いよいよやってきた非番の日。
沙苗はこの家へやってきた時に着ていた着物をまとう。これが一番、手持ちの中で華やかだったからだ。
平仮名の練習はこつこつやっていた。
景虎にも『ぬ』が上達してきたと褒められていたし、平仮名であればつっかえつっかえながらではあるが、読めるようにもなっていた。
昨日より今日、今日より明日。
一つ一つこれまで知らなかったことを覚えられている、成長できている自分と出会えることが嬉しい。
もちろん座敷牢にいた当時も木霊たちからこの世界のことを聞いたりしていたけれど、あの時はただ話を聞いているだけで、沙苗自身、何かが出来るようになったというわけではない。でも今は毎日こつこつ読み書きの練習を行い、できることが増えていることを実感できていた。
今の沙苗は、これまでの人生もっとも充実した日々を過ごしていると言っても過言ではない。
それも今日は、景虎とのお出かけ。
――幸せすぎて怖い……。
「沙苗、準備は?」
襖ごしに声をかけられる。
沙苗。そう景虎に呼びかけてもらえるだけで、頬が火照った。
「はい、もう大丈夫です」
景虎が部屋に入ってくると、沙苗は言葉を失う。
彼は山高帽に、紺色の洋装姿。
特に彼のすらりとした体格によく合う。
軍服のような堅さがなく、普段より親しみが持てる。
部屋で過ごす時の和服もいいが、洋装も似合う。とにかく景虎は体格がいいからどんな服でも着こなせるようだ。
「今日の予定なんだが徒歩だと難しいから、自動車を運転するつもりなんだが、平気か?」
街を見て回りたいとお願いしたいのは、沙苗だ。
「もちろんです」
「気分が悪くなったら言えよ」
「はい」
行こう、と景虎は歩き出した。沙苗はそのあとをしずしずとついていく。
※
自動車で帝都の中心地へ向かう。
沙苗が酔ってしまわないよう慮ってくれているからか、自動車はゆっくりと走った。
沙苗たちが住んでいる地域は木造の平屋が多いが、中心地に行けばいくほど煉瓦造りで背の高い建物が目立つようになる。
「あれは何ですか?」
「路面電車。乗り合い馬車のようなものだな」
「あれも、エンジンで動いているのですか?」
「いや、電気だ」
「電気って灯りに使っている? あんな大きなものを動かすものにまで使えるんですね……帝都はやっぱりすごいです……」
沙苗はまるで子どものように、きょろきょろしてしまう。
「あそこにある、赤くて大きな建物はなんですか?」
「浅草十二階という建物だ。最上階が展望台になってるんだ。のぼってみるか?」
「あんなに高い建物に登れるんですか!?」
「行ってみるか」
「いえ、そんな……大丈夫です。寄り道なんて……」
「帝都を知りたいんだろう。高いところから見れば、分かるだろう。それに今日くらい天気がいいと見えるかもな」
「見える……? 何がですか?」
「行ってからの楽しみだ」
建物の下に到着すると、その高さにあらためて唖然としてしまう。
「すごい……」
「見上げすぎて、ひっくり返るなよ」
「そ、そこまでおっちょこちょいではありません」
「そうか?」
景虎がすぐそばにいることを思い出し、沙苗は頬を赤らめた。
塔に入る門も立派だ。
「昇るのは大変そうですね。あんなに高いところまで階段ではあがれそうにないです」
「エレベーターがあるから平気だ」
「えれ……?」
「説明するより、実際に乗ってみたほうが早い」
入場料を支払い、金属製の小さな部屋の中に入る。
「あの、階段がないみたいですけど」
「いいから、じっとしていろ」
「は、はあ……」
その時、ウウウンという駆動音は、小さな空間を揺さぶった。
「景虎様!?」
「落ち着け。大丈夫だ」
沙苗の全身が浮遊感に包まれる。背筋がぞわぞわして、「ひゃ」と小さな声が思わずこぼれ、慌てて口を閉じた。
扉が開く。沙苗は奇妙な感覚のする狭い空間から早く逃げたくて、部屋を飛び出す。
しかし眼前に広がるのは地上ではない。
遠くのほうまで広がる街並みと、手を伸ばせば届きそうなくらい近い空。
「景虎様!?」
「あっという間だっただろう。これがエレベーターだ」
「ど、どうなってるんですか?」
「あの箱が人を乗せて地上からここまで持ち上げるんだ」
仕組みを聞いても、沙苗にはちんぷんかんぷん。
エレベーター内で経験した、背筋のぞわぞわするような奇妙な感覚がどうでもいいと思えるくらい高い所から見る景色は素晴らしかった。
これまでの経験で、一度も見たことがない視点だ。
親に肩車をされてはしゃぐ子どもが羨ましい。
――私も子どもだったら、もっと大きな声を上げられるのに!
