春辻沙苗は三畳ほどの座敷牢にいた。ここが彼女の生きる世界のすべて。
唯一の外界との接点が竹で出来た格子で覆われた丸窓。
沙苗はそこから空に浮かんだ三日月を眺める。月には薄雲がかかり、青ざめた月明かりは地上には届かず、暗い夜だった。
座敷牢は漆喰で塗り固められ、汚れの浮いた灰色の壁に、冷え切った板張りの床。
沙苗はできるかぎり肌と床が接触しないよう膝立ちだった。
一月の身を切るような冷たい空気の中、沙苗は薄手で、ところどころほつれたり、破れたりしている着物姿。
沙苗は今年、十八歳。腰まで届く黒髪に、長い前髪が左目を隠している。
右目は円らで、艶やかな焦げ茶。潤みがちな瞳な見るものをはっとさせるような美しさをたたえていた。
小顔で、鼻筋は通り、唇は鮮やかな赤みが差す。
美人と名高い母の生き写しであると言われているが、沙苗は母を知らない。
母は沙苗を産むと同時に亡くなってしまったからだ。
しかしそれはいいことなのだと思う。こんな囚人同然の娘の姿を見なくてすんでいるのだから。
丸窓に頬杖をついた沙苗はくすりと微笑む。
まるで彼女には見えない誰かが本当にそこにいるかのよう。
いや、実際、そこにはいた。
沙苗の髪の毛で隠された左目には、丸窓の縁に腰かけている緑色の小人が見える。
彼らは人の体に、丸だったり、三角だったり、四角だったりと色んな形の頭を持ち、鮮やかな緑色をしている。
目鼻や口はないけれど、何となく感情というものが読み取れるような気がした。
彼らは、ここ、春辻の里にある山に住まう木霊という名の精霊。
こうして一人寂しく軟禁されている沙苗の話し相手として、幼い頃からやってきてくれる。
はじめて来てくれたのはいつ頃だっただろうか。
まだ十にも満たない頃だったかもしれない。
家族はもちろん、女中たちでさえ沙苗を気味悪がり、必要以上に近づこうとしない。
それでも沙苗の心が歪まず、明るく育ったのは木霊たちのおかげかもしれない。
木霊は友だちであると同時に、先生でもある。
座敷牢に閉じ込められているせいで、沙苗はまともな教育を受けたことはないが、木霊たちはこの世界にあやかしという存在があることだったり、この国には帝というとても偉いお方がいることなど、色々なことを教えてくれた。
他にも彼らが住み処にしている古木のある山のことなんかも。
沙苗は山の話が一番好きだ。あやかしとか帝とかは自分の世界とはかけ離れていることもあって現実感がないが、里の山はすぐそこにあるものだ。たとえ窓から見えなくとも。
あそこではどんな木の実が採れて、どんな動物が住んでいて、どんなことが起きているのか。それを想像するだけで、ぐっすり眠ることができる。
「……そう、遠くのお山では雪がそんなに積もったのね」
寒さのせいで、喋ると白い息が出た。
木霊は他の山に住まう木霊と頻繁な情報交換をしているらしく、そこから得たことも教えてくれる。
沙苗の家も田舎にあるが、山中というわけではないから、雪が降ってもそこまでは積もらない。
木霊たちは、雪の積もった山はとても美しく、一面の銀世界だという。
――一度は見てみたい。
雪山だけではない。
夏の深緑に輝く雄大な山々や、空を白く切り取る入道雲。
秋の真っ赤に紅葉する峰、落ちた紅葉で深紅に染まる川。
春は、そう、やっぱり桜。桃色に染まった花びらが風に舞い散る様が息をのむほど、らしい。
座敷牢の丸窓からは、猫の額ほどの苔むした庭しか見えない。
それも風情があるといえるのかもしれないが、ここに長らく閉じ込められた沙苗からすると、そんな呑気なことは言ってもいられなかった。
「私? ううん。最近は先見はぜんぜん見てない。昔から見る、あの方のことだけ……」
沙苗には昔から未来予知の力がある。
それを、沙苗は『先見』と呼んでいた。
夢という形で、自分や自分の周囲にまつわる未来が分かる。
しかし、いつ、どこで、と詳細までは分からない。
ただ普通の夢ではありえないような生々しい現実感、そこにいる人の息遣いや存在まではっきりと伝わってくるのだ。
最初はそれが未来のことであるとは知らず、里の誰それが亡くなる、日照りが来るという話を、女中たちにしていた。
そしてそれがことごとく当たるのだ。
女中たちはより一層、沙苗のことを気持ち悪がり、「お前に流れるあやかしの血が不幸を呼ぶんだ!」と父からは竹の杖で殴られた。
それからは未来が見えても、口を閉ざすようになった。
しかし沙苗が見続けているにもかかわらず、やってこない未来が一つだけある。
それが一人に男性に関する先見。
美しい白髪を背中に流し、二重の切れ長の深紅の双眸を持つ異相の人。
すらりとした細身に黒い軍服姿。その顔立ちは女性である沙苗ですらはっとさせられるほどの美形。
その人はどこか遠くを見て、切なげな横顔を見せる。
他の未来は先見を見てから一ヶ月以内には訪れるはずなのに、その男性とは今まで巡りあえたこともなく、その人のことを見続けている。
沙苗にとってその人は支えだ。どれだけ苦しい思いをしようとも夢の中で、その人と会えるかもしれないという予感で、こらえられた。
ガランガラン!
沙苗の肩が小さく跳ねた。
それは、訪問者を伝える鈴の音。
沙苗ははっとして丸窓から離れると、四つん這いになってひれ伏す。
足音からしていつもの女中だ。
「まったく、本当にどうして私がこんなことしなきゃいけないのよ……気持ち悪い。私まで呪われたら……」
ぶつぶつと文句を言いながら重たい足音が、座敷牢で止まる。
沙苗は畳に額を擦りつけんばかりにひれ伏し続けている。
ジャラジャラと金属の擦れるのは、鍵束。
ガチャン、と座敷牢の錠前が外され、ずいっと水の入った木製の桶と手ぬぐいが差し出される。
「さっさと体を拭きなさいよ! こっちも忙しいんだから!」
邪魔くさそうに言われた沙苗は顔を上げ、「はい」と木霊たちと話していた時とは打って変わったか細い声で応じた。
立ち上がると、柄のない白い着物、そして肌襦袢とを脱ぎ落とし、手ぬぐいを水につけてよく絞る。
それから体を拭いていく。
一月の水は身を切るように冷たい。
全身の鳥肌という鳥肌が立ち、体がすくんだ。
下唇を噛みしめながらも、肌をぬぐう。
地獄のような時間。
いつか水ではなく、ぬるま湯でもいいのでと下手に口にしたばかりに、殴られてからは我慢してじっと耐えることしかできなくなった。
――早く春になって欲しい。
春になれば、多少は水温が上がってくれる。
一番水浴びが気持ちいいのは夏だ。夏ならば水温を気にしなくて済む。
「まだなのっ?」
女中がこちらに背を向けたまま、邪魔くさそうにぼやく。
「も、もう少し、です」
何度か水を絞り、体を拭き終えると、急いで肌襦袢と着物を着る。
濡れた体を拭くものがもらえないのはいつものこと。寒さもあいまって、歯の根が合わなくなるくらい寒い。
先程と同じように平服する。
桶が外に出され、扉が閉められ、錠前がかけられる。
足音が遠ざかっていく。
丸窓の障子を閉め、しきっぱなしの布団に潜り込む。
しかし繕いがところどころある薄布一枚程度の布団にどれだけもぐりこもうが、この身を切るような寒さはとても誤魔化せない。
そこへ木霊たちがぴょんと丸窓から飛び降りたかと思うと、沙苗にぎゅっとしがみついてきた。
すると、木霊たちが自分たちの霊力で沙苗を温めてくれる。
これもいつからか、してくれるようになったことだ。
寒さのせいで顔を青ざめさせていた沙苗の頬に赤みが戻っていく。
「……温かい。みんな、ありがとう」
呟きがこぼれる。
木霊たちはむぎゅむぎゅと沙苗の体にしがみつき、温めてくれる。
彼らからしたら遊んでいるだけかもしれないが、それでもありがたい。
話し相手になって寂しさを紛れさせるだけでなく、こうして温めてくれる。
その優しさに沙苗は感謝しながら、目を閉じる。
春辻家は里山に住まう、霊護《たまもり》の一族である。
