気付けば、夜10時になっていた。
昼間の明るさが嘘のように、辺りは暗かった。

……この街を歩くのも、最後だな。

人工的な明かりに灯されて、でも少し人情深く温かい街。
たった2ヶ月しか住んでいないけれど、この温かさは結構好きだった。

ふと、足を止める。
理由は、ふわっとお花の香りが鼻を掠めたから。
後ろを振り返ると、そこはお花屋さんだった。少し古びた看板に、鮮やかなお花たち。
ちらりとお店を外から伺うと、高校生くらいの男の子とその母親らしき女性が店を閉めようとしているところだった。

お花を買おうと思って歩いていたわけではなかったけれど、少し残念だった。

夜、ひとりで歩くのは寂しい。
でも、月を見上げれば吸い込まれるように目を奪われ、それだけで孤独感が消える気がしたのだ。

今夜は美しい三日月だった。
まんまるな満月よりも、いまにも落っこちそうな三日月のほうが好きだ。
一点の曇りのない夜空に浮かぶそれを写真に収めたくて、スマホをかざしてシャッター音を鳴らした。

……ここで月を眺められるのも、今夜で終わり。

こんな気持ちになるのは何度目だろう、と考えながら写真に収めた三日月を見ていると、突然背後から声をかけられた。

「月、好きなん?」

聞いたことのある柔らかい関西弁が耳に入ってきて、驚いて後ろを振り返る。
そこには案の定、クラスメイトの花宵(かよい)くんが立っていた。
彼の手には、お花屋さんの店名“ KAYOI ”と書いた看板があり、ここの店の息子なのだろうと見当が付いた。

彼もわたしも制服を着ていなかったけれど、お互い誰かは分かっていた。
それは、わたしたちがクラスメイトだからではない。
彼はクラスの人気者で、わたしはクラスの転入生だったから。

突然声をかけられ驚き、思うように言葉が出ない。
こんな夜にまさかクラスメイトに会うとは思ってもみなくて硬直していると、花宵くんは夜空に浮かぶ三日月を指差して再度尋ねてきた。

望月(もちづき)さんって、月好きなん?」

優しいイントネーションに、今度はこくりと頷いた。

「……月っていうより、三日月が好き」
「そうなん? 俺は、満月のほうが好きやなあ」
「まあ……人それぞれだと、思うけど」
「うん、確かに」

何がおかしいのか愉快そうに笑っている花宵くん。
人の良さそうな笑みを浮かべている彼は、もう明日から、クラスメイトではなくなる人。
そう考えたら、今こうして話しているのが不思議だと思った。

「……わたしのこと、後ろ姿で分かったの?」

わたしはさっき、お花屋さんに背を向けて月を見上げていたはずだった。
まさか知らない人に砕けた口調で話しかけるような真似はしないと思い、そう尋ねる。
花宵くんは、わたしが自ら彼に話しかけたことにびっくりしたのか少し沈黙したけれど、すぐに頷いて口を開いた。

「なんやろ、望月さんって独特の雰囲気あるやん」
「……ほめてるの? それ」
「当たり前や。夜立ち止まって月の写真撮ってる女子高生なんか、なかなかおらんねん」

やっぱり彼は愉快そうにケラケラと笑う。
この人懐っこさは、さすがクラスの人気者だという気分にさせる。

わたしとは縁のない人種だな……と無意識に思う。
だってわたしは自らコミュニケーションを取ろうとすることはほとんどないし、それが必要だと思わない。
そんなわたしと違い、花宵くんは話したことなどないクラスメイトにもこうやって普通に話しかけてしまう人なのだ。

「うちの店、寄ってく?」

“ KAYOI ”と書かれた立て看板をひょいっと持ち上げ、花宵くんは首を傾げた。
お花の香りに囲まれるのは悪くないなと思ったけれど、看板に閉店は22時だと書いているのに気づき、首を横に振った。

「もう閉店の時間だろうし、大丈夫」
「そう? 別に気にせえへんけどな」

確かにいまはもう22時を大幅に過ぎていた。
それなのに中を覗けば、花宵くんのお母さんらしき女性はお客さんと話しながら花束を作っていた。
ルーズなお店だな……と思っていると、突然彼がわたしの目の前に現れ、びっくりしてのけぞった。

