翌朝、沙苗は朝から煮物を作ることにした。

 昨日までは景虎が朝食を食べてくれるとは思わなかったから焼き魚にしていたが、景虎は肉が好きだ。
 ただ沙苗は肉を使った料理を知らない。
 花嫁修業として教えられた料理は魚と野菜を使ったものばかりだった。

 色々と悩んだ末に、筑前煮に牛肉をいれようと思った。
 味を染みこませれば、きっとお肉も美味しくなるだろう。

 いんげんに蓮、しいたげ、にんじん、大根などのあく抜きをおこない、酒、醤油、みりを混ぜた煮汁でしっかり煮込む。
 本当は時間をおいて味をしっかり染みこませたほうがより美味しいのだが、景虎は朝食しか食べられないから仕方がない。

 ――うまくできた。

 あとは景虎が起きてくるのを待つだけだ。
 そこへ足音が聞こえて来た。

「おはようございます、景虎様」
「おはよう」

 沙苗はご飯と味噌汁、それから筑前煮を食卓に並べる。

「今日は煮物か」
「私が知っている中で、お肉をいれられそうな料理が煮物しかうかばなかったので」

 景虎は煮物に箸を付ける。

「いかがでしょうか」
「……煮物を食べるのは久しぶりだが、うまいな」
「お気に召していただいて良かったです」
「お前も食べろ」
「よろしいのですか?」
「お前がいやでなければ」
「ご一緒させていただきまっ」

 自分の分のご飯と味噌汁を持って来ると、煮物をおかずに食べる。

 ――景虎様と一緒に朝食を食べられるなんて。

 外食とは違って、自分の作ったものを囲んで食事をしていると、家族だという実感が湧いてくる。こんな風に卓袱台を囲んで食事をしているというささやかなことにも、幸せを感じられた。

 食事を終えて空いた器を下げると、さっそく購入したお茶を淹れる。

「どうぞ」
「すまん」
 景虎は緑茶に口をつける。
「少し濃いめだな」
「あ、本当ですね。すいません。淹れ直して……」
「そこまでする必要はない。目が覚めるからちょうどいい。それより、昨日のことだ。お前の読み書きについて」

 景虎はかたわらにおいていた紙の束を食卓へ置く。
 そこには色々と書き込まれていた。

「とりあえず空いた時間で文字の練習ができるように考えた」

 紙には、絵と一緒に何かが書かれていた。

「この絵が何だか分かるか?」
「……犬、ですか?」
「そうだ。隣に書かれているのは『いぬ』という平仮名、その隣のは片仮名で『イヌ』。最後にこれが、漢字で『犬』」
「この列の言葉は、ぜんぶ、同じ犬という意味を表しているということですか?」
「そうだ。で、その次のこれは?」
「猫……でしょうか」
「同じように平仮名、片仮名、漢字で、それぞれ『ねこ』と書かれている」
「……景虎様」
「わかりにくかったか?」
「いいえ。すごく分かりやすいです! それに、とても絵がお上手なんですね!」
 沙苗が目をきらきら輝かせながら褒めると、景虎はばつが悪そうな顔をする。
「絵はそれが何を意味するのか分かればいい。別にうまく描こうと思ったわけじゃない」
「でも上手だと思います。木霊たちもうまいって褒めてますから」

 景虎は何と反応したらいいのか分からず、微妙な顔をする。

「問題はそこじゃない」
「あ、そうですね。失礼しました……」
「片仮名と漢字のほうは後回しで、平仮名だけでもしっかり覚えれば、街中でも困らないはずだ。帝都で生きていくには、読み書きができないのは、何かと不便だろうからな」

 それから、景虎は縦長の箱を机に置いた。

「これは習字道具だ。使い方を教えるから覚えろ。これが筆。こっちが硯《すずり》。こうして水を垂らし、この墨を水に馴染ませるように擦る。だいたい墨の匂いがただよいはじめたら、それでいい。水が足りないと思ったら少しずつ接ぎ足せ。そうしてここに墨が溜まったら、筆をこうして浸けて紙に文字を書く。分かったか?」
「はい」

 真剣な顔で眺めていた沙苗はうなずく。

「筆はこうして立てて書く。墨はあまりつけすぎるな。これくらいでいい。書き上げられたら、俺の文机においておけ。仕事から帰ったら確認する」
「え!」
「そう、緊張するな。お前がどの文字が苦手で、どの文字が得意なのかを知りたいだけだ。下手だからと言って、叱責するために見るわけじゃない」
「それはすごく嬉しいのですが……」
「なら、何が問題だ?」
「ただでさえ夜遅くにお帰りにられるのに、そんなことまでしてもらうのは……申し訳なくって……」
「俺が教えると言ったんだ。やるべきことはちゃんとやる。お前は文字の読み書きを覚えることだけを考えていればいい」
「分かりました」
「あと、片付けは筆を水でよく洗って乾かせばいい」

 沙苗は景虎に言われたことを、頭の中にしっかり刻み込む。

 沙苗がちゃんと覚えていられるのか心配なのか、木霊たちもふむふみと頷くような素振りで、景虎の言葉を聞いていた。

「言っておくべきことは以上だ。それから焦るな。最初からうまくはできないし、覚えられないのが普通だ。毎日少しずつでもいいから続けろ」

 景虎がここまで色々と教えてくれることが嬉しく、沙苗ははにかんだ。
 その時、玄関から三船の「おはようございます! お迎えにあがりました!」という声が響く。

 いつものように門前まで景虎を見送る。

「景虎様、いってらっしゃいませ」
「いってくる」

 三船にも頭を下げ、馬車を見送った。

 それから屋敷へとって返す。自分の部屋で汚れてもいい服に着替え、それから居間に戻って文字を書く練習をする。
 正座をして背筋を伸ばして、大きく深呼吸をする。

 景虎が書いてくれた見本を前にして、これまで知らなかった世界に触れられるという予感に胸が弾んだ。
 こんなわくわくする気持ち、生まれてはじめてかもしれない。

 まずは『いぬ』から。
 沙苗のためだけに書いてくれたお手本。
 描かれている犬の絵を見ているだけで、微笑ましさに口元が緩んだ。
 絵がうまいと言ったのは本音だ。
 沙苗自身は絵を描いたことは一度もないけれど、景虎ほどうまく描ける自信はない。

 厳格で、感情らしい感情をみせない景虎が、沙苗のためにこうして描いてくれていると思うだけで嬉しい。

 沙苗は景虎から教わったことを思い出し、まずは墨を擦る。
 そんな他愛のないこと一つとっても、新鮮だ。粘り気のある墨が広がる。水を少し追加し、そしてまた擦る。硯に墨が溜まっていく。

 筆を墨につけ、紙に書く。

「い、ぬ……」 

『い』はうまく書けるのだが、『ぬ』がなかなか曲者だ。
 くるんと丸まった尻尾のような部分がかなり難しい。
 それでもどうにか書ききる。

「……ど、どうかな?」

 木霊たちに文字を見せるが、もちろん人間の文字のことなんて分からない彼らはどう反応していいのか少し困っていた。

「……下手だよね」

 文字はよれよれで、景虎の書いてくれたお手本とは比べるのもおこがましい。
 気持ちが沈みそうになるが、頭を振って弱気を追い出す。

 ――すぐには上達しない、毎日少しずつでもいいから続けろって、景虎様も仰っていたもの。

 沙苗はまた別の紙に練習をする。

 自分のため、そしてこんな自分に時間を割いてくれている景虎のために。