霊護とは昔ながらの生活を営み、先祖より受け継ぎし強い霊力を保持し続ける家のこと。
霊護の家は最盛期は百を数えていたが、今では全国に僅かしかいない。
家を継ぐ者がいなくなって絶家になっていたり、本来の使命を忘れて里を捨てたり、いつからか高い霊力を失っていたり、と理由はさまざま。
明治の世になって尚、里山で生活を続ける春辻家は珍しいと同時に、高い霊力を子々孫々に渡す、貴重な家になってもいた。
だからこそ、霊力を求めてやまない家門は是非に、とも春辻の血族との縁戚を望んだ。
――しかし、まさか勅使がいらっしゃるとは……。
客間である。
下座についた春辻家の当主、家政、妻の八重、娘の薫子は、深々とひれ伏す。
帝の遣いである勅使としてやってきたのは、五十代を過ぎたほどの口ひげの立派な男。
明治を迎え、帝が率先して髷を切り、洋装を着こなすのに合わせ、勅使も従来の衣冠束帯を捨てて、スーツにネクタイという洋装。
「帝は、春辻の娘がいい、との思し召しでございます」
ひれ伏したまま、家政は答える。
「それは非常に光栄なことでございますが、嫁ぎ先は……」
「天華である」
はっとして家政は顔を上げる。
「て、天華とは……あの?」
「左様」
「しかし天華家は……」
天華はこの国の柱石をになう家の一つだったが、数年前に悲惨な事件に巻き込まれているはずだ。
「当主である天華景虎の妻、である。帝におかれては、古来より朝廷に仕え、狩人(かりびと)の名門が絶えることを気にされておられる。景虎はすでに勅命を受け、婚姻することを承諾している。あとは、相手だけ」
狩人。それはあやかし狩りを生業とする武門の末裔。
古くは鬼を束ねる酒呑童子《しゅてんどうじ》、帝を悩ませた鵺《ぬえ》、農作物を枯らし天災を招いた土蜘蛛《つちぐも》、さまざまなあやかしが勅命を受けた狩人が討伐してきた。
明治という新時代を迎えても、あやかしが消え去ることはない。
むしろ彼らの出番はより増えたといえた。
なぜなら、鎖国をとりやめたことでこの国の流儀を知らぬ異人たちが多数この国に入って来たことで、この国の人々が守ってきたあやかしの住まう異界との垣根を越えることが多くなってきたからだ。
「では、分家のものに……」
「ならぬ」
「は?」
「帝におかれては、妻には春辻の本家の娘であるとのご意向であらせられる」
「しかし、薫子にはすでに許嫁がおります」
「まだそういう話がある、ということだけのはず。結納はすませておらぬだろう。とにかく、これは勅命である」
「ははっ」
家政はひれ伏す。
勅使を見送るや否や、勅使を迎えるために、新しくおろしたての着物姿の薫子は
「お父様、あれは一体どういうことですか!」と癇癪を爆発させた。
肩までかかった波打つ髪に、二重のぱっちりとした目元、十五歳という実年齢よりも幼く見える。
「そうです! 『ははっ』だなんて!」
娘以上に感情を露わにして、目をつり上げている妻の八重は、性格のきつさが顔の端々に現れている派手な顔ダチの美人である。
「では何と言えばいいんだ。勅命には逆らえん」
「でも、薫子には、百瀬さんというれっきとした婚約者がいらっしゃるではありませんか!」
百瀬嘉一郎《ももせかいちろう》。造船業で成功した百瀬家の一人息子で、今は二十二歳。父と共に、外国との交易を手がけている。
「結納はまだだろう」
「嫌よ! 狩人なんてあんな薄気味の悪い連中に嫁ぐなんて! あんなのに嫁ぐのであれば、異人に嫁いだほうがまだましだわ!」
「あなたは、娘の幸せがどうなっても構わないと言うの!?」
「だが、春辻家の娘は古来より、狩人に嫁ぎ、強い霊力を持った後継者を産んできた。これは我が家の伝統でもあり、そのための霊護の家でもある」
「文明開化のご時世ですよ。そんな古くさい伝統を守るだなんて馬鹿げております! だいたい狩人があやかしを退治してきたっていう話もただの迷信でしょう。あやかしだか妖怪だか幽霊なんて、でたらめに決まってます!」
八重は吐き捨てるように言った。
彼女は田舎から都に出て花柳界で押しも押されぬ人気のある芸者。それを見初めて後妻に迎えたのである。そんな彼女は田舎暮らしはある程度我慢できても、あやかしとかそういうもに対する理解は全くなかった。
勅命の重さすら、どれほど理解しているかも怪しい。
「お父様は八重が不幸になってもいいと仰るのですね、ひどいわ!」
薫子は八重に泣きつく。八重は「可愛そうに」と声を震わせ、娘の頭を撫でる。
そんな芝居がかったやりとりに、家政はため息をつく。
「薫子。分かってくれ。私もお前に無理強いはしたくないが……」
「しておりますわ!」
「お前も春辻の娘なのだ。ここは我慢して……」
薫子ははっとして顔を上げた。
「そうよ! 化け物を嫁がせればいいんだわ!」
名案だと言わんばかりに薫子は言った。
娘を抱きしめていた八重も、はっとする。
「その通りよ。薫子、名案だわ!」
彼女たちには、春辻の本家にもう一人、いや、一匹、いることをすっかり失念していた。
「あの化け物も、立派な春辻の娘よ! あれを嫁がせればいいのよ!」
「そうですよ。あなた、あれにはもう私たちだけでなく、使用人たちもほとほとうんざいりしているのです。おまけに、女中の話だと、一人きりだというのに誰かと話しているそうです。気がおかしくなったのですよ。あんなのをいつまでもうちで飼うなんて、それこそ春辻の家名を傷つけます!」
家政は顔を顰めた。
「しかし」
八重は目を見開き、飛びかからんばかりに夫の襟を掴む。
「まさか、この期に及んで、あれを愛しているのだと言わないですよね!」
必死に形相に、家政はぎょっとしてしまう。
あれ、とはそう、沙苗のことである。
前妻である操との間にできた、春辻の長女。
「だ、だが……沙苗は」
「沙苗? 誰のことです?」
八重は目を見開いたまま、夫に言う。
「あんなのを、まだ名前を呼ぶのですか!? あれは人ではなく、化け物! だからこそ、あなたはあれを幽閉しているのでしょう!?」
家政は呻きをこぼす。
「どうなんです。答えてください。あれと薫子、一体あなたにとってはどちらが大切だと言うのですか!?」
「む、無論、薫子に決まっているだろう! だが……だがな……あれは、操の命の引き替えに産まれたんだ……」
家政は八重をふりほどくと、妻と娘に背中を向ける。
八重樫操《やえがしみさお》。
家政にとって、高嶺の花とも言うべき美しい女性だった。
今も目を閉じると、春の陽向のように柔らかく微笑む妻の姿を思い出せる。
操は、春辻と同じく、霊護の家の生まれ。
家政の一目惚れだった。そして八重樫としても自分たちに匹敵する霊護の家系との縁談は望むところで、両者の思惑が一致し、婚姻となった。
政略結婚ではあるものの、家政からすれば恋愛結婚も同じだった。
二人の夫婦仲は良かった。
最初は素っ気なかった操も、家政の愛情にほだされ、少しずつ距離が縮まっていった。しかし夫婦生活は長くは続かなかった。
操が臨月を迎えた頃、あやかしに襲われ、その身を噛まれたのだ。
操はあやかしに襲われたことで錯乱しながらも、『沙苗だけは絶対に生かして……』と家政に訴えた。
『さくら、こ?』
『この子の名前……お願い。私の命よりもこの子を』
『……分かった。絶対にお腹の赤ん坊は救う!』
子どもならまた作ればいい、と喉元まで出かかったが、半死半生の操を前にそんなことはとても口にできなかった。そして沙苗と彼女が名付けた家政の長女は、母親の命と引き替えに、産声をあげた。
しかし生まれた子どもは左目が金色に輝き、黒い一本、縦の筋の入ったあやかしの目を持っていた。あやかしに噛まれたことで、産まれた子にあやかしの力が入り込み、半妖として生まれたのだ。
よりにもよって操の命と引き替えに。
その不気味な目に誰もが恐れおののく。
家政は怒りに駆られた。
こんなもののために最愛の妻は死ななければならなかったのか。