「……な、なに」
「ん? いや、別になんも」

距離感どうなってるの、と抗議したい気持ちはあったけれど、平然としている彼を見たらなんだかすごくもうでも良くなった。

「大阪って、星あんま見えへんやろ」

夜空を仰いで眺める花宵くんの、色素の薄い髪がふわりと風に乗って揺れた。

「うん」

即答するわたしに、彼は笑って尋ねてくる。

「俺はずっと大阪住んでるけど、望月さんは星綺麗な場所とか住んでたことあるん?」
「あるよ。2ヶ月前までは、夜は満面の星空が見えるところにいたもん」

それが美しいことは人並みには感じていたけれど、この街に来てからは満面の星空など見られなくなって、その美しさを改めて実感した。

「……東京にも住んでいたけど、やっぱりここと同じで星はあんまり見えなかったな」

いままで、引っ越しは幾度となくしてきた。
2年間も同じ土地にいるのは珍しいほどで、転勤族である家庭を恨んだこともある。

でも、もう諦めたのだ。
人と関わることも、友達という存在を作ることも。

「すげえなあ。望月さんの見てる世界は広いんやな」
「引っ越しばっかり、してるからだよ」

それが小さい頃から、すごくすごく嫌だった。
なんでわたしは、まともに友達を作ることも許されないんだろうと思っていた。
離れるのをわかっていて、仲良くなるのは苦しかった。

「そうやとしても、俺は望月さんが転校して来たときから、かっけえなって思ってた」
「……どうして」
「クラスの奴に『うちのグループに入りーや!』って声かけられても、丁寧に断って自らひとりでいることを選んだやろ」

だって、親しくなればなるほど、孤独感が増す。
優しい誘いはもちろん嬉しかったけれど、受け入れることは出来なかった。
どうせまた転校するわたしを、覚えていてくれる人などいないのだから。

「……友達を作っても、すぐに会えなくなる。それが辛くて、ぜんぶやめたの」

どうせ明日からは赤の他人だ。
そう思ったら、花宵くんに話してもいいかなと感じた。

「もったいないなあ」

ひとりそう呟いた彼は、わたしの目をじっと見つめた。
いままで人と話すことも目を合わせることも避けてきたから、まっすぐな瞳とこうして対峙するのは少し新鮮でどきっとする。

「いろんな場所で、いっぱい友達できるやん」

確かに、そうなのかもしれない。
でも引っ越した後、わたしは忘れていないのに相手が忘れていたら……と考えると怖かった。
要するに、わたしは臆病なのだ。

「……花宵くんらしいね」

教室でたくさんの人に囲まれて笑っている彼らしい発言だと思った。
彼がわたしと同じ境遇なら、きっと数えきれないほどの友達を作って回るのだろう。
でも、わたしにはそんなこと出来ない。

「会えなくなったら、もう友情なんて終わりだと思ってた」

そう呟けば、花宵くんはわたしから視線を外して、再度夜空を眺めた。
そして、ぽっかり浮かぶ月を指差して言った。

「月ってさ、このひっろい地球どこおっても、おんなじ形が見えるんや。めっちゃすごいと思わん?」
「……どこにいても?」
「ああ、そうや。やから望月さんが遠いとこ行っても、俺と同じ月見上げてるってことや」

同じ、月……。
そんなふうに、考えたことなどなかった。
どこか違う場所に行けば、心まで疎遠になると思っていた。
でも、同じものを見ていると思えば、ただそれだけで心が繋がっているように思える。

そんなことを気づくなんて、花宵くんは本当に優しい人だ。
じんわりと温まる胸を自覚して、ふと泣きそうになる。
ふと三日月を眺めれば、なぜだかそれが微笑んでいるように見えた。

