はそそっかしいな」
「っ!」

 景虎の見せた笑顔に、どくん、と鼓動が跳ねた。
 口を半開きにしたまま、景虎の美しい笑顔に見とれてしまう。

「土下座をやめて、ちゃんと座れ。さっきから俯きっぱなしだったのは、そのことを考えていたからか」
「それじゃあ……?」

 景虎はパーティーへの話をされた。
 勝手に勘違いしたことにくらべると、肩すかしを食らってしまうほどの用件だった。

「そ、そんなことでしたか。あ、すみません。大切なお仕事のことなのに!」
「いいや、お前の言う通り。そんなこと、だ。だがそんなことも、お役所ではやらなければならない時がある」
「だが、お前は出席するな」
「でも」
「俺の妻ともなれば望むと望まないとにかかわらず注目を浴びることになる。パーティーに出席するような連中は常に噂話に飢えているような暇人どもだ。お前も嫌な目に遭うかもしれない」

 景虎はそう言ってくれるが、欠席すれば、なおさらその噂好きの暇人たちの好奇心をくすぐることになりはしないかと考えてしまう。

「……私たちの婚約に関しては帝の勅命によるもの、ですよね。もし今回のパーティーを欠席したとして、私たちが不仲だという話が広がったりすれば、良くないのではありませんか?」
「それは……」

 沙苗が少し我慢すればそれで済む。景虎の立場を危うくしたくはなかった。
 なにより、先日の先見につづいて、パーティーに出席すれば、景虎の役にも立てる。

「出席いたしますので、ご安心ください。景虎様の顔に泥をぬるような真似は決していたしませんから」
「そんなことは心配していない。お前は日々よくやってくれている。俺は、お前に妻としての献身は求めないと言っておきながら、今では弁当を当然のように作らせて……。だから、お前が俺の顔に泥を塗るということはまずありえないことだ」

 はっきり言われると、頬が熱くなってくる。

「弁当は私が勝手にしていることですから、お気になさらず」
「……それにしても狩人の方々のことを見世物のように扱うなんて、理解できません……」

 箸と茶碗を持つ手に思わず力がこもってしまう。

 景虎たちはこの国のために身を危険にさらし、あやかしと戦っている。

 国の為に働く人々のことを見世物にするような人々が、本来、民の手本にならなければいけない上流階級の人々の中にいるだなんて。

「その人たちの心にこそ、あやかしが宿っているように思えてしまいますっ」

 思わずそんな声がこぼれすと、景虎が驚いたように見てくる。

「な、何か?」
「お前もそうやって怒るのだな。はじめて見たから少し驚いただけだ」
「すみません。つい、感情的に……」

 赤面して俯き、黙々と箸を動かす。

「そうして人の為に怒れるのは美徳だ」