許せぬ、と強い衝動にかられた家政は、赤子を離れで育てることにした。
殺さなかったのは、半妖といえども、操の腹から出て来た子どもだったから。
「もし、このまま薫子を犠牲にすると言うのなら、私たちは出ていきます!」
「な、何を馬鹿なことを!」
「馬鹿はあなたです!」
「しかし考えてもみろ。狩人へ半妖を嫁がせるなんて……ありえないことだ」
「隠して嫁がせるに決まってるでしょう。病弱だとでも言えばいいんです。それに、あれにだって忌々しいけれど、春辻の血が流れているのは間違いないんだから。とにかく、よーく考えてください! 私は別れても、頼むべき人たちはたくさんいるんだから!」
しかしあなたは違うでしょう、と八重は言いたいのだ。
それは最後通牒。八重は別れると臭わせたのだ。
妻の激しい気性に辟易しながらも、薫子を百瀬家に嫁がせられないのは、春辻の家にとっても打撃である。
春辻はたしかに名家だ。しかしそれはただ単に歴史が長いというだけ、とも言える。
江戸であればいざ知らず、今は明治。
霊力などという前時代的なものよりも、今必要とされるのは生き馬の目を抜く世界で生き残る才覚。端的に言って財力である。
伝統や格式だけでは到底、渡れぬ世。
爵位をもっていようとも、財力がなければ生きてはいけない。
春辻の家もまたその家計は火の車。
その主な原因は八重と薫子にあるのだが。
八重が帝都を離れることを納得したのは金銭的な不自由は決してかけぬと、家政が誓ったからだ。彼女は本当に湯水のごとく金をつかった。
妻でありながら家計には無頓着に。
これまでは先祖伝来の土地を切り売りして急場をしのいできたが、それも限界。
だからこそ、薫子にはどうしても百瀬家に嫁いでもらわなければ困る。
百瀬の財政支援を受けられなければ、近いうち、破産は免れない。
だが勅命には背けない。時代が変わろうとも、帝の権威は不動。
いや、武士の世でなくなったからこそ、余計にその重みが増したとも言える。
――仕方がない、か。
沙苗が半妖でさえなければ、操のように愛することができたのに。
その日は、一月というのにとても温かかった。
窓辺で沙苗は、日射しを浴びて目を細める
木霊たちはうつらうつらしている。
その姿はとても微笑ましく、戯れに右手の人差し指で木霊の頭をちょんっと小突く。
はっとした木霊はびっくりしたように当たりを見回す。そして犯人が沙苗だとしると、人差し指にしがみつき、ぶらんぶらんとぶら下がって見せた。
「ふふ、ごめんなさぁい」
沙苗は鈴のころがるような声で、可憐に微笑んだ。
こんななにげない瞬間が、沙苗にとっては宝物のように貴重だった。
ガランガラン。
その鈴の音にはっとした沙苗は木霊を指から離すと、いつものようにひれ伏す。
――こんな真っ昼間から何の用?
昼ならばついさっき出された。めさしの干物と粟、具のない味噌汁。どれもこれも作って時間が経っていて、まるで砂を噛むようだった。
食事が粗末なのは今にはじまったばかりではない。座敷牢に閉じ込められて育ったから空腹などほとんどないから、それで十分とも言えるのだが。
足音が近づいてくる。
――誰?
女中ではない。女中のものよりもずっと重たい。
足音が座敷牢の前で止まった。
「沙苗」
「!」
顔を上げた。
「お父様……」
一体いつぶりだろうか。思い出せないほど久しぶりだった。
久しぶりに見た父の顔はいくらか、老いているように思えた。
沙苗の記憶に残る、最後に見た父の顔はもっと若々しかったように見えるが、今は髪や口ひげに白いものがまじり、目尻の皺まで深い。
「久しぶりだな」
「は、はい」
喜びは、ない。そんな気持ちはとうの昔に凍り付いていた。
なぜ自分が閉じ込められているのかは女中が噂しあっているから分かっている。
沙苗が人間ではなく、あやかしに穢れた半妖だから。
そんな娘が、父にとっての最愛の人を犠牲にして生まれてしまったから。
すべて沙苗にはどうしようもないことだ。
沙苗はじっと父を見つめる。
無言で見つめてくる娘に、父は目を背けた。
「……何かご用でなのでしょうか」
「う、うむ。実はな、お前に縁談がきた」
「縁談? どちらですか」
「天華という名門の方だ」
「そちらの方は、私がどんな状況なのかご存じなのですか?」
「いいや。だから、お前が半妖であることはばれないようにするんだ。これは家のためだ。お前をこれまで育ててやった恩を無駄にするな。分かったか」
――育てた恩? これまでひどい仕打ちをしてきたくせに……。
しかし胸の中にある不満などぶちまければ、どんな目に遭うかもわからない。
「……は、はい」
錠前の鍵が外され、扉が開けられる。
「この離れで花嫁修業をおこなえ。必要なものがあれば女中たちに言え」
「出てもよろしいのですか?」
「部屋にいては、花嫁修業もままならないだろう」
――座敷牢を部屋って……。
心の中で突っ込み過ぎて、少し話しただけなのに疲れてしまう。
しかし家の中だけとはいえ座敷牢から出られるのは朗報に違いない。
「ではまた様子を見に行く」
「お父様、お相手のお名前は?」
「天華景虎様。狩人だ」
狩人という言葉に、木霊たちが怯えたようにブルブルと震えた。
「狩人というのは、どういう人なのですか?」
「あやかしを斬るのを生業にしている。つまり、お前の敵だ。これで分かっただろう。お前が半妖だとばれれば、斬って捨てられるぞ」
背筋に寒いものが流れていった。
「……そ、そんな人に嫁がなければいけないのですか?」
「そうだ。薫子をそんなやつに嫁がせるわけにはいかないからな」
父は当然という顔でそう言った。
「嫁ぐのは、分かりました。でも一つお願いが」
「なんだ」
父は煙たい顔をする。早くここから立ち去りたい、と顔に書いてある。
「お母様のお墓にお参りを――」
「調子にのるな!」
突然の剣幕に、沙苗は「申し訳ございません!」と頭をかばい、ビクビクと体を震わせた。
「お前のような半妖が操の墓に参るなど! お前が母を殺したも同然なんだぞ! 図にのるな! お前みたいな穀潰しの半妖、殺されないだけありがたく思え! お前が嫁ぐのは当然の責務で、何かを要求するなど百年早い! こんどまた同じことを言えば、罰を与えるからそのつもりでいろ!」
ひどい剣幕で罵られ、父はその場をあとにしていく。
恐怖で涙を流し、「ごめんなさい、ごめんなさい……」と沙苗は譫言のように呟き続けるしかなかった。
早速、翌日から女中たちから、炊事洗濯、裁縫などの家事全般を教わることになった。
彼女たちは不愉快さを隠そうともせず、失敗をすると容赦なく竹の杖で手や太腿などを叩いてきた。まるで動物を躾けるようだった。
しかし沙苗は外に出られたことへの解放感のほうがずっと大きかったし、これまでの扱いを考えれば、これくらいどうということもないと思った。
この苦しい修行さえ乗り切れば、自分は嫁ぐ。つまりこの家から出られる。
解放されるための代償と思い、じっと耐えた。そもそも反抗したところで意味もない。
だったら何をされても黙っていたほうが楽だ。これまで通り。
最初こそ手間取ることも多かったが、一週間、二週間と時間が経つにつれて、少しずつ上達しはじめた。
学はないが、沙苗は決して愚かではなく、飲み込みも早かった。
それは沙苗自身もこれまで知らなかった。
叩かれる頻度も少なくなった。
そんなある日、扉が開く気配に横になっていた沙苗の意識がゆっくりと覚醒し、うっすらと目を開ける。
草履のまま、栗色の髪の少女が入って来た。
少女が沙苗を見下ろしてきたかと思うと、不意に左目が隠れるように伸ばしていた前髪に触れられた。指秋が額に触れ、ひりっとした痛みが走った。
「やっぱり気持ち悪いわね、あんたっ」
「な、何よ、あなたは!」
沙苗はじんじんと痛む額に触れる。かすかに血が滲んでいた。
――この子、私に何をしたの?
「忘れるのも無理はないわよね。お姉様」
少女はにたり、と不気味に笑った。
「お、ねえさま……?」
「そうよ。私は妹の薫子」
思い出した。自分の腹違いの妹。
子どものころ何度か庭先にいるのを見かけた。
可愛らしい着物をまとった、自分のように監禁されていない、自由に過ごすことを許されたいくらか年下の少女。
丸窓ごしに目があった。
沙苗は同年代の少女と会えるのが嬉しくて、笑いかけた。
しかし少女は手に持っていたものを、投げつけてきた。それは泥団子。里の他の子どもたちを誘い、泥団子をいくつも投げてきた。沙苗は窓辺から逃げ出し、震えるしかなかった。
「その目、半妖の目なのね。気持ち悪い」
そう履き捨てすながら、また前髪をどかそうと手を伸ばしてくる。
「や、やめて!」
沙苗は妹の手を払いのける。当然、大して力は入っていない。
にもかかわらず。
「きゃああああああ! 助けてえええええええ!」
薫子は悲鳴をあげたかと思うと、その瞳からはぽろぽろと涙をこぼした。
悲鳴を聞きつけた女中たちが駆けつけてくる。
「お嬢様から手を離しなさい、化け物!」
容赦なく殴られ、蹴られた。
沙苗は体をくの字に折り、頭を抱える。
「みんな、もうやめて。お姉様の気が立つのも理解できるわ。だって、ずっと座敷牢に閉じ込められて辛い思いをされていたんですもの。私が不用意に交流を持とうとしたのが気に障られたのね……」
妹は、明らかな嘘を流れるように口にした。
「ち、違う。その子は、嘘をついてるわ!」
沙苗が必死に弁明しても誰も耳を貸さない。貸す気がそもそも無い。
終いには父と、見知らぬ女性がやってきた。目元が妹にそっくりだった。つまり、女は後妻。
「どうしたんだ!」
「お、お父様ぁ!」
薫子が抱きつくと、父がよしよしと頭を撫でる。
「薫子、一体何があったの?」
女中たちが、妹の嘘八百の事情をそのまま説明する。
「なんて娘なの! せっかく座敷牢から出してあgて、嫁にまでいかせてやろうっていうのに!」
後妻が女中がもっていた竹の杖を奪うと、沙苗を打ち据えた。
「おい、やめろ!」
父が、後妻の手をつかんだ。
「あなた、この化け物をかばうの!? 薫子が襲われたのよ!?」
「嫁入り前だ! 傷つけて、先方にばれたら面倒だろう!」
「チッ!」
後妻はは舌打ちをすると竹の杖を女中へ押しつけ、「行くわよ」と薫子と一緒に出ていった。
庇ってくれたと思ったが、父は冷ややかな目を向ける。
「……操ではなく、お前が死ねば良かった」
そう吐き捨てるように言われた。
熱いものが頬を伝う。
――どうして私がこんな目に遭わなければいけないの?
一体自分が何をしたというのだ。半妖として生まれたのは自分のせいではない。
もちろん亡くなった母のせいでも。
悪いのは、母を襲ったあやかしだ。
肩を震わせ嗚咽する沙苗の周りに木霊たちが集まり、まるで慰めるように抱きついてくれる。
ぽかぽかとした温かさが、傷を優しく癒やしてくれる。
「……みんな、ありがとう。大丈夫。こんなのに負けたりしないからっ」
沙苗は木霊たちへせいいっぱいの笑顔を見せた。
薫子との一件があったせいで、花嫁修業はより一層厳しいものになった。
女中たちは沙苗がうまくこなしても、些細な粗を見つけては厳しく責めたててきた。
ただ嫁入りが近いということもあってか、罵倒されるだけで暴力を振るわれることはほとんどなかった。
そしてついに夫となる人がやってくる日を迎えた。
その日は朝から水で体を清め、いつものように無地のとは違う、華やかな着物をあてがわれた。
女中たちは不快さを隠さないまま、着物をきつける。
女中たちに付き添われ母屋へ向かう。
離れとは違ってよく日が当たり、庭もしっかり手入れが行き届いている。
女中にここで待つように命じられ、一人ぽつんと部屋に取り残された。
その日は朝から女中たちがつきっきりだったせいで、ようやく一息つくことができた。
――ようやくこの日が来たのね。
まだ癒えきれていない傷がズキズキと鈍く痛んだ。
それでもこれくらいどうということはない。
木霊たちがぴょんぴょんとはしゃぎ回るように、沙苗の体の上で遊ぶ。
「みんなと離れなきゃいけないのは寂しいわ。それだけが心残りかな……え、一緒に来てくれるの? でもみんな、山は……」
木霊たちは木霊なら他にもたくさんいるから問題ない、と言ってくれる。
それよりも、沙苗が心配なのだと。
「ありがとう……」
びっくりだ。まさか木霊たちが一緒に嫁入りについてきてくれるなんて予想外だ。
嬉しくて、泣きそうになるのをぎりぎりでこらえる。今、泣いてしまったら、せっかくのお化粧が崩れてしまう。
「結婚は……どうかな。幸せになれるのかな……」
幸せという言葉は、生まれた時からずっと離れに閉じ込められていた沙苗にとっては最も縁遠いもの。
そもそも何かを望むという行為そのものが、おこがましいと思える。
半妖である自分が、人並みの幸せなど期待はできないだろう。
だから幸せなんて望まない。ただ、これまでの暮らしのように苦しくなければそれでいい。それだけを祈るだけだった。
「――こんな日まで独り言とか、やっぱり気持ち悪いわ」
華やかな着物をまとう薫子の姿に、全身が強張った。
怯える沙苗を蔑むように見つめてくる。
「まさに馬子にも衣装よね。ま、あんたみたいな化け物、どうなろうがしったこっちゃないけどさ。でも婚約者は狩人なんだから、半妖だってことバレないようにしたほうがいいわね。あんたが半妖だって知ったら殺されるかも」
そうだ。どうしてそのことを忘れていたのだろう。
相手はあやかしを狩るのを生業にしている人。その人が迎える妻が半妖だと知ったら。
今まで花嫁修業の厳しさとせわしなさ、座敷牢から出られた喜びで、完全に忘れていた。
全身から血の気が引く。
「ま、頑張って」
クスクスと笑いながら薫子が去っていく。
――どうしよう。
しかし今さらどうにもならない。逃げたところで連れ戻されるのが落ちだ。
そこへ障子ごしに声がかけられる。
「お嬢様、お客様がお着きになりました」
お嬢様。一度もそう呼ばれたことがない沙苗からしたら、失笑してしまう呼び方だ。
しかしわざわざそんな呼び方をしているということは、すでに相手が到着しているのだろう。
「……は、はぃ」
声を震わせ、立ち上がった沙苗は女中に連れられ、広間へ連れて行かれた。
「お嬢様をお連れいたしました」
女中が声をかけ、襖を開けた。
「さあ、沙苗。こっちへ来なさい」
「ふふ、やっぱりよく着物が似合っているわ」
「お姉様! とても素敵!」
偽りの表情と声で、招かれる。
これまでずっと座敷牢と木霊たちに囲まれて暮らしていた沙苗は、人間のおぞましさには馴れない。
軽い吐き気を覚えつつ、引き攣った笑顔を浮かべる。
「こちらが、お前の嫁ぐ、天華家の御当主、天華景虎殿だ」
綺麗な正座でたたずむ青年――景虎の姿を一目見た瞬間、胸を突かれた。
黒い軍服姿の男性は、先見で見たあの人だったのだ。
――え……!