帝都というのは本当に大きな街なんだと、こうして高いところから望むと実感する。人のちっぽけさも。
「あれを見てみろ」
景虎が指さすほうを見ると、てっぺんが白い大きな山が見えた。
「あの山が、日本一の富士の御山だ」
「あれが……富士、なんですね。木霊たちが言ってました。一度は行ってみたいって。富士はとても霊験あらかたで、あやかしの聖地でもあるって」
「そうなのか? それは初耳だな。感想は?」
「すごいです。本当に」
沙苗は展望に見入った。
沙苗はこの家へやってきた時に着ていた着物をまとう。これが一番、手持ちの中で華やかだったからだ。
平仮名の練習はこつこつやっていた。
景虎にも『ぬ』が上達してきたと褒められていたし、平仮名であればつっかえつっかえながらではあるが、読めるようにもなっていた。
昨日より今日、今日より明日。
一つ一つこれまで知らなかったことを覚えられている、成長できている自分と出会えることが嬉しい。
もちろん座敷牢にいた当時も木霊たちからこの世界のことを聞いたりしていたけれど、あの時はただ話を聞いているだけで、沙苗自身、何かが出来るようになったというわけではない。でも今は毎日こつこつ読み書きの練習を行い、できることが増えていることを実感できていた。
今の沙苗は、これまでの人生もっとも充実した日々を過ごしていると言っても過言ではない。
それも今日は、景虎とのお出かけ。
――幸せすぎて怖い……。
「沙苗、準備は?」
襖ごしに声をかけられる。
沙苗。そう景虎に呼びかけてもらえるだけで、頬が火照った。
「はい、もう大丈夫です」
景虎が部屋に入ってくると、沙苗は言葉を失う。
彼は山高帽に、紺色の洋装姿。
特に彼のすらりとした体格によく合う。
軍服のような堅さがなく、普段より親しみが持てる。
部屋で過ごす時の和服もいいが、洋装も似合う。とにかく景虎は体格がいいからどんな服でも着こなせるようだ。
「今日の予定なんだが徒歩だと難しいから、自動車を運転するつもりなんだが、平気か?」
街を見て回りたいとお願いしたいのは、沙苗だ。
「もちろんです」
「気分が悪くなったら言えよ」
「はい」
行こう、と景虎は歩き出した。沙苗はそのあとをしずしずとついていく。
※
自動車で帝都の中心地へ向かう。
沙苗が酔ってしまわないよう慮ってくれているからか、自動車はゆっくりと走った。
沙苗たちが住んでいる地域は木造の平屋が多いが、中心地に行けばいくほど煉瓦造りで背の高い建物が目立つようになる。
「あれは何ですか?」
「路面電車。乗り合い馬車のようなものだな」
「あれも、エンジンで動いているのですか?」
「いや、電気だ」
「電気って灯りに使っている? あんな大きなものを動かすものにまで使えるんですね……帝都はやっぱりすごいです……」
沙苗はまるで子どものように、きょろきょろしてしまう。
「あそこにある、赤くて大きな建物はなんですか?」
「浅草十二階という建物だ。最上階が展望台になってるんだ。のぼってみるか?」
「あんなに高い建物に登れるんですか!?」
「行ってみるか」
「いえ、そんな……大丈夫です。寄り道なんて……」
「帝都を知りたいんだろう。高いところから見れば、分かるだろう。それに今日くらい天気がいいと見えるかもな」
「見える……? 何がですか?」
「行ってからの楽しみだ」
建物の下に到着すると、その高さにあらためて唖然としてしまう。
「すごい……」
「見上げすぎて、ひっくり返るなよ」
「そ、そこまでおっちょこちょいではありません」
「そうか?」
景虎がすぐそばにいることを思い出し、沙苗は頬を赤らめた。
塔に入る門も立派だ。
「昇るのは大変そうですね。あんなに高いところまで階段ではあがれそうにないです」
「エレベーターがあるから平気だ」
「えれ……?」
「説明するより、実際に乗ってみたほうが早い」
入場料を支払い、金属製の小さな部屋の中に入る。
「あの、階段がないみたいですけど」
「いいから、じっとしていろ」
「は、はあ……」
その時、ウウウンという駆動音は、小さな空間を揺さぶった。
「景虎様!?」
「落ち着け。大丈夫だ」
沙苗の全身が浮遊感に包まれる。背筋がぞわぞわして、「ひゃ」と小さな声が思わずこぼれ、慌てて口を閉じた。
扉が開く。沙苗は奇妙な感覚のする狭い空間から早く逃げたくて、部屋を飛び出す。
しかし眼前に広がるのは地上ではない。
遠くのほうまで広がる街並みと、手を伸ばせば届きそうなくらい近い空。
「景虎様!?」
「あっという間だっただろう。これがエレベーターだ」
「ど、どうなってるんですか?」
「あの箱が人を乗せて地上からここまで持ち上げるんだ」
仕組みを聞いても、沙苗にはちんぷんかんぷん。
エレベーター内で経験した、背筋のぞわぞわするような奇妙な感覚がどうでもいいと思えるくらい高い所から見る景色は素晴らしかった。
これまでの経験で、一度も見たことがない視点だ。
親に肩車をされてはしゃぐ子どもが羨ましい。
――私も子どもだったら、もっと大きな声を上げられるのに!
帝都というのは本当に大きな街なんだと、こうして高いところから望むと実感する。人のちっぽけさも。
「あれを見てみろ」
景虎が指さすほうを見ると、てっぺんが白い大きな山が見えた。
「あの山が、日本一の富士の御山だ」
「あれが……富士、なんですね。木霊たちが言ってました。一度は行ってみたいって。富士はとても霊験あらかたで、あやかしの聖地でもあるって」
「そうなのか? それは初耳だな。感想は?」
「すごいです。本当に」
沙苗は展望に見入った。