「……明日、また引っ越しなの」

そう思わずこぼせば、花宵くんは目を見開いてフリーズした。

「明日? まだ2ヶ月しか経ってへんで」
「うん、でもまたお父さんの転勤が決まったから」

両親に言われたのは、1週間前だった。
そのときにいちばんに思ったのは、“ やっぱり友達を作らなくて良かった ”だった。

「明け方には、出発だって」

だから最後だと思って、夜の街を歩いていたのだ。
たった2ヶ月しかいなかったけれど、離れるのは少し寂しかったから。

それからわたしも花宵くんも口を開かず、沈黙が続いた。
彼は何を言おうか思案しているのだろう。

気づけば、時は真夜中に差し掛かっていた。

「……クラスの奴に挨拶もなしに、行くんか」

どこか切なそうな表情で、花宵くんは言う。
絞り出したのがそんな言葉だということが彼らしいなと、よく知りもしないのに思った。

「だって、やっぱりたったの2ヶ月じゃ、馴染めなかったし」

馴染もうと思わなかったのはわたしだけれど。
言い訳っぽくそう呟いたわたしに、彼は責めることもなく言うのだ。

「さっき偉そうなこと言うてもーたけどさ、結構さみしいもんやな」
「……今日はじめて話したのに?」
「うん。もっと、はよ話しかけてれば良かったわ」

ひとりごとのようにそう言うと、彼はわたしを見た。
まっすぐで偽りのない優しさを向けてくれる。

「花宵くんが人気者なの、今すごく分かった気がする」
「ほんまか、それ」

ぷっと吹き出した彼は、からかうように言葉を紡ぐ。

「じゃあ俺は、望月さんが繊細で寂しがり屋って今分かったわ」
「……な、そんなことないし」
「あるやん。素直じゃないなあ」
「……からかってるでしょ」
「んー?」

絶やすことのない笑顔は、わたしをふわりと包み込む。
こんなに誰かと話したのは久しぶりで、その温かさが明日には萎んでしまうことが悲しかった。

ふたり無言で夜空を見上げていると、スマホが振動する。
お母さんから『そろそろ帰っておいで』というメッセージが来たことを花宵くんに伝えると、彼はすぐに頷いて言った。

「暗いし、送ってく」

その言葉に慌てて断ろうとしたけれど、今夜くらいは素直になってもいいかなと自分を甘やかす。
だって、もう花宵くんと話すことはないのだから。
心が、もっと彼と話したいと訴えていたから。

「そうや、ちょっと待ってて」

そう言い残して花宵くんは店に引っ込むと、数分後、謎の紙袋を自転車のカゴに乗せた。
そうして何事もなかったかのように自転車を引いて送ってくれようとしてくれたから、それには触れることなく、並んで歩くことにする。

となりを歩いている彼が、思っていたよりも背が高いことに気づく。
2ヶ月も同じ教室にいたのに、そんなことも知らなかった。
花宵くんの言うように、わたしはかなりもったいないことをしたのかもしれない。

「まっすぐ向き合ってくれたの、……花宵くんがはじめてだった」

夜は薄暗くて、となりにいてもどんな表情をしているのか分かりづらい。
それを利用して、いつもは言えない素直な言葉を投げかけてみる。
花宵くんは照れくさそうに鼻を掻き、首を横に振った。

「ほんまに、もっとはよ話しかけてれば良かったわ」
「……そんなに?」
「うん。まじあほやわ、過去の俺!」

後悔するように小さな声で叫んだ花宵くんがどこか可笑しくて、くすりと笑う。

「わたし、話しかけにくい雰囲気出してたでしょ?」
「出てた出てた。話しかけても迷惑やったらどーしよ、とか思ってたわ」
「ふふ、学校だったら……こんなふうに話せなかったかもね」

夜だから。
引っ越し前の真夜中だから。
また離れる土地の人と、花宵くんと、笑い合えたのだろう。
この街を、もっと好きになれる気がした。
優しく温かい彼のおかげで。