背中に流された白い髪は、人間というよりも、神仏の遣いであると言われた方が納得してしまいそうなほいどに美しい。
彫りの深い顔立ちは端正であるにもかかわらず、祝いの日であることを忘れてしまいそうなほど、その表情の中には感情らしいものは見てとれない。整いすぎた美形であるからこそ、無表情の印象がよりきつく見える。
刃のように鋭い光をおびた瞳は、燃えるような深紅。
瞬きが少ないせいか冷淡な印象を受ける。
しかし先見で見た時よりも、ずっと強い近寄りがたさを感じた。
「……木霊を飼っているのか?」
抑揚のない冷ややかな声で、景虎は言った。
「……み、見えるのですか?」
この家の誰も見えなかったのに。
「見えないわけがないだろう。どうして木霊がいる? まさか本当に飼っているのか?」
景虎のそばには、赤い柄に黒い鞘の日本刀が置かれている。
「こ、この子たちは友だちなんです。悪いことは何もしません。き、斬らないで下さい……!」
「そんな無駄なことをするつもりはない。まさか、そいつらも連れて行くのか?」
「……だ、駄目でしょうか」
「何を言っているんだ。木霊はあやかし。そんな不浄なものを連れて行くなど、天華の家が穢れるだろう!」
父が激昂する。
「霊護の家系というのも、大したことがないな」
父が言葉を重ねようとするのを、景虎はぴしゃりと遮った。
「な、なんですって」
「あいつらはかなり長くお前の娘と一緒にいるようだ。すっかりなついているようだ。好きにしろ」
「ありがとうございますっ」
「それから、お前、木霊は不浄と言ったな。木霊はあやかしと言っても邪気はない。そもそも大きい括りであやかしとは言われてはいるが、精霊に近い存在だ。穢れることなどありえない。当主だというのに、そんなことも分からないのか?」
ぐっと言葉に詰まった父が恥ずかしそうに俯く。その手がぎゅっと拳を握りしめる。
「霊護と言ってもこの程度か。こんな田舎に引きこもっているんだ。そもそも期待はしていなかったが。おい、荷物は?」
「荷物は……」
「これ、沙苗の荷物をもってきなさい。少しお待ち下さい」
後妻が女中に命じる。
――荷物なんて用意してないのに。
その時、薫子が目を輝かせて景虎へ近づく。
「それにしても美しい髪ですよね。惚れ惚れしてしまいますわ」
薫子は自分がどう振る舞えば相手に可愛いと思ってもらえるかを学習しているのか、媚びを売るような眼差しを景虎に注ぐと、その美しい髪に無遠慮に触れようとする。
「触るな」
景虎が威嚇するように薫子を睨み付ける。まさかそんな反応を見せられるとは思わなかったのか、薫子は「ひ!」と声を震わせ、顔を青ざめさせる。
「誰かに触るのも、触られるのも不快だ」
整った顔が不愉快そうに歪む。
「わ、私たちは今日から、義理の兄妹になるのにそんな冷たいこと……」
「お前たちと家ぐるみの付き合いをするつもりはない。そもそもこの婚約自体、俺は望んでもいない」
広間がいたたまれない空気に支配されたその時、二つの旅行鞄を女中たちが運んでくる。
景虎は立ち上がると、女中からひったくるように鞄を手にする。
――お、大きい……。
沙苗は、景虎の背の高さに驚く。
父よりも二回りは大きいせいか、小柄な沙苗は仰がねばならない。
手足もすらりとして長く、軍服ごしにも均整の取れた身体だというのが分かった。
景虎は、父を一瞥する。
「結納などの面倒な儀式についてはこちらも忙しい故、省略するというので問題ないんだな」
「は、はい、もちろんでございます……」
「結納の品はあとで届けさせる」
景虎はさっさと歩き出して、広間を出る。
沙苗は急いであとを追いかける。
景虎は沙苗の歩幅などまったく気にせず、どんどん歩く。
沙苗は置いてかれまいと息を切らせながら小走りになった。
玄関を出ると、冬晴れの日射しに目が眩みそうになる。
景虎は、門へと続く道の半ばで不意に立ち止まっている。
はぁはぁと肩を上下させた沙苗も立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。
景虎は振り返る。
「帝に言われて仕方なくお前と婚約したにすぎない。だから、お前を愛するつもりはない」
ぞわりと鳥肌が立つ。
「無論、お前に、妻としての献身も求めない。それだけは言っておく」
「……かしこまりました」
沙苗は深々と頭を下げた。
そんなことか、と思った。
愛してくれないのは構わない。
生まれてからこれまで、一度だって愛されたことなどない沙苗からすれば、ことさら気に病むことはなかった。
座敷牢から出られて、外を歩く自由があるだけで十分すぎるほどだ。
「何がおかしい」
「え?」
沙苗は自分の頬を触る。自分でも意識していないうちに、口角が上がっていた。
慌てて唇を引き結ぶ。
景虎は呆れたのか溜息ををつくと再び歩き出して、門を出た。
沙苗の背後で、家族たちが見送りに出てくる。
「えっと……?」
門前には馬車も何もなかった。ただ黒塗りの見馴れないものがある。
「何をしている。乗れ」
「……それは、乗り物、なのですか」
「自動車だ」
景虎は扉を開けて、「早く城」と告げる。
「は、はい」
「……土足のままでいい」
田舎者だと馬鹿にされただろうか。恥ずかしさで耳が熱くなってしまう。
沙苗は言われた通り乗り込んで、扉を閉めた。
「……これは何で動くのですか?」
馬は見当たらない。
「エンジンで動く」
「えん……?」
「とにかく、これは乗り物で、馬や人足は必要ない」
自動車が走り出せば、ぐんぐんと景色が後方へ流れていく。
――は、早い!
沙苗はあまりの速さに恐怖を覚え、目をぎゅっと閉じて座席にしがみつく。
景虎は沙苗をちらりと一瞥すると少し速度を落とし、田舎道を走っていった。
どこをどう進んだのか、沙苗には正直、自動車に乗っている間の記憶がほとんどなかった。疲れ果てて眠ったのか、はたまた気を失ったのか。
景虎に声をかけられ目覚めると、辺りはすっかり夜で月明かりに照らしだされた大きな平屋建ての屋敷の前にいた。
「……こ、ここは……?」
「帝都。帝のおわす、この国の都だ」
「てい、と……」
一足早く景虎は車から降りると、助手席側の扉を開けてくれる。
「顔が青いぞ。平気か」
「私なら、平気です……。み、みんなは?」
木霊たちはぴょんぴょんと飛び上がって、元気だと教えてくれる。
「自分より木霊の心配か」
――呆れられちゃった……。
「……すみません」
「どうでもいいから、さっさと下りろ」
「は、はい」
沙苗は車から降りたが、馴れない自動車での移動のせいか地面を踏みしめた途端、軽い眩暈を覚え、体勢を崩してしまう。
「掴まれ」
景虎が手を差し出してくれる。
「ですが、景虎様は人に触れられるのが嫌だと」
「病人は別だ。今のお前は病人並にひどい顔色だ。さすがにそんな相手にまで厳しくは言わない。だから、掴まれ」
「すいません……」
しかし景虎の手に触れた瞬間、火花が散った。
「あああっ!」
沙苗はまるで鋭い何かに手の甲を貫かれるような激痛を覚え、手を押さえたまま、その場にうずくまってしまう。
手を見ると、掌が真っ赤に焼け、血が滲んでいた。
――な、なに、今の痛み……。
「おい!」
景虎は明らかな異常に、沙苗の体を支えようと触れる。
しかし景虎が触れた場所からさらなる痛みに襲われた。あまりの痛みに、足元から崩れ落ちてしまう。
触れられた場所を見ると、着物が真っ赤に濡れていた。
あたりに鉄錆の臭気が漂う。
――これは、血……?
心臓がばくばくと痛いくらい脈打つ。
「……あやかしの気配がずっとついてまわっていたから木霊だと思っていたが、違っていたようだな」
景虎は、沙苗の血で汚れた白い手袋を見つめながら独りごちた。
脂汗に全身を濡らした沙苗がぼんやりしながら顔を上げると、真っ赤な瞳とかちあう。
心臓を鷲掴みにされるるような心地になり、体が強張る。
――……私、怖がってるの?
いや、怖がっているのは沙苗ではない。
沙苗の中のあやかしの血が、目の前にいる狩人に怯えているのだ。
「お前は一体何者だ」
「わ、私は……」
景虎の手が、腰に帯びた刀の柄にかかっていた。
もはやこの状況で何を言っても、言い逃れはできないだろうし、景虎がそんなものを許してくれるとも思えなかった。
「……半妖です」
景虎は舌打ちをする。
「春辻は俺を謀《たばか》ったのか」
「お、お許しください……」
沙苗は身を縮こまらせ土下座をして、許しを乞う。今の沙苗にはそれしかできない。
その一方で、どこかでこのまま殺されても、とも考えていた。
自分は半妖。その苦しみは一生ついてまわる。
それを理解してくれるような人間とも会うことはないだろう。
このまま離縁されて、あの地獄に戻るくらいならば、いっそこの場で斬られたほうがいいのではないか。
木霊たちがまるで、沙苗をかばうように立ちはだかった。立ちはだかると言ってもそもそも掌ほどの大きさしかないけれど。
「みんな、大丈夫。覚悟はできてるから……」
しかし膨れあがっていた殺気がふっとなくなる。
「立て」
「は、はい」
「早くしろ」
苛立った声に慌てて従う。痛みのせいで脂汗が背筋を伝う。
「治療道具が家にある。来い」
「……家に入ってもよろしいのですか?」
「お前との婚約は勅命によってなされた。何の事情も聞かずに斬って捨てるようなことは許されない。いいから、来い」
景虎は自動車から旅行鞄を二つ手に取ると、屋敷へ入っていく。
「わ、私が持ちます」
「その傷でか?」
沙苗に選択肢などなく、彼に従う。
長らく留守にしていただろう。
家の空気は冷え切り、強張っているように感じられた。
玄関で履き物を脱ごうとするが、真っ暗なせいでなかなかうまくいかない。
こうして履き物を履くという単純なことさえ、座敷牢生活が長かった沙苗にとっては不慣れだ。
もたついている沙苗を見て、景虎が掌を差し出せば、不意に辺りが青白い照らされた。
沙苗ははっとして息を呑んだ。
景虎が差し出してきた右手の上に、青白い炎が浮き、その淡い光が足元を照らしていた。
「これで見えるか?」
「あ、ありがとうございます。その炎は……」
「霊力で出しているだけだ。そんなことはどうでもいいから、さっさと脱げ」
足元を照らしてくれたおかげでどうにか靴を脱げた。
景虎は居間へ入ると、部屋が明るくなった。
沙苗はぽかんとした顔で、それを眺める。
「……これも、霊力、ですか?」
「電気だ」
「でんき……? 火とは違うのですか」
「触るな」
「し、失礼しました……っ」
「たしかにあんな田舎だからな。電気はまだ通じていないか」
少なくとも離れでは、灯りといえば日射しか月明かり。蝋燭さえ許されなかった。
「電気に不慣れなら、洋灯《ランプ》もある。使いやすいものを使え」
「分かりました。あの……他の方々は?」
「他?」
「こちらのお屋敷で働く方々です」
この屋敷は春辻の家よりもさらに広いかもしれない。
そうであれば住み込みの女中がいてもおかしくないのに、主人である景虎が帰宅したというのに誰も迎えにでないのはおかしい。
それどころか、家には人の気配というものが一切なかった。
沙苗はそれを怪しんだのだ。
「女中ならいない。ここには俺が一人で住んでいる」
「通いの女中もいらっしゃないのですか」
「そうだ。そこに座って待っていろ」
景虎は席を外すと、しばらくして水の入った桶と、薬や包帯を持って来る。
「手伝ってやりたいが、俺が触れるとまたひどい傷になるだろうからな」
「でもどうしてこんな傷に……これまで、こんなことなかったです……」
「俺の霊力のせいだろう。天華は平安の世より、あやかしを斬る一族で、特別強い力を有している。それゆえ、俺の霊力で傷ついたんだ」
清潔な布を水につけ、しっかり絞る。
そして傷から滲む血を綺麗に拭う。傷口に染みて、ズキズキと痛んだ。
「これは消毒液だ。これで傷を綺麗にしろ。感染症を予防する。半妖が病にかかるかどうかは分からないが」
言われた通りにしてから、包帯を巻きつけ、留める。
それから着物をくつろげ、肩口を露わにする。
景虎の手の形に肌が真っ赤に爛れ、血が滲んでいた。
そこも水で血を綺麗に落とし、それから消毒液を塗布する。
しかし包帯が巻けない。
――どうしよう……。
沙苗が困っていると、木霊たちが包帯を持ち上げたかと思えば、ぴょんっと体にとびのってくれる。そして肩口に包帯を巻いてくれる。
「みんな、ありがとう」
木霊たちが照れると、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「で、なぜ半妖が霊護の家にいる?」
沙苗は事情を説明する。
と言っても、全て実家で女中たちがひそひそと沙苗の出自について噂をしていたことを繋ぎ合わせたものだから、間違いはあるかもしれないが。
何と言われるだろうか。実家で経験した時のように、気持ち悪いと罵倒されるのだろうか。不安を覚えながら話し終え、景虎の言葉を待つ。
「不用意なことを聞いた。許せ」
沙苗は耳を疑った。
「い、いいえ。疑問に思われるのは当然ですから」
景虎に謝られ、沙苗はただただ恐縮してしまう。
「……それにしても、その半妖の体でこれまでどう家族と接してきた? 父親と妹には大したことはないが、霊力があった。俺に触れられた時ほどひどくはないだろうが、痛みくらいは感じていただろう」