「次の転校先では、いまみたいに笑うんやで」

目を細めてそう言う花宵くんに、どきっと胸が高鳴る。
……そんなの、ずるい。
途端に恥ずかしくなって、慌てて笑みを引っ込めた。

それから他愛もない話をしているうちに、家の前に着いた。
ここでいいよと花宵くんに告げると、彼は頷いて口を開く。

「あ、待って。渡したいもんある」
「渡したいもの?」

首を傾げていると、彼は紙袋を自転車のカゴから出した。
そうして花宵くんが中から取り出したものは、真っ白で柔らかい香りを漂わせた。

「……花束、」

それは桃色と白色がまばらになった薔薇の、小さな花束だった。
その美しさに思わず言葉を失っていると、花宵くんは照れているのか早口で言う。

「この薔薇の花びら、色がまだらになってるやろ」
「……うん、すごく綺麗」
「これは普通の薔薇とちゃうねんで。花言葉は、“ 離れていても応援してる ”や」

泣きそうなほど嬉しかった。
照れ隠しに顔を背けている花宵くんの優しさに救われた。

ぎゅっと小さな花束を抱きしめる。
嫌で仕方なかった引っ越しが、前向きなものに思えたのだ。

「ありがとう、花宵くん」
「……おう。寂しくなったら、大阪戻って来てもいいねんで」
「……うん」

戻る場所を作ってくれた人は花宵くんだ。
この街を、帰って来ても良い場所にしてくれた。
優しく儚い薔薇の香りが鼻を掠め、寂しくならないうちに別れを告げようと口を開いた。

「元気でね、花宵くん」
「そっちこそ。もっかい言うけど俺は満月が好きやからな」
「うん、でもわたしは三日月派だからね」
「まあ、満月でも三日月でも半月でも。どこにいたっておんなじ月眺めてるって、なんかいいやん」
「うん……なんか、いい」

寂しくなったら、夜空を眺めようと思う。
花宵くんと過ごしたこの夜を、忘れないために。

「じゃあ、またな」
「うん、またね」



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明け方、車に荷物を詰めて、花宵くんにもらった小さな花束を抱えながら助手席に乗り込んだ。
先に引っ越し先に着いているお父さんの代わりに運転するお母さんの、となりに座る。
エンジンをかけて出発しようとしたお母さんは、わたしが抱える花束に気付いて「あら」と声を上げた。

「素敵ね、だれかにもらったの?」
「……うん、お花屋さんのクラスメイトに」

男の子、ということは気恥ずかしくて隠した。
でも、お母さんはお見通しだと言うように嬉しそうに微笑んで言う。

「まだらな花束を持つ薔薇……、花言葉が素敵なのよねえ」
「教えてもらったよ。“ 離れていても応援してる ”って意味だっけ」

何気なくそう言えば、お母さんはぴたりと動きを止めてわたしを見た。

「その花束をくれた子が、そう言ったの?」
「え……うん、そう教えてくれた」
「ふふっ、そっかあ……その子は照れ屋さんなのね」

お母さんはお花が好きで、よく買ってきて家にも飾っていたのを思い出す。
花言葉にも詳しいようで、楽しそうに微笑むのを首を傾げて眺めていると。
お母さんは、ふと思い出したようにわたしに言った。

「花言葉、検索してみたらどう?」
「え、本当は違う意味なの?」
「んーどうかなあ。調べたらわかるよ」

不思議に思いながら、スマホを取り出して検索をかける。
すると、すぐにヒットしていちばん上に出てきた言葉に思わず息を呑んだ。

まだらな色の薔薇の花言葉は───“ 君を忘れない ”。


涙がじわっと浮かぶのを、なんとか我慢する。
転校して忘れられるのが寂しいわたしの気持ちを、拾ってくれた。
……なんて優しい嘘だと思う。

じんわりと胸が温まり、無意識のうちに笑みが溢れていた。

「……ねえ、お母さん」
「うん? どうしたの」
「転校先で、友達できるかな」

そう尋ねれば、お母さんは目を細めて頷いた。

「できるわよ、きっと」


車窓から流れていく街並みを見つめ、小さな花束を抱きしめた。

転校先では、笑顔を絶やさないようにしよう。
自ら声をかけて、友達を作ろう。

そうして、またこの街に帰って来よう。



そう思いながら、薔薇の花びらをゆっくりと撫でた。