「それは……」
沙苗は言葉につまってしまう。
家族とは一度も接触を持ったことがない。
もしこのことを知っていたら、父親は景虎に沙苗を嫁がせなかったはず。
つまり沙苗が生まれてから、父は一度も触れたことがなかったということになる。
だから沙苗の体が霊力を持つ者に触れられると傷つくということを知らなかったのだ。
「景虎様。お願いがございます」
「何だ?」
「何でもいたします。どんな辛い仕事もやります。ですから、どうか、婚約を破棄しても追い出さない手ください。こちらのお屋敷においてください!」
「お前がたとえ半妖でも、婚約者であることに変わりはない」
「で、ですが、狩人の妻が……その……半妖では、外聞が悪いのでは」
「黙っていれば気付かれることもない。強い霊力を持つ者と接触しなければ、普通の人間と変わらぬだろう。そもそも俺は帝の命がなければ、婚約をするつもりはなかった。仮にお前を離縁したとしても、別の女との縁談が持ち上がるだけだ」
「……では、私はここにいてもよろしいのですか」
「お前としても里に戻されるのは望まぬようだしな。この婚約は、互いに利がある契約のようなものだ」
「……契約……」
「不服か?」
「いいえ。ありがとうございます。おいていただけるだけで、ありがたいことでございます!」
沙苗は心の底から礼を述べる。
「ついてこい」
景虎は立ち上がると、屋敷の奥に向かっていく。と、その時、縁側を通りがかったのだが、庭の様子に思わず目を瞠り、立ち止まってしまう。
「どうした?」
「……お庭がすごい……ですね」
月明かりに照らされた広々とした庭は雑草が伸び放題になり、庭木も手つかずで自由に枝葉を伸ばし、ちょっとした森のような様相を呈していた。
「ここへ寝て帰ってくるだけだからな」
「……庭師を呼んだりは?」
「しない。信用できぬ人間を家へ立ち入らせるつもりはない。お前もそれだけは守れ」
景虎の声が低くなる。
「か、かしこまりました」
案内された部屋は十畳ほどの広間だ。そこには箪笥や文机などの家具の他、布団が一組、置かれている。
「今日からここがお前の部屋だ。家の中では一番日当たりがいい。布団はそれを使え。風呂は?」
「この傷、ですので」
「分かった。今日はもう休め」
景虎は旅行鞄を部屋の隅へ置くと、部屋を出ていった。
座敷牢での生活を考えると、この部屋は持て余すほど広い。
さっそく広い部屋に昂奮を隠せない木霊たちがおいかけっこをしたり、ごろごろと転がったり、と遊び始める姿に、くすっとした。
――こんなに広い部屋を私に……。
その上、離縁をしないでいてくれる。
それが沙苗への配慮でなくても関係ない。ただ嬉しかった。
沙苗は布団を敷く。
厚みがあって、ふんわりして、柔らかい。
繕ったあともなければ、湿気を吸ってぺしゃんこでもなく、真新しい匂いがした。
わざわざ沙苗のために新しく用意してくれたものなのだろうか。
自分のために用意してもらえたという事実が嬉しくて、ぐずぐずと鼻を鳴らして涙ぐんでしまう。
怪我に気を付けながら着物を脱ぐ。それから鞄をのぞくと、いくつか地味な色合いではあるものの、上等な着物が入れられていた。
中には浴衣や肌襦袢などもある。
――これまでのことを考えれば、上等すぎる嫁入り道具ね。
着物と肌襦袢を脱ぎ、浴衣を着る。
木霊たちと一緒に布団に潜り込むと、すぐに温かくなる。
考えることは、景虎のこと。
愛するつもりはない。妻としての献身を求めない。彼はそう告げた。
もちろん、愛を求めるつもりもない。
ただ、沙苗にとって、名も知らぬ美しい青年――景虎は幼い頃からの心の支えであり、初恋の人でもあった。
沙苗は半妖である自分を斬らずにいてくれた彼のために出来る限りのことをしようと、胸に決めた。
沙苗が目覚めると、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって混乱してしまう。
しばらく寝ぼけた頭で天井をじっと見つめていると、そこが天華家であることを思い出す。
沙苗は思わず手足を伸ばす。座敷牢ではそんなことありえなかった。手と足を伸ばせばすぐに壁に当たってしまう。しかしこの広間ではどれだけ伸ばしたところでどこかにぶつかるということがない。
布団を抜け出すと布団を畳み、浴衣から着物へきがえた。
まだ夜も明けきらぬ時刻である。
広い屋敷は静まり返っていた。さすがにまだ景虎は眠っているだろう。
朝ご飯を用意しておこうか。妻としての献身は求められてはいないが、でも使用人も誰もいないのだ。一人で用意するのは面倒なはず。
沙苗と木霊たちは部屋を一つ一つ見て回り、ようやく台所にたどりついたのだが。
――き、汚い……。
三つある立派な竈には埃が積もり、さらに蜘蛛の巣まで張っている。
木霊たちも驚きを隠せない様子。
――そういえば景虎様、屋敷には寝に帰っているだけって言ってたっけ。使用人もいないんじゃ、掃除をする手間もないのよね。
「みんな、掃除道具を探してくれる? 納戸がどこかにあるはずだから」
木霊たちに納戸探しを任せている間に、沙苗は勝手口から外に出ると、井戸へ向かう。
井戸で水を汲んで木製の盥へ移して台所へ戻ると、木霊たちがどうやら納戸を探し当ててくれたらしい。
さっそくホウキやはたきを取り出し、手ぬぐいで鼻から下、それから髪を覆う。
「よしっ」
まずは蜘蛛の巣をはたきで壊していく。蜘蛛には申し訳ないが、仕方がない。
高い所に溜まった埃も床へ落とす。
それからホウキで履いて、ちりとりで回収し、捨てる。
次に納戸にあった古い布を盥へ溜めた水にさらしてきつく絞る。そして竈に積もった埃を拭っていく。しっかりと磨き上げ、何度か水を替えた。
台所と井戸を三往復してようやく、使えそうなくらいまで綺麗にできた。
それから水甕もしっかり洗い、井戸から汲み上げた水を溜める。
「ふぅ……これでいいかな」
ちょっとした達成感を覚える。まだ一月の寒い中とはいえ、うっすら汗をかいてしまった。
「何をしている?」
「! 景虎様、おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「木霊どもがうろちょろする気配で起きた」
「申し訳ありません……」
その場で三つ指をつく。
景虎は軍服ではなく、亀甲柄の羽織袴姿。
「で? 何をしていた?」
「台所が汚れておりましたので掃除をしておりました」
「そんな必要ない」
「朝食の準備などできれば、と思ったのですが、お米やお味噌はどこにございますか?」
「ない」
「ないのですか?」
せっかく花嫁修業の成果を披露しようと思ったのに、出鼻を挫かれた沙苗は言葉につまってしまう。
「毎日、食事は外で取る。お前もそうしろ」
景虎は懐から紙を取り出すと、渡してくる。
「一日分の食費としては十分だろうが、足りなかったら言え」
その紙には人の顔と何かが描かれている。
「……これは何ですか?」
「金だ」
「かね……?」
景虎は眉をひそめた。
「何かの冗談か?」
「あ……申し訳ございません。よく分からないので、教えていただけますとありがたいのですが……」
「いくら田舎に生まれたとはいえ、紙幣も知らないのか? いくらなんでも物々交換でもないだろう……」
「しへい……」
「このお金と引き替えにものを手に入れるんだ」
「そうなのですね……」
人生のほとんどを座敷牢ですごしていた沙苗は当然、お金のことなど分かるはずもない。
「お前にはまず、この街で暮らしていく術を教える必要があるみたいだな。とりあえず風呂に入れ」
「いいえ、お風呂は結構です。水と布さえあれば……」
景虎は眉をひそめた
「水? 何かの修行でもしているつもりか。こんな真冬に行水なんて、いくら半妖でも半分は人間なのだろう。遠慮するにしても度が過ぎているぞ」
「す、すみません」
お風呂の準備は全て、景虎がやってくれた。
沙苗は恐縮して自分がやるからと言うが、失敗されて壊されては困ると取り合ってもらえなかった。
着物を脱ぎ、そして五右衛門風呂に浸かる。
「温かい……」
体に染みるような熱に、涙がこぼれてしまう。
ちゃんとこうしてお風呂に入ったのは人生で初めてだ。
――こんなにお風呂が気持ちいいなんて、びっくり。
沙苗にとって、この季節、体を洗う時間はただただ苦痛だった。
しかしこんなに気持ちいいお風呂ならずっと入っていたい。
三十分ほど湯を楽しみ、教えられた通り上がり湯で体を清めて体をよく拭き、風呂から出ると、居間へ顔を出す。
「お風呂、ありがとうございます」
「出かけるぞ」
景虎と一緒に家を出る。
「あの、お仕事はよろしいのですか?」
「今日は休みだ」
そのまま留めてある自動車へ、景虎は向かう。
――またあれで、お出かけに……。
昨日のことを思い出すと、それだけで冷や汗が出る。
「自動車は苦手のようだな」
「……そのようなことは」
「そんな低い声で否定されても説得力がないぞ。ま、このあたりのことは覚えておいたほうがいいだろうから、歩くか」
「はいっ」
内心、胸を撫で下ろしながら景虎に従う。
まだ早朝だが、街中には大勢の人が行き来していた。
「……た、たくさん人がいらっしゃるのですね」
「昼時になればもっと人手がでてくる」
「も、もっと!?」
これ以上の人なんて実際、目の当たりにしたら目が回ってしまいそうだ。
沙苗は木霊たちと一緒に、道順を忘れぬようしっかり頭に刻み込む。
大きなお屋敷が密集した地域を抜けると、小さな建物が目立つようになる。
景虎曰く、商店が軒を連ねる、商店街という場所らしい。
「ここで、さっき見せた紙幣を使って、ものの売り買いをする」
沙苗には全てがはじめてだった。
魚屋や豆腐屋、雑貨店に食堂。
そしてつい注意が散漫になって向かいから急ぎ足でやってくる男と肩がぶつかり、尻もちをついてしまう。
「おい、気を付けろっ」
男にじろりと睨まれ、沙苗はぺこぺこと頭を下げた。
「す、すみません」
「おい、待て。新聞を読みながら歩いていたお前にも、非があるだろう」
男は明らかに景虎の異相に、息を呑む。
「……も、申し訳ありません。狩人様」
男は色をなくして、逃げるように立ち去った。
「大丈夫か」
景虎は手を貸そうとして右手を差し出しかけたが、すぐに引っ込めた。
沙苗はお尻を叩いて土埃を払い、立ち上がる。
「はい」
道行く人たちが、景虎の異相を物珍しそうにじろじろと眺めていた。
しかし景虎はまったく意に介さず平然と歩く。
沙苗と一緒に商店に立ち寄り、米と味噌、醤油、野菜や干物などを購入する。
さきほどの紙幣を店主に渡すと、たしかに品物が購入できた。
景虎は店主に購入した品々を、屋敷へ届けるように頼む。
「買い物の仕方は分かったか?」
「は、はい。大丈夫だと思います。……あの、景虎様、すみません」
「何の謝罪だ」
「私が自動車が苦手なばっかりに。変に注目を浴びてしまって」
「これくらいのことは馴れているから気にするな。それに、この見た目で狩人と一発で分かるから、面倒な説明もはぶける」
「そういうもの、なんですね」
ここまで割り切るようなことは、沙苗にはできない。生まれてこの方、侮蔑の視線を浴び続けて来た沙苗は、大勢の人間の視線が怖い。
「何か食いたいものはあるか?」
「いいえ。お任せいたします」
「なら、うどんでいいか?」
「はいっ。うどん、好きですっ」
座敷牢で食べる時、冬に食べるうどんが、とても好きだった。この時期、ご飯だとどうしても冷たくなるとかぴかぴになって食べにくいが、うどんはそういうことがない。
景虎が立ち寄ったのは、年季が入った二階建ての建物。
「これは天華様。お二階、あいております」
「あ、こ、こんにちは……!」
沙苗は店主たちに頭を下げると、彼らは目を丸くした。
「……お店の人たち、驚かれていましたが、なにか変なことをしちゃいましたか……?」
「俺が女と連れだって歩くのが珍しいんだろう」
二階の和室へ案内されると、冊子を渡される。
「……これは何ですか?」
「品書きだ。書いてあるだろう」
「あ、……はい」
たしかに何かがずらずらと書かれているが、沙苗は文字が読めなかった。
ずっと続いた座敷牢生活では文字の読み書きを教えてくれる人は誰もいなかったし、沙苗に色々なことを教えてくれた木霊たちも、さすがに文字の読み書きまでは分からない。
「た、たくさんあるんですね……」
――どうしよう。文字が読めないこと言ったほうがいいかな。でも……。
「失礼いたします」
女性がお茶を運んでくる。
――どうしよう。どんなものがあるのか分からない。
沙苗はおろおろしてしまう。
女性が不思議そうな顔で、沙苗を見てくる。
「ご注文の品はおきまりですか?」
「……あ、えっと……たくさんあって、迷ってしまって……」
「山芋を使ったうどんが人気ですよ」
女性が助け船を出してくれると、沙苗は迷わずそれに飛びつく。
「じゃ、じゃあ、それをお願いしますっ」
「俺はいつものを」
「かしこまりました。失礼いたします」
女性は腰を上げて、下がっていく。
「温かい」
お茶を飲むと、ぬくもりがじんわりと体に染みた。
景虎も向かいでお茶を飲んでいる。
二人の間に横たわった沈黙に、そわそわしてしまう。
――何か話したほうがいいのかな。でも何を話したら……。
景虎のことは、狩人であること以外、なにも知らない。だからと言って、あれやこ
れやを聞けるほど打ち解けてもいない。いや、そもそも打ち解けることを景虎は望みはしないだろう。
「落ち着きがないな」
「! すみません……」
「謝ってばかりか」
「す、すみま……はい」
「何か気になることがあるなら言え」
「よ、よくこちらへいらっしゃるのですか?」
「ああ。ここのうどんは帝都でも指折だからな」
「そう、ですか」
あっという間に会話は終わってしまう。気まずさを覚えていると、女性がうどんを運んできてくれる。
「おまちどうさまです。ごゆっくりどうぞ」
湯気があがったうどんにはたっぷりの山芋がのっていた。
景虎が注文したのは、肉をたっぷりのせたうどんだ。
「……景虎様は、お肉がお好きなんですか?」
「ああ」
「私はお魚好きです。めざし……ですとか」
「そうか」
景虎は素っ気なく頷くと、うどんを食べ始める。
いただきます、と手を合わせた沙苗もうどんを啜る。
「!」
口に入れた瞬間、あまりの美味しさに手を止めてしまう。
「こ、これ、なんですか?」
「うどんだ。自分で注文しただろう」
景虎が怪訝な顔で見てくる。
「……すみません。あまりに美味しくて……感動してしまって……私が食べたことのあるうどんと本当に同じものか疑ってしまって……」
汁もしっかり味がついているし、うどんもこしがあって食べごたえがある。
座敷牢で食べていたうどんはぶよぶよしていて、汁もただしょっぱいだけだった。具だって何もなかった。
あまりに美味しくて、汁まで一滴残らず飲み干してしまう。
「ごちそうさまでした」
景虎は毎日、こんなに美味しいものを食べているのだと思うと、そんな彼のために料理を作ろうとした自分が恥ずかしい。
――私の料理は、結婚が決まってから急遽教えられた付け焼き刃。こんな美味しいものを食べ慣れている景虎様にはとても満足していただけないわ……。
こんなにも美味しいうどんを食べたのに――いや、食べたからこそ、というべきか――気分が暗くなってしまう。
でもこれはかえって良かったのかもしれない。危うく、沙苗のどうしようもない料理を食べさせ、不快にさせてしまうところだった。
事前にそれが分かっただけでも